山田久志の情報(やまだひさし) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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■名前・氏名 |
山田久志と関係のある人
加藤秀司: この時の1位指名に山田久志、7位指名に福本と、後の名球会会員となる3人を獲得することとなった。 浅野啓司: しかし第4戦では9回表、山田久志に適時二塁打を喫し敗戦投手となった。 金田義倫: 体を酷使して複数の負傷を抱え、同年に入団したアンダースローの山田久志の球威を見て引退を考えていた時期で、一度は断ったものの西本の説得により受諾し、当面は打撃投手兼任となる。 平井正史: 1995年、当時の投手コーチだった山田久志は先発投手としての育成を考えたが、監督の仰木彬の意向により、リリーフとして起用されることとなった。 中田昌宏: また、福本豊や山田久志ら若く力のある選手に「オイ悪魔」という訓辞を語っていた。 山本浩二: 阪急との日本シリーズでは、第1戦3回裏に山田久志から同点適時打、第3戦2回表に佐藤義則から先制ソロ、第4戦9回表に山田から決勝適時打を打ち、日本一に貢献した。 小林繁: 第1戦で日本シリーズ初先発を果たし山田久志と投げ合うが、早々に打込まれ2回で降板、敗戦投手となる。 金城基泰: 『プロ野球ここだけの話』第17回「潜航御礼!サブマリンここだけの話」に於いて、松沼博久(金城と同学年のアンダースロー投手)はアンダースロー三傑として杉浦忠、山田久志と共に金城の名を挙げており、バックスイングと腕の振りの大きさは真似が出来ない程であったと評していたが、一方で山田久志はそれが長所である反面、打者からはボールの握りが完全に見えてしまう弱点にも繋がっていたと指摘した。 野口茂樹: 同年オフには星野監督が辞任し、投手コーチだった山田久志が新監督に就任。 中沢伸二: また監督の上田からは「うちの投手で中沢の頭脳についていけるのは山田(山田久志)くらいだろう」とその頭脳的リードを認められていた。 西本幸雄: 西本の教え子には阪急時代には米田哲也、梶本隆夫、足立光宏、森本潔、長池徳士、福本豊・山田久志・加藤秀司の「花の44年トリオ」、近鉄では鈴木啓示、佐々木恭介、梨田昌孝、羽田耕一、平野光泰、井本隆、栗橋茂、柳田豊などが挙げられる。 御園生崇男: 最高勝率:3回 (1937年秋、1938年春、1947年) ※2シーズン連続は山本由伸に次ぐ歴代2位タイ(他に藤田元司、山田久志、堀内恒夫、北別府学、斉藤和巳、杉内俊哉、青柳晃洋)、9年(10シーズン)のブランク受賞は同賞史上最長。 芹澤裕二: 引退後は中日で二軍バッテリーコーチ(1997年)→一軍バッテリーコーチ(1998年 - 2003年)→ブルペン捕手(2004年)を歴任し、コーチ時代は星野仙一・山田久志ら2人の監督に仕え、1999年のリーグ優勝に貢献。 中嶋聡: 最初に入団した阪急で、山田久志、佐藤義則、今井雄太郎といったベテラン投手陣の薫陶を受けた。 富澤宏哉: 試合はその後、大杉が阪急・山田久志投手から文句なしの本塁打を放つなど、4対0でヤクルトが勝利し初の日本一に輝き、大杉は日本シリーズMVPに輝いた。 三井雅晴: 初奪三振:1974年5月25日、対阪急ブレーブス前期7回戦(阪急西宮球場)、5回裏に山田久志から 山本和生: 第3戦に七番打者、遊撃手として先発出場するが、山田久志の前に2三振に終わる、代打としてシリーズ最後の打者ともなった。 アレックス=オチョア: 登録名を決める際、当時監督だった山田久志が「オチョアにするとおっちょこちょいみたい」と考えたことから「アレックス」となった。 足利豊: 翌1993年のキャンプでは同郷、新日鉄釜石の先輩でアンダースローだった山田久志からシンカーを直伝され、20試合に先発して自身唯一の一軍年間規定投球回数をクリア、西武から4勝を挙げて西武キラーと呼ばれた。 中村武志: 同年オフに山田久志が新監督に就任した中日はドラフト1・2位に捕手を指名。 前田幸長: 一方、前田は山田久志投手コーチと反りが合わず、オフに翌年の中日監督に山田が決定したこと、また契約更改において当初提示されていた年俸から突如下げられたことに不信感を抱き、11月22日には読売ジャイアンツへのFA移籍が発表された。 ジム=ラフィーバー: 阪急とのプレーオフでは10月9日の第3戦(宮城)で山田久志から適時打を記録したほか、ウイニングボールをキャッチ。 岩瀬仁紀: それまで9勝していた為、自ら山田久志投手コーチに、先発を願い出た。 野村克也: この年には中日ドラゴンズで山田久志監督の退任が決まっていたため、大会後の報道では後任監督候補の1人に挙げられていたが、当時の球団社長である西川順之助は、球団外部から「野村氏を監督に」と強く推す声はあったが沙知代を問題視して野村案を斥け、早々に落合博満と谷沢健一に候補を絞り込んでいたと語っている。 足立光宏: 巨人に阻まれ日本一はならなかったが、米田哲也・梶本隆夫・山田久志らとともに阪急黄金時代を支えた。 森繁和: また中日では山田久志以来となる投手出身及び外様の監督である。 平井正史: 試合前に山田久志監督の休養が発表された9月9日の広島東洋カープ戦(しまなみ球場)ではプロ初完封勝利を挙げた。 山口高志: このフォームは体幹も含めた強靱な筋力を必要とし、実際に風呂で山口の体を見た山田久志は「逆三角形の体型。 川崎憲次郎: 監督が山田久志に交代した2002年も二軍で3試合に登板したのみ(0勝2敗・防御率9.00)で、2003年は二軍ウ・リーグで13試合に登板し4勝4敗(防御率5.58)の成績を挙げたが、同年まで3年連続で一軍登板なしに終わった。 星野伸之: 阪急との接点はほとんどなかったが、家に山田久志、福本豊、山口高志のポスターが貼ってあり、兄と一緒に日本シリーズで見た山田や山口のフォームを真似していたという。 |
山田久志の情報まとめ
山田 久志(やまだ ひさし)さんの誕生日は1948年7月29日です。秋田出身の野球選手のようです。
家族、卒業、引退、母親、テレビ、病気、現在に関する情報もありますね。去年の情報もありました。山田久志の現在の年齢は76歳のようです。
山田久志のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 山田 久志(やまだ ひさし、1948年〈昭和23年〉7月29日 - )は、日本の元プロ野球選手(投手、右投右打)・監督・コーチ、野球解説者。秋田県能代市出身、兵庫県西宮市在住。 阪急ブレーブスでは投手として、8度のリーグ優勝、3度の日本シリーズ優勝に貢献。個人ではNPBで合計22個のタイトル(9個)・主要表彰(13個)を獲得している。 現役時代は12年連続開幕投手を務めるなどし、アンダースロー投手としては日本プロ野球最多となる通算284勝を記録した。球界関係者からは史上最高のサブマリン投手と称されることもある。阪急ブレーブスの黄金時代を築き上げた人物の一人である。 また最高勝率をNPB最多タイ記録となる4回獲得、最優秀選手も投手最多タイ記録となる3回受賞、パ・リーグ投手最多タイ記録となるベストナインも5回受賞している。 材木会社勤務の父のもと、5人きょうだい(兄3人、姉1人)の末っ子として生まれる。幼少期から冬場はスキーやスケートをして足腰が鍛えられた。小学6年生の冬に父からグラブを買い与えられたが次の春に父は癌で急逝、長兄と次兄が家族を養った。能代市立能代第二中学校で野球部に入り、内野手としてプレー、「いつも怒られてるし練習量も多い」という理由で投手と捕手はやりたくないと考えていた。3年生の時、三兄が二塁手を務めていた秋田県立能代高等学校が第45回全国高等学校野球選手権大会に秋田県代表として出場、その兄を追う形で同校に進学した。厳しい練習で多くの同期が脱落する中、2年生から試合に出場した。2年生の全国高等学校野球選手権西奥羽大会3回戦(対秋田県立金足農業高等学校)で、同点の9回裏2死満塁の場面に三塁手の自分の前に来たゴロを一塁に悪送球してサヨナラ負けを喫した。数日後に責任を感じて退部を申し出るため、監督の元に赴くと投手への転向を命じられる。転向当初はノーコンで、以前いたサイドスローの先輩を参考にフォームを試行し、右腕の振りが低くなる。山田と同じく一塁手から捕手にコンバートされた大沢勉とバッテリーを組んだ。1966年の秋田大会では準々決勝までわずか自責点1で勝ち抜くが、準決勝で秋田県立秋田高等学校に逆転負けし、西奥羽大会には進出できなかった。結局、これが在学中の最高成績となった。 卒業にあたって、早稲田大学や亜細亜大学など大学からの勧誘もあったが、プロになる一番の近道として、大学進学を勧める両親の反対を押し切って社会人野球の富士製鐵釜石に入社。自身の回想では、捕手の大沢とともに同じ社会人野球チームの入社テストの練習に参加したが、事前の予想に反して大沢にしか合格通知が届かず、野球部監督の尽力で富士製鐵に入ったという。投法をサイドスローからアンダースローに変えた(ただし、本人はインタビューの中で「オーバースローの体勢のまま上半身を斜めにしただけであって、純然たるアンダースローではない」と述べている)。1967年の第38回都市対抗野球大会に出場、1回戦で優勝候補の日本生命を完封し注目を集める。しかし、2回戦では電電東京の土屋紘と投げ合い敗退した。これを含め、都市対抗には3年連続で出場。 1967年のプロ野球ドラフト会議で、西鉄ライオンズから11位で指名を受ける。山田は「舞い上がった」が、「拾ってくれた」富士製鐵をわずか1年でやめることに母が同意せず、入団には至らなかった。 ドラフト史上最高の豊作と言われた1968年のドラフト1位で阪急ブレーブスに指名される。このときの2位指名が加藤秀司、7位指名に盟友の福本豊がおり、豊作と呼ばれたドラフトの中でも阪急は最も成功したチームと言われている(なお、12位で門田博光も指名しているが、門田は入団拒否)。この時点で、山田は練習中に腰を痛めていたため(脊椎分離症。他チームが山田の実力を認めながら指名をためらったのはこのためと言われている)入団をすぐに受託せず、チームに残ってリハビリに励む。腰痛から完治した1969年8月の都市対抗終了後、阪急と正式契約を結び入団。阪急のマネージャーとして山田の獲得を担当した丸尾千年次から「故障を隠して契約金をつり上げる連中が多い中、奇特なヤツ」と言われて、契約金を上積みされたという。 山田が入団した頃の阪急は、ヨネカジコンビと呼ばれた米田哲也、梶本隆夫の他、石井茂雄、足立光宏など一流投手の揃った投手王国で、山田は「俺なんかどうやって入っていったら…」と不安だったという。初年度はリリーフ起用されて0勝1敗の成績で、日本シリーズの出場選手にも漏れた。 2年目の1970年は開幕より主戦投手として起用されいきなり6連敗するが、5月14日の対西鉄ライオンズ戦で7回2/3を無失点に抑えて初勝利を挙げると、5月19日の対東映フライヤーズ戦で初完投・完封を飾るなど主力投手として台頭。シーズンでは二桁の10勝(17敗)を挙げ、防御率も3.19でリーグ8位に入った。6連敗を喫したときには監督の西本幸雄が呼び出して、「お前を勝たせてやりたいんや。でもな、今のままじゃアカン」「お前がどんだけ負けても投げさす。おまえは『こいつのためなら』って周りに愛されるピッチャーになれ」と叱咤し、2軍落ちを覚悟していた山田を奮起させた。 3年目の1971年にはダリル・スペンサーが復帰し、山田の背番号25番はかつてスペンサーが使っていたため、譲る形で17番に変更する。同年は22勝(6敗)を挙げ、防御率2.37で最優秀防御率、勝率.786で最優秀勝率、さらにベストナインのタイトルも獲得。米田哲也・石井茂雄・足立光宏らを押しのけてエースに成長した。当時は速球でグイグイ押す強気な投球が身上で、監督の西本が「投手で一番大切なのはコントロールや」と言っても、「いえ、ストレートに力があればど真ん中でも打たれません」と反論した。このことは、山田が引退して20年以上経っても、西本に「ワシに真っ向から逆らったのはお前だけや」と苦笑されるという。 しかし、その強気な姿勢は時として落とし穴にはまることもあり、同年の日本シリーズでは第3戦で王貞治にサヨナラ3ランホームランを打たれ、手痛い敗北を喫した。この時、山田はマウンド上にしゃがんだまましばらく動けず、西本監督に抱きかかえられるようにしてベンチに引き上げた。山田は後に「天狗の鼻をへし折られた。あのホームランがあったから、その後の自分がある」と述懐している。なお、この試合は山田の母親が球場で初観戦し、チケットを手配して親族一同も呼んでいたが、5万人の観衆の中の、阪急の応援はほんのわずかという状況で息子が目の前でサヨナラ負けを喫したことにショックを受け、その後母は山田がオールスターに選ばれた際に招待しても「息子の打たれる姿は見たくない」と固辞、結局母にとって最初で最後の球場観戦になったという。 1972年は上述の敗北を糧にして20勝を挙げて最多勝に2年連続のベストナインのタイトルを獲得。しかし、この年に膝を痛めたことで球速が落ち始め、翌1973年から1975年まではやや低調な成績に終始する。1973年に最多被本塁打を記録すると、ストレート中心の投球に限界を感じて新しい球種の必要性を考え始める。山田は、同じ下手投げでシンカーを決め球としていた足立光宏にシンカーの投げ方の教えを請うたが、足立は山田にはまだ球速があって変化球に頼るのは早いと考えて断っていた。引退後に足立は「いつの日か、自分に取って代わる存在であることはすぐにわかった。教えたら、こっちはメシの食い上げになる。すぐには教えたくなかった」と山田の力を認めていたことを語っている。山田は足立からシンカーを盗み取ろうと毎日のように研究を重ね、1974年オフにはシンカーもある程度切れが出るようになっていたが、投球スタイルを大きく変える決心は付かなかった。 1975年の阪急は、豪速球で知られた新人の山口高志の活躍で悲願の日本シリーズ優勝を果たしたが、山田は12勝にとどまり、被本塁打36・自責点95はリーグ最多、防御率4.32はリーグ最下位から2番目(最下位は新美敏の5.44)と、満足のいくものではなかった。この年山田は、①自分より速い球を投げる山口の出現、②首脳陣が同じ12勝だった山口を重用する方針(疑心暗鬼のようなもの)、③自らの投球パターンが壁にぶつかっているのでは、との3つのショックを受ける。これにより、納会終了後にユニフォームを持って球団事務所を訪問し、辞意を伝える。山田も本気とは言えなかったが、球団に懸命に慰留されて現役続行を決める。1976年1月に足立光宏は和歌山県那智勝浦町での自主トレーニングに山田を誘い、その場で「俺はこうや」とシンカーの握り方を示したという。 1976年春のキャンプで、肘から先に送り出すように投げる、ボールは滑らせるようにして握るなど、足立からシンカーの投げ方についてヒントを教えられる。このアドバイスについて山田は「最初から教わっていたら『ああ、こんなものか』で終わっていただろう。自分なりに悩んで、やっとわかりかけてきた時期だったため、非常に鮮明だった」と語っている。この年から山田はシンカーを本格的に使い始め26勝(7敗)を挙げ復活、2度目の最多勝・最高勝率に輝く。1977年は16勝、防御率2.28で2度目の最優秀防御率を、1978年も18勝4敗で3度目の最高勝率を獲得するなど、いずれの年も阪急の優勝に大きく貢献し、史上初の3年連続MVP(3年連続MVPを達成しているのは他にイチロー・山本由伸のみ)に輝いた。1979年は21勝(5敗)で、3度目の最多勝を獲得するとともに、日本プロ野球記録となる4度目の最高勝率、2リーグ制以降の記録である5度目のベストナインを獲得した。しかし、同年のプレーオフでは第1戦に先発し、シーズン中でも使わずに隠していたフォークボールを使うも、ボールの握りが相手側の三塁ベンチに読まれて打ち崩されて敗戦投手となり、チームも3連敗で敗れリーグ5連覇を逃している。 1980年と1981年は2年連続で13勝に終わるが、1982年はスライダーで活路を見出して16勝9敗と再び成績を向上させた。同年の4月29日の対ロッテ戦で、アンダースロー投手としては皆川睦雄に次いで200勝を達成。この試合で山田は落合博満に3本塁打を喫している。3本ともシンカーを狙い打たれた ものではなく、3本目はカーブ、この年に200勝を達成した江夏豊は「これこそプロの対決」と感嘆した。1984年のリーグ優勝時はシーズン中に膝に打球を受け、骨折により戦線離脱したために14勝にとどまったが、監督の上田利治の信頼は絶大で、21勝を挙げて防御率と二冠に輝いた今井雄太郎を差し置いて、この年の日本シリーズ第1戦の先発に起用されたが、8回裏に長嶋清幸に逆転2ランを打たれ8回3失点で敗戦投手になった。 1975年から1986年まで、プロ野球記録の12年連続開幕投手を務めており、記録更新のかかった1987年の開幕投手は佐藤義則だった。この年はキャンプ、オープン戦となかなか調子が上がらなかったが、オープン戦で調子が上がらないのは例年のことなので、山田自身は大して気にしていなかったという。しかし、上田監督がマスコミに「今年の山田はいつもと違うなあ」と言っているのを知り、「監督のいいと思うならそのようにしてもらっていいですよ」と話したら、開幕投手に佐藤が抜擢され、「そりゃないだろう」と思ったという。この年は、清原和博相手に通算2000奪三振を達成したものの7勝に終わり、17年続けていた二桁勝利も途絶えた。 翌1988年は開幕からなかなか勝てず、5月にはもうこの年限りの引退を考えていた。最初に伝えたのは、解説者となっていた西本幸雄だった。結局4勝10敗の成績に終わり、現役引退。通算300勝を目指していたが、あと16勝届かなかった。なお、現役最後の試合は10月23日の西宮球場での阪急ブレーブス最後の試合(対ロッテ)で、山田は完投勝利を挙げ(通算284勝目)、阪急ナインに胴上げされた。現役引退と前後して球団の親会社が阪急電鉄からオリックスに変わったことから、背番号17は球団の永久欠番とはならず、しかも、山田の引退からわずか2年後、1990年オフに入団した長谷川滋利に与えられた。山田は「(福本の)7と17は永久欠番にしてほしかったなあ」と語っている。 通算284勝は、アンダースローの投手としてはプロ野球最多勝記録である。一方、日本シリーズでは不思議と相性が悪く、上記の王のサヨナラ3ランなど、通算6勝9敗1セーブと不本意な成績に終わっている。通算最多被本塁打(23)、シリーズ最多タイ自責点を2度(1976年、1978年の12)、シリーズ最多敗戦のタイ記録(1984年の3敗、他には1956年の別所毅彦、1964年の村山実)といった不名誉な記録も残している。ただし、1984年の3敗のうち2敗は完投敗戦で、残る1敗(第7戦)も7回途中まで3失点の内容だった。日本シリーズとは対照的にオールスターゲームには強かった。通算7勝はオールスターゲーム最多記録。また、敗戦投手に一度もなっておらず、勝率10割である。 球速が落ちたりそれまでの変化球が通用しなくなってから新球を模索する投手が多い中、山田は「新しい変化球は試合で使えるようになるのに3年かかる。今の球が通用しなくなってから研究しても遅い」と、それまでのボールが通用するうちに、将来を見越して次の変化球や投球術を研究していたという。山田とともに阪急の黄金時代を支えながら、自らは短命に終わった山口高志は「そこが山田さんと僕の違うところだった」と評している。1989年3月に開催の読売ジャイアンツとのオープン戦(西宮)での引退記念試合は、福本とともに阪急のユニフォームを着用して出場した(ただし、オリックスのコーチとして残留した福本は、引退セレモニーの時にはオリックスのユニフォームに着替えている)。 終生のライバルは門田博光と落合博満。門田は「自分に対してどんな時もストレートだけを投げてきて、山田の決め球でもあるシンカーは球が速すぎてシンカーにならなかった」と賛辞を送っている。門田は1988年のシーズン序盤、山田がKOされた試合の翌朝に「やめる気ちゃうよな」と電話をかけ、すでに覚悟を決めていた山田はそれをはぐらかしたという。一方、落合には読まれていても必ずシンカーを決め球にしていたという。また、ライバルチームのエースであり、ともに長年パ・リーグで活躍した鈴木啓示、東尾修、村田兆治については、「彼らが居なかったら自分がここまで頑張れなかった」と後述している。 引退後はNHK野球解説者・日刊スポーツ野球評論家となる。1989年ドラフト会議で阪神タイガースへ1位入団しながら、他の評論家から「あんなの使い物にならない」と酷評されていた葛西稔を入団当初から「球界を代表するアンダースロー投手になる逸材」と唯一評価し続けていた。 1994年、オリックス・ブルーウェーブの投手コーチに就任。実績もあり理論的に指導できるコーチとして、選手からも信頼があった。山口高志と共に平井正史を育成し、平井は1995年に15勝5敗27セーブで最優秀救援投手、最高勝率に輝き、新人王を獲得する急成長をみせた 。後に山田は、巨人移籍後低迷していた野村貴仁について「あれは使うほうの問題」と指摘していた。野田浩司は「投手心理、プライドを尊重してくださる人でした。KOされた投手を決して悪者扱いしないコーチだった。今でも、どこのチームでもKOされた投手は最後まで試合を見ているでしょ。テレビでしばしば、その表情をアップで映し出す。それを山田さんは絶対にさせなかった。」と述べている。投手起用をめぐって監督の仰木彬と対立し、1996年の日本シリーズ制覇に貢献した直後に退団。1997年からはNHK解説者・日刊スポーツ評論家として復帰する。 1999年、中日ドラゴンズの投手コーチに就任。この前に巨人監督の長嶋茂雄からも投手コーチとしての誘いを受け、妻の病気を理由に断っていたが、中日監督の星野仙一より直に強く説得され、「星野監督を男にしたい」と引き受けた。中日でも投手コーチとしては手腕を発揮、岩瀬仁紀にキャンプ中つきっきりでフォームを矯正し、リーグを代表する中継ぎエースに育て上げた。1999年中日でも優勝を果たし、優勝請負人と言われた。2001年にはヘッドコーチを兼任。 2001年オフに中日監督に就任。監督1年目の02年は5位から3位に順位を上げるが、優勝した巨人には15.5ゲーム差をつけられた。同年は朝倉健太を先発に起用し、初勝利以降勝利を重ねて、11勝を挙げた。 星野の後を引き継いで監督に就任が決まったのは、星野の意向だと言われている。しかし、直後に星野が阪神タイガースの監督に就任。二軍監督の島野育夫も引き抜かれたため、球団内のバックアップを失うこととなった。山田は「あの時、島野さんを引き抜かれたのが一番痛かった」と語っている。 2003年9月9日、成績不振のため遠征先の広島で解任となった。この時点で順位こそ5位だったが59勝61敗で勝率はほぼ5割をキープしており、実際はオーナーをはじめ本社サイドの心証を悪くしたことによる解任であった。(残り試合は、ヘッド兼打撃コーチの佐々木恭介が監督代行を務める。20試合で14勝5敗1分とチーム成績は上昇し、最終的に2位になった。)阪神に独走を許すペナントレースになったものの、3年契約の2年目で、球宴休み中にオーナーの白井文吾から続投が「公表」されていて、なおかつ当人が側近に漏らした本音で、直近まで秋季キャンプや翌年のコーチングスタッフの話を球団としていて、一部の球界関係者には、秋季キャンプの臨時コーチや翌年の入閣の打診までしていた上での急な決定だった。これは、中日でのプレー経験のない完全な「外様」であり、選手や首脳陣からの求心力の低下、OBとの確執が激しかったという事情を本社、球団いずれも掴んでいたことがあった。決定的となったのは5連敗目を喫した9月7日の対ヤクルト26回戦(ナゴヤドーム)でのハーフスイングを巡る抗議による退場処分だった。抗議をそのプレー直後ではなく攻守交替時に行ったことを問題視され、連敗と間の悪い退場劇が解任への格好の引き金となってしまった。なお当初球団からは山田から休養を申し出た形にするよう要請されたがこれに山田が「それでは自分から逃げたか投げ出したことになる。そんなのは受け入れられない」と激怒、激論の末に「解任」に決まったという。また山田はこの決定後に遠征に帯同している選手・スタッフに解任を報告し挨拶を済ませチームを離れて一人新幹線で帰名したが、その車内で自身の解任第一報を目にすることになった(通路上の電光掲示板に「中日、山田久志監督を解任。」と流れたという)と述懐している。 監督時代にはオリックス時代の教え子であり、故障で不振の平井正史を獲得し中継ぎの一人として復活させたこと、強肩だが内野守備に難がありポジションが固定されなかった福留孝介を外野にコンバートしたこと、荒木雅博と井端弘和のアライバコンビを辛抱強く使い続けたこと、FAで谷繁元信を獲得して正捕手を強化したことなど、後の中日躍進の基礎を築いた人物でもある。谷繁は「山田さんは僕のことを信頼してくれたので、すごくやりやすかった。その気持ちに応えなければいけないという思いが強かったですね。山田さんの時代は優勝はありませんでしたが、最終順位は3位と2位。にもかかわらず、2年目の8月に突然解任された。何が起こったのか理解できませんでした。」と述べている。 打撃投手の平沼定晴は「山田久志さんは、投手を見る眼が凄い。ウチのレジェンド投手は、ほとんど山田さん経由で大成してますね。」と述べている。 活躍した選手を称賛する一方で、期待を裏切ると容赦なく糾弾したことから、その姿勢を「恐怖政治」とも呼ばれた。コーチ時代には岩瀬や川上憲伸を手塩にかけて育て上げた反面、武田一浩や前田幸長とはソリが合わず、正津英志や遠藤政隆も打ち込まれると山田からは無視されていたという。前田は山田の監督昇格が決まった2001年オフにFA宣言し、武田は自由契約で両者とも読売ジャイアンツに移籍している。山﨑武司とも確執があり、2001年オフにFA資格を取得し横浜ベイスターズから誘いをもらってその気になっていたところ、山田から「一緒に戦ってほしい」と説得されて残留したものの、一軍に上がってチャンスで代打で打てず、その後山田が「このチームを奈落の底に落とす選手がいる」と発言。その発言を新聞で見た山崎は激怒。それ以降、山崎は山田とはひと言も口を聞かず、目も合わせないようにしていたという。エディ・ギャラードとも対立し、ギャラードは2003年シーズン途中で横浜ベイスターズへ移籍した。 2004年からCBCテレビ・ラジオの野球解説者を務めるほか、日刊スポーツ評論家に復帰。2005年からはブレーブス・ブルーウェーブOB会会長を務めている。2006年に野球殿堂入り。12月に行われた野球殿堂入りパーティーにはイチロー、田口壮がスペシャルゲストとして出席した。2007年に山田の出生地・能代市は市営能代球場の名称を、山田の業績をたたえて「山田久志サブマリンスタジアム」(愛称)と改名した。9月29日には山田夫妻を招いて、命名式が行われた。愛称の制定に際し、山田から現役時代のユニフォームやグラブ、写真パネルなど計131点が贈呈され、球場内に設けられる展示ブースで公開されている。オフシーズンに開催されているプロ野球マスターズリーグの大阪ロマンズに所属し、短いイニングながらもマウンドに立っていた。 2009年、ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の投手コーチに就任。投手選考と投手起用については監督の原辰徳からほぼ全権が委任されていた。WBCの投手の投球制限規定に悩まされたが、本来は先発投手であるダルビッシュ有を抑えに起用するなど、思い切った投手起用と継投策を駆使し、2大会連続世界一に大きく貢献した。また、山田が週刊ベースボールに記した手記によれば、原監督からは投手陣だけでなく、イチローとの橋渡し役も頼まれていた。 2016年2月には、阪急の後継球団オリックス・バファローズの春季キャンプで、福本と共に臨時コーチを務めた。 1992年および2015年から沢村栄治賞選考委員を務めているほか、TBSテレビの「サンデーモーニング」の『週刊ご意見番』に不定期に出演している。 福本豊とは同期入団であり、若い頃は仲が良かった。しかし山田が先発したある試合で、福本がセンターフライを落球。それに対して山田はあからさまに怒りを表し、イニング終了後に謝罪に来た福本を無視したことがある。引退後、福本の記念祝賀会に招待されながらも欠席し、星野仙一に批判されている。現在は、ブレーブス・ブルーウェーブOB会会長と副会長という間柄である。2011年5月8日に行われたオリックス・バファローズのイベントでは福本・加藤英司らとともにトークショーを行い、現役時代の様々なエピソードを紹介した。また、同時期に出版されたムック本では福本との対談が掲載されている。 中日監督辞任後はCBCの解説者として活動しているが、兵庫県在住のため他の解説者と比べて出演機会が少ない(月に1カード程度。もしくは関西地方からの自社制作の試合に出演)。ただし、ブレーブス・ブルーウェーブOB会会長ということもあり、セ・パ交流戦開始後は中日対オリックス・バファローズ戦では最低1試合(オリックス主催試合をCBCが自主制作した時は中日・オリックスそれぞれの主催試合で1試合ずつ)は解説を担当した年もあった(スケジュールの都合によっては高代延博など他の解説者が担当した年度もある)。2011年からは、地元のMBSラジオ(CBCラジオと同系列)で放送されていた生ワイド番組『ノムラでノムラだ♪ EXトラ!』(2015年3月終了)の火曜日に、ゲストで定期的に出演していた。 CBCテレビの中継ではトップ解説者の扱いであり、全国ネットとなる中日VS巨人の地上波テレビ中継についてはCBCサイドから1名、TBSサイドから1名(主に愛知県出身の槙原寛己)の2名体制(2016年はフリーの山本昌も加えて3名)での中継となるが、CBCサイドで出演するのは山田の担当が多い。ただし、山田がラジオの解説に回ったり、スケジュールの都合でテレビ・ラジオのいずれも出演できない場合などは立浪和義(フリー)や牛島和彦(CBCテレビ/ラジオ・TBSラジオ・BS-TBS・TBSチャンネル)のどちらかが担当する場合もある。中日が日本シリーズに進んだ場合のCBC制作全国ネットの中継でも、山田加入以降はCBC解説者では山田の担当が多い。なお、巨人戦がローカル中継となる場合は山田以外のCBC解説者が出演することもある。 WBCでの経験や近年における沢村賞受賞者がパ・リーグの選手に偏っていることから、セ・リーグでの極端な投手分業制に対しては懐疑的な考えを持っている。 昭和50年代(1975年から1984年)にあげた勝利数が163で、2位の鈴木啓示の155を抑えて1位である。また、1970年代(昭和45年から昭和54年)にあげた勝利数は171であるが、鈴木啓示が174を挙げたため、2位である。 初勝利こそ8回二死まで投げながらベテラン・足立光宏のリリーフを仰いだものの、100勝・150勝・200勝・250勝・最後の勝利(登板日は阪急最後の公式戦でもある)でもある284勝など初勝利以外の節目の勝利は、すべて完投勝利である。 1971年第3戦で痛恨のサヨナラ本塁打を打たれた王とは、日本シリーズでは通算でも対戦打率.320(25打数8安打)・4本塁打と分の悪い対戦成績だが、オールスターでは逆に7打数0安打と完璧に抑え込んでいる。 自身が得意とした変化球のシンカーについて、「私のシンカーが本当のシンカー」と自負している。同じくシンカー使いの名手と言われる高津臣吾や潮崎哲也のシンカーについては、「シンカーというよりもチェンジアップ」と述べている。 1975年9月2日の日本ハム戦(京都市西京極総合運動公園野球場)で9回裏1死の場面から三好幸雄の代打として出場した事がある。得点圏に走者のいる場面だったが、野手を使い切っていたため打撃成績のよかった山田を起用した。結果は投手への内野安打となり、起用に応えた。 各年度の太字はリーグ最高 329打数67安打 本塁打1本 31打点 打率.204 最多勝利:3回(1972年、1976年、1979年) 最優秀防御率:2回(1971年、1977年) 最高勝率:4回(1971年、1976年、1978年、1979年) 最優秀選手:3回(1976年 - 1978年) ※投手最多タイ記録(他は山本由伸)、3年連続はイチロー、山本由伸と並ぶ最長タイ記録 ベストナイン:5回(1971年、1972年、1976年、1977年、1979年)※歴代投手2位タイ記録(他は稲尾和久、斎藤雅樹)、パ・リーグ投手最多タイ記録(他は稲尾和久) ダイヤモンドグラブ賞:5回(1977年 - 1979年、1981年、1982年) 月間MVP:3回(1979年7月、1981年8月、1984年5月) パ・リーグプレーオフMVP:1回(1977年) 日本シリーズMVP:1回(1977年) 日本シリーズ敢闘賞:1回(1971年) 日本シリーズ最優秀投手賞:1回(1975年) 野球殿堂競技者表彰(2006年) 報知プロスポーツ大賞:2回(1976年、1977年) 兵庫県スポーツ優秀選手特別賞:1回(1988年)※17年連続2桁勝利と3年連続MVPを称えて 秋田県県民栄誉章(1989年) 初登板:1969年8月22日、対南海ホークス19回戦(阪急西宮球場)、8回表に4番手で救援登板・完了、2回無失点 初奪三振:同上、8回表に渡辺泰輔から 初先発:1969年10月20日、対近鉄バファローズ26回戦(日生球場)、2回0/3を4失点で敗戦投手 初勝利・初先発勝利:1970年5月14日、対西鉄ライオンズ6回戦(阪急西宮球場)、7回2/3を無失点 初完投勝利・初完封勝利:1970年5月19日、対東映フライヤーズ5回戦(後楽園球場) 初セーブ:1974年4月9日、対日本ハムファイターズ前期5回戦(後楽園球場)、7回裏に3番手で救援登板・完了、3回無失点 初本塁打:1972年6月28日、対東映フライヤーズ12回戦(阪急西宮球場)、宇田東植から(通算で唯一) 100勝:1976年6月8日、対太平洋クラブライオンズ前期9回戦(平和台球場)、8回1失点完投勝利(雨天コールド) ※史上67人目 1000奪三振:1977年6月19日、対ロッテオリオンズ前期12回戦(明治神宮野球場)、5回裏に新井昌則から ※史上53人目 150勝:1978年9月23日、対近鉄バファローズ後期13回戦(藤井寺球場)、9回2失点完投勝利 ※史上31人目 1500奪三振:1981年8月26日、対西武ライオンズ後期7回戦(西武ライオンズ球場)、1回裏に山崎裕之から ※史上28人目 200勝:1982年4月29日 対ロッテオリオンズ前期6回戦(阪急西宮球場)、9回6失点(自責点4)完投勝利 ※史上17人目 500試合登板:1982年8月14日、対西武ライオンズ後期8回戦(西武ライオンズ球場)、9回1失点完投勝利 ※史上48人目 250勝:1985年7月10日、対ロッテオリオンズ14回戦(川崎球場)、9回2失点完投勝利 ※史上9人目 600試合登板:1986年6月10日、対西武ライオンズ8回戦(平和台球場)、9回3失点(自責点2)完投で敗戦投手 ※史上25人目 2000奪三振:1987年8月24日、対西武ライオンズ18回戦(阪急西宮球場)、4回表に清原和博から ※史上12人目 12年連続開幕投手(1975年 - 1986年) ※日本プロ野球記録 シーズン42被本塁打(1985年) ※パ・リーグタイ記録 通算9敗(シリーズ記録) 通算122被安打(シリーズ記録) 通算23被本塁打(シリーズ記録) シリーズ3敗(1984年、シリーズタイ記録) シリーズ6被本塁打(1978年、シリーズ記録) シリーズ12自責点(1976年、1978年、シリーズタイ記録) 1試合169投球数(1978年第1戦、9イニング超を除き最多) 1試合14被安打(1978年第5戦、シリーズ記録) 出場:13回(1971年 - 1972年、1974年 - 1979年、1981年 - 1982年、1985年 - 1987年)
通算7勝(オールスターゲーム記録) 25(1969年 - 1970年) 17(1971年 - 1988年) 67(1994年) 71(1995年 - 1996年、2002年 - 2003年) 75(1999年 - 2001年) 『300勝に賭けるサブマリン』(ベースボール・マガジン社、1988年7月、ISBN 9784583026909) 『たった一人のかけ引き:さみしい男のマウンド30の禁句』(青春出版社、1989年3月、ISBN 9784413014915) 『プロ野球 勝負強さの育て方』(PHP研究所、1998年3月、ISBN 9784569571157) 『世界一の方程式』(ベースボール・マガジン社、2009年7月、ISBN 9784583101798) 『120キロの快速球』(永谷脩著、文藝春秋、1989年7月、ISBN 4163434208) 『山田久志:華やかに、赤いサブマリン』(江本正記原作、小島利明作画、ぎょうせい(名球会comics 33)、1992年3月、ISBN 4324026629) 『山田久志 投げる』(矢島裕紀彦著、小学館文庫、1998年5月、ISBN 4094161325) 『山田久志優しさの配球、強さの制球:21世紀型人材活用』(中村克洋著、海拓舎、1999年12月、ISBN 4907727046) 侍プロ野球(TBS) サンデードラゴンズ(中部日本放送) CBCドラゴンズナイター(CBCラジオ) NHKプロ野球 NHKニュース7 - スポーツコーナーの野球解説 プロ野球ニュース(フジテレビ系列) - 1987年のオフシーズン企画として放送された「西本幸雄の水戸黄門」(関西テレビ製作)にて佐々木助三郎役で出演。 サタデースポーツ(NHK総合) - プロ野球解説 サンデースポーツ(NHK総合) - プロ野球解説 サンデーモーニング(TBSテレビ) - コーナー「スポーツご意見番」の助っ人ご意見番(2010年:11月7日、2011年:5月8日・11月6日、2012年:7月22日・11月11日、2013年:3月17日・8月25日) ノムラでノムラだ♪ EXトラ!(MBSラジオ) - 2011年から火曜日の放送に定期的にゲストで出演 若狭敬一のスポ音(CBCラジオ) - コーナー「山田久志の栄光に近道なし」で出演 久野誠のドラゴンズワールド(2009年終了) 朝生ワイド す・またん!(読売テレビ) アサヒスーパードライ(1997年) 自重堂(2000年頃、2度目のNHK解説者時代に出演) ああ王者(1976年、東宝レコード) - 山口高志、加藤秀司、大熊忠義と合唱。 ※1999年バップから発売のアルバムCD『野球小僧 懐かしの野球ソングコレクション』にも第10トラックに収録。 ^ 最多勝利3個、最優秀防御率2個、最高勝率4個 ^ 最優秀選手3個、ベストナイン5個、ゴールデングラブ賞5個 ^ 大沢が進んだのは日本鉱業日立である。 ^ 足立が断った時期について、Sports Graphic Number(編)(1989)は1974年以前、読売新聞阪神支局 (2019)は足立の回想により1975年夏の選手慰労会とする。 ^ 皆川の投球フォームについてはサイドスローと言われることもある。なお、山田が通算勝利数で皆川(221勝)を上回ったのは1983年である。 ^ 落合にとって敗戦濃厚の9回二死の3打席目は、シンカーを空振りし故意に三振するつもりだったが、予想に反してカーブがきたため、思わずバットを出したところ本塁打になった。 ^ トム・シーバーが持つMLB記録とも並んでいた。 ^ クロスネットのため、競合局の東海ラジオ放送とも系列関係がある。 ^ 山田 久志 野球殿堂博物館 ^ 読売新聞阪神支局 2019, pp. 372–373. ^ 読売新聞阪神支局 2019, pp. 374–375. ^ 読売新聞阪神支局 2019, pp. 376–377. ^ 読売新聞阪神支局 2019, p. 378. ^ 『魔球伝説-プロ野球不滅のヒーローたち』58頁 ^ 『魔球伝説-プロ野球不滅のヒーローたち』59頁 ^ 読売新聞阪神支局 2019, p. 379. ^ 日本野球連盟『都市対抗野球大会60年史』毎日新聞社、1990年。 ^ “過去のドラフト 第3回(1967年) - ドラフト会議 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2023年2月7日閲覧。 ^ 読売新聞阪神支局 2019, p. 380. ^ 『阪急ブレーブス黄金の歴史 永久保存版―1936-1988 よみがえる勇者の記憶』ベースボール・マガジン社〈B・B MOOK 750 スポーツシリーズ NO. 621〉、2011年5月。ISBN 9784583617756。 福本との対談より。 ^ 読売新聞阪神支局 2019, pp. 381–383. ^ 読売新聞阪神支局 2019, p. 384. ^ 読売新聞阪神支局 2019, p. 385. ^ “ピッチャーの親は身体に悪い?大投手が母親にしてきたこと”. 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Sportiva. 集英社 (2010年9月13日). 2010年9月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年11月16日閲覧。 ^ 「1980-2005 日本野球の25人 ベストゲームを語る。第17回 潜航御礼!サブマリンここだけの話」『Sports Graphic Number 』文藝春秋、2005年4月21日発売号、37頁。 ^ 週刊ベースボール別冊 よみがえる1970年代のプロ野球 [Part.2] 1975年編 赤ヘルカープ悲願のV ベースボール・マガジン社.2022年.P48 ^ “ヤクルト・村上宗隆 世界の王、イチローも超える“連続MVP”への期待” (2022年7月25日). 2022年9月30日閲覧。 ^ “スポーツ優秀選手特別賞 受賞者一覧” (PDF). 「誉」賞・スポーツ優秀選手特別賞. 兵庫県. 2017年12月4日閲覧。 Sports Graphic Number編『魔球伝説-プロ野球不滅のヒーローたち』文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1989年 読売新聞阪神支局『阪急ブレーブス 勇者たちの記憶』中央公論新社、2019年9月10日。ISBN 978-4-12-005232-3。 秋田県出身の人物一覧 オリックス・バファローズの選手一覧 山田久志サブマリンスタジアム(能代球場) 個人年度別成績 山田久志 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 山田久志 - 野球殿堂 表 話 編 歴 83 原辰徳 72 伊東勤(総合) 71 山田久志(投手) 92 与田剛(投手) 81 篠塚和典(打撃) 63 高代延博(内野守備走塁) 73 緒方耕一(外野守備走塁) 11 ダルビッシュ有 14 馬原孝浩 15 田中将大 16 涌井秀章 18 松坂大輔 19 岩田稔 20 岩隈久志 22 藤川球児 26 内海哲也 28 小松聖 31 渡辺俊介 39 山口鉄也 47 杉内俊哉 2 城島健司 10 阿部慎之助 29 石原慶幸 5 栗原健太(追加招集) 6 中島裕之 7 片岡易之 8 岩村明憲 9 小笠原道大 25 村田修一(途中離脱) 52 川﨑宗則 1 福留孝介 23 青木宣親 24 内川聖一 35 亀井義行 41 稲葉篤紀 51 イチロー 表 話 編 歴 池田豊 1936 桝嘉一 1937 根本行都 1938 - 1939 小西得郎 1939 - 1941 本田親喜 1941 - 1942 桝嘉一 1943 三宅大輔 1944 竹内愛一 1946 杉浦清 1946 - 1948 天知俊一 1949 - 1951 坪内道典 1952 - 1953 天知俊一 1954 野口明 1955 - 1956 天知俊一 1957 - 1958 杉下茂 1959 - 1960 濃人貴実 1961 - 1962 杉浦清 1963 - 1964 西沢道夫 1964 - 1967 杉下茂 1968 水原茂 1969 - 1971 与那嶺要 1972 - 1977 中利夫 1978 - 1980 近藤貞雄 1981 - 1983 山内一弘 1984 - 1986 星野仙一 1987 - 1991 高木守道 1992 - 1995 星野仙一 1996 - 2001 山田久志 2002 - 2003 落合博満 2004 - 2011 髙木守道 2012 - 2013 谷繁元信 2014 - 2016 森繁和 2017 - 2018 与田剛 2019 - 2021 立浪和義 2022 - 2024 井上一樹 2025 - 現在 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 表 話 編 歴 金田正一 稲尾和久 小山正明 米田哲也 梶本隆夫 皆川睦雄 村山実 鈴木啓示 堀内恒夫 山田久志 江夏豊 平松政次 東尾修 村田兆治 北別府学 佐々木主浩 高津臣吾 工藤公康 野茂英雄 山本昌広 岩瀬仁紀 黒田博樹 上原浩治 藤川球児 平野佳寿 山内一弘 榎本喜八 野村克也 長嶋茂雄 広瀬叔功 張本勲 王貞治 江藤慎一 土井正博 高木守道 松原誠 柴田勲 大杉勝男 藤田平 衣笠祥雄 福本豊 山崎裕之 山本浩二 有藤通世 若松勉 谷沢健一 加藤秀司 門田博光 大島康徳 新井宏昌 秋山幸二 駒田徳広 立浪和義 鈴木一朗(イチロー) 清原和博 古田敦也 野村謙二郎 石井琢朗 松井秀喜 田中幸雄 前田智徳 金本知憲 松井稼頭央 小笠原道大 稲葉篤紀 宮本慎也 小久保裕紀 アレックス・ラミレス 中村紀洋 谷繁元信 井口資仁 和田一浩 新井貴浩 福留孝介 荒木雅博 青木宣親 阿部慎之助 鳥谷敬 内川聖一 福浦和也 坂本勇人 栗山巧 大島洋平 表 話 編 歴 1950 別当薫 1951 南村不可止 1952 別所毅彦 1953 川上哲治 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 豊田泰光 1957 大下弘 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 近藤昭仁 1961 宮本敏雄 1962 土橋正幸, 種茂雅之 1963 長嶋茂雄 1964 J.スタンカ 1965 長嶋茂雄 1966 柴田勲 1967 森昌彦 1968 高田繁 1969 長嶋茂雄 1970 長嶋茂雄 1971 末次民夫 1972 堀内恒夫 1973 堀内恒夫 1974 弘田澄男 1975 山口高志 1976 福本豊 1977 山田久志 1978 大杉勝男 1979 高橋慶彦 1980 J.ライトル 1981 西本聖 1982 東尾修 1983 大田卓司 1984 長嶋清幸 1985 R.バース 1986 工藤公康 1987 工藤公康 1988 石毛宏典 1989 駒田徳広 1990 O.デストラーデ 1991 秋山幸二 1992 石井丈裕 1993 川崎憲次郎 1994 槙原寛己 1995 T.オマリー 1996 T.ニール 1997 古田敦也 1998 鈴木尚典 1999 秋山幸二 2000 松井秀喜 2001 古田敦也 2002 二岡智宏 2003 杉内俊哉 2004 石井貴 2005 今江敏晃 2006 稲葉篤紀 2007 中村紀洋 2008 岸孝之 2009 阿部慎之助 2010 今江敏晃 2011 小久保裕紀 2012 内海哲也 2013 美馬学 2014 内川聖一 2015 李大浩 2016 B.レアード 2017 D.サファテ 2018 甲斐拓也 2019 Y.グラシアル 2020 栗原陵矢 2021 中村悠平 2022 杉本裕太郎 2023 近本光司 2024 桑原将志 表 話 編 歴 1953 簑原宏 1954 大下弘 1955 戸川一郎 1956 稲尾和久 1957 宮本敏雄 1958 藤田元司 1959 土屋正孝 1960 田宮謙次郎 1961 J.スタンカ 1962 吉田義男 1963 稲尾和久 1964 山内一弘 1965 森下整鎮 1966 渡辺泰輔 1967 足立光宏 1968 長池徳二 1969 長池徳二 1970 井石礼司 1971 山田久志 1972 足立光宏 1973 野村克也 1974 高木守道 1975 山本浩二 1976 柴田勲 1977 河埜和正 1978 足立光宏 1979 井本隆 1980 小川亨 1981 井上弘昭 1982 上川誠二 1983 西本聖 1984 山沖之彦 1985 石毛宏典 1986 達川光男 1987 篠塚利夫 1988 宇野勝 1989 新井宏昌 1990 岡崎郁 1991 川口和久 1992 岡林洋一 1993 清原和博 1994 清原和博 1995 小林宏 1996 仁志敏久 1997 松井稼頭央 1998 大塚光二 1999 川上憲伸 2000 城島健司 2001 T.ローズ 2002 A.カブレラ 2003 金本知憲 2004 井上一樹 2005 矢野輝弘 2006 川上憲伸 2007 ダルビッシュ有 2008 A.ラミレス 2009 髙橋信二 2010 和田一浩 2011 吉見一起 2012 稲葉篤紀 2013 長野久義 2014 R.メッセンジャー 2015 山田哲人 2016 B.エルドレッド 2017 宮﨑敏郎 2018 鈴木誠也 2019 亀井善行 2020 戸郷翔征 2021 山本由伸 2022 J.オスナ 2023 紅林弘太郎 2024 今宮健太 表 話 編 歴 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 稲尾和久 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 秋山登 1961 堀本律雄 1962 安藤元博 1963 高橋明 1964 J.スタンカ 1965 宮田征典 1966 城之内邦雄 1967 城之内邦雄 1968 金田正一 1969 高橋一三 1970 堀内恒夫 1971 堀内恒夫 1972 堀内恒夫 1973 堀内恒夫 1974 村田兆治 1975 山田久志 1976 足立光宏 1977 足立光宏 1978 松岡弘 1979 山根和夫 表 話 編 歴 1950 別当薫 1951 山本一人 1952 柚木進 1953 岡本伊三美 1954 大下弘 1955 飯田徳治 1956 中西太 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 山内和弘 1961 野村克也 1962 張本勲 1963 野村克也 1964 J.スタンカ 1965 野村克也 1966 野村克也 1967 足立光宏 1968 米田哲也 1969 長池徳二 1970 木樽正明 1971 長池徳二 1972 福本豊 1973 野村克也 1974 金田留広 1975 加藤秀司 1976 山田久志 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 C.マニエル 1980 木田勇 1981 江夏豊 1982 落合博満 1983 東尾修 1984 ブーマー 1985 落合博満 1986 石毛宏典 1987 東尾修 1988 門田博光 1989 R.ブライアント 1990 野茂英雄 1991 郭泰源 1992 石井丈裕 1993 工藤公康 1994 イチロー 1995 イチロー 1996 イチロー 1997 西口文也 1998 松井稼頭央 1999 工藤公康 2000 松中信彦 2001 T.ローズ 2002 A.カブレラ 2003 城島健司 2004 松中信彦 2005 杉内俊哉 2006 小笠原道大 2007 ダルビッシュ有 2008 岩隈久志 2009 ダルビッシュ有 2010 和田毅 2011 内川聖一 2012 吉川光夫 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 柳田悠岐 2016 大谷翔平 2017 D.サファテ 2018 山川穂高 2019 森友哉 2020 柳田悠岐 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 表 話 編 歴 1950 荒巻淳 1951 江藤正 1952 野口正明 1953 川崎徳次 1954 宅和本司, 田中文雄 1955 宅和本司 1956 三浦方義 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 小野正一 1961 稲尾和久 1962 久保征弘 1963 稲尾和久 1964 小山正明 1965 尾崎行雄 1966 米田哲也 1967 池永正明 1968 皆川睦男 1969 鈴木啓示 1970 成田文男 1971 木樽正明 1972 山田久志, 金田留広 1973 成田文男 1974 金田留広 1975 東尾修 1976 山田久志 1977 鈴木啓示 1978 鈴木啓示 1979 山田久志 1980 木田勇 1981 今井雄太郎, 村田兆治 1982 工藤幹夫 1983 東尾修, 山内和宏 1984 今井雄太郎 1985 佐藤義則 1986 渡辺久信 1987 山沖之彦 1988 渡辺久信, 西崎幸広, 松浦宏明 1989 阿波野秀幸 1990 渡辺久信, 野茂英雄 1991 野茂英雄 1992 野茂英雄 1993 野田浩司, 野茂英雄 1994 伊良部秀輝 1995 K.グロス 1996 K.グロス 1997 西口文也, 小池秀郎 1998 西口文也, 武田一浩, 黒木知宏 1999 松坂大輔 2000 松坂大輔 2001 松坂大輔 2002 J.パウエル 2003 斉藤和巳 2004 岩隈久志 2005 杉内俊哉 2006 斉藤和巳 2007 涌井秀章 2008 岩隈久志 2009 涌井秀章 2010 和田毅, 金子千尋 2011 D.ホールトン, 田中将大 2012 攝津正 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 大谷翔平, 涌井秀章 2016 和田毅 2017 東浜巨, 菊池雄星 2018 多和田真三郎 2019 有原航平 2020 千賀滉大, 石川柊太, 涌井秀章 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 有原航平、伊藤大海 表 話 編 歴 1950 荒巻淳 1951 柚木進 1952 柚木進 1953 川崎徳次 1954 宅和本司 1955 中川隆 1956 稲尾和久 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 小野正一 1961 稲尾和久 1962 久保田治 1963 久保征弘 1964 妻島芳郎 1965 三浦清弘 1966 稲尾和久 1967 足立光宏 1968 皆川睦男 1969 木樽正明 1970 佐藤道郎 1971 山田久志 1972 清俊彦 1973 米田哲也 1974 佐藤道郎 1975 村田兆治 1976 村田兆治 1977 山田久志 1978 鈴木啓示 1979 山口哲治 1980 木田勇 1981 岡部憲章 1982 高橋里志 1983 東尾修 1984 今井雄太郎 1985 工藤公康 1986 佐藤義則 1987 工藤公康 1988 河野博文 1989 村田兆治 1990 野茂英雄 1991 渡辺智男 1992 赤堀元之 1993 工藤公康 1994 新谷博 1995 伊良部秀輝 1996 伊良部秀輝 1997 小宮山悟 1998 金村暁 1999 工藤公康 2000 戎信行 2001 N.ミンチー 2002 金田政彦 2003 斉藤和巳, 松坂大輔 2004 松坂大輔 2005 杉内俊哉 2006 斉藤和巳 2007 成瀬善久 2008 岩隈久志 2009 ダルビッシュ有 2010 ダルビッシュ有 2011 田中将大 2012 吉川光夫 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 大谷翔平 2016 石川歩 2017 菊池雄星 2018 岸孝之 2019 山本由伸 2020 千賀滉大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 L.モイネロ 表 話 編 歴 1950 野村武史 1951 中谷信夫 1952 柚木進 1953 大神武俊 1954 西村貞朗 1955 中村大成 1956 植村義信 1957 稲尾和久 1958 秋本祐作 1959 杉浦忠 1960 小野正一 1961 稲尾和久 1962 皆川睦男 1963 田中勉, 森中千香良 1964 J.スタンカ 1965 林俊彦 1966 皆川睦男 1967 石井茂雄 1968 村上雅則 1969 清俊彦 1970 佐々木宏一郎 1971 山田久志 1972 佐藤道郎 1973 八木沢荘六 1974 竹村一義 1975 鈴木啓示, 野村収 1976 山田久志 1977 稲葉光雄 1978 山田久志 1979 山田久志 1980 木田勇 1981 間柴茂有 1982 工藤幹夫 1983 高橋直樹 1984 石川賢 1985 石本貴昭 1986 渡辺久信 1987 工藤公康 1988 郭泰源 1989 星野伸之 1990 野茂英雄 1991 工藤公康 1992 石井丈裕 1993 工藤公康 1994 郭泰源 1995 平井正史 1996 星野伸之 1997 西口文也 1998 黒木知宏 1999 篠原貴行 2000 小野晋吾 2001 田之上慶三郎 2002 J.パウエル 2003 斉藤和巳 2004 岩隈久志 2005 斉藤和巳 2006 斉藤和巳 2007 成瀬善久 2008 岩隈久志 2009 ダルビッシュ有, 杉内俊哉 2010 杉内俊哉 2011 田中将大 2012 攝津正 2013 田中将大 2014 岸孝之 2015 大谷翔平 2016 和田毅 2017 千賀滉大 2018 M.ボルシンガー 2019 山岡泰輔 2020 石川柊太 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 伊藤大海 表 話 編 歴 投 山田久志 捕 野村克也 一 大杉勝男 二 山崎裕之 三 有藤通世 遊 阪本敏三 外 長池徳二 / G.アルトマン / 門田博光 表 話 編 歴 投 山田久志 捕 野村克也 一 大杉勝男 二 基満男 三 有藤通世 遊 大橋穣 外 長池徳二 / 張本勲 / 福本豊 表 話 編 歴 投 山田久志 捕 野村克也 一 加藤秀司 二 吉岡悟 三 藤原満 遊 大橋穣 外 弘田澄男 / 門田博光 / 福本豊 指 大田卓司 表 話 編 歴 投 山田久志 捕 加藤俊夫 一 加藤秀司 二 B.マルカーノ 三 有藤道世 遊 石渡茂 外 門田博光 / 福本豊 / L.リー 指 高井保弘 表 話 編 歴 投 山田久志 捕 梨田昌崇 一 加藤英司 二 B.マルカーノ 三 島谷金二 遊 石渡茂 外 福本豊 / 新井宏昌 / 栗橋茂 指 C.マニエル 表 話 編 歴 1972 足立光宏 1973 成田文男 1974 足立光宏 1975 足立光宏 1976 足立光宏 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 山田久志 1980 木田勇 1981 山田久志 1982 山田久志 1983 東尾修 1984 東尾修 1985 東尾修 1986 東尾修 1987 東尾修 1988 西崎幸広 1989 阿波野秀幸 1990 渡辺久信 1991 郭泰源 1992 郭泰源 1993 野田浩司 1994 工藤公康 1995 工藤公康 1996 西崎幸広 1997 西口文也 1998 西口文也 1999 松坂大輔 2000 松坂大輔 2001 松坂大輔 2002 西口文也 2003 松坂大輔 2004 松坂大輔 2005 松坂大輔 2006 松坂大輔 2007 ダルビッシュ有 2008 ダルビッシュ有 2009 涌井秀章 2010 涌井秀章 2011 田中将大 2012 田中将大 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 涌井秀章 2016 涌井秀章 2017 菊池雄星 2018 岸孝之 2019 千賀滉大 2020 千賀滉大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 L.モイネロ 表 話 編 歴 1950 若林忠志 1951 江藤正 1952 大神武俊 1953 大神武俊 1954 西村貞朗 1955 柚木進 1956 川崎徳次 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 中西勝己 1961 J.スタンカ 1962 土橋正幸 1963 稲尾和久 1964 J.スタンカ 1965 杉浦忠 1966 渡辺泰輔 1967 米田哲也 1968 石井茂雄 1969 石井茂雄 1970 木樽正明 1971 足立光宏 1972 山田久志 1973 江本孟紀 1974 金田留広 1975 足立光宏 1976 山田久志 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 井本隆 1980 井本隆 1981 高橋一三 1982 松沼博久 1983 松沼博久 1984 山田久志 1985 松沼博久 1986 東尾修 1987 東尾修 1988 渡辺久信 1989 阿波野秀幸 1990 渡辺久信 1991 工藤公康 1992 渡辺久信 1993 工藤公康 1994 渡辺久信 1995 佐藤義則 1996 星野伸之 1997 西口文也 1998 西口文也 1999 工藤公康 2000 若田部健一 2001 J.パウエル 2002 松坂大輔 2003 斉藤和巳 2004 石井貴 2005 清水直行 2006 ダルビッシュ有 2007 ダルビッシュ有 2008 涌井秀章 2009 武田勝 2010 成瀬善久 2011 和田毅 2012 吉川光夫 2013 則本昂大 2014 J.スタンリッジ 2015 武田翔太 2016 大谷翔平 2017 千賀滉大 2018 千賀滉大 2019 千賀滉大 2020 千賀滉大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 有原航平 表 話 編 歴 1936春夏 宮武三郎 1936秋 北井正雄 1937春 石田光彦 1937秋 石田光彦 1938春 宮武三郎 1938秋 小田野柏 1939 浅野勝三郎 1940 重松通雄 1941 浅野勝三郎 1942 橋本正吾 1943 天保義夫 1944 笠松実 1946 天保義夫 1947 天保義夫 1948 天保義夫 1949 今西錬太郎 1950 天保義夫 1951 天保義夫 1952 天保義夫 1953 柴田英治 1954 梶本隆夫 1955 柴田英治 1956 梶本隆夫 1957 梶本隆夫 1958 梶本隆夫 1959 米田哲也 1960 梶本隆夫 1961 米田哲也 1962 石井茂雄 1963 梶本隆夫 1964 米田哲也 1965 足立光宏 1966 石井茂雄 1967 米田哲也 1968 石井茂雄 1969 米田哲也 1970 米田哲也 1971 米田哲也 1972 足立光宏 1973 足立光宏 1974 竹村一義 1975 山田久志 1976 山田久志 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 山田久志 1980 山田久志 1981 山田久志 1982 山田久志 1983 山田久志 1984 山田久志 1985 山田久志 1986 山田久志 1987 佐藤義則 1988 佐藤義則 1989 佐藤義則 1990 星野伸之 1991 佐藤義則 1992 星野伸之 1993 星野伸之 1994 星野伸之 1995 佐藤義則 1996 星野伸之 1997 星野伸之 1998 星野伸之 1999 小林宏 2000 小林宏 2001 金田政彦 2002 E.ヤーナル 2003 吉井理人 2004 具臺晟 2005 川越英隆 2006 川越英隆 2007 川越英隆 2008 金子千尋 2009 小松聖 2010 金子千尋 2011 木佐貫洋 2012 A.フィガロ 2013 金子千尋 2014 金子千尋 2015 B.ディクソン 2016 金子千尋 2017 金子千尋 2018 西勇輝 2019 山岡泰輔 2020 山岡泰輔 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山下舜平大 2024 宮城大弥 表 話 編 歴 76 山田久志 77 山田久志 78 鈴木啓示 79 C.マニエル 80 木田勇 81 江夏豊 82 落合博満 83 東尾修 84 ブーマー 85 落合博満 86 落合博満 87 工藤公康 88 門田博光 89 阿波野秀幸 90 野茂英雄 91 秋山幸二 92 石井丈裕 93 辻発彦 94 イチロー 95 イチロー 96 イチロー 97 松井稼頭央 98 イチロー 99 松坂大輔 00 中村紀洋 01 T.ローズ 02 松井稼頭央 03 城島健司 04 松中信彦 05 渡辺俊介 06 ダルビッシュ有 07 山﨑武司 08 岩隈久志 09 鉄平 10 T-岡田 11 内川聖一 12 吉川光夫 13 田中将大 14 大谷翔平 15 柳田悠岐 16 大谷翔平 17 D.サファテ 18 山川穂高 19 森友哉 20-21 中止 表 話 編 歴 1位:山田久志 2位:加藤秀司 3位:長谷部優(入団拒否) 4位:柳橋明(入団拒否) 5位:新井良夫 6位:島崎基慈 7位:福本豊 8位:柿本進(入団拒否) 9位:切通猛 10位:三好行夫(入団拒否) 11位:村上義則(入団拒否) 12位:門田博光(入団拒否) 13位:石井清一郎 14位:鈴木博(入団拒否) 15位:坂出直(入団拒否) 表 話 編 歴 1位:河原明 2位:東田正義 3位:竹之内雅史 4位:後藤清 5位:辻原幸雄 6位:長嶺俊一(入団拒否) 7位:山田智千(入団拒否) 8位:牧重見(入団拒否) 9位:黒木政次(入団拒否) 10位:吉田和幸(入団拒否) 11位:山田久志(入団拒否) 12位:桑名仁(入団拒否) 13位:山岡実 14位:宮崎寛(入団拒否) 15位:古賀雄一(入団拒否) VIAF 日本 CiNii Books CiNii Research 日本の野球選手 オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手 最多勝利 (NPB) 最優秀防御率 (NPB) 最高勝率 (野球) 最優秀選手 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 名球会 日本の野球監督 中日ドラゴンズ及びその前身球団の監督 野球解説者 日本の野球殿堂表彰者 新日本製鐵釜石硬式野球部の選手 秋田県立能代高等学校出身の人物 秋田県出身のスポーツ選手 1948年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 2024/11/21 17:44更新
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yamada hisashi
山田久志と同じ誕生日7月29日生まれ、同じ秋田出身の人
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