近藤和彦の情報(こんどうかずひこ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
近藤 和彦さんについて調べます
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近藤和彦と関係のある人
土井淳: この時のチームは、同じ明大の秋山・近藤和彦、立教の長嶋茂雄ら、そうそうたるメンバーが揃い、16人中14人がプロに進んでいる。 長嶋茂雄: 打率.353で2位・近藤和彦の.316に大差をつけて3年連続となる首位打者、初のセ・リーグMVPを獲得し、28本塁打で本塁打王も獲得。 エリック宮城: アルト・サクソフォーン:鈴木明男、近藤和彦 今津光男: 1990年には日本ハム戦でトニー・ブリューワへの死球がきっかけで乱闘騒ぎが起こり、日本ハムの近藤和彦一軍打撃コーチを蹴り飛ばした事もあった。 島岡吉郎: 明治大学硬式野球部監督時代の教え子には秋山登、土井淳、近藤和彦、池田英俊、辻佳紀、高田繁、星野仙一、名取和彦、鹿取義隆、広沢克己、福王昭仁、武田一浩、平田勝男らがいる。 森永勝也: この時に森永は、首位打者争いのライバルであった近藤和彦から率を下げないコツを掴んだという。 綱島理友: また、近藤和彦を憧れの選手として挙げている。 三原脩: 一方、大洋ホエールズの監督に就任した後の1962年には、打撃の良い近藤和彦を2番に据え、小技に長けた近藤昭仁を下位に置くメガトン打線を組んだが、三塁手・桑田武を強引に遊撃手へ据えるほどの守備力を度外視した布陣だったため、1960年に日本一を達成した時とは一転して「接戦に弱い」という弱点が露呈した。 中利夫: 1967年には王貞治、近藤和彦と熾烈な打率争いを繰り広げるが、セーフティーバントを連続成功させたことが功を奏し、打率.343で首位打者を獲得。 池田英俊: 1962年5月13日の国鉄戦(広島市民球場)で4回に徳武定之、1965年6月16日の大洋ホエールズ戦(広島市民球場)の3回に近藤和彦に安打を打たれて1安打試合を2度記録。 中島執: しかし、1958年に近藤和彦が新入団、1959年には岩本堯が移籍入団し、厳しい外野の定位置争いが続く。 松原誠: 1965年には中堅手に回った近藤和彦の後継として一塁手の定位置を獲得し、75試合に先発出場。 渡辺貞夫: [Sax Section] 吉田治(lead as), 小池修(2nd ts), 近藤和彦(3rd as), 今尾敏道(4th ts), 山本拓夫(5th bs) 一枝修平: 若手育成という球団の方針で二軍落ちしたが、母校・明大の先輩である近藤和彦、同期の辻と共にトリオでプレーし、慌てず騒がずの心境であった。 三原脩: また、近藤和彦・桑田武を除くと打線はリーグ最低の打率だったが、二塁手に新人の近藤昭仁を起用するなど、野手陣の再編にも力を注ぐ。 辻佳紀: 若手育成という球団の方針で二軍落ちしたが、母校・明大の先輩である近藤和彦、同期の一枝と共にトリオでプレーし、マイペースで来季に備えた。 平松政次: 3年目春のキャンプ、一軍選手が雨天のため体育館で練習をした際に、打席に立った近藤和彦から冷やかしで投げさせられたのが「ちゃんと投げたのは初めてというシュート」であった。 別当薫: 打撃陣では松原をはじめ、前年レギュラー定着の江尻や前年首位打者を争った近藤和彦、正捕手の伊藤勲などがそれなりの成績を残してチーム本塁打131本でリーグ3位を記録した。 遅塚忠躬: (近藤和彦)『過ぎ去ろうとしない近代――ヨーロッパ再考』(山川出版社 1993年) 平松政次: しかしプロ入り後、1969年春のキャンプの草薙キャンプの室内練習場で平松が投球練習をしていると近藤和彦と近藤昭仁に「こんな球しか投げられないのか」といったことを言われ、カッとなって、それまでまともに投げたこともないシュートを全力で6球投げてみた。するとボールは平松自身も驚くほど鋭く打者に向かって変化、近藤和彦は腰を抜かしていたという。 中登志雄: 1960年には打率.312(長嶋茂雄、近藤和彦に次ぐ3位)を記録し、50盗塁で盗塁王を獲得。 中塚政幸: 1970年には、守備に衰えの見える近藤和彦が一塁手に専念、強肩俊足を活かし主に中堅手として起用される。 中利夫: 1960年には打率.312(長嶋茂雄、近藤和彦に次ぐ3位)を記録し、50盗塁で盗塁王を獲得。 島田幸雄: 翌年は故障もあって近藤和彦が一塁手に回るが、終盤戦で復帰しリーグ初優勝に貢献。 中登志雄: 1967年には王貞治、近藤和彦と熾烈な打率争いを繰り広げるが、セーフティーバントを連続成功させたことが功を奏し、打率.343で首位打者を獲得。 |
近藤和彦の情報まとめ
近藤 和彦(こんどう かずひこ)さんの誕生日は1936年3月2日です。大阪出身の野球選手のようです。
母親、卒業、引退、テレビに関する情報もありますね。2002年に亡くなられているようです。
近藤和彦のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 近藤 和彦(こんどう かずひこ、 1936年3月2日 - 2002年6月10日)は、大阪府高槻市出身の元プロ野球選手(外野手、一塁手)・コーチ・監督、解説者。 「天秤打法」と呼ばれる独特の構えで打席に立つことで知られる。息子はフジ・メディア・テクノロジー専務取締役の近藤憲彦。 高槻市立第一中学校で野球を始めるが、右膝に水が溜まる持病に悩まされていた。この膝を直そうと、近藤の母親は「面を打つときの前後運動が膝にいいだろう」と考え、和彦に剣道をやらせた。平安高校では「投手をやりたい」と監督に申し出たが、希望は叶えられず近藤は代打専門で3年間を過ごした。3年次の1953年に春の選抜へ控え選手として出場するが、出番は代打1打席のみに終わり、チームも2回戦で伏見高に敗退。 高校卒業後は1954年に明治大学政治学科へ一般入学で進学し、野球部に入部した時にもポジションを聞かれて、「代打専門で、ポジションはありません」と答えている。この時はまだ天秤打法ではなく、大下弘や、与那嶺要に憧れてバットを立てて構えていた。立大の長嶋茂雄らと同期となる。実績もないため当初は第二合宿所にも入れなかったが、夏の広島遠征で成果を出し、秋からは合宿所に入り土屋弘光と同部屋になった。東京六大学野球リーグでは、1年次の同年秋に代打でデビューすると藤田元司(慶大)の前に凡退するも、杉浦忠(立大)からは代打で適時三塁打を放つ。 1955年からレギュラーとなり、エース秋山登を擁し同年春季の優勝に貢献。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で日大を破り優勝し、第2回アジア野球選手権大会日本代表(東京六大学選抜チーム)にも選出された。その後は早大・立大の後塵を拝し優勝から遠ざかるが、2年次の1955年春季、3年次の1956年春季、4年次の1957年春季リーグと3度のベストナインに輝いた。リーグ通算83試合出場、255打数66安打、打率.259、0本塁打、23打点。ベストナイン3回(一塁手1回、外野手2回)。 1958年に大洋ホエールズへ入団。2月16日の鹿児島キャンプ初日に宿舎の錦港旅館で夜食を食べ終えると、大鏡の前で素振りを行った。そこに通りかかった青田昇が30秒ほど素振りを見てから「相撲とろうや」と持ちかけ、身長では近藤が15cmも上回っていたが青田の上手投げで近藤は投げ飛ばされた。青田は「大下は手首が無類に強かった、与那嶺もアメリカンフットボールをやっていたから、凄い筋力を持っていた。お前みたいな非力なやつがそんな構えじゃプロのボールに負けるぞ、もっと速い球をどう打つか工夫してみろよ」と指摘し、近藤はキャンプ初日に打撃フォームを否定されてしまった。左肘に痛みがあったこともあって近藤は打撃フォーム変更を模索し、斜めにしてみたり、立ててみたりしてるうちに、何気なくバットで剣道の面を打ってみたところ、近藤は「これだ!」と閃いた。面の素振りは両手を15cmほど離して構えるが、バットでもスムーズに行えた。次に近藤は「剣道の面は上下の素振りだ、これをどうしたら野球の地面に水平な素振りにするか?」と考え、両手を15cm離しながら、バットを横に寝かせて、頭上で軽く上下させてみると、楽にバットが振れたため、青田に否定されてから3日間で天秤打法は生まれた。 1年目の同年はシーズン序盤に一塁手、その後は中堅手、右翼手として起用される。7月からは3番打者に定着し、打率.270(13位)で自己最高の13本塁打を記録した。外野手としても10補殺を記録し、守備面でも貢献している。新人として申し分のない成績であったが、同期に二冠王の長嶋がいたため新人王を逃した。 1960年には同期の長嶋に次ぐリーグ2位の打率.316を残し、球団史上初のリーグ優勝に貢献。同年7月17日の巨人戦ダブルヘッダー第2試合(川崎)、大混戦のセ・リーグで首位戦線にとどまっていた大洋は、同15日から始まった巨人4連戦で3連敗を喫して後のない4戦目を迎えていた。試合は島田源太郎・秋山という両エースの奮闘もあって2-2で9回裏に入り、一死走者無しで打席に入った近藤は堀本律雄の内角ストレートを振り抜き、右翼席にサヨナラ本塁打を叩き込んだ。三原脩監督は「チームにとって最大のピンチを救った」と近藤を褒め称えたが、近藤は三原が退場となった31日の中日戦(川崎)でも大矢根博臣からサヨナラ安打を放っている。大毎との日本シリーズでも15打数6安打と活躍、日本一にも大きく寄与した。同年から1968年まで9年連続でオールスターゲーム出場を果たす。 1961年7月8日の阪神戦(川崎)でサイクル安打を記録。この試合では安打、二塁打、三塁打を放って迎えた第5打席に本間勝から本塁打を放ち、サイクル安打を達成した。自他ともに鈍足の選手であったと認めており、明大時代からのニックネームは「ドンコ」であった。最初は近藤を逆さから呼んだ「ウドンコ」であったが、近藤のあまりの足の遅さに、鈍行列車にかけて「ドンコ」になったほど足は遅かった近藤であったが、優れた走塁技術でそれをカバーし、1961年には35盗塁で盗塁王のタイトルを獲得。友人に「何の賞をもらったんだい?」と聞かれる度に「それが妙な話、盗塁王なんだ」と近藤は照れた。 1963年のオールスターでは7月22日の第1戦(後楽園)で、9回裏に稲尾和久からサヨナラ2点本塁打を放ちMVPに輝いた。オールスターでは初出場となった1960年7月27日の第3戦(後楽園)から、1964年7月20日の第1戦(川崎)まで9試合連続安打という記録も打ち立てた。これは2000年にイチローに抜かれるまで日本記録であった。打率リーグ2位を通算4回、打率3割を通算6回記録したものの、首位打者は一度も獲得できなかった。1960年、1961年と2年連続で首位打者争いで長嶋に敗れ、打率2位に甘んじた。1962年は長嶋の打率を越えたものの伏兵の森永勝也に敗れ、またしても2位と歴代唯一の3年連続打率2位を記録。さらに1967年には中日の中利夫、巨人の王貞治との熾烈な争いの末、最終戦の中日戦ダブルヘッダーで中と直接対決になり、2試合で中が8打数6安打、近藤が8打数1安打でまたも2位に終わった。優勝までの貧打線では3番打者として多く起用されたが、大洋打線が大型化し「メガトン打線」となると出塁率の高さから、攻撃的2番打者での起用が多くなった。 1966年5月10日の阪神戦(川崎)で一旦はサヨナラとなる本塁打を放つも、投球前にタイムがかかっていたため打ち直しとなり、ピッチャーゴロに終わった。この試合では3点をリードされて迎えた9回裏に伊藤勲の2ランを放って追い上げると、続く重松省三が左翼席に運んで同点に追い付いた。続く近藤和もジーン・バッキーから3者連続本塁打となる左翼ポール直撃のサヨナラ本塁打を放ち、大歓声の中ホームインしてベンチに帰ると新聞記者に囲まれてインタビューが始まった時、そこに三原がやってきて「和よ、やりなおしだ。」と言った。実は近藤が本塁打を打つ直前に右翼席の大洋ファンが空き瓶を投げ込んだためタイムがかかっており、近藤が打ち直した打球はピッチャーゴロに終わり、試合も負けてしまった。 1970年には守備に衰えが見られ、一塁手に専念する。 1971年には三塁手の松原誠が一塁に回ったことにより、出場機会が減少。 1973年に宮原秀明との交換トレードで近鉄バファローズに移籍するが、若手育成という球団の方針で二軍落ち。母校・明大の後輩である辻佳紀・一枝修平と共にトリオでプレーし、若手にバッティングを教えた。同年引退。 引退後は大洋の二軍打撃コーチ(1976年 - 1977年)・一軍作戦兼打撃コーチ(1982年)→一軍作戦総合コーチ(1983年 - 1984年)→一軍打撃コーチ(1985年 - 1986年)、1期目と2期目の合間を縫って、フジテレビ「ナイター中継/野球中継&プロ野球ニュース」・ニッポン放送「ショウアップナイター」解説者(1978年 - 1981年, 1987年 - 1988年)を務めた。1985年から1986年まで大洋の監督であった近藤貞雄に招聘されて日本ハムの一軍打撃コーチ(1989年 - 1990年)→二軍監督(1991年 - 1992年)→ヘッドコーチ(1993年 - 1994年)も務め、退団後はNHK-BS「メジャーリーグ中継」解説者、韓国プロ野球のハンファ・イーグルス打撃コーチ(1997年)も務めた。プロ野球マスターズリーグの発足に貢献したが、2002年6月10日午前3時55分、多臓器不全のため死去。66歳没。 長嶋は、近藤のことを「最も有力強力なライバルの一人」として高く評価している。1960年代の実績から、2000本安打はもとより終身打率3割も達成可能と期待されていたが、その後の衰えが早く、いずれの記録にも届かなかった。 近藤は通算1736安打を放ったが、内訳としては実に8割近くの1387安打が単打で、最多安打は1度だが最多単打はプロ野球史上歴代1位の8回獲得。1本のバットを折らずに4年間使ったことさえあったという。 近藤は外野を守ったが、試合中に外野から一塁に回されることもよくあった。そんなとき近藤は「グラブから、急にミットに変えると重く感じるんです」と言って外野グラブをファーストミットに変えることもなく一塁の守備ついた。プロ野球史上グラブでファーストを守ったのは近藤だけである。 近藤は引退の理由を聞かれた際に「涙なんですよ、投手の動作を20秒、25秒とまばたきしないで見ていると、涙で投手が見えなくなる。最後の一年は近鉄に移籍しましたが、そこで決めたんですね。」と答えており、絶頂期には90秒まばたきしないで耐えられたが、30秒耐えられなくなった時に、近藤は自らの老いを感じバットを置いた。 タイトルこそ少ないものの、球団記録のベストナイン7回が示すように、その能力の高さは折紙付であり、最多安打、盗塁王、最高守備率2度と走・攻・守の全てに優れた職人であった。 各年度の太字はリーグ最高 盗塁王:1回 (1961年) 最多安打:1回 (1965年)※当時連盟表彰なし。 ベストナイン:7回 (1960年 - 1965年、1967年) 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1960年) オールスターゲームMVP:1回 (1963年 第1戦) 1000試合出場:1965年9月11日 ※史上104人目 サイクル安打:1回 (1961年7月8日、対阪神タイガース戦、川崎球場) ※史上20人目 オールスターゲーム出場:9回 (1960年 - 1968年) 26 (1958年 - 1973年) 73 (1976年 - 1977年、1982年 - 1986年) 81 (1989年 - 1994年) 泣いてたまるか(TBS)第4話「オールセーフ」(1966年) - 本人 役 ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、233ページ ^ 神宮球場ガイドブック1998年春号「神宮球場から翔び立ったプロ野球のスターたち」越智正典 ^ 【5月10日】1966年(昭41) ホエールズ、3連続本塁打でサヨナラ勝ちのはずが… - Sponichi Annex ^ 週刊ベースボール1973年10月8日号「12球団週間報告 パシフィック・リーグ…近鉄バファローズ」p85 京都府出身の人物一覧 明治大学の人物一覧 横浜DeNAベイスターズの選手一覧 大阪近鉄バファローズの選手一覧 松本哲也 - 元プロ野球選手。彼のバッティングスタイルも近藤同様に「天秤打法」と呼ばれることがある。 個人年度別成績 近藤和彦 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 1957 豊田泰光 1958 中西太 1959 杉山光平 1960 近藤和彦 1961 塩原明 1962 岩下光一 1963 王貞治 1964 K.ハドリ 1965 林俊彦 1966 長嶋茂雄 1967 D.スペンサー 1968 柴田勲 1969 足立光宏 1970 黒江透修 1971 黒江透修 1972 長嶋茂雄 1973 高田繁 1974 山崎裕之 1975 中沢伸二, 外木場義郎 1976 B.ウイリアムス 1977 福本豊 1978 若松勉 1979 水谷実雄 1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰 1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正 1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義 1983 田淵幸一, テリー, 中畑清 1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊 1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二 1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実 1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己 1988 清原和博, 森山良二, 郭源治 1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸 1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤 1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎 1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也 1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也 1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦 1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾 1996 大島公一, 鈴木平, イチロー 1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛 1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広 1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司 2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成 2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満 2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之 2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎 2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信 2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁 2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲 2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博 2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広 2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一 2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平 2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩 2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー 2013 田中将大, 銀次, 内海哲也 2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太 2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太 2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔 2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大 2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃 2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩 2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐 2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎 2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆 2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸 2024 筒香嘉智, A.ジャクソン, A.ケイ 表 話 編 歴 1951 川上哲治, 野口明, 林義一 1952 飯島滋弥 1953 飯田徳治, 平井三郎, 堀井数男 1954 中西太, 山内和弘 1955 山内和弘, 西沢道夫 1956 森下正夫, 吉田義男 1957 大下弘, 宮本敏雄 1958 宮本敏雄, 中西太 1959 山内和弘, 中利夫 1960 森下整鎮, 金田正一, 張本勲 1961 広瀬叔功, 田宮謙次郎 1962 ブルーム, 張本勲 1963 近藤和彦, 王貞治, 古葉毅 1964 金田正一, J.マーシャル, J.スタンカ 1965 D.スペンサー, 高倉照幸, 江藤慎一 1966 広瀬叔功, 榎本喜八, 古葉竹識 1967 土井正博, 長池徳二, 大杉勝男 1968 江藤慎一, 柴田勲, 小池兼司 1969 土井正博, 船田和英 1970 長池徳二, 江夏豊, 遠井吾郎 1971 江夏豊, 長池徳二, 加藤秀司 1972 野村克也, 阪本敏三, 池田祥浩 1973 若松勉, 福本豊, 山崎裕之 1974 高井保弘, 福本豊, 張本勲 1975 山本浩二, 松原誠, 土井正博 1976 有藤道世, 門田博光, 吉田孝司 1977 若松勉, 野村克也, 王貞治 1978 A.ギャレット, 簑田浩二, 掛布雅之 1979 王貞治, B.マルカーノ, 山本浩二 1980 岡田彰布, 平野光泰, 江夏豊 1981 藤原満, 掛布雅之, 山倉和博 1982 福本豊, 柏原純一, 掛布雅之 1983 門田博光, 梨田昌崇, 落合博満 1984 簑田浩二, ブーマー, 江川卓 1985 高木豊, W.クロマティ, 松永浩美 1986 山本和範, 清原和博, 吉村禎章 1987 高沢秀昭, 石毛宏典, 清原和博 1988 ブーマー, 岡田彰布, 正田耕三 1989 村田兆治, 彦野利勝 1990 R.ブライアント, 清原和博 1991 古田敦也, 広沢克己 1992 石井浩郎, 古田敦也, 駒田徳広 1993 清原和博, T.オマリー 1994 秋山幸二, G.ブラッグス 1995 落合博満, 松井秀喜 1996 山本和範, 清原和博, 金本知憲 1997 松井稼頭央, 清原和博 1998 川上憲伸, 松井秀喜 1999 松井秀喜, R.ローズ, 新庄剛志 2000 R.ペタジーニ, 山﨑武司, 清原和博 2001 松井稼頭央, R.ペタジーニ, 中村紀洋 2002 G.アリアス, 的山哲也 2003 高橋由伸, 金本知憲 2004 松坂大輔, SHINJO 2005 金城龍彦, 前田智徳 2006 青木宣親, 藤本敦士 2007 A.ラミレス, 阿部慎之助 2008 山﨑武司, 荒木雅博 2009 青木宣親, 松中信彦 2010 阿部慎之助, 片岡易之 2011 畠山和洋, 中村剛也, 稲葉篤紀 2012 中村紀洋, 前田健太, 陽岱鋼 2013 澤村拓一, 新井貴浩, 内川聖一 2014 B.エルドレッド, 柳田悠岐 2015 藤浪晋太郎, 會澤翼 2016 筒香嘉智, 大谷翔平 2017 内川聖一, A.デスパイネ 2018 森友哉, 源田壮亮 2019 森友哉, 近本光司 2020 (中止) 2021 菊池涼介, 島内宏明 2022 清宮幸太郎, 柳田悠岐 2023 柳田悠岐, 万波中正 2024 牧秀悟,佐藤都志也 表 話 編 歴 1950 金山次郎 1951 土屋五郎 1952 金山次郎 1953 金山次郎 1954 吉田義男 1955 本多逸郎 1956 吉田義男 1957 飯田徳治 1958 岡嶋博治 1959 岡嶋博治 1960 中利夫 1961 近藤和彦 1962 河野旭輝 1963 高木守道 1964 古葉竹識 1965 高木守道 1966 柴田勲 1967 柴田勲 1968 古葉竹識 1969 柴田勲 1970 東条文博 1971 高田繁 1972 柴田勲 1973 高木守道 1974 中塚政幸 1975 大下剛史 1976 衣笠祥雄 1977 柴田勲 1978 柴田勲 1979 高橋慶彦 1980 高橋慶彦 1981 青木実 1982 松本匡史 1983 松本匡史 1984 高木豊 1985 高橋慶彦 1986 屋鋪要, 平野謙 1987 屋鋪要 1988 屋鋪要 1989 正田耕三 1990 緒方耕一, 野村謙二郎 1991 野村謙二郎 1992 飯田哲也 1993 緒方耕一, 石井琢朗 1994 野村謙二郎 1995 緒方孝市 1996 緒方孝市 1997 緒方孝市 1998 石井琢朗 1999 石井琢朗 2000 石井琢朗 2001 赤星憲広 2002 赤星憲広 2003 赤星憲広 2004 赤星憲広 2005 赤星憲広 2006 青木宣親 2007 荒木雅博 2008 福地寿樹 2009 福地寿樹 2010 梵英心 2011 藤村大介 2012 大島洋平 2013 丸佳浩 2014 梶谷隆幸 2015 山田哲人 2016 山田哲人 2017 田中広輔 2018 山田哲人 2019 近本光司 2020 近本光司 2021 中野拓夢 2022 近本光司 2023 近本光司 2024 近本光司 表 話 編 歴 投 秋山登 捕 土井淳 一 近藤和彦 二 井上登 三 長嶋茂雄 遊 吉田義男 外 中利夫 / 並木輝男 / 森徹 表 話 編 歴 投 権藤博 捕 森昌彦 一 藤本勝巳 二 土屋正孝 三 長嶋茂雄 遊 河野旭輝 外 江藤慎一 / 近藤和彦 / 森永勝治 表 話 編 歴 投 村山実 捕 森昌彦 一 王貞治 二 小坂佳隆 三 長嶋茂雄 遊 吉田義男 外 近藤和彦 / 並木輝男 / 森永勝治 表 話 編 歴 投 金田正一 捕 森昌彦 一 王貞治 二 高木守道 三 長嶋茂雄 遊 古葉毅 外 江藤慎一 / 近藤和彦 / 藤井栄治 表 話 編 歴 投 G.バッキー 捕 森昌彦 一 王貞治 二 高木守道 三 長嶋茂雄 遊 吉田義男 外 江藤慎一 / 近藤和彦 / 重松省三 表 話 編 歴 投 村山実 捕 森昌彦 一 王貞治 二 高木守道 三 長嶋茂雄 遊 吉田義男 外 江藤慎一 / 近藤和彦 / 中暁生 表 話 編 歴 投 小川健太郎 捕 森昌彦 一 王貞治 二 高木守道 三 長嶋茂雄 遊 藤田平 外 近藤和彦 / 柴田勲 / 中暁生 日本の野球選手 龍谷大学付属平安高等学校出身の野球選手 明治大学野球部の選手 横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の選手 盗塁王 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 NPBオールスターゲームMVP 日本の野球監督 北海道日本ハムファイターズ関連人物 韓国の野球に関する人物 ハンファ・イーグルス 野球解説者 京都府出身のスポーツ選手 京都市出身の人物 1936年生 2002年没 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/23 07:40更新
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kondou kazuhiko
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