多田文久三の情報(ただふくぞう) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
多田 文久三さんについて調べます
■名前・氏名 |
多田文久三と関係のある人
青田昇: 1947年6月7日:対読売ジャイアンツ戦(後楽園)、9回に多田文久三から、スコアは4対0 ※史上2度目、逆転とつかない場合は史上2人目で、戦後初 小松原博喜: 開幕当初は先発投手を務め6勝を挙げるが、6月から多田文久三が野手から投手に転向すると、小松原は打力を活かして外野手に転向する。 沢村栄治: しかし、全然声はかからず、捕手の吉原正喜や若手投手の多田文久三などをかわいがっていた。 永易将之: 都市対抗野球での270球完投が「タフな本格派右腕」と評価されて同年に東映フライヤーズへ入団すると、1965年の春季キャンプにおいて投手コーチの多田文久三から「安藤と石原の横手投げが巨人へ移籍したから、君は横手投げにしてこのチャンスを掴むんだぞ」と言われ、多田の判断で本格派投手としてプレーすることを断念したのが功を奏し、同年は10勝3敗と二桁勝利を達成したほか、防御率1.93はリーグ3位の好成績だった。 広瀬習一: 近くを流れる武庫川の河原で藤本と楠安夫・多田文久三立会いのもと、ピッチングを披露したが、足元の悪い河原をものともせず、サイドスローからコントロールされた球威のあるボールを立て続けに投げ込み、楠や多田を驚かせた。 原勝彦: 1年目から一軍に上がり、シーズン後半には多田文久三に代り正捕手の座を獲得。 田中資昭: こうした経緯もあって、同年オフに三原監督排斥騒動が発生すると多田文久三らとともに排斥派として活動し、三原が他球団への放出を画策している旨の噂を流して主軸打者の青田昇を排斥派に引き入れるなどしている。 根本陸夫: 1954年には多田文久三、原勝彦に定位置を譲る。 藤本英雄: 1950年6月28日の西日本戦(青森)では蟹の食べ過ぎで腹痛を起こした多田文久三に代わって先発を務め、日本プロ野球史上初の完全試合を達成。 中尾碩志: メンバーは中尾のほか、多田文久三・小松原博喜・藤原鉄之助・武宮敏明・内藤博文・大友工・松田清・市川マネージャーの8人組で、中尾はよくメンバーを引き連れて夜の町へ繰り出していた。 内堀保: 捕手から投手にコンバートした多田文久三の後釜として、1947年から2年間正捕手を務める。 野口明: 満塁ランニング本塁打:1947年7月3日、対読売ジャイアンツ戦(西宮球場)、7回に多田文久三から ※史上初 |
多田文久三の情報まとめ
多田 文久三(ただ ふくぞう)さんの誕生日は1921年7月8日です。兵庫出身の野球選手のようです。
選手としての特徴、逸話などについてまとめました。引退に関する情報もありますね。
多田文久三のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 多田 文久三(ただ ふくぞう、1921年7月8日 - 2006年9月1日)は、兵庫県西宮市出身のプロ野球選手(投手、捕手)・コーチ・審判員、評論家。 高松商業では当初捕手であったが、上級生になると強肩を見込まれて投手にコンバートされた。2年次の1939年に春・夏甲子園連続出場で夏はベスト8まで進出し、3年生の1940年にも春の甲子園でベスト8まで進んでいる。 1941年に投手として東京巨人軍に入団し、2年目の1942年の途中に捕手兼任となり、3年目の1943年には高校の1年先輩であった楠安夫の応召を受けて正捕手となる。本職が捕手ではなかったために、エース・藤本英雄の低めに伸びる速球を取り損ねて、1年先輩にもかかわらず藤本にマウンドまで呼びつけられて、よく注意を受けた。また、盗塁を刺すときの送球の加減ができず、遊撃手・白石敏男のグラブが送球の勢いに負けて後退してしまい走者にタッチできずに盗塁を許してしまったり、4月には1試合に2度の打撃妨害、2度のファールフライ落球を経験している。同年11月に応召され姫路三八連隊に入隊。 戦後に職業野球が再開されると、早速1945年の東西対抗戦に選ばれ東軍の第一捕手として出場する。1946年に再び巨人に入団し現役復帰を果たすと、再び正捕手となって全試合に出場する。同年7月28日の対パシフィック戦では、先発捕手として諏訪裕良とバッテリーを組むが、諏訪が6失点で降板すると、その場でプロテクターやレガースなどを外してマウンドに上がり、相手打線を封じて勝利投手となっている。しかし、1947年になると、前年度23勝の近藤貞雄が負傷、同21勝の藤本英雄が中日へ移籍という状況の中で、多田は投手に再コンバート。川崎徳次(24勝)に次ぐ12勝、リーグ13位の防御率2.36の成績を残す。活躍のきっかけについて、投球時に身体が開き球離れが早くなってしまうことについて、偶然列車に乗り合わせた新田恭一に相談したところ、右足の踵に体重を乗せるべきとのアドバイスを受け、実践したところ球持ちが長くなり低めへの制球が非常に改善されたという。その後、1950年まで主戦投手として4年連続二桁勝利を挙げ、1949年は防御率3.34(リーグ9位)、1950年は防御率2.91(リーグ5位)と2年連続で個人投手成績ベストテンに入った。この間の1949年オフに三原監督排斥騒動が発生すると排斥派の中心となって活動し、三原脩が他球団への放出を画策している旨の噂を流して主軸打者の青田昇を排斥派に引き入れるなどしている。結果、三原は総監督に祭り上げられて、高松商業の先輩である水原茂が新監督となった。尚、戦後、復員してから近鉄に移籍するまで7年間、上記の高松商業の先輩水原が召集されるまで背負っていた背番号「19」を背負っている。 肩を痛め1951年以降出場機会が減少するが、同年の南海との日本シリーズにあたって、投手も捕手も経験がありチーム全般を観察できるとして、多田は先乗りスコアラーとして対戦する南海の試合を偵察。柚木進・江藤正・中原宏らエース級投手の配球や投球時の癖、山本一人・蔭山和夫・木塚忠助・飯田徳治ら百万ドル内野陣の盗塁時のタイミングの取り方などを記載した「多田メモ」を作成する。巨人は日本シリーズでの南海の盗塁を僅か5個に抑えるなど、このメモが巨人の日本一達成に大いに役立ったという。 1954年に芥田武夫監督に豊富なキャリアを買われて近鉄パールスへ移籍し、同年は原勝彦と交互にマスクを被って捕手として81試合に出場するが、1955年限りで現役を引退。 引退後はパ・リーグ審判員(1956年 - 1957年)を経て、1958年には近鉄の一軍投手コーチを1年だけ務めた。近鉄退団後はスポーツニッポン評論家(1959年 - 1960年)を経て、1961年から1966年までは高松商業の先輩にあたる水原茂監督の下で東映フライヤーズの一軍投手コーチを務めた。東映では怪童・尾崎行雄を1年目から中心投手に育て、球団初のリーグ優勝・日本一に貢献。その後も手腕を発揮し、石川陽造・嵯峨健四郎・田中調・永易将之・宮崎昭二・森安敏明を主戦投手に育てている。その後は1968年から1969年にかけてパ・リーグ審判員を務め、1970年に横浜市の橋本フォーミング工業に就職した。 選手としての特徴遠投105m手榴弾投げ85mの強肩で、左足を高く上げて真っ向から投げ下ろす速球と、落差の大きいドロップを武器とした。速球のスピードは、エース・川崎徳次より格段に速かったという。但し、スタミナに欠け、試合終盤に息切れすることが多かった。 逸話1950年6月28日、青森市営野球場で行われた対西日本パイレーツ戦で登板予定であったが、食当たりの腹痛で登板できなくなり、多田に代わって登板した藤本英雄が日本プロ野球史上初の完全試合を達成している。 1954年6月16日、対東映フライヤーズダブルヘッダー第2試合の7回裏、多田の一塁後方へのフライに対するインフィールドフライ宣告を巡って、紛糾。1時間23分の中断後、この日の試合は4対2で東映が勝利したが、近鉄が連盟に無効試合として提訴し、言い分が一部認められ、8月10日に多田の打席からやりなおす結果となった。なおこの試合は4対1で東映が勝利している 2024/06/15 23:06更新
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tada fukuzou
多田文久三と同じ誕生日7月8日生まれ、同じ兵庫出身の人
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