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石井琢朗の情報 (いしいたくろう)
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【11月24日】今日誕生日の芸能人・有名人

石井琢朗の情報(いしいたくろう) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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石井 琢朗さんについて調べます

■名前・氏名
石井 琢朗
(読み:いしい たくろう)
■職業
野球選手
■石井琢朗の誕生日・生年月日
1970年8月25日 (年齢54歳)
戌年(いぬ年)、乙女座(おとめ座)
■出身地・都道府県
栃木出身

(昭和45年)1970年生まれの人の年齢早見表

石井琢朗と同じ1970年生まれの有名人・芸能人

石井琢朗と同じ8月25日生まれの有名人・芸能人

石井琢朗と同じ出身地栃木県生まれの有名人・芸能人


石井琢朗と関係のある人

櫻井周斗: DeNAの高卒新人投手によるオープン戦の勝利は、大洋時代に石井忠徳(石井琢朗)が1989年3月25日の対西武戦で記録して以来29年ぶりであった。


エディ=ギャラード: 一方で横浜は前シーズンに大型契約を結んだスティーブ・コックスを始め、石井琢朗・斎藤隆ら複数年契約を結んだ選手が軒並み不調に終わっていたことから、基本的に複数年契約を認めない方針を立てており、仮にギャラードが複数年契約に固執する場合は他球団への放出も辞さない考えを示していた。


ライネル=ロサリオ: チームメイトからは、「パッと見て顔が『おさむ』っぽい」という理由で広島時代の打撃コーチの石井琢朗に名付けられたあだ名「おさむ」と呼ばれ、自らも同じ「おさむ」である林修の「今でしょ!」を持ちネタにし、チームメイトを爆笑させている。


緒方耕一: 1993年にはケガから復活し、24盗塁で石井琢朗と並び2度目の盗塁王を獲得。


内川聖一: シーズン途中に再調整のため降格した石井琢朗に代わり、5月から2番・遊撃手のレギュラーに定着するが、原因不明の体調不良が続いて右手の握力が弱くなり、ボールを握ることすらできなくなったため、6月に登録抹消。


河田雄祐: 2017年、リーグ優勝2連覇に貢献したが、シーズン終了後に打撃コーチの石井琢朗と共に退団。


新井宏昌: 鈴木誠也には石井琢朗コーチと共に連日の早出練習を行い、下半身、特に右の腰を使って、バットのヘッドにボールに乗せるスイングに取り組んだ。


古木克明: 2006年正月にはチームの大先輩である石井琢朗宛ての年賀状で、宛名を「石井豚朗」と書いていた。


吉村裕基: 7月16日に離脱していた石井琢朗らの復帰により一軍選手登録を抹消。


藤江均: 横浜の新人選手によるバッテリーが一軍公式戦に出場した事例は横浜大洋ホエールズ時代の1989年に、石井忠徳(後の石井琢朗、当時は投手)と谷繁元信が10月16日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)でバッテリーを組んで以来であった。


石井義人: 横浜入り後、先輩内野手の進藤達哉や石井琢朗の守備を見て、レベルの高さから守備に対する自信を喪失。


小林正之: 広島退団後の1987年、古葉の要請で大洋一軍守備・走塁コーチに就任し、寺岡孝・佐野嘉幸両コーチと共に、投手として入団していた石井琢朗の野手としてのセンスに注目。


糸井嘉男: 12月13日、9000万円増の推定年俸1億9000万円でサインし、野手転向者としては石井琢朗が横浜時代の2005年の推定年俸2億5000万円に次ぐ高額年俸となった。


前田智徳: この年、金本知憲と石井琢朗が現役引退したため、現役選手では日本プロ野球の通算最多安打記録保持者となった。


瀬能あづさ: 1996年 - 横浜ベイスターズ(当時)の石井琢朗との婚約を発表。


中島裕之: 秋季キャンプでは石井琢朗野手総合コーチと共に打撃フォームの改造に取り組んだ。


駒田徳広: 1998年、当時新しく選手会長に就任した石井琢朗が、外様の駒田が経験などをスムーズに発言しやすいようにと要請し、キャプテンに就任。


鈴木尚典: 同年のシーズンは最多安打こそ1本差で同僚の石井琢朗が獲得したが、前田智徳、坪井智哉とのタイトル争いに競り勝ち、2年連続となる首位打者を獲得。


藤田一也: 2008年、不調の石井琢朗に代わって遊撃を守る機会も増えたが、オリンピック期間中に代表選手としてチームを離れた村田修一に代わって三塁を守った石川雄洋が活躍し、村田の復帰後も石川がそのまま遊撃を守るようになったため、仁志が怪我で離脱した後は二塁を多く守った。


小窪哲也: 2009年、ベテラン石井琢朗が加入し、キャンプから遊撃手のポジションは激戦区となり、初の開幕一軍入りを果たす。


荒瀬詩織: 夫は元プロ野球選手石井琢朗で、2女1男を儲けている。


河田雄祐: これはライオンズ場内アナウンス担当鈴木あずさによる「弄り」であり、元々は帝京高校の後輩である杉谷拳士に向けて行われていたものを、石井琢朗コーチからの提案により河田にも行われることになったためである。


荒瀬詩織: フジテレビ退職後に、当時横浜ベイスターズの石井琢朗と結婚。


高森勇気: シーズンオフに共に自主トレを行っていた石井琢朗のブログでも紹介されている。


佐々岡真司: 1500投球回:2000年4月28日、対横浜ベイスターズ4回戦(横浜スタジアム)、3回裏二死目に石井琢朗を遊飛で達成 ※史上146人目


鳥谷敬: 遊撃手としての通算出場試合数が1768試合となり、石井琢朗の1767試合を抜いて、当時の日本新記録を樹立した。


瀬能あづさ: 石井琢朗との婚約を機に引退。


進藤達哉: 一緒に守る内野手の手本となるような存在で、現役時代から横浜時代の石井琢朗や、オリックス時代の平野恵一に守備を教えることもあった。


川端一彰: チームが38年ぶりの優勝を果たした1998年は、駒田徳広・ロバート・ローズ・進藤達哉・石井琢朗といった鉄壁の内野陣がある中で、万永貴司とともに貴重な内野の控えとして優勝に貢献した。


加藤博一: 試合では、横浜応援団が石井琢朗に対し加藤の応援歌を演奏した。


石井琢朗の情報まとめ

もしもしロボ

石井 琢朗(いしい たくろう)さんの誕生日は1970年8月25日です。栃木出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

現在、引退、結婚、離婚、テレビ、再婚に関する情報もありますね。今年の情報もありました。石井琢朗の現在の年齢は54歳のようです。

石井琢朗のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

石井 琢朗(いしい たくろう、本名及び旧登録名:石井 忠徳〈いしい ただのり〉、1970年8月25日 - )は、栃木県佐野市出身の元プロ野球選手(内野手・投手、右投左打)、プロ野球コーチ。

小学校3年生の秋から父が監督を務めていた犬伏学童野球クラブで野球を始め、クラス文集に「巨人にドラフト一位で入りたい。」と記す。小学生の頃からエースとして活躍していた。プロへ進むには強豪高に入って甲子園に出場することが近道と考え、栃木県立足利工業高等学校に進学。1年時から背番号1を背負い、2年時に夏の甲子園に投手として出場。延長10回にサヨナラ負けを喫し初戦で敗退したが、エースとして粘り強い力投を見せた。

高校2年時、佐野日本大学高等学校の投手を見に来ていたスカウトの江尻亮が、練習試合の相手投手であった石井の投球を見て、球の切れと速さに惚れ込んだ。高校3年時のドラフト会議では、東洋大学への進学が決まっておりどの球団からも指名が無かったが、半ば強引な形で1988年オフ、ドラフト外で横浜大洋ホエールズに入団。

1989年4月13日、高卒ルーキーながら開幕早々広島東洋カープ戦で一軍初登板。同年10月10日のヤクルトスワローズ戦で初先発初勝利を挙げた。首脳陣からは「桑田二世」などと評価され、投手として将来を嘱望されたが、二軍(イースタン・リーグ)では好投するものの一軍で結果を残せず、また本人も篠塚和典に憧れるなどプロ入り当初から野手志望であり、3年目(1991年)のオフに須藤豊監督に野手転向を申し出る。もともと須藤も石井を野手として評価しており、投手不足という事情さえなければ最初から野手転向させたい意向を持っていた。しかしこの時に石井は「(投手は)もう限界です」と発言。その言葉が気に入らなかった須藤に「何が限界だ、その程度で限界ならもう野球をやめろ!」と一度は拒絶されたものの最終的には認められた。

1992年から内野手として登録され、同時に登録名を本名の石井忠徳から石井琢朗に変更。高校時代に外野を守ったことはあったものの、内野手は初挑戦で、フィールディングなどを見た首脳陣の判断で内野手となる。シーズン後半には野手転向1年目にして清水義之から三塁手の定位置を奪った。野手転向1年目はエラーも多く打撃も粗さが目立ったが、打撃は高木由一、守備は岩井隆之、走塁は弘田澄男と当時のコーチに一から徹底的に叩き込まれ貪欲に吸収していった。

1993年、チーム名が横浜ベイスターズに変更されたのを機に背番号を0に変更。前年に比べ次第に守備も打撃も安定し、当初は進藤達哉と遊撃手のポジションを争っていたがやがて遊撃は進藤に固定され、自身は三塁を守っていた高木豊を一塁に追いやる形で「2番・三塁手」としてレギュラーを獲得し、初めて規定打席に到達。また、数試合ながら中堅手としても出場した。しかし、シーズン終盤に肺炎を患う。シーズン最終戦は入院していたところを特別に許可を受け、代走出場。2盗塁を記録し、盗塁王とゴールデングラブ賞三塁手部門のタイトルを獲得した。ゴールデングラブ賞は以後、1995年まで3年連続で受賞することとなる。

1994年には背番号を5に変更。主に2番打者として出場し、フル出場を果たした。

1995年は日替わりで1、2番を打ち、初の打率3割を記録した。同年のオールスターゲームに初出場。

1996年、新監督に就任した大矢明彦の意向により、遊撃手に転向した。慣れない守備に意識を奪われたためか前年より打撃成績を落とすも、中盤より1番打者に定着。タイトルこそ獲得できなかったが生涯唯一の40盗塁越えを記録した。

1997年は2番打者・波留敏夫との1、2番コンビが定着。2度目のオールスター出場を果たし、この年以降オールスターには5年連続して出場することになった。自身2度目の打率3割を記録し、初めてベストナインを遊撃手部門で獲得する。

1998年、選手会長に就任。マシンガン打線の1番打者としてチーム38年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献した。7月14日の巨人戦では、9回に石井のエラーから同点に追いつかれるが、その裏自身のバットでサヨナラ打を放ち、マシンガン打線を象徴するような取られても取り返す逆転劇を見せた。初の最多安打と2度目の盗塁王のタイトルを獲得し、遊撃手としては自身初めてとなる、通算では4度目のゴールデングラブ賞を受賞。103得点を記録し、松井秀喜と並んで球団創設以来初となる最多得点を獲得する。同年の日本シリーズでは10月18日の1回戦の初打席、西武の西口文也からセーフティバントを決め、すかさず盗塁を決めるなど、勝利を呼び込む活躍を見せ優秀選手に選ばれた。

1999年には通算1000安打、1000試合、200盗塁達成。このうち、7月15日の阪神タイガース戦で記録した1000安打は、勝利投手の経験がある選手として史上10人目の記録であった。この年、歴代1位(当時)チーム打率.294という絶好調の打線の中でロバート・ローズが1試合10打点を記録した7月22日のヤクルト戦で、1試合最多得点のセントラル・リーグ新記録となる6得点を記録し、さらに自身初の1試合2本塁打も記録した。

2000年は4度目となる盗塁王を獲得した。

2001年には2度目の最多安打を記録するなど安定した成績を残し、遊撃手として1997年から5年連続でベストナインを受賞した。

2002年は前年と同じく140試合に出場し、156安打を記録。長嶋茂雄と並ぶ当時プロ野球記録の6年連続150安打を達成した。しかし、打率は8年ぶりに2割8分を下回る。

2003年は1992年以来の100安打未達を記録。打率.231は野手転向後では最悪の数字となった。スターティングメンバーから外された際には、野手転向時のようにゼロからやり直すつもりで自ら二軍落ちを志願した。8月22日の巨人戦で1500安打を記録するが、精神的にもスランプに陥った年だった。

2004年は2001年と同じ打率.295の成績を残し、3度目の2桁本塁打も達成するなど復活を果たした。

2005年は、全146試合に「1番・遊撃手」で先発起用されフルイニング出場を果たすものの、打率は.255に落ち込むなど再び低迷した。

2006年5月11日、楽天戦(横浜スタジアム、セ・パ交流戦)の1回裏第1打席で愛敬尚史から中前打を放ち、史上34人目の2000安打を達成した。栃木県出身では初の名球会入りを果たす。横浜球団では松原誠・駒田徳広以来3人目(生え抜きでは松原以来2人目)の2000安打達成で、投手として勝ち星を挙げた選手としては川上哲治以来史上2人目。後に川上は「私の場合はプロ草創期なので石井君の1勝は10勝に匹敵する」とコメントしている。大洋時代の恩師須藤豊は「(石井は)篠塚を目標としていたが、これからは自分が目標とされるように」という祝福の言葉を送った。本人は「残り39本でスタートしたがこんなに苦しい思いをするとは思わなかった、安堵感でいっぱい」と泣きながら語っている。ドラフト外での入団選手としては秋山幸二以来2人目であり、現在ではドラフト外入団選手で最多安打記録保持者となっている。

その後、8月12日のヤクルト戦で石川雅規から安打を放ち、松原誠の持つ球団安打記録2081本を塗り替えた。この年は打順こそ2番、3番打者として起用された試合もあったが、2年連続で全146試合フルイニングに出場。最終的には自己最多タイの174安打を放ち、打率も2割8分台に乗せるなど再び復調を果たした。

2007年は前年オフに膝を手術したこともあり、この年監督に復帰した大矢は石井を無理せず休ませると公言。4月1日の巨人戦の6回の守備で石川雄洋と交代し、連続フルイニング出場記録が当時の現役選手では金本知憲に続く2位の339試合で途切れた。また、巨人から移籍した仁志敏久が1番打者に入ったことで、石井は2番打者を打つことが多くなる。9月5日、阪神戦(阪神甲子園球場)の第1打席で死球を受け、右手首を骨折。9月中に戦列復帰を果たすが安打数は99安打に止まり、4年連続・通算14度目のシーズン100安打達成はならなかった。

2008年は開幕戦から再び1番打者で起用されたが、成績が芳しくなかったため5月頃からは7番~9番打者で起用されることが多くなった。同年夏に開催された北京オリンピックの野球日本代表にチームの正三塁手だった村田修一が選出。村田がいない間、若手の石川雄洋が三塁手に定着したが、最下位を独走するチーム状況を考慮した大矢監督の若手起用の方針もあり、村田復帰後も石川は遊撃手にコンバートされ、石井は先発での出場が激減し、16年ぶりに100試合を割り92試合の出場に終わった。そして同年シーズン終了間近に球団から引退勧告を受ける。石井は勧告を拒否し、現役続行を希望して球団に自由契約を申し出た。

国内外を問わず移籍先を探していたが、2008年11月12日、広島が石井獲得を発表した。11月29日、自費で横浜スタジアムを借り切り、ファンへの感謝を表すイベントを開催した。主催者発表によるとファン3500人が参加し、オークションではユニフォームが20万円以上の値で落札された。石井は「これを区切りにして、広島で優勝できるよう頑張りたい」とコメントした。

2009年は開幕一軍でスタート。本職の遊撃手の他に守備固めでの三塁手起用もされる。横浜時代の応援歌が親しみやすく人気があったため、横浜応援団の計らいもありカープへの移籍後も広島応援団が引き続き使用した。7月4日の横浜戦にて、横浜スタジアムで通算100本塁打達成。2202試合目での達成は出場試合数で史上最遅の記録であった(従来の記録は東映・毒島章一の1773試合。またプロ在籍年数ではヤクルト・八重樫幸雄と並ぶ21年目で、最遅タイ)。移籍後の横浜スタジアムでの試合では、石井が打席に立つ際に横浜ファンも応援に参加し、球場全体から大声援が送られるという光景が見られ、100号本塁打達成時は両スタンドから賞賛の拍手と歓声が送られた。7月17日の横浜戦では、吉田義男(阪神)を抜き日本歴代最多となる遊撃手としての通算1731試合出場を達成。シーズン前半は梵英心、後半は小窪哲也と併用され出場試合数と打撃成績は前年を下回ったが、1年を通して一軍でプレーした。

2010年も年間を通して一軍に定着。スタメン出場は少ないものの打率は3割を超えた。この年の契約更改では200万円アップの年俸2700万円(推定)で契約し、広島移籍後は2年連続で年俸アップを勝ち取った。

2011年は4月23日のヤクルト戦(マツダスタジアム)でプロ入り初めて二塁の守備につく。この試合では猛打賞を記録し、40歳7か月での猛打賞は広島の球団記録だった。シーズンオフに右膝のクリーニング手術を受ける。

2012年から一軍野手コーチ兼任となって6月まで代打を中心に試合に出場。7月9日に選手登録を抹消され、コーチ専任となって一軍に帯同していたが、8月27日記者会見を開き、2012年シーズン限りでの現役引退を表明した。同年シーズン本拠地最終戦の9月30日の対阪神戦(マツダ)、引退試合として1番・遊撃手で先発出場。現役最後の安打を含む2安打を放つ。その後も一軍登録は抹消されずに10月7日の対ヤクルト戦(神宮)では9回に代打で出場(結果は右飛)。シーズン最終戦となる10月8日の対古巣・DeNA戦(横浜スタジアム)では試合前に引退セレモニーが行われ、かつてのチームメイトの三浦大輔と金城龍彦から花束を受け取り、両チームのファンによる応援歌の合唱が行われた。試合では「1番・遊撃手」として先発フル出場し、現役最終打席は中飛となった。

2013年シーズンより広島の一軍内野守備走塁コーチに就任し、2012年秋季キャンプから指導を開始。2年間一塁ベースコーチを務めたのち、2015年シーズンは三塁ベースコーチ、2016年シーズンは一軍打撃コーチを担当。2016年・2017年には広島のリーグ優勝に貢献し、2017年のシーズン終了をもって広島を退団した。

2018年シーズンからは東京ヤクルトの一軍打撃コーチを務めた。同年から青木宣親が7年ぶりに復帰、春季キャンプ前から「とにかく得点にこだわりたい」と話し、前年のチーム打率はリーグワーストの.234だったが、2018年は同トップの.266、総得点は658(1試合平均4.6)と、前年よりも200点近い上積みに成功した。

2019年は高卒2年目の村上宗隆を一軍に定着させるなど尽力したが、チーム打率が.244とリーグワーストに低迷し、最下位逆戻りの一因になった。同年9月29日に契約満了に伴い退団が発表された。

2019年10月29日、2020年から読売ジャイアンツの一軍野手総合コーチを務めることが発表された。2021年シーズンも同コーチを務めていたが、同年10月5日、三軍野手コーチに配置転換された。その後、石井自らがコーチ退任を申し入れ、11月2日に退団。

同年11月13日、2022年から古巣の横浜DeNAベイスターズで一軍野手総合コーチを務めることが発表された。背番号は75。

2022年6月6日、日本ハム戦のため札幌入りした際に体調不良を訴え、病院で左小脳梗塞と診断されそのまま入院。同14日に退院し、療養を挟んで同24日の広島戦(横浜)から試合前の指導を再開。同28日の阪神戦(横浜)からベンチ入り復帰した。

2023年はチーフ打撃コーチを務めた。

2024年はチーフ打撃兼走塁兼一塁ベースコーチを務めた。同年、DeNAはクライマックスリーズ優勝と日本シリーズ優勝を達成し、それぞれの祝勝会のビールかけではともに中締めを務めた。

2025年からは田代富雄、鈴木尚典、柳田殖生、大村巌4コーチと共に役職が一・二軍の肩書のない野手コーチに配置転換された。戦術系を担当するコーチではなく、選手のパフォーマンス向上や育成を担当する役割で、コーディネーターの差配によって一・二軍のどちらにいるか定義されるポジションとなる。

横浜時代は俊足巧打の不動のリードオフマンとして活躍。ミートに優れ、どのコースに対しても体がブレずに同じ形で打てる打者だった。自らを簡単にヒットを打てるタイプではなかったと語り、ファウルで粘り、足を使った小技を活かした打撃を積み重ね、1番打者としてとにかく塁に出ることを心掛けていた。

通算2432安打は日本人プロ野球選手の通算安打数で歴代11位で、横浜在籍時の2307安打は横浜球団史上最多の記録である。猛打賞は通算164回記録している。

平成を代表する守備の上手い名遊撃手に挙げられ、俊足を生かしたフットワークや投手出身の肩の強さを生かし、「送球までの速さと安定感は12球団1」とも評された。三遊間の深い位置からの送球など強肩ぶりを発揮し、ベテランになってからも肩を衰えさせないようにノーバウンド送球していた。ポジショニングが良く、送球ミスもほとんど見ることが無かったと同じチームで捕手だった谷繁元信も評している。引退時は遊撃手での日本プロ野球史上最多試合出場記録(1765試合)を持っていた(2022年時点で第3位)。

三塁手としては3度ゴールデングラブ賞を受賞しているが、1996年に遊撃手に転向してからは同リーグにセ・リーグ最多受賞記録を持つ同い年の宮本慎也がいたため遊撃手としては1度しかゴールデングラブ賞を受賞していない(逆にベストナインは石井の方が多く受賞している)。92年、93年と石井とともに内野を守っていた高木豊はプロ野球選手で一番サードの守備が上手かったのは石井だと語っている。共に三遊間を守り、守備の名手でもあった1年先輩の進藤達哉が常にお手本だった。

通算358盗塁を記録しており、4度盗塁王を獲得しており、1993年〜2006年まで14年連続で二桁盗塁を記録していた。横浜在籍時の通算盗塁数は355盗塁で、球団の最多記録保持者である。一つでも先の塁を狙う意識を強く持ち、本塁に生還した通算1298得点はNPB歴代10位の記録である。

現役時代はミズノとアドバイザリー契約を結び、野球道具を大切にする選手としても有名だった。

練習に対してはとてもストイックで、若手の頃から周りがやめろと言うまで練習をやり続けていた。当時コーチだった岩井隆之からは「おまえのせいで腰を痛めた」、三浦正行からは「俺からギブアップしたのは琢朗が最初で最後」と言われるほどだった。アマチュア時代に野手の経験が無く、プロに入ってから野手の技術を学んだため、癖がなく何でも吸収することができたと本人は語り、反対を押し切って投手から野手に転向したことで、受け身で練習するのではなく自分から積極的に覚えようという気持ちが強かったという。

現役時代から先輩後輩関係なくはっきり意見を言えるタイプであったが、指導者になってからもその姿勢は変わらず、一方で選手たちを守る姿勢も貫き慕われていた。現役時代に自身が野手転向した際に何もできない所から根気よく指導してくれた高木由一と岩井隆之が石井の指導者としてのベースにあり、選手に対しては「何でできないんだ」ではなく「できなくて当たり前」という気持ちで根気のある指導をしている。 打撃指導に関しては「バッティングに正解はない」というのが持論で、選手に対しては理論から入るのではなく、最初は振る力を身に着け、そこから形にしていくということを大切にしている。2016年に広島の一軍打撃コーチに就任した際、前年チーム打率がリーグ5位に落ち込んだ打線に「打てないときにいかに点を取るか」という考えのもと指導を行い、打率、本塁打、得点、盗塁がリーグトップとなる成績を収め、優勝の原動力となった。守備に関して、選手たちには打者や状況によってなるべく自分で考えて予測と準備をし、自分のポジショニングを確立していくように助言している。現役時代の自身の経験からは、残した数字ではなく失敗から学んだ部分を選手に伝えるようにしている。

愛称は「タク」、「ハマの切り込み隊長(横浜時代)」。

登録名の琢朗は、野手に転向する際、大成する字画の名前として高校時代の先輩のアドバイスから付けられたもの。1997年には同姓の石井義人がベイスターズに入団してきたため背ネーム表記がT.ISHII、報道やスコアボードでの表記も石井琢に変更され、球場アナウンスもフルネームで呼称されるようになった。2002年に横浜に在籍した石井浩郎が同年限りで引退、2003年には石井義人も移籍したため、報道などでは「石井」表記に戻ったが、その他の表記等は以前のままとしており、これは広島移籍後も続いた。

ヒット1本につき1万円を積み立て、シーズン後に福祉関連先に寄付したり、横浜市内のこども医療センターに絵本を毎月寄贈したり、横浜スタジアムの石井琢朗シートを市社会福祉協議会へ寄付したり、チャイルド・ファンド・ジャパンを通じてフィリピンの子どもたちの里親となり教育支援をするなど、慈善活動にも積極的であった。

2008年3月9日付『朝日新聞』に、出身地である栃木県佐野市の佐野松陽高校の生徒がいもフライを使って町おこしに取り組んでいるとの記事が紹介された。これに石井本人も一役買おうと意気込み、球団に働きかけた結果横浜スタジアム内レストランにて5月14日より販売が実現した。シーズン終了後にこのいもフライの売上金の一部が佐野市に寄付された。広島に移籍後の2009年にもマツダスタジアムの売店にて石井琢朗プロデュースとして販売され人気を博した。

1996年にアイドル歌手の瀬能あづさと結婚したが、2000年に離婚。2001年8月にフジテレビアナウンサーであった荒瀬詩織と再婚し、2002年7月に長女、2005年8月に二女、2013年7月に長男が誕生した。前妻瀬能との間に子供はいない。広島での選手生活はホテル、選手寮などでの単身赴任状態であった。次女の石井さやかはテニスプレイヤーで、全日本テニス選手権99thの女子シングルス優勝者。

「-」は記録なし

各年度の太字はリーグ最高

大洋(横浜大洋ホエールズ)は、1993年に横浜(横浜ベイスターズ)に球団名を変更

各年度の太字はリーグ最高

太字年はゴールデングラブ賞受賞年

盗塁王:4回(1993年、1998年 - 2000年) ※5年のブランク受賞は同賞史上最長タイ(他に河野旭輝、柴田勲、高橋慶彦)

最多安打:2回(1998年、2001年)

ベストナイン:5回(遊撃手部門:1997年 - 2001年)

ゴールデングラブ賞:4回(三塁手部門:1993年 - 1995年、遊撃手部門:1998年)

JA全農Go・Go賞:1回(好走塁賞:1996年4月)

日本シリーズ優秀選手賞:1回(1998年)

出身地別東西対抗戦最優秀選手:1回(2002年)

セントラル・リーグ特別功労賞(2012年)

栃木県民栄誉賞(2006年)

佐野市民栄誉賞(2006年) ※受賞者第1号

足利市スポーツ特別賞(2006年)

ベスト・ファーザー イエローリボン賞 in 「プロ野球部門」(2008年)

初登板:1989年4月13日、対広島東洋カープ3回戦(横浜スタジアム)、4回表に救援登板、1回1失点

初奪三振:同上、4回表に白武佳久から

初先発・初勝利:1989年10月10日、対ヤクルトスワローズ25回戦(明治神宮野球場)、8回1/3を3失点(自責点1)

初安打:1989年10月10日、対ヤクルトスワローズ25回戦(明治神宮野球場)、3回表に加藤博人から中前安打

初得点:1989年10月16日、対阪神タイガース26回戦(阪神甲子園球場)、3回表に記録

初打点:1992年4月18日、対ヤクルトスワローズ2回戦(横浜スタジアム)、4回裏に高津臣吾から

初盗塁:1992年5月10日、対読売ジャイアンツ8回戦(横浜スタジアム)、1回裏に二盗(投手:チャック・ケアリー、捕手:村田真一)

初本塁打:1992年7月26日、対広島東洋カープ18回戦(横浜スタジアム)、1回裏に北別府学から

1000安打:1999年7月15日、対阪神タイガース16回戦(阪神甲子園球場)、2回表に山﨑一玄から ※史上196人目

1000試合出場:1999年10月15日、対ヤクルトスワローズ27回戦(横浜スタジアム)、1番・遊撃手として先発出場 ※史上354人目

1500安打:2002年8月22日、対読売ジャイアンツ21回戦(東京ドーム)、4回表に入来祐作からソロ ※史上83人目

200犠打:2003年7月8日、対中日ドラゴンズ14回戦(ナゴヤドーム)、1回表に野口茂樹から ※史上24人目

300盗塁:2003年8月6日、対読売ジャイアンツ22回戦(東京ドーム)、7回表に二盗(投手:コリー・ベイリー、捕手:阿部慎之助)

1500試合出場:2003年8月27日、対広島東洋カープ20回戦(横浜スタジアム)、2番・遊撃手として先発出場 ※史上140人目

1000得点:2005年4月5日、対読売ジャイアンツ1回戦(横浜スタジアム)、1回裏に金城龍彦の左前適時打で生還 ※史上31人目

1000三振:2006年5月2日、対中日ドラゴンズ3回戦(ナゴヤドーム)、4回表に川上憲伸から ※史上38人目

2000安打:2006年5月11日、対東北楽天ゴールデンイーグルス3回戦(横浜スタジアム)、1回裏に愛敬尚史から中前安打 ※史上34人目

350盗塁:2007年5月13日、対広島東洋カープ9回戦(横浜スタジアム)、1回裏に二盗(投手:黒田博樹、捕手:石原慶幸) ※史上15人目

2000試合出場:2007年6月13日、対北海道日本ハムファイターズ2回戦(札幌ドーム)、8回裏に遊撃手として出場 ※史上38人目

250犠打:2007年7月12日、対中日ドラゴンズ12回戦(横浜スタジアム)、9回裏にラファエル・クルスから ※史上11人目

3000塁打:2008年5月14日、対読売ジャイアンツ7回戦(横浜スタジアム)、2回裏に金刃憲人から中前安打 ※史上42人目

100本塁打:2009年7月4日、対横浜ベイスターズ7回戦(横浜スタジアム)、5回表に三浦大輔から右越ソロ ※史上256人目、2202試合目での達成は史上最遅

1試合6得点:1999年7月22日、対ヤクルトスワローズ17回戦(横浜スタジアム) ※日本タイ記録、セ・リーグ記録

1試合4犠打:2003年7月8日、対中日ドラゴンズ14回戦(ナゴヤドーム) ※日本タイ記録

シーズン150安打以上:9回(1997年 - 2002年、2004年 - 2006年)※歴代3位タイ

6年連続シーズン150安打以上:1997年 - 2002年(歴代2位タイ、セ・リーグタイ記録)

同一球場で1000安打(横浜スタジアム)

オールスターゲーム出場:6回(1995年、1997年 - 2001年)

66(1989年 - 1992年)

0(1993年)

5(1994年 - 2008年)

25(2009年 - 2012年)

75(2013年 - 2017年、2022年 - )

81(2018年 - 2019年)

89(2020年 - 2021年)

石井 忠徳(いしい ただのり、1989年 - 1991年)

石井 琢朗(いしい たくろう、1992年 - )

『疾走!琢朗主義』(ベースボールマガジン社:2002年4月)ISBN 978-4583036939

『心の伸びしろ』(ベストセラーズ:2013年3月)ISBN 978-4584134795

『プロフェッショナル 打撃解体新書』(カンゼン:2024年8月)ISBN 978-4862557315

^ 同ゲームで先発バッテリーを組んだ捕手は同級生の谷繁元信だった。

^ 投手としては150km/h近い直球と落差の大きいカーブが持ち味で、当時の監督である須藤豊に「ボールをもてあそぶことができる。それに全力投球してもコントロールが乱れない。運動神経の偏差値が高い投手。近いうち桑田のライバルになる。今の石井にないのは経験だけ」と絶賛されていた。

^ 現在はセ・リーグ記録1位。現在の歴代1位は2003年の福岡ダイエーホークスの.296。

^ その後、松井稼頭央とアレックス・ラミレスが7年連続150安打を達成し記録を塗り替える

^ なお横浜は前年(2005年)に楽天戦では6勝0敗で交流戦を終えており、それまで8連勝を挙げていたが、9回目の試合となるこの試合にて初めて敗戦した。

^ 記録達成の際には冗談で、「投手時代の(打者として打った安打)3本はカウントして欲しくない」とコメントしている。

^ 2020年10月28日に、鳥谷敬が更新。その後、坂本勇人にも抜かれ、2021年時点では第3位。

^ 字画を整えるため本来は正字の琢(旁部分に点が打たれている)を使うのが正しいが、パソコン等で表示されないため新字で代用されることが多い。

^ ただし広島入団会見時は背ネーム表記が「ISHII」だった。

^ “DeNA、来季のコーチ陣を発表 相川亮二氏がチーフ作戦を兼任、青山道雄氏は巡回コーチ”. Full-Count (2022年11月1日). 2022年11月1日閲覧。

^ “おめでとう石井琢朗選手 2000本安打達成”. 佐野市. 2022年3月21日閲覧。

^ 澤宮優『ドラフト外』河出文庫、2013年、ISBN 9784309412603

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栃木県出身の人物一覧

横浜DeNAベイスターズの選手一覧

広島東洋カープの選手一覧

マシンガン打線

個人年度別成績 石井琢朗 - NPB.jp 日本野球機構

選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube

選手名鑑 - 横浜DeNAベイスターズ公式サイト

81 三浦大輔

78 進藤達哉(ベンチ)

72 靍岡賢二郎(オフェンスチーフ)

80 相川亮二(ディフェンスチーフ兼野手)

97 田中浩康(内野守備兼ベースコーチ兼野手)

74 河田雄祐(外野守備兼ベースコーチ兼野手)

79 大原慎司(チーフ投手兼投手)

94 小杉陽太(投手兼投手)

83 桑原義行(監督兼投手コーディネーター)

89 中井大介(オフェンスチーフ)

73 藤田一也(ディフェンスチーフ兼内野守備兼ベース)

84 上田佳範(外野守備兼ベースコーチ兼野手)

88 入来祐作(投手兼投手アシスタントコーディネーター兼投手)

86 八木快(投手兼投手)

82 万永貴司(野手コーディネーター)

76 田代富雄(野手)

90 大村巌(野手)

71 村田修一(野手)

75 石井琢朗(野手)

77 鈴木尚典(野手)

85 柳田殖生(野手)

未定 辻俊哉(野手)

70 加賀繁(投手補佐)

11 東克樹

13 伊勢大夢

14 石田健大

15 徳山壮磨

16 大貫晋一

17 三嶋一輝

18 小園健太

19 山﨑康晃

20 坂本裕哉

22 入江大生

24 吉野光樹

26 濵口遥大

27 上茶谷大河

30 三浦銀二

34 松本凌人

36 森下瑠大

38 森唯斗

40 松本隆之介

41 佐々木千隼

42 ジャクソン

45 森原康平

46 石川達也

48 京山将弥

49 ウェンデルケン

53 中川颯

54 石田裕太郎

56 髙田琢登

59 平良拳太郎

62 ウィック

64 中川虎大

65 宮城滝太

69 ケイ

92 堀岡隼人

93 ディアス

5 松尾汐恩

10 戸柱恭孝

29 伊藤光

32 益子京右

50 山本祐大

57 東妻純平

00 林琢真

2 牧秀悟

3 オースティン

6 森敬斗

9 大和

31 柴田竜拓

39 西浦直亨

44 石上泰輝

51 宮﨑敏郎

55 井上絢登

60 知野直人

98 京田陽太

99 フォード

0 大田泰示

1 桑原将志

4 度会隆輝

7 佐野恵太

8 神里和毅

25 筒香嘉智

28 勝又温史

33 武田陸玖

37 楠本泰史

58 梶原昂希

61 蝦名達夫

63 関根大気

035 橋本達弥

043 深沢鳳介

101 草野陽斗

102 清水麻成

106 渡辺明貴

107 マルセリーノ

108 今野瑠斗

122 庄司陽斗

116 九鬼隆平

127 上甲凌大

130 近藤大雅

100 蓮

125 小笠原蒼

129 西巻賢二

133 粟飯原龍之介

193 高見澤郁魅

金田正一

稲尾和久

小山正明

米田哲也

梶本隆夫

皆川睦雄

村山実

鈴木啓示

堀内恒夫

山田久志

江夏豊

平松政次

東尾修

村田兆治

北別府学

佐々木主浩

高津臣吾

工藤公康

野茂英雄

山本昌広

岩瀬仁紀

黒田博樹

上原浩治

藤川球児

平野佳寿

山内一弘

榎本喜八

野村克也

長嶋茂雄

広瀬叔功

張本勲

王貞治

江藤慎一

土井正博

高木守道

松原誠

柴田勲

大杉勝男

藤田平

衣笠祥雄

福本豊

山崎裕之

山本浩二

有藤通世

若松勉

谷沢健一

加藤秀司

門田博光

大島康徳

新井宏昌

秋山幸二

駒田徳広

立浪和義

鈴木一朗(イチロー)

清原和博

古田敦也

野村謙二郎

石井琢朗

松井秀喜

田中幸雄

前田智徳

金本知憲

松井稼頭央

小笠原道大

稲葉篤紀

宮本慎也

小久保裕紀

アレックス・ラミレス

中村紀洋

谷繁元信

井口資仁

和田一浩

新井貴浩

福留孝介

荒木雅博

青木宣親

阿部慎之助

鳥谷敬

内川聖一

福浦和也

坂本勇人

栗山巧

大島洋平

1957 豊田泰光

1958 中西太

1959 杉山光平

1960 近藤和彦

1961 塩原明

1962 岩下光一

1963 王貞治

1964 K.ハドリ

1965 林俊彦

1966 長嶋茂雄

1967 D.スペンサー

1968 柴田勲

1969 足立光宏

1970 黒江透修

1971 黒江透修

1972 長嶋茂雄

1973 高田繁

1974 山崎裕之

1975 中沢伸二, 外木場義郎

1976 B.ウイリアムス

1977 福本豊

1978 若松勉

1979 水谷実雄

1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰

1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正

1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義

1983 田淵幸一, テリー, 中畑清

1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊

1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二

1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実

1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己

1988 清原和博, 森山良二, 郭源治

1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸

1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤

1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎

1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也

1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也

1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦

1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾

1996 大島公一, 鈴木平, イチロー

1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛

1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広

1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司

2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成

2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満

2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之

2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎

2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信

2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁

2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲

2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博

2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広

2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一

2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平

2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩

2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー

2013 田中将大, 銀次, 内海哲也

2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太

2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太

2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔

2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大

2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃

2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩

2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐

2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎

2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆

2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸

2024 筒香嘉智, A.ジャクソン, A.ケイ

1950 金山次郎

1951 土屋五郎

1952 金山次郎

1953 金山次郎

1954 吉田義男

1955 本多逸郎

1956 吉田義男

1957 飯田徳治

1958 岡嶋博治

1959 岡嶋博治

1960 中利夫

1961 近藤和彦

1962 河野旭輝

1963 高木守道

1964 古葉竹識

1965 高木守道

1966 柴田勲

1967 柴田勲

1968 古葉竹識

1969 柴田勲

1970 東条文博

1971 高田繁

1972 柴田勲

1973 高木守道

1974 中塚政幸

1975 大下剛史

1976 衣笠祥雄

1977 柴田勲

1978 柴田勲

1979 高橋慶彦

1980 高橋慶彦

1981 青木実

1982 松本匡史

1983 松本匡史

1984 高木豊

1985 高橋慶彦

1986 屋鋪要, 平野謙

1987 屋鋪要

1988 屋鋪要

1989 正田耕三

1990 緒方耕一, 野村謙二郎

1991 野村謙二郎

1992 飯田哲也

1993 緒方耕一, 石井琢朗

1994 野村謙二郎

1995 緒方孝市

1996 緒方孝市

1997 緒方孝市

1998 石井琢朗

1999 石井琢朗

2000 石井琢朗

2001 赤星憲広

2002 赤星憲広

2003 赤星憲広

2004 赤星憲広

2005 赤星憲広

2006 青木宣親

2007 荒木雅博

2008 福地寿樹

2009 福地寿樹

2010 梵英心

2011 藤村大介

2012 大島洋平

2013 丸佳浩

2014 梶谷隆幸

2015 山田哲人

2016 山田哲人

2017 田中広輔

2018 山田哲人

2019 近本光司

2020 近本光司

2021 中野拓夢

2022 近本光司

2023 近本光司

2024 近本光司

1994 野村謙二郎

1995 野村謙二郎

1996 A.パウエル

1997 L.ロペス

1998 石井琢朗

1999 R.ローズ

2000 R.ローズ

2001 石井琢朗

2002 清水隆行

2003 A.ラミレス

2004 嶋重宣

2005 青木宣親

2006 青木宣親

2007 A.ラミレス

2008 内川聖一

2009 A.ラミレス

2010 M.マートン

2011 M.マートン

2012 坂本勇人, 長野久義

2013 M.マートン

2014 山田哲人

2015 川端慎吾

2016 菊池涼介

2017 丸佳浩, J.ロペス

2018 D.ビシエド

2019 大島洋平

2020 大島洋平

2021 近本光司

2022 佐野恵太, 岡林勇希

2023 牧秀悟, 中野拓夢

2024 長岡秀樹

1950 白石勝巳

1951 平井正明

1952 平井正明

1953 平井三郎

1954 広岡達朗

1955 吉田義男

1956 吉田義男

1957 吉田義男

1958 吉田義男

1959 吉田義男

1960 吉田義男

1961 河野旭輝

1962 吉田義男

1963 古葉毅

1964 吉田義男

1965 吉田義男

1966 一枝修平

1967 藤田平

1968 黒江透修

1969 藤田平

1970 藤田平

1971 藤田平

1972 三村敏之

1973 藤田平

1974 藤田平

1975 三村敏之

1976 三村敏之

1977 河埜和正

1978 高橋慶彦

1979 高橋慶彦

1980 高橋慶彦

1981 山下大輔

1982 宇野勝

1983 高橋慶彦

1984 宇野勝

1985 高木豊

1986 高橋慶彦

1987 宇野勝

1988 池山隆寛

1989 池山隆寛

1990 池山隆寛

1991 野村謙二郎

1992 池山隆寛

1993 池山隆寛

1994 川相昌弘

1995 野村謙二郎

1996 野村謙二郎

1997 石井琢朗

1998 石井琢朗

1999 石井琢朗

2000 石井琢朗

2001 石井琢朗

2002 井端弘和

2003 二岡智宏

2004 井端弘和

2005 井端弘和

2006 井端弘和

2007 井端弘和

2008 鳥谷敬

2009 坂本勇人

2010 鳥谷敬

2011 鳥谷敬

2012 坂本勇人

2013 鳥谷敬

2014 鳥谷敬

2015 鳥谷敬

2016 坂本勇人

2017 田中広輔

2018 坂本勇人

2019 坂本勇人

2020 坂本勇人

2021 坂本勇人

2022 中野拓夢

2023 木浪聖也

1972 長嶋茂雄

1973 長嶋茂雄, C.ボイヤー

1974 C.ボイヤー

1975 島谷金二

1976 高田繁

1977 高田繁

1978 掛布雅之

1979 掛布雅之

1980 衣笠祥雄

1981 掛布雅之

1982 掛布雅之

1983 掛布雅之

1984 衣笠祥雄

1985 掛布雅之

1986 衣笠祥雄

1987 原辰徳

1988 原辰徳

1989 W.ロードン

1990 岡崎郁

1991 角富士夫

1992 T.オマリー

1993 石井琢朗

1994 石井琢朗

1995 石井琢朗

1996 江藤智

1997 進藤達哉

1998 進藤達哉

1999 進藤達哉

2000 岩村明憲

2001 岩村明憲

2002 岩村明憲

2003 立浪和義

2004 岩村明憲

2005 岩村明憲

2006 岩村明憲

2007 中村紀洋

2008 中村紀洋

2009 宮本慎也

2010 宮本慎也

2011 宮本慎也

2012 宮本慎也

2013 村田修一

2014 村田修一

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2016 村田修一

2017 鳥谷敬

2018 宮﨑敏郎

2019 高橋周平

2020 高橋周平

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2022 岡本和真

2023 宮﨑敏郎

2024 坂本勇人

1972 バート

1973 藤田平

1974 河埜和正

1975 藤田平

1976 山下大輔

1977 山下大輔

1978 山下大輔

1979 山下大輔

1980 山下大輔

1981 山下大輔

1982 山下大輔

1983 山下大輔

1984 平田勝男

1985 平田勝男

1986 平田勝男

1987 平田勝男

1988 立浪和義

1989 川相昌弘

1990 川相昌弘

1991 川相昌弘

1992 池山隆寛

1993 川相昌弘

1994 川相昌弘

1995 野村謙二郎

1996 川相昌弘

1997 宮本慎也

1998 石井琢朗

1999 宮本慎也

2000 宮本慎也

2001 宮本慎也

2002 宮本慎也

2003 宮本慎也

2004 井端弘和

2005 井端弘和

2006 井端弘和

2007 井端弘和

2008 井端弘和

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2010 梵英心

2011 鳥谷敬

2012 井端弘和

2013 鳥谷敬

2014 鳥谷敬

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2017 坂本勇人

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2024/11/20 19:19更新

ishii takurou


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