西本聖の情報(にしもとたかし) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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石井昭男: 初安打・初打点:1978年9月2日、対読売ジャイアンツ22回戦(後楽園球場)、9回表に土屋正勝の代打で出場、西本聖から適時打 鹿取義隆: しかし次の先発となった6日後の後楽園での対阪神戦は1回でKOされ、江川や西本聖、定岡を中心とする先発陣が充実していた事もあって先発には定着しなかった。 鈴木葉留彦: 巨人との1983年の日本シリーズでは2勝3敗と王手をかけられた11月5日の第6戦(西武)、1点ビハインドの9回裏に杉本正の代打として起用され西本聖から左前安打を放ち、逆転優勝に力を添えた。 斎藤明夫: この年は8勝9敗で、巨人から4勝し、梶間健一、西本聖を押し退けて新人王を獲得。 門田博光: オールスターゲーム第1戦(明治神宮野球場)では1回に松岡弘から、6回に西本聖からそれぞれ本塁打を放ち、2本塁打3打点の成績でMVPに選出された。 後藤孝志: 初打席:同上、8回裏に西本聖の前に投ゴロ 益田直也: またプロ入り後、春季キャンプで投手コーチの西本聖の指導の元、すぐにシュートも習得するなど器用さも持ち合わせている。 玄岡正充: 初安打:1984年4月19日、対読売ジャイアンツ3回戦(平和台野球場)、5回表に松岡弘の代打として出場、西本聖から単打 若松勉: 150本塁打:1981年4月15日、対読売ジャイアンツ2回戦(後楽園球場)、9回表に西本聖から右越ソロ ※史上60人目 青田昇: 静岡県の伊東スタジアムにて行われた「伊東キャンプ」では江川卓、西本聖、鹿取義隆、角三男(後の盈男)、篠塚利夫(後の和典)、松本匡史ら若手選手らを徹底的に鍛えた。 衣笠祥雄: 1979年8月1日の対巨人戦で西本聖から死球を受け乱闘騒ぎになった際、西本が衣笠の元へ謝りに近寄っていったところ「危ないからベンチに下がっていろ」と言われ、西本は衣笠の器の大きさを感じたと語っている。 田代富雄: 100本塁打:1980年5月28日、対読売ジャイアンツ10回戦(後楽園球場)、4回表に西本聖から先制2ラン ※史上110人目 ジャック=ハウエル: 初本塁打・初打点:1992年4月7日、対中日ドラゴンズ1回戦(ナゴヤ球場)、1回表に西本聖からソロ 一色俊作: 西本聖(巨人→中日→オリックス→巨人) 王貞治: しかし、中日との開幕戦での西本聖の完封勝利で1987年のシーズンが幕を開ける。 マリアン: はごろもフーズ「こつぶ」(西本聖(元、読売ジャイアンツ)と共演) 江本孟紀: ただし、1981年のシーズン終了後に江川ではなく成績次点だった西本聖が沢村賞を受賞したことに対しては「おかしい」と述べている。 中尾孝義: 中尾も捕手にこだわり続けていたことから、西本聖・加茂川重治とのトレードで巨人に移籍した。 長嶋茂雄: 江川・西本聖・角三男・藤城和明・鹿取義隆・赤嶺賢勇・山倉和博・笠間雄二・中畑清・淡口憲治・篠塚利夫・松本匡史・平田薫・山本功児・中司得三・河埜和正・中井康之・二宮至の18人が参加。 長嶋清幸: 1984年には9月15日と翌16日には巨人の西本聖と江川卓から、2日連続サヨナラ本塁打を放ち勢いに乗ったチームはリーグ優勝を果たす。 衣笠祥雄: 350二塁打:1986年5月11日、対読売ジャイアンツ7回戦(広島市民球場)、4回裏に西本聖から右翼線二塁打 ※史上16人目 松原由昌: 同期入団には、後のエースとなる西本聖や定岡正二などがいた。 武宮敏明: 西本聖が入団した時、同じ高校生でドラフト1位の定岡正二との待遇の差にくじけそうになった西本を(西本はドラフト外)武宮は「一度巨人のユニフォームを着ればドラフト1位もドラフト外も関係ない。 星野仙一: 首脳陣とフロント陣では一軍ブルペンコーチに西本聖、一軍バッテリーコーチに達川光男、二軍投手コーチに山口高志、編成部顧問に岡田英津也、伊藤菊雄を招聘した。 長内孝: 100本塁打:1992年6月12日、対中日ドラゴンズ10回戦(ナゴヤ球場)、5回表に西本聖から2ラン ※史上170人目 山本浩二: 星野は対戦打率.351、10本塁打、江川は対戦打率.346、14本塁打、牛島はフォークを武器にしていたが山本は「グラブの開き方で分かった」と対戦成績は41打席で12安打、2本塁打、打率.364、上田二朗は対戦打率.324、10本塁打、山本和行は対戦打率.359、11本塁打、西本聖は対戦打率.342、10本塁打と得意としている。 長池徳士: いい打球は外角球を反対方向に打つ時だけですね」、そのテリーはシリーズ第7戦で西本聖の外角シュートを狙ったような左中間へ満塁走者一掃の逆転満塁二塁打を放った、日本一を決める一打だった。 西本明和: 巨人、中日、オリックスで投手として活躍した西本聖は実弟。 山倉和博: 強気で頑固な西本聖の生命線は内角攻めであったため、外角へのストレートで調子を見極めたが、定岡正二は神経質なのか図太いのかが分かりづらく、球が浮きやすいため低く構えることを徹底した。 衣笠祥雄: 8月1日の対巨人戦(広島市民球場)では西本聖から死球を背中に受け、左の肩甲骨を骨折する重傷を負ってしまう。 |
西本聖の情報まとめ
西本 聖(にしもと たかし)さんの誕生日は1956年6月27日です。愛媛出身の野球選手のようです。
引退、兄弟、家族、事故、テレビ、映画、ドラマに関する情報もありますね。今年の情報もありました。西本聖の現在の年齢は68歳のようです。
西本聖のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 西本 聖(にしもと たかし、1956年6月27日 - )は、愛媛県松山市出身の元プロ野球選手(投手)・野球解説者、プロ野球指導者。 江川卓と共にエースとして巨人の一時代を築き、巨人退団後は中日、オリックスでもプレーした。選手生活晩年に巨人へ復帰して引退。エース級としての活躍に加え、星飛雄馬ばりの左足を高く上げるダイナミックな投球フォームでも人気があった。また投手最多タイ記録となるゴールデングラブ賞を8回受賞している。 引退後は野球解説者を務めていたが、2003年には阪神の一軍投手コーチを務めた。阪神のコーチ辞任後は再び野球解説者を務めていたが、2010年よりロッテのコーチとして現場に復帰し、2013年よりオリックス・バファローズの投手コーチ兼バッテリーコーチ、育成チーフコーチ、2015年はハンファ・イーグルスの一軍投手コーチを務めた。 5兄弟の末弟で、三兄に広島に所属していた元プロ野球選手の西本明和、次兄に二所ノ関部屋・片男波部屋に所属していた元大相撲力士の玉松山(最高位三段目)がいる。また、長兄は愛媛県立松山商業高等学校の選手として活躍し、四兄は第51回全国高等学校野球選手権大会優勝メンバーとなる正一塁手。 愛媛県松山市沖に浮かぶ、興居島に生まれ育つ。あまり裕福とは言えない家庭環境であった。甲子園で名を馳せた実兄の西本明和は本来、早稲田大学で六大学野球に出場するつもりであったが急遽広島東洋カープに入団し、プロ野球選手として家計を支え、まだ小学生だった聖の面倒を見た。「聖を自分の手元において野球をさせたい」と瀬戸内海を挟んだ広島商へ入学させるつもりでほぼ決まりかけていたが、末っ子の広島商入りを父が猛反対し、地元の松山商に入れた。広島商に入っていれば1年上が達川光男らで、甲子園で江川卓と投げ合っていた可能性もあったと言われていた。 松山商では1972年、1年生の時に夏の甲子園予選北四国大会準決勝に進出。植上健治のいた高松商と対戦し、リリーフとして登板するが0-4で敗退。エースとなった翌1973年夏は、県予選準々決勝で南宇和高の藤田学投手と投げ合い0-2で完封負け。1974年夏の県予選2回戦北条高戦で7回コールドゲームながらノーヒットノーランを達成している。準々決勝で帝京第五高に0-1で惜敗し、甲子園には出場できなかった。同期には後に同校監督として夏の甲子園優勝に導いた沢田勝彦がいる。 1974年、明治大学進学の話もあったが、ドラフト外で長嶋茂雄が率いる巨人に入団。当時の巨人スカウト部長の武宮敏明からは「ドラフトで指名する」と伝えられたこともあったが、この年のドラフト会議では指名されず、ドラフト外での入団となった。契約金800万円、年俸144万円。当初は投手ではなく内野手として考えていたという報道も見られる。 打撃投手としての登板でも全力投球したり、電車に乗る時につま先立ちをして筋力を鍛えたり、後ろの歯を取り除いた一本歯の下駄を履いたりするなど、野球に対する真摯な姿勢と並外れた練習量が実を結び、2年目の1976年には敗戦処理ながら対阪神戦で一軍で初登板を果たす。8点ビハインドの8回裏に登板したこの試合では第1打者のマイク・ラインバックに本塁打を打たれ、その後も安打を打たれ3失点。同年の一軍登板はこの1試合だったが、イースタン・リーグでは最多勝を獲得した。翌年3年目の1977年には8勝を挙げて一軍に定着。 1979年、ライバルとなる江川卓が入団し、共にエースとして巨人の一時代を支えていくこととなる。西本はこの年初めて規定投球回に達し、防御率は平松政次に次ぐリーグ2位の2.76と好成績をあげ、先発に定着。しかし1979年8月1日の広島vs巨人17回戦でふがいない登板を行い勝ち試合をふいにした。その夜、宿舎のホテルで長嶋監督から20発に及ぶ往復ビンタを受けたと自著で語っている。また、著書では角盈男も同席していたという。シーズン終了後は地獄の伊東キャンプに参加した。 同期入団でドラフト1位だった定岡正二をライバルとしていたが、後に江川がライバルとなった。のちの藤田元司監督は、この両者を競わせることで、好成績に繋げた。江川とは結果として8年間に渡って開幕投手を争った。 1980年から1985年まで6年連続2桁勝利を記録した。特に1981年の活躍は秀逸であった。 この年はキャンプ中で西本が留守だった間に自宅がガス爆発を起こし、夫人が重傷を負っていた。この対応に追われた西本の開幕時の仕上がりは不十分であり、開幕投手予想の大勢は江川であったという。しかし、当時の藤田監督は西本が逆境に強い性格であることを見抜き、開幕投手に指名した。開幕戦を勝利した西本はウイニングボールを持って病院に向かい、病床の夫人を見舞った。開幕以降、勝利を積み重ね、この年のチームはセ・リーグで優勝した。 同年、西本はシーズンで18勝を挙げてリーグ優勝に貢献したことにより、沢村賞を受賞。この年は江川が勝利数、防御率、奪三振、勝率でリーグ1位を記録する活躍をしたが、西本の沢村賞の理由として、家族の事故がありつつも開幕ダッシュに貢献した西本と、巨人が独走態勢に入ってから成績を残した江川との差が評価されたものであるとか、投球フォームが沢村に似ているから、などと説明された。この選考についてマスコミから嫌われている江川から西本に投票が流れたのではないかという疑問が投げかけられ、西本に対しても受賞を辞退しろというファンからの抗議が相次ぎ、翌年よりマスコミによる投票から歴代受賞者による選考へと変更された。この騒ぎで江川に対する同情が多く集まり、入団の顛末から付いた悪いイメージが軽減され、CM契約などを得ている。 沢村賞騒動のまま迎えた同年の日本シリーズは、同じ後楽園球場を本拠とする日本ハム・ファイターズとの、史上初めて同球場で全試合が行われる特別なシリーズ(「後楽園シリーズ」)となった。巨人は第1戦を江川で落とした。第2戦に登板した西本は、日本シリーズ初の毎回奪三振の記録を作った。第5戦では13安打を喫しながら、要所を締めて完封勝ち。西本流の粘りの投球の真骨頂を見せた。この日本シリーズは巨人の優勝となり、1完封を含む2完投勝利を挙げた西本は日本シリーズMVPを受賞した。 1983年の日本シリーズは前年度日本一の西武ライオンズが相手となった。この年の日本シリーズは史上まれにみる混戦であり、終盤には双方のチームが「もうどっちが勝ってもいい」と発言するほどの激闘が続いたが、エース格の江川が故障していたこともあり、その穴を西本が奮戦して埋める形となった。 まず第2戦に登板した西本は、27のアウトのうち21が内野ゴロという持ち味の発揮されたピッチング、散発の4安打のみに抑え、完封勝利した(他アウトは三振5、併殺1のフライアウト0試合)。81年と83年の日本シリーズにまたがって「2試合連続完封」となり、これは日本シリーズタイ記録である。 第5戦にも先発したが、この途中の4回表、田淵幸一に本塁打を打たれるまでに、(81年シリーズから通算で)日本シリーズ連続イニング無失点記録を25年ぶりに更新(26→29イニング)した。この田淵の本塁打は、長距離打者として知られた田淵が西本を攻略するために野球人生で初めてバットを短く持ったとされ、本人が「西本攻略のためにプライドを捨てた」と発言している。この4回表に計2点を取られたものの、そのまま西本は無失点を積み上げ、9回裏に巨人が逆転勝ちすることでこの試合も西本の完投勝利となった。 第6戦、継投策で9回までリードしたまま漕ぎ着けた巨人であったが、ここで二日前に完投した西本をリリーフで投入した。この回に西本は安打を許してしまい、試合は延長戦となった。西本は9回のみで降板し、10回は故障をおして江川が登板したが、江川が打たれたことで巨人は敗戦した。 さらに2日後の最終戦、またしても西本が先発。6回までを0点に抑えた。2点をリードされ劣勢の西武は7回表から東尾修投手を登板させるも、西本自らが安打を放ち東尾はピンチを迎えるが、かろうじてしのぎ切った。7回裏、さすがに疲れの見え始めて投球に勢いが無くなりつつあった西本を、西武打線が捉えた。3点を奪われ逆転を許すも、かろうじてこの回を投げ切り、西本はマウンドを降りた。試合はライオンズの勝利となった。 巨人は日本一を逃したが、西本は第2戦、第5戦の完投勝利でシリーズ敢闘賞を獲得した。 日本シリーズでの西本の成績はすばらしく、81年と83年の日本シリーズ2試合連続完封(シリーズタイ記録)、連続イニング無失点記録がある他、シュートを武器に内野ゴロの山を築いていった西本らしく、内野ゴロ補殺数など多数ある。 1986年は投手コーチの皆川睦雄との確執があり、不振に終わった。西本には球団批判で200万円の罰金が科された。球団は2人を和解させようとしてオフに和解ゴルフをさせたがマスコミには「茶番劇」と書かれるなど、2人のギクシャクした関係はとても和解したとは言い難かった。 1987年4月10日に後楽園球場で行われた中日ドラゴンズとの開幕戦で開幕投手として先発し、この年にロッテオリオンズから移籍してきた中日の4番・落合博満との対戦で、西本は落合に対し全打席全球シュートを投げた。その結果、1本だけはセンター前にヒットを打たれたものの4打数1安打と封じ込め、自身も完封勝利を収めた。「パ・リーグで三冠王だといってもここはセ・リーグ、パ・リーグとは違う」というセ・リーグの投手としてのプライドがあったからだといわれている。また『全球シュート』は研究に研究を重ねてたどり着いたのではなく、当日のマウンドで落合と向かい合ったときにひらめいたという。なお、落合はこの年無冠に終わっている。これには西本は「もし江川投手が開幕投手だったら江川さんは僕みたいに偏ったピッチングはしないので、他チームの投手は江川さんの攻め方を参考にしたはず。僕の攻め方があったからこそ落合さんは無冠に終わったんだろう。」と語っている。また、この時に中日の監督だった星野仙一はこの際のピッチングを見て、いつか西本を獲得しようと決意し、2年後にトレードを実現させた。 1987年にライバル江川が引退し、翌1988年は1978年以来の最少勝数である4勝に終わる。これについて本人は「江川さんより多く勝つという目標が無くなったのが大きかった」と後日話している。この年を最後に巨人生え抜きの西本は球団を去ることとなる。同時に監督も王から再度藤田に代わり、投手コーチだった皆川も解任された。同年12月5日に中尾孝義との交換トレードで加茂川重治と共に中日に移籍することが発表された。 移籍1年目の1989年はリーグワーストの被安打、被本塁打、与死球を記録したが、自己最多の20勝・勝率.769(この年のリーグトップであったがこの頃のセ・リーグは最高勝率のタイトルはなかった)・防御率2.44(こちらもキャリアハイ)で最多勝のタイトルを斎藤雅樹と共に獲得。翌90年も11勝を上げたが、1991年は椎間板ヘルニアのために低迷。手術を受け、1992年は1勝11敗の成績で戦力外通告を受けて自由契約となった。 巨人時代の先輩でもあり西本の理解者だった土井正三が監督をしていたオリックス・ブルーウェーブへ同年11月24日に移籍した。翌93年に先発で5勝を挙げるも土井は成績不振の為退任、西本もオフの契約交渉が決裂して1993年12月16日再び自由契約となり、わずか1シーズンで退団する。 1994年3月1日に入団テストを経て巨人に復帰したものの、当時投手コーチの堀内恒夫が復帰に猛反発した事が影響し、オープン戦でも1度しかチャンスを与えて貰えず開幕は二軍スタートとなり、ペナントレースでも一軍登板は無く同年10月13日に引退を表明した。東京スポーツの運動部デスク・溝口拓也によると堀内だけが「西本なんていらねえ」と言っていたという。 当初はシーズン中の引退試合も検討されたが、チームが最終戦まで中日と優勝争いを繰り広げた(10.8決戦)ために見送られ、シーズンオフの1995年1月21日に入団以来のライバルで親友でもある定岡正二が西本担当の若手記者たちと企画、多摩川グラウンドで引退試合が行われた。 定岡は自分の仲間を集めて「サダーズ」を結成し西本と対戦、西本チームには桑田真澄、村田真一、宮本和知(以上当時巨人)、山本昌広、中村武志、立浪和義、与田剛(以上当時中日)、平井正史(当時オリックスだが西本とは入れ替わりでの入団で共にプレイはしていない)といった彼が所属した球団にいた選手たちが集まった。試合には当時の監督の長嶋茂雄も始球式のために駆けつけたが、最終回に急遽代打として登場。1975年の入団時と1994年の復帰時のいずれも監督を務めていた長嶋と対決し、20年にわたるプロ生活を終えた。 期待されていない状態でのプロ入りから成功した選手として認められており、「雑草」といわれる草分け的存在として語られることもある。 1995年 - 2002年および、2004年 - 2009年に、文化放送の野球解説者や日刊スポーツの野球評論家を歴任。フジテレビのプロ野球中継にも、スポット契約で出演していた。 2002年10月21日阪神の一軍投手コーチに就任し、2003年シーズンはブルペンを担当した。チームはこの年に18年振りのリーグ優勝を果たしたが、一軍監督・星野仙一の勇退を機に、自身も同年10月31日に退団した。 2009年10月27日に、千葉ロッテマリーンズの一軍投手兼バッテリーチーフコーチへ就任。12月7日には、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載される。2011年には、成本年秀と入れ替わる格好で、二軍投手コーチに異動。2012年に一軍投手コーチへ復帰したが、10月15日付で来季の契約しないと通告された。セス・グライシンガーは西本と二人三脚で軸足にタメをつくるフォームを固め2010年から2年間1勝だったが2012年はチーム最多タイの12勝と復活し、グライシンガーは「自分が再生できたのはニシモトさんのおかげ。あれほどのコーチはいない」と慕われ、同年新人のシーズン最多登板記録をつくった益田直也も「毎日、新しいことを教えてもらった。知識で打者を打ち取れるようになった」と述べていた。 2012年10月30日オリックス・バファローズの一軍投手兼バッテリーコーチに就任した。2013年は前年最下位だったチーム防御率をリーグ1位に引き上げ、佐藤達也や松葉貴大を育てた。2014年に二軍育成チーフコーチへ異動したが、同年10月1日に球団から退団が発表された。 2015年には、韓国プロ野球・ハンファ・イーグルスの一軍投手コーチに就任。前年の秋季沖縄キャンプからチームに参加したが、1年で退団した。2016年から、日刊スポーツの野球評論家、文化放送の野球解説者として活動を再開。 通算165勝はドラフト外入団投手としては最多記録である。 当時監督だった長嶋は西本のシュートを初めて見た時、「このシュートは天下一品のシュートだ。これだけで勝てる」と絶賛した。西本のシュートは球速より、変化と切れ味を重視しており、カミソリシュートと呼ばれた平松政次とは対照的である。 好調時のシュートは、アウトコースからインコースぎりぎりに曲がるので、打者の大きな脅威となった。たとえば、栗山英樹は、そのようなシュートを右打席では打てないと考えて、スイッチヒッターに転向している。 芯を外す投球に長けたグラウンドボールピッチャーだった。初期の頃はシュートと直球と稀にカーブを投げる投球スタイルだったが、球威の衰えた後年は、シュートやカーブ以外にスライダーやシンカーを駆使して若い頃以上にゴロを打たせるスタイルに変更している。スポーツライター宇佐美徹也の著書によると、1981年はゴロアウト406に対して飛球アウトは198で、GO/AOは2.05を記録している。1980年7月25日の試合では12安打をされながら、2失点の完投勝利を収めている。5併殺を打たせてピンチを乗り切った。飛球2つ、三振2つ以外は全てゴロによるアウトで、巨人の内野手は1試合22補殺の記録を作った。1981年の日本シリーズ第5戦では13安打をされながら、完封勝ちを収めた。飛球1つ、三振4つ、あとの22のアウトは全てゴロによるもの(4併殺を含む)だった。13安打を打たれながらも完封しているのはシーズン公式戦でも1989年8月4日の新浦寿夫のみである。1981年は35併殺、1989年は36併殺を打たせている。 1983年の日本シリーズ第5戦でホームランバッターの田淵幸一は野球人生で初めてバットを短く持って本塁打を打った。試合後に田淵は「あのシュートを攻略するためにプライドを捨てた」と発言している。後に西本は野球評論家となった梨田昌孝のインタビューに、「忘れられない1球」としてこの田淵の本塁打を挙げている。 しかし、第2戦で西本のシュートに封じ込められた西武打線は、即座に西本マークに切り換え、宿舎でミーティングを重ねた。それが功を奏し、降雨で1日順延となった第7戦、中1日で先発(シーズン中、当時の巨人は中4日の先発ローテーションが確立されており、また本シリーズでは第6戦のリリーフ登板があった)・好投を続けていた7回裏、疲労からかシュートのキレが若干鈍った西本をとうとう攻略し、満塁からテリー・ウィットフィールドの走者一掃の二塁打で逆転に成功し、そのまま日本一に輝いた。このシリーズでの西本のシュートのキレが、後に語り継がれる日本シリーズの名勝負を産んだ、とも言える。 牽制が上手く、盗塁のスペシャリストであったスーパーカートリオの屋鋪要と高木豊は一番走りにくかった投手に口を揃えて西本の名前を挙げている。その理由としてきっちり牽制してくるイメージが強かった事と、体のキレが良かったために投球と牽制の見分けが付きにくかったことを挙げている。西本はランナーを警戒するときは、セットポジションに入ってランナーを見るとクセが出てしまうのでセットポジションに入ったらホームを見たままにしていたという。その際には野手と事前に牽制の有無のサインを決めていた。スーパーカートリオに対しては特に警戒したランナーだったといい、タイミングをずらしたり、ボークになるギリギリの牽制をしたりと工夫をしていたと明かす。 西本は打撃も優れた選手であり、通算11本の本塁打を打っている。 各年度の太字はリーグ最高 最多勝利:1回 (1989年) 最高勝率:1回 (1989年) ※当時連盟表彰なし 沢村栄治賞:1回 (1981年) ゴールデングラブ賞:8回 (投手部門:1979年 - 1985年、1989年)※投手最多タイ記録(他は桑田真澄)。7年連続受賞は最長タイ記録(他は堀内恒夫) 月間MVP:2回 (投手部門:1989年7月、1989年9月) 最優秀JCB・MEP賞:1回 (1989年) カムバック賞 (1989年) 日本シリーズMVP:1回 (1981年) 日本シリーズ敢闘賞:1回 (1983年) 初登板:1976年4月15日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)、8回裏に6番手で救援登板・完了、1回3失点 初先発登板:1977年4月17日、対ヤクルトスワローズ3回戦(後楽園球場)、4回1/3を3失点(自責点2) 初奪三振:同上、2回表に水谷新太郎から 初勝利:1977年6月13日、対大洋ホエールズ14回戦(川崎球場)、6回裏1死に2番手で救援登板、2回2/3無失点 初セーブ:1977年6月28日、対阪神タイガース15回戦(後楽園球場)、8回表1死に3番手で救援登板・完了、1回2/3無失点 初先発勝利・初完投勝利:1977年9月27日、対広島東洋カープ24回戦(後楽園球場)、9回3失点 初完封勝利:1977年10月9日、対大洋ホエールズ26回戦(後楽園球場) 初打席・初安打:1977年4月17日、対ヤクルトスワローズ3回戦(後楽園球場)、3回裏に会田照夫から二塁打 初本塁打:1977年8月29日、対ヤクルトスワローズ21回戦(明治神宮野球場)、8回表に安田猛から2ラン 1000投球回:1982年6月22日、対ヤクルトスワローズ12回戦(後楽園球場)、1回表1死に記録 1500投球回:1984年7月4日、対ヤクルトスワローズ13回戦(明治神宮野球場)、4回裏1死に記録 100勝:1985年 6月27日、対ヤクルトスワローズ14回戦(後楽園球場)、9回1失点完投勝利 ※史上90人目 2000投球回:1987年9月24日、対中日ドラゴンズ23回戦(後楽園球場)、3回表2死に記録 1000奪三振:1989年4月26日、対阪神タイガース3回戦(ナゴヤ球場)、9回表に渡真利克則から ※史上78人目 150勝:1990年6月6日、対阪神タイガース10回戦(ナゴヤ球場)、先発登板で7回2/3を3失点 ※史上38人目 2500投球回:1991年4月7日、対読売ジャイアンツ2回戦(東京ドーム)、4回裏2死に記録 ※史上37人目 500試合登板:1993年8月27日、対近鉄バファローズ16回戦(グリーンスタジアム神戸)、先発登板で4回2/3を5失点で敗戦投手 ※史上67人目 1イニング3与死球:1979年8月1日、対広島東洋カープ戦 ※史上3人目、セ・リーグ初 オールスターゲーム出場:8回 (ファン投票選出:1981年、1983年、1984年/監督推薦選出:1980年、1982年、1986年、1989年、1990年) 58 (1975年 - 1976年) 26 (1977年 - 1988年) 25 (1989年) 24 (1990年 - 1992年) 52 (1993年) 90 (1994年) 71 (2003年、2010年、2012年) 81 (2011年) 72 (2013年 - 2014年) 87 (2015年) 文化放送ホームランナイター 文化放送ライオンズナイター
STVアタックナイター 野球好きニュース(J SPORTS) ザ・ベストテン(TBS、1984年12月27日放送/「ワインレッドの心」が年間ベストテン5位にランクインした安全地帯の玉置浩二が西本のファンだということでお祝いに駈けつけた。西本本人は安全地帯の曲は車の中で聴いているとのこと) クローズアップ現代西本聖 37歳の挑戦(NHK、1994年2月16日放送/1994年2月16日(水)西本聖 37歳の挑戦) 進め!電波少年(日本テレビ、1994年11月20日放送/「西本投手にナレーターになってほしい!」というコーナー後、この日の番組後半のみナレーターを担当) ライバル伝説…光と影(TBS、2009年7月20日放送/この番組での江川卓との対談を含む番組が2012年に映画化) サンデーモーニング(TBS、2014年10月19日放送) 1981年には小林脳行の看板商品の粉末クレンザー「キッチンタニック」「バスタニック」のCMに単独出演。はごろも缶詰のオレンジジュース「こつぶ」のCMにはマリアンと共演している(1982年当時シアトル・マリナーズの本拠地であったキングドームで登板するバージョンもあった。)。その他、当時恒例となっていた巨人選手たちとオロナミンCドリンクのCM共演もあり。 わが青春の背番号26―熱球悲願(恒文社、1982年) さらば巨人軍(アイペック、1989年) 長嶋監督20発の往復ビンタ(ザマサダ、1995年/小学館、2001年) 劇場版 ライバル伝説…光と影 (TBS、2012年) 愛あるかぎり 〈VAP 10289-07〉 (1988年)
SIDE2…うれいごころ (作詞:川路恵子、作曲:徳久広司、編曲:薗広昭) 男 〈コロムビア TD-1278〉 (1989年)
SIDE2…忘れはしない (作詞:川路恵子、作曲:小林亜星、編曲:高田弘) Sports graphic Number video Giants 1981年 熱闘日本シリーズ 巨人-日本ハム (東北新社、2001年) 武宮敏明著 『鉄の意志をもつ男・西本聖―ドラフト外のエース』 (恒文社、熱球賛歌シリーズ文庫、1984年) 東修著 『敵(ライバル)を作って自分を活かす』 (ソニーマガジンズ、1995年) 江川と西本 (作:森高夕次、画:星野泰視/小学館、ビッグコミックスペリオール、2014年22号 - 2019年12号) ^ 1966年のドラフト1位であった。西本の野球に対するストイックな姿勢に関連して、広島時代の同期である三村敏之は明和について「長年たくさんの野球選手を見て来たが、これほど熱心に練習に取り組んだ選手はいなかった」と評している。 ^ この試合で衣笠祥雄に死球を与え、左の肩甲骨を骨折させた。 ^ 江川とは犬猿の仲と言われたこともあったが、実際にはこの2人は仲が良く、オフには「伊東会」のメンバーとして共にゴルフに行ったり、引退後は2人並んでテレビ出演したりしている。 ^ “反骨の165勝右腕、37歳のテスト生での再出発【西本聖・最後の1年】”. BASEBALL KING (2020年5月14日). 2020年7月24日閲覧。 ^ 福田豊 (2018年11月13日). “父の猛反対で広島商入りが幻に/西本聖1”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). オリジナルの2018年11月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20181113144803/https://www.nikkansports.com/baseball/column/kunikarakoko/news/201811060000467.html 2018年11月13日閲覧。 ^ 週刊ベースボール 2024年3月18日号 シリーズ連載『レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し 西本聖・1』(55 - 57頁) ^ ②【読売ジャイアンツ入団】西本聖さんのプロ野球人生の中でウマが合わなかった人、時には殴り合い寸前になりそうだったことも!今だから話せる当時の話【高橋慶彦】【広島東洋カープ】【プロ野球OB】 - YouTube ^ 『野球が突然、うまくなる』2000年、編者・成美堂出版、15頁。 ^ 長嶋監督20発の往復ビンタ ^ “富士通「夢をかたちに」スペシャル 『20世紀スポーツ名勝負 ライバル伝説…光と影 封印された涙の理由…』”. TBS. 2017年1月15日閲覧。 ^ 『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。p.62〜 1981年のシーズン、江川とのライバル関係等他 ^ 日本シリーズでの毎回奪三振は、以降長きに渡って誰も達成できなかったが、2008年の日本シリーズ第4戦に西武の岸孝之が達成した ^ 報知新聞1983年10月31日一面「男だ 西本完封」 ^ 日刊スポーツ1983年11月6日「悲痛 今日も西本」 ^ 西本聖「わずか4勝で放出も、翌年20勝を挙げた反骨のベテラン投手」【プロ野球世紀末ブルース】 ^ 『日本プロ野球トレード大鑑』ベースボール・マガジン社、2001年、116頁 ^ 週刊ベースボール 2024年4月1日号 シリーズ連載『レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し 西本聖・3』(56頁) ^ 同年のドラゴンズは監督交代直後、セリーグ最下位であり、つまり打線の援護も無かった。 ^ 『東京スポーツ』2014年4月7日 「ハダカの長嶋巨人(6)」 ^ “「代打・長嶋茂雄」の超サプライズ。西本聖の引退試合で起きたドラマ”. 週刊ベースボール. (2020年5月4日). オリジナルの2024年4月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20240404030157/https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2020/05/04/___split_82/ 2024年4月13日閲覧。 ^ 『サタデースポーツ』(NHK、1995年1月21日放送) ^ “【野球】巨人育成の星・戸田は、元祖雑草・西本聖をしのぐ投手に成長できるか”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2022年2月19日). https://www.daily.co.jp/opinion-d/2022/02/19/0015076396.shtml 2023年3月17日閲覧。 ^ 「平成23年 第51回競技者表彰委員会 野球殿堂入り候補者名簿」発表 - 日本野球機構オフィシャルサイト ^ コーチ契約に関するお知らせ - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト 2012年10月15日 ^ 西本聖の「My Way」 反骨の闘う投手から名伯楽へ共同通信2012年11月14日配信 ^ オリ小林雅&西本両コーチが配置転換へ日刊スポーツ2013年10月23日配信 ^ オリックス 西本コーチら4コーチと契約結ばず 4選手に戦力外通告 スポーツニッポン2014年10月1日配信 ^ 西本、立石コーチらハンファを退団デイリースポーツ2015年10月8日配信 ^ 日刊スポーツ創刊70周年記念講演会~西本聖氏「私の野球人生」日刊スポーツ2016年1月22日配信 ^ 宇佐美徹也『プロ野球記録・奇録・きろく』 P.44 ^ 宇佐美徹也『プロ野球データブック』 P.627 ^ “【元巨人の大エースが一番走りやすかった!?】屋鋪要さんと昔の話など懐かしい話をしました!”. YouTube (2020年1月19日). 2022年1月25日閲覧。 ^ “日本最強の走り屋がいた「1985年の大洋ホエールズ」その鮮烈な記憶”. 現代ビジネス (2020年5月24日). 2022年1月25日閲覧。 ^ “西本聖(元巨人)&高木豊(元横浜)第44回シーズンオフSPトーク前編「松坂復活を巡る森繁和と工藤公康の勝負」”. SPORTS COMMUNICATIONS (2017年12月25日). 2022年1月25日閲覧。 ^ 元祖“雑草魂”西本聖が初登場!伝家の宝刀・シュートの極意を語る【ピッチャーズバイブル】 ^ 西本聖:個人年度別成績 ^ 『週刊ベースボール』2014年7月21日号 97ページ ^ 1994年2月16日(水)西本聖 37歳の挑戦 読売ジャイアンツの選手一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 オリックス・バファローズの選手一覧 兄弟スポーツ選手一覧 個人年度別成績 西本聖 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 1947 別所昭 1948 中尾碩志 1949 藤本英雄 1950 真田重男 1951 杉下茂 1952 杉下茂 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 金田正一 1957 金田正一 1958 金田正一 1959 村山実 1960 堀本律雄 1961 権藤博 1962 小山正明 1963 伊藤芳明 1964 G.バッキー 1965 村山実 1966 村山実, 堀内恒夫 1967 小川健太郎 1968 江夏豊 1969 高橋一三 1970 平松政次 1972 堀内恒夫 1973 高橋一三 1974 星野仙一 1975 外木場義郎 1976 池谷公二郎 1977 小林繁 1978 松岡弘 1979 小林繁 1981 西本聖 1982 北別府学 1983 遠藤一彦 1985 小松辰雄 1986 北別府学 1987 桑田真澄 1988 大野豊 1989 斎藤雅樹 1990 野茂英雄 1991 佐々岡真司 1992 石井丈裕 1993 今中慎二 1994 山本昌広 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤雅樹 1997 西口文也 1998 川崎憲次郎 1999 上原浩治 2001 松坂大輔 2002 上原浩治 2003 井川慶, 斉藤和巳 2004 川上憲伸 2005 杉内俊哉 2006 斉藤和巳 2007 ダルビッシュ有 2008 岩隈久志 2009 涌井秀章 2010 前田健太 2011 田中将大 2012 攝津正 2013 田中将大 2014 金子千尋 2015 前田健太 2016 K.ジョンソン 2017 菅野智之 2018 菅野智之 2020 大野雄大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 表 話 編 歴 1950 別当薫 1951 南村不可止 1952 別所毅彦 1953 川上哲治 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 豊田泰光 1957 大下弘 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 近藤昭仁 1961 宮本敏雄 1962 土橋正幸, 種茂雅之 1963 長嶋茂雄 1964 J.スタンカ 1965 長嶋茂雄 1966 柴田勲 1967 森昌彦 1968 高田繁 1969 長嶋茂雄 1970 長嶋茂雄 1971 末次民夫 1972 堀内恒夫 1973 堀内恒夫 1974 弘田澄男 1975 山口高志 1976 福本豊 1977 山田久志 1978 大杉勝男 1979 高橋慶彦 1980 J.ライトル 1981 西本聖 1982 東尾修 1983 大田卓司 1984 長嶋清幸 1985 R.バース 1986 工藤公康 1987 工藤公康 1988 石毛宏典 1989 駒田徳広 1990 O.デストラーデ 1991 秋山幸二 1992 石井丈裕 1993 川崎憲次郎 1994 槙原寛己 1995 T.オマリー 1996 T.ニール 1997 古田敦也 1998 鈴木尚典 1999 秋山幸二 2000 松井秀喜 2001 古田敦也 2002 二岡智宏 2003 杉内俊哉 2004 石井貴 2005 今江敏晃 2006 稲葉篤紀 2007 中村紀洋 2008 岸孝之 2009 阿部慎之助 2010 今江敏晃 2011 小久保裕紀 2012 内海哲也 2013 美馬学 2014 内川聖一 2015 李大浩 2016 B.レアード 2017 D.サファテ 2018 甲斐拓也 2019 Y.グラシアル 2020 栗原陵矢 2021 中村悠平 2022 杉本裕太郎 2023 近本光司 2024 桑原将志 表 話 編 歴 1953 簑原宏 1954 大下弘 1955 戸川一郎 1956 稲尾和久 1957 宮本敏雄 1958 藤田元司 1959 土屋正孝 1960 田宮謙次郎 1961 J.スタンカ 1962 吉田義男 1963 稲尾和久 1964 山内一弘 1965 森下整鎮 1966 渡辺泰輔 1967 足立光宏 1968 長池徳二 1969 長池徳二 1970 井石礼司 1971 山田久志 1972 足立光宏 1973 野村克也 1974 高木守道 1975 山本浩二 1976 柴田勲 1977 河埜和正 1978 足立光宏 1979 井本隆 1980 小川亨 1981 井上弘昭 1982 上川誠二 1983 西本聖 1984 山沖之彦 1985 石毛宏典 1986 達川光男 1987 篠塚利夫 1988 宇野勝 1989 新井宏昌 1990 岡崎郁 1991 川口和久 1992 岡林洋一 1993 清原和博 1994 清原和博 1995 小林宏 1996 仁志敏久 1997 松井稼頭央 1998 大塚光二 1999 川上憲伸 2000 城島健司 2001 T.ローズ 2002 A.カブレラ 2003 金本知憲 2004 井上一樹 2005 矢野輝弘 2006 川上憲伸 2007 ダルビッシュ有 2008 A.ラミレス 2009 髙橋信二 2010 和田一浩 2011 吉見一起 2012 稲葉篤紀 2013 長野久義 2014 R.メッセンジャー 2015 山田哲人 2016 B.エルドレッド 2017 宮﨑敏郎 2018 鈴木誠也 2019 亀井善行 2020 戸郷翔征 2021 山本由伸 2022 J.オスナ 2023 紅林弘太郎 2024 今宮健太 表 話 編 歴 1974 石岡康三 1975 安仁屋宗八 1976 船田和英 1977 浅野啓司 1978 野村収 1979 三村敏之 1980 谷沢健一 1981 藤田平 1984 鈴木孝政 1986 津田恒実 1987 杉浦享, 新浦壽夫 1988 有田修三 1989 西本聖, 中尾孝義 1990 吉村禎章, 遠藤一彦 1992 伊東昭光 1993 川崎憲次郎 1994 彦野利勝 1996 加藤伸一 1997 伊藤智仁 1998 斎藤隆 1999 遠山奬志 2000 種田仁 2001 成本年秀 2002 前田智徳 2003 平井正史, 鈴木健 2004 小久保裕紀 2008 平野恵一 2012 大竹寛 2015 館山昌平 2017 岩瀬仁紀 2018 松坂大輔 表 話 編 歴 1950 大島信雄 1951 松田清 1952 藤村隆男 1953 大友工, 石川克彦 1954 杉下茂 1955 大友工 1956 堀内庄 1957 木戸美摸 1958 藤田元司 1959 藤田元司 1960 秋山登 1961 伊藤芳明 1962 小山正明 1963 山中巽 1964 石川緑 1965 山中巽 1966 堀内恒夫 1967 堀内恒夫 1968 島田源太郎 1969 高橋一三 1970 村山実 1971 坂井勝二 1972 堀内恒夫 1973 倉田誠 1974 松本幸行 1975 星野仙一 1976 加藤初 1977 新浦寿夫 1978 鈴木康二朗 1979 藤沢公也 1980 福士敬章 1981 江川卓 1982 都裕次郎 1983 津田恒美 1984 江川卓 1985 北別府学 1986 北別府学 1987 川端順 1988 小野和幸 1989 西本聖 1990 斎藤雅樹 1991 北別府学 1992 斎藤雅樹 1993 山本昌広 1994 紀藤真琴 1995 石井一久 1996 斎藤雅樹 1997 三浦大輔 1998 桑田真澄 1999 上原浩治 2000 工藤公康 2001 入来祐作 2002 上原浩治 2003 井川慶 2004 上原浩治 2005 安藤優也 2006 川上憲伸 2007 高橋尚成 2008 館山昌平 2009 D.ゴンザレス 2010 久保康友 2011 吉見一起 2012 杉内俊哉 2013 小川泰弘 2014 山井大介 2015 M.マイコラス 2016 野村祐輔 2017 薮田和樹 2018 大瀬良大地 2019 山口俊 2020 菅野智之 2021 青柳晃洋 2022 青柳晃洋 2023 東克樹 2024 菅野智之 表 話 編 歴 1950 真田重男 1951 杉下茂 1952 別所毅彦 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 大友工, 長谷川良平 1956 別所毅彦 1957 金田正一 1958 金田正一 1959 藤田元司 1960 堀本律雄 1961 権藤博 1962 権藤博 1963 金田正一 1964 G.バッキー 1965 村山実 1966 村山実 1967 小川健太郎 1968 江夏豊 1969 高橋一三 1970 平松政次 1971 平松政次 1972 堀内恒夫 1973 江夏豊 1974 松本幸行, 金城基泰 1975 外木場義郎 1976 池谷公二郎 1977 高橋里志 1978 野村収 1979 小林繁 1980 江川卓 1981 江川卓 1982 北別府学 1983 遠藤一彦 1984 遠藤一彦 1985 小松辰雄 1986 北別府学 1987 小松辰雄 1988 小野和幸, 伊東昭光 1989 斎藤雅樹, 西本聖 1990 斎藤雅樹 1991 佐々岡真司 1992 斎藤雅樹 1993 今中慎二, 山本昌広, 野村弘樹 1994 山本昌広 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤雅樹, B.ガルベス 1997 山本昌 1998 川崎憲次郎 1999 上原浩治 2000 M.バンチ 2001 藤井秀悟 2002 上原浩治, K.ホッジス 2003 井川慶 2004 川上憲伸 2005 下柳剛, 黒田博樹 2006 川上憲伸 2007 S.グライシンガー 2008 S.グライシンガー 2009 吉見一起, 館山昌平 2010 前田健太 2011 吉見一起, 内海哲也 2012 内海哲也 2013 小川泰弘 2014 R.メッセンジャー, 山井大介 2015 前田健太 2016 野村祐輔 2017 菅野智之 2018 大瀬良大地, 菅野智之 2019 山口俊 2020 菅野智之 2021 青柳晃洋, 九里亜蓮 2022 青柳晃洋 2023 東克樹 2024 菅野智之 表 話 編 歴 1972 堀内恒夫 1973 堀内恒夫 1974 堀内恒夫 1975 堀内恒夫 1976 堀内恒夫 1977 堀内恒夫 1978 堀内恒夫 1979 西本聖 1980 西本聖 1981 西本聖 1982 西本聖 1983 西本聖 1984 西本聖 1985 西本聖 1986 北別府学 1987 桑田真澄 1988 桑田真澄 1989 西本聖 1990 斎藤雅樹 1991 桑田真澄 1992 斎藤雅樹 1993 今中慎二, 桑田真澄 1994 桑田真澄 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤雅樹 1997 桑田真澄 1998 桑田真澄 1999 上原浩治 2000 工藤公康 2001 野口茂樹 2002 桑田真澄 2003 上原浩治 2004 川上憲伸 2005 黒田博樹 2006 川上憲伸 2007 川上憲伸 2008 石川雅規 2009 D.ゴンザレス 2010 前田健太 2011 浅尾拓也 2012 前田健太 2013 前田健太 2014 前田健太 2015 前田健太 2016 菅野智之 2017 菅野智之 2018 菅野智之 2019 西勇輝 2020 菅野智之 2021 柳裕也 2022 森下暢仁 2023 東克樹 2024 菅野智之 表 話 編 歴 1936春夏 牧野潔 1936秋 加藤智男 1937春 森井茂 1937秋 森井茂 1938春 松尾幸造 1938秋 森井茂 1939 松尾幸造 1940 村松幸雄 1941 森井茂 1942 河村章 1943 松尾幸造 1944 森井茂 1946 森井茂 1947 松尾幸造 1948 服部受弘 1949 服部受弘 1950 清水秀雄 1951 近藤貞雄 1952 大島信雄 1953 杉下茂 1954 石川克彦 1955 石川克彦 1956 杉下茂 1957 伊奈努 1958 中山俊丈 1959 伊奈努 1960 伊奈努 1961 板東英二 1962 柿本実 1963 河村保彦 1964 河村保彦 1965 柿本実 1966 山中巽 1967 小川健太郎 1968 小川健太郎 1969 小川健太郎 1970 小川健太郎 1971 伊藤久敏 1972 水谷寿伸 1973 稲葉光雄 1974 星野仙一 1975 松本幸行 1976 星野仙一 1977 松本幸行 1978 星野仙一 1979 星野仙一 1980 藤沢公也 1981 三沢淳 1982 小松辰雄 1983 小松辰雄 1984 鈴木孝政 1985 小松辰雄 1986 郭源治 1987 杉本正 1988 小松辰雄 1989 小野和幸 1990 西本聖 1991 小松辰雄 1992 郭源治 1993 今中慎二 1994 今中慎二 1995 今中慎二 1996 今中慎二 1997 山本昌 1998 山本昌 1999 川上憲伸 2000 野口茂樹 2001 山本昌 2002 山本昌 2003 川上憲伸 2004 川崎憲次郎 2005 川上憲伸 2006 川上憲伸 2007 川上憲伸 2008 川上憲伸 2009 浅尾拓也 2010 吉見一起 2011 M.ネルソン 2012 吉見一起 2013 吉見一起 2014 川上憲伸 2015 山井大介 2016 大野雄大 2017 大野雄大 2018 小笠原慎之介 2019 笠原祥太郎 2020 大野雄大 2021 福谷浩司 2022 大野雄大 2023 小笠原慎之介 2024 柳裕也 表 話 編 歴 1936夏 沢村栄治 1936秋 沢村栄治 1937春 沢村栄治 1937秋 沢村栄治 1938春 V.スタルヒン 1938秋 前川八郎 1939 川上哲治 1940 V.スタルヒン 1941 須田博 1942 広瀬習一 1943 須田博 1944 藤本英雄 1946 近藤貞雄 1947 川崎徳次 1948 川崎徳次 1949 多田文久三 1950 藤本英雄 1951 別所毅彦 1952 藤本英雄 1953 別所毅彦 1954 大友工 1955 別所毅彦 1956 別所毅彦 1957 大友工 1958 藤田元司 1959 伊藤芳明 1960 伊藤芳明 1961 中村稔 1962 城之内邦雄 1963 伊藤芳明 1964 高橋明 1965 金田正一 1966 金田正一 1967 城之内邦雄 1968 金田正一 1969 金田正一 1970 高橋一三 1971 渡辺秀武 1972 堀内恒夫 1973 堀内恒夫 1974 高橋一三 1975 堀内恒夫 1976 堀内恒夫 1977 堀内恒夫 1978 堀内恒夫 1979 新浦寿夫 1980 江川卓 1981 西本聖 1982 江川卓 1983 西本聖 1984 江川卓 1985 西本聖 1986 江川卓 1987 西本聖 1988 桑田真澄 1989 桑田真澄 1990 斎藤雅樹 1991 槙原寛己 1992 槙原寛己 1993 斎藤雅樹 1994 斎藤雅樹 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤雅樹 1997 斎藤雅樹 1998 桑田真澄 1999 B.ガルベス 2000 上原浩治 2001 上原浩治 2002 上原浩治 2003 上原浩治 2004 上原浩治 2005 上原浩治 2006 上原浩治 2007 内海哲也 2008 高橋尚成 2009 S.グライシンガー 2010 内海哲也 2011 東野峻 2012 内海哲也 2013 宮國椋丞 2014 菅野智之 2015 菅野智之 2016 菅野智之 2017 M.マイコラス 2018 菅野智之 2019 菅野智之 2020 菅野智之 2021 菅野智之 2022 菅野智之 2023 T.ビーディ 2024 戸郷翔征 VIAF 日本 日本の野球選手 愛媛県立松山商業高等学校出身の野球選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手 最多勝利 (NPB) 最高勝率 (野球) カムバック賞 (NPB) 沢村栄治賞 NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球指導者 阪神タイガース関連人物 千葉ロッテマリーンズ関連人物 ハンファ・イーグルス 韓国の野球に関する人物 野球解説者 江川卓 愛媛県出身のスポーツ選手 1956年生 存命人物 2024/11/18 23:40更新
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nishimoto takashi
西本聖と同じ誕生日6月27日生まれ、同じ愛媛出身の人
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