江本孟紀の情報(えもとたけのり) 野球、政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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源五郎丸洋: 成長期に体に負担がかかるフォームであったことが原因だったとも言われているが、阪神OBの評論家・江本孟紀は「体も出来あがっていないのに、有料紅白戦の客寄せパンダに使って、新しい逸材を壊してしまった」「無理させず基礎トレーニングを積ませておけば良かった」と当時の阪神首脳陣を批判している。 藤江清志: 弱体投手陣と言われていた状況下で小林繁・江本孟紀・山本和行の3人を軸に、工藤一彦・伊藤文隆・大町定夫・福間納・中田良弘・藤原仁を育てた。 藤原満: 江本孟紀の著書によれば「飛ぶボール(いわゆるラビットボール)のために自分らしい野手の間に落ちるヒットが打てなくなり、フライが多くなったから」といい、監督がブレイザーから穴吹義雄に替わってコーチ就任要請があったため、引退を決めたという。 田代優美: そこまでいうか! 江本孟紀の熱血!正義の60分(アシスタント)※金曜 - 1992年10月2日 - 1993年4月2日 上田剛史: 但し、野球解説者の江本孟紀はこのようなパフォーマンスについて、「『ベンチは野球の話をするところ』という(野村克也の)教えを全く無視している」「弱いチームがベンチでパフォーマンスなどしたらダメだ」と批判しているほか、上田本人も引退後の2021年3月4日放送の『アウト×デラックス』に出演したときに「これらのパフォーマンスばかりが目立った結果が戦力外だったのではないか」と分析している。 道仏訓: 1973年10月24日、阪急ブレーブス対南海ホークスによるプレーオフ第5戦にて9回裏に3番手として登板した江本孟紀に対して「頑張れよ」とささやき、激励したエピソードがある。 岩瀬順三: ゴーストライター批判がピークに達した江本孟紀の『プロ野球を10倍楽しく見る方法』(1982年)は、220万部という記録的な売れ行きとなった。 藤原真: 1975年には先発の一角として起用され、5月20日には南海の江本孟紀と投げ合い自己唯一の完封勝利を果たす。 野村沙知代: 1975年秋、ついに我慢の限界に達した選手たちは沙知代の排除を計画し、中百舌鳥球場で行われた秋季キャンプで克也が選手に意見を求めた際に、門田博光、西岡三四郎、江本孟紀の3人が「"カゲ"の監督がいるせいで選手が気持ちよくプレーできない雰囲気になっている」という旨の発言をして現状の是正を求め、11月には西岡、江本、藤原満の3人がチームを代表して大阪市内のホテルで克也に「公私混同を止めてください」と直訴した。 古葉竹識: 引退後は南海で二軍守備・走塁コーチ(1972年)→一軍守備・走塁コーチ(1973年)を務め、当時南海の投手であった江本孟紀は「古葉さんは人の良さそうな顔をしてますが、腹は据わっていました。 池田充男: 江本孟紀『アカシヤの面影』 門谷昭: 同年夏の甲子園県予選は準決勝で江本孟紀のいた高知商に惜敗。 山中正竹: 大学同期に江本孟紀投手、黒田正宏捕手、山田克己遊撃手、堀井和人左翼手らがいた。 山内泰幸: 2016年の日本シリーズではフジテレビ制作の第2戦中継でグラウンド解説として出演した(放送席の解説:江本孟紀・大矢明彦・達川光男、実況:田中大貴)。 クリス=ブロック: 打者の手元で微妙に変化する球を駆使し、先発として8勝を挙げたが、一方でリーグ最多の9与死球や1973年の江本孟紀の記録(10ボーク)を30年ぶり更新となる、当時シーズン最多日本記録の11ボークなど課題も残した(シーズン最多ボークは、2007年に阪神タイガースのエステバン・ジャンが12に更新した)。 大下剛史: 東映時代の同僚である江本孟紀(後にフジテレビ解説者)によれば、大下が球界で大きな顔が出来るのは、大下が駒大閥のトップで、当時の学生野球の総大将だったからだという。 衣笠祥雄: 1000三振:1980年9月6日、対阪神タイガース18回戦(広島市民球場)、1回裏に江本孟紀から ※史上6人目 ローリー=フィンガース: 元南海ホークス、阪神タイガースでエースとして活躍した江本孟紀は現役時代にひげを生やしていたが、これはフィンガーズの影響だったと、著書で語っている。 林和男: 同年10月5日に行われたお別れの会には王貞治、大矢明彦、江本孟紀、若松勉らが参加。 藤江清志: ^ 【真実】江本孟紀、電撃引退の裏話(エモやんコラボ④) - YouTube 後藤次男: この時には若手選手も後藤のおおらかな部分に依存してしまい、江本孟紀は「『一軍で活躍してやろう』と気概を持つ者は少なかった。 野村克也: 1976年は、1月に阪神タイガースとの間でトレードの交渉をまとめ、その結果、江本孟紀、島野育夫、池内豊、長谷川勉ら主力の4選手を放出し、阪神のエースだった江夏豊と望月充の2選手を獲得した。 山本和行: 1976年6月8日の巨人戦、2-0でリードしていながら9回裏に疲れの見えた江本孟紀をリリーフ、王貞治との勝負を避けて四球にして満塁のピンチを迎え、末次利光に逆転満塁サヨナラホームランを浴びた。 間寛平: 江本孟紀が南海ホークスにいた時代は共に本拠地である難波で豪遊していた。 末永正昭: この時のチームメイトに江本孟紀、苑田邦夫らがいた。 西口裕治: 当時のエース江本孟紀は、西口の印象を「肉まんのような顔で癒し系だが、捕手に必要なしたたかさが足りない感じだった」と回想している。 中畑清: 岡田彰布は「戦える、勝てるチームの土台を作ったのは高く評価するべきだろう」、江本孟紀は「筒香と心中すると言って育てたのは評価する。 宮城弘明: 帰国後は知人の紹介で江本孟紀の私設秘書となり、1996年4月に地元選出の石渡清元の秘書となっている。 問矢福雄: 初本塁打:1972年4月16日、対南海ホークス1回戦(大阪球場)、5回表に成田文男の代打として出場、江本孟紀からソロ 佐々木信也: 声優としては、いしいひさいち原作のアニメ映画「がんばれ!!タブチくん!!」シリーズの2本(1980年に公開された『激闘ペナントレース』・『あゝつっぱり人生』)にスポーツキャスターの「ササキ」役を任されていたほか、1983年 - 1984年に公開されたアニメ映画「プロ野球を10倍楽しく見る方法」(原作は江本孟紀の同名著書)シリーズのアニメパート(いしいがキャラクター原案を担当)にも出演した。 |
江本孟紀の情報まとめ
江本 孟紀(えもと たけのり)さんの誕生日は1947年7月22日です。高知出身の野球、政治家のようです。
家族、母親、父親、引退、テレビ、映画、ドラマ、現在、兄弟、子役、病気、事件に関する情報もありますね。去年の情報もありました。江本孟紀の現在の年齢は77歳のようです。
江本孟紀のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート エモやんの、人生ふらーりツマミグイ「江本孟紀」 江本 孟紀(えもと たけのり、1947年〈昭和22年〉7月22日 - )は、高知県香美郡土佐山田町(現:香美市)出身、高知県高知市育ちの元プロ野球選手(投手)、元政治家、野球解説者、タレント、俳優、実業家、YouTuber。 愛称は「エモやん」。株式会社江本エンタープライズ代表取締役、政治団体「エモヤンサポーターズクラブ」代表、タイ王国ナショナルベースボールチーム総監督。政治家としては参議院議員(2期)、参議院内閣委員長、スポーツ平和党代表代行、自由連合副代表、民主党高知県連顧問などを歴任。 現役時代の通算24ボークは日本記録。 警察官だった実父の転勤によって、小学校から中学校までの間に転校を数度経験したが、転校先のどこででも野球に打ち込んだ。高知市立高知商業高等学校では2年生の時、エースとして1964年夏の甲子園予選南四国大会準決勝に進出するが、徳島商の利光高明(のち日本生命)に抑えられ惜敗。しかし同年秋の県予選を勝ち抜き、秋季四国大会に進む。準決勝で今治南高の金子準一、決勝では高松商の小坂敏彦に投げ勝って優勝を果たすが、部員の不祥事によって翌年春の選抜への参加を辞退することとなった。この不祥事によって夏の県予選も出場停止処分となる。 その後、第1回プロ野球ドラフト会議において西鉄ライオンズから4巡目で指名を受けるが、当初から大学進学を希望していたために入団を拒否。長嶋茂雄への憧れから立教大学への進学を希望し、一度は入学を認められたものの学力の問題から一転12月に入学を断られ。同じ12月にセレクションを行っていた法政大学を受けて合格し進学。この時のドラフト指名では西鉄の1巡目指名が高校同期の浜村孝だったため、エース、4番打者だった江本が4巡目で、3番打者の浜村が1巡目指名だったことに納得がいかなかったとされているが、江本自身はこれを否定している。 東京六大学野球リーグでは1年生の春からベンチ入りし、1968年春季リーグでは同期の山中正竹と共に2本柱を形成し、優勝に貢献した。しかし、監督の松永怜一の方針に合わないために幾度となく反発し、在学中に三度の優勝を果たすも最終学年ではベンチ入りからも外れ、半ば退部状態となっていた(その後、松永とは和解している)。リーグ通算14試合で6勝1敗、防御率2.35、39奪三振 の成績を残した。なお、一学年先輩にはのちに阪神タイガースでチームメイトとなる田淵幸一と、南海でチームメイトとなる富田勝、山本浩司の「法政三羽ガラス」、同期には前述の山中をはじめ、黒田正宏・堀井和人がいる。なお、4年生の時に退部状態となっていた間は、近所のおばさんの紹介でアルバイトでフィリピンバンドの車の運転手をやっていたという。 大学修了後は社会人野球・熊谷組に入社し、1970年の第41回都市対抗野球大会の予選には虫垂炎のため登板できなかったが本大会には間に合い、1回戦の三菱重工神戸戦で8回から登板し、1イニングを無失点に抑えた(チームはこの試合で敗退)。同年の日本産業対抗野球大会では2回戦(初戦)で全王子製紙を相手に先発して完投勝利を挙げるなどの活躍を見せ、チームは会田照夫(三協精機)に抑えられて準決勝で敗退したものの、江本は好投手として注目を集めた。江本は指名に期待していたが、同年のドラフト会議ではどの球団からも声がかからなかった。熊谷組のチームメイトには久保田美郎、末永正昭、山本和生、苑田邦夫らがいた。 その後、ロッテオリオンズの田丸仁スカウト(元法政大学監督)からドラフト外での入団を誘われたが、当時のロッテには小山正明、成田文男、木樽正明、村田兆治といったエース級の投手が数多く在籍しており、先発ローテーションに加わるのは難しいと考えて断ったという。ところが1971年1月下旬に、前年のドラフトで2位指名した井上圭一に入団を拒否された東映フライヤーズが代替選手として江本の獲得を決め、東映のスカウトから江本に入団の誘いがあった。江本自身は乗り気だったが家族や周囲からは反対された。母親には「熊谷組のような立派な会社に入れて、将来も安定しているのに、やめといたら」と言われたが、父親には「ここは悔いが残らんようにせい」と決断を後押しされ、江本の決意が固いと見た会社側もプロ入りを容認したため、2月15日に契約金400万円、年俸120万円の条件で東映と入団契約を交わした。背番号は49。 春季キャンプ開始後の入団だったため、江本は翌16日に直ちにキャンプ地の伊東に向かいチームに合流した。 キャンプに最初から参加できなかった江本は調整の遅れを取り戻すためとして土橋正幸投手コーチから主力打者三人を相手にフリー打撃に登板するよう命じられたが、調整不足と緊張から全くストライクが入らず、白仁天と大杉勝男の二人に10球連続でボール球を投げてしまい「ストライク入らんヤツが、プロのピッチャーか!」と激怒された。しかし最後に打席に立った張本勲は、ボールゾーンに外れた初球を平然と打ち返すと、その後も手の届く範囲に来たボールは高低・内外を問わず自由自在に打ち返し、そのおかげで落ち着きを取り戻した江本は次第にストライクゾーンに球がいくようになった。江本は自著で「この年(1971年)に入団した中では100人いたら(自分は)100番目の選手だ。ドラフト外として最後の最後にプロ入りしたルーキーが開幕一軍に食い込むことが出来たのも、あのフリー打撃があったから。これは全て張本さんのおかげ。間違いなく大恩人の一人だ」と張本への感謝を述べている。 自信を回復した江本は紅白戦を通じて調子を上げてキャンプを乗り切ると、3月からのオープン戦では一軍メンバーに加わり、公式戦でも開幕一軍スタートを勝ち取った。プロ初登板は4月11日の対西鉄ライオンズ戦(平和台球場)だったが、連続四球と安打を浴び、2失点で終わった。この年は26試合で未勝利(4敗)に終わると、同年オフに高橋博士との交換トレードで、佐野嘉幸と共に南海ホークスへの移籍が決まり、入団後僅か一年で所属チームが変わることとなった。 この南海へのトレードについては、東映では江本は全く鳴かず飛ばずであったが、その潜在能力を見出した監督の野村克也がさも江本に興味の無いようなそぶりをして獲得し、一から江本を育て上げたとされている。しかし江本はこの風説を強く否定しており、自分は土橋投手コーチから成長株として大いに期待され、秋季キャンプでも翌年から本格的に先発投手陣の一角に加われるようにと土橋から課された猛練習をこなしていて、東映で土橋に基礎力を徹底的に鍛え上げてもらったおかげで「投げられるピッチャー・江本」に育っていたところを、移籍先の南海で監督として居合わせた野村が「勝てるピッチャー・江本」にしたのである。と明言している。 南海への移籍が決まった1971年12月、江本は大阪府堺市中百舌鳥の秀鷹寮に入寮した。寮には法大時代の同期生である堀井和人・黒田正宏をはじめ顔見知りの選手が多く大いに歓迎された。江本は南海の印象を「東映よりは全然良かった。東映は恐ろしかった。張本さんに白さんに大杉さん。南海は門田とか同級生がいっぱいいたし、全然違和感なかった」と語っている。 1972年1月、中百舌鳥球場で行われた合同自主トレの初日に監督室に呼び出された江本は、野村から開口一番「ワシはずーっと、お前のこと見とったんや。お前のボールなら、ワシが受ければ、軽く10勝はいくでェ」と言いながら江本に背番号16のユニフォームを見せて「背番号16。エース番号や」「10勝するとエースと呼ばれるんや。今日から着とけ!」と激励したという。江本はこの時の感激を「東映では49番でしたから電気が走りました。人間って一言で変わるんですよ」と語っている。 野村の一言で発奮した江本は1972年から先発ローテーションに加わり、背番号と同じ16勝を挙げ、西岡三四郎と並ぶ南海のエース級投手へと成長した。1973年には開幕投手に抜擢され、12勝を挙げてチームの前期優勝に貢献したほか、プレーオフ第5戦(対阪急ブレーブス戦)においても9回二死・一打同点の場面で、代打本塁打世界記録保持者である高井保弘を迎えたところで、佐藤道郎に代わって登板して三振を奪い、胴上げ投手となった。日本シリーズ(対読売ジャイアンツ戦)においても第1戦の先発投手を野村から指名され、土井正三・森昌彦に本塁打を浴びたが3失点で完投勝利を挙げた。しかし、第4戦では2回4失点(自責点は0)で敗れ、日本一は逃した。1974年にはオールスターゲームにも出場、第2戦では先発投手を務めた。 しかし、その頃から野村の愛人である伊東芳枝(のちの野村沙知代)が本拠地・大阪球場へ電話をかけて直接選手起用に口出しするなどの現場介入を繰り返し、試合にまで直接悪影響を及ぼすようになっていた。そのため1974年は3位、1975年は5位と次第にチーム成績が悪化していき、1975年オフにはとうとう我慢の限界に達した選手たちが芳枝の排除を要求する事態に発展した。まず中百舌鳥球場で行われた秋季合宿の場で野村が選手に意見を求めた際に、江本と西岡、門田博光の3人が「『カゲ』の監督がいるせいで選手が気持ちよくプレーできない雰囲気になっている」という旨の発言をして現状の是正を求め、さらに11月には江本と西岡、藤原満の3人がチームを代表して、大阪市内のホテルで野村に「公私混同を止めて下さい」「選手が動揺しているから、野球に集中させて下さい」と直訴した。しかし、江本らの必死の訴えは聞き入れられることはなく、かえって野村の不興を買い、12月に阪神タイガースへのトレードを通告され、翌年1月に4対2の交換トレードで放出された(南海からは江本と島野育夫、長谷川勉、池内豊。阪神からは江夏豊、望月充)。広瀬叔功は、この時に江本のみならず長谷川・池内と、エースを含め一軍で投げられる投手を3人も同時に阪神へ放出してしまったことは、南海にとっての痛恨事だったと述べている。また、江本と同様に首謀者と見なされた西岡も中日ドラゴンズへトレードされている。このトレードに際し、江本を格下に見ていた江夏との間で激しい舌戦を繰り広げたが、1993年3月に江夏が覚せい剤取締法違反で逮捕された際には、江本は江夏のために法廷で情状陳述を行っている。 初年度の1976年にはリーグ最多の36試合に先発し、15勝9敗(同年の江夏は6勝12敗)を記録する、1977年も11勝、1978年にはリーグ最多の43交代完了を記録して11勝11セーブ、防御率3.10(新浦寿夫に次ぐリーグ2位)と、移籍から3年連続でチームの勝ち頭となり、阪神でもエースとしての地位を確かなものにした。 しかしその間に阪神は2位、4位と次第に順位を下げ、一軍監督が吉田義男から後藤次男に代わった1978年には球団史上初となる最下位に転落してしまった。江本はこの低迷の原因を、当時の阪神には複雑なサインが存在せず、一球種に対して一種類のサインしか用意していなかったため、他球団からのサイン盗みに対して全く無防備だったことにあると述べている。江本は吉田監督に対策を講じるよう促したが聞き入れられなかったといい、南海時代に野村のスパイ野球を徹底的に仕込まれていた江本にとって、こうした吉田の感覚は全く信じ難いものであり、「戦術もクソも無い野球を続けていれば、チームの長期低迷は避けられない」と思っていたという。 江本は、阪神が球団史上初の最下位に終わる屈辱を味わったことで、チーム再建案について盟友・古沢と大学の先輩である田淵幸一と共に話していた矢先、2人が西武ライオンズへトレードされたことについて大きなショックを受け、球団に自らのトレードの申し入れを行ったほどである。この年のオフに江本は球団初の選手会長を要請されたが、当初は拒否していた。しかし、同時に球団社長に就任した小津正次郎は、阪神電鉄本社内でも労働組合を相手に手腕を発揮して社長に就任した実力者で、その小津に対抗できる人物として江本の名が挙がり、選手会の会合で要請されたことを受けて就任した。 小津と初対面の際に、小津から「タイガースの改革に一番必要なものは?」と意見を求められると、江本は間髪入れず「フロントにゴマすって長年コーチをやっているヤツがいる。実力のみで評価できる監督を呼んで下さい」と返答した。これに対し、小津は後日になって江本を再び呼び出し、次期監督がドン・ブレイザーに決定したことを伝えた。ブレイザーは南海でヘッドコーチを務めていた時期があるが、江本が理由を尋ねると「お前言うとったやろ?『野球を知っている人物でゴマすったりしない人を』って」と答え、江本も「グッド・チョイス。確かに実力優先主義。いつも『コンセントレイションしろ(集中しろ)』が口癖だった。ブレイザーならチームも変わると確信めいたものがあった」とし、後年「それにしても選手会長の意見を取り入れて監督を決めるとは、今では考えられないだろう。」と回想している。 1979年は最下位を脱して4位となり、江本は名門再建の道筋が見えてきたと感じていた。1980年には後に阪神で主力選手となる大型ルーキー・岡田彰布が入団したが、岡田の守備位置である二塁には名手・榊原良行がおり、ブレイザーは「オカダはまだ新人。一軍でずっと活躍出来ると確信を持てるまでは安易に使わない」と宣言した。これに岡田は「そんなん関係ないやん」と言い、マスコミやファンもブレイザーの信念を受け入れず、挙句の果てにはブレイザーの自宅へカミソリが入った手紙が届き、結局ブレイザーは阪神を途中退団した。江本は著書の中で、「ブレイザー監督が無ければ阪神は改革できなかった。ブレイザーが退団したことで再建のチャンスは消えたと、オレは失望感を覚えた」と記している。さらに江本は、ブレイザーの後任となった中西太の選手起用に不満を募らせ、先発登板した1981年8月26日の対ヤクルトスワローズ戦(甲子園球場)の8回表途中に交代を命じられると、ベンチ裏で新聞記者などを前に「ベンチがアホやから野球がでけへん」と発言(後述)した。この発言が監督批判というニュアンスで翌日のスポーツ紙を賑わせたことから、「チームやファンに迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪したうえで、同年限りでの現役引退を表明した。 在籍中は、南海時代に野村が禁じていた口ひげをトレードマークのように生やしていた。また、クラウンライターライオンズから大型トレードで移籍し、1979年から正捕手を務めた若菜嘉晴と共に絶えず黒い交際を噂されていたが、実際には阪神で選手会長を務めたこともあるほど、選手からの人望があった。 その一方で、中西がブレイザーに代わって一軍監督を代行してからは、中西との対立がしばしば報じられていた。もっとも、中西が2023年5月11日に90歳で逝去してた直後に受けたインタビューでは、中西とは退団後も会うたびに言葉を交わすほど仲が良かったことを証言。「引退に至った大きな理由は、『中西』というより『阪神球団』にある」と明言したうえで、当時のフロントがブレイザーを招聘しておきながら(小津が岡田の起用をブレイザーに強要するなどの)『つまらないこと』で現場に介入した結果、阪神に黄金時代が到来するチャンスを棒に振ったことを挙げた。さらに、監督としての中西の資質に対する疑問が高じて、中西が監督へ正式に就任したタイミングで自分からフロントに他球団へのトレードを持ち掛けていたことを告白。「自主トレーニングや春季キャンプに参加しなくても構わないので、中西を1年で解任させるまでは我慢して(チームに残って)欲しい」という球団側の要請を受けて、統一契約書への署名と捺印を拒否したまま、形式上1981年シーズンの契約を結んでいたことも明かしている。 現役引退後はフジテレビ・ニッポン放送野球解説者、サンケイスポーツの野球評論家の傍らタレント活動も行い、同年に発売された著書「プロ野球を10倍楽しく見る方法」が200万部をこえるベストセラーとなった。また映画、ドラマ、バラエティ出演、歌手デビュー、週刊誌コラム、コメンテーターなど各方面へ活動の幅を広げ、森光子主演のドラマ「田中丸家御一同様」ではスナックのマスター役 を務めるなど、テレビ界にも徐々に進出した。1983年に上映された「細雪」では監督の市川崑から誘われ、吉永小百合の相手役ということで出演し、1989年からは三田寛子とフジテレビ系ドキュメンタリー番組「なんてったって好奇心」の司会(三代目)を務める。 江本はその後、アントニオ猪木からの誘いもあり、政界入りを目指して1992年7月の第16回参議院議員通常選挙においてスポーツ平和党より比例代表選出で出馬し、初当選する 。野球選手出身の政治家は、白木義一郎と上林繁次郎に次いで3人目となった(その後三沢淳及び石垣一夫→石井浩郎→堀内恒夫の順で当選者が出ており、現在はNPBでの野球選手出身の政治家は延べ7人となっている。)。 1995年10月には党の副代表を辞任して無所属となり、自由連合に在籍した。内閣総理大臣指名選挙で支持した橋本龍太郎が総裁を務める自由民主党への入党を検討したが、1997年12月26日に細川護熙などと共にフロム・ファイブ、1998年1月23日の民政党、同年4月27日の民主党の結成に参加した。さらに、長嶋茂雄の支援も受けて同年7月の第18回参議院議員通常選挙に民主党から比例代表選出で再選を果たすと、1999年8月12日に成立した「通信傍受法案」などの組織犯罪対策三法案では反対の討議に従わず退席した。のちに江本は「民主党に合流してからは特に嫌だった。もうとにかく、右から左までみんな意見が違って…あそこ(民主党)は国家観が無いからね」と述べていた。2001年1月から8月にかけては(第151回・152回国会)参議院内閣委員会委員長を務めた。 2004年に民主党を離党して大阪府知事選挙に立候補した。江本にとって最後の政治活動として臨んだが、現職の太田房江に完敗した。その後も自身が代表を務める政治団体「エモヤンサポーターズクラブ」は大阪府知事選挙としての総務大臣届け出資金管理団体として現在も存続しているほか、法政大学時代の同窓で1992年初当選同期の平野貞夫・小沢一郎などとの交流も続いている。 初登板:1971年4月11日、対西鉄ライオンズ3回戦(平和台野球場)、4回裏1死に2番手として救援登板、2/3回2失点 初奪三振:1971年4月14日、対近鉄バファローズ2回戦(後楽園球場)、7回表に安井智規から 初先発:1971年6月5日、対阪急ブレーブス9回戦(後楽園球場)、2安打1四球3失点で敗戦投手 初完投:1972年4月9日、対阪急ブレーブス2回戦(阪急西宮球場)、12回1/3を1失点で敗戦投手 初勝利・初完投勝利:1972年4月16日、対ロッテオリオンズ1回戦(大阪スタヂアム)、9回3失点 初完封勝利:1972年6月2日、対近鉄バファローズ9回戦(日生球場) 初セーブ:1977年7月18日、対ヤクルトスワローズ19回戦(明治神宮野球場)、8回裏に2番手として救援登板・完了、2回無失点 1000投球回:1976年5月26日、対中日ドラゴンズ7回戦(阪神甲子園球場)、6回表2死目に達成 1500投球回:1978年7月28日、対読売ジャイアンツ15回戦(阪神甲子園球場)、9回表2死目に達成 100勝:1978年9月18日、対広島東洋カープ22回戦(阪神甲子園球場)、9回2失点完投勝利 ※史上75人目 1000奪三振:1980年6月8日、対広島東洋カープ7回戦(阪神甲子園球場)、5回表に衣笠祥雄から ※史上59人目 オールスターゲーム出場:4回 (1974年、1976年、1977年、1979年) 49 (1971年) 16 (1972年 - 1975年) 29 (1976年 - 1981年) 背番号の変遷について、江本は「東映時代は四苦八苦(49)、南海に行って色男(16)、阪神では憎い奴(29)」とコメントしている。 『プロ野球を10倍楽しく見る方法』シリーズ(映画化もされた)
『プロ野球を20倍楽しく見る方法:痛快無類!』(ベストセラーズ、1982年9月)ISBN 4584004773 『帰ってきたプロ野球を10倍楽しく見る方法:もっと抱腹!さらに絶倒!』(ベストセラーズ、1988年6月)ISBN 4584006687 『プロ野球を10倍楽しく見る方法:2002年版』(日本文芸社) 『プロ野球を10倍楽しく見る方法:2006年版』(日本文芸社、2005年11月)ISBN 4537253304 『おれ、紆球曲球』(日之出出版、1982年8月、ISBN 4891980273/ワニ文庫、1985年6月、ISBN 4584300615) 『「プロ野球」仁義なき大戦争 ストーブリーグ乱闘編』(ベストセラーズ、1983年2月、ISBN 4584004943) 『女性に捧げるプロ野球 エモやんより愛をこめて』ワニの本 ベストセラーシリーズ 1983 『江本孟紀と12人の美女打線 男のマウンド〈対談集〉』中央公論社 1984 『これはヘンだぞプロ野球 エモやんの〈いちゃもん解説〉』ワニの本 ベストセラーシリーズ 1984 『謀略にはまった選手たち : 今だからバラす〈プロ野球〉』ベストセラーズ,ワニの本 1984 『エモやんのああ言えば交遊録 今だからホンネ プロ野球の珍友・悪友・奇友たち』ベストセラーズ ワニの本 1985 『プロ野球バカが勝負すりゃバカをみる』ワニの本 1985 『よってたかって、みんな悪かった エモやんのザンゲ録 ごめんなさい阪神さん』ワニの本 1985 『江本孟紀のプロ野球ウオッチング のけぞりシュート、球界直撃!!』(共同通信社、1986年4月)ISBN 476410184X) 『エモやんの今年もファンは騙される プロ野球、選手たちは知らん顔』ワニの本 1986 『今年は変わるぞプロ野球 : 気分すっきり 選手もファンも初体験!』〈Kadokawa books〉、角川書店、1986年4月25日。 『ひまつぶしに読む大胆な意見』青人社、1986年3月5日。 『プロ野球がわかれば日本が見えてくる エモやんのサラリーマンに捧げる「自分主義宣言」』(現代書林、1987年) 『プロ野球夢球場 : 江本孟紀の球界大改造プラン』〈Sankei books〉、サンケイ出版、1987年3月10日。 『帰ってきたプロ野球を10倍楽しく見る方法 もっと抱腹!さらに絶倒!』ワニの本、1988 『ゴルフ好きをさらに10倍中毒症状にする本』ケイブンシャブックス 1988 『その気にさせる星野監督術 ミラクル野球が10倍わかる本』ニッポン放送出版 1988 『巨人野球を面白くする本 これで巨人は優勝できる!!』実業之日本社 実日新書 1989 『超B級!ドーム場外放夢乱 体感編 女たちのbox seat』TIS,パパラブックス 1989 『プロ野球天国・地獄のウラ勝負! ストーブリーグ情報局』ケイブンシャブックス 1989 『プロ野球はチキンライスだッ!? 平成元年』ケイブンシャブックス 1989 『’90プロ野球ウソ八百!!』ケイブンシャブックス 1990 『プロ野球裏があるから面白い 野球ファンにおくる抱腹絶倒エピソード集』学習研究社 1990 『ミッドナイト・ベースボール 球界モデル小説』勁文社 1990 『エモやんの巨人軍再建大計画』アイペックプレス 1991 『エモやんのプロ野球ちょっといえないここだけの話』アイペックプレス 1991 『エモやんのプロ野球非常事態宣言』アイペックプレス 1991 『大胆不敵のがんばれ!ジャイアンツ!! 最悪阪神の再建案付き』ケイブンシャブックス 1991 『プロ野球大反省大予想』ケイブンシャブックス 1991 『主役・脇役・役立たず』ケイブンシャブックス 1992 『プロ野球選手 わが思い出の波瀾の野球人生』実業之日本社 仕事-発見シリーズ 1992 『赤じゅうたんのコリない紳士録』集英社、1993年8月25日。 『長嶋×野村のデスマッチ!! ’93プロ野球は監督勝負!』ケイブンシャブックス 1993 『長嶋vs王、爆笑大バトル 勃発!プロ野球最終戦争 エモやんだけが知っている二人の真実』ベストセラーズ ワニの本 1995 『神さま仏さま長嶋さま 巨人軍を100倍楽しむ法』光文社 1996 『誰もわかっちゃいない! 江本孟紀の超論プロ野球』芸神出版社 1996 『野村監督部下が育つ「将の器」』二見書房 1996 『野村マジック・阪神再生の秘策』フタミ文庫 『野球がベースボールを超える日!? 日本vs大リーグ徹底比較』勁文社 1996 『生命エネルギーの秘密 江本孟紀が体験した究極のパワー』経済界 1998 『プロ野球勝てる監督・使える選手』三笠書房 1998 『野村監督知将の思考』(東方出版、1999年) 『野村阪神vs.長嶋巨人 エモやんの僕だけが知っている!!』(ぶんか社、1999年) 『ベースボールはひとつの小石から エモやんの痛快!プロ野球原論』(学習研究社、2000年) 『総理大臣長嶋茂雄:明るい破壊者だけが日本を救う』(飛鳥新社、2001年) 『ダメ虎を猛虎に復活させる方法:阪神タイガース再生計画虎の巻』(ビジネス社、2001年) 『星野式「悪」の処世術』(飛鳥新社、2002年) 『痛快!阪神優勝を120%楽しむ本』(日本実業出版社、2003年) 『読売巨人軍をダメにした「ジャイアンツバカ」』<講談社+α文庫>(講談社、2003年) 『逆プライド 自分に負けない意地を持て!』(ダイヤモンド社、2004年) 『プロ野球をダメにする致命的構造 それでも、変革の芽は出ている』(PHP研究所、2006年) 『職業としてのプロ野球解説者』<サンガ新書>(サンガ、2007年) 『日本のプロ野球を作った男たち!』(たちばな出版、2007年) 『野村克也解体新書:ノムさんは本当にスゴイのか?』(無双舎、2011年7月)ISBN 4864084742 『プロ野球経営が破綻するこれだけの理由』(産経新聞出版、2011年) 『「アホ」がプロ野球を滅ぼす』<ロング新書>(KKロングセラーズ、2012年) 『星野仙一にみる名将の条件』<双葉新書>(双葉社、2014年4月)ISBN 978-4575154368 『実は大したことない大リーグ』<双葉新書>(双葉社、2014年11月) 『野球バカは死なず』<文春新書1167>(文藝春秋、2018年) 『僕しか知らない星野仙一』(カンゼン、2018年) 『高校野球が10倍おもしろくなる本』(青志社、2019年) 『人生9回裏の戦い方』(竹書房、2019年) 『監督原辰徳研究』(徳間書店、2020年) (野村克也)『超一流 プロ野球大論』(徳間書店、2020年) (里崎智也)
『野球の超正論』(徳間書店、2020年) 『プロ野球戦国志 1999年版』責任編集(イースト・プレス、1999年) 『男涙のプロ野球 感動秘話100本ノック』監修(宝島社、2004年) 『マンガ日本政治入門』画:荒木俊明(あおば出版、2006年) 日本メガネベストドレッサー賞 (スポーツ界部門:1989年) 『エモやんの10倍プロ野球 セリーグ編』(ファミリーコンピュータ用ソフト、ヘクト、1989年12月19日) enjoy! Baseball(フジテレビ) SWALLOWS BASEBALL L!VE(フジテレビONE) ニッポン放送ショウアップナイター(ニッポン放送) プロ野球ニュース(フジテレビ系地上波時代に出演、2016年からCS版にも出演する) エクスタミネーター (ゴールデン洋画劇場) - ロバート・ギンティの吹替え、フジテレビ) 田中丸家御一同様(1982年2月5日 - 5月21日、日本テレビ) - 栗本高夫 細雪 (1983年の映画) - 東谷(吉永小百合の婚約者役)、吉永が細川俊之、小坂一也を断った挙げくに最後に決める華族の役。監督にセリフは苦手と申し出たこともあり、複数出演シーンがあるが、口を開いた瞬間にカメラが窓の外へ引くなどの演出でセリフは全くない。 明石貫平35才 主演は西田敏行、並河研三役。並河勇役(西城秀樹)の兄として出演。(1983年4月30日 - 7月23日、日本テレビ) ゴジラ(1984年) - 喜多川(東都日報デスク) 月曜ドラマランド ビートたけしのこにくらじいさん(1984年12月10日、フジテレビ) ガキ大将がやってきた(1987年4月14日 - 9月22日、TBS) 銀河テレビ小説・おとんぼ(1987年)主演は母親役のミヤコ蝶々と4兄弟の末っ子役の村上弘明で江本は次男の役 ニュータウン仮分署(1988年1月10日 - 4月3日、テレビ朝日) - 生島勝夫警部補 いさなのうみ(1997年) スポルたん!LIVE(仙台放送)- 東北楽天ゴールデンイーグルス戦解説 報道・情報番組 バラエティ・ラジオ番組 エモやんのああ言えば交遊録(TBS)1983年1月 - 歌うゴールデンタイム(日本テレビ)司会 しゃれっぽクラブ(TBS)1985年11月 - 1986年3月、司会 プロ野球珍プレー・好プレー大賞(フジテレビ) (特)情報とってもインサイト(TBS) エモやんちえみのズバッとど真ん中(ニッポン放送) そこまでいうか! 江本孟紀の熱血!正義の60分(ニッポン放送) くにまるジャパン 極(文化放送) くたばれヤンキース(1985年12月7日 - 22日)- 主演、ジョー・ハーディ 玉露園 こんぶ茶(1985年) KIRIN・トマトジュース 味覚糖 「純露」 東京田辺製薬(現:田辺三菱製薬) サクラカラー(現:コニカミノルタ。渡辺典子と共演) 武富士(イメージキャラクター) ツムラ(放送当時は津村順天堂)「ニューバスクリン」 リクルート「住宅情報」(関西地区のみ) ホンダ・スカイ(大竹しのぶと共演) マルコー 日産自動車・リベルタビラ アカシヤの面影 c/w めぐり逢い(1975年) あぶさん(台詞・水島新司)c/w 暖炉(1975年) 恋する御堂筋(1979年)入江マチ子とデュエット 霜降り橋まで(1980年) アカシヤの面影 c/w 恋する御堂筋(1982年) あなたまかせの夜(1983年) 素敵なジェラシー(1987年、アルバム) ^ 江本と入れ替わりで野村南海へと移籍した江夏豊は、自著で「相手チームのサインを盗む方法。ファンの人には見せたくない一面なんですが、応援団のなかに相手チームのサインを読んで知らせる人間を入れたり、相手ベンチに隠しマイクをしかけておくなんていうことは、結構どのチームもやっているわけです。で、野村さんはそれを上回る方法を考えていた」と述べている。 ^ 江本らがこの日着用した1975年から1976年までのホーム用ユニフォームは、襟と袖口のラインが緑・黄・緑の三本である のに対し、寄贈された展示品の野村が実際に着用した1977年のホーム用ユニフォームは、襟は緑一色で、袖口のラインは外側から赤・黄・緑の三色となっている。 ^ 野村宏平、冬門稔弐「7月22日」『ゴジラ365日』洋泉社〈映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、198頁。ISBN 978-4-8003-1074-3。 ^ 日本野球機構 |歴代最高記録 ^ 森岡浩『プロ野球人名事典 2003』日外アソシエーツ、2003年、92-93頁。ISBN 4816917713。 ^ “江本孟紀氏 法大に進学したワケ「長嶋さんにあこがれて。でも立教に…一茂が入ったのに」”. スポーツニッポン (2023年6月18日). 2023年6月19日閲覧。 ^ 別冊宝島編集部 総編集 編『証言 プロ野球ドラフト会議50年』宝島社、2015年、47頁。ISBN 978-4800247674。 ^ 『法政大学野球部 六大学最多優勝校のプライド』ベースボール・マガジン社〈B・B MOOK 1165 東京六大学野球連盟結成90周年シリーズ 4〉、2015年、15頁。ISBN 978-4-583-62256-9。 ^ 黒田正宏「【軍師・黒田の野球戦記】田淵さん、江本とプレーした法大時代は財産」『サンスポコム』2014年11月21日。2018年8月1日閲覧。 ^ 実際は中退であり議員時代の選挙公報にもその旨が記載されている。 ^ https://www.asahi.com/senkyo2010/carta/C05002.html ^ 自著『野球バカは死なず』76頁 ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年 ^ 「日本社会人野球協会会報1970」日本社会人野球協会 1971年 ^ 自著『野球バカは死なず』77頁 ^ 自著『野球バカは死なず』79-80頁 ^ 自著『野球バカは死なず』80-81頁 ^ 自著『野球バカは死なず』83-84頁 ^ 自著『野球バカは死なず』91-93頁 ^ 自著『野球バカは死なず』94頁 ^ 自著『野球バカは死なず』104-108頁 ^ 自著『野球バカは死なず』113頁 ^ 『南海ホークス栄光の歴史 1938-1988』ベースボール・マガジン社、2012年、34頁。ISBN 9784583618876。 ^ 「『阿川佐和子のこの人に会いたい』第1216回、プロ野球解説者、江本孟紀」『週刊文春』6月28日号、2018年、134-138頁。 ^ 江本はこの時、佐藤が抑えるものと思って投球準備を全くしておらず、投球した際に審判が運よくストライクを取ってくれたので助かったと後に著書で述べている。 ^ 野球バカは死なず 2018, pp. 143–144 ^ 『門田博光の本塁打一閃』118-120頁 ^ 自著『野球バカは死なず』157-158頁 ^ 『ベースボールマガジン』2020年4月号「南海ホークス大阪慕情」、19頁 ^ 広瀬叔功『南海ホークス ナンバ栄光と哀しみの故郷』175-176頁 ^ “「江」が付く投手はみんな無頼派!?江夏と江本の大型トレード”. 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江夏豊自伝』<新潮文庫>(新潮社、2010年) 広瀬叔功『南海ホークス ナンバ栄光と哀しみの故郷』(ベースボール・マガジン社、2014年) サンケイスポーツ編『プロ野球 レジェンドが語るあの日、あのとき』(日本工業新聞社、2015年) 高知県出身の人物一覧 法政大学の人物一覧 北海道日本ハムファイターズの選手一覧 福岡ソフトバンクホークスの選手一覧 阪神タイガースの選手一覧 堀内恒夫 - 江本と同学年で投手・政治家と言う点で共通。 個人年度別成績 江本孟紀 - NPB.jp 日本野球機構 EMOYAN.COM (エモヤン.コム) 江本孟紀ウェブサイト 『エモやんの“いごっそう”日記』 江本孟紀 (@emoto_takenori) - X(旧Twitter) 表 話 編 歴 新設 河井彌八 伊達源一郎 河井彌八 竹下豐次 小酒井義男 荒木正三郎 新谷寅三郎 小柳牧衞 青木一男 亀田得治 藤田進 永岡光治 中野文門 吉江勝保 大谷藤之助 河野謙三 村山道雄 三木與吉郎 下村定 柴田栄 熊谷太三郎 豊田雅孝 井川伊平 八田一朗 西村尚治 田口長治郎 柳田桃太郎 高田浩運 寺本広作 加藤武徳 中山太郎 増原恵吉 塚田十一郎 桧垣徳太郎 古賀雷四郎 林迶 遠藤要 坂野重信 高平公友 大島友治 亀長友義 岩本政光 名尾良孝 大城眞順 板垣正 井上孝 梶原清 守住有信 岡部三郎 岡野裕 宮崎秀樹 鎌田要人 竹山裕 廃止 新設 江本孟紀 佐藤泰介 小川敏夫 簗瀬進 和田洋子 高嶋良充 工藤堅太郎 藤原正司 岡田広 愛知治郎 河合常則 柳澤光美 松井孝治 芝博一 相原久美子 水岡俊一 山東昭子 水岡俊一 大島九州男 神本美恵子 難波奨二 榛葉賀津也 柘植芳文 石井正弘 水落敏栄 森屋宏 徳茂雅之 酒井庸行 古賀友一郎 大野泰正 阿達雅志 石井浩郎 表 話 編 歴 徳永正利 林健太郎 梶木又三 岡野裕 竹内潔↓ 伊江朝雄 矢野俊比古 増岡康治 吉村真事 海江田鶴造 古賀雷四郎 大浜方栄 石本茂 山岡賢次 安西愛子 扇千景 柳川覚治 堀江正夫 藤井裕久↓ 石井道子↑ 寺内弘子↑ 中村哲 久保田真苗 松前達郎 大森昭 大木正吾 安恒良一 佐藤三吾 穐山篤 安永英雄 伏見康治 多田省吾 中西珠子 高桑栄松 和田教美 刈田貞子 中野明 飯田忠雄 宮本顕治 市川正一 下田京子 橋本敦 吉川春子 関嘉彦 栗林卓司 藤井恒男 柳沢錬造 青木茂 木本平八郎 前島英三郎 田英夫 野坂昭如↓ 下村泰↑ 松前達郎 久保田真苗 國弘正雄 日下部禧代子 安恒良一 大森昭 佐藤三吾 安永英雄 堂本暁子 谷本巍 穐山篤 清水澄子 北村哲男 菅野壽 肥田美代子 庄司中 村田誠醇 堀利和 翫正敏 三石久江 清水嘉与子 前島英三郎 岡野裕 山岡賢次↓ 井上章平 石川弘↓ 須藤良太郎 成瀬守重 大浜方栄 尾辻秀久 木暮山人 石井道子 田村秀昭 伊江朝雄 柳川覚治 扇千景↑ 増岡康治↑ 高桑栄松 中西珠子 和田教美 刈田貞子 中川嘉美 常松克安 市川正一 橋本敦 吉川春子 林紀子 足立良平 寺崎昭久 下村泰 横溝克己↓ 星野朋市↑ アントニオ猪木 大森礼子 扇千景 益田洋介 寺崎昭久 加藤修一 田村秀昭 水島裕 海野義孝 足立良平 但馬久美 木暮山人↓ 福本潤一 友部達夫↓ 今泉昭 渡辺孝男 畑恵 戸田邦司 星野朋市 松崎俊久↑ 金石清禅↑ 武見敬三 岡野裕 中原爽 成瀬守重 石井道子 尾辻秀久 清水嘉与子 石川弘↓ 依田智治 須藤良太郎 釜本邦茂 小山孝雄↓ 橋本聖子 海老原義彦 岩井國臣 中島啓雄↑ 柳川覚治↑ 日下部禧代子 松前達郎 前川忠夫 朝日俊弘 竹村泰子 伊藤基隆 谷本巍 清水澄子 菅野壽 橋本敦 吉川春子 須藤美也子 笠井亮 筆坂秀世 水野誠一↓ 堂本暁子↓ 黒岩秩子↑ 佐藤道夫 舛添要一 高祖憲治↓ 大仁田厚 小野清子 岩井國臣 橋本聖子 尾辻秀久 武見敬三 桜井新 段本幸男 魚住汎英 清水嘉与子 福島啓史郎 近藤剛↓ 森元恒雄 藤井基之 山東昭子 小泉顕雄 有村治子 中原爽 中島啓雄↑ 藤野公孝↑ 大橋巨泉↓ 藤原正司 池口修次 朝日俊弘 若林秀樹 伊藤基隆 佐藤道夫 神本美恵子 ツルネン・マルテイ↑ 山本香苗 木庭健太郎 遠山清彦 草川昭三 渡辺孝男 魚住裕一郎 福本潤一 加藤修一 紙智子 筆坂秀世↓ 井上哲士 吉川春子 小林美恵子↑ 西岡武夫 田村秀昭 広野允士 大江康弘 田嶋陽子↓ 大田昌秀 又市征治 田英夫↑ 扇千景 相原久美子 吉川沙織 青木愛↓ 石井一 池口修次 ツルネン・マルテイ 神本美恵子 横峯良郎 藤原正司 川合孝典 風間直樹 轟木利治 大島九州男 西岡武夫↓ 今野東↓ 藤原良信 藤谷光信 室井邦彦↓ 大江康弘↓ 山本孝史↓ 大石尚子↑↓ 広野允士↑ はたともこ↑ 玉置一弥↑ 樽井良和↑ 尾辻かな子↑ 山村明嗣↑ 舛添要一 山田俊男 中山恭子 丸山和也 川口順子 佐藤正久 尾辻秀久 石井みどり 佐藤信秋 義家弘介↓ 橋本聖子 山東昭子 衛藤晟一 有村治子 武見敬三↑ 山本香苗 木庭健太郎 山本博司 遠山清彦↓ 渡辺孝男 加藤修一 魚住裕一郎 草川昭三↑ 井上哲士 紙智子 山下芳生 又市征治 山内徳信 田中康夫↓ 平山誠↑ 自見庄三郎 柘植芳文 山田俊男 佐藤正久 石井みどり 橋本聖子 羽生田俊 佐藤信秋 赤池誠章 山東昭子 衛藤晟一 石田昌宏 有村治子 宮本周司 丸山和也 北村経夫 渡邉美樹 木村義雄 太田房江 山本香苗 平木大作 河野義博 山本博司 若松謙維 魚住裕一郎 新妻秀規 礒﨑哲史 浜野喜史 相原久美子 大島九州男 神本美恵子 吉川沙織 石上俊雄 アントニオ猪木 中山恭子 儀間光男 藤巻健史 中野正志 室井邦彦 小池晃 山下芳生 紙智子 井上哲士 仁比聡平 川田龍平 山口和之 渡辺美知太郎↓x 井上義行↓x 又市征治 三木亨↓ 三浦靖 柘植芳文 山田太郎 和田政宗 佐藤正久 佐藤信秋 橋本聖子 山田俊男 有村治子 宮本周司↓ 石田昌宏 北村経夫↓ 本田顕子 衛藤晟一 羽生田俊 宮崎雅夫 山東昭子 赤池誠章 比嘉奈津美↑ 中田宏↑ 田中昌史↑ 岸真紀子 水岡俊一 小沢雅仁 吉川沙織 森屋隆 川田龍平 石川大我 須藤元気↓ 市井紗耶香↑↓ 奥村政佳↑ 山本香苗↓ 山本博司 若松謙維 河野義博 新妻秀規 平木大作 塩田博昭 髙橋次郎↑ 鈴木宗男 室井邦彦↓ 梅村聡↓ 柴田巧 柳ヶ瀬裕文 藤巻健史↑ 山口和之↑ 小池晃 山下芳生 井上哲士 紙智子 田村麻美 礒﨑哲史 浜野喜史 舩後靖彦 木村英子 吉田忠智↓ 大椿裕子↑ 立花孝志↓ 浜田聡↑ 鳩山威一郎 長田裕二 関口恵造 大河原太一郎 下稲葉耕吉 村上正邦 野沢太三 井上孝 梶原清 岡部三郎 板垣正 田沢智治 岡田広 大鷹淑子 山東昭子 斎藤栄三郎 松浦功 宮崎秀樹 久世公堯 田中正巳 永野茂門 宮田輝↓ 山口光一↑ 福間知之 野田哲 鈴木和美 松本英一 山本正和 及川一夫 山口哲夫 田渕勲二 粕谷照美 広中和歌子 塩出啓典↓ 太田淳夫 鶴岡洋 中野鉄造 猪熊重二 及川順郎 針生雄吉↑ 立木洋 山中郁子 近藤忠孝 吉岡吉典 諫山博 橋本孝一郎 田渕哲也 勝木健司 秋山肇 平野清 青島幸男↓ 今泉隆雄↑↓ 山田俊昭↑ 宇都宮徳馬 井上孝 下稲葉耕吉 村上正邦 大島慶久 岡部三郎 泉信也 藤江弘一↓ 野沢太三 岡利定 大河原太一郎 永野茂門 清水達雄 松浦功 久世公堯 板垣正 南野知惠子 田辺哲夫↓ 田沢智治 楢崎泰昌 宮崎秀樹↑ 山東昭子↑↓ 嶋崎均↑↓ 長尾立子↑ 藁科満治 大脇雅子 鈴木和美 川橋幸子 山本正和 及川一夫 山口哲夫 渕上貞雄 松本英一↓ 志苫裕 萱野茂↑ 牛嶋正 続訓弘 大久保直彦 広中和歌子 鶴岡洋 及川順郎 猪熊重二 武田節子 細川護熙↓ 小池百合子↓ 寺澤芳男 武田邦太郎 小島慶三↑ 円より子↑ 立木洋 聴濤弘 吉岡吉典 有働正治 直嶋正行 勝木健司 長谷川清 江本孟紀 青島幸男↓ 山田俊昭↑ 有馬朗人 村上正邦↓ 岡利定↓ 大島慶久 野沢太三 阿南一成 南野知惠子 佐藤昭郎 日出英輔 加納時男 佐々木知子 脇雅史 森田次夫 久世公堯 清水達雄↑ 宮崎秀樹↑ 小宮山洋子↓ 今井澄↓ 円より子 藁科満治 直嶋正行 内藤正光 勝木健司 川橋幸子 長谷川清 高嶋良充 堀利和 江本孟紀↓ 信田邦雄↑ 中島章夫↑ 樋口俊一↑ 立木洋↓ 市田忠義 岩佐恵美 吉岡吉典 池田幹幸 小池晃 林紀子 小泉親司 大門実紀史↑ 鶴岡洋 続訓弘 森本晃司 荒木清寛 風間昶 沢たまき↓ 日笠勝之 千葉国男↑ 泉信也 入沢肇 平野貞夫 渡辺秀央 月原茂皓 福島瑞穂 渕上貞雄 大脇雅子 山本正和 小林正夫 加藤敏幸 内藤正光 家西悟 柳澤光美 直嶋正行 大石正光 白眞勲 那谷屋正義 藤末健三 喜納昌吉 高嶋良充 津田弥太郎 工藤堅太郎 円より子 下田敦子 松岡徹 前田武志 渡辺秀央 竹中平蔵↓ 秋元司 長谷川憲正 脇雅史 西島英利 山谷えり子 中村博彦 泉信也 荻原健司 加納時男 荒井広幸 水落敏栄 佐藤昭郎 南野知惠子 松村祥史 神取忍↑ 浜四津敏子 弘友和夫 谷合正明 荒木清寛 風間昶 浮島とも子 浜田昌良 鰐淵洋子 市田忠義 小池晃 仁比聡平 大門実紀史 福島瑞穂 渕上貞雄 有田芳生 谷亮子 直嶋正行 小林正夫 柳澤光美 石橋通宏 難波奨二 津田弥太郎 那谷屋正義 江崎孝 藤末健三 加藤敏幸 前田武志 田城郁 白眞勲 西村正美 片山さつき 佐藤ゆかり↓ 山谷えり子 髙階恵美子 三原じゅん子 中村博彦↓ 脇雅史 藤井基之 小坂憲次 水落敏栄 宇都隆史 赤石清美 堀内恒夫↑ 阿達雅志↑ 柴田巧 江口克彦 上野宏史↓ 寺田典城 小野次郎 小熊慎司↓ 桜内文城↓ 真山勇一↑ 藤巻幸夫↑↓ 山田太郎↑ 田中茂↑ 秋野公造 長沢広明 横山信一 谷合正明 浜田昌良 荒木清寛 市田忠義 田村智子 大門実紀史 福島瑞穂 吉田忠智 片山虎之助 荒井広幸 徳茂雅之 青山繁晴 片山さつき 中西哲 今井絵理子 足立敏之 山谷えり子 藤木眞也 自見英子 進藤金日子 髙階恵美子↓ 山田宏 藤井基之 阿達雅志 宇都隆史 小川克巳 宮島喜文 水落敏栄 園田修光 竹内功↑ 小林正夫 濱口誠 矢田稚子 有田芳生 川合孝典 難波奨二 江崎孝 那谷屋正義 石橋通宏 藤末健三↓ 白眞勲 田城郁↑ 長沢広明↓ 秋野公造 横山信一 熊野正士 谷合正明 浜田昌良 宮崎勝 竹内真二↑ 市田忠義 田村智子 大門実紀史 岩渕友 武田良介 片山虎之助 渡辺喜美 石井苗子 石井章 福島瑞穂 青木愛 藤井一博 梶原大介 赤松健 長谷川英晴 青山繁晴 片山さつき 足立敏之 自見英子 藤木眞也 山田宏 友納理緒 山谷えり子 井上義行 進藤金日子 今井絵理子 阿達雅志 神谷政幸 越智俊之 石井章 石井苗子 松野明美 中条きよし 猪瀬直樹 金子道仁 串田誠一 青島健太 辻元清美 鬼木誠 古賀千景 柴慎一 村田享子 青木愛 石橋通宏 竹内真二 横山信一 谷合正明 窪田哲也 熊野正士↓ 上田勇 宮崎勝↑ 田村智子↓ 仁比聡平 岩渕友 大門実紀史↑ 竹詰仁 濱口誠 川合孝典 天畠大輔 水道橋博士↓ 大島九州男↑ 神谷宗幣 福島瑞穂 ガーシー▼ 齊藤健一郎↑ 表 話 編 歴 1936春夏 藤村富美男 1936秋 若林忠志 1937春 景浦將 1937秋 若林忠志 1938春 御園生崇男 1938秋 青木正一 1939 若林忠志 1940 木下勇 1941 若林忠志 1942 若林忠志 1943 三輪八郎 1944 若林忠志 1946 渡辺誠太郎 1947 若林忠志 1948 御園生崇男 1949 若林忠志 1950 内山清 1951 内山清 1952 三船正俊 1953 藤村隆男 1954 小山正明 1955 西村一孔 1956 小山正明 1957 西尾慈高 1958 渡辺省三 1959 小山正明 1960 村山実 1961 小山正明 1962 小山正明 1963 小山正明 1964 村山実 1965 G.バッキー 1966 村山実 1967 村山実 1968 村山実 1969 江夏豊 1970 江夏豊 1971 江夏豊 1972 古沢憲司 1973 江夏豊 1974 江夏豊 1975 江夏豊 1976 古沢憲司 1977 江本孟紀 1978 江本孟紀 1979 江本孟紀 1980 小林繁 1981 小林繁 1982 小林繁 1983 小林繁 1984 野村収 1985 池田親興 1986 池田親興 1987 M.キーオ 1988 仲田幸司 1989 仲田幸司 1990 中西清起 1991 野田浩司 1992 葛西稔 1993 仲田幸司 1994 湯舟敏郎 1995 湯舟敏郎 1996 藪恵壹 1997 川尻哲郎 1998 藪恵壹 1999 藪恵壹 2000 星野伸之 2001 星野伸之 2002 井川慶 2003 井川慶 2004 井川慶 2005 井川慶 2006 井川慶 2007 下柳剛 2008 安藤優也 2009 安藤優也 2010 安藤優也 2011 能見篤史 2012 能見篤史 2013 R.メッセンジャー 2014 能見篤史 2015 R.メッセンジャー 2016 R.メッセンジャー 2017 R.メッセンジャー 2018 R.メッセンジャー 2019 R.メッセンジャー 2020 西勇輝 2021 藤浪晋太郎 2022 藤浪晋太郎 2023 青柳晃洋 2024 青柳晃洋 表 話 編 歴 1938秋 鈴木芳太郎 1939 政野岩夫 1940 清水秀雄 1941 神田武夫 1942 神田武夫 1943 清水秀雄 1944 清水秀雄 1946 松川博爾 1947 別所昭 1948 別所昭 1949 柚木進 1950 柚木進 1951 江藤正 1952 江藤正 1953 柚木進 1954 大神武俊 1955 柚木進 1956 柚木進 1957 野母得見 1958 杉浦忠 1959 杉浦忠 1960 杉浦忠 1961 J.スタンカ 1962 J.スタンカ 1963 J.スタンカ 1964 三浦清弘 1965 杉浦忠 1966 森中千香良 1967 皆川睦男 1968 皆川睦男 1969 泉嘉郎 1970 西岡三四郎 1971 西岡三四郎 1972 西岡三四郎 1973 江本孟紀 1974 江本孟紀 1975 江本孟紀 1976 山内新一 1977 山内新一 1978 山内新一 1979 藤田学 1980 山内新一 1981 山内新一 1982 山内新一 1983 山内孝徳 1984 山内和宏 1985 山内孝徳 1986 山内孝徳 1987 山内孝徳 1988 西川佳明 1989 山内孝徳 1990 藤本修二 1991 村田勝喜 1992 村田勝喜 1993 村田勝喜 1994 吉田豊彦 1995 工藤公康 1996 工藤公康 1997 武田一浩 1998 工藤公康 1999 西村龍次 2000 西村龍次 2001 西村龍次 2002 田之上慶三郎 2003 斉藤和巳 2004 斉藤和巳 2005 和田毅 2006 斉藤和巳 2007 斉藤和巳 2008 杉内俊哉 2009 和田毅 2010 杉内俊哉 2011 和田毅 2012 攝津正 2013 攝津正 2014 攝津正 2015 攝津正 2016 攝津正 2017 和田毅 2018 千賀滉大 2019 千賀滉大 2020 東浜巨 2021 石川柊太 2022 千賀滉大 2023 大関友久 2024 有原航平 表 話 編 歴 1950 若林忠志 1951 江藤正 1952 大神武俊 1953 大神武俊 1954 西村貞朗 1955 柚木進 1956 川崎徳次 1957 稲尾和久 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 中西勝己 1961 J.スタンカ 1962 土橋正幸 1963 稲尾和久 1964 J.スタンカ 1965 杉浦忠 1966 渡辺泰輔 1967 米田哲也 1968 石井茂雄 1969 石井茂雄 1970 木樽正明 1971 足立光宏 1972 山田久志 1973 江本孟紀 1974 金田留広 1975 足立光宏 1976 山田久志 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 井本隆 1980 井本隆 1981 高橋一三 1982 松沼博久 1983 松沼博久 1984 山田久志 1985 松沼博久 1986 東尾修 1987 東尾修 1988 渡辺久信 1989 阿波野秀幸 1990 渡辺久信 1991 工藤公康 1992 渡辺久信 1993 工藤公康 1994 渡辺久信 1995 佐藤義則 1996 星野伸之 1997 西口文也 1998 西口文也 1999 工藤公康 2000 若田部健一 2001 J.パウエル 2002 松坂大輔 2003 斉藤和巳 2004 石井貴 2005 清水直行 2006 ダルビッシュ有 2007 ダルビッシュ有 2008 涌井秀章 2009 武田勝 2010 成瀬善久 2011 和田毅 2012 吉川光夫 2013 則本昂大 2014 J.スタンリッジ 2015 武田翔太 2016 大谷翔平 2017 千賀滉大 2018 千賀滉大 2019 千賀滉大 2020 千賀滉大 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 有原航平 表 話 編 歴 1位:浜村孝 2位:吉岡宣男(入団拒否) 3位:三浦健二(入団拒否) 4位:江本孟紀(入団拒否) 5位:田中辰次 6位:安友定吉(入団拒否) 7位:吉原勉(入団拒否) 8位:久木田正昭(入団拒否) 9位:少弐克也(入団拒否) 10位:坂元健(入団拒否) 11位:衛藤雅登(入団拒否) 12位:岩田宗彦(入団拒否) 13位:小室光男 14位:京田憲治(入団拒否) 15位:蔵原偉吾(入団拒否) 16位:太田喜一郎(入団拒否) 『FNNニュースレポート6:00』から続投。 『夕やけニャンニャン』ニュースコーナーを兼務。 タイトルコールも担当(松山は1994年10月から)。 『FNNニュース・明日の天気』、『FNNニュースレポート23:30』を兼務。 『ザ・ビッグチャンス!』・『アンテナホット7』を兼務。 小田の人事異動による降板後の中継ぎで担当。 『ビッグトゥデイ』ニュースコーナーを兼務。 放送当時は大林姓。 『FNNニュース555 ザ・ヒューマン』→『FNNスーパーニュース』、『FNNスーパーニュースWEEKEND』も続投。 FAST ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 韓国 江本孟紀 日本の野球選手 高知市立高知商業高等学校出身の野球選手 法政大学野球部の選手 熊谷組野球部の選手 北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手 福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の選手 阪神タイガース及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 高知ファイティングドッグス 野球解説者 日本のスポーツ選手出身の政治家 国民新党の人物 比例区選出の参議院議員 民主党の参議院議員 スポーツ平和党の国会議員 自由連合の国会議員 平成時代の参議院議員 大阪府知事選挙の立候補経験者 日本の司会者 日本のタレント 日本の男優 11PM 日本の男性YouTuber 元NPB選手のYouTuber 旭日中綬章受章者 高知県出身のスポーツ選手 1947年生 存命人物 Pages using the JsonConfig extension 2024/11/21 06:39更新
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emoto takenori
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