寺山修司の情報(てらやましゅうじ) 劇作家、歌人(短歌) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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寺山 修司さんについて調べます
■名前・氏名 |
寺山修司と関係のある人
和田嘉訓: 『あゝ荒野』 : 原作寺山修司、1967年6月発表(未映画化シナリオ) 松井良彦: 映画の内容上、一般の映画館での上映が難しかったが、寺山修司の好意により天井桟敷館で長期ロードショー公開された。 須藤晃: 自ら少年時代は石川啄木や寺山修司に憧れて詩人志望であったと語る通り文学、特に詩の分野に関しての造詣が深く、言葉(歌詞)にこだわったプロデューススタイルでメッセージ性の強い作品を生み出している。 佐佐木幸綱: 1959年、早稲田大学第一文学部国文学科入学と同時に早稲田大学短歌会に入部、小野茂樹や寺山修司らを知る。 中城ふみ子: 戦後活躍した代表的な女性歌人の一人で、寺山修司とともに現代短歌の出発点であると言われている。 浜田朱里: 作詞:寺山修司/作曲:田中未知/編曲:若草恵 流山児祥: 解散の乾杯の音頭は寺山修司。 大槻ケンヂ: 他に文学関係では、中原中也や寺山修司などの影響も強く受けており、エッセイでは三島由紀夫、谷崎潤一郎、澁澤龍彦などの耽美的な作家にも言及している。 緒川たまき: 上海異人娼館(2004年、寺山修司原作、宇野亜喜良芸術監督・台本、斉藤千雪・森崎偏陸演出) 江藤淳: 1958年には、石原慎太郎、大江健三郎、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。 山谷初男: ステレオによる叙事詩「まんだら」(作:寺山修司、1967年、NHK) 福澤幸雄: 寺山修司は福澤の事故死をテーマにした「さらばサチオ「男が死ぬとき その2」」を作詞し、現在でもCD(寺山修司 作詞+作詩集)で聴くことができる。 渡辺真起子: あヽ、荒野(2011年、作:寺山修司、演出:蜷川幸雄) 高取英: 『寺山修司 過激なる疾走』(平凡社新書、2006年) 松井良彦: ちなみに松井の最大の理解者であった寺山修司は『追悼のざわめき』クランクインの時期に他界している。 須田一政: 1967年(昭和42年)、寺山修司主催の劇団『演劇実験室 天井桟敷』が設立されると、寺山の戯曲を好んでいた須田が劇団のスタッフ募集広告を見て応募し、専属カメラマンとして採用される。 志村正順: 「誌上放送」を少年時代に愛読していたことを公言している人物に、大江健三郎、石原慎太郎、寺山修司らが知られる。 尾藤イサオ: あしたのジョー/ジョーの子守唄〈B面:歌 小池朝雄〉(1970年) ※TVアニメ『あしたのジョー』主題歌/作詞:寺山修司、作曲:八木正生) 大山デブ子: 寺山修司と大山デブ子 松田かほり: 在学中は、寺山修司の流れをひく劇団プア・ハウス、劇団キラークィーンなどの小劇場の芝居に出演している。 平泉成: 1971年、寺山修司監督『書を捨てよ町へ出よう』に出演。 長戸勝彦: 劇団☆A・P・B–Tokyo『地球空洞説』作:寺山修司・演出:高野美由紀(2021年12月1日〜3日) 流山児祥: 1970年12月、寺山修司から渋谷の喫茶店に呼び出される。これ以降、寺山修司との交流が始まる。 深澤幸太: 月蝕歌劇団「邪宗門」(1993年) 作:寺山修司 演出:高取英 内田勝: 1970年3月には『巨人の星』と並ぶ同誌連載の大ヒット作品『あしたのジョー』の登場人物で、劇中で死亡した力石徹の葬儀告別式を寺山修司、梶原一騎、ちばてつやらと、講談社六階講堂で行った。 なつこ: 2005年、寺山修司生誕70年の企画にて『時には母のない子のように』『戦争は知らない』をカバーしCD発売。 藤本英雄: 当時中学生だった寺山修司がこの試合を観戦しており、バットボーイは少年時代のなかにし礼が務めた。 六平直政: 身毒丸(2011年、埼玉県芸術文化振興財団 作:寺山修司、岸田理生 演出:蜷川幸雄) 塚本邦雄: 反写実的・幻想的な喩とイメージ、明敏な批評性と方法意識に支えられたその作風によって、岡井隆や寺山修司らとともに、昭和30年代以降の前衛短歌運動に決定的な影響を与えた。 菅貫太郎: 寺山修司監督の『田園に死す』は唯一の主演作。 |
寺山修司の情報まとめ
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寺山 修司(てらやま しゅうじ)さんの誕生日は1935年12月10日です。青森出身の劇作家、歌人(短歌)のようです。
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シナリオ作家として、劇団「天井桟敷」結成から死去まで、没後、年譜、人物などについてまとめました。映画、ドラマ、結婚、事件、離婚、テレビ、引退に関する情報もありますね。47歳で亡くなられているようです。
寺山修司のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)寺山 修司(てらやま しゅうじ、1935年〈昭和10年〉12月10日 - 1983年〈昭和58年〉5月4日)は、日本の歌人・劇作家。演劇実験室を標榜した前衛演劇グループ「天井桟敷」主宰。 「言葉の錬金術師」「アングラ演劇四天王のひとり」「昭和の啄木」などの異名をとり、上記の他にもマルチに活動、膨大な量の文芸作品を発表した。競馬への造詣も深く、競走馬の馬主になるほどであった。 1935年(昭和10年)12月10日、父・八郎、母・ハツの長男として生を受ける。八郎は東奥義塾弁論部OBで当時弘前警察署勤務の特高警察刑事。父の転勤のため、県内各所を転々とする。本人は出生について「走っている列車の中で生まれ、ゆえに故郷はない」などと記していたが、ハツと元妻の九條今日子によれば、青森県弘前市紺屋町生まれとされる。戸籍上は1936年(昭和11年)1月10日が出生日となっている。これもハツによれば、「父の仕事が忙しく、産後保養していたため」という。ただし、戸籍の出生が正しいとの説もある。本籍地は青森県上北郡六戸村(現三沢市)。 1941年(昭和16年)、青森県八戸市へ転居。八郎出征のため、ハツと三沢市へ疎開。彼女はその後九州で働くために青森市の親類に修司を預ける。青森市マリア幼稚園入園。 1945年(昭和20年)、青森大空襲によりハツとともに焼け出される。9月に八郎がセレベス島で戦病死したとの公報を受け取る。終戦後は八郎の兄を頼り、三沢駅前(当時は古間木駅)の寺山食堂の2階に転居、古間木小学校に転校する。ハツは進駐軍の米軍キャンプで働き、米軍差し押さえの民家に移る。 1948年(昭和23年)、三沢市立古間木中学校入学。ハツが福岡県の米軍ベースキャンプへ移ったため、青森市の母方の大叔父である坂本勇三の映画館「歌舞伎座」に引き取られる。青森市立野脇中学校に転校。 1949年(昭和24年)、坂本宅に引き取られる。中学2年生で京武久美と友人になる。句作をしていた京武の影響を受け、俳句へのめり込んでいく。文芸部に入り、俳句や詩、童話を学校新聞に書き続ける。 1950年(昭和25年)、青森市営球場で藤本英雄が達成した日本プロ野球史上初の完全試合を現地で観戦する。 1951年(昭和26年)、青森県立青森高等学校に入学し、新聞部、文芸部に所属する。「山彦俳句会」を結成し、高校1年生の終わり頃「校内俳句大会」を主催。全国学生俳句会議結成。俳句改革運動を全国に呼びかける。京武と俳句雑誌『牧羊神』創刊、1954年(昭和29年)の第7号(1,5,6,7号)まで編集・発行を続ける。同期生に沢田教一がいたが、たまに学校をサボって共に映画を鑑賞する程度で、特別親しい間柄ではなかったとされる。高校時代の寺山は坂本が新築した青森市松原の家に下宿し、堤川の堤防を通り青森高校に通学していた。 1954年(昭和29年)、早稲田大学教育学部国文学科(現・国語国文学科)に入学した。山田太一とは同級だった。早稲田大学短歌会に入る。寺山は12歳から13歳頃から短歌を詠み始めたというが、熱を入れて短歌を詠み始めるきっかけとなったのが短歌研究1954年4月号に掲載された、一般からの公募から選ばれ第一回五十首詠で特選となった中城ふみ子の「乳房喪失」であった。中城の作品は歌壇で大きな反響を生み、第二回の五十首詠の公募には第一回の約2倍の約800名からの応募があった。中城の短歌は歌壇の主に若手から強い支持を受けたが、寺山もまた中城の短歌に感動し、短歌を詠む意欲を高めた。 寺山は短歌研究の第二回五十首詠に「父還せ」と題して応募した。短歌研究編集長の中井英夫は寺山の作品を特選とした。後に中井英夫は自らのことを「いいものをいち早く見てとる眼を持っていてほとんど誤らない」と、自負を述べている。中央歌壇では無名であった中城ふみ子、寺山修司という稀有な才能を見い出したのは、名編集者中井英夫の慧眼あったればこそであった。 中井英夫は特選とした寺山修司の「父還せ」の発表に際して、多くの配慮をした。まず題名を「チェホフ祭」とし、既存歌壇からの反発などを考慮して17首を削り、短歌研究1954年11月号に第二回五十首詠特選として発表した。寺山は短歌研究1954年12月号に「火の継走」と題した入選者の抱負を発表している。その中で、 僕に短歌へのパッショネイトな再認識と決意を与えてくれたのはどんな歌論でもなくて、中城ふみ子の作品であった。 と書いている。 中城ふみ子の「乳房喪失」は、既存歌壇からの激しい反発を浴びた。一方寺山の「チェホフ祭」は当初、比較的反発は少なかった。しかしまもなく寺山は激しい批判、反発に晒されることになる。寺山は俳句の世界でも注目を浴びていた。寺山の短歌が中村草田男、西東三鬼らの俳句作品の模倣であるとの批判が、俳句界から上がったのである。楠本憲吉は寺山の短歌に対して「俳句はクロスワードパズルではない」と、激しい反発を露わにし、寺山のことを「模倣小僧」と揶揄する声が上がった。実際、中村草田男のよく知られた俳句を短歌として引き写したかのような作品もあって、批判を受けることはやむを得なかった。模倣問題が明るみに出ると、俳句界から始まった批判は歌壇にも広まり、袋叩きの様相を呈するようになった。 寺山を第二回短歌研究五十首詠特選とした中井英夫は、歌壇からの批判に真の意味での新人を欲しない、守旧的な体質を見た。中井は寺山擁護の論陣を張った。中井は写実を基本とする既存短歌のあり方に疑問を持たない、歌壇に激しい不満を抱いていた。乳がんで死を目前とした中城ふみ子の不幸の演技性を帯びる短歌、まだ十代のみずみずしい青春ドラマのような寺山修司の短歌は、作品としては極めて大きな違いがあるものの、ともに平板な日常詠をよしとした既存短歌の世界からの極めて大きな飛躍であったという面において、同じ方向性を持っていた。中井にとって生命力を失いつつあった写実詠を基本とした既存短歌に対するアンチテーゼとして、寺山修司の短歌は守っていかねばならないものであった。 寺山の短歌は、当初から寺山本人自身を短歌に託すというよりも、あくまで自己表現の一手段として使いこなす傾向が顕著であった。そのため、短歌を自らの感情を増幅させ、変換させたフィクションの世界として創り上げていった。寺山は短歌による文壇デビュー以降、評論、詩、演劇、映像などに多彩な才能を開花させていくが、寺山にとっては別ジャンルの媒体ではなく、同時に繰り広げられていく世界のものであった。狭いひとつのジャンルに留まることなく、寺山自身のいわば寺山ワールドを様々な形で繰り広げていくのが寺山の芸術の大きな特徴であり、後に「職業は寺山修司です」と自称した寺山は、コラージュ、モンタージュ等の技法を駆使し、事実と虚構が入り混じる世界を構築していった。 1955年、19歳の寺山はすでに
ほんとに自分に誠実であるためには、どんな手段でもとっていいたいことをいうべきだ。そこになんかの形で修飾や風刺や、演技ということが入ってくるんで、そういうものを見ると目の色変えてポーズだなんてけなすのは滑稽だと思う。彼らにはほんとにいいたいことがないってことじゃないか……
と語っている。
「チェホフ祭」で第二回「短歌研究」新人賞を受賞する。
混合性腎臓炎で社会保険中央総合病院に入院。1955年(昭和30年)、ネフローゼと診断されて長期入院となり、翌年、在学1年足らずで退学、生活保護を受ける。この時代の輸血技術は洗練されたものではなかったが、当時としては唯一の治療法であった。また、前述の説明を医師から受けた寺山は、この頃から自身の死を意識し始め、友人の横尾忠則に「長くは生きられない」ともらしていたと言う。そして、実際これが晩年の肝硬変を引き起こしたと言われている。
シナリオ作家として処女戯曲『忘れた領分』が早稲田大学の大隈講堂「緑の詩祭」で上演され、それを観た谷川俊太郎の病院見舞いを受け、交際が始まる。1957年に第一作品集『われに五月を』、1958年に第一歌集『空には本』(的場書房)を刊行する。1959年、谷川の勧めでラジオドラマを書き始める。投稿した「中村一郎」(RKB毎日)にて、民放会長賞を受賞。また、石原慎太郎、江藤淳、谷川俊太郎、大江健三郎、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之らと「若い日本の会」を結成、60年安保に反対した。 1960年(昭和35年)2月、第3作目のラジオドラマ『大人狩り』が放送される。同年、浅利が旗揚げした「劇団四季」で戯曲『血は立ったまま眠っている』が上演される。また、篠田正浩監督作品のシナリオを担当し、大島渚と出会う。25歳でハツと四谷のアパートでおよそ12年ぶりに同居。1963年(27歳)、松竹の女優だった九條映子(今日子)と結婚し、ハツとは別居となった。結婚式は4月2日にカトリック吉祥寺教会で挙げた。 結婚生活については2人で映画を見に行くこともあったほか、犬好きのため九條がアルバムに犬の写真を貼り、寺山が記録を書き込むなど、良好だった様子が窺える。 矢崎泰久、和田誠、立木義浩、九條の寺山修司を語る座談会では、九條だけが知る寺山の様子(新婚の頃は食いしん坊、ポケットの中やハンドバッグの中を開けて覗く、好奇心の塊、おしゃべりだったなど)を話す場面も見られる。夫婦喧嘩では妻がわめき散らして旦那が手を出すという形式ではなく、寺山が九條を言葉で説き伏せている間に、九條が手を出すという形だったと語っている。 「現代の青春論」(三一書房)と題し、「家出のすすめ」をまとめる。 1964年(昭和39年)、放送詩劇「山姥」(NHK)がイタリア賞グランプリ受賞。放送詩劇「大礼服」(CBC)が芸術祭奨励賞受賞。 1960年代半ば以降からは学研の「高三コース」にて高校生の詩の選者を務めて多くの若い才能を掘り起こしたり、新書館の少女向け詩集レーベル「フォアレディース」を編んだりするなど、「青少年のカリスマ」としての位置づけを強めていく。1963年に『現代の青春論』(『家出のすすめ』)を刊行。劇団「天井桟敷」結成から死去まで![]() 没後1993年4月~5月、「新・寺山修司展 テラヤマ、ワールド」が西武池袋百貨店にて開催された。 1995年(平成7年)、十三回忌を記念して、砂子屋書房が寺山修司短歌賞を開始。 1997年(平成9年)、青森県三沢市に三沢市寺山修司記念館が建てられた。 2001年(平成13年)、朝日新聞社により朝日舞台芸術賞が創設された。グランプリ、舞台芸術賞などの中に、将来が嘱望される新鋭で清新さあふれる個人・団体に対して贈られる寺山修司賞がある。2008年(第8回)をもって休止となった。 2006年(平成18年)、国際社会における寺山修司研究の促進と会員相互の親睦を目的として、国際寺山修司学会が発足した。4月1日、設立準備委員会が愛知学院大学日進学舎にて開催され、5月6日、設立総会兼第1回大会が名古屋市民会館第一会議室にて開催された。その後、およそ年2回の頻度で大会が開催されている。また、2007年より、およそ年1回の頻度で論文集『寺山修司研究』(文化書房博文社刊)が発行されている。映像アート作品のフェスティバルとして1987年から開催されているイメージフォーラム・フェスティバル の一般公募部門に若手作家を対象とした寺山修司賞が新設された。 2008年(平成20年)2月、生前未発表の短歌が田中未知編纂により『月蝕書簡』(岩波書店)として刊行された。 2015年(平成27年)、寺山修司生誕80年の関連行事が多数行われた。代表的な公演を下記に挙げる。
演劇「書を捨てよ町へ出よう」- 東京芸術劇場開館25周年/芸劇フェスティバル Roots vol.3。東京芸術劇場 シアターイースト(東京) 演劇「毛皮のマリー」- 花組芝居。あうるすぽっと(東京) 演劇「寺山修司演劇祭2015」 - 「奴婢一般に関する総則」(演劇実験室◎万有引力、「もしイタ」(青森中央高等学校演劇部)、他。星野リゾート青森屋 映画「第28回東京国際映画祭」生誕80年記念 クラシック特集 テラヤマ・フィルムズ - 「田園に死す」、「草迷宮」、「書を捨てよ町へ出よう」、「さらば箱舟」。 イベント「冥土への手紙ー寺山修司生誕80年記念音楽祭」 - J・A・シーザー(演劇実験室◎万有引力)と悪魔の家2015、大槻ケンヂ、カルメン・マキ、近藤等則、SUGIZO(LUNA SEA, X JAPAN)、瀬間千恵、PANTA、山崎ハコ、犬神サアカス團、近藤等則、渚ようこ、新高けい子、元ちとせ、未唯mie、蘭妖子、ROLLY、他。恵比寿ザ・ガーデンホール イベント「寺山修司記念館フェスティバル2015・春」「寺山修司記念館フェスティバル2015・夏」 - 三沢市寺山修司記念館(青森) 2018年(平成30年)、没後35年を迎え、神奈川近代文学館(神奈川県横浜市)で「寺山修司展 ひとりぼっちのあなたに」(2018年9月29日(土)~11月25日(日))が開催された。三浦雅士、田中未知、祖父江慎が編集委員を務めた。 2021年(令和3年)、12月10日、岡山県津山市に寺山修司館開館。 年譜1935年(昭和10年)12月10日 青森県生まれ。 1941年(昭和16年) 青森県八戸市へ転居。 1942年(昭和17年) 青森市橋本国民学校初等科(現:青森市立橋本小学校)入学。 1948年(昭和23年) 古間木中学校(青森県三沢市)入学。一学年二学期の秋、青森市立野脇中学校に転校。 1951年(昭和26年) 青森県立青森高等学校進学。 1954年(昭和29年) 早稲田大学教育学部国文学科(現・国語国文学科)に入学。第2回短歌研究50首詠(後の短歌研究新人賞)受賞。 1967年(昭和42年)1月1日 「天井桟敷」を結成。 1974年(昭和49年) 映画『田園に死す』で文化庁芸術祭奨励新人賞、芸術選奨新人賞を受賞。 1983年(昭和58年) 肝硬変のため入院。腹膜炎を併発し、敗血症で死去。47歳没。 1989年(平成元年) 三沢市の小田内沼の畔に「作家寺山修司文学碑」建立。 1997年(平成9年) 三沢市民の森公園内に三沢市寺山修司記念館開館。 人物競馬寺山の競馬との出会いは1956年。ネフローゼで入院中、同室の韓国人から賭博とともにそれを学んだ。 1962年、山野浩一と親しくなったころから足繁く競馬場に通うようになり、1963年、牝馬・ミオソチス に心酔して競馬エッセイを書き始め、競馬を人生やドラマになぞらえて語るなどの独特の語り口で人気を博した。 1964年には、中山大障害を題材にしたTBSテレビのドキュメンタリー番組『サラブレッド・我が愛』の台本・構成を手掛けている。 1965年、八百長疑惑が持ち上がったたちばな賞のパトロールフィルムを大川慶次郎、虫明亜呂無とともに見た寺山は「どこが八百長なのか分からない」と発言し、八百長疑惑を否定した。 1968年、船橋競馬のある騎手から「寺山さんのエッセイは中央競馬寄り」という批判を受けたことをきっかけに、船橋競馬のある騎手と新宿で会談、自身の不明を恥じた寺山は「ユリシーズ」(南関東)の馬主となる。生涯ただ一頭だけの馬主体験であった。 1970年からは報知新聞競馬面に「寿司屋の政」、「バーテンの万田」など多彩な人物を登場させて競馬を予想した『みどころ』『風の吹くまゝ』というコラムを連載し、これは1983年4月、死の直前まで続いた。このコラムは後に『競馬場で逢おう』シリーズとして纏められている(Part6まで、JICC出版局)。 競馬界のスポークスマン的存在で、1973年には日本中央競馬会(JRA)のコマーシャルに出演。『カモメは飛びながら歌を覚え、人生は遊びながら年老いていく』という自作の詩(ディレクターを務めた武市好古によると、「遊びについての断章」という名の長い詩だったのを、CM収録時に編集したという)を朗読。1974年にハイセイコーが引退すると、引退記念レコード『さらばハイセイコー』の構成、詩の朗読を行なった。 1978年の日本経済新春杯でテンポイントが骨折し、2か月後に死亡すると、追悼詩『さらば、テンポイント』を残した。この詩は寺山自身が番組構成に携わった関西テレビのテンポイント追悼特集番組『風花に散った流星』で紹介され、1991年にVHSビデオ『もし朝が来たら テンポイント物語』としてソニー・ミュージックエンタテインメントから発売された。 1978年6月には、NHKが製作した『ルポルタージュにっぽん』「ダービーの日」という番組に進行役として出演。同年5月28日に開催された日本ダービーでの「東京競馬場の長い一日」を、レースに騎乗する福永洋一・岡部幸雄・柴田政人の同期3名の騎手を中心に、調教師、観客らの姿にスポットを当てて描くというドキュメンタリーの形で綴った。 1981年のカブトシロー薬殺未遂騒動の際には、寺山を中心とした10人の競馬ファンの連名で中央競馬会に抗議文を提出。 1982年に寺山が選んだ「私の忘れがたかった馬ベスト10」(競馬放浪記あとがき)はミオソチス、カブトシロー、モンタサン、ホワイトフォンテン、テンポイント、ハイセイコー、メジロボサツ、ユリシーズ、タカツバキ、テキサスシチー、(番外・ダンサーズイメージ)。騎手では中島啓之、のちに吉永正人を贔屓にした。まだ人気にも話題にもなっていない頃から彼らを熱心に取り上げ、「ダービーに勝つまで書き続ける」としていた。中島、吉永共にダービー制覇を成し遂げているが、吉永がミスターシービーで悲願を達成したのは、寺山が急逝した3週間後だった。 報知新聞競馬面予想コラム『風の吹くまゝ』の最終回は1983年皐月賞の当日で、寺山は『勝つのはミスターシービー』と記し、吉永とミスターシービーの勝利を確信していた。 動物愛寺山は動物好きだった。一人っ子で寂しがり屋だったためとする説もある。 犬 - 母・ハツも絶えず犬を飼い、代々「太郎」と名付けた。寺山修司は「太郎」も可愛がったが、自分も終生犬を飼い続けた。コッカースパニエル犬を九条今日子との結婚祝いにもらう。コッカースパニエル「ジル」との写真が残っている。柴犬には「ニーチェ」「ワグナー」と名付けて飼った。ワグナーは寺山の死後、田中未知と14年の余生を過ごした。寺山修司顕彰文学碑の前にはビクター犬がたたずむ。 亀 - 「質問」と「答」という名の2匹の亀を飼っていた時期がある。 ネズミ - 脚本を書いたテレビドラマ「Q」には、のべ1000匹ものネズミが出演。登場したネズミとの写真も残されている。 2024/06/16 15:41更新
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terayama syuuji
寺山修司と同じ誕生日12月10日生まれ、同じ青森出身の人
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