柳田真宏の情報(やなぎだまさひろ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
柳田 真宏さんについて調べます
■名前・氏名 |
柳田真宏と関係のある人
藤城和明: 元巨人選手の歌手転向は、柳田真宏に次ぐ事例であった。 三沢淳: 1979年6月8日の巨人戦(ナゴヤ)では、9回2死から柳田真宏に安打を打たれノーヒットノーランを逃すも、この時点では0-0であり、裏の攻撃で自軍が1点取りサヨナラ勝ちをおさめた。 笠間雄二: 1980年1月には柳田真宏と共に永本裕章との交換トレードでかつて入団拒否をした阪急ブレーブスへ移籍するが、移籍先でも中沢伸二・笹本信二に次ぐ3番手の起用にとどまり、打率も1割に満たなかった。 山前五十洋: 2000年9月、ラジオ日本の『松永しのぶと柳田真宏のさぁどうなっちゃうの!?』にゲスト出演し、自分が倉木麻衣の父親であることを告白した。 末次利光: 1977年オープン戦前の練習で同僚の柳田真宏の打球を左目に受け、その後遺症で視界が狭くなってしまい、同年のシーズン終了後に現役を引退。 永本裕章: 同年オフに柳田真宏・笠間雄二との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍も、登板はわずか14試合のみとあまり活躍の場はなく、翌年柳田との再トレードで阪急に出戻る。 八浪知行: また、巨人史上最強の5番打者と言われた柳田真宏や元西武の伊東勤捕手を指導した人物としても知られている。 淡口憲治: 1977年は柳田真宏が打撃好調で右翼手に定着、さらに出場機会が減少した。 二宮至: 同年7月7日のヤクルト戦(円山)では柳田真宏が腹痛を起こしたのと、投手が左腕の安田猛であったこともあり、右翼手として初先発したが、安田に抑えられて3打数無安打に終わる。 敏いとう: 柳田真宏 立岡宗一郎: 矢野顕子が2015年に行った『さとがえるコンサート』では1977年に発表した「行け柳田」を披露("巨人史上最強の五番打者"と評された柳田真宏をテーマに、1番から8番までのオーダーが歌詞になった楽曲)。 |
柳田真宏の情報まとめ
柳田 真宏(やなぎだ まさひろ)さんの誕生日は1948年5月21日です。熊本出身の野球選手のようです。
引退、現在、テレビに関する情報もありますね。今年の情報もありました。柳田真宏の現在の年齢は76歳のようです。
柳田真宏のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 柳田 真宏(やなぎだ まさひろ、本名:柳田 俊郎(やなぎだ としろう)、1948年5月21日 - )は、熊本県出身の元プロ野球選手(外野手、一塁手)、俳優・歌手。 ニックネームは「マムシ」(ニックネームの由来は、熱狂的な巨人ファンとして知られる毒蝮三太夫に顔が似ていたことから。このことが縁で柳田と毒蝮には親交がある)。 九州学院高等学校では、1965年秋季九州大会県予選準々決勝に進むが長島吉邦のいた熊本工に完封負け。翌1966年夏の甲子園県予選でも準々決勝に進出するが、鎮西高に敗退。 同年の1次ドラフト2位で西鉄ライオンズに入団。1年目の1967年から一軍で起用され右翼手として3試合に先発出場。1968年オフに田中久寿男との交換トレードで読売ジャイアンツ(巨人)に移籍。1971年には一軍に定着、主に右翼手として26試合に先発する。その後もV9時代後期の巨人で準レギュラー、代打の切り札としてチームを支えた。1974年には65試合に先発出場、五番打者として31試合、四番打者としても1試合に起用され、規定打席には到達しなかったが打率.335を残す。1975年は開幕から、故障欠場の王貞治に代わり一塁手として起用されるが、4月中旬には右翼手に戻る。1976年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは4試合に先発、13打数4安打を記録した。1977年に登録名を柳田 真宏に改名。同年は五番打者に定着。プロ入り11年目にして初の規定打席に到達し、打率.340(3位)、本塁打21本の好成績を残し「巨人史上最強の五番打者」と呼ばれた。オールスターゲームに選出されたが怪我で辞退している。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは13打数無安打と活躍の場はなかった。1978年には横浜スタジアムの開場第1号本塁打を放っている。 1977年、オープン戦前の練習で打った打球が同僚の末次利光の左目に当たり、末次はその後遺症で視界が狭くなってしまい、同年のシーズン終了後に現役を引退した。柳田は末次に対してその場で謝罪している。また、2018年の週刊現代に掲載された末次との対談でも柳田は改めて釈明した。 1979年オフに永本裕章との交換トレードで笠間雄二と共に阪急ブレーブスに移籍。 1980年オフに再び永本とのトレードで巨人に復帰し、代打の切り札として活躍。登録名を本名の柳田 俊郎に戻した。 1982年限りで現役引退。 現役時代はヤバネスポーツ製を愛用し、バッティング時の手袋には“ヤバネ”の文字(普通はローマ字表記が多いが同メーカーはカタカナ表記)が柳田の拳に表されていた。 引退後のインタビューで柳田は巨人から前もってドラフト3位で指名することを話されており、柳田自身も巨人へ行けるものと思っていたが、先に西鉄に2位で指名され、実際に巨人へ入団することになったのは、トレード移籍する1968年オフであったことを語っている。 引退翌年の1983年、現役時代に登録名として使用した柳田 真宏の名義で演歌歌手デビュー。 1984年に暴露本『パンツを脱いだ巨人軍―巨人軍よマムシはおこってるんだぞ!』(日本文芸社刊)を出版した。 現在は歌手活動の傍ら八王子市で「カラオケスナックまむし36」を経営している[1]。 月間MVP:1回(1977年5月) 初出場:1967年6月15日、対南海ホークス11回戦(平和台野球場)、8回裏に河野旭輝の代打で出場 初安打・初本塁打・初打点:1967年7月30日、対東映フライヤーズ19回戦(平和台球場)、8回裏に浜村健史の代打で出場、高橋善正から右越決勝ソロ 初先発出場:1967年8月27日、対東映フライヤーズ23回戦(後楽園球場)、6番・右翼手で先発出場 1000試合出場:1981年6月8日、対阪神タイガース11回戦(後楽園球場)、9回裏に二宮至の代打で出場 ※史上222人目 77 (1967年) 16 (1968年) 62 (1969年 - 1970年) 36 (1971年 - 1979年) 30 (1980年) 32 (1981年 - 1982年) 柳田 俊郎 (やなぎだ としろう、1967年 - 1976年、1982年) 柳田 真宏 (やなぎだ まさひろ、1977年 - 1981年) 「ラブ・アゲイン」(柳田真宏&沙羅)発売元:フリーボード 発売日:2004年3月24日 「どうかしてるわ」(柳田真宏&田中美妃)博水社「ハイサワー」CMソング また、1977年には巨人ファンの矢野顕子が「行け柳田」という応援歌をリリースした。アルバムでは「いろはにこんぺいとう」に所収。歌詞には当時の巨人軍のレギュラー打順リストが丸ごと含まれている。 大江戸捜査網第3シリーズ第506話「妹慕情 怒りのまむし剣法」(テレビ東京・ヴァンフィル:1983年) - 佐伯新十郎 役 最後の博徒(東映:1985年) - 川名勇 役 難波金融伝 ミナミの帝王4(ケイエスエス:1994年) 難波金融伝 ミナミの帝王5(ケイエスエス:1995年) 小林悠 たまむすび(TBSラジオ、2015年11月27日放送分「その筋の話」ゲスト) 真夜中ギンギラ大放送(ラジオ関西) ミュージックブルペン(AMラジオ各局、初代パーソナリティー) ^ 週刊現代 2018年12月15日号『熱討スタジアム』「巨人・末次利光の悲劇を語ろう」に柳田と末次がその思い出話を語っている。 ^ 宮脇広久 (2024年2月9日). “巨人入団予定が…ドラフト導入の悲劇 「ワンワン泣いた」2年越しで出会った運命の人”. Full-Count. 2024年5月17日閲覧。 ^ 勝つための努力をしてきた人だからこそ、言えることってある 熊本市出身の人物一覧 埼玉西武ライオンズの選手一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 オリックス・バファローズの選手一覧 読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧 個人年度別成績 柳田俊郎 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 1位:岡村佳典 2位:柳田俊郎 3位:甲斐和雄 4位:村上公康 5位:田中武(入団拒否) 6位:小野泰敏 7位:大津秀美 8位:村上利春(入団拒否) 9位:玉国光男(入団拒否) 10位:内藤久 1位:荒武康博 2位:塩沢誠(入団拒否) 3位:清水正輝(入団拒否) 4位:斎藤正人(入団拒否) 埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手 VIAF 日本 MusicBrainz 日本の野球選手 九州学院高等学校出身の野球選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 日本の男性歌手 日本の男優 熊本市出身の人物 1948年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 MusicBrainz識別子が指定されている記事
2024/11/21 15:58更新
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yanagida masahiro
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