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間柴茂有の情報 (ましばしげくに)
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【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

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間柴 茂有さんについて調べます

■名前・氏名
間柴 茂有
(読み:ましば しげくに)
■職業
野球選手
■間柴茂有の誕生日・生年月日
1951年11月15日 (年齢72歳)
卯年(うさぎ年)、蠍座(さそり座)
■出身地・都道府県
滋賀出身

(昭和26年)1951年生まれの人の年齢早見表

間柴茂有と同じ1951年生まれの有名人・芸能人

間柴茂有と同じ11月15日生まれの有名人・芸能人

間柴茂有と同じ出身地滋賀県生まれの有名人・芸能人


間柴茂有と関係のある人

篠塚和典: 第5戦では木田勇から駄目押しの3点本塁打を放ち、最終第6戦では間柴茂有から2回に先制適時打、勝利打点を記録した。


杉山知隆: 1978年には間柴茂有と共に野村収とのトレードで日本ハムファイターズへ移籍し、同年は開幕2戦目から先発として起用されて9勝を記録。


大杉勝男: 350本塁打:1977年8月12日、対大洋ホエールズ17回戦(明治神宮野球場)、1回裏に間柴茂有から3ラン ※史上8人目


大宮龍男: 大宮に引っ張られた投手陣は岡部憲章が最優秀防御率を獲得し、間柴茂有が15勝0敗で勝率10割を記録、恩師・江夏もセーブ王を獲得した。


田代富雄: 4月17日の中日戦(千葉天台)では大石弥太郎から2本塁打を放ち、奥江英幸をロングリリーフしていた間柴茂有の3年越しの連敗ストップに貢献。


別当薫: それ以外には鬼頭洋が6月9日のヤクルト戦(川崎)でノーヒットノーランを演じたほか、2年目の野村やルーキーの間柴茂有が中継ぎで一軍に定着するなど、明るい話題が続出した。


野村収: 1978年には先発投手陣の強化を図る2期目の別当に指名されたこともあり、杉山知隆・間柴茂有とのトレードで、この年横浜に移転した古巣・大洋に復帰。


日下部明男: 間柴茂有


篠原貴行: 同年ルーキーの松坂大輔と最多勝を争っていたが、消化試合の対大阪近鉄バファローズ戦(福岡ドーム)で9回表にこの日が引退試合であった山本和範に決勝本塁打を打たれて敗戦投手になり、勝利数では松坂に及ばず、また1981年の間柴茂有以来となる勝率10割も逃した。


江夏豊: 当時チームメイトだった大宮龍男・岡部憲章・間柴茂有・坂巻明などは大沢から頼まれて江夏が指導したと言われており、江夏自身も当時を振り返って「彼らと一緒に野球をやって自分自身も勉強になった」と後述している。


川本浩次: 同年夏の京滋大会決勝では、比叡山高のエース間柴茂有の好投に苦しめられるが、延長11回の末に辛勝、夏の選手権への出場を決める。


笹本信二: 初安打・初打点:1975年8月26日、対大洋ホエールズ21回戦(阪神甲子園球場)、6回裏に間柴茂有から


長村裕之: 初打点:1984年8月30日、対日本ハムファイターズ23回戦(阪急西宮球場)、8回裏に小林晋哉の代打として出場、間柴茂有から決勝適時打


リッチー=シェーン: 1975年5月17日、対大洋ホエールズ7回戦(那覇市営奥武山野球場)、4回表に間柴茂有(右打席)・8回表に奥江英幸(左打席)から


植村義信: 日本ハムでは、埋もれていた工藤幹夫や伸び悩んでいた間柴茂有らを大化けさせ、木田勇にパームボールを教えた 。


宮本四郎: 1978年には左腕投手の間柴茂有が日本ハムファイターズへ移籍したこともあり、先発としても起用され、自己最多の41試合に登板し2勝をあげる。


田中将大: 8月2日の対日本ハム戦(札幌ドーム)で、開幕から15連勝として間柴茂有(1981年)と斉藤和巳(2005年)の日本プロ野球記録に並んだ。


鍛治舎巧: 2回戦(初戦)で比叡山高の間柴茂有投手に投げ勝ち、大会通算100号本塁打を放つ。


平野光泰: 100本塁打:1984年6月27日、対日本ハムファイターズ12回戦(ナゴヤ球場)、4回裏に間柴茂有から左越先制ソロ ※史上130人目


福嶋久晃: 同年6月1日のヤクルト戦(川崎)では間柴茂有の120km以上は出ていた速球をダイレクトに右肩に受け、負傷して退場。


松本匡史: 初本塁打:1977年5月10日、対大洋ホエールズ6回戦(川崎球場)、7回表に淡口憲治の代打で出場、間柴茂有からソロ


南牟礼豊蔵: 初安打:1982年9月25日、対日本ハムファイターズ後期13回戦(阪急西宮球場)、7回裏に間柴茂有から左前安打


日下部明男: 当時は同好会レベルだったが、この春に間柴茂有の勧誘に成功、間柴が3年になった1969年の第41回選抜高等学校野球大会に同校を甲子園初出場させ、1983年まで春夏7度の甲子園出場を果たした。


杉村繁: 初打点:1977年10月2日、対大洋ホエールズ26回戦(川崎球場)、2回表に間柴茂有から


ロイ=ホワイト: 日本ハムとの日本シリーズ第2戦(10月18日)では、0対1でリードされていた8回表2死1塁の場面で、日本ハムの先発・間柴茂有からライトスタンドへ逆転の2点本塁打を放ち、巨人は対戦成績を1勝1敗のタイに持ち込む。


三浦道男: 1977年には先発左腕が間柴茂有のみだったチーム事情もあり、7月から先発に回る。


斉藤和巳: 8月31日のロッテ戦では1981年の間柴茂有に並ぶプロ野球タイ記録となる開幕15連勝を記録。


白滝政孝: 1978年6月8日の日本ハム戦(後楽園)では7回無死1、2塁での場面で見事、間柴茂有から決勝の3ラン本塁打を放つ。


間柴茂有の情報まとめ

もしもしロボ

間柴 茂有(ましば しげくに)さんの誕生日は1951年11月15日です。滋賀出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

詳細情報などについてまとめました。引退に関する情報もありますね。今年の情報もありました。間柴茂有の現在の年齢は72歳のようです。

間柴茂有のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

間柴 茂有(ましば しげくに、1951年11月15日 - )は滋賀県大津市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。旧名は富裕(とみひろ)。愛称は「ケロヨン」。

日本ハムに在籍していた1981年に、プロ野球史上3人目となるシーズン無敗を記録した。

1981年の15連勝という記録を持つ一方で、1975年から1977年には13連敗をしている。

日下部明男監督に勧誘されて入学した比叡山高校では2年次の1968年からエースとなり、夏の甲子園県予選準決勝に進むが、長浜北高に逆転負け。同年の秋季近畿大会に進出し、準々決勝で三田学園に惜敗するが、1969年春の選抜への同校初出場を決めた。3年次の同年に出場した選抜では2回戦(初戦)で鍛治舎巧のいた岐阜商に敗退するが、春季近畿大会では1回戦で桜宮高を相手にノーヒットノーランを記録。続く夏の甲子園県予選を勝ち抜いて京滋大会決勝に進出するが、渋谷通らを擁する平安高に延長11回の熱戦の末に敗れ、甲子園出場を逸する。

同年のドラフト2位で大洋ホエールズに入団。

1年目の1970年4月22日に阪神戦(甲子園)で初登板を果たすが、3年目の1972年は阪神戦3敗を含む6連敗と散々な内容であった。

1973年のオフには整理対象選手となったが、1974年に奮起し、5月4日の中日戦(宮城)で初勝利を挙げるなど5勝を記録。

1975年には4月9日の阪神戦(川崎)で江夏豊と投げ合って完封勝利で1勝目を挙げると、同13日のヤクルト戦(川崎)は完投で2勝目、23日の広島戦(広島市民)では再び完封勝利で3勝目、29日の巨人戦(川崎)では坂井勝二をリリーフし、5月3日のヤクルト戦(藤崎台)では1安打完封で開幕5連勝を決める。5月7日の広島戦(川崎)では自らのバットで若生智男からサヨナラ犠飛を放ち、リーグ最多の3完封を含む開幕6連勝を飾るが、この試合を最後に勝ち星から遠ざかる。その後は7連敗を喫して夏場に二軍へ降格し、イースタン・リーグでは防御率0.69で最優秀防御率を獲得。

1976年は4連敗と再びシーズン0勝に終わるが、1977年4月17日の中日戦(千葉天台)で奥江英幸をロングリリーフすると、田代富雄が大石弥太郎から2本塁打を放つなど打線が逆転し、3年越しの連敗を13でストップさせた。

1978年、野村収との交換トレードで杉山知隆と共に日本ハムファイターズへ移籍。

1980年には植村義信コーチの指導でフォークを習得し、初の2桁となる10勝を挙げてオールスターゲームにも出場。

1981年は、開幕から先発でKOを食らう試合が計6試合あったが全て打線の援護で負けを免れ、5月終了時点で防御率6.32ながら4勝0敗であった。9月1日の近鉄戦(後楽園)でパ・リーグタイ記録の12連勝、7日の南海戦(後楽園)で日本プロ野球タイ記録の13連勝、13日の阪急戦(西宮)で当時の日本プロ野球新記録の開幕から14連勝を達成。9月18日の西武戦(後楽園)で15連勝で、このシーズン15勝0敗で戦後初の「勝率10割」を達成し、最高勝率のタイトルを獲得。同月の月間MVPも受賞し、ロッテとのプレーオフでは10月11日の第3戦(後楽園)で完投勝利を挙げて優秀選手賞を受賞。同年の巨人との日本シリーズでも2試合に先発し、同18日の第2戦は西本聖と投げ合うが8回に逆転され惜敗、25日の最終第6戦は早々に打ち込まれ、いずれも敗戦投手となった。

1983年にも10勝を記録し、3年ぶりのオールスター出場も果たすなど、その後も主力投手として活躍する。

1989年には福岡ダイエーホークスに移籍し、1990年に5月9日の近鉄戦(北九州)で500試合登板を達成すると、シーズン途中で現役を引退

引退した1990年のシーズン途中よりダイエーの投手コーチ補佐に就任。1994年までダイエーの二軍投手コーチを務めた。

1995年にフロント入り。

詳細情報

年度別投手成績

各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高

タイトル

最高勝率:1回 (1981年)

表彰

月間MVP:1回 (1981年9月)

パ・リーグプレーオフ優秀選手賞:1回 (1981年)

記録

初登板:1970年4月22日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)、7回裏に4番手で救援登板・完了、2回1失点

初奪三振:同上、7回裏に藤田平から

初先発:1970年5月27日、対阪神タイガース7回戦(川崎球場)、2回2/3を1失点

初勝利:1974年5月4日、対中日ドラゴンズ2回戦(宮城球場)、3回表に2番手で救援登板・完了、7回3失点

初先発勝利・初完投勝利:1974年9月14日、対阪神タイガース22回戦(阪神甲子園球場)、9回1失点

初完封勝利:1975年4月9日、対阪神タイガース1回戦(川崎球場)

初セーブ:1982年8月7日、対ロッテオリオンズ後期4回戦(宮城球場)、6回裏1死に2番手で救援登板・完了、3回2/3を無失点

1000投球回:1981年8月14日、対南海ホークス後期7回戦(大阪スタヂアム)、2回裏2死目に達成

1500投球回:1985年9月20日、対南海ホークス21回戦(大阪スタヂアム)、9回裏2死目に達成

500試合登板:1990年5月9日、対近鉄バファローズ3回戦(北九州市民球場)、先発登板で1回2/3を2失点 ※史上62人目

勝率10割(プロ野球記録・1981年) ※史上3人目、2リーグ制以後かつ戦後初

オールスターゲーム出場:2回(1980年、1983年)

背番号

48(1970年 - 1972年)

38(1973年 - 1974年)

15(1975年 - 1977年)

19(1978年 - 1988年)

25(1989年 - 1990年途中)

79(1990年途中 - 1994年)

    シーズン途中の引退・コーチ就任に伴う変更。同時期に濱中英次投手が54番から25番に変更した。

    登録名

    間柴 富裕(ましば とみひろ、1970年 - 1976年)

    間柴 茂有(ましば しげくに、1977年 - 1990年)

2024/06/25 11:40更新

mashiba shigekuni



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