山崎裕之の情報(やまさきひろゆき) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
山崎 裕之さんについて調べます
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広岡達朗: この契約の際に現場のことは全面的に広岡に任せ、協力する約束を交わしたが、チーム補強のために意図したロッテの山崎裕之の獲得・トレードは合意の段階で決まって球団上層部からクレームが付き、次々に潰されていった。 古賀正明: その後、1979年に山崎裕之・成重春生との交換トレードで倉持明とともにロッテオリオンズに移籍。 村田康一: なお、同シリーズ第6戦においても、1回裏に中日・平野が二塁盗塁した際に西武の二塁手・山崎裕之が落球しているのが見えず、二塁塁審の村田はアウトのコールをした。 吉岡悟: 当時は正二塁手に山崎裕之が在籍していたため、なかなか一軍には定着できなかった。 衆樹資宏: 衆樹が放ったこの開幕戦初球先頭打者本塁打記録は、2007年に高橋由伸(巨人)が対横浜戦で記録するまで45年の長きに渡り日本プロ野球での唯一の記録であった(1回裏の初球を含めると後年に広瀬叔功(1963年)・山崎裕之(1970年)・辰己涼介(2021年)が記録している)。 藤原恭大: 開幕戦でのプロ初先発出場は、球団の高卒新人では榎本喜八、山崎裕之に次いで54年ぶり3人目、高卒新人の「1番」での出場に限れば、近鉄バファローズの飯田幸夫に次いで史上2人目となる。 佐藤誠一: 初奪三振:同上、5回表に山崎裕之から 立花義家: 田淵幸一、土井正博、山崎裕之、大田卓司、スティーブ・オンティベロスら強打者が好調で打順が上がらなかったため、「恐怖の7番打者」と評された。 西沢正次: 6月18日の南海戦(大阪)では5-6と1点を追う9回表に伊原春樹の代打で起用されたが、この9回表に西武が同点に追い付いたのは良かったものの、9回までに山崎裕之・大原徹也・伊原と二塁のポジションを守れる選手を使い果たしており、西沢がそのまま二塁手として9回裏の守備に就き引き分けに持ち込んだ。 井上弘昭: 1984年のシーズン終了後に現役を引退し、1985年、広島時代のコーチであった監督の広岡達朗に請われ、西武ライオンズの守備走塁コーチに就任するも、前年の田淵幸一、山崎裕之の引退により右の代打が不足していたことから現役復帰した(コーチ兼任)。 松川虎生: これは1955年の谷本稔(大映)、2006年の炭谷銀仁朗(西武)に次ぐ史上3人目の高卒新人捕手開幕スタメン、球団でも1955年の榎本喜八、1965年の山崎裕之、2019年の藤原恭大以来史上4人目となる高卒新人開幕スタメンとなった。 飯島秀雄: 開幕2日目となる対南海ホークス戦の9回裏、安打で一塁に出た山崎裕之の代走で出場。 根本陸夫: そして阪神から田淵幸一・古沢憲司を、ロッテから山崎裕之をトレードで獲得。 成重春生: 1977年にはチーム最多の50試合に登板して後期優勝に貢献したが、1978年オフに古賀正明、倉持明との交換トレードで山崎裕之と共に西武ライオンズへ移籍。 飯島秀雄: 初出場:1969年4月13日、対南海ホークス2回戦(東京スタジアム)、9回裏に山崎裕之の代走で出場 弘田澄男: 初出場:1972年4月8日、対近鉄バファローズ1回戦(東京スタジアム)、3回表に山崎裕之に代わり二塁手として出場 森安敏明: また、山崎裕之(東京オリオンズ)は「20年の現役生活中、初見で『これは打てんわ』と感じたのは森安のみだった」と述べており、「少なくとも155km/h前後は出ていたはず。 山田久志: 1500奪三振:1981年8月26日、対西武ライオンズ後期7回戦(西武ライオンズ球場)、1回裏に山崎裕之から ※史上28人目 高井保弘: 同年のオールスターに選出され、第1戦の9回裏・1死1塁の場面に山崎裕之の代打として出場する。 会田照夫: 高校の1年上に山崎裕之、同期に江田幸一がいる。 落合博満: 山崎裕之から「今年の落合の成績を見てもわかるように、とても3億円の値打ちのあるような選手じゃない」と評されたのを始めとして、特集記事で散々に酷評された。 広瀬宰: 1969年には山崎裕之が二塁手に回った後を受けてレギュラー遊撃手となる。 辻発彦: オフに二塁手のレギュラーだった山崎裕之が引退し、遊撃手には石毛宏典、一塁手にはスティーブ・オンティベロス(三塁手兼任)や片平晋作、三塁手には秋山幸二がいたため、チーム方針で辻も二塁手を目指すことになった。 黒江透修: 当時、一軍の主力選手は田淵幸一・山崎裕之らベテランが主体で数年後には衰えると見越して、二軍に数多くいる若手選手を指導して数年後に彼らと共に一軍に上がって欲しいという広岡の要望によるものであった。 八木沢荘六: 田淵幸一、山崎裕之、大田卓司から石毛宏典、秋山幸二、清原和博…。 金田正一: 金田や主力選手ら(有藤、木樽、弘田、山崎裕之、ラファエル・バティスタ、ビル・マクナルティ)は帰京して後期に向けた練習をしていたという状態で、後日リーグ理事会から手抜き試合であるとして厳重注意された。 浦田直治: 同年オフには根本に命じられて山崎裕之のトレードを担当したが、立場はチーフスカウト兼一軍投手コーチのままであった。 ダリル=スペンサー: 小山正明に2回連続で死球を受けた際に全く怒ったそぶりを見せなかったが、次の出塁時に三塁へ滑り込むと、三塁手の山崎裕之を強烈なスライディングで3m以上もぶっ飛ばしたという。 村田康一: その打球が西武の二塁手・山崎裕之の目の前に転がり、三塁ベースを回っていた田尾がアクシデントに気づいてあわてて三塁に戻ったが、田尾はタッチアウト、中日は先制のチャンスをつぶした(ただし、平野の記録は安打)。 野本喜一郎: 主な教え子としてプロ野球選手では山崎裕之、会田照夫、仁村徹、鈴木健、社会人野球選手では黒須隆などがおり、アマチュア野球指導者では谷口英規(上武大)、福田治男、森士、新井浩、斉藤秀夫、高野和樹(上尾高)などがいる。 |
山崎裕之の情報まとめ
山崎 裕之(やまさき ひろゆき)さんの誕生日は1946年12月22日です。埼玉出身の野球選手のようです。
引退、テレビに関する情報もありますね。今年の情報もありました。山崎裕之の現在の年齢は77歳のようです。
山崎裕之のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 山崎 裕之(やまざき ひろゆき、1946年12月22日 - )は、埼玉県上尾市出身の元プロ野球選手(内野手)。 実家は和菓子店。小学校低学年の頃に実家の裏の造り酒屋の若い衆に初めて野球を教わったという。中学入学後に野球部に入部して本格的に野球を始め、最初は投手だった。埼玉県立上尾高等学校では1962年、1年生の時に投手、三番打者として夏の甲子園予選西関東大会決勝に進出するが、佐野嘉幸を四番打者に据えた甲府工に惜敗し、甲子園には届かなかった。 しかし1963年春の選抜に遊撃手、控え投手として初出場を果たす。同大会では1回戦で松阪商を降すが、2回戦で東邦高に完封負け。この試合で、山崎はリリーフとして甲子園初登板を果たした。 1964年夏の県予選は準決勝で熊谷商工に敗れた。この年9月、上尾市内で東京オリンピックの聖火走者を務めている。高校の1年下に会田照夫、江田幸一がいた。 1965年、東京オリオンズに入団する。『長嶋二世』と言われた所以でオリオンズ入団時、当時の看板打者でもあった榎本喜八がつけていた背番号3を提示されたが、山崎は2を希望する。当時はドラフト制度が無く各球団での競合となり、当時としては破格の契約金5,000万円での入団となった。 1967年に遊撃手のレギュラーとなる。1968年は規定打席(17位、打率.255)にも到達するが、打撃は今一つ伸び悩んだ。 1969年に二塁手に回り、打率.301(リーグ5位)を記録している。同年から3年連続でベストナインに選出された。 1970年は開幕戦の南海ホークス戦で1回裏に先発・西岡三四郎の初球を初回先頭打者初球本塁打している。この年のロッテ打線はミサイル打線の異名を取り、山崎も主に6番打者として25本塁打、75打点を記録し、10年ぶりのリーグ優勝に貢献した。しかし、同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは16打数2安打と精彩を欠いた。 1971年8月14日の東映フライヤーズ戦では、史上25人目となるサイクル安打を達成している。 1973年のオールスターゲームでは、第3戦で9回裏にヤクルトスワローズの安田猛からサヨナラ安打を打ち、この試合でMVPを受賞した。 1974年には自身2度目のリーグ優勝を経験、中日ドラゴンズとの日本シリーズでは全試合に4番打者として出場し、最終第6戦では3安打を打つなど、22打数8安打、3打点と活躍して優秀選手賞を獲得し、チーム24年ぶりとなる日本一に貢献した。 1977年には初めてダイヤモンドグラブ賞を獲得する。 1978年オフに就任した新監督の山内一弘の構想から外れ、古賀正明・倉持明との交換トレードで福岡から所沢へ移転したばかりの新生西武ライオンズに成重春生と共に移籍を決意した。当時、ヤクルト監督の広岡達朗からヤクルトへの移籍を誘われたが、この時は実現しなかった。このオフに「球界の寝業師」の異名を取った西武根本陸夫監督はBクラスが定位置となっていたライオンズの体質改善のため、他にも田淵幸一・野村克也など他球団で実績を残した大物のベテラン選手を続々と獲得していたが、山崎もロッテ時代と同じ背番号2を与えられ、チーム再建を担うベテランの一角として期待を受けた。 1979年は故障欠場もあって規定打席に届かなかったが、打率.332を記録。 1980年は再び規定打席に到達し、打率.294(リーグ16位)、25本塁打の好成績を記録。ベストナインに選出され、ダイヤモンドグラブ賞も獲得する。 1982年には120試合以上に出場。チームは7年ぶりのAクラス入りと同時に19年ぶりのリーグ優勝・24年ぶりの日本一へと駆け上がる。 1983年にもほとんどの試合に出場し、2年連続となるリーグ優勝・日本一連覇に貢献。自己最多の82打点を記録し、9月18日のロッテ戦で仁科時成から当時プロ野球18人目となる通算2000安打も達成している。 1984年、チームのリーグ3連覇が絶望的になったのを機に若手主体の編成に変わり、自身の打撃の低迷も相まって、二塁手のポジションには辻発彦が多く起用されるようになった。この年限りで現役を引退。現役時代はベストナインを5回、ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を3回受賞した以外、打撃タイトルとは無縁であった。 引退後は文化放送、テレビ東京の野球解説者、日刊ゲンダイの野球評論家として活動している。現役時代からのリーダーシップや卓越した野球理論を買われ、実際にコーチや監督の就任を打診されたこともあったが全て固辞しており、現場に関わる仕事は一切していない。これについて山崎は、「私がへそ曲がりだからです」と評しており、指導者は性格的に向いていないと述べている。 高校時代は、埼玉県営大宮公園野球場で長嶋茂雄以来のバックスクリーン弾を打つなど強打で鳴らし、『長嶋二世』と評され、高校野球部監督の野本喜一郎(元西鉄など)が元プロでプロ球界で顔が広かったこともあって当時は広島カープを除く11球団が興味を示したプロ注目の内野手であったが、山崎本人は、遠くの球団へやりたくなく在京球団を希望した親の意向と、当時のオリオンズスカウトの山田潔が高校1年の頃から自分に注目してくれていたことでまず1番に声をかけてくれた東京オリオンズに入団することを決意したという。この時にオリオンズが提示した5,000万円という契約金は当時としては破格であり、山崎もこれを手取りで受け取っていたと証言しており、こうした契約金の高騰合戦が1965年オフより始まったプロ野球ドラフト会議導入のきっかけになったのではないかと推測している。 広岡達朗は、選手として山崎に大きな信任を寄せており、ヤクルト監督時代は獲得を熱望していたほか、西武監督となってからは東尾修や田淵幸一などのチームの看板選手も特別扱いをせずに厳しい態度で臨んだが、山崎に関してだけは何も言うことは無く、1982年シーズンは打率.246、7本塁打という不本意な成績で終わったにもかかわらず「チームへの貢献度は一番」と評してこの年は年俸が上がったという。また、上記のように、入団時、同じ遊撃手の先輩でもある広岡を尊敬していたこともあり、自ら『2』を希望したが、最終年度の1984年は起用方針を巡って、広岡との関係は悪化していた。 根本陸夫も山崎の獲得に当たって、投手2人をロッテから要求されたことについては「バッテリー間を先に作り上げるという考え方からすれば、やっちゃいかんこと」と後年振り返りつつも、山崎のことは「打の柱が田淵なら、投の軸が東尾、あとは内野にキーマンが必要です。守れて打てる山崎君は、その役にピタリでした。オリオンズに在籍して14年、キャリアは十分です。派手ではないけれど、野球の職人です。放っといても自分で自分をつくるタイプです。新しい環境が水に合えば、最盛期のレベルに復活してくれると期待しています。5年待てば、新しく入れた若手が育ちます。その間、西武の力となり、若手の見本となってくれればと思いました。」と評している。この根本の読み通りに山崎は、移籍後にキャリアハイと言えるような数字を残して西武の優勝と日本一に貢献し、在籍6年でユニフォームを脱いだが、西武の次世代の二塁手には行沢久隆・辻発彦ら若手が既に台頭を見せていた。 山崎は、高卒1年目からショートでレギュラー出場するもなかなかプロのレベルでは芽は出なかったが、守備位置が二塁手に固定されてレギュラーに定着してからは打撃でもパンチ力を見せ、現役20シーズン中14シーズンで2桁本塁打を記録し、通算で270本塁打を記録した。しかし、規定打席に到達して打率3割を記録したのは1度だけであり、通算打率は.265と決して高くはない。 通算盗塁数は137であるが、盗塁死も多く成功率は55.9%に留まり通算犠打も104と多くはなく、リードオフマンや繋ぎの2番といったタイプではない。プロ入りから打順は毎年のように変動しており、ロッテ時代は1番から7番での間で打順がチーム状態に応じて変動していたが、西武移籍後は現役晩年ながら1番や2番での起用で固まり、1980年にはリーグ最多四球を記録するなど出塁するために四球を選ぶようになり、1981年と1983年にはリーグ最多得点も記録している。プロ入りしてから1番から9番までの全打順での起用経験を持つ。 守備に関しては、守備位置は入団当初は遊撃手だったが、3年目の1968年は119試合で遊撃手として23失策、守備率.957を記録するなど、プレーに確実性を欠いていた。 しかし、翌1969年より二塁手にコンバートされると125試合で二塁手として出場、9失策、守備率.986を記録し、課題だった守備に安定感が出た。以後は長年二塁手として出場し、二塁手としての試合出場1883試合は高木守道に次いで歴代2番目に多く、二塁手での通算補殺3972、通算刺殺4840はいずれも歴代3位の記録となっている。守備に卓越した選手をシーズンごとに選ぶダイヤモンドグラブ賞には二塁手で3度選出されている。一方で現役時代は隠し球の名手としても知られており、犠打で二塁へ送られてきた走者や適時打などを放って油断している選手に不意を突いて仕掛けることがあった。 各年度の太字はリーグ最高 東京(東京オリオンズ)は、1969年にロッテ(ロッテオリオンズ)に球団名を変更 ベストナイン:5回(二塁手部門:1969 - 1971年、1974年、1980年) ダイヤモンドグラブ賞:3回(二塁手部門:1977年、1980年、1981年) 日本シリーズ優秀選手賞:1回(1974年) オールスターゲームMVP:1回(1973年 第3戦) パ・リーグプレーオフ優秀選手賞:1回(1974年) 初出場・初先発出場:1965年4月10日、対東映フライヤーズ1回戦(後楽園球場)、7番・遊撃手で先発出場 初安打:1965年4月11日、対東映フライヤーズ2回戦(後楽園球場)、5回表に尾崎行雄から 初打点:1965年6月8日、対西鉄ライオンズ8回戦(小倉球場)、10回表に田中勉から右前2点適時打 初本塁打:1965年6月15日、対東映フライヤーズ9回戦(東京スタジアム)、3回裏に田中調から2ラン 100本塁打:1973年4月20日、対阪急ブレーブス前期1回戦(後楽園球場)、4回裏に足立光宏から左越ソロ ※史上74人目 1000試合出場:1974年5月21日、対太平洋クラブライオンズ前期7回戦(平和台野球場)、5番・二塁手で先発出場 ※史上170人目 1000安打:1975年7月13日、対太平洋クラブライオンズ後期1回戦(宮城球場)、1回裏に東尾修から中前安打 ※史上91人目 150本塁打:1976年8月29日、対阪急ブレーブス後期7回戦(阪急西宮球場)、9回表に山田久志から左越ソロ ※史上44人目 1500試合出場:1978年5月27日、対日本ハムファイターズ前期9回戦(後楽園球場)、4番・二塁手で先発出場 ※史上57人目 1500安打:1979年10月10日、対日本ハムファイターズ後期12回戦(西武ライオンズ球場)、9回裏に宇田東植から中前安打 ※史上32人目 200本塁打:1980年4月30日、対ロッテオリオンズ前期6回戦(宮城球場)、9回表に安木祥二から左越決勝ソロ ※史上33人目 1000三振:1980年8月1日、対南海ホークス後期4回戦(西武ライオンズ球場)、9回裏に金城基泰から ※史上5人目 300二塁打:1981年8月10日、対ロッテオリオンズ後期5回戦(西武ライオンズ球場)、3回裏に水谷則博から ※史上18人目 3000塁打:1982年8月10日、対ロッテオリオンズ後期4回戦(西武ライオンズ球場)、8回裏に三井雅晴から中前安打 ※史上19人目 2000試合出場:1982年8月17日、対南海ホークス後期7回戦(大阪スタヂアム)、2番・二塁手で先発出場 ※史上17人目 250本塁打:1983年4月22日、対阪急ブレーブス1回戦(西武ライオンズ球場)、8回裏に松本祥志から2ラン ※史上20人目 1000得点:1983年5月19日、対ロッテオリオンズ7回戦(鹿児島県立鴨池野球場)、3回表に大田卓司の決勝適時二塁打で生還して記録 ※史上18人目 350二塁打:1983年9月6日、対南海ホークス20回戦(大阪スタヂアム)、9回表に矢野実から ※史上13人目 2000安打:1983年9月18日、対ロッテオリオンズ24回戦(西武ライオンズ球場)、3回裏に仁科時成から右翼へ三塁打 ※史上18人目 6試合連続二塁打(1971年7月29日 - 8月3日)当時の日本記録 1イニング2本塁打:2回 ※史上8人目(複数回達成は史上2人目)
1983年9月1日、対日本ハムファイターズ20回戦(西武ライオンズ球場)、8回裏先頭で川原昭二から中越ソロ、二死後も川原昭二から左越満塁本塁打 ※史上11度目 サイクルヒット:1971年8月14日、対東映フライヤーズ19回戦(明治神宮野球場) ※史上25人目 オールスターゲーム出場:11回(1969年、1970年、1972年 - 1977年、1980年、1981年、1983年) 2(1965年 - 1984年) 文化放送ホームランナイター 文化放送ライオンズナイター 全力闘球 - 出演していたテレビ東京のプロ野球中継の現行タイトル。 スポーツTODAY ^ 通算2000本安打達成者のうちNPBで指導者経験が無いのは、他には張本勲、衣笠祥雄、門田博光などがいる。 ^ ただし、山崎は契約金は慶應義塾大学から南海ホークス入りした渡辺泰輔の方がさらに上であったとも語っている。 ^ 週刊ベースボール 2024年4月8日号 シリーズ連載『レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し 山崎裕之・1』(59頁 - 61頁) ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年 ^ “64年東京五輪 子供が夢育む好機 山崎裕之さん”. 毎日新聞 (2015年11月5日). 2021年6月23日閲覧。 ^ “開幕直後の“先頭打者弾”!プレイボール直後の“初球”に注目”. 2021年6月23日閲覧。 ^ 「私の履歴書 広岡達朗」日本経済新聞社連載(20)、2010年8月21日 ^ 西武移籍の時のココだけ話。 - YouTube ^ 各種記録達成者一覧 2000安打NPB ^ “広岡監督は優秀だが人間性は…。山崎裕之はヘルメットをブン投げた|プロ野球|集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva”. 集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva. 2021年9月21日閲覧。 ^ “山崎裕之 廣岡監督に評価された名バイプレーヤー/プロ野球1980年代の名選手”. 週刊ベースボールonline (2019年1月27日). 2020年6月9日閲覧。 ^ “新人選手の獲得、活躍あれこれ(1)”. 東京プロ野球記者OBクラブ (2018年9月1日). 2020年6月9日閲覧。 ^ “広岡監督は優秀だが人間性は…。山崎裕之はヘルメットをブン投げた|プロ野球|集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva”. 集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva. 2023年2月2日閲覧。 ^ “【根本陸夫伝】 主力を放出してまで田淵幸一の獲得にこだわった男”. web Sportiva (2015年9月2日). 2020年6月9日閲覧。 ^ 通算100犠打を記録した選手の中では歴代最多 ^ 通算250本塁打以上の選手の中では衣笠祥雄(504本塁打・88犠打)を抜く歴代最多 ^ “プロ野球記録 山崎裕之”. johnnybet.com. 2020年6月9日閲覧。 ^ “追悼・タフさと勤勉さで球史に残る名二塁手となった高木守道”. FRIDAY DIGITAL (2020年1月21日). 2020年6月9日閲覧。 ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」410ページ 埼玉県出身の人物一覧 千葉ロッテマリーンズの選手一覧 埼玉西武ライオンズの選手一覧 個人年度別成績 山崎裕之 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 金田正一 稲尾和久 小山正明 米田哲也 梶本隆夫 皆川睦雄 村山実 鈴木啓示 堀内恒夫 山田久志 江夏豊 平松政次 東尾修 村田兆治 北別府学 佐々木主浩 高津臣吾 工藤公康 野茂英雄 山本昌広 岩瀬仁紀 黒田博樹 上原浩治 藤川球児 平野佳寿 山内一弘 榎本喜八 野村克也 長嶋茂雄 広瀬叔功 張本勲 王貞治 江藤慎一 土井正博 高木守道 松原誠 柴田勲 大杉勝男 藤田平 衣笠祥雄 福本豊 山崎裕之 山本浩二 有藤通世 若松勉 谷沢健一 加藤秀司 門田博光 大島康徳 新井宏昌 秋山幸二 駒田徳広 立浪和義 鈴木一朗(イチロー) 清原和博 古田敦也 野村謙二郎 石井琢朗 松井秀喜 田中幸雄 前田智徳 金本知憲 松井稼頭央 小笠原道大 稲葉篤紀 宮本慎也 小久保裕紀 アレックス・ラミレス 中村紀洋 谷繁元信 井口資仁 和田一浩 新井貴浩 福留孝介 荒木雅博 青木宣親 阿部慎之助 鳥谷敬 内川聖一 福浦和也 坂本勇人 栗山巧 大島洋平 表 話 編 歴 1957 豊田泰光 1958 中西太 1959 杉山光平 1960 近藤和彦 1961 塩原明 1962 岩下光一 1963 王貞治 1964 K.ハドリ 1965 林俊彦 1966 長嶋茂雄 1967 D.スペンサー 1968 柴田勲 1969 足立光宏 1970 黒江透修 1971 黒江透修 1972 長嶋茂雄 1973 高田繁 1974 山崎裕之 1975 中沢伸二, 外木場義郎 1976 B.ウイリアムス 1977 福本豊 1978 若松勉 1979 水谷実雄 1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰 1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正 1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義 1983 田淵幸一, テリー, 中畑清 1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊 1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二 1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実 1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己 1988 清原和博, 森山良二, 郭源治 1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸 1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤 1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎 1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也 1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也 1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦 1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾 1996 大島公一, 鈴木平, イチロー 1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛 1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広 1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司 2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成 2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満 2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之 2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎 2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信 2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁 2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲 2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博 2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広 2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一 2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平 2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩 2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー 2013 田中将大, 銀次, 内海哲也 2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太 2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太 2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔 2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大 2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃 2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩 2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐 2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎 2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆 2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸 2024 筒香嘉智, A.ジャクソン, A.ケイ 表 話 編 歴 1951 川上哲治, 野口明, 林義一 1952 飯島滋弥 1953 飯田徳治, 平井三郎, 堀井数男 1954 中西太, 山内和弘 1955 山内和弘, 西沢道夫 1956 森下正夫, 吉田義男 1957 大下弘, 宮本敏雄 1958 宮本敏雄, 中西太 1959 山内和弘, 中利夫 1960 森下整鎮, 金田正一, 張本勲 1961 広瀬叔功, 田宮謙次郎 1962 ブルーム, 張本勲 1963 近藤和彦, 王貞治, 古葉毅 1964 金田正一, J.マーシャル, J.スタンカ 1965 D.スペンサー, 高倉照幸, 江藤慎一 1966 広瀬叔功, 榎本喜八, 古葉竹識 1967 土井正博, 長池徳二, 大杉勝男 1968 江藤慎一, 柴田勲, 小池兼司 1969 土井正博, 船田和英 1970 長池徳二, 江夏豊, 遠井吾郎 1971 江夏豊, 長池徳二, 加藤秀司 1972 野村克也, 阪本敏三, 池田祥浩 1973 若松勉, 福本豊, 山崎裕之 1974 高井保弘, 福本豊, 張本勲 1975 山本浩二, 松原誠, 土井正博 1976 有藤道世, 門田博光, 吉田孝司 1977 若松勉, 野村克也, 王貞治 1978 A.ギャレット, 簑田浩二, 掛布雅之 1979 王貞治, B.マルカーノ, 山本浩二 1980 岡田彰布, 平野光泰, 江夏豊 1981 藤原満, 掛布雅之, 山倉和博 1982 福本豊, 柏原純一, 掛布雅之 1983 門田博光, 梨田昌崇, 落合博満 1984 簑田浩二, ブーマー, 江川卓 1985 高木豊, W.クロマティ, 松永浩美 1986 山本和範, 清原和博, 吉村禎章 1987 高沢秀昭, 石毛宏典, 清原和博 1988 ブーマー, 岡田彰布, 正田耕三 1989 村田兆治, 彦野利勝 1990 R.ブライアント, 清原和博 1991 古田敦也, 広沢克己 1992 石井浩郎, 古田敦也, 駒田徳広 1993 清原和博, T.オマリー 1994 秋山幸二, G.ブラッグス 1995 落合博満, 松井秀喜 1996 山本和範, 清原和博, 金本知憲 1997 松井稼頭央, 清原和博 1998 川上憲伸, 松井秀喜 1999 松井秀喜, R.ローズ, 新庄剛志 2000 R.ペタジーニ, 山﨑武司, 清原和博 2001 松井稼頭央, R.ペタジーニ, 中村紀洋 2002 G.アリアス, 的山哲也 2003 高橋由伸, 金本知憲 2004 松坂大輔, SHINJO 2005 金城龍彦, 前田智徳 2006 青木宣親, 藤本敦士 2007 A.ラミレス, 阿部慎之助 2008 山﨑武司, 荒木雅博 2009 青木宣親, 松中信彦 2010 阿部慎之助, 片岡易之 2011 畠山和洋, 中村剛也, 稲葉篤紀 2012 中村紀洋, 前田健太, 陽岱鋼 2013 澤村拓一, 新井貴浩, 内川聖一 2014 B.エルドレッド, 柳田悠岐 2015 藤浪晋太郎, 會澤翼 2016 筒香嘉智, 大谷翔平 2017 内川聖一, A.デスパイネ 2018 森友哉, 源田壮亮 2019 森友哉, 近本光司 2020 (中止) 2021 菊池涼介, 島内宏明 2022 清宮幸太郎, 柳田悠岐 2023 柳田悠岐, 万波中正 2024 牧秀悟,佐藤都志也 表 話 編 歴 投 鈴木啓示 捕 岡村浩二 一 大杉勝男 二 山崎裕之 三 有藤通世 遊 阪本敏三 外 張本勲 / 長池徳二 / 永淵洋三 表 話 編 歴 投 木樽正明 捕 野村克也 一 大杉勝男 二 山崎裕之 三 有藤通世 遊 阪本敏三 外 張本勲 / 長池徳二 / G.アルトマン 表 話 編 歴 投 山田久志 捕 野村克也 一 大杉勝男 二 山崎裕之 三 有藤通世 遊 阪本敏三 外 長池徳二 / G.アルトマン / 門田博光 表 話 編 歴 投 金田留広 捕 村上公康 一 C.ジョーンズ 二 山崎裕之 三 有藤通世 遊 大橋穣 外 張本勲 / 福本豊 / D.ビュフォード 表 話 編 歴 投 木田勇 捕 梨田昌崇 一 レオン.L 二 山崎裕之 三 有藤道世 遊 高代延博 外 福本豊 / 栗橋茂 / L.リー 指 C.マニエル 表 話 編 歴 1972 大下剛史 1973 桜井輝秀 1974 桜井輝秀 1975 B.マルカーノ 1976 B.マルカーノ 1977 山崎裕之 1978 B.マルカーノ 1979 B.マルカーノ 1980 山崎裕之 1981 山崎裕之 1982 大石大二郎 1983 大石大二郎 1984 大石大二郎 1985 西村徳文 1986 辻発彦 1987 白井一幸 1988 辻発彦 1989 辻発彦 1990 辻発彦 1991 辻発彦 1992 辻発彦 1993 辻発彦 1994 辻発彦 1995 小久保裕紀 1996 大島公一 1997 大島公一 1998 金子誠 1999 金子誠 2000 大島公一 2001 井口資仁 2002 高木浩之 2003 井口資仁 2004 井口資仁 2005 西岡剛 2006 田中賢介 2007 田中賢介 2008 田中賢介 2009 田中賢介 2010 田中賢介 2011 本多雄一 2012 本多雄一 2013 藤田一也 2014 藤田一也 2015 L.クルーズ 2016 藤田一也 2017 鈴木大地 2018 中村奨吾 2019 浅村栄斗 2020 外崎修汰 2021 中村奨吾 2022 外崎修汰 2023 中村奨吾 2024 小深田大翔 VIAF 日本の野球選手 埼玉県立上尾高等学校出身の野球選手 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手 埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 NPBオールスターゲームMVP 名球会 野球解説者 埼玉県出身のスポーツ選手 1946年生 存命人物 外部リンクがリンク切れになっている記事/2017年10月 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 2024/11/20 15:51更新
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yamasaki hiroyuki
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