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宮﨑敏郎の情報 (みやざきとしろう)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月23日】今日誕生日の芸能人・有名人

宮﨑敏郎の情報(みやざきとしろう) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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宮﨑 敏郎さんについて調べます

■名前・氏名
宮﨑 敏郎
(読み:みやざき としろう)
■職業
野球選手
■宮﨑敏郎の誕生日・生年月日
1988年12月12日 (年齢35歳)
辰年(たつ年)、射手座(いて座)
■出身地・都道府県
佐賀出身

(昭和63年)1988年生まれの人の年齢早見表

宮﨑敏郎と同じ1988年生まれの有名人・芸能人

宮﨑敏郎と同じ12月12日生まれの有名人・芸能人

宮﨑敏郎と同じ出身地佐賀県生まれの有名人・芸能人


宮﨑敏郎と関係のある人

富田蓮: 初奪三振:同上、12回表に宮﨑敏郎から見逃し三振


田部隼人: 伊藤の復帰により2日後の19日に再び出場選手登録を抹消されるも、4日後の23日に今度は左太もも裏の炎症により出場選手登録を抹消された宮﨑敏郎に代わって再々昇格。


松田宣浩: その後は、『熱男塾』と称し宮崎市内で自主トレを行い、松田を慕う選手の参加が増え、宮﨑敏郎、佐野恵太、頓宮裕真ら首位打者を輩出。


藤川球児: 7月21日の対DeNA戦(京セラ)7回表には、宮﨑敏郎から見逃しで三振を奪ったことによって、救援登板では球団史上初めてのNPB一軍公式戦通算1000(先発登板を含めれば1093)奪三振を記録。


赤堀大智: 同会議ではセガサミーのチームメイトである宮﨑敏郎も同球団からの6巡目指名を受けて入団している。


宮﨑祐樹: 同姓である横浜DeNAベイスターズの宮﨑敏郎とは血縁関係はないものの、同じ佐賀県唐津市出身、セガサミーの先輩と後輩(祐樹がプロ入りした2011年に敏郎が入れ違いに入社)と共通点が多く、定期的に自主トレを行うなど交流は深い。


万永貴司: 2010年から2012年まではスカウトに転身し、桑原将志・宮﨑敏郎・安部建輝らを担当した。


松井飛雄馬: 応援団が宮﨑敏郎の応援歌に小田嶋正邦の曲を流用した際、同曲を飛雄馬に使用する可能性があった。


桑原将志: 東克樹、宮﨑敏郎も受賞し、球団では25年ぶりとなる3選手の選出となった。


筒香嘉智: シーズンでは、オールスター後ラミレス監督の方針で一時プロ初となる2番打者を務め、8月には骨折した宮﨑敏郎の代役として5年ぶりに三塁を守った。


前田大和: その一方で、4月29日の対中日戦(ナゴヤドーム)6回裏無死満塁の遊撃守備では、平田良介が放ったゴロを捕球後の本塁送球をきっかけに、捕手・嶺井博希や三塁手・宮﨑敏郎との間で「6-2-5」という珍しいフォーメーションの併殺を完成させた。


宮崎祐樹: 同姓である横浜DeNAベイスターズの宮﨑敏郎とは血縁関係はないものの、同じ佐賀県唐津市出身、セガサミーの先輩と後輩(祐樹がプロ入りした2011年に敏郎が入れ違いに入社)と共通点が多く、定期的に自主トレを行うなど交流は深い。


西勇輝: CSでは、10月5日にDeNAとのファーストステージ第1戦(横浜)で先発を任されたものの、1回表に先頭打者・神里和毅から5連打を打たれたばかりか、5番打者・宮﨑敏郎の打球が右足を直撃した影響で一死も取れずに降板。


大山暁史: 2012年のドラフト会議の上位指名候補に挙げられたが、チームメイトの赤堀大智と宮﨑敏郎が横浜DeNAベイスターズからの指名を受けて入団したのに対して、自身はどの球団からも指名されず、一時は大きくモチベーションを落としたものの、翌年には浦野博司と競い合いながら成長。


小田嶋正邦: この応援歌は2017年度より宮﨑敏郎の応援歌に流用される(但しキーが2つ低い変ホ長調である)。


伊藤裕季也: 2019年は、シーズン開始当初から二軍が続いたが、宮﨑敏郎が骨折で戦線離脱したことを受け、8月8日に一軍に初昇格した。


浦野博司: 社会人時代の1年先輩に宮﨑敏郎がいる。


石川雄洋: 主に「2番・二塁手」として先発出場したが、打率2割前後を推移し、7月以後は宮﨑敏郎や同シーズン途中に加入したエリアン・エレラに出場機会を献上することが増えていった。


京田陽太: その後は遊撃手として林琢真、大和と併用されながらの起用が続き、宮﨑敏郎の休養日には三塁手としての先発出場もあった。


尾仲祐哉: 同年8月22日の対広島東洋カープ戦(横浜スタジアム)で、3点ビハインドの8回表から4番手投手として登板し2イニングを無失点に抑え、その後の9回裏無死一塁から筒香嘉智、ホセ・ロペスおよび宮﨑敏郎の「3者連続本塁打による逆転サヨナラ勝利」というNPB一軍公式戦初のチーム記録によって一軍初勝利。


中井大介: バックスクリーン上には中井の引退を記念する映像が流れ、同僚の佐野恵太、宮﨑敏郎、伊藤光、コーチの田代富雄、巨人からも小林誠司、松原聖弥、立岡宗一郎、元監督の高橋由伸らから惜別メッセージが送られた。


大島洋平: ドラフト下位(5位以下)入団選手におけるシーズン打率3割達成回数6度は宮﨑敏郎(横浜)と並び現役最多である(ドラフト下位・ドラフト外入団選手の歴代最多は掛布雅之、福本豊、松永浩美らの7度)。


瀧中瞭太: 続く6月3日の横浜DeNAベイスターズ戦でも宮﨑敏郎に2点本塁打、牧秀悟に3点本塁打を打たれ、3回5失点で敗戦投手となり、翌4日に出場選手登録を抹消された。


濱田太貴: DeNAの宮﨑敏郎からはS-PARKの番組公式YouTubeにて「長打もあるし、なんといってもバットコントロール。


蝦名達夫: それまで高かったグリップの位置を宮﨑敏郎のように低くしたところ、4年時の春季に最多本塁打、秋季に首位打者のタイトルを手にした。


岡本和真: オフのベストナイン投票では、一塁手部門で174票のダヤン・ビシエドに次ぐ95票で2位、三塁手部門で250票の宮﨑敏郎に次ぐ23票で2位となり、受賞を逃した。


藤田一也: その後は同僚の宮﨑敏郎、楽天時代にともにプレーした嶋基宏、横浜同期入団の石川雄洋、家族らから花束を受け取り、グラウンドを1周してファンの声援に応えた。


白崎浩之: 一時は正三塁手の座をエリアン・エレラ、山下幸輝、宮﨑敏郎などと争ったが、宮﨑が正三塁手に定着した6月以降は、代打・代走・守備要員として起用される試合が増加。


岡本和真: 同年のベストナインの投票は、一塁手部門で50票、三塁手部門で131票、外野手部門で2票と票が割れて受賞を逃し、最も票を得た三塁手部門は9票差で同年首位打者の宮﨑敏郎が選出された。


森敬斗: 同日の阪神戦(横浜)で6回表に宮﨑敏郎が守備で負傷交代した影響で、イニング途中から守備につきシーズン初出場。


宮﨑敏郎の情報まとめ

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宮﨑 敏郎(みやざき としろう)さんの誕生日は1988年12月12日です。佐賀出身の野球選手のようです。

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選手としての特徴、人物などについてまとめました。卒業に関する情報もありますね。今年の情報もありました。宮﨑敏郎の現在の年齢は35歳のようです。

宮﨑敏郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

宮﨑 敏郎(みやざき としろう、1988年12月12日 - )は、佐賀県唐津市出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。横浜DeNAベイスターズ所属。

佐賀県立厳木高等学校在学中には、1年生の春から投手でベンチ登録。2年生の夏から「4番・投手」を務めるとともに、公式戦で通算24本塁打を記録したが、春夏秋を通じて全国大会と縁が無かった。

日本文理大学への進学後には、1年生の秋から三塁手のレギュラーに定着。九州大学野球のリーグ戦では、2度の首位打者、3度のMVP、ベストナインを獲得した。また、2年生から2年続けて全日本大学野球選手権に出場。3年生の時には、5番打者として、チームのベスト8進出に貢献した。4年生の時には主将も務めている。

就職活動で10社以上の企業から採用を見送られたが、大学卒業後はセガサミーへ入社。同社の硬式野球部では、打線で1番や3番を任され、2年目にはチーム事情から二塁を守った。東京第3代表として出場した第83回都市対抗野球大会では、初戦の日本通運戦の8回裏に、チームに3年ぶりの勝利をもたらす逆転満塁本塁打を放ち、勝負強さを印象付けた。

2012年10月25日に行われたドラフト会議で、横浜DeNAベイスターズから6位指名を受け、契約金3500万円、年俸850万円(金額は推定)という条件で入団した。背番号は51。セガサミーのチームメイトである赤堀大智も、横浜DeNAからの4巡目指名を経て入団した。

2013年は、春季キャンプ中に左外腹斜筋の肉離れを起こした影響で、開幕一軍入りを逃した。しかし、イースタン・リーグでは、公式戦の開幕直後からクリーンアップに定着。4月中旬の公式戦で3試合連続本塁打を記録した。5月19日にプロ入り後初の出場選手登録を果たすと、5月20日の対オリックス・バファローズ戦(京セラドーム大阪)8回表に代走として一軍公式戦にデビュー。6月2日の北海道日本ハムファイターズ戦(旭川スタルヒン球場)では、「6番・三塁手」として一軍で初めて先発出場した。第1打席で2点適時打を打ち、一軍での初安打と初打点を記録。8回裏の第4打席では、この年のセントラル・リーグの新人選手では最も早く一軍での初本塁打を打った。シーズン通算では、一軍公式戦33試合の出場で、2本塁打、5打点、打率.250を記録。三塁手として11試合、4試合で二塁手として4試合に先発出場した(いずれも無失策)。また、61試合に出場したイースタン・リーグの公式戦では、7本塁打を打った。

2014年は、シーズン初の出場選手登録2日後の4月26日に、二塁手として阪神タイガース戦(横浜)に出場。9回表無死一塁で大和の投前犠打に対して一塁のベースカバーへ入った際、犠打を捕球した山口俊が二塁に送球すると思い込んで目をそらし、山口から一塁へ送球された球を捕れなかった。このプレーで一軍初失策を記録すると、一軍監督・中畑清から「野球の世界にないボーンヘッド」と酷評され、出場選手登録からわずか2日で登録を抹消される。その後、チームにはオリックスから移籍したアーロム・バルディリスや、シーズン途中に入団したユリエスキ・グリエルが内野のレギュラーに定着し、他の日本人内野手が一軍で台頭したこともあって、この年の宮﨑の一軍公式戦への出場はわずか5試合に留まった。3年後のインタビュー記事では、この件について本人は「正直、僕の野球人生はこれで終わったと思いました。かなり落ち込みましたし、これでもうチャンスはなくなるんだろうなと」と語る一方、「まあ、今だから言えますけど、あのプレーで少し名前は知ってもらえたなって」と振り返っている。

2015年は、シーズン中盤以後、石川雄洋に代わって主に二塁手として一軍公式戦の先発に起用される機会が増えた。7月20日の対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)では、「3番・二塁手」として先発に起用されると、9月10日の同カードではトニー・バーネットからソロ本塁打を打った。宮﨑がこの年に一軍公式戦で打った本塁打も、バーネットが公式戦で打たれた本塁打も、この一打のみであった。9月21日の広島戦で走塁中に右足首を捻挫し、そのままシーズンを終えた。一軍公式戦通算では、58試合の出場で打率.289を記録。二塁手として35試合、一塁手として3試合、三塁手として1試合でスタメンに起用された。オフに、350万円増となる推定年俸1200万円で契約を更改した。

2016年は、レギュラーシーズンの開幕当初から正二塁手の座を石川と争い、セ・パ交流戦から先発起用の機会が増加。6月14日の対日本ハム戦(札幌ドーム)からは、主に5番打者を任され、8月上旬には一時7番打者として先発に起用された。一軍公式戦では、レギュラーシーズンにおけるセントラル・リーグの規定打席に届かなかったものの、101試合の出場で打率.291、11本塁打、36打点とプロ入り後自己最高の成績を記録。打線の中軸を担い、チームを球団史上初めてのクライマックスシリーズ(CS)進出に導いた。守備面では、二塁手として36試合、三塁手として27試合、一塁手として20試合でスタメンに起用された。チームのレギュラーシーズン3位で迎えたポストシーズンでは振るわず、クライマックスシリーズ・ファイナルステージでの敗退が決まった直後には、監督のアレックス・ラミレスがシーズン終了記者会見で「(4番打者の)筒香嘉智との勝負を余儀なくされるほど(相手投手に警戒される力量)の打者を5番に据える必要がある」というコメントを残した。オフに、1800万円増となる推定年俸3000万円で契約を更改した。

2017年は、一軍公式戦の開幕から5番打者として打率3割を記録していたが、4月中旬に脇腹を痛めて一時戦線を離脱した。5月3日の対巨人戦(東京ドーム)から一軍に復帰すると、6月11日の対埼玉西武ライオンズ戦(メットライフドーム)で規定打席に到達し、打率(.327)でセ・リーグの2位に急浮上。6月15日の対千葉ロッテマリーンズ戦で唐川侑己から一軍公式戦初の満塁本塁打、7月5日の対阪神戦で一軍公式戦初の1試合5安打を記録するなどの活躍を背景に、オールスターゲームにもセ・リーグの監督推薦選手として初出場を果たした。8月22日の対広島戦(横浜)では、3点ビハインドで迎えた9回裏無死一塁から3番打者の筒香による2点本塁打、4番打者のホセ・ロペスによる同点ソロ本塁打に続いてソロ本塁打を記録。2年連続の一軍公式戦における2桁本塁打を達成し、チームをサヨナラ勝利、8回表からの登板で2イニングを無失点に抑えていた新人の尾仲祐哉を一軍公式戦初勝利へ導いた。DeNAで3人以上の打者が一軍公式戦で連続本塁打を打った事例は(前身球団を含めて)12年ぶり10度目だが、NPBのチームが3者連続本塁打によって逆転サヨナラ勝利を収めた事例は、パシフィック・リーグを含めても一軍公式戦史上初だった。9月6日の対ヤクルト戦(横浜)でも延長11回裏に先頭打者として松岡健一からサヨナラ本塁打を打っている。シーズンの中盤から打率でセ・リーグの首位に立つと、最終打率.323で首位打者のタイトルを初めて獲得した。「首位打者&盗塁ゼロ」は2001年の福浦和也、2012年の阿部慎之助に続いて史上3人目、一軍公式戦で1度も盗塁を記録しないまま首位打者を獲得した選手は宮﨑が初めてという珍記録であった。チームの2年連続レギュラーシーズン3位で臨んだCSでは、阪神とのファーストステージ突破を経て、広島とのファイナルステージ全5試合で打率.368、2本塁打を記録。チームを19年ぶりの日本シリーズ進出へ導いた。福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズでも、全6試合で打率.400、2本塁打と好調を維持したが、チームは2勝4敗で敗退した。シリーズの終了後には、セ・リーグの三塁手部門でベストナインを受賞した。12月5日、5000万円増となる推定年俸8000万円で契約を更改した。

2018年は、レギュラーシーズンの開幕戦から、主に「5番・三塁手」として活躍。オールスターゲームでは、前年に続いてセ・リーグの三塁手部門ファン投票1位で出場すると、第2戦で同ゲーム初安打を菊池雄星からの本塁打で記録した。8月17日の対広島戦では、3点ビハインドで迎えた8回裏に、4番打者・筒香の満塁本塁打に続いてソロ本塁打。6番打者のネフタリ・ソトもソロ本塁打を打ったため、横浜スタジアムでの同カードにおける3者連続本塁打記録に2年連続で名を連ねた。一軍公式戦全体では、全143試合中1試合に欠場しただけで、チームトップの打率.318、自己最多の71打点、自己最多にしてチーム3位の28本塁打という好記録を記録。前年からのベストナインに加えて、ゴールデングラブ賞もセ・リーグの三塁手部門で初めて獲得した。シーズン終了後の契約更改では、8000万円増となる推定年俸1億6000万円で契約を更改し、1億円プレーヤーの仲間入りを果たした。

2019年は、レギュラーシーズンの開幕から打撃が振るわず、4月終了の時点で打率.165、得点圏打率.048、4打点と低迷。それでも、ラミレスの方針で正三塁手としての起用が続いたところ、5月には月間打率.367、5本塁打を放つほどにまで復調した。以降も打線の中軸を担っていたが、8月7日の対広島戦(マツダ)6回表の打席でファウルを打った際に左手を痛め、翌8日付で出場選手登録を抹消された。同9日に、左手の有鈎骨を摘出する手術を受けた。手術の当初はシーズン中の実戦復帰が困難と見られていたが、9月12日の対巨人戦(横浜)から一軍に復帰した。復帰後は11試合の出場で打率.308、2本塁打を記録するほど好調で、チームのレギュラーシーズン2位確定や、本拠地・横浜スタジアムでのCS初開催に貢献した。阪神とのCSファーストステージでも好調を維持。CS史上9人目の2試合連続猛打賞や、CS最多記録である通算5度目の猛打賞を達成し、チームトップの打率.538を記録した。一軍公式戦114試合に出場したレギュラーシーズンでは、序盤の不振や夏場の戦線離脱もあったが、リーグの規定打席へ到達。3年連続の打率3割達成はならなかったものの、打率.284(リーグ12位)、15本塁打、49打点と奮闘した。チームもCSで敗退したが、シリーズ終了後の12月4日に、推定年俸1億6000万円(現状維持)という条件で契約を更改。

2020年は、シーズン当初から安定した打撃でチームを支え、長期離脱や不振もなく113試合に出場し、打率.301(リーグ7位)、14本塁打、53打点の成績を残した。規定打席に到達した右打者で、打率3割を超えたのは宮﨑のみであった。12月18日に推定年俸1億7000万円(1000万円増)で契約更改した。

2021年は、国内FA権を取得。シーズンでは主に「5番・三塁手」として出場し、全ての月で打率.280を超えるなど、1年を通して安定感を発揮した。9月29日のヤクルト戦で小川泰弘からソロ本塁打を放ち、プロ野球史上304人目となる通算100本塁打を達成。大卒の社会人経験者では球団初の快挙だった。シーズンでは141試合に出場し、打率.301、16本塁打、73打点を記録した。10月29日に記者会見を開き、国内FA権を行使せずに6年契約でDeNAに残留することを表明。11月26日には、年俸総額12億円+出来高払いで6年契約を結んだ。

2022年も、開幕から5番・三塁手として先発出場を続けていたが、4月19日の阪神戦(横浜)で二塁に走塁した際に足を痛めて途中交代。左太腿裏の炎症でしばらく様子を見ていたが、4月23日に一軍登録を抹消された。5月15日に一軍登録されると、6月7日の日本ハム戦(札幌)では先発の今永昇太がノーヒットピッチングを続ける中、9回二死から決勝打となる2点適時打を打ち、ノーヒットノーラン達成をアシストした。例年通り3割前後の打率をキープし、9月前半は調子を落とすも、9月17日の広島戦(横浜)で史上315人目、球団の日本人右打者では最速となる945試合目の出場で通算1000本安打を達成。最終的に打率.2995で打率3割に乗せた。

2023年は、開幕から自己最長の15試合連続安打を記録するなど春先から好調で、3月・4月は打率.444、4本塁打、13打点の成績を残し、月間MVPを初受賞した。5月4日の広島戦では、自身6年ぶりとなるサヨナラ本塁打を松本竜也から打ち、5月25日までは打率.402を記録していた。コンディションに配慮し、休養を挟みながらの起用を続けていたが、6月8日の試合前に痛みを訴え、右肋骨肋間筋の炎症と診断される。3試合スタメンから外れ、6月12日のオリックス戦(京セラ)でスタメン復帰を果たすと宮城大弥から走者一掃の適時二塁打とダメ押しの本塁打を放ち大活躍を見せた。その後も打率1位をキープし続け、7月にはオールスターゲームに選手間投票で選出された。7月の月間打率は打率.214と夏場に入ると疲れが見え始め、8月21日には左肋間筋の炎症で登録を抹消されたが、9月1日には一軍復帰し、同日の巨人戦(横浜)で鈴木康平から本塁打を放ち復帰をアピールした。通算1075試合目となる9月25日の対巨人戦(横浜)ではプロ入り初盗塁を企図、初盗塁を決めた。1075試合目のプロ初盗塁は投手である皆川睦雄の731試合目を大きく上回る史上最遅記録となった。故障による欠場もあったが9月27日にシーズンの規定打席に到達。最終的に2位西川龍馬(広島)の打率.305を大きく引き離す打率.326で自身2度目のセ・リーグ首位打者を獲得し、全133安打のうち内野安打は10個に留まるなど高い水準のバッティング技術を示した。また、2018年以来の20本台となる20本塁打(チーム単独2位かつリーグ単独8位)を放ち、自身初となるOPS.900超えを記録するなど、長打力についても存在感を発揮した。また、三塁手としてゴールデングラブ賞とベストナインも獲得するなど、オフに35歳を迎える年齢ながら攻守にわたり躍動したシーズンとなった。

2024年も、開幕から5番・三塁手として先発出場を続ける。5月10日の阪神戦(横浜)の6回表1死一・二塁の守備の場面で、井上広大のややイレギュラーバウンドした打球が、宮﨑の頭部付近に直撃した。プレーが止められた後、宮﨑はひざまずいてうずくまったまま動けず、ブルーシートに囲われながら担架でベンチ裏に下げられた。約10分間試合が中断し、中断中にはDeNA、阪神の両ファンから宮﨑を応援するコールが起こった。病院には行かず、トレーナー室でチームドクターによって頭部打撲と診断された。宮﨑の意識がはっきりしており出血がなかったことも確認されたため、チームマネージャーに付き添われながらタクシーで帰路についた。翌日には試合練習に通常通り参加し、この日はベンチ入りメンバーからは外されたものの、12日には3番・三塁手として試合に復帰している。30日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦(横浜)で、5回2死にソロ本塁打、7回2死に左翼ポール直撃の3点本塁打と2打席連続本塁打を放ち、通算500打点に到達した。6月6日、数日前から左太腿に違和感が生じていたことからチームドクターの診察を受けたところ軽い肉離れと診断され、翌7日に出場選手登録を抹消された。

選手としての特徴

打撃

身長172cmとプロのスポーツ選手としては小柄だが、打席では左足を上げてからのフルスイングから、本来は逆方向となるライト方向を中心に広い角度にわたって長打力を発揮。セガサミー時代の2年間に3番を任されたのも、「放っておけばずっと打撃練習(に明け暮れていたこと)」に加えて、「スイングが速く、(打席で)我慢できる分だけ、投球を捉える能力が高かった」からという。また、バットを投手側に傾けるようにしながらタイミングを取る独特の打撃フォームは、小学生のときから変わらないという宮﨑のオリジナルフォームである。

モーションの大きい豪快なバッティングフォームとは裏腹に、巧みなバットコントロールにも定評があり、首位打者を獲得した2017年から始まり2020年シーズンに至るまで、4年連続で規定打席到達者内におけるセ・リーグ最少三振を記録していた。セ・リーグでの4年連続記録は前田智徳(2004 - 2007年)に並ぶ。翌21年こそ青木宣親の44三振に次ぐ53で連続記録は途切れるが、続く22年シーズンでは35三振、23年シーズンは43三振(中日・大島洋平と同数)で再び最少打者を継続している。通算6回はプロ野球現役最多(歴代最多は吉田義男の10回)。

ただし、阪神タイガースの青柳晃洋に対して相性が悪く、2022年は相手先発が青柳の時に限りスタメンを外されていた。

犠打に関しては一軍公式戦では一度も決めたことはなかったが、2022年のクライマックスシリーズ・ファーストステージ第2戦で初めて犠打を記録した。

走塁

プロ入り後は長らく盗塁も盗塁死も皆無であり、プロ野球史上初、首位打者を一軍通算盗塁ゼロで受賞した選手だった。しかし、2023年9月25日の巨人戦でメンデス投手からプロ入り後初の盗塁を成功させた。本来はエンドランのサインだったが、打者が空振りしたことにより盗塁企図となったものだった。通算1075試合目の初盗塁はプロ野球史上最遅記録となる。また、2024年4月14日のヤクルト戦で、プロ入り後初の盗塁死を記録(プロ入団以後、盗塁の挑戦機会としては2度目)。プロ12年目、通算1095試合目での出来事であった。

守備

三塁守備の範囲は決して広くはないが、手堅いゴロ捕球、モーションが少々大きいながらも安定した送球能力を持っており、2度ゴールデングラブ賞を受賞している。前年の2017年シーズンでも、守備指標UZRでは宮崎が12球団の三塁手の中で最も高い数値を記録していた。インタビューでは二軍コーチの万永貴司の指導と、2014年まで在籍していた中村紀洋の姿がプラスになったと語る。

人物

体つきと風貌から、「ハマのプーさん」と呼ばれている。なお、子供の頃は髪の量が多かったことから「ウニ」と呼ばれていたという。また、チームメイト(当時)の後藤武敏には、その鮮やかな当たりが落合博満を思わせるということで「小さい落合」の意味で「コチアイ」というニックネームを付けられている。

前年までと比べ、101試合と大幅に出場試合数を増やして飛躍のシーズンになった2016年は、夏に行われたインタビューにて「毎日毎日、必死でやっています。全力でやっているので、そういうところを見てもらえたら。試合に出してもらえるんだったらどこでもいい。どこでも守りますし、どこの打順でも打たせてもらえるんだったら、そこで結果を出したいと思います」と述べている。

同郷で同姓のセガサミーの先輩である宮﨑祐樹とは親交があり、毎年自主トレを共に行っていた。2019年に祐樹がオリックスから戦力外通告を受けた際には、12球団トライアウトに向け、伊藤光らと共に祐樹の練習を手伝った。

夏場が苦手なことを自認。2017年以降の夏場には、温度1桁台の氷風呂と常温の風呂へ交互に入ることを、球場や自宅での日課に取り入れている。

2024/06/20 14:49更新

miyazaki toshirou



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宮﨑敏郎と近い名前の人

宮崎 学_(写真家)(みやざき まなぶ)
1949年8月10日生まれの有名人 長野出身

宮崎 学(みやざき まなぶ、ただし公式ウェブサイトなどでは「みやざき がく」と読ませている、1949年8月10日 - )は、日本の写真家である。長野県駒ヶ根市在住。 日本各地の野生動物を被写体とする…

宮崎 剛_(俳優)(みやざき たけし)
1963年6月8日生まれの有名人 大阪出身

宮崎 剛(みやざき たけし、1963年6月8日 - )は、日本のアクションコーディネーター、元俳優。ジャパンアクションエンタープライズ(JAE)所属。大阪府出身。 趣味は写真撮影、特技はドラム、モ…

宮崎 剛_(1918年生の内野手)(みやざき たけし)
1918年12月17日生まれの有名人 長野出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 宮崎 剛(みやざき たけし、1918年12月17日 - 2015年5月22日)は、台灣出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者、監督…

宮崎 総子(みやざき ふさこ)
1944年1月2日生まれの有名人 福岡出身

宮崎 総子(みやざき ふさこ、本名:同じ、1944年(昭和19年)1月2日 - 2015年(平成27年)2月24日)は、日本のアナウンサー。愛称は「ミヤちゃん」、「フチャコ」。アナウンサーとしてのテレ…

宮崎 麗果(みやざき れいか)
1988年2月3日生まれの有名人 長野出身

宮崎 麗果(みやざき れいか、1988年2月3日 - )は、日本の実業家。旧名義、宮崎 麗香(読み同じ)。 長野県諏訪市出生、東京都世田谷区出身。これまでに3度結婚し、子供を4人出産している。父親は…

宮崎 瑠依(みやざき るい)
1983年6月21日生まれの有名人 東京出身

ホリプロオフィシャルサイト -宮崎瑠依 宮崎 瑠依(みやざき るい、1983年6月21日 - )は、日本のタレント。 東京都出身。ホリプロ所属。身長158cm。血液型はO型。夫は元プロ野球選手の荒…

宮崎 梨緒(みやざき りお)
1994年8月26日生まれの有名人 大阪出身

宮崎 梨緒(みやざき りお、1994年8月26日 - )は、日本の元歌手、元タレントで、アイドルグループ・Lovelysの元リーダー。愛称はりーたん。イメージカラーはショッキングピンク。 大阪府出身…

宮崎 美子(みやざき よしこ)
1958年12月11日生まれの有名人 熊本出身

宮崎 美子(みやざき よしこ、1958年12月11日 - )は、日本の女優、タレント、元グラビアモデル、歌手。旧芸名、宮﨑 淑子(みやざき よしこ)。本名は"﨑"。熊本県熊本市出身。ホリプロ所属。 …

宮崎 由加(みやざき ゆか)
【ハロプロ】
1994年4月2日生まれの有名人 石川出身

宮崎 由加(みやざき ゆか、1994年4月2日 - )は、日本のタレント、歌手であり、ハロー!プロジェクトに所属する女性アイドルグループJuice=Juiceの元メンバーで、初代リーダーである。公式ニ…

宮崎 美穂(みやざき みほ)
【AKB48】
1993年7月30日生まれの有名人 東京出身

宮崎 美穂(みやざき みほ、1993年〈平成5年〉7月30日 - )は、日本のタレント、モデル、女優であり、女性アイドルグループ・AKB48の元メンバーである。東京都八王子市出身。ホリプロ所属。 …

宮崎 寿々佳(みやざき すずか)
1989年9月5日生まれの有名人 東京出身

好きなもの:たい焼き、こたつ、 宮崎 寿々佳(みやざき すずか、1989年9月5日 - )は、日本のマルチタレント。東京都出身。血液型O型。学習院大学経済学部卒。ライブ、ファッションショーモデル、イ…

宮崎 恭子(みやざき やすこ)
1931年5月15日生まれの有名人 長崎出身

宮崎 恭子(みやざき やすこ、1931年5月15日 - 1996年6月27日)は、日本の演出家、女優、脚本家。無名塾創設者。本名:仲代 恭子(旧姓:宮崎)。脚本家としての筆名(別名)として隆 巴(りゅ…

宮崎 萬純(みやざき ますみ)
1968年1月26日生まれの有名人 愛知出身

宮崎 萬純(みやざき ますみ、1968年〈昭和43年〉1月26日 - )は、日本の女優・ヒプノセラピストである。旧名・別名:宮崎ますみ。 愛知県名古屋市出身。椙山女学園中学校・高等学校、三浦高等学校…

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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「宮﨑敏郎」を素材として二次利用しています。

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