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田淵幸一の情報 (たぶちこういち)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

田淵幸一の情報(たぶちこういち) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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田淵 幸一さんについて調べます

■名前・氏名
田淵 幸一
(読み:たぶち こういち)
■職業
野球選手
■田淵幸一の誕生日・生年月日
1946年9月24日 (年齢77歳)
戌年(いぬ年)、天秤座(てんびん座)
■出身地・都道府県
東京出身

(昭和21年)1946年生まれの人の年齢早見表

田淵幸一と同じ1946年生まれの有名人・芸能人

田淵幸一と同じ9月24日生まれの有名人・芸能人

田淵幸一と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


田淵幸一と関係のある人

上田二朗: 決勝では東京六大学選抜の星野仙一、橘谷健(東大-川崎重工)両投手と投げ合い、田淵幸一、谷沢健一らの強力打線を抑えて1-0で完封勝利。


古田敦也: 首位打者を獲得した捕手は野村以来史上2人目、セントラル・リーグでは史上初であり、捕手による打撃3部門(打率、本塁打、打点)のいずれかのタイトル獲得は野村、田淵幸一に次ぐ史上3人目だった。


片岡新之介: ここでは田淵幸一、若菜嘉晴らの控え捕手として重宝された。


リッチー=シェーン: 初盗塁:1975年9月30日、対阪神タイガース25回戦(阪神甲子園球場)、2回表に2盗(投手:谷村智啓、捕手:田淵幸一


西本聖: 第5戦にも先発したが、この途中の4回表、田淵幸一に本塁打を打たれるまでに、(81年シリーズから通算で)日本シリーズ連続イニング無失点記録を25年ぶりに更新(26→29イニング)した。


奥宮種男: 同年は若菜嘉晴の控え捕手として自己最多の53試合に出場したが、1979年には田淵幸一・野村克也の加入もあり、出場数が激減。


八田有加: 田淵幸一


村上雅則: その後も先発として活躍を続け、1971年にはチーム1位の14勝を挙げ1971年のオールスターゲーム (日本プロ野球)でも野村捕手とバッテリー組み中日球場での第2戦では4回裏3番王貞治に二塁打浴びたが4番長嶋茂雄5番の代打田淵幸一を討ち取り、後楽園球場での第3戦では6回表オールセントラルの一番打者で高校の先輩・柴田を遊撃ゴロに討ち取った。


渡辺謙太郎: 1994年に発表されたプロ野球漫画『あぶさん』(著:水島新司)で、景浦安武(架空の選手)のシーズン本塁打新記録がかかった試合のラジオ中継の実況を担当するエピソードが描かれた(解説:田淵幸一、ゲスト解説:王)。


古沢憲司: 1978年オフに真弓明信・竹之内雅史・若菜嘉晴・竹田和史との交換トレードで田淵幸一と共に西武ライオンズへ移籍。


山本浩二: 現役時代、王貞治、田淵幸一、星野仙一、平松政次、松岡弘と共に、細川たかしの「六つの星」という歌にバックコーラスで参加したことがある。


谷繁元信: 「正捕手のエースナンバーは森昌彦に代表される27、もしくは田淵幸一に代表される22」という落合の持論により、背番号を7から27へ変更。


鶴岡一人: 自らの人脈をフルに生かした情報網を築き、選手発掘にも精力的に動き、稲尾和久・広岡達朗・長嶋茂雄・山本一義・長池徳士・柴田勲・高田繁・田淵幸一、尾崎行雄、山本浩二にはプロ入り前から目をつけ、特に長嶋・柴田については入団契約直前までこぎつけた。


大石友好: 2012年からは、中日時代の恩師である星野仙一が監督、西武時代の同僚である田淵幸一がヘッドコーチの縁で東北楽天ゴールデンイーグルス二軍バッテリーコーチに就任。


福本豊: 1974年7月22日に阪急西宮球場で行われたオールスターゲーム第2戦では、阪神の田淵幸一が放った本塁打性の打球を、フェンスの上までよじ登ってキャッチ、アウトにした。


小川邦和: 4年次の1968年秋季では1年下の左腕・小坂敏彦と共に優勝に貢献したが、同季には田淵幸一に当時のリーグ新記録となる22号本塁打を打たれている。


仁科時成: 1イニング4被本塁打:1983年6月28日、対西武ライオンズ14回戦(西武ライオンズ球場)、3回裏に立花義家・スティーブ・オンティベロス・田淵幸一・大田卓司から


横川史学: 秋季キャンプでは手塚一志から腰の動きについて指導を受け、田淵幸一から「うねり打法」を伝授された。


中内正: ^ 【田淵幸一物語・第4部(16)】「解任」か「辞任」か 4年目の舞台は用意されず


西田敏行: プロ野球阪神タイガースのファンで、『がんばれ!!タブチくん!!』のタブチ役を演じたことから、映画のモデルである田淵幸一と今日まで長く親交を続け、西田が司会をしていた『探偵!ナイトスクープ』(後述)にも田淵との親交から田淵が顧問としてゲスト出演したことがあった。


立花義家: 田淵幸一、土井正博、山崎裕之、大田卓司、スティーブ・オンティベロスら強打者が好調で打順が上がらなかったため、「恐怖の7番打者」と評された。


阿部慎之助: 9月11日の広島戦で、捕手としては野村克也・田淵幸一に次ぐ史上3人目のシーズン40本塁打を達成した。


山崎裕之: 広岡達朗は、選手として山崎に大きな信任を寄せており、ヤクルト監督時代は獲得を熱望していたほか、西武監督となってからは東尾修や田淵幸一などのチームの看板選手も特別扱いをせずに厳しい態度で臨んだが、山崎に関してだけは何も言うことは無く、1982年シーズンは打率.246、7本塁打という不本意な成績で終わったにもかかわらず「チームへの貢献度は一番」と評してこの年は年俸が上がったという。


樫出三郎: 法政大学の先輩である田淵幸一の誘いで、阪神タイガースの入団テストを受け合格し、1970年オフにドラフト外で入団。


望月充: 引退後は南海→ダイエーでスコアラーなどを務め、阪神時代の同僚・田淵幸一監督時代には一軍守備・走塁コーチ(1990年)、二軍守備・走塁コーチ(1991年 - 1992年)を務めた。


田畑一也: 監督の田淵幸一がチームの成績不振を理由に解任され、新監督に根本陸夫が就任した直後の秋季キャンプでは全日程紅白戦が行われ、投げた全試合を0点に抑えた。


小久保裕紀: 本塁打は、日本人では落合、田淵幸一に次ぐ史上3人目の記録となる両リーグ40本以上を達成した。


山本浩二: 王貞治はホームランアーチストと呼ばれ本塁打を量産した田淵幸一が怪我が非常に多く試合を休みがちで本塁打王争いになってもそれほど脅威とは感じなかった。


黒江透修: 当時、一軍の主力選手は田淵幸一・山崎裕之らベテランが主体で数年後には衰えると見越して、二軍に数多くいる若手選手を指導して数年後に彼らと共に一軍に上がって欲しいという広岡の要望によるものであった。


辻恭彦: 1969年には田淵幸一の入団で控え捕手に回るが、キャッチング技術を江夏に信頼されていたため、江夏とはバッテリーを組む事が多かった。


田淵幸一の情報まとめ

もしもしロボ

田淵 幸一(たぶち こういち)さんの誕生日は1946年9月24日です。東京出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

プレースタイル、『がんばれ!!タブチくん!!』などについてまとめました。引退、テレビ、父親、結婚、家族、母親、病気、映画に関する情報もありますね。去年の情報もありました。田淵幸一の現在の年齢は77歳のようです。

田淵幸一のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

田淵 幸一(たぶち こういち、1946年9月24日 - )は、東京都豊島区出身の元プロ野球選手(捕手、内野手)・指導者(監督、コーチ)、野球解説者、野球評論家、タレント。阪神タイガースOB会会長(第6代)。

株式会社タブチエンタープライズ所属(生島企画室にも業務提携で在籍)。ニックネームは「ブチ」「ブッちゃん」「タブタ」「オッサン(東尾修が使用)」。3代目ミスタータイガースとも称される。

現役時代は阪神タイガースの主砲として活躍し、1979年に移籍した西武ライオンズではチームの2年連続リーグ優勝・日本一に貢献した。引退後は福岡ダイエーホークス監督、阪神・楽天のコーチを歴任。また、北京オリンピック野球日本代表ヘッド兼打撃コーチも務めた。

妻は元女優・タレントのジャネット八田(八田有加)で、長男はフジテレビアナウンサーの田淵裕章。次男は元俳優の田淵帝次。

父親が毎日新聞社の山形地区販売担当をしていたとき、当地寒河江市で農業を営む母の家に新聞販売で訪れ、知り合い、上京して結婚し幸一が生まれた。父親が毎日新聞社に勤めていたこともあり、裕福な家庭で生まれ育った。両親と姉の4人家族。豊島区立高田中学校(現・豊島区立千登世橋中学校)在学中に野球を始め、2年生には五番打者となる。

法政大学第一高等学校に進学。1年生時の秋季東京都高等学校野球大会では正捕手として準決勝に進出するが、日大一高に7回日没コールド負けを喫し、選抜大会出場を逃す。3年生の時の全国高等学校野球選手権東京大会では準々決勝まで進むが、日大二高に9回サヨナラ負けを喫し、全国選手権出場には届かなかった。

1965年4月に法政大学経済学部に進学。1年生の春から東京六大学野球リーグに出場。同年にはマニラで開催された第6回アジア野球選手権大会日本代表(東京六大学選抜チームが派遣)に選出され、日本の優勝に貢献した。この時の正捕手は早大の大塚弥寿男だったが、2年後の同大会では中心打者として完全優勝を飾っている。山中正竹らとバッテリーを組み、在学中3度のリーグ優勝を経験。リーグ通算97試合出場、342打数94安打、打率.275、78打点。ベストナイン3回選出(4年の1968年秋季は早大阿野鉱二が選出され自身はベストナイン特別賞)。山本浩二・富田勝と共に「法政三羽烏」と呼ばれ、3年生の春にそれまでの本塁打リーグ通算記録(8本)を早々と更新、通算で22本塁打まで伸ばし、1997年に慶大・高橋由伸に破られるまでリーグ記録だった。なお、高橋に新記録となる23本目の本塁打を打たれた投手が、田淵の母校・法政大学所属で後にプロでも田淵と同じ阪神タイガースに入団することになる安藤優也である。安藤は法政大学野球部の新年会で田淵に「お前、とんでもないことをしてくれたな」と言われ、以後安藤は田淵への謝罪を込めてお中元やお歳暮を贈っているという。

1968年度ドラフト会議にて阪神タイガースから1位指名を受け、入団。ドラフト会議前には巨人の指名が確実視され本人もそれを望んでいたとされたが、山本浩二や関西出身の富田を指名すると噂されていた阪神が、「在京ならまだしも関西球団はちょっと……」という田淵を1位指名した。ドラフト前に巨人関係者と会食し、「君には背番号2を用意している」と言われ感激したが、ドラフト指名がこのような結果になってしまい、落胆した。一方、諦めきれない巨人側も、田淵を一度阪神に入団させ後に巨人へ移籍させる「三角トレード」を提案、また密かに田淵との会談を画策したが、阪神側はトレードを拒否。巨人入りが絶望的となり田淵は阪神と契約した。阪神側から指名前の挨拶は一切なかった。

ドラフト指名後の記者会見で、母親が田淵を「ボクちゃん」と呼んでいることが発覚し、記者たちの度肝を抜いた。

阪神入団後はオープン戦で本塁打を2本放ち、強肩、強打の捕手として1年目からレギュラーに定着。22本塁打を放ち、捕手として初めての新人王を受賞した。新人でのシーズン22本塁打は2021年に佐藤輝明が並ぶまで球団記録であった。

2年目の1970年は8月上旬には20本塁打に到達するなど、ハイペースで本塁打を量産する。しかし、8月26日の対広島戦で外木場義郎から左こめかみに死球を受け昏倒。耳からの出血もありすぐさま救急車で病院に搬送され、以降のシーズンを棒に振った。このときのケガは「田淵の体質がこれで全て変わってしまった」と言われるほど大きなもので、翌年以降まで尾を引き、入団当時「もやし」「キリン」のあだ名をつけられるほどやせていたが、だんだんと太りだしてしまったとされる。一方で、田淵自身に死球の瞬間の記憶が残っておらず、死球後遺症としての内角球恐怖症にはならなかったという。

1971年は死球禍も癒えてオープン戦から快調に本塁打を打つが、3月末に風邪をこじらせて急性腎炎を発症し、入院加療を行う。6月17日の大洋戦から戦列に復帰するが、まだ入院中でしばらく病院から球場に通い、23日にようやく退院した。この年は大事を取って、主に一塁または外野に回り、捕手としての出場は1試合に留まった。

この頃より打撃フォームを一本足打法にしてから飛距離が伸び始め、1972年には34本塁打を記録した。江夏豊とのコンビは「黄金バッテリー」と呼ばれた。

1973年4月から5月にかけて、巨人を相手に同一カード7打数連続本塁打という記録を作っている。

同年9月9日の対ヤクルト25回戦で、ヤクルトの安田猛が続けていた連続イニング無四死球のプロ野球新記録の更新を81で止める。安田は7月17日の対阪神15回戦、8回表一死二塁で田淵を敬遠で歩かせたのを最後にその試合の9回から無四死球を続け、1950年の白木義一郎の74を破って記録を更新していたが、この試合、2-2の9回二死二塁で田淵を敬遠したことによりその記録が止まった。

1974年に父親が他界。当日試合前に知らせの電報を受け取り、監督・金田正泰も「試合を気にせんと帰ったれ」と田淵を気遣ったが、それらを振り切ってあえて出場し、平松政次から本塁打を2発放った。

1975年には王貞治の14年連続本塁打王を阻止する43本塁打を打ち、初タイトルを獲得した。この前年、田淵は自己最多の45本塁打(自身初のシーズン40本塁打)を放ちながらも4本差で本塁打王を逃していたが、1975年は怪我で出遅れた王を尻目に開幕から打ちまくり、最終的に王に10本差をつけてタイトルを獲得した。死球を受け、左手をまともに使えない状況で右手だけを使い、打った本塁打も含まれている。

1978年11月15日の深夜に大阪梅田のホテル阪神にて、クラウンライターライオンズから生まれ変わったばかりの西武ライオンズにトレード通告される。阪神から田淵・古沢憲司の2人、クラウンから真弓明信・竹之内雅史・若菜嘉晴・竹田和史の4人という大型トレードであった。

このトレードは深夜に呼び出されて通告されるという異例のものであり、田淵にとっても不満は大きかった。球団側の「今度行く西武の根本監督は良い監督だから、行ってよく勉強して来い」という説得に対し、「じゃあ、(阪神の)ブレイザー監督は良い監督ではないんですか?」と言い返したという。その後もテレビのインタビューで不満をぶちまけるなど、すったもんだの末にようやく決着した。

阪神在籍10シーズンで4番打者としての出場数812試合(チーム歴代3位)本塁打247本(チーム歴代1位)574打点(チーム歴代3位)と、3代目ミスタータイガースと呼ぶに相応しい成績を残した。

西武で体を鍛え直し、1980年に一塁手に転向、指名打者でも活躍した。5年ぶりとなる40本塁打以上(43本塁打)を記録(西武球団史上初の40本塁打でもある)。1982年・1983年には阪神時代に成しえなかったリーグ優勝と日本一も経験した。1983年には5月8日対ロッテ戦で3年ぶりの盗塁に成功し、7月10日(チーム67試合目)までに29本塁打を放ち、当時のシーズン最多本塁打記録(55本)更新とセ・パ両リーグ本塁打王獲得が期待されたが、13日の近鉄戦で柳田豊から死球を受け左手首骨折により長期欠場。復帰はシーズン終盤の10月4日となった。1983年の日本シリーズでは第1戦で江川卓から3ランを放つと、第5戦では日本シリーズ29イニング連続無失点中であった西本聖を攻略するために野球人生で初めてバットを短く持って打席に立ち、本塁打にするなどの活躍をし、このシリーズの優秀選手賞を受賞した。1984年9月23日現役引退を表明。9月29日、西宮球場の対阪急戦が現役最終試合となり、試合後に胴上げされた。この試合では阪急の応援演奏をおこなう阪急百貨店吹奏楽団の「ラッパ隊」が、田淵のために「六甲おろし」を奏でて贈った。後述にもあるように怪我や病気の多さで有名でもあったが一番の決め手は花粉症による病状が引退の決め手と言われている。

引退後の1985年から5年間、TBS(テレビ・ラジオ)の解説者を務める。1985年オフに西武の監督広岡達朗が解任。後任監督にオーナーの堤義明の希望で田淵の名前が挙がり球団フロントは参謀役に前年退団していた森昌彦を充てようと考えたが、森は首を縦に振らず田淵の監督起用を断念、森が西武の監督に就任した。

1987年オフに阪神の監督吉田義男が解任。後を継いだ新監督村山実からヘッド兼打撃コーチ就任を依頼されたが、過去にトレードに出された際の球団の不手際もあり、復帰を断った(村山の希望とは裏腹に阪神球団は田淵の復帰を望んでいなかった)。田淵は「村山タイガースなら帰るが阪神タイガースへなら帰りたくない」と述べた。

1990年にダイエーの監督に就任。ヘッドコーチに黒田正宏(法大の1年後輩捕手)、打撃コーチに大田卓司、スコアラーに豊倉孝治と西武OBを招聘しょうへいした(黒田はホークスOBでもある。また大田・豊倉は西武の前身で福岡に本拠を置いていた西鉄→太平洋→クラウンに在籍経験がある)。選手補強では就任間もないドラフト会議で嘗ての自身と同じく巨人を熱望する元木大介を野茂英雄の外れ1位で指名したが入団には至らず。西武時代同僚の杉本正、広橋公寿(福岡出身)を懇意の星野監督率いる中日からトレードで獲得。西武式の練習を取り入れ、「俺はいくら阪神でホームランを打っても優勝できなかったけど、西武の広岡野球で二度の優勝を味わった。やはり緻密じゃないと勝てないんだ。」、監督就任後の秋のキャンプでは二言目には「西武では〜」、「広岡さんは〜」と言ったという。1年目はチーム順位・打率、本塁打、得点、失点、防御率はすべてリーグ最下位に終わった。85敗、勝率.325は2リーグ制以降の球団のワースト記録。1年目は早々に竹之内雅史打撃コーチ(現役時代のトレード相手)は意見が合わずに退団、中西邦之投手コーチは成績不振のため休養、また、トニー・バナザード、ウィリー・アップショー両外国人選手との確執を残すなど、人事面で大きなトラブルが相次いだ。10月28日にはセレクション会議(12球団が一堂に会するトレード会議)に参加するに当たって、「ウチは金銭ならいいが、交換トレードとなると苦しいね。交換できる選手がいない。その点、浩二(広島・山本監督)とこはいいよな。長嶋や長内がリストに入っているらしい。2人とも他のチームならレギュラークラスだ」と発言。他球団のトレード要員を漏洩したため、広島の松田オーナー代行が激怒し、ダイエー球団から厳重注意、減俸10%の処分を科された。1991年は権藤博を投手コーチに招へい、門田博光が復帰したほか古巣・阪神との大型トレードで獲得した池田親興(法大の後輩)がストッパーで再起、大野久は盗塁王となるが5位、1992年は4位と順位こそ上がったものの、長い低迷から脱することはできずに解任された。なお、後述の長男・裕章によると、この3年間、東京の自宅には生卵や自転車が投げ込まれたり、裕章自身もこの子供の頃に父親のことでからかわれるなど、田淵家は大変だったということである。そして、後任として根本陸夫が監督に就任した。1993年から2001年までは、再びTBSの解説者を務める。

2001年12月20日には親友である星野仙一の阪神監督就任に伴い、古巣・阪神のチーフ打撃コーチに就任。自身にとっては24年ぶりの阪神復帰となった。背番号は88。翌2003年のリーグ優勝に大きく貢献する。「うねり打法」と称した打撃理論で濱中おさむ・関本健太郎などを育成する。星野は著書の中で「うねり打法、3割打線だ、と終始注目を集めてきた通り、大型、小型のバッターをミックスして、上手く振り分けて、ポイントを一つも外さないで攻撃態勢を作ってくれた。和田とオマリーの協力を得ながら3人で、弱い打線のレベルを一気に引き上げてくれたのである」と記している。その反面、成績が振るわない選手や見込みがない選手に対しては早々に見限るシビアな側面もあった。デリック・ホワイトの成績不振に対しては「もう(あいつに)直接教える事はない。後は本人次第で頑張ってもらうだけだから」と「戦力外」の烙印を押し、後にホワイトの解雇につながったが、「ホワイトに骨折が判明し、試合に出られる状態ではないのにベンチに入って声を出していた姿に感激して、おそらく解雇になるだろうホワイトの幸運を祈った」と自著に記している。

普段は対等の友達感覚で付き合っていたが、ユニフォームを着ればベンチでも「どうしますか、代えますか」と常に敬語で接し、遠征先で連れ立って食事に出ると、必ずホテルに宿泊している和田への土産だといって寿司やお好み焼きを包ませた。

星野が記者団を相手に昼食をとっていると、午前中から蒸し暑い神宮の室内練習場で特訓を見てきた田淵が茹でダコのようになって引きあげて来たこともあったほか、星野がベンチから練習を見ている時に雨の中で突っ立ってバッティングケージにしがみつき、打者の至近距離で、軸回転で打っているか、コンパクトなスイングがしっかりできているかをチェックするため、キャッチャーマスクとプロテクターを付けて現われたこともあった。

田淵のような専任コーチ経験のない監督経験者が、監督退任後にヘッドコーチ以外のコーチに就いた例は、中西太、杉下茂など兼任監督だったケースが大半で、田淵のケースは珍しい例である。田淵自身は、星野の下でコーチを務めていた頃から「俺は監督に向いていない、せいぜいヘッドコーチまでだ」とたびたび周囲に漏らしていた。2003年オフ、星野が健康上の理由から監督を勇退した際には、「俺は監督と一蓮托生」と自身も10月31日に退団した。また、同年オフに、星野の推薦で後任監督候補に挙がったが、本人は固辞した。

2004年、三たびTBS解説者として復帰。TBS時代は、いずれもスポーツニッポン評論家との兼務である。2007年1月29日、星野が北京五輪日本代表監督に就任、再び星野の下でヘッド兼打撃コーチとなる。この時、星野からコーチ就任を依頼された際の言葉は「行くぞ」だけであった。結果は振るわず4位に終わり、チーム打率.233は決勝トーナメントに出場した4カ国の中で最低の成績で長打力.362は打率と共にワーストであった。

2009年秋、阪神タイガースOB会の第6代会長に就任したが、わずか1年で辞任している。2011年からは星野が監督に就任した東北楽天ゴールデンイーグルスのヘッド兼打撃コーチに就任(星野が球団に田淵のコーチ招聘を要請)。阪神、北京五輪日本代表に続き、楽天でも星野をサポートすることになった。しかし、チームの極度の打撃不振から6月5日付で打撃コーチ職を解任。ヘッドコーチ専任となり、翌2012年もヘッドコーチを務めたが、同年シーズン終了を以って解任となった。

2013年には、TBSテレビ(復帰後は2013年のみ地上波中継への出演なし、2014年より地上波中継にも復帰)・ラジオの野球解説者・スポーツニッポンの野球評論家へ復帰し、タレントとしても復帰した。しかし2018年からはTBSラジオが野球中継から撤退したため、BS-TBSやTBSチャンネルの野球解説者の傍ら、阪神OBとして在阪放送局(朝日放送テレビ・朝日放送ラジオ・テレビ大阪・サンテレビ)のゲスト解説者としても活動している。

2020年1月14日、野球殿堂入り(エキスパート表彰)が発表された。同年8月18日、東京ドームホテルにおいて殿堂表彰式が執り行われた。

プレースタイル

打撃

飛距離の長さ、大きく美しい放物線を描くホームランの軌道から「ホームラン・アーチスト(“アーティスト”とホームランを示す“アーチ”を合わせた造語)」と呼ばれていた。落合博満も「本当のホームランバッターは田淵さんと秋山幸二だけ」と認めていた。特に外角球に強かったが、この長打力には田淵の左腕が右腕より3cmあまり長かったことも影響したとされる。これを発見したのは、新人時代に田淵のスーツを仕立てた洋服屋であった。ただし、晩年は、この腕の長さが原因で思うような打撃ができなかったという。

毎年多くの四球を選ぶ選球眼も武器の一つ。通算本塁打474本は歴代11位(2023年シーズン終了時点)の記録であるが、田淵の特筆すべき点として、本塁打1本を打つのに要する打数の少なさが挙げられる。2023年シーズン終了時点で通算300本塁打を記録した選手は45人いるが、田淵の本塁打率(打数を本塁打で割った数字=本塁打1本を打つのに要する打数)は王貞治に次いで2番目に少ない。

※カブレラは300本塁打到達時点での本塁打率は田淵を上回っていたが、その後のペースダウンにより最終的には田淵を下回る数字で引退した。

特に1983年には、故障で82試合しか出場していないにも拘らず30本塁打を打っており、プロ野球では初めて「規定打席に未到達で30本塁打」を記録した選手となった。この記録は2023年シーズン終了時点で田淵を含めて6人が記録しているが、田淵以外はいずれも外国人選手によるものである。

本塁打に目覚めたきっかけは高校3年の時にかぜで練習を3日休んだ病み上がりの合宿であった。この時、体調が完全に戻っておらず、体にあまり力が入らなかったが、打撃練習では打球は思った以上によく飛んで行った。この時に「打撃は力ではない」「ボールとバットが当たる場所さえ合えばボールは飛ぶ」と悟り、このことがきっかけで滞空時間の長い独特な放物線を描く本塁打を打てるようになったという。

デビューは対大洋戦での江夏豊の代打。平松政次と対戦し、シュートに手が出ず三振だった。これ以後シュートを極端に意識するようになり、若い頃の田淵は本塁打を打つと球種が何であろうと取材には「打ったのはシュート」と答えていた。取材したスポーツ記者はこれだけで記事を書かなければならず苦労したという。なお、デビュー戦ではグリップの位置が高かったが、翌日からは下げるように改めた。そのためか、1試合2本塁打という好結果につながった。

1983年の日本シリーズ(西武×巨人)第2戦(西武球場)で、巨人投手の西本聖の内角へ鋭く曲がるシュートに対して凡打の山を築いた。このため、第5戦(後楽園球場)で西本が再び先発した際には、西本のシュート対策として自分のバットのグリップエンド部分にテープを巻いて太くし、バットコントロールをしやすくすることを企図したという。その結果、第5戦の4回表に西本のシュートを捉え左翼ポールに当てる本塁打を放っている。

対巨人戦に強い打者であり、巨人がV9を達成した1973年には、シーズン37本塁打のうち16本を巨人戦で放っている。また同シーズンには1試合3本塁打を2度記録しているが、2度とも巨人戦である。また、巨人戦で5試合連続で9本塁打、7打数連続本塁打(前述)を記録。優勝争いをしていた10月10日の巨人戦では2-5の劣勢をひっくり返す逆転満塁本塁打を放った。しかし、翌日の巨人戦は一度は7-0とリードしながら江夏がKOされ、10-10の引き分け。これは田淵にとってプロ入り初の満塁本塁打だったが、田淵の記憶によればプロのみならず「野球人生初」だという。残り3試合でマジック1だったにもかかわらず広島、中日に連敗、巨人との最終決戦(10月22日、甲子園)にも敗れ、優勝はならなかった。後に本人も「このとき優勝していれば自分の野球人生は変わっていた」と語っている。

打撃に対する姿勢も天才肌だったようである。西武時代に同僚だった野村克也が、大鏡の前で素振りもせずただ構えをチェックしている田淵を見つけ、何をしているのかと聞くと「僕は構えさえ決まれば打てるんです」と答えた。野村は「構えは確かに大事だが、いい構えだけでさあ何でも来いというのは田淵だけや」と呆れたという。

いしいひさいちの『がんばれ!!タブチくん!!』では、極めて短足で「ドタドタ」と重そうに走る様子が描かれ、「絶対に不可能なことの例え」として「タブラン(田淵のランニングホームランの略)」という言葉が出てくるが、星野仙一によれば法大時代の田淵は俊足であった。長嶋茂雄の六大学記録に迫っていた時、ランニングホームランで達成しそうになり「失礼だ」という理由で三塁で止まったこともある。プロ生活ではランニングホームランは一度もなく、盗塁も18個しか記録していないが、これは肥満以上に度重なるケガの影響が大きい。また、球界屈指の長足でもあったが、それゆえにバッティングフォームの重心が高く、確実性に欠けるとの指摘もされていた。江夏豊は「田淵ほど、何もしない、何も考えないでホームランを打った男を知らない。オレがいままで見た野球選手のなかで、天才と呼べるのはただ一人、田淵幸一だけや」と述べている。西武時代監督だった広岡達朗は「あれには注文をつけても仕方がない。ホームランさえ打ってくれたらそれで十分だ」と述べている。

長打力のある選手に多めの傾向があるとされる三振だが、田淵は三振の少ない選手であり、1シーズンに100以上の三振を記録したことは一度もない。公式戦における犠打はゼロである。

本塁打数の割に安打数が比較的ながらも少ないことが特徴でもあり、日本球界において、通算400本塁打以上を放ちながら2000本安打に到達しなかった日本人選手は田淵と山崎武司の2人だけである(外国人選手を含めるとタフィ・ローズを加えて3人となる)。

阪神時代と西武時代に1回ずつ4者連続本塁打に絡んだ。

守備

若い頃は巨体ながら捕手としての動きは俊敏で、大学時代には俊足の高田繁との対決が見せ場であった。プロ入りしてからもボールを受けてから二塁に投げるまでの速さはトップクラスで、加えて強肩でもあり、20代の頃は盗塁阻止率4割以上を記録している。1977年7月13日の大洋戦で田村政雄から死球を受けて右手親指を骨折し、この影響で入団5年目まで5割以上の盗塁阻止率を誇っていた肩が衰えていた。

しかし、既述の外木場から受けた死球の影響により聴力の低下や体質変化(肥満)のためにプレーが緩慢になっていったと言われる。よく挙げられるのは、阪神時代に何でもないキャッチャーフライを見失い、落球したというプレーである。また、当時の阪神には辻佳紀・辻恭彦など守備の得意な捕手がいたこともあり、怪我をして以降は一塁や外野でも出場、西武に移籍後は主に指名打者として出場していた。江夏豊によると、田淵が捕手として大成できなかった要因は大雑把な神経にあるという。

その他

一般に曲者ぞろいとされる捕手の中では珍しい、非常に大らかな人物である。江夏豊もその人間性について「ブチほど純粋で裏表のない人間はいない」と述べている。目が合って一言でも挨拶してしまうと途端に相手が敵とは思えなくなり、まともな勝負ができなくなってしまうため、試合前に対戦相手の選手とできるだけ目を合わせないようにしていた、「当たると痛い」のでインコースギリギリに投げて打者を威嚇するようなサインは絶対に出さなかった(江本孟紀による)、コーチに「サインが盗まれているから隠せ」と言われても「そんなこすっからいことする人いません」と取り合わなかったなど、人の良さを示す逸話は枚挙に暇がない。また、サイン盗みは卑怯なやり方として絶対に使おうとせず、正々堂々と勝負することを常としていた。

野村克也は現役の頃から「捕手としての田淵」を疑問視し、野村は「捕手出身者が監督になって駄目だった例」として田淵の名をよく挙げており、数多くの著書で田淵の捕手や指導者としての能力を酷評している。

1975年頃の阪神は田淵に限らず、江夏、和田徹、遠井吾郎など力士のような肥満体型の選手が目立っていたため、「相撲部屋」と揶揄やゆされていた。このようなことから同年、中川卓爾が東京教育大学より引き抜かれてトレーニングコーチに就任した。

『がんばれ!!タブチくん!!』

1977年から、入団当時に比べ太ってしまった田淵をモチーフとした漫画『がんばれ!!タブチくん!!』(いしいひさいち作)が連載され、単行本がベストセラーになった。漫画の中ではタブチの良きパートナーとしてヤクルトの安田猛(実生活では東京六大学以来の好敵手である)や大矢明彦、また当時ヤクルトの監督で後に西武の監督に就任する広岡達朗もキャラクターとして登場、1979年には映画にもなった。

『がんばれ!!タブチくん!!』に出てくる夫人・ミヨコは、前夫人がモデルである。田淵本人は最初知らなかったが、家庭内のネタは前夫人が情報源であったことをテレビ番組内で語っている。自身をネタにされているにもかかわらず田淵自身この漫画の大ファンで、いつも読んでは大笑いしていたという。NHK教育テレビ『YOU』(1984年)に出演した際には「マンガまで書いて応援してくれるなんて嬉しい。作者に会ってお礼が言いたい」とまで語っている。

また、タレントのダンカンが江夏から直接聞いた話として、劇場アニメ化された際に江夏と2人で鑑賞に行った際、「自分をモデルにした映画だと言うから観に来てみたら、お客さんが全然入っていな〜いじゃないか!」と内容ではなく観客の入りの少なさを怒っていたという。この言葉に江夏は「ま、昼間やから仕方ないやろ。夜やったら満席やでぇ」と慰めたという(DVD-BOX同梱の解説書より) 。

なお、2021年プロ野球OBクラブのチャンネルの江夏田淵対談で田淵本人にその激怒した話の真相を伺った際は「見ていない」とそもそも江夏と一緒に行ったことはおろか見ていないと断言し「今、芸能人が怒っているのがわかるわ」と江夏と共々呆れていた。

田淵が現役引退(1984年)した翌年の1985年1月9日、『球界のスーパー・ヒーロー引退に捧ぐ!』という副題で、劇場第1作目が日本テレビ『水曜ロードショー』で記念放送された。

現夫人は野球にはまったく興味がなく、この漫画で田淵の存在を初めて知った。その結果として彼女と結婚できたので、田淵自身は「この漫画には不満などなく、むしろ感謝している」と、後年テレビ番組内で語っている。

2020年1月に田淵が野球殿堂入りを果たした際にコメントを求められたいしいは、「タブチくんのコメント」として「殿堂入りは当然と思います。もう2度と足を引っ張ったりしません。おめでとうございます」と祝福した。

2024/06/15 15:09更新

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