青田昇の情報(あおたのぼる) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
青田 昇さんについて調べます
■名前・氏名 |
青田昇と関係のある人
斎藤喜: 当時の青田昇コーチから中西太、長嶋茂雄に匹敵する才能と絶賛されたこともあり、1年目の1966年から一軍を経験し将来を嘱望された。 青田恵子: プロ野球選手、野球評論青田昇の6女。 斉藤宜之: 巨人OBの青田昇は生前「巨人の将来4番を打つのは松井ではなく、斉藤かもしれん」と発言するほど高く評価していた。 岡野祐: 岡野はシーズン中に西本から「これだけ負けたらもう辞めた方がいいですかね?」と問われて慰留していた一方、コーチだった青田昇を監督にする方針を抱いていたともされる。 別所毅彦: 9回表の攻撃の際に、青田昇の三塁ゴロを三塁手が悪送球したため、一塁走者だった別所がその隙を突いて本塁へ突入するも転倒して左肘を骨折する重傷を負う。 榎本喜八: その際に球場の美しさと巨人の呉昌征・青田昇や大和軍の苅田久徳のプレーに強い印象を受けたという。 大下弘: 阪急退団後の解説者時代は青田昇と共に熱海後楽園ホテルのテレビCMにも出演し、1967年夏頃からは娘たちを東京の学校に入学させることを考え、東京への転居を準備。 近藤和彦: そこに通りかかった青田昇が30秒ほど素振りを見てから「相撲とろうや」と持ちかけ、身長では近藤が15cmも上回っていたが青田の上手投げで近藤は投げ飛ばされた。 原辰徳: 巨人における3割30本塁打100打点の記録達成は、青田昇、長嶋茂雄、王に次いで球団史上4人目だった。 大下弘: 映画出演による目の炎症は開幕前に完治したものの、シーズン前の練習不足の影響もあって、打率.266(リーグ21位)と落ち込み、本塁打も16本で川上哲治・青田昇(25本)の巨人勢に大差を付けられて本塁打王のタイトルを奪われた。 平山菊二: 1951年に足の故障でわずか3試合の出場に終わると、安居玉一・岩本義行・青田昇らの移籍入団もあって出場機会が減り、チームが松竹ロビンスと合併して、大洋松竹ロビンスとなった1953年をもって引退した。 藤本定義: 藤本は前述の球団の対応への不満に加え、戦前に巨人軍の選手だった青田昇・前川八郎が阪急軍と契約し、白石や藤井と同様に試合に出場していたにもかかわらず不問にされた上に、その阪急の球団代表が藤本を批判していたことを引き合いに出して反論した。 杉下茂: 正真正銘のフォークボールを投げた杉下さん」と語っており、青田昇からも「金田よりお前の方が速かった」と言われたことがあると述べている。 田中資昭: こうした経緯もあって、同年オフに三原監督排斥騒動が発生すると多田文久三らとともに排斥派として活動し、三原が他球団への放出を画策している旨の噂を流して主軸打者の青田昇を排斥派に引き入れるなどしている。 野口明: 1943年シーズンでは打点42で青田昇と共に最多打点のタイトルを獲得した。 青田浩子: 野球評論家の青田昇の五女で、妹は、元女優の青田恵子。 クリート=ボイヤー: ヘッドコーチの青田昇が「これはうまいんだ。 小池繁雄: 1ヶ月ほど強肩を買われて青田昇が三塁手を務めるが暴投を乱発して外野手に戻ったことから、小池が後釜の三塁手を務める。 小松原博喜: 1948年に青田昇が阪急ブレーブスから移籍加入すると、小松原は控えに回り同年65試合、1949年45試合の出場機会に留まった。 藤村富美男: 野球関係の書物に同時期活躍した小山正明、吉田義男、奥井成一ら同僚選手、青田昇らライバル選手やマスコミ関係者から同様の意見が多く聞かれる。 小鶴誠: 同年に打率.305で首位打者・青田昇にわずか1厘差で打撃成績2位に入る。 藤本英雄: 1950年に完全試合を達成した際に球団から5万円の賞金が出たが、全額が麻雀のつけとして川上哲治・青田昇・別所毅彦に取られてしまう。 稲尾和久: 得意の球種はスライダーで、青田昇は「プロ野球史上で本当のスライダーを投げたのは、藤本英雄、稲尾和久、伊藤智仁の三人だけ」と評価している。 柴田猛: 評論家の青田昇は日刊スポーツのコラム『アウト!セーフ!』で「野球人として欠陥車」と批判している。 長嶋茂雄: 実際に川上派と呼ばれる巨人OBが長嶋のチーム作りに干渉(前述の1976年オフの柴田のトレード失敗など)するようになり、また、1976年オフに山ごもりのパートナーでもあり、自らが監督になる際にコーチに抜擢した淡河弘を原辰徳のドラフト騒動の時に失い(原の家に長嶋の密書を持っていったという理由で解任された)、1979年オフには前述の騒動で青田昇を失ったのを筆頭に、1975年から1979年までの間、フロントが11人のコーチ(福田昌久・須藤豊・関根・宮田・淡河・中村稔・瀧安治・黒江・国松・町田行彦・鈴木章介)を解任にした。 小谷正勝: 小谷は激高したあげく、自分でマウンドを降りようとして青田昇監督(当時)になだめられた。 古谷法夫: ^ 阪神・青田昇のパワハラ?/週べ1963年7月15日号 | 野球コラム 川上哲治: また、青田昇や千葉茂と共に第一次巨人黄金時代の打の中心選手でもあり、NPB初のベストナイン(一塁手部門)を受賞している。 山内一弘: 移籍後1年目の1964年5月2日、対読売ジャイアンツ(巨人)6回戦(後楽園球場)で宮田征典投手から通算266号本塁打を放ち、青田昇が有していた当時のNPB記録(通算265本塁打)を更新した。 天保義夫: 天保自身「私がナックルを投げると、青田昇、川上哲治という凄い連中がクルクルと空振りをしてくれるんです。 |
青田昇の情報まとめ
青田 昇(あおた のぼる)さんの誕生日は1924年11月22日です。兵庫出身の野球選手のようです。
引退、卒業、テレビ、事件、映画、現在に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1997年に亡くなられているようです。
青田昇のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 青田 昇(あおた のぼる、1924年11月22日 - 1997年11月4日)は、兵庫県三木市出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。五女は元女優・元タレントの青田浩子、六女は元グラビアアイドルの青田恵子。 1940年代から1950年代にかけてのNPBを代表する長距離打者。1942年に瀧川中を中退して巨人に入団すると秋季リーグで新人ながら打率.389で首位打者を、翌1943年は42打点で打点王を獲得。戦後は阪急に在籍するが、1948年に巨人に復帰すると、打率.306、25本塁打で二冠王となる。1951年にも32本塁打、105打点で再び二冠王に輝き、巨人の二リーグ分立後初優勝に貢献した。1953年洋松(のち大洋)に移籍後も3度の本塁打王に輝くなど、通算5回の本塁打王のタイトルを獲得。豪快な打撃と好守備でジャジャ馬と呼ばれ人気を集めた。通算265本塁打は当時のNPB記録。引退後は阪神・阪急でヘッドコーチを務めて両チームを優勝に導き優勝請負人との異名を取る。のち、大洋でコーチ・監督を歴任。1979年オフに巨人に26年ぶりに復帰すると、監督の長島茂雄とともに地獄の伊東キャンプを張って巨人の若手選手を鍛え上げるが、翌春に舌禍により辞任。その後は、野球解説者として人気を博した。2009年野球殿堂入り。 尋常小学校時代は柔道を習っていた。楠高等小学校に進学すると柔道部が無かったため、野球に転向。 高等小学校の2年先輩で旧制瀧川中に通っていた別所昭が野球部長に紹介し、瀧川中に進学。入学当時は別所の控え投手であったが、1940年に監督となった前川八郎により、外野手へコンバートされた。同年と1941年の春の甲子園に、当時のエースであった別所と共に出場。1941年は優勝候補に挙げられるものの、2回戦で別所が骨折し延長戦の上岐阜商業に惜敗したが、青田は優秀選手賞を獲得している。当時から無類の強肩で、瀧川中3年生時には手榴弾投げ81m50cmの記録を作ったという。 1942年は卒業した別所に代わって小林章良がエースとなり、後年になって前川が「必ず全国制覇できた」と悔しがるほど滝川中学の戦力が充実していたが、戦況悪化に伴い甲子園大会が春夏ともに中止となった。そのため青田は同年7月に17歳で東京巨人軍に入団。契約金は1000円、月給130円であった。 同年の夏季は15打席で無安打に終わるが、秋季では新人ながらリーグトップの打率.389を記録。1943年は相手に研究されて不調に陥る中、42打点で打点王のタイトルを獲得。打率.223、本塁打0本は史上最低打率・本塁打での打点王獲得という珍しい記録となった。 1944年には巨人軍を退団し、自らの志願で陸軍航空隊に入隊した。加古川戦闘隊に配属され、特攻隊にも志願するが受け入れられず、結局出撃命令を受ける前に終戦となる。1945年8月15日に終戦の報を聞くと、その日の間に高砂市の兄夫婦の家に徒歩で帰ったという。 1945年9月に終戦後いち早く勧誘があった阪急軍へ入団し、球界に復帰。戦前の巨人退団時に、戦争が終わったら巨人に復帰する約束を読売新聞の正力松太郎社長と交わしていたが、巨人側の受け入れ体制が整わず、巨人から阪急に貸す形での入団となった。そのため、阪急入団時に契約金はなく、1948年の巨人復帰時も円滑に移籍が実現している。1946年は野口二郎とクリーンナップを組んで3番を打ち、リーグ11位の打率.294を記録。「ジャジャ馬」のニックネームもこの頃に付けられたという。この年に20本塁打のプロ野球記録を打ち立てた大下弘に影響を受け、1947年には長距離打者への打法改造に取り組む。打撃コーチもいない中で試合後バックネットに向かって、左手一本で200-300本もノックを打ち続ける自己流の練習を続けた。その結果、打率は.233と大きく落とす一方で、リーグ3位の11本塁打と記録を大幅に伸ばした。 1948年に三原脩総監督の誘いで巨人に復帰。復帰にあたって、1947年途中から阪急の指揮を執った浜崎真二監督との関係を取り沙汰するマスコミもあった。しかし実際には、青田は浜崎にも去就について相談しており、大打者である川上哲治の近くでプレーすることで青田自身が大成することに繋がるとして、巨人復帰に賛成してくれたという。なお、阪急での給料は8000円であったが、巨人に移ると一気に16000円に倍増した。1948年春の別府キャンプでは、青田・川上・千葉茂に三原を加えた4名で、旅館の地下室で連日バットを振りながら打撃の議論を行う夜の打撃研究会を敢行し、「どうしたらもっとホームランを打てるか」の研究に没頭した。青田は後年、川上・千葉と集まると、「あの時の打撃研究会が、その後の日本のバッティングの基礎を作った」と主張してはばからなかったという。同年に青田は川上と熾烈な本塁打王争いを演じ、1946年に大下が作った20本を抜く当時のプロ野球記録となる25本を記録して、二人で本塁打王を分け合った。また、この年は打率も山本一人・小鶴誠と僅差で争うが、閉幕試合の南海ホークス戦で三塁手・山本の目の前にセーフティバントを決めて競り勝ち、打率.306で首位打者も獲得、二冠王となった。また、初めてベストナインにも選出された。同年の174安打は金田正泰を、284塁打は大下弘を抜く当時の日本記録となった(いずれも翌年に藤村富美男が更新)。1949年オフに発生した三原監督排斥運動では、「三原が青田をトレードで放出しようとしている」という噂を信じて運動に参画。結局、三原は退陣して総監督となる。間もなく実際には、巨人のフロントから出た青田トレード案を三原が阻止したことが真実であることを知った。 翌1950年春には三原から、もし西鉄クリッパーズの監督になったら一緒に九州へ行ってほしいと声をかけられ、排斥運動での経緯もあって青田はすぐさま応諾したという。この年は打率.332(リーグ3位)、33本塁打、134打点(リーグ4位)と打撃3部門全てでチームトップの成績を残し、二度目のベストナインを獲得した。なお、盗塁数は29で、惜しくもトリプルスリーを逃している。同年の猛打賞20回は当時の日本記録(1952年に与那嶺要が更新)。同年オフ、三原の巨人退団・西鉄監督就任に連れだって、青田も西鉄に移籍しようとする。初めのうちは、西鉄の球団幹部も巨人から青田を強引にパ・リーグの球団へ引っ張ることに躊躇していたが、1949年暮れの青田の契約更改で「2年契約で100万円、1年経過して半額の50万円を返せば自由」との契約をしており、その契約書を見て幹部も引き抜きを決断したという。1951年1月20日に青田は巨人退団を表明し、1月23日に三原と主将の川崎徳次立ち会いの元、西鉄代表の西亦次郎と契約まで取り交わす。トラブルが起きるのを避けるため、まず三原と青田を西鉄との合併話が水面下で進んでいたセ・リーグ所属の西日本パイレーツと契約させ、そのあとで西日本と西鉄との合併を通じて、二人をパ・リーグ所属とする段取りまで決まっていた。その後、青田は神戸へ帰省するが、セントラル野球連盟の関西支社長だった小島善平から選手資格の剥奪を仄めかされつつ、読売新聞の副社長・安田庄司と話し合うように勧められる。三原からは全く連絡がなく不安を感じていた青田は帰京を決意し、小島と読売新聞本社へ向かった。本社の玄関には、のちのセ・リーグ会長の鈴木龍二が待っており、さらに応接室には球団代表の宇野庄司を始め、監督の水原、川上・千葉・藤本・別所ら主力選手が顔を並べていた。その場で球団幹部や主力選手らとともに並んで「記念写真」を撮られ、翌日の新聞には青田が巨人へ復帰したとの記事が出て、2月6日にあっけなく青田の巨人残留が決定した。青田は「自分の問題で両リーグの協調が破れては申し訳ない結果になるのを恐れ、自分さえ巨人軍に戻れば、円満解決すると思った。三原さんに了解を求めたが、西日本との契約が正しいが君の意志は束縛しないと言われた」と巨人復帰の声明を出している。 1951年シーズンは打率.312(リーグ9位)ながら、32本塁打と105打点はリーグトップで二度目の二冠王となり、打率.377を打った川上と打撃三部門を独占。青田は最優秀選手は自分が取れると自負していたが、記者投票で川上に敗れた。頭にきた青田は、セ・リーグ会長の鈴木龍二に対してMVPを取れなかった理由を訪ねたところ、MVPは記録だけではなく品格も問われるのだ、と言われたという。同年秋に開催された日米野球では、メジャーリーグ選抜に対して青田は日本選抜チームトップの打率.333を記録。この大会で、フェリス・フェイン(英語版)から、メジャーリーグ投手の速球に振り遅れないためにバットを立てた方が良い、とのアドバイスを受けた。それまで青田はバットを寝かせた構えから、大きくバックスイングを取り、その反動を利用してスイングしていたが、このアドバイスを受けて再び打法の改造に取り組んだ。しかし打法改造は裏目に出て、1952年は一転して不調に陥り、打率.260、18本塁打と大きく成績を下げた。同年オフ、巨人は青田をトレードで広島カープに放出しようとする。表向きは不成績が理由であったが、毎年の契約更改で揉めていた球団代表の宇野が常々放出の機会を窺っていたこと、早稲田大学の長距離砲であった岩本堯の獲得に成功したことも理由であったという。結局、青田はトレード話を蹴りB級10年選手の資格を利用して1953年1月14日、洋松ロビンスに移籍した。 洋松に移っても引き続き3番打者を務めた。1953年はバットを寝かせる元のフォームに戻すが、形だけ元に戻してもタイミングが合わず、打率.245、9本塁打と更に成績を落とす。なお、この年の4月23日には古巣の対巨人戦でサイクル安打を達成した。1954年に入るとようやく復調し、長く球団記録となった8月の月間13本塁打を含む31本塁打で3年ぶりに本塁打王を獲得するとともに、打率も.294(リーグ11位)を記録した。1955年も好調を維持して8月23日の対阪神戦では3本塁打を放つも、延長に入って大崎三男から死球を受けて左手を骨折し、この試合までに放った17号から数字を伸ばせなかった。1956年は25本塁打、1957年は22本塁打と2年連続で本塁打王を獲得するとともに、両年ともベストナイン外野手に選出されている。またこの間、1956年5月6日川崎球場での対広島ダブルヘッダー(6・7回戦)で4打数連続本塁打を記録した。1958年は前半戦好調をキープするものの、6月29日の対中日ドラゴンズ戦で二塁へ滑り込んだ際に左足首を骨折。全治3か月の重傷で、残りのシーズンを棒に振った。 この年のオフ、西鉄の監督を務めていた三原が大洋の監督に就任する話が進んでおり、機動力を重視する三原の構想から外れた青田は自由契約となる。なお、間もなく三原の大洋入りの話はマスコミにスクープされてしまい(青田本人は自分がマスコミにリークしたと後に語っている)西鉄の引き留めにあった三原は留任している。新人時代の監督であった藤本定義から声がかかり、1958年12月30日に青田は12年ぶりに阪急に復帰するが、左足首骨折の後遺症で十分な働きができず、1959年12月11日に現役引退を表明した。 引退後の1960年は知人の会社に勤務し、1961年からは報知新聞評論家を務めた。 1961年11月15日に阪神タイガースの藤本定義監督が「来年、ウチへ来てコーチとして助けてくれんか?」と要請し、青田がこれを受けて阪神の打撃コーチ(実質はヘッドコーチ)に就任。契約金は800万円であった。攻撃時のサインは全て任せられるなど、藤本の片腕として補佐し、1962年のリーグ優勝に貢献。このとき、青田の尊敬する三原が監督を務めた古巣・大洋と優勝争いを繰り広げ、青田はとあるゲームの前に「三原最中」という和菓子をナインに与え「ほれ、三原を食え」とナインを叱咤激励したという逸話がある。しかし日本シリーズは水原茂率いる東映フライヤーズに2勝4敗1引き分けで敗れた。当初は1年契約であったが、藤本から次期監督の要請を断り、藤本と阪神の慰留でコーチとして1年契約延長し、1963年限りで阪神を退団。当時指導を受けた吉田義男は「青田さんは教える達人でしたね」と話している。 阪神退団後は毎日放送野球解説者(1964年)を経て、西本幸雄監督に乞われ、11月25日に阪急のヘッドコーチに就任。青田は西本に対して、なぜ自分をコーチに招聘したのかと訪ねてたところ、西本は「コーチに就いた初日から選手に対して『この野郎!』と怒鳴れるコーチはあんたしかおらん」と答えている。西本にとって小林米三オーナーとの優勝の約束を果たすためには、一刻の猶予も許されなかったという考えからだった。1967年には球団初のリーグ優勝に貢献し、打撃コーチとして長池徳士・山口富士雄・森本潔らを指導した。特に大学時代、スラッガーではなかった長池にバッティングマシーンで内角への速球を打ち込む猛練習を課してリーグを代表するホームランバッターに成長させた功績が大きい。長池は引退後も「自分は青田さんによって造られたホームランバッターです」と述べている。青田理論を吸収した長池は、西武ライオンズの打撃コーチとして秋山幸二にも同じ特訓を課して育てていった。阪急でも周囲の慰留を振り切り、11月30日にまたも退団する。「コーチとして一番いかんのは、その球団に長くおるということ。自分の首を長くつなごうとするために監督の顔を伺い、取り入れることばかり考える。」と語っている。 阪急退団後、日本テレビ野球解説者(1968年 - 1971年)を経て1971年10月19日に大洋ホエールズのヘッドコーチに就任。1972年はシーズン途中で別当薫監督が休養したのを受けて、8月31日から青田が監督代行を務める。しかし1勝14敗(2分け)と成績を残すことが出来ず、青田もまた体調を崩して(胆嚢結石)休養し、宮崎剛が代行の代行となった。シーズン終了後に中部謙吉オーナーから、将来秋山登を監督にしたいので、それまでのつなぎとして監督をしてほしいと要請される。青田は、契約金は要らないがリーグ優勝した際には日本シリーズの球団収入の20%を頂戴したいと申し入れ、1972年11月14日に監督へ昇格。1973年は5月25日まで16勝6敗で5月下旬には首位に立つなどシーズン当初は好調であった。しかし5月末から急速に失速して結局5位に終わり、10月24日に辞意を表明した。 在任中はホームの川崎球場での試合と、近くにある川崎競輪場の開催日が重なった時、打撃投手兼通訳の古賀英彦を呼びつけ、賭け金を託して買いに行かせていた。当時のサラリーマンの初任給に相当する5万円で張り込むことも度々あり、予想が当たった時は古賀への御祝儀をはずんだ。選手のプレーに対して厳しい要求をする反面、試合終了後に選手個々のプレーに文句は言わなかった。サインもほとんどコーチに任せ、試合中でも赤鉛筆を舐めながら競輪の予想をしていた。当時球団内に「反青田」の選手コーチたちがいて、故意に青田のサインを無視したりしたと後に述懐している。同年6月4日に川崎市中原区等々力の多摩川合宿所にて夕食会が開かれた際には青田ら首脳陣がボーイ役を務め、焼き鳥800本、若鳥200羽、牛肉7kg、生ビール40L(計24万円分)が用意された。江藤慎一、松原誠ら選手は主賓役となり、野外でビアホールで舌鼓を打ち、英気を養った。テリー伊藤が自身の著書の中で「熱すぎて一挙に燃えてしまった『野球少年』監督」と評している。 大洋退団後は、日本テレビ(1974年)、NETテレビ(1975年〜?)、ラジオ関東の野球解説者を経て、1979年シーズン終了後の10月21日に26年ぶりにヘッドコーチとして巨人に復帰する。当時の巨人は、それまでチームを支えていたベテラン選手の衰えが顕著であり、次世代の選手の育成が急務と考えた監督の長嶋茂雄の意向だった。静岡県の伊東スタジアムにて行われた「伊東キャンプ」では江川卓、西本聖、鹿取義隆、角三男(後の盈男)、篠塚利夫(後の和典)、松本匡史ら若手選手らを徹底的に鍛えた。長嶋と青田は、両人にとっても伝え聞いて知っただけの、巨人が戦前に行った群馬県館林市の茂林寺でのキャンプを、この伊東キャンプになぞらえたのだった。この「伊東キャンプ」は後に語り草となり、このキャンプのメンバーは1980年代の巨人を支えた主力選手になっていった。 『サンデー毎日』が1979年10月にWヤングの中田治雄が野球賭博での借金を苦に熱海で自殺した事件を取材していた際に、兵庫県警や月亭可朝など、関係者から青田の名前が出たため、同誌の1979年12月末から翌1980年2月3日号まで、青田の取材を含んだ野球賭博関係の記事を毎週掲載した。青田に直接インタビューした記事では、神戸の青田の自宅近くの焼肉店で、青田が酒を飲んでいたため語気が荒く、1969年〜71年の「黒い霧事件」で青田自身が野球賭博と関係を疑われ、記者に対して「これサンデー毎日やて、お粗末なヤツらや、阿保やでほんまこいつら」と客に向かって叫び、「ピンボケ」、「勉強不足」、「バカヤロー!!」「赤ちゃんのオシッコ」などと罵倒した。青田は実兄が兵庫県警で柔道師範をやっており、「兵庫県警からオレの名前が出るわけはない」と凄んだ。青田は神戸三宮で経営してたバッティングセンターがブームが下火になって1960年に倒産し、同じ場所でレンタカー会社をやったがそれにも失敗し、暴力団に脅されているとスポーツ関係者の間でずっと囁かれていた。これに関しては暴力団に脅されているわけではない、と否定し3000万円損したら6000万円払うのは商売人なら当たり前と、利子を毎月20万円づつ払っていると認めたが、通常に利子より高すぎた。青田がハンデ師という噂や野球賭博との関係は全否定したが、暴力団とは親しい付き合いであるとは認め、「何でヤクザと付き合うんが悪いんや」と開き直り、「王にしても長嶋にしても、山本浩二が広島で共〇会の連中によ、どこかで会って『おい、浩二、こっち一緒に来てメシ食わんか』いわれて『いやオレはいりません』とはよう言わんやろ」などと例えた。同記事は大きな反響を呼び、青田と暴力団に関する噂は球界で根強く囁かれ続かれていたため、スポーツ新聞なども大きく取り上げるなど問題が大きくなった。記事が出ると即刻鈴木龍二セ・リーグ会長が長谷川実雄巨人球団代表に調査を命じ、調査に乗り出した結果、巨人軍は1980年1月9日に青田は潔白と発表し、厳重注意だけの処分にとどめた。この報告を受け、鈴木セ・リーグ会長は関係のない他球団のスター選手を引き合いに出したことに「不謹慎もはなはだしい」と激怒し、軽い処分に不服を表明。「黒い霧事件」から10年経ち、再び球界に悪いイメージが拡がることを恐れて、巨人軍に再考を促し、1980年1月18日に青田はコーチを辞任した。 以後は野球解説者・野球評論家として日本テレビ、ラジオ日本、スポーツ報知、テレビ東京などで活動する傍ら、ロシアでの野球指導に力を入れた。解説者としては巨人贔屓のコメントが多く、映画「がんばれ!!タブチくん!!」でも『青旗昇』の名で登場。セリフはひたすら「巨人! 巨人! 巨人!」の連呼。おまけに周りのカメラマンから「『巨人』って3回言うたびに、1,000円のリベートが出てるらしい」と囁かれる、とネタにされていた。切り口は非常に厳しく球界のご意見番の異名があった。江川卓の投球を見て「テレビのスピードガンの147キロはオーバーだ。あれは145キロだ。わしの眼の方が正しい」と語ったことがある。そのことを、島根大学の教授だった橋谷博がネタにしていた。一方で、他球団のファンでアンチ巨人でもあるダンカンややくみつるなどにも「おやっさん」と呼ばれ、慕われていた。野球記者やファンが初歩的な質問をしても不機嫌な顔をしたり誤魔化さず誠実に答えていたという。また、王貞治の868本の公式戦本塁打記録が世界記録ではないことをジョシュ・ギブソンの本塁打記録(ニグロ・リーグ以外の記録も合算)を根拠に主張された時から、日本シリーズ29本、オールスターゲーム13本、日米野球23本、春秋オープン戦98本、東西対抗戦1本の計1032本に加えて、現役引退後の試合の本塁打も合算して勘定していた数少ない日本人の一人でもあった。妻が年来のローマ・カトリック信者(クリスチャン)で、子供達も全員同信徒であった。そのため闘病中の1997年10月にカトリックの洗礼を受け、正式に信徒になった。洗礼名はヨセフであった。1997年11月4日、青田は肺ガンのため死去した。72歳没。青田は先述の様にクリスチャンとなったため、青田の葬儀は聖イグナチオ教会においてキリスト教式で執り行われた。2009年1月13日、野球殿堂表彰者選考において競技者部門のエキスパート表彰で選出された。 若い頃からの奔放な言動で、愛称ジャジャ馬はプレースタイルもさることながら、その言動にも由来するネーミングであった。一方で、愛嬌のある憎めない所作や人柄が愛され、交友範囲も広かった。 戦後長くクリーンナップを組んだ川上哲治とは犬猿の仲のように言われたこともあったが、青田によると川上は「非常に人見知りが激しいが、親しくなればとことん自分をさらけ出してくる人」であると述べており、実際、川上が親しく話せる数少ない人物だった。また、1947年夏に当時神戸(神戸市灘区五毛)の棟割り長屋に住んでいた川上が、隣の家が空いたとして知人宅に居候していた青田に引っ越してくるように勧誘し、二人はその後一年半ほど隣人関係にあった。この頃の川上の生活を直接見聞きしたことが、青田のその後の人生で非常に役立ったという。 同期入団で6歳年上の藤本英雄に対して、3か月ほど入団が遅かったために当初「藤本」と呼び捨てにしていたが、監督の藤本定義から呼び捨てはひどすぎると注意され、お互いに「フーやん」「アオちゃん」と呼ぶようになった。二人は気が合い、50年以上に亘って終生交流があったという。 本塁打王を争った大下弘、滝川中学の先輩後輩の間柄であった別所と三人で毎晩のように銀座のバーを飲み歩き、銀座の三悪人と呼ばれたという。 また、旧制滝川中学時代、学校近くの屋台の寿司屋で「寿司ネタ百個食べたらタダの上、賞金一円」の店自慢に挑戦し、青田は途中でリタイアしたが、70個のネタを平らげている。別所は見事、米だけで二升分のネタ100個を見事に完食、1個3銭の寿司代を浮かしたうえ、賞金を手にした。 巨人2年目の1943年に、既に伝説的投手であった沢村栄治と1年間だけ同僚であったが、二人で一緒に食事に出かけたり、アメリカ遠征の話をしてもらうなど、青田は沢村に大変かわいがってもらったという。 各年度の太字はリーグ最高 洋松(洋松ロビンス)は、1955年に大洋(大洋ホエールズ)に球団名を変更 147試合 61勝 78敗 8分 勝率.439 首位打者:1回(1948年) 本塁打王:5回(1948年、1951年、1954年、1956年、1957年) 打点王:2回(1943年、1951年) 最多安打:1回(1948年)※当時連盟表彰なし、1994年より表彰 ベストナイン:5回(外野手部門:1948年、1950年、1951年、1956年、1957年) 野球殿堂エキスパート部門(2009年) ベスト・ファーザー イエローリボン賞(1987年) 初出場・初先発出場:1942年7月16日、対大洋軍9回戦(後楽園球場)、7番・左翼手で先発出場、2打数0安打 100本塁打:1950年11月3日、対松竹ロビンス20回戦(後楽園球場)、大島信雄から ※史上6人目 1000安打:1951年9月27日、対松竹ロビンス19回戦(後楽園球場)、小林恒夫から ※史上8人目 150本塁打:1952年9月6日、対広島カープ16回戦(十日市町営球場)、大田垣喜夫から ※史上2人目 1000試合出場:1953年4月25日、対名古屋ドラゴンズ3回戦(大阪スタヂアム)※史上16人目 200本塁打:1955年7月16日、対広島カープ16回戦(三次市営球場)、松山昇から ※史上2人目 250本塁打:1957年8月25日、対中日ドラゴンズ23回戦(川崎球場)、伊奈努から ※史上初 サヨナラ満塁本塁打:2回 ※史上最多タイ記録
1954年4月27日:対読売ジャイアンツ戦(西京極)、9回に笠原正行から、スコアは9対8 ※史上6度目、セ・リーグ史上初。逆転とつかない場合は史上6度目で、複数回の達成はどちらも史上初 サイクル安打:1953年4月23日、対読売ジャイアンツ3回戦(後楽園球場)※史上9人目 外野手シーズン391刺殺:1948年 ※歴代2位 510試合連続出場:1946年8月24日 - 1950年7月30日 ※史上最長(当時) 4打席連続本塁打:1956年5月6日 ※史上初、歴代2位タイ 4打数連続本塁打:同上 ※史上初、歴代2位タイ オールスターゲーム出場:6回(1951年 - 1953年、1955年 - 1957年) 32(1942年 - 1943年) 12(1946年 - 1947年) 23(1948年 - 1958年) 1(1959年) 63(1962年 - 1963年) 40(1965年 - 1967年) 50(1972年 - 1973年) 75(1980年) 『青田昇の空ゆかば戦陣物語』光人社、書籍コード:ISBN 476980234X C0095 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』ザ・マサダ、1998年01月発売、ISBN 978-4915977541 『サムライ達のプロ野球 沢村栄治からONまで 青田昇交友録』ぱる出版、1994年01月発売、ISBN 978-4893863645 ミスターベースボール青田昇(解説者として出演していた1976年にMBSラジオで朝に放送された番組) MBSベースボールパーク(解説者として出演していたMBSラジオのプロ野球中継〔ナイター〕の現行タイトル) 次の瞬間、熱くなれ。THE BASEBALL(解説者として出演していた日本テレビのプロ野球中継の現行タイトル) ズームイン!!朝!(日本テレビ、「プロ野球イレコミ情報」コーナー、ご意見番(平田翼と交替で出演)) プロ野球BOXシート(日本テレビ、コメンテーター) ラジオ日本ジャイアンツナイター(RFラジオ日本、解説) 青田昇と高山栄のジャジャ馬直球勝負(RFラジオ日本、パーソナリティ、高山栄と共演) 青田昇と高山栄のスポーツアイランド(RFラジオ日本、パーソナリティ、高山栄と共演) ゴールデンナイター(NETテレビ→テレビ朝日、解説。MBSテレビがNET系時代の1964年にも出演) 激生!スポーツTODAY(テレビ東京) M10(1992年10月、テレビ朝日) 火曜サスペンス劇場「虚構の空路」(1987年12月、NTV系 / 大映映像) - 旅行会社・社長 役 味いちもんめ(1995年、テレビ朝日) 永井一郎 - 映画『プロ野球を10倍楽しく見る方法』アニメパートより。 プロ野球チームもつくろう(セガサターン、1998年2月19日発売、セガ・エンタープライズ)逝去3か月後に発売された。現時点で青田が実名で登場する唯一のゲーム。 『日本プロ野球トレード大鑑』ベースボールマガジン社、2001年 『報知グラフ 別冊 巨人軍栄光の40年』報知新聞社、1974年 『ジャイアンツ栄光の70年』ベースボールマガジン社、2004年 別所毅彦『剛球唸る! - 栄光と熱投の球譜 (野球殿堂シリーズ)』ベースボール・マガジン社、1989年 ^ 2013年4月にトニ・ブランコが14本塁打で更新。 ^ 青田の死後激生!スポーツTODAYで青田の追悼企画が放送されたが、ダンカンは最初から最後まで号泣し通しだった。ダンカンはその後、週刊ベースボールの自身の連載で「オヤッさんには『ありがとう』としか言えない」という弔辞を書いている。 ^ 青田が死去した際、普段は辛口の漫画を描くやくも週刊ベースボールの連載4コマ漫画で「おやっさんを偲ぶ」という題名の作品を発表している。 ^ 当時、現在の価値で1万円相当かと思われる ^ “青田昇 とは - コトバンク”. 2012年2月22日閲覧。 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』32頁 ^ 『剛球唸る!』115頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』42-43頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』45頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』48頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』49頁 ^ 週刊ベースボール2012年8月20日号 P87 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』61頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』64頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』68頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』73頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』84頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』94頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』99頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』100頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』102頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』79頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』103頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』112頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』113頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』114頁 ^ 『報知グラフ 別冊 巨人軍栄光の40年』175頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』123頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』125頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』131頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』164-174頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』175頁 ^ 「30-30」まであと「1」に迫った選手。幻の本塁打があった長嶋茂雄の他にも… ^ 『日本プロ野球トレード大鑑』75頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』176頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』177-178頁 ^ 『朝日新聞』1951年2月7日付 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』202頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』210頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』211頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』212頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』213頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』215頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』218頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』219頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』223頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』226頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』238頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』239頁 ^ 大阪日刊スポーツ編著『感涙!ナニワ野球伝説』朝日新聞出版、2011年、P41 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』279頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』280頁 ^ 國安輪「二軍監督」講談社、2008年 ^ 1973年6月5日日刊スポーツ「ヤキトリでチーム立て直し」 ^ 知恵の森文庫「お笑いプロ野球殿堂 ダメ監督列伝」テリー伊藤、光文社、2004年11月、ISBN 9784334783259。 ^ 「スクープ・インタビュー 『青田巨人軍ヘッドコーチと山口組の関係 疑惑の周辺を直撃する』」『サンデー毎日』1980年1月6日号、毎日新聞社、20–25頁。 「衝撃スクープ、球界を揺るがす 『青田コーチと山口組の相関どうする!巨人軍』」『サンデー毎日』1980年1月13、20日号、毎日新聞社、20–27頁。 「"潔白宣言"の青田コーチが解説した"野球トバク"とはこんなもんや まあまあ決着を許すな!』」『サンデー毎日』1980年1月27日号、毎日新聞社、16–23頁。 「本誌はあくまで追求する! 『青田対談はトカゲのシッポ切り巨人の驕りと甘え』/緊急激論 阿部牧郎・中谷鉄也・鳥井守幸 『10年目の黒い霧 偶像巨人軍は堕ちた』」『サンデー毎日』1980年2月3日号、毎日新聞社、16–21頁。 大島幸夫「『巨人軍の無神経は不滅です 青田"隠れヘッド"のぬけぬけコーチ』」『サンデー毎日』1980年3月16日号、毎日新聞社、152–155頁。 ^ 第735回 野球賭博の”末路”は…過去の教訓再確認を ^ “虎番疾風録 ハンデ師疑惑「冗談やないで」 其の参79”. 産経WEST (産経新聞大阪本社). (2019年10月3日). オリジナルの2023年1月20日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20230120062157/https://www.sankei.com/article/20191003-EZ5D2G5JRJP5TP5CTRL5FA73KQ/ 2023年1月20日閲覧。 虎番疾風録 「たとえば…」青田コーチ不謹慎発言 其の参80、虎番疾風録 青田爆弾発言にコミッショナー「断」 其の参81、人のよさにつけこまれた青田コーチ 其の参82 ^ 週べ60周年記念 八百長がなければ巨人6連覇は無理? 青田昇の危なすぎる爆弾発言/週ベ回顧 ^ 『源五郎のいずも風土記』p.93 ^ 『ジャイアンツ栄光の70年』43頁 ^ 『サムライ達のプロ野球 沢村栄治からONまで 青田昇交友録』47頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』117-118頁 ^ 『サムライ達のプロ野球 沢村栄治からONまで 青田昇交友録』51頁 ^ 『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝』136頁 ^ 『サムライ達のプロ野球 沢村栄治からONまで 青田昇交友録』 ^ 『サムライ達のプロ野球 沢村栄治からONまで 青田昇交友録』24,29頁 ^ “100本塁打”. 日本野球機構. 2022年10月1日閲覧。 ^ “1000安打”. 日本野球機構. 2022年10月1日閲覧。 ^ “150本塁打”. 日本野球機構. 2022年10月1日閲覧。 ^ “200本塁打”. 日本野球機構. 2022年10月1日閲覧。 ^ “250本塁打”. 日本野球機構. 2022年10月1日閲覧。 ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」468ページ ^ “清原和博が「プロ21年間で一番うれしい本塁打」(2006年5月27日)”. 週刊ベースボールonline (2019年5月27日). 2022年10月1日閲覧。 ^ “サイクル安打”. 日本野球機構. 2022年10月1日閲覧。 ^ “【データ】村上宗隆プロ野球新5打席連続本塁打 20人「打数」と13人「打席」の両方を更新”. 日刊スポーツ. (2022年8月2日). https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/202208020001009_m.html 2023年1月13日閲覧。 兵庫県出身の人物一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 オリックス・バファローズの選手一覧 横浜DeNAベイスターズの選手一覧 読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧 野球殿堂 青田昇 個人年度別成績 青田昇 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 渡辺大陸 1950 中島治康 1951 有馬義一 1951 小西得郎 1952 - 1953 永沢武夫 1954 藤井勇 1955 迫畑正巳 1956 - 1958 森茂雄 1959 三原脩 1960 - 1967 別当薫 1968 - 1972 青田昇 1973 宮崎剛 1974 秋山登 1975 - 1976 別当薫 1977 - 1979 土井淳 1980 - 1981 関根潤三 1982 - 1984 近藤貞雄 1985 - 1986 古葉竹識 1987 - 1989 須藤豊 1990 - 1992 江尻亮 1992 近藤昭仁 1993 - 1995 大矢明彦 1996 - 1997 権藤博 1998 - 2000 森祇晶 2001 - 2002 山下大輔 2003 - 2004 牛島和彦 2005 - 2006 大矢明彦 2007 - 2009 尾花髙夫 2010 - 2011 中畑清 2012 - 2015 アレックス・ラミレス 2016 - 2020 三浦大輔 2021 - 現在 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 表 話 編 歴 1950 小鶴誠 1951 青田昇 1952 杉山悟 1953 藤村富美男 1954 青田昇 1955 町田行彦 1956 青田昇 1957 青田昇, 佐藤孝夫 1958 長嶋茂雄 1959 桑田武, 森徹 1960 藤本勝巳 1961 長嶋茂雄 1962 王貞治 1963 王貞治 1964 王貞治 1965 王貞治 1966 王貞治 1967 王貞治 1968 王貞治 1969 王貞治 1970 王貞治 1971 王貞治 1972 王貞治 1973 王貞治 1974 王貞治 1975 田淵幸一 1976 王貞治 1977 王貞治 1978 山本浩二 1979 掛布雅之 1980 山本浩二 1981 山本浩二 1982 掛布雅之 1983 山本浩二, 大島康徳 1984 宇野勝, 掛布雅之 1985 R.バース 1986 R.バース 1987 ランス 1988 C.ポンセ 1989 L.パリッシュ 1990 落合博満 1991 落合博満 1992 J.ハウエル 1993 江藤智 1994 大豊泰昭 1995 江藤智 1996 山崎武司 1997 D.ホージー 1998 松井秀喜 1999 R.ペタジーニ 2000 松井秀喜 2001 R.ペタジーニ 2002 松井秀喜 2003 A.ラミレス, T.ウッズ 2004 T.ローズ, T.ウッズ 2005 新井貴浩 2006 T.ウッズ 2007 村田修一 2008 村田修一 2009 T.ブランコ 2010 A.ラミレス 2011 W.バレンティン 2012 W.バレンティン 2013 W.バレンティン 2014 B.エルドレッド 2015 山田哲人 2016 筒香嘉智 2017 A.ゲレーロ 2018 N.ソト 2019 N.ソト 2020 岡本和真 2021 村上宗隆, 岡本和真 2022 村上宗隆 2023 岡本和真 2024 村上宗隆 表 話 編 歴 1950 小鶴誠 1951 青田昇 1952 西沢道夫 1953 藤村富美男 1954 杉山悟, 渡辺博之 1955 川上哲治 1956 宮本敏雄 1957 宮本敏雄 1958 長嶋茂雄 1959 森徹 1960 藤本勝巳 1961 桑田武 1962 王貞治 1963 長嶋茂雄 1964 王貞治 1965 王貞治 1966 王貞治 1967 王貞治 1968 長嶋茂雄 1969 長嶋茂雄 1970 長嶋茂雄 1971 王貞治 1972 王貞治 1973 王貞治 1974 王貞治 1975 王貞治 1976 王貞治 1977 王貞治 1978 王貞治 1979 山本浩二 1980 山本浩二 1981 山本浩二 1982 掛布雅之 1983 原辰徳 1984 衣笠祥雄 1985 R.バース 1986 R.バース 1987 C.ポンセ 1988 C.ポンセ 1989 落合博満 1990 落合博満 1991 広沢克己 1992 L.シーツ 1993 広沢克己, R.ローズ 1994 大豊泰昭 1995 江藤智 1996 L.ロペス 1997 L.ロペス 1998 松井秀喜 1999 R.ローズ 2000 松井秀喜 2001 R.ペタジーニ 2002 松井秀喜 2003 A.ラミレス 2004 金本知憲 2005 今岡誠 2006 T.ウッズ 2007 A.ラミレス 2008 A.ラミレス 2009 T.ブランコ 2010 A.ラミレス 2011 新井貴浩 2012 阿部慎之助 2013 T.ブランコ 2014 M.ゴメス 2015 畠山和洋 2016 筒香嘉智 2017 J.ロペス 2018 W.バレンティン 2019 N.ソト 2020 岡本和真 2021 岡本和真 2022 村上宗隆 2023 牧秀悟 2024 村上宗隆 表 話 編 歴 1950 青田昇, 岩本義行, 小鶴誠 1951 青田昇, 岩本義行, 金田正泰 1952 杉山悟, 南村不可止, 与那嶺要 1953 金田正泰, 南村不可止, 与那嶺要 1954 杉山悟, 与那嶺要, 渡辺博之 1955 町田行彦, 与那嶺要, 渡辺博之 1956 青田昇, 田宮謙次郎, 与那嶺要 1957 青田昇, 田宮謙次郎, 与那嶺要 1958 田宮謙次郎, 森徹, 与那嶺要 1959 大和田明, 坂崎一彦, 森徹 1960 中利夫, 並木輝男, 森徹 1961 江藤慎一, 近藤和彦, 森永勝治 1962 近藤和彦, 並木輝男, 森永勝治 1963 江藤慎一, 近藤和彦, 藤井栄治 1964 江藤慎一, 近藤和彦, 重松省三 1965 江藤慎一, 近藤和彦, 中暁生 1966 江藤慎一, 中暁生, 山本一義 1967 近藤和彦, 柴田勲, 中暁生 1968 江藤慎一, D.ロバーツ, 山内一弘 1969 高田繁, D.ロバーツ, 山本一義 1970 江尻亮, 高田繁, 中暁生 1971 柴田勲, 高田繁, 水谷実雄 1972 柴田勲, 高田繁, 若松勉 1973 江尻亮, 柴田勲, 若松勉 1974 G.マーチン, 末次利光, 若松勉 1975 井上弘昭, 山本浩二, ロジャー 1976 張本勲, 谷沢健一, 若松勉 1977 張本勲, 山本浩二, 若松勉 1978 C.マニエル, 山本浩二, 若松勉 1979 M.ラインバック, 山本浩二, 若松勉 1980 杉浦亨, 山本浩二, 若松勉 1981 J.ライトル, 田尾安志, 山本浩二 1982 田尾安志, 長崎啓二, 山本浩二 1983 田尾安志, 松本匡史, 山本浩二 1984 山崎隆造, 山本浩二, 若松勉 1985 杉浦享, 真弓明信, 山崎隆造 1986 W.クロマティ, 山本浩二, 吉村禎章 1987 W.クロマティ, C.ポンセ, 吉村禎章 1988 C.ポンセ, J.パチョレック, 広沢克己 1989 W.クロマティ, 彦野利勝, 山崎賢一 1990 J.パチョレック, 原辰徳, 広沢克己 1991 R.J.レイノルズ, 原辰徳, 広沢克己 1992 飯田哲也, 前田智徳, L.シーツ 1993 A.パウエル, 新庄剛志, 前田智徳 1994 A.パウエル, G.ブラッグス, 前田智徳 1995 A.パウエル, 金本知憲, 松井秀喜 1996 A.パウエル, 松井秀喜, 山崎武司 1997 鈴木尚典, D.ホージー, 松井秀喜 1998 鈴木尚典, 前田智徳, 松井秀喜 1999 関川浩一, 高橋由伸, 松井秀喜 2000 金本知憲, 新庄剛志, 松井秀喜 2001 稲葉篤紀, 金本知憲, 松井秀喜 2002 清水隆行, 福留孝介, 松井秀喜 2003 赤星憲広, A.ラミレス, 福留孝介 2004 金本知憲, 嶋重宣, T.ローズ 2005 青木宣親, 赤星憲広, 金本知憲 2006 青木宣親, 金本知憲, 福留孝介 2007 青木宣親, A.ラミレス, 高橋由伸 2008 A.ラミレス, 青木宣親, 金本知憲 2009 A.ラミレス, 青木宣親, 内川聖一 2010 M.マートン, 青木宣親, 和田一浩 2011 長野久義, M.マートン, 青木宣親 2012 長野久義, 大島洋平, W.バレンティン 2013 W.バレンティン, M.マートン, 長野久義 2014 M.マートン, 丸佳浩, 雄平 2015 筒香嘉智, 福留孝介, 平田良介 2016 鈴木誠也, 筒香嘉智, 丸佳浩 2017 丸佳浩, 鈴木誠也, 筒香嘉智 2018 丸佳浩, 鈴木誠也, N.ソト 2019 丸佳浩, 鈴木誠也, N.ソト 2020 佐野恵太, 丸佳浩, 鈴木誠也 2021 鈴木誠也, 近本光司, 塩見泰隆 2022 近本光司, 佐野恵太, 岡林勇希 2023 近本光司, 西川龍馬, 岡林勇希 表 話 編 歴 投 真田重男 捕 荒川昇治 一 西沢道夫 二 千葉茂 三 藤村富美男 遊 白石勝巳 外 小鶴誠 / 青田昇 / 岩本義行 表 話 編 歴 投 別所毅彦 捕 野口明 一 川上哲治 二 千葉茂 三 藤村富美男 遊 平井三郎 外 金田正泰 / 青田昇 / 岩本義行 表 話 編 歴 投 別所毅彦 捕 藤尾茂 一 川上哲治 二 井上登 三 児玉利一 遊 吉田義男 外 与那嶺要 / 田宮謙次郎 / 青田昇 表 話 編 歴 投 金田正一 捕 藤尾茂 一 川上哲治 二 井上登 三 三宅秀史 遊 吉田義男 外 与那嶺要 / 田宮謙次郎 / 青田昇 表 話 編 歴 投手:須田博 捕手:田中義雄 一塁手:川上哲治 二塁手:苅田久徳 三塁手:水原茂 遊撃手:上田藤夫 外野手:鬼頭数雄, 山田伝, 中島治康 投手:別所昭 捕手:土井垣武 一塁手:川上哲治 二塁手:千葉茂 三塁手:藤村富美男 遊撃手:杉浦清 外野手:大下弘, 坪内道則, 金田正泰 投手:別所昭, 中尾碩志, 真田重男 捕手:土井垣武 一塁手:川上哲治 二塁手:千葉茂 三塁手:藤村富美男 遊撃手:木塚忠助 外野手:青田昇, 別当薫, 坪内道則 投手:藤本英雄 捕手:土井垣武 一塁手:川上哲治 二塁手:千葉茂 三塁手:藤村富美男 遊撃手:木塚忠助 外野手:小鶴誠, 別当薫, 大下弘 表 話 編 歴 1936秋 中根之 1937春 松木謙治郎 1937秋 景浦將 1938春 中島治康 1938秋 中島治康 1939 川上哲治 1940 鬼頭数雄 1941 川上哲治 1942 呉波 1943 呉昌征 1944 岡村俊昭 1946 金田正泰 1947 大下弘 1948 青田昇 1949 小鶴誠 表 話 編 歴 1936秋 藤村富美男, 山下実, 古谷倉之助 1937春 中島治康, 松木謙治郎 1937秋 高橋吉雄 1938春 ハリス 1938秋 中島治康 1939 鶴岡一人 1940 川上哲治 1941 服部受弘 1942 古川清蔵 1943 岩本章, 加藤正二, 古川清蔵 1944 金山次郎 1946 大下弘 1947 大下弘 1948 青田昇, 川上哲治 1949 藤村富美男 表 話 編 歴 1936秋 古谷倉之助 1937春 景浦將 1937秋 中島治康 1938春 景浦將 1938秋 中島治康 1939 川上哲治 1940 中島治康 1941 川上哲治 1942 中島治康 1943 青田昇, 野口明 1944 藤村富美男 1946 山本一人 1947 藤村富美男 1948 藤村富美男 1949 藤村富美男 ISNI VIAF 日本 日本の野球選手 滝川高等学校出身の野球選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手 横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手 本塁打王 (NPB) 首位打者 (NPB) 打点王 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球監督 横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の監督 野球解説者 阪神タイガース関連人物 日本のラジオパーソナリティ 日本の野球殿堂表彰者 ズームイン!!シリーズ関係者 日本のカトリック教会の信者 兵庫県出身のスポーツ選手 肺癌で亡くなった人物 1924年生 1997年没 ISBNマジックリンクを使用しているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/16 19:56更新
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aota noboru
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