藤井栄治の情報(ふじいえいじ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
藤井 栄治さんについて調べます
■名前・氏名 |
藤井栄治と関係のある人
阿部良男: 同年オフ、藤井栄治との交換トレードで阪神タイガースに移籍。 土橋正幸: 甲子園球場に舞台を移した第6戦でも阪神の追い上げをかわして3回1/3を無失点に抑えて逃げ切ると、第7戦でもリリーフで登板、延長12回1死でマイク・ソロムコを三振、更にルーキーの藤井栄治を一塁ゴロに仕留め、土橋はこの試合の勝利投手及びシリーズ胴上げ投手となっている。 金田正泰: 藤井栄治も金田との対立の末にシーズン終了後に太平洋クラブに移籍。 金田正泰: 1973年はシーズン当初から村山の大学の後輩に当たる藤井栄治や鈴木皖武、権藤正利との確執など一部の主力選手との対立が激化。 嶋田宗彦: 日本シリーズにおける新人選手の初打席本塁打は史上初の記録で、阪神の新人選手による打点は、1962年の藤井栄治以来23年振りであった。 河西俊雄: 1961年は、関西大の藤井栄治を担当している。 聖澤諒: 2014年は、4月2日の対オリックス戦(コボスタ宮城)で9回表に坂口智隆の中飛を捕球し、藤井栄治と並ぶ外野手のNPBタイ記録の820連続守備機会無失策とし、4月3日の同戦の5回表にエステバン・ヘルマンの中飛を捕球し同記録を821として、NPB新記録とした。 村山実: 同時に、中心選手に自覚を持たせることを目的として「幹部選手制度」を導入し、遠井吾郎・藤井栄治・安藤統夫・辻恭彦・山尾孝雄の5名を指定した。 末永正昭: 初出場:1971年4月10日、対中日ドラゴンズ1回戦(阪神甲子園球場)、7回裏に藤井栄治の代走で出場 和田徹: この時の試合は、2回表に藤井栄治のソロ本塁打で先制、3回表には山内一弘の犠飛でもう一点を追加で広島先発の池田英俊を降板させ、さらに6回表に和田が2ラン本塁打でリードを広げた。 蓑田浩二: その試合では1点ビハインドの9回2死無走者の場面で四球で出塁した藤井栄治の代走で出場し、代打の高井保弘の場面で、浅野啓司-吉田孝司バッテリーの警戒の中、盗塁を成功させた(簑田自身は9回2死、代打高井の場面でバッテリーはさほど警戒していないと感じていた。 楠橋高幸: 初出場:1970年10月14日、対ヤクルトアトムズ24回戦(阪神甲子園球場)、7回裏に藤井栄治の代走で出場 横山光次: 1961年までレギュラーを守るが、1962年には藤井栄治が入団したこともあり出場機会が減少。 石井晶: 9回を迎えて2-1と巨人が1点差リードし、すでに2死で走者がない中、代打の藤井栄治が四球を選んで出塁すると簑田が代走で入る。 鈴木啓示: 監督1年目はヘッド兼打撃コーチに藤井栄治、投手コーチに佐藤道郎・村田辰美を招聘し、作戦兼バッテリーコーチに梨田昌孝が就任した。 簑田浩二: その試合では1点ビハインドの9回2死無走者の場面で四球で出塁した藤井栄治の代走で出場し、代打の高井保弘の場面で、浅野啓司-吉田孝司バッテリーの警戒の中、盗塁を成功させた(簑田自身は9回2死、代打高井の場面でバッテリーはさほど警戒していないと感じていた。 山尾孝雄: 翌1970年には、6月後半から故障の藤井栄治に代り一番打者、中堅手の定位置を確保する。 藤田平: 現役時代は無口でおとなしく、遠井吾郎・藤井栄治とともに「阪神三奇人」と呼ばれた。 |
藤井栄治の情報まとめ
藤井 栄治(ふじい えいじ)さんの誕生日は1940年2月1日です。大阪出身の野球選手のようです。
卒業、引退、テレビに関する情報もありますね。去年の情報もありました。藤井栄治の現在の年齢は84歳のようです。
藤井栄治のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 藤井 栄治(ふじい えいじ、1940年2月1日 - )は、大阪府堺市出身の元プロ野球選手(外野手、一塁手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 無口でいつも表情を変えないことから、「鉄仮面」のあだ名で呼ばれていた。 セントラル・リーグにおける、外野手の最多連続守備機会無失策記録保持者。 登美丘高校では投手であったが、関西大学進学後は打力を買われて打者に転向。関西六大学野球リーグでは1年次の1958年秋季リーグから出場し、2年次の1959年春季リーグからレギュラーに定着すると、在学中は3度の優勝に貢献。リーグ通算68試合に出場し、213打数64安打、打率.300、0本塁打、29打点を記録。4年次の1961年春季リーグには首位打者を獲得し、その直後の大学日本選手権ではエース・村瀬広基を擁して決勝に進出するが、日大の宮田征典に抑えられて敗退。 大学卒業後の1962年に阪神タイガースへ入団。東京六大学出身の安藤統夫・室山皓之助が同期で、ライバル心を燃やす。開幕戦から右翼手として起用され、4月11日の広島戦(甲子園)で大石清から適時打を放って初安打・初打点、5月3日の中日戦(中日)で柿本実から初本塁打を記録。この時の試合は、3対1のリードで迎えた7回表に藤井がダメ押しとなるソロ本塁打を放ち、投げては、先発の石川緑が古巣相手に4安打1失点の完投で移籍後初勝利を挙げた。左中間に伸びる二塁打の多い打撃と勝負強さを武器に活躍し、2リーグ分裂後初のリーグ優勝に貢献。東映との日本シリーズでは全7試合に5番打者として出場。10月14日の第2戦(甲子園)で土橋正幸・富永格郎から3安打、同21日の第7戦(甲子園)では延長10回に土橋から同点打を放つなど34打数11安打5打点と活躍。 外野守備にも優れ、1963年には13補殺を記録。鎌田実によれば、二塁走者がいる時はわざと打球をライトを守る藤井の所に抜けさせ、本塁を突いた走者を藤井の送球でアウトにしていたほどであった。セ・リーグの外野手最多連続守備機会無失策記録の保持者でもあり、パ・リーグ移籍後も820機会まで継続し、2014年に楽天の聖澤諒に更新されるまでのNPB記録であった。 2年目の1963年には自身唯一のベストナイン(外野手部門)に選出され、自身初の打率.300でリーグ7位にランクイン。同年から1965年まで3年連続でオールスターゲームに出場し、その間の1964年には2年ぶりのリーグ優勝に貢献。南海との日本シリーズでは、10月4日の第3戦(大阪)でジョー・スタンカから2本塁打を放つ。 1966年もリーグ10位の打率.281と活躍し、1967年6月18日のサンケイ戦(甲子園)で鈴木皖武から初の満塁本塁打、9月10日の巨人戦(甲子園)で中村稔から初のサヨナラ本塁打を放つ。 1968年にはウィリー・カークランドの入団で中堅手にコンバートされ、1969年9月17日のアトムズ戦(甲子園)で1000試合出場を達成し、3打数2安打1打点の活躍であった。 1970年にはフレッド・バレンタインが入団したほか、一時期は田淵幸一の外野コンバートなど球団の若返り策で守備位置を奪われるが、1971年6月22日の広島戦(甲子園)で西川克弘から1000本安打を達成。 大学の先輩である村山実選手兼任監督と懇意であったため、村山引退後は後任の金田正泰監督との確執が生じる。1973年の春季キャンプでは片手捕球をしたことをナインの前で酷評され、激怒して詰め寄り途中で帰り、金田との溝が深まった。このような確執から、1974年に阿部良男との交換トレードで太平洋クラブライオンズへ移籍。藤井が自ら移籍を志願し、かつて阪神のマネージャーであった青木一三代表が獲得に動いた。 移籍1年目は指名打者、一塁手も兼ね90試合に先発出場。同年オフに行われたメッツとの日米野球では太平洋・巨人連合チームに選出され、11月16日の第15戦(平和台)に6番・左翼手で先発出場。長嶋茂雄・王貞治・末次利光の次を任され、トム・シーバーから3打数2安打を記録してチームの勝利と日本の6勝目に貢献。1976年4月22日の日本ハム戦(平和台)に楠城徹の代打で起用され、1500試合出場を達成。同年オフに戦力外となり、大学の先輩である上田利治監督の強い要望で阪急ブレーブスへ無償トレードで移籍。 1977年は代打の切り札で打率.321を記録し、チームが苦手としていた高橋直樹を得意とした。6月20日の日本ハム戦(西宮)では2番・左翼手で出場、5回裏に適時二塁打で同点、8回裏には決勝点となる右翼へのソロ本塁打を放つ。投げては先発の稲葉光雄が日本ハム打線を5安打1失点に抑え2対1で完投勝利し、この日の藤井は4安打2打点の活躍で本人曰く「うれしい。気分もええ」一日となった。同年のロッテとのプレーオフでは10月9日の第1戦(西宮)で仁科時成から満塁本塁打を放ち、巨人との日本シリーズでも2試合に代打として出場。同26日の第4戦(後楽園)では1点差を追う9回裏2死走者無しから、バーニー・ウイリアムスの代打として四球を選び、この試合の逆転勝利に貢献。他球団からは右の高井保弘と共に恐れられたが、1978年限りで現役を引退。 引退後は西武(1979年 - 1981年一軍打撃コーチ)、近鉄(1982年 - 1983年一軍外野守備コーチ→1984年一軍打撃コーチ, 1993年一軍ヘッド兼打撃コーチ)、古巣・阪神(1988年一軍打撃コーチ→1989年二軍監督)で監督・コーチを務めた。指導者生活の合間を縫って、サンテレビボックス席解説者(1985年 - 1987年, 1990年 - 1992年, 1994年 - 2003年)・スポーツニッポン評論家(1990年 - 1992年)を務めた。 西武コーチ時代は現役時に定評があったミートの巧い実戦的なバッティング技術を体で教えこみ、「アナのない打線」を作るのを目標としていた。古巣・阪神には2度目の監督に就任した村山と共に復帰し、村山の退任と共に自身も退団。近鉄には鈴木啓示新監督からの要請で復帰するが、開幕して5試合目の4月20日、体調不良により退団した。当時主力の金村義明の著書によると「やってられへんのや。金返してやめる」と藤井は言い残して去ったという。 2008年からは吹田市の江坂ベースボールセンターにてマンツーマンのバッティング教室を開講。 現役時代は無口でマイペースなことから『鉄仮面』のあだ名で呼ばれ、記者泣かせの選手だったが、喋らなかったのは生来の河内弁を怖がられるのと、『鉄仮面』のあだ名が勝負師らしく気に入っていたからで、コーチとしては的確に指導していた。 1993年に近鉄のコーチを退任後は約30年間球界から距離を置いていたが、2023年7月9日、阪神甲子園球場に突如現れ、不振の佐藤輝明に激励のアドバイスを送った。 各年度の太字はリーグ最高 ベストナイン:1回 (外野手部門:1963年) 初出場・初先発出場:1962年4月7日、対読売ジャイアンツ1回戦(後楽園球場)、6番・右翼手で先発出場 初安打・初打点:1962年4月11日、対広島カープ1回戦(阪神甲子園球場)、3回裏に大石清から適時打 初本塁打:1962年5月3日、対中日ドラゴンズ7回戦(中日スタヂアム)、7回表に柿本実から左越ソロ 1000試合出場:1969年9月17日、対アトムズ22回戦(阪神甲子園球場)、5番・中堅手で先発出場 ※史上142人目 1000本安打:1971年6月22日、対広島東洋カープ12回戦(阪神甲子園球場)、8回裏に西川克弘から右前安打 ※史上78人目 1500試合出場:1976年4月22日、対日本ハムファイターズ前期3回戦(平和台球場)、7回裏に楠城徹の代打で出場 ※史上50人目 連続守備機会無失策:820 (阪神時代:817、太平洋時代:3) ※阪神時代の817は外野手としてのセ・リーグ記録。 オールスターゲーム出場:3回 (1963年 - 1965年) 19 (1962年 - 1973年、1977年 - 1978年) 9 (1974年 - 1976年) 68 (1979年 - 1981年) 73 (1982年 - 1984年) 72 (1988年 - 1989年、1993年) ^ 藤井栄治、全本塁打一覧|本塁打大全 : クラシックSTATS鑑賞 ^ 817連続守備機会、1967年9月17日の大洋戦(川崎)から1973年7月15日の大洋戦(甲子園)まで。 ^ 聖沢 無失策のプロ野球新 外野手で47年ぶりに更新スポーツニッポン2014年4月3日配信 ^ ベースボール・マガジン社『プロ野球トレード史II 増補改訂版 別冊ベースボール冬季号』(1991年出版) ^ ベースボール・マガジン社『日本プロ野球トレード大鑑-1936〜2001』(2001年1月出版)上田利治氏のインタビューより。 ^ 1980年西武ライオンズファンブックより。 ^ スポーツニッポン『我が道』2011年10月26日 ^ プロ野球すべての球団は消耗品である「#4 1994年の鈴木近鉄編」byプロ野球死亡遊戯 ^ バッティング教室 | 江坂ベースボールセンター(アメニティ江坂) | 株式会社サンリバー ^ “30年ぶり現場に登場「鉄仮面」の伝説OB 不振の阪神・佐藤輝に金言「いい子にならず、頑固になれ」”. スポニチ (2023年7月10日). 2023年7月11日閲覧。 大阪府出身の人物一覧 関西大学の人物一覧 阪神タイガースの選手一覧 埼玉西武ライオンズの選手一覧 オリックス・バファローズの選手一覧 表 話 編 歴 投 金田正一 捕 森昌彦 一 王貞治 二 高木守道 三 長嶋茂雄 遊 古葉毅 外 江藤慎一 / 近藤和彦 / 藤井栄治 日本の野球選手 関西大学野球部の選手 阪神タイガース及びその前身球団の選手 埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手 オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球監督 大阪近鉄バファローズ関連人物 野球解説者 大阪府出身のスポーツ選手 堺市出身の人物 1940年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目
2024/11/14 12:41更新
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fujii eiji
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