平松政次の情報(ひらまつまさじ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
平松 政次さんについて調べます
■名前・氏名 |
平松政次と関係のある人
土橋正幸: 同日のフジテレビONEで放送された「プロ野球ニュース」においては、冒頭の内容を大幅に変更して土橋と親交が深かった解説者・選手・指導者(関根潤三、大矢明彦、平松政次、谷沢健一、司会・金村義明、遠藤玲子)を迎えて土橋の追悼コーナーが行われた。 片岡新之介: 平松政次・松岡弘・森安敏明と並んで岡山四天王の一人として注目されるが、捕手のリードに首を振って打たれたことから捕手の重要性に気付く。 鵜飼克雄: しかし岡山東商業高(平松政次がエースだった)に完封され、0-1で惜敗。 松沼博久: 1978年の都市対抗野球では、1回戦で丸善石油から毎回の17三振を奪い、平松政次の持つ大会記録(16奪三振)を塗り替える。 簾内政雄: 1967年の第22回東京スポニチ大会では4試合完投、決勝で日本石油の平松政次からホームランを打ち初優勝に貢献、自らも最高殊勲選手に選出された。 デーブ=ジョンソン: 日本野球にも慣れ開幕から六番打者として活躍するが、古傷の膝痛や、開幕直後の4月7日に後楽園球場で平松政次から受けた死球で悪化した右手親指痛のため、6月9日に治療のために一時帰国する。 奥江英幸: 岡山東商から大洋までの在籍先では、いずれも平松政次の後輩に当たる。 辻恭彦: 辻は前年6勝に終わった平松政次の再生を任されたほか、新人・若手投手の育成を主に受けることとなった。 鎌田実: 1000安打:1970年10月6日、対大洋ホエールズ23回戦(阪神甲子園球場)、3回裏に平松政次から左前安打 ※史上75人目 笠間雄二: 初本塁打:1977年8月7日、対大洋ホエールズ19回戦(川崎球場)、6回表に平松政次からソロ 川口和久: 対巨人戦で30勝以上している投手のうち勝ち越しを記録している選手は星野仙一、平松政次、川口の3人だけである。 別当薫: 投手陣では森中千香良・島田源太郎・平松政次・山下律夫などがローテーションに入ってそれなりの成績を収めたが、打線の援護で勝つ試合も多くチーム防御率3.71はリーグ5位であった。 服部敏和: 1965年春の選抜では中堅手として準々決勝まで進出するが、岡山東商業高校(主戦は平松政次)に完封負けを喫する。 中野孝征: 日本石油との決勝では平松政次に完封を喫し準優勝にとどまるが、久慈賞を獲得した。 土井淳: エースの平松政次の夫人は栄養剤を買いためたほか、朝晩は冷えるため厚手のパジャマも用意。 今西練太郎: 若林忠志、宮武三郎、北井正雄、白木義一郎、大島信雄などが時折サイドスローやアンダースローで投げており、後年では平松政次がシュートのキレを出すためかサイドスローに腕を下げた投げ方もしていたようなので、今西もそのような投げ方をしていた可能性もある。 渡辺秀武: 1970年には平松政次(25勝)に次ぐリーグ2位の23勝とチームトップの勝ち星を挙げると共に、5月18日の広島戦(後楽園)でノーヒットノーランを達成。 矢部祐一: 1966年の都市対抗で準々決勝に進出するが、日本石油の平松政次に抑えられ敗退。 セス=グライシンガー: 最多勝利:2回 (2007年、2008年)※2年連続はセ・リーグ最長タイ記録(他は金田正一、権藤博、村山実、平松政次、江川卓、遠藤一彦、斎藤雅樹、山本昌、内海哲也、菅野智之、青柳晃洋) 山下律夫: 平松政次・小谷正勝と共に2年連続Aクラス入りに貢献したが、1971年は中日・巨人からそれぞれ1勝ずつと勝ち星を挙げられなかったほか、特に後半戦で勝ち星を挙げられず3年連続2桁勝利を逃した。 鳥原公二: 初奪三振:1978年7月4日、対横浜大洋ホエールズ11回戦(横浜スタジアム)、8回裏に平松政次から 早川実: 1年目の1976年は開幕直後の4月10日に大洋戦(川崎)で初登板し、8回裏に6番手で平松政次に1号ソロ本塁打を打たれるも初勝利。 阿部良男: 1966年の都市対抗で活躍、準々決勝に進出するが日本石油(エースは平松政次)に抑えられ敗退。 古田昌幸: 準決勝では日本石油の平松政次の好投に苦しむが9回裏逆転サヨナラ勝ち。 斎藤明夫: 抑えでは1イニングだけではなく回跨ぎの登板が当たり前だったため、抑えでありながら規定投球回に到達した年もあり、その登板内容から、名球会の基準には達していないが平松政次などから名球会入りを推す声もある。 島田源太郎: 1972年7月に平松政次が故障し坂井勝二が不調の中で突如現役に復帰。 槌田誠: 同年のドラフト1位で読売ジャイアンツに入団するが、このドラフトで巨人は「1位指名」と目されていた同郷の平松政次を蹴って槌田を指名し、正捕手の森昌彦は会議当日に「巨人は、なかなかひと休みさせてくれないなぁ」と冗談半分、本音半分でもらした。 広野功: 次の試合から5番・右翼手として先発出場するが、同23日の大洋戦(川崎)で平松政次から死球を受け右手指を骨折し、1ヶ月ほど戦列を離れる。 齊藤明雄: 2018年12月、平松政次に代わり、ホエールズ・ベイスターズOB会の新会長に就任。 星野仙一: 県内の1学年下には後の横浜大洋ホエールズに入る岡山東商・平松政次がおり、高校時代にも直接対決したことがある。 |
平松政次の情報まとめ
平松 政次(ひらまつ まさじ)さんの誕生日は1947年9月19日です。岡山出身の野球選手のようです。
現在、父親、引退、テレビ、ドラマに関する情報もありますね。今年の情報もありました。平松政次の現在の年齢は77歳のようです。
平松政次のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 平松 政次(ひらまつ まさじ、1947年9月19日 - )は、岡山県高梁市出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者。 「カミソリシュート」の異名を取る、高速かつ凄まじい切れ味を誇るシュートを武器に、大洋ホエールズで18年間活躍した。愛称は「カミソリ平松」。風邪をよく引いたり故障が多かったりしたことから「ガラスの平松(ガラスのエース)」とも。現在は神奈川県横浜市神奈川区在住。 3歳で父親と死別。 岡山県立岡山東商業高等学校時代の1964年、湊山球場での秋季中国大会決勝で米子東に敗れたが、準優勝の成績を収め、翌1965年春の第37回選抜高等学校野球大会に出場。39イニング連続無失点の大会新記録を樹立し、決勝で藤田平のいた市和歌山商を、延長13回サヨナラ勝ちで降し優勝した。同年夏は県予選準決勝で倉敷商の松岡弘、東中国大会決勝で関西高校の森安敏明に投げ勝ち甲子園出場を決める。この大会では春夏連覇が期待されたが、1回戦で降雨ノーゲームによる再試合の末、日大二高に敗れた。 同年の第1回ドラフト会議で中日ドラゴンズに4位指名を受けるが、元々平松自身は読売ジャイアンツ(巨人)入りを望んでいたこともあり入団拒否。社会人野球の日本石油に入社しエースとして活躍。 1966年の都市対抗では広瀬幸司とバッテリーを組み、準決勝に進むが熊谷組に9回サヨナラ負けを喫する。同大会では小野賞を獲得。同年のアマチュア野球世界選手権日本代表に選出され日本の優勝に貢献、また第1回社会人ベストナインにも選出される。第2回第2次ドラフト会議で大洋ホエールズから2位指名を受けるが入団保留。このドラフト会議では巨人から1位指名の確約を受けていたが、巨人は槌田誠を指名した。巨人は競合した槌田の抽選に外れた場合、平松を指名する予定であったといわれている。 1967年の都市対抗では枝松道輝、石山建一ら打線の援護もあり、2完封を含む4連勝で決勝に進出、8月8日に行われた決勝でも日本楽器を完封で降し優勝。同大会の橋戸賞を受賞した。大会終了の2日後、大洋に入団。入団説得のために、高校の先輩であった秋山登と土井淳のバッテリーがそろって平松の元に訪れた。 1年目は途中入団ということもあって3勝に終わる。しかし2完封を記録したこともあり、1968年には開幕第3戦から先発として起用され、2年目の飛躍を期待されたが5勝12敗と伸び悩む。当人はひそかに「俺のプロ野球生活は3,4年で終わりだな」と覚悟したという。3年目春のキャンプ、一軍選手が雨天のため体育館で練習をした際に、打席に立った近藤和彦から冷やかしで投げさせられたのが「ちゃんと投げたのは初めてというシュート」であった。初めて投げたシュートは鋭く胸元に食い込み、驚いた一軍選手がコーチに報告してチャンスが到来した。 1969年に14勝をあげ、規定投球回(リーグ7位、防御率2.56)にも到達。 1970年は25勝をあげ、最多勝利投手のタイトルを獲得。防御率1.95も村山実に次ぐリーグ2位の好成績であり、同年の沢村賞を受賞。また、セ・リーグの最優秀投手、ベストナインにも選出された。 1971年も17勝で2年連続最多勝を達成、最優秀投手に選出される。 1973年、1974年で肩痛と闘いながら12年連続2桁勝利まであげるなどエースとして低迷するチームを支えた。 1975年6月にろっ骨にひびが入り、戦線離脱した。 1979年には最優秀防御率2.39を記録する。現役末期は怪我に泣き「ガラスのエース」と呼ばれた。 1983年に200勝を達成した。 1984年限りで現役引退を表明。シーズン最終戦である10月13日のヤクルト戦で引退試合が行われた。自身は9回裏二死、5対2とリードの場面でこの日先発の遠藤一彦と交代で登板(遠藤は右翼手に回った)。長年バッテリーを組み、同じく引退を表明していた捕手・辻恭彦とともに試合を締め、有終の美を飾った。なお、現役時代を通してリーグ優勝を経験できなかった。 同じ岡山県出身の星野仙一(中日)、松岡弘(ヤクルト)と共に「打倒巨人」に燃え、巨人キラーとして活躍。彼の投げるシュートボールは「カミソリシュート」と呼ばれ、数多くの右打者のバットを根元からへし折った。全盛期には「ど真ん中のボールが右打者の体に当たるくらいまで変化した」とまで言われている。 引退直後、近藤唯之が「あなたは巨人戦51勝、200勝も達成した。悔いはないでしょう。」と尋ねたところ「自分は現役生活で1度も優勝できなかった。それに鈴木啓示はまだやっている(鈴木は同学年でライバルかつ親交があった)。2つも悔いがあるんですよ」と語っている。 また、投手としては打撃にも優れ、投手では歴代4位の通算25本塁打を記録した。引退後はフジテレビ(フジテレビONE『プロ野球ニュース』などで司会を担当することもある)・ニッポン放送(1991年から2005年まで)・テレビ神奈川の野球解説者を務め、現在に至る。大洋や後身の横浜、DeNAの監督・コーチなどに就任することはなかった。 平松によると、『25歳の時に大洋の中部謙吉オーナーから、プレイングマネージャーの話があったが断った。それ以来監督の「か」の字もない。』と語っている。 1998年に横浜が日本一になった時には我がことのように喜んでいた。また、2006年に発足したNPO法人・横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティ(現ベイスターズ・ベースボールアカデミー)の初代理事長に就任した。この団体はベイスターズがJXTGエネルギーと提携して、スポーツを通じて地域貢献を目指す法人である。平松がベイスターズ・日本石油(現ENEOS)野球部双方のOBに当たる縁から就任要請を受けたものである。 2005年から2011年まで、NPB12球団ジュニアトーナメントの横浜ベイスターズジュニアの監督を務めた。 2006年6月2日、横浜スタジアムの右翼外野部分に名球会入りした選手を称えるプレートが設置された。 2012年12月1日、ホエールズ・ベイスターズOB会の会長に就任した。 2017年1月16日、同郷で同じ1947年生まれの星野仙一(学年では星野が1期上)と同時に2017年度野球殿堂エキスパート部門表彰者に選出された。 2018年夏の第100回全国高等学校野球選手権記念大会で、8月9日の第1試合直前に甲子園レジェンド始球式へ登場。投げたボールは外角高目にストライクが決まり、ガッツポーズを見せていた。同年10月6日、平松の功績を称えて、故郷の高梁市にある高梁市神原スポーツ公園野球場の愛称が「平松政次球場」とされた。同年12月1日、6年間務めてきたホエールズ・ベイスターズOB会の会長を任期満了に伴い勇退し、かつての同僚の齊藤明雄にその座を譲った。 平松の代名詞であるシュートだが、社会人時代に投げ方を教わっていたものの、本気で投げたことはなかった。アマチュア時代はカーブですら平松本人に言わせると「(完全な『カーブ』ではなく)カー」程度にしか曲がらず、投げる球種の大半がストレートだったが、それでも打者を打ち取れていたためシュートを投げる必要がなかったのである。しかしプロ入り後、1969年春のキャンプの草薙キャンプの室内練習場で平松が投球練習をしていると近藤和彦と近藤昭仁に「こんな球しか投げられないのか」といったことを言われ、カッとなって、それまでまともに投げたこともないシュートを全力で6球投げてみた。するとボールは平松自身も驚くほど鋭く打者に向かって変化、近藤和彦は腰を抜かしていたという。この時の6球でカミソリシュートが誕生したといい、間もなく一軍に昇格しその後の活躍に至った。 シュートを投げる際の投球フォームはストレートと同じで、一瞬左肩を早く開いて右腕を遅らせる。晩年に球威が落ちると腕を内側にねじる投げ方に変えたが、平松は全盛期の右腕を遅らせる投法を理想として後輩に教えている。しかしその感覚を他者に伝達するのは難しいらしく、教えてもなかなかモノにできないと嘆いている。 1974年7月9日の対巨人戦では、平松の投じたシュートが河埜和正の左手に当たってバックネットに転がりデッドボールかと思われたが、球審の平光清は「ストライクのコースに入った球を河埜が打ちに行き、グリップエンドに当たった」としてファールボールを宣告。この判定に激高した巨人の川上哲治監督が平光にしつこく食い下がったため、平光は川上に退場を宣告。これが川上の37年に及ぶプロ生活で最初で最後の退場となった。 長年にわたって代名詞となったシュートボールであったが、後に平松は「できればシュートではなく、(アマチュア時代のように)ストレートとカーブで勝っていきたかった」と語っている。 平松の巨人戦通算51勝は金田正一(65勝)に次ぐ歴代2位。通算201勝の1/4以上を巨人から挙げている。 なお、平松自身としては子供の頃から巨人のファンで、特に長嶋茂雄に憧れていた。甲子園で優勝した昭和40年の秋に、知人の紹介で岡山遠征中の長嶋と旅館で会うことになり、長嶋にサインをもらった事をきっかけに巨人入団を熱望するようになった。 しかし、前述の通り、1965年から導入されたドラフト制度により、巨人ではなく、中日ドラゴンズから指名されたため入団を拒否した。更に翌年のドラフト会議でも巨人からは指名されず、大洋ホエールズから2位で指名されたため、同球団に入団した。 平松は後年(2022年)、TBSテレビのインタビューに対し、「どうして自分がプロ入りするタイミングでドラフト制度が導入されたのか。巨人に入れなかった悔しい気持ちは今も残っている」と述べている。 長嶋が最も苦手にしていた投手として知られている。長嶋と平松の通算対戦成績は8年間で181打数35安打8本塁打26打点、打率.193、三振33、内野ゴロ65(内併殺打7)で、25打数無安打の時期もあった。これは長嶋が内角のシュートを苦手としていたためであるが、平松自身も「(シュートを使い始めた)この年以降、長嶋さんに打たれた記憶はないですね」と語っている。 なお、カミソリシュートの名は長嶋が「あいつのシュートはカミソリみたいだ」と記者に語ったことで、広まったと平松が語っている。 現役時は短気で気が強い性格として知られた。 1970年6月23日のヤクルト戦で登板中にヤクルトの武上四郎から野次られ、マウンドからそのままヤクルトベンチの前まで行き、年上の武上に向かって「四郎出てこい!」と呼び捨てで怒鳴り飛ばした。同じような事が中日戦でもあり、野次った選手の中にはその日登板がなくベンチにいた星野仙一も含まれており、そのまま中日ベンチまで向い「仙出てこい!」と怒鳴り飛ばしていた。武上は年の離れた大先輩で、星野は同郷の1年先輩にあたるが、戦いの中では先輩も後輩も関係ないと対戦相手にも立ち向かっていった。 若手時代にはエラーをしたベテランの江尻亮に対し砂を蹴飛ばしてチーム首脳陣から大目玉をくらう。引退後、当時を振り返り「江尻さんには申し訳なかった」と語っている。 1978年7月20日の対ヤクルト19回戦(横浜スタジアム)では、5-1でリードしていた3回表に4点を奪われて降板した際、土井淳ヘッドコーチの叱責に対する怒りのあまり、利き手である右手でベンチに設置されていた扇風機を叩き壊したことがある。当時の扇風機の羽根は金属製であったため大怪我をしても不思議ではなく、無傷で済んだのは幸運であった。本人も「一歩間違えば投手生命が終わっていたかも。無茶をやった」と述懐している。この試合は、大洋が3回裏に1点入れて勝ち越し、ヤクルトが4回表に2点入れて逆転、大洋が5回裏に1点入れて同点に追いつくというシーソーゲームだったが、ヤクルトが7回表に3点入れて勝ち越し、結局7-10で大洋は敗戦。勝ち越し打を打たれた4番手の野村収が敗戦投手となった。 ミスをした周囲に対して怒るのでコーチから「みんな懸命にやった結果なのだから変なプレーをしてもお前が助けろ」と諭されても、負けん気の強さから「俺は勝ちたいんだ! 変なプレーをして巨人に勝てるのか!」と反論したという。 松岡弘とは学校やチームが一緒になることはなかったが、同じ岡山県出身で同学年で右投手同士、すなわち岡山時代からプロ球界に至るまでの長年のライバルであり、友人でもある。 2024年現在、NPBの200勝投手の中で春の選抜高校野球または夏の甲子園の優勝投手でもあるのは野口二郎(1937年夏、1938年春・プロ237勝)と平松政次(1965年春・プロ201勝)の2人だけである。そして、200勝投手の中でプロで現役選手として優勝を経験していないのもまた野口と平松のみである(野口は引退後の指導者としては優勝経験がある)。 甲子園優勝投手で、投手として名球会入りしたのは2024年現在平松のみである(「甲子園優勝投手でもある名球会会員」はほかに王貞治と柴田勲がいるが、この二人は「打者として」名球会入りしている)。甲子園優勝投手で日本プロ野球通算200勝を記録した投手としては先述の野口(237勝)がいるが、野口は大正生まれのため名球会入りの資格がなかった。 各年度の太字はリーグ最高 1062打数 166安打(.156) 25本塁打 78打点 最多勝利:2回 (1970年、1971年)※2年連続はセ・リーグ最長タイ記録(他は金田正一、権藤博、村山実、江川卓、遠藤一彦、斎藤雅樹、山本昌、セス・グライシンガー、内海哲也、菅野智之、青柳晃洋) 最優秀防御率:1回 (1979年) 沢村栄治賞:1回 (1970年) ベストナイン:2回 (1970年、1971年) 最優秀投手:2回 (1970年、1971年) 野球殿堂エキスパート部門 (2017年) 岡山市民スポーツ栄誉賞 (2017年) 高梁市市民栄誉賞 (2017年) ※受賞者第1号 岡山県スポーツ特別顕賞:1回 (2017年) 初登板・初先発:1967年8月16日、対広島カープ19回戦(川崎球場)、5回1失点 初奪三振:同上、4回表に藤井弘から 初勝利・初先発勝利・初完封勝利:1967年8月20日、対サンケイアトムズ20回戦(県営宮城球場) 初セーブ:1974年5月19日、対読売ジャイアンツ6回戦(川崎球場)、6回表2死に3番手で救援登板・完了、3回1/3を3失点 100勝:1974年6月1日、対中日ドラゴンズ6回戦(札幌市円山球場)、7回表に2番手で救援登板・完了、3回1失点 ※史上61人目 1000奪三振:1974年10月3日、対中日ドラゴンズ22回戦(中日スタヂアム)、5回裏に広瀬宰から ※史上50人目 150勝:1978年6月3日、対中日ドラゴンズ10回戦(札幌市円山球場)、9回1失点完投勝利 ※史上30人目 1500奪三振:1978年9月9日、対中日ドラゴンズ24回戦(横浜スタジアム)、7回表にフレッド・クハウルアから ※史上25人目 500試合登板:1979年5月26日、対読売ジャイアンツ7回戦(石川県立野球場)、先発登板で7回4失点で勝利投手 ※史上38人目 600試合登板:1983年6月23日、対阪神タイガース13回戦(阪神甲子園球場)、先発登板で2回2/3を9失点で敗戦投手 200勝:1983年10月21日、対読売ジャイアンツ25回戦(後楽園球場)、先発登板で5回1/3を1失点完投勝利(雨天コールド) ※史上19人目 2000奪三振:1984年5月10日、対広島東洋カープ5回戦(横浜スタジアム)、3回表に山根和夫から ※史上10人目 通算25本塁打(投手として歴代4位の記録) 通算201勝(球団記録) 通算145完投(球団記録) 通算120与死球(セ・リーグ記録) 3者連続三球三振:1979年6月16日 対中日ドラゴンズ11回戦(横浜スタジアム)にウェイン・ギャレット、田野倉利男、伊藤泰憲から記録 ※史上9人目(セ・リーグ5人目) オールスターゲーム出場:8回(1969年 - 1974年、1976年、1980年) 3 (1967年)
27 (1968年 - 1984年) 『プロ野球をカミソリシュートで斬る!』(日本文芸社:1987年4月) 『カミソリシュート』(ベースボール・マガジン社:2011年5月) 六つの星(1976年5月1日発売、メインボーカルは細川たかし) 愛してヨコハマ(1979年11月21日発売) 夜明けまでヨコハマ(1985年4月21日発売) トゥナイトイン横浜(2007年9月7日発売) フジテレビ系列プロ野球中継 SWALLOWS BASEBALL L!VE(フジテレビONE) プロ野球ニュース(フジテレビ→フジテレビONE)(1988年4月 - 1992年3月:土日担当、2003年度 - :火曜日司会(2008年度のみ水曜日)) すぽると!(フジテレビ) スポーツ特Q(フジテレビ) ドリフのクリスマスプレゼント'82(フジテレビ)(1982年12月23日、大矢明彦(ヤクルト、当時)とともに出演) tvkプロ野球中継 横浜DeNAベイスターズ熱烈LIVE(テレビ神奈川) ほか 漫画『巨人の星』 - 星飛雄馬の大リーグボール3号から最初に安打を奪った選手として描かれている。「投手なのでスイングがゆるく、バットに当たった」という理由だった。 漫画・アニメ『野球狂の詩』 - 原作・アニメにも時折、登場していた。 漫画『リトル巨人くん』 - 小学館の学年別学習雑誌にて1983年シーズン終了後に掲載された回で、同年限りでの現役引退を表明した名投手の一人として堀内恒夫、小林繁と共に登場し、主人公の滝巨人に決め球(堀内:スローカーブ、小林:シンカー、平松:シュート)を伝授。平松は上述のように翻意してもう1年現役を続けることに。 アニメ『がんばれ!!タブチくん!!』(第2作) - 安田猛からサヨナラホームランを打っている。 ^ 大洋と入団契約を交わした1967年8月10日は大洋の平松との交渉権が切れる当日でもあった。都市対抗野球大会の終了日がこの日以降になった場合、大洋が自動的に平松との交渉権を喪失することを意味した。平松は事前に大洋側に対して、大会の終了後に入団表明を行うとしていた(大会中にプロ入りを表明した場合、即座にアマチュア資格を剥奪されるため)。また当時「巨人が平松の大洋入団を阻止するために、大会終了後直ちに平松を雲隠れさせる」という噂が飛び交っており、そのため大洋の関係者達はひたすら8月10日までに大会が終了することのみを願っていたという。 ^ 1970年の25勝のうち、7勝(完封4・防御率1.50)が巨人戦での勝ち星だった。これは、チーム全体の巨人戦勝利数(14勝)の半分にあたる。平松はこのシーズンから、「カミソリシュート」にスライダーを組み合わせるようになった。なお、巨人監督の川上哲治はこの年のペナントレースを振り返って、「平松に抑えられなかったら、ウチはもっと楽に優勝できた(2位阪神とのゲーム差は2)。シュート・直球・スライダーの組み合わせには王も長嶋も手が出なかった。」という趣旨の発言を行っている。 ^ 名球会所属投手で優勝未経験なのは平松と野茂英雄だけ。ただし野茂はロサンゼルス・ドジャース時代の1995年、同球団がナショナル・リーグ西地区で優勝した経験はある(ナ・リーグ優勝はならず)。 ^ 現役引退後に出演した資生堂「ヴィンテージ」CM(youtu.be/MH6iwtyqN9I)より ^ 「名球会comics 平松政次」には昭和26年2月22日、クラレ岡山工場のガス爆発で死去とある。 ^ 「藤田平氏、平松投手とのライバル対決振り返る センバツ決勝で名勝負、プロで延長戦」『デイリースポーツ online』2020年7月14日。2020年9月26日閲覧。 ^ TBSテレビ (2022年10月17日). “入団率わずか37.9%!第1回ドラフト会議は“入団拒否”連発だった”. TBS NEWS DIG. 2022年10月17日閲覧。 ^ 岡邦行『江川になれなかった男たち』三一書房、1983年、91-92頁。OCLC 673103408。 ^ “平松政次【後編】“カミソリシュート”で長嶋と名勝負/プロ野球1980年代の名選手 | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE. 2021年5月17日閲覧。 ^ 近藤唯之『引退 そのドラマ』新潮社〈新潮文庫〉、1986年、63頁。ISBN 4-10-132204-X。 ^ “平松政次 野球と子どもの成長について語る。”. 学びの場.com (2010年11月16日). 2022年8月23日閲覧。 ^ 『平成29年 野球殿堂入り発表 伊東氏、星野氏、平松氏、郷司氏、鈴木氏が殿堂入り』(プレスリリース)野球殿堂博物館、2017年1月16日。http://i.baseball-museum.or.jp/baseball_hallo/news/halloffame2017_02.html。2017年1月16日閲覧。 ^ “谷繁元信氏が始球式 外角低めにストライク”. 日刊スポーツ. (2018年8月9日). https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/201808090000147.html 2020年9月26日閲覧。 ^ 「平松政次球場」の愛称を命名しました ^ 「平松政次球場」が誕生 高梁市神原スポーツ公園野球場に愛称 ^ 「ベイOB会、新会長に斉藤氏、米挑戦意向の筒香にエール」『神奈川新聞』2018年12月1日。2020年9月26日閲覧。 ^ Sports Graphic Number 編『豪球列伝』文藝春秋〈文春文庫 ビジュアル版〉、1986年、頁。ISBN 4-16-810802-3。 ^ “長嶋苦しめた平松の「カミソリシュート」 カーッとして誕生”. NEWSポストセブン (2015年1月23日). 2016年6月20日閲覧。 ^ 「変化球握り大図鑑 シュート 平松政次」『週刊ベースボール』6月22日号、ベースボール・マガジン社、2009年、10頁、雑誌20444-6/22。 ^ “長嶋苦しめた平松の「カミソリシュート」 カーッとして誕生”. 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(2017年8月5日). https://mainichi.jp/articles/20170805/ddl/k33/050/647000c 2017年12月3日閲覧。 ^ “高梁市市民栄誉賞” (PDF). 広報たかはし 2017年10月号. 高梁市 (2017年10月16日). 2017年12月3日閲覧。 ^ “岡山県スポーツ特別顕賞の贈呈について” (PDF). 岡山県 スポーツ振興課 (2017年10月26日). 2017年12月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年12月3日閲覧。 ^ 「楽天松井裕樹が記録した3者連続3球三振を過去に達成しているのは?」『BBCrix』2017年5月6日。オリジナルの2017年12月22日時点におけるアーカイブ。2017年12月18日閲覧。 岡山県出身の人物一覧 横浜DeNAベイスターズの選手一覧 個人年度別成績 平松政次 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 野球殿堂 平松政次本人がカミソリシュートについて詳しく証言している。 デーブ大久保チャンネル 平松政次1 デーブ大久保チャンネル 平松政次2 デーブ大久保チャンネル 平松政次3 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 表 話 編 歴 金田正一 稲尾和久 小山正明 米田哲也 梶本隆夫 皆川睦雄 村山実 鈴木啓示 堀内恒夫 山田久志 江夏豊 平松政次 東尾修 村田兆治 北別府学 佐々木主浩 高津臣吾 工藤公康 野茂英雄 山本昌広 岩瀬仁紀 黒田博樹 上原浩治 藤川球児 平野佳寿 山内一弘 榎本喜八 野村克也 長嶋茂雄 広瀬叔功 張本勲 王貞治 江藤慎一 土井正博 高木守道 松原誠 柴田勲 大杉勝男 藤田平 衣笠祥雄 福本豊 山崎裕之 山本浩二 有藤通世 若松勉 谷沢健一 加藤秀司 門田博光 大島康徳 新井宏昌 秋山幸二 駒田徳広 立浪和義 鈴木一朗(イチロー) 清原和博 古田敦也 野村謙二郎 石井琢朗 松井秀喜 田中幸雄 前田智徳 金本知憲 松井稼頭央 小笠原道大 稲葉篤紀 宮本慎也 小久保裕紀 アレックス・ラミレス 中村紀洋 谷繁元信 井口資仁 和田一浩 新井貴浩 福留孝介 荒木雅博 青木宣親 阿部慎之助 鳥谷敬 内川聖一 福浦和也 坂本勇人 栗山巧 大島洋平 表 話 編 歴 1947 別所昭 1948 中尾碩志 1949 藤本英雄 1950 真田重男 1951 杉下茂 1952 杉下茂 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 金田正一 1957 金田正一 1958 金田正一 1959 村山実 1960 堀本律雄 1961 権藤博 1962 小山正明 1963 伊藤芳明 1964 G.バッキー 1965 村山実 1966 村山実, 堀内恒夫 1967 小川健太郎 1968 江夏豊 1969 高橋一三 1970 平松政次 1972 堀内恒夫 1973 高橋一三 1974 星野仙一 1975 外木場義郎 1976 池谷公二郎 1977 小林繁 1978 松岡弘 1979 小林繁 1981 西本聖 1982 北別府学 1983 遠藤一彦 1985 小松辰雄 1986 北別府学 1987 桑田真澄 1988 大野豊 1989 斎藤雅樹 1990 野茂英雄 1991 佐々岡真司 1992 石井丈裕 1993 今中慎二 1994 山本昌広 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤雅樹 1997 西口文也 1998 川崎憲次郎 1999 上原浩治 2001 松坂大輔 2002 上原浩治 2003 井川慶, 斉藤和巳 2004 川上憲伸 2005 杉内俊哉 2006 斉藤和巳 2007 ダルビッシュ有 2008 岩隈久志 2009 涌井秀章 2010 前田健太 2011 田中将大 2012 攝津正 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 前田健太 2016 K.ジョンソン 2017 菅野智之 2018 菅野智之 2020 大野雄大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 表 話 編 歴 1950 真田重男 1951 杉下茂 1952 別所毅彦 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 大友工, 長谷川良平 1956 別所毅彦 1957 金田正一 1958 金田正一 1959 藤田元司 1960 堀本律雄 1961 権藤博 1962 権藤博 1963 金田正一 1964 G.バッキー 1965 村山実 1966 村山実 1967 小川健太郎 1968 江夏豊 1969 高橋一三 1970 平松政次 1971 平松政次 1972 堀内恒夫 1973 江夏豊 1974 松本幸行, 金城基泰 1975 外木場義郎 1976 池谷公二郎 1977 高橋里志 1978 野村収 1979 小林繁 1980 江川卓 1981 江川卓 1982 北別府学 1983 遠藤一彦 1984 遠藤一彦 1985 小松辰雄 1986 北別府学 1987 小松辰雄 1988 小野和幸, 伊東昭光 1989 斎藤雅樹, 西本聖 1990 斎藤雅樹 1991 佐々岡真司 1992 斎藤雅樹 1993 今中慎二, 山本昌広, 野村弘樹 1994 山本昌広 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤雅樹, B.ガルベス 1997 山本昌 1998 川崎憲次郎 1999 上原浩治 2000 M.バンチ 2001 藤井秀悟 2002 上原浩治, K.ホッジス 2003 井川慶 2004 川上憲伸 2005 下柳剛, 黒田博樹 2006 川上憲伸 2007 S.グライシンガー 2008 S.グライシンガー 2009 吉見一起, 館山昌平 2010 前田健太 2011 吉見一起, 内海哲也 2012 内海哲也 2013 小川泰弘 2014 R.メッセンジャー, 山井大介 2015 前田健太 2016 野村祐輔 2017 菅野智之 2018 大瀬良大地, 菅野智之 2019 山口俊 2020 菅野智之 2021 青柳晃洋, 九里亜蓮 2022 青柳晃洋 2023 東克樹 2024 菅野智之 表 話 編 歴 1950 大島信雄 1951 松田清 1952 梶岡忠義 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 渡辺省三 1957 金田正一 1958 金田正一 1959 村山実 1960 秋山登 1961 権藤博 1962 村山実 1963 柿本実 1964 G.バッキー 1965 金田正一 1966 堀内恒夫 1967 権藤正利 1968 外木場義郎 1969 江夏豊 1970 村山実 1971 藤本和宏 1972 安田猛 1973 安田猛 1974 関本四十四 1975 安仁屋宗八 1976 鈴木孝政 1977 新浦寿夫 1978 新浦寿夫 1979 平松政次 1980 松岡弘 1981 江川卓 1982 斉藤明夫 1983 福間納 1984 小林誠二 1985 小松辰雄 1986 北別府学 1987 桑田真澄 1988 大野豊 1989 斎藤雅樹 1990 斎藤雅樹 1991 佐々岡真司 1992 盛田幸妃 1993 山本昌広 1994 郭源治 1995 T.ブロス 1996 斎藤雅樹 1997 大野豊 1998 野口茂樹 1999 上原浩治 2000 石井一久 2001 野口茂樹 2002 桑田真澄 2003 井川慶 2004 上原浩治 2005 三浦大輔 2006 黒田博樹 2007 高橋尚成 2008 石川雅規 2009 チェン 2010 前田健太 2011 吉見一起 2012 前田健太 2013 前田健太 2014 菅野智之 2015 K.ジョンソン 2016 菅野智之 2017 菅野智之 2018 菅野智之 2019 大野雄大 2020 大野雄大 2021 柳裕也 2022 青柳晃洋 2023 村上頌樹 2024 髙橋宏斗 表 話 編 歴 1967 小川健太郎 1968 江夏豊 1969 高橋一三 1970 平松政次 1971 平松政次 1972 堀内恒夫 1973 高橋一三 1974 堀内恒夫 1975 外木場義郎 1976 池谷公二郎 1977 小林繁 1978 新浦寿夫 1979 小林繁 1980 江川卓 1981 江川卓 1982 北別府学 1983 遠藤一彦 1984 山根和夫 1985 小松辰雄 1986 北別府学 1987 桑田真澄 1988 小野和幸 1989 斎藤雅樹 1990 斎藤雅樹 1991 佐々岡真司 1992 斎藤雅樹 1993 今中慎二 1994 山本昌広 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤雅樹 1997 山本昌 1998 佐々木主浩 1999 上原浩治 2000 工藤公康 2001 藤井秀悟 2002 上原浩治 2003 井川慶 2004 川上憲伸 2005 黒田博樹 2006 川上憲伸 2007 高橋尚成 2008 S.グライシンガー 2009 D.ゴンザレス 2010 前田健太 2011 吉見一起 2012 内海哲也 表 話 編 歴 投 平松政次 捕 木俣達彦 一 王貞治 二 安藤統夫 三 長嶋茂雄 遊 藤田平 外 高田繁 / 江尻亮 / 中暁生 表 話 編 歴 投 平松政次 捕 木俣達彦 一 王貞治 二 国貞泰汎 三 長嶋茂雄 遊 藤田平 外 柴田勲 / 高田繁 / 水谷実雄 表 話 編 歴 1950 今西錬太郎 1951 高野裕良 1952 高野裕良 1953 江田貢一 1954 権藤正利 1955 権藤正利 1956 江田孝 1957 大石正彦 1958 大石正彦 1959 鈴木隆 1960 幸田優 1961 秋山登 1962 島田源太郎 1963 稲川誠 1964 稲川誠 1965 稲川誠 1966 秋山登 1967 森中千香良 1968 森中千香良 1969 平岡一郎 1970 平松政次 1971 平松政次 1972 山下律夫 1973 平松政次 1974 平松政次 1975 平松政次 1976 平松政次 1977 渡辺秀武 1978 平松政次 1979 平松政次 1980 平松政次 1981 斉藤明雄 1982 斉藤明夫 1983 遠藤一彦 1984 遠藤一彦 1985 遠藤一彦 1986 遠藤一彦 1987 遠藤一彦 1988 欠端光則 1989 斉藤明夫 1990 中山裕章 1991 中山裕章 1992 野村弘樹 1993 有働克也 1994 有働克也 1995 野村弘樹 1996 盛田幸希 1997 盛田幸希 1998 川村丈夫 1999 三浦大輔 2000 川村丈夫 2001 小宮山悟 2002 三浦大輔 2003 吉見祐治 2004 三浦大輔 2005 三浦大輔 2006 三浦大輔 2007 三浦大輔 2008 寺原隼人 2009 三浦大輔 2010 S.ランドルフ 2011 山本省吾 2012 高崎健太郎 2013 藤井秀悟 2014 三嶋一輝 2015 久保康友 2016 井納翔一 2017 石田健大 2018 石田健大 2019 今永昇太 2020 今永昇太 2021 濵口遥大 2022 東克樹 2023 石田健大 2024 東克樹 表 話 編 歴 1位:松岡功祐 2位:忍全功 3位:新井昌則 4位:臼井保夫(入団拒否) 5位:志水俊明(入団拒否) 6位:小野彰(入団拒否) 7位:沼崎剛志(入団拒否) 8位:山田誠二(入団拒否) 1位:山下律夫 2位:平松政次 3位:柳沢一三(入団拒否) 表 話 編 歴 1位:豊永隆盛 2位:新宅洋志 3位:広野功 4位:平松政次(入団拒否) 5位:平野年明(入団拒否) 6位:高岡英司 7位:小弓場保(入団拒否) 8位:永江健一(入団拒否) 9位:仲子隆司(入団拒否) 10位:松井猛(入団拒否) 11位:鳥谷元 ISNI VIAF 日本 日本の野球選手 岡山県立岡山東商業高等学校出身の野球選手 ENEOS野球部及びその前身チームの選手 橋戸賞 横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手 最多勝利 (NPB) 最優秀防御率 (NPB) 沢村栄治賞 NPBオールスターゲーム選出選手 名球会 日本の野球殿堂表彰者 野球解説者 日本の男性歌手 岡山県出身のスポーツ選手 1947年生 存命人物 出典のページ番号が要望されている記事 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/20 11:38更新
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hiramatsu masaji
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