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アントニオ猪木の情報 (あんとにおいのき)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

アントニオ猪木の情報(あんとにおいのき) 格闘家/プロレス 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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アントニオ猪木さんについて調べます

■名前・氏名
アントニオ猪木
(読み:あんとにおいのき)
■職業
格闘家
プロレス
■アントニオ猪木の誕生日・生年月日
1943年2月20日 (年齢79歳没)
未年(ひつじ年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
神奈川出身

(昭和18年)1943年生まれの人の年齢早見表

アントニオ猪木と同じ1943年生まれの有名人・芸能人

アントニオ猪木と同じ2月20日生まれの有名人・芸能人

アントニオ猪木と同じ出身地神奈川県生まれの有名人・芸能人


アントニオ猪木と関係のある人

ブルーザー=ブロディ: アントニオ猪木が一番扱いに困ったレスラーがブロディであったと語っている。


お侍ちゃん: 主なネタには『それいけ!アンパンマン』の江戸時代バージョンを演じるもの(途中でアンパンマンのエンディングテーマ「勇気りんりん」の歌詞を江戸時代風に変えた歌を歌うなどする)、「江戸ラジオ」、「侍のアントニオ猪木」、「侍の松田優作」などがある。


大里菜桜: アントニオ猪木をさがして(2023年10月6日、ギャガ)


江本孟紀: 2018年1月29日に「叙勲受章祝賀会」が行われ鳩山由紀夫、原辰徳が祝辞を述べ、乾杯の音頭はアントニオ猪木が取り、司会は松本秀夫が務め、金田正一、野村克也、川淵三郎、森喜朗、周防郁雄、山本浩二、谷沢健一、上田次朗、佐々木主浩など球界、政界、芸能界から約650名が出席した。


アントニオ小猪木: 大木金太郎をバックドロップでしとめるアントニオ猪木


田口華: 憧れの人はアントニオ猪木、樫野有香(Perfume)。


和田竜二: 有馬記念を勝ったときにはアントニオ猪木の決め台詞である「1、2、3、ダー!!」で締めた。


井戸田潤: 2、3ネタ演じた後、締めとして突然アントニオ猪木のように「元気ですか!」と叫び、「どうでしたか、今日のアツアツ鉄板ジョークは?(または「今日のジョークの焼き加減は?」)ご唱和ください、いくぞっ!7、8、9、ジュ〜…」と両手のひらを客に向ける(数字の10の意味)。


菅原文太: このほかには吉永小百合・泉谷しげる・志村けん・小林幸子・はるな愛ら映画やバラエティ番組、CMなどで共演した芸能人や、スポーツ界から王貞治・アントニオ猪木・大久保博元らの追悼が寄せられた。


ゴリラ=モンスーン: 1976年、モハメド・アリとアントニオ猪木の異種格闘技戦が決定すると(当時WWWFと新日本プロレスは提携関係にあった)、WWWFのリングに登場したアリに乱闘を仕掛け、エアプレーン・スピンを見舞っている。


ジャイアント馬場: 1979年8月26日(日曜日)、日本武道館にて行われたプロレス夢のオールスター戦において、アントニオ猪木と一夜限りでBI砲を復活させ、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン組と対戦し勝利した。


佐山聡: 1998年、アントニオ猪木が創設したUFOに猪木事務所取締役の肩書きで参加する。


有田哲平: 中でもアントニオ猪木のものまねは、『内村プロデュース』での「○○で勝利するをプロデュース(スポーツシリーズ)」で内村光良のふりで披露、後に鉄板ネタとなった。


孝乃富士忠雄: 同年12月9日、都内で行われたアントニオ猪木追悼興行の記者会見に貴賢神を連れて登場。


金平正紀: 1976年、アントニオ猪木対モハメド・アリ戦にも関与。


居島一平: 落語が趣味のため、近年お笑いライブや番組出演の機会では「アントニオ猪木落語」を発表する機会もある。


武藤敬司: 柔道の猛者であったため入門当初からアントニオ猪木、坂口征二、藤原喜明らと互角にスパーリングをする実力と天性の運動神経とルックスから、早くから将来のエース候補と目され、ヤングライオン杯優勝を経ることなく、1985年11月に初の海外遠征(米フロリダ地区)に出発。


畠山みどり: かつて住んでいた東京都世田谷区の邸宅は、1967年にプロレスラーのアントニオ猪木が私邸として購入し、1972年に猪木が新日本プロレスを旗揚げした際に新日本プロレス道場兼選手合宿所に改造して現在に至っている。


藤波辰爾: 最優秀タッグチーム賞(w / アントニオ猪木)(1981年)


ブルーザー=ブロディ: 1984年末、ブロディは新日本プロレスに対して「アントニオ猪木と話をしたいので連絡してほしい」と国際電話を入れ、山本小鉄がブロディとの交渉役を務めた。


今吉将之: アントニオ猪木を主人公としたフルCG映画の原作・監督も務めた。


小倉久寛: アントニオ猪木が好きだったという。


山本ゆか里: 1976年6月に行われた『アントニオ猪木 対 モハメド・アリ 異種格闘技戦』では試合前のアリに花束を贈呈するプレゼンターを小牧りさと共に担当し、翌1977年9月の王貞治の本塁打世界記録(756号)達成時には記念のフラワープレートを王に受け渡すプレゼンターも山本が単独で担当するなど、当時の注目度の非常に高かったイベントにおいて華を添えている。


柴田勝頼: 12月28日、10月に死去したアントニオ猪木の追悼イベントとして行われたINOKI BOM-BA-YE × 巌流島 in 両国では、UWFルールで行われたメインイベントでトム・ローラーと対戦し、グラウンド卍固めで勝利。


竹中美彩: 菊花賞・2008年(京都競馬場) ゲスト:アントニオ猪木


徳光和夫: また日本プロレス時代から実況経験があることからアントニオ猪木とも接点があり、猪木のことを若手時代の愛称である「寛ちゃん」と呼ぶ。


磯村尚徳: 一度は出馬を表明し撤回したアントニオ猪木と政策協定を結んだが、知事選では落選した。


スコット=ビガロー: 初来日時の2月5日には両国国技館において、アントニオ猪木と初のシングルマッチを行い反則負け。


遠藤幸吉: 日本プロレス崩壊後はアントニオ猪木率いる新日本プロレスのプロモーターとして活動したほか、NET・テレビ朝日の日本プロレス・新日本プロレスの中継に於いては1970年代中期まで桜井康雄(東京スポーツ記者)と共に解説者を務めていた(プロレスラー出身の解説者第1号)。


キラー=トーア=カマタ: 1980年のWWF参戦時にはボブ・バックランド、ダスティ・ローデス、ペドロ・モラレス、パット・パターソン、レネ・グレイなど当時の新日本プロレス系の外国人選手と対戦、8月9日の "Showdown at Shea" ではアントニオ猪木や藤波辰巳と邂逅したが、団体間の紳士協定のため新日本に出場することはなかった。


アントニオ猪木の情報まとめ

もしもしロボ

アントニオ猪木(あんとにおいのき)さんの誕生日は1943年2月20日です。神奈川出身の格闘家
プロレスのようです。

もしもしロボ

プロレス、寛水流空手などについてまとめました。結婚、離婚、現在、父親、母親、兄弟、テレビ、ドラマ、退社、事件、引退、家族、解散、映画に関する情報もありますね。去年の情報もありました。79歳で亡くなられているようです。

アントニオ猪木のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

アントニオ猪木(アントニオいのき、本名:猪木 完至〈いのき かんじ〉、1943年〈昭和18年〉2月20日 - 2022年〈令和4年〉10月1日)は、日本の男性プロレスラー、実業家、政治家。位階は従四位。

神奈川県横浜市鶴見区出身。血液型AB型。新日本プロレス設立後のキャッチフレーズは「燃える闘魂」。日本プロレス所属時代のキャッチフレーズは「若獅子」。愛称は「アントン」。複数の結婚歴と離婚歴があり(事実婚を含めて4回結婚している)、二番目の妻は女優の倍賞美津子である。倍賞との間に娘が一人いる。1991年にイラクのカルバラーにてイスラム教に改宗しており、ムスリム名は「モハメッド・フセイン・イノキ」。ただし、ワシントン・ポストによると本人は仏教徒とも自認しており、葬儀も仏式で行われ、「闘覚院機魂寛道居士」の戒名も与えられた。

プロレスラーとしては新日本プロレスの創業や異種格闘技戦で活躍。スピードあふれる正統派スタイルを貫き、コブラツイストや卍固め、延髄斬りなどを必殺技に活躍した。政治家としては参議院議員(2期)、スポーツ平和党代表、次世代の党国民運動局長兼参議院政策調査会長、日本を元気にする会最高顧問、同代表などを歴任。

神奈川県横浜市鶴見区生麦町(現在の鶴見区岸谷)出身。父親は猪木佐次郎、母は文子(旧姓:相良)。父親は猪木が5歳の時に死去。前田日明は「猪木さんの弁によると父親は県会議員か何かだったって」と著書に書いている。実家は石炭問屋を営んでいたが第二次世界大戦後、世界のエネルギー資源の中心が石炭から石油に変わっていったこともあり倒産。

12歳で横浜市立寺尾中学校に入学するも、生活は厳しかった。13歳の時に貧困を抜け出せるかもしれないという希望から、母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り、サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。ブラジル移住後最初の1年半は、農場で早朝5時から夕方の5時までコーヒー豆の収穫などを中心に過酷な労働を強いられた。

幼少時代は運動神経が鈍く、友達からは「ドン寛(鈍感)」「運痴の寛ちゃん」などと呼ばれていたが、ブラジル移住後は陸上競技選手として1958年、1959年の全伯(全ブラジル)陸上競技選手権少年の部に出場、砲丸(投げ)、円盤(投げ)の二種目に優勝するなど、身体能力を発揮して活躍した。その際、ブラジル遠征中の力道山の目に留まる。

1960年(昭和35年)4月11日、興行でサンパウロを訪れていた力道山から直接スカウトされて日本へ帰国し、日本プロレスに入団。力道山から掛けられた最初の言葉は、「オイ、裸になれ」であった。上半身だけ脱がされて背中の筋肉を見て合格になったという。デビュー後は、猪木の素質に目をつけたサニー・マイヤースからもトレーニングのオファーを受けた。

ジャイアント馬場のデビューと同日の1960年(昭和35年)9月30日、本名の猪木完至として、東京都台東区の台東区体育館で大木金太郎を相手にデビュー(7分6秒、逆腕固めで敗退)。1962年(昭和37年)11月9日、沖縄県那覇市での長沢秀幸との試合において、リングネームをアントニオ猪木に改名。このリングネームは、先輩レスラー豊登により後述の「死神酋長アントニオ」を経て命名。「ブラジル帰りの日系ブラジル人」であることを強調するためなど諸説ある。なお、本名で活動中に出演したテレビドラマ『チャンピオン太』での役名「死神酋長」を気に入った力道山は、その名を猪木のリングネームにしようとしたという。

南米での興行を成功させるための布石として力道山は当初猪木を日系ブラジル人として売り出そうとしていた(猪木自身が「横浜生まれ」だということを公にしたのは力道山の没後であった)。デビューしてからまもなく、力道山の付き人となったものの、力道山は1963年(昭和38年)12月15日に死去。付き人としての期間は3年半だった。

1964年(昭和39年)にアメリカ武者修行に出発するが当初は正式な就労ビザが取れず、本名で活動することを避けていたと後に述べている。この時のリングネームは、ロサンゼルスの日本人街であるリトル・トーキョーをもじった「リトル・トーキョー・トム」等多数。西海岸、中西部、南部をサーキットし、2年後に帰国。この遠征中には、デューク・ケオムカと組んでテキサス東部版のNWA世界タッグ王座、およびヒロ・マツダと組んでミッドアメリカ版の同王座を奪取している(同期の馬場はMSGのトップイベンターには起用されたものの、アメリカ修行中のタイトル戴冠は果たしていない)。ミッドアメリカ版のNWA世界タッグ王座はエディ・グラハム&サム・スティムボートを破って獲得したものであり、東京プロレスと国際プロレスの合同興行においても、グラハム&ジョニー・バレンタインを相手に防衛戦が行われた。なお、テキサスではジョー・ブランチャードを破りNWAテキサス・ヘビー級王座を獲得したともされるが、これは同じく同地区で「トーキョー・トム」を名乗っていたレイ・ウルバノとの混同である。

1966年(昭和41年)3月、アメリカ修行を終え、ジャイアント馬場や吉村道明らとの合同練習に参加するために立ち寄ったハワイにおいて、前年末に日本プロレスを退社し、極秘裏にハワイ入りしていた豊登に「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」と口説かれ、日本プロレスから離脱(太平洋上の略奪)。帰国後の4月23日、自身をエースとする東京プロレスの設立を豊登とともに公式発表。10月12日の旗揚げ戦でのジョニー・バレンタインとの試合で名声を得る。

しかし、テレビ放送が付かなかったことや営業力の弱さ、豊登の横領などにより急速に業績が悪化。「客が少ない」という理由で興業を中止しようとしたところ、怒った観客にリングに火をつけられる「板橋事件」などが起き、東京プロレスは3ヶ月で破産、最終的に当時の自民党副総裁川島正次郎の仲介もあり古巣である日本プロレスに戻ることになる。

1967年5月に日本プロレス復帰後は馬場に次ぐ待遇を受け、1967年10月31日、ジャイアント馬場とのタッグチーム「BI砲」としてインターナショナル・タッグ王座を獲得。1969年5月16日、第11回ワールドリーグ戦でジャイアント馬場の4連覇を阻止し初優勝。 1969年7月にNET(現:テレビ朝日)が日本プロレス中継を開始した際、日本テレビとの取り決めで馬場の試合は日本テレビの独占とされた関係上、猪木はNETの日本プロレス中継のエースという形になり、1969年12月2日にはドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦し 、1971年3月26日、UNヘビー級王座を獲得した。

日本プロレスを追放された後の1972年(昭和47年)1月26日に新日本プロレスを旗揚げした。当初はテレビ放送もなく苦しい経営であった。また、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの圧力により有力な外国人プロレスラー招聘に難航したが、元国際プロレスのエースストロング小林との大物日本人対決、日本プロレス時代の先輩である大木金太郎との遺恨試合、ビル・ロビンソンとの実力世界一決定戦などで人気を博す。タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなどを外国人エースとして育成もした。WWWFと提携して以降は多数の外国人スターを呼べるようになり、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築いた。

新日本プロレスは、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」という「ストロングスタイル」を標榜。その後のプロレスに大きな影響を与える。猪木は自身の最強を証明するため、パキスタンの英雄アクラム・ペールワン、「熊殺し」の異名をとる空手家ウィリー・ウィリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け、後年の総合格闘技の礎を築いた。

1982年(昭和57年)2月27日、沖縄松林流空手東海支部長水谷征夫とともにフルコンタクト空手の団体「寛水流空手(かんすいりゅうからて)」を設立した。

同年、漫画原作者の梶原一騎により猪木が監禁される事件が起こった。梶原は、暴力団関係者を使って猪木を大阪のリーガロイヤルホテルの一室に呼び出し、銃を持っていることなどを仄めかして猪木を脅迫したとされる。後に梶原が著書『わが懺悔録』で語ったところによると、この事件の発端は、当時タイガーマスクのキャラクター使用料が猪木側から梶原に支払われなくなっていたことにあるとされている。「猪木が梶原を避けていたため全く連絡がつかない状態にあった時、たまたまホテルで会ったので部屋に招いてその件を問い質しただけで、監禁恐喝は完全に冤罪である」という。ただし、恐喝に関して梶原の他に「同席者」がいたことは否定されていない。

この頃、猪木が自身のビジネス(「アントン・ハイセル」など)に新日本プロレスの資金を投資し、その多くが失敗に終わって新日本プロレスの経営を圧迫することになり、これに嫌気がさした所属レスラーによる「クーデター」と、その後のタイガーマスクや長州力の退団騒動につながって行く。

1986年(昭和61年)6月にはプロボクシング団体日本IBFと業務提携開始。1987年(昭和62年)、不倫騒動で倍賞と離婚。そしてアントン・ハイセルの負債、クーデターで最悪の状況の中、マサ斎藤と観客なしのノーピープルマッチを敢行。

1988年(昭和63年)8月8日の藤波とのIWGP戦は、「猪木が負ければ引退か?」という憶測の中、IWGP挑戦者決定リーグ戦を何とか勝ち抜いてのものであった。猪木は「負けたら引退する」と宣言し、引退試合の実況を約束していた古舘伊知郎がテレビ朝日の演出により急遽この試合を実況するという設定の中、試合は60分時間切れの引き分け。これが猪木最後のIWGP挑戦となった。

1994年(平成6年)5月1日、福岡ドームでグレート・ムタと対戦し、フォール勝ちを収める。この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まった(なお「ファイナルカウントダウン」と銘打ったが、カウントがダウンせずに「1・2・3」とアップしている)。

1995年(平成7年)4月、平和のための平壌国際体育・文化祝典で猪木は当初、前年46歳の誕生日数か月前にWBA・IBF世界ヘビー級王座を獲得したジョージ・フォアマンとの対戦を希望したが、フォアマンは「とんでもない。北朝鮮になど行かない。俺は第一に愛国者、第二にボクサーだ。わが国が北朝鮮と外交関係を持っていない以上、俺がそこに行くなんてありえない」と拒否。1974年キンシャサの奇跡で最初に世界王座に君臨していたフォアマンをKOして世界王座奪取し、1976年猪木と対戦したアリが来賓として参加、猪木自身はシングルマッチ 20分1本勝負リック・フレアーに完勝。12月30日、大阪城ホールにて自主興行「INOKI FESTIVAL」を開催。

1996年(平成8年)11月3日には、以前自身が平壌での対戦を熱望したフォアマンが来日し、東京ベイNKホールで行われたWBU世界ヘビー級王座戦で判定勝ち。猪木は二宮清純と共にTBSテレビの解説を務めた。

1998年(平成10年)、沖縄県豊見城村(現・豊見城市)内の平仲信明のジムで現役生活最後のキャンプ、3月22日愛知県体育館で角田信朗と公開スパー、4月4日東京ドームにおける引退記念イベント「ファイナルイノキトーナメント」で行われた引退試合で、小川直也らと対戦し勝ち上がってきたドン・フライと対戦、グラウンド・コブラツイストで勝利し引退した。引退の際には「この道を行けばどうなるものか」で始まる「道」の詩を諳んじるスピーチを行った。この「道」のセリフは、後に盛んに春一番らがものまねの対象にしている。

引退後はUFO、PRIDE、INOKI BOM-BA-YEなど、多くの団体やイベントに盛り上げ役として登場したり、猪木完全プロデュースによる「ジャングルファイト(MMA/VT)」をブラジルで開催するなどしている。

2002年(平成14年)8月28日に行われた「Dynamite!」では、上空4,000メートル(夜間規制があったため発表は3,000メートル)からのスカイダイビングに挑戦。国立霞ヶ丘競技場陸上競技場への着地に成功したが、その後「PRIDE」と絶縁。

2003年(平成15年)12月31日には日本テレビ協賛で「イノキボンバイエ」を開催したが大失敗に終わり、格闘技プロデュースからは退いた。

2005年(平成17年)11月14日に自身の持つ新日本プロレスの株式(全株式の51.5%相当)を株式会社ユークスに売却し、事実上新日本プロレスの経営から身を引いた。以降は自身が提唱したバングラデシュ興行が中止になる等、同団体への影響力は相当減少する事となる。

2006年(平成18年)4月、アメリカの新興総合格闘技団体IFLの世界大使に就任。IFL参戦のため、同年9月に自身が監督を務める東京サーベルズを結成。同時に、自ら企画した格闘技イベント「INOKI GENOME 〜格闘技世界一決定戦〜」の開催延期を発表するなど試行錯誤を繰り返した。

2007年(平成19年)3月、自身が社長(後に会長)を務める新団体「イノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)」を発足、6月に両国国技館にて旗揚げ戦を行った。娘婿であるサイモン・ケリー猪木も新日本プロレス社長を辞職、IGFへ合流した。

2007年(平成19年)7月11日、親交のあるTRIPLE-Pと“TRIPLE-P vs. アントニオ猪木”を組み、アントニオ猪木の名言「道」を曲にして発売した。道のCDジャケットの裏側はアントニオ猪木の手書きの「道」が書かれている。プロモーションビデオにも出演しDJプレイしたりサンプラーを叩いたりする。

2007年(平成19年)12月20日、有明コロシアムで行われた小川直也対安田忠夫戦の試合終了後、レフェリーの制止を無視して暴れまわる小川を止めるため乱入し、裸絞めで小川を失神させた。

2010年(平成22年)2月1日、WWEは猪木のWWE殿堂(WWE ホール・オブ・フェイム)顕彰を発表した。WWE殿堂入りを果たした日本人は猪木が初めてである。理由は、世界のプロレス界発展に貢献したことを評価しての選出であった。インダクター(プレゼンター)はスタン・ハンセン。

猪木のWWE殿堂表彰セレモニーは3月27日、アリゾナ州フェニックスにて行われた。猪木は翌日にアリゾナ州グレンデールのユニバーシティ・オブ・フェニックス・スタジアムで開催された第26回レッスルマニアにも登場し、観衆からの祝福を受けた。

2010年(平成22年)12月、「INOKI BOM-BA-YE」を復活させると共に、「Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜」のプロデューサーとして大晦日興行に復帰する。

2011年(平成23年)12月31日、「元気ですか!! 大晦日!! 2011」を開催。

2012年(平成24年)7月10日、中国・上海で新団体「上海愛武」を旗揚げ。

2012年(平成24年)11月20日、キューバ友好勲章を授与される。

2013年2月20日、古希を祝うパーティーが東京都港区のホテルオークラ東京で催され、坂口征二、小川直也、藤波辰爾、藤原喜明、木村健悟、佐山聡、ジョージ高野、前田日明、北沢幹之、蝶野正洋、棚橋弘至、橋本大地、スタン・ハンセンらかつての愛弟子・ライバルや、各界から千葉真一・谷隼人、デヴィ・スカルノ、船越英一郎、九重親方、南部虎弾、野村克也&野村沙知代夫妻など、660人が祝福に駆けつけた。

2017年5月25日、自身がプロデュースする新イベント「ISM」の旗揚げを発表。「ISM」の収益金については、自身の師匠の一人であるゴッチの墓を日本国内に建設するための費用とする。一方でIGFに対しては、既に運営から手を引いていることと「会社を整理する方向で考えている」との方針を明かした。これに対しIGF側は、猪木が役員は退いているものの依然同社の大株主の一人であるとして、団体存続を目指す方針を訴えている。同月にはIGF側が猪木の妻に対する不当利得返還請求の訴訟を起こすなど、一部の問題は法廷に持ち込まれていたが、最終的に2018年3月に猪木とIGFとの間で和解が成立し、猪木は所有するIGFの全株式を第三者に売却してIGFとの関係を断った。

2017年10月21日、両国国技館での『INOKI ISM.2』において自身の生前葬を行う。

2019年2月19日、『ジャイアント馬場没後20年追善興行』に来場し試合前にあいさつ。ジャイアント馬場関連イベントに登場するのは初。リングでの絡みを含めれば1979年の「夢のオールスター戦」以来となった。

2019年4月26日、ドラディションの『NEVER ENDING DREAM TOUR in TOKYO』後楽園ホールに参加し藤波と坂口とトークバトルを行った。猪木は登場の際に握手を求めた藤波に闘魂ビンタをお見舞いし観客を沸かせた。

1989年(平成元年)、「スポーツを通じて国際平和」を合言葉にスポーツ平和党を結成。第15回参議院議員通常選挙に比例区から99万3989票を集めて初当選し、参議院議員となる(キャッチコピーは「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」)。史上初のレスラー出身の国会議員となった。

なお、当時参議院比例区は政党名の投票であったのに対し、自身の知名度の高さから猪木の個人名を書いた無効票が大量に出た(当時の参議院比例代表選挙は厳正拘束名簿式)。政治活動を続けながらもプロレス界からは引退せず、政治とプロレスの「二足のわらじ」を履いて活動した。当時は参議院の通称使用が認められていなかったため、議員活動は本名の「猪木寛至」名義で行った。

1989年(平成元年)10月14日、福島県会津若松市の体育館で講演中に暴漢に刃物で襲われ、左の頸部などを負傷。会場が一時騒然となる中、傷口をタオルで押さえたまま講演を最後まで行い、終了後に東京の病院に入院した。この時の猪木はマスコミのインタビューで「アトラクションにしては痛てーな」とコメントしていた。後日、警察やマスコミなどが猪木に対し、何故、警戒しなかったのかと尋ねたところ、猪木は「過去に講演会やトークショー、様々なイベントで、ファンの人が突然、壇上に上がって握手やサインを求めてきたり、プレゼントを差し出してきたり、弟子入りや新日本プロレスへの入団をお願いしてきた事が何度かあり、今回も近づいてきた男性が暴漢ではなく自分のファンだと勘違いして何も警戒していなかった」と答えた。10月25日、統一会派を組んだ民社党の配慮により質問に立った。

1990年(平成2年)8月2日、当時サッダーム・フセイン政権下のイラクが突如クウェートに侵攻(湾岸危機)。イラクは日本を含む国際連合からの非難や制裁措置を受け、当時クウェートにいた日本人41人などを事実上の人質としてイラクに連行・国外移動禁止処分にする。

政府間の人質解放交渉は難航したが、猪木が12月1日にイラクで「平和の祭典」を行うことを発表。外務省はこれに難色を示したが、猪木は個人で費用を負担してトルコ航空機をチャーター、関係者や人質被害者41人の家族46人と共にトルコ経由でバグダードへ入った。このイベントの開催後に、在留日本人と全人質が解放された。

これを追い風に、その後1992年(平成4年)7月の第16回参議院議員通常選挙でも1議席を獲得(参議院会派で2議席目)した。

1994年(平成6年)、公設第1秘書(当時)であった佐藤久美子 およびスポーツ平和党前幹事長の新間寿らが、「政治資金規正法違反」、「収賄」、「右翼(日本皇民党)との癒着」、「佐川急便会長の依頼で東京都知事降板」、「税金未納」、「女性問題」などの問題を告発するいわゆる「猪木スキャンダル」をぶち上げた。

このうちのいくつか(少女買春など)は完全な捏造であり、特に政治資金規正法違反については東京地検捜査中に時効となり、処分はまぬがれた。税金未納問題については、世田谷区役所および国税から差し押さえ処分を受けた(官報に記載)。

これと前後して、もう1人のスポーツ平和党所属議員江本孟紀と党の運営を巡って対立。特に金銭疑惑にまつわる江本の猪木に対する不信により大きな亀裂が生じた。また、釈明記者会見の際、激高した猪木が机を叩き記者を怒鳴るなどの高圧的な態度をとったことも強い批判を浴びた。

一連の「猪木スキャンダル」もあり、1995年(平成7年)の参議院選挙で落選。なお、同じ参院選挙では高田延彦が副党首を務めた「さわやか新党」も立候補したが、「スポーツ平和党」同様に議席を獲得出来なかった。選挙後、江本は離党した。

なお、スポーツ平和党は2004年(平成16年)4月を以て解散した。

2013年6月5日、日本維新の会より、第23回参議院議員通常選挙比例代表での出馬を表明。日本維新の会共同代表の石原慎太郎立ち会いの下で開催した記者会見で『猪木の元気を日本のために活かしたい』と国政再挑戦への意欲を漲らせた。

同年7月21日の投開票において、獲得票数35万6606票(同党内最多得票)で当選し、18年ぶりの国政復帰を果たした。

2013年7月29日より議員氏名として「アントニオ 猪木」を使用することが、参議院で許可された。

2013年7月25日から北朝鮮の朝鮮戦争休戦60年の記念行事に出席。平壌で金永南最高人民会議常任委員長と会談した。参議院規則では議員が登院できない場合には議院の許可を得ることとされているが、参議院選挙の比例区で当選した後ではあったものの前任の参議院議員の任期満了が7月28日であり未だ民間人なので問題はないと説明されていた。

その後、北朝鮮のスポーツ強化委員長であった張成沢の打診を受け、10月下旬に再度訪朝の意向を示した。10月31日の参議院議院運営委員会理事会は「必要性がない」として渡航不許可を決定。しかし、不許可は不合理と反発して11月に入って実際に訪朝が実行されたため、参議院議院運営委員会理事会は処分を含めた対応を検討。11月13日の参議院本会議で懲罰動議が可決され懲罰委員会に付託して処分の是非や内容を審査することとなった。懲罰委員会からは弁明の機会が与えられていたもののこれを拒否し、11月20日の懲罰委員会理事懇談会の協議で登院停止30日の処分内容が決定され、11月21日の懲罰委員会でこれを全会一致で可決、11月22日の参議院本会議で登院停止30日とすることに維新を除く賛成多数で可決された。また、維新から党としての処分として、党員資格と党国会議員団副幹事長職のそれぞれ50日間停止を言い渡された。

さらに猪木を招待した張成沢が12月8日に粛清され、公職追放された。そして12月12日に死刑判決を受け、即日処刑された。猪木は張の処刑について聞かれ、「よく分からない。北朝鮮も神経質になっているときなので余計なことを話さず、言葉を控えたい」と答えた。しかし、訪朝時に打診した国会議員団訪問の受け入れは、北朝鮮側から「約束はまったく変わらない」と返答があったという。猪木は、理事長を務めるNPO法人「スポーツ平和交流協会」が平壌に設立した事務所を通じた交流活動についても「変化しない」と述べた。

2014年1月13日 - 16日にかけ、北朝鮮を訪問した。猪木の訪朝はこれで27回目となる。

2014年4月には同じ維新の会の松浪健太、石関貴史、阪口直人(衆)、清水貴之(参)の4議員とともにゴールデンウィーク中の再度の訪朝を計画した。維新の会は党として許可した ものの、政府として北朝鮮に対して渡航自粛勧告を通達するなど制裁発動中であることを理由に自民党からの自粛要請に逢い、渡航に必要な衆参両院の許可が得られる見込みがなくなったとして最終的に断念した。同年6月、第186回国会の閉会を待って再度の訪朝計画を発表(国会会期中以外の海外渡航は議員が所属する各院の許可が不要であるため)、これに対して菅義偉官房長官は7月7日の定例記者会見で、政府が北朝鮮への経済制裁を一部解除したことを踏まえ「渡航で特段の措置を取ることはない」として反対しない方針を表明、7月9日、猪木と上記の4議員にみんなの党の山田太郎参議院議員を加えた6名の議員団を組織して北朝鮮へ出発、平壌市内の各施設や開城市などを訪問したほか、朝・日友好親善協会顧問である朝鮮労働党の姜錫柱書記や労働党国際部副部長を務める朝日友好親善協会の朴根光会長と会談を行い、拉致問題解決に向けた取り組みや人的交流を確認し合った。

2014年8月1日の日本維新の会分党に際しては石原慎太郎共同代表を支持するグループ「次世代の党」に参加。党国民運動局長および参議院政策調査会長に就任した。しかし、2014年12月12日に離党届を提出した。

2015年1月8日に政党「日本を元気にする会」の設立と同時に参加、同党最高顧問に就任。

2015年1月21日にノーベル平和賞受賞者のマララ・ユスフザイとイギリスで面会し同氏の日本訪問を要請、同氏はこれを受諾した。2015年9月17日の安全保障関連法案の採決では所属する日本を元気にする会が直前で賛成に転じたため、自らも賛成票を投じたが、数日前に反対派団体に「慎重な審議を要求したい」という書簡を出していたために、物議をかもした。

2016年6月2日、日本を元気にする会代表の松田公太の辞任と共に、猪木の代表就任が報じられた。2016年7月27日に会派「日本を元気にする会・無所属会」は解散し、猪木は会派「無所属クラブ」に異動した。2019年2月25日に国民民主党の院内会派である「国民民主党・新緑風会」に入会した。

2019年6月5日、第25回参議院議員通常選挙に出馬せず引退する意向を表明した。不出馬の理由は高齢であることや選挙に向けた野党間協定に対する思い等があることを述べた。

1982年8月に糖尿病が判明し、血糖値は通常の5倍という検査結果で体がだるく、思うように動かせなくなっていたという。

2020年2月28日、プロレスリング・マスターズの全試合後に『燃える闘魂60周年メモリアルセレモニー』が行われ挨拶で「本当は去年2か月半入院して、もうどうしようかなと思っている時にこれに出会い、新たな闘魂に火が付きました」と話し、その後は待ってましたと長州が武藤を羽交い絞めにしたところに闘魂ビンタをお見舞い、続いて蝶野にも見舞い、観客の長州コールに武藤、蝶野が抑えつけお見舞いすると前田コールも起こり「前田もやるのか。変わったな」と猪木は笑顔でこの日4度目の闘魂注入を見舞った。これが猪木の最後のリングとなったが、もう歩くのも大変そうだったと後に武藤は語っていた。

2020年7月26日、自身のツイッターで、難病の「心アミロイドーシス」という病におかされていることを告白。

2021年4月16日、ドラディションが後楽園ホールで興行を打ち、その場で藤波が来年の自身のデビュー50周年記念大会に、同年1月から腰の治療でも入院していた猪木を招く強い意欲を示していた。

2021年11月27日放送のNHK BSプレミアム『燃える闘魂 ラストスタンド 〜アントニオ猪木 病床からのメッセージ〜』にて、正式な病名は心アミロイドーシスではなく「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」だと公表した。

2022年3月1日には50周年を迎える新日本プロレスが日本武道館で「CSテレ朝チャンネル Presents 旗揚げ記念日」を開催、2月20日札幌大会ではオカダ・カズチカが猪木の新日本登場を熱望しており、オカダはこの日、猪木が作った新日本プロレスへの想いを語り藤波が「今、猪木さんの名前が出ましたけど、猪木さんには次回必ず来てもらいましょう。猪木さんにエールを贈るために、例のやつを元気よく行きましょう!」と「1!2!3!ダー!」で大会を締めた。

2022年5月22日、自由に動かなくなった体で、自身がデザインした青森県十和田市蔦温泉に建てた「アントニオ猪木家の墓」の建立式を行い、19年に亡くなった妻の納骨などを行った。

2022年10月1日午前7時40分、全身性トランスサイレチンアミロイドーシスによる心不全のため東京都港区の自宅で死去した。79歳没。

猪木は闘病と並行しながらメディアなどへの出演も続け、同年8月28日の日本テレビ『24時間テレビ45』に出演し、車椅子に乗りながら両国国技館に姿を現し、かつて日本テレビのプロレス実況担当アナウンサーでもあった徳光和夫と質疑応答を行った。これが生前最後のテレビへの出演となった。同月26日には専属マネジメント会社となる「株式会社猪木元気工場」が設立され、同社の顧問となっている。その後も、同年12月1日の藤波辰爾の50周年記念大会など出演予定のスケジュールも入れていたが、9月後半に入り急速に体調が悪化し、一時危篤状態に陥るなど自宅で24時間の看護体制で療養を続けていた。猪木の自宅の近所に住んでいた猪木の実弟に当たる啓介は、亡くなる前日の9月30日夜に猪木の自室に呼ばれて40分程度二人きりで過ごしたという。その後10月1日早朝、啓介と自宅で看護を続けてきたスタッフにより看取られ、息を引き取った。

訃報に古巣の新日本プロレスをはじめ、関係者、海外機関、各界の著名人などから多く寄せられた。

訃報を聞いて弔問に訪れた人物には古舘伊知郎、舟橋慶一、坂口征二、木戸修、ケンドー・カシン、佐々木北斗夫妻、藤田、小川、高田、長州、藤波は家族などがおり、古館は自身の弔問の様子などをYouTubeで語った。鈴木みのるは翌2日のワイルドワンプロレスリングの試合後、「1、2、3、ダーッ!」をする素振りに観客も応じ、鈴木なりに追悼した。

猪木死去当日、新日本プロレスはイギリス・ロンドン大会、藤波が試合を行ったプロレスリング・ヒートアップ・川崎市とどろきアリーナ大会、女子プロレスのスターダム・武蔵野の森総合スポーツプラザ大会でそれぞれ追悼の10カウントゴングが行われた。全日本プロレスは、翌2日に追悼セレモニーを行いプロレスリング・ノアは7日の後楽園ホール大会で追悼10カウントセレモニーを行った。新日本プロレスは、猪木の死後国内初大会となる10日の両国国技館大会でも10カウントゴングセレモニーを行い来年1月4日に東京ドームで行われる「WRESTLE KINGDOM 17」を追悼大会とし大会のサブタイトルを「闘魂よ、永遠に」とすることを発表、当日はアントニオ猪木メモリアル6人タッグマッチを行い6選手共に赤い闘魂タオルで入場し藤波は猪木がしていたのと同様に深紅のガウンで入場し試合を行い試合後は「1、2、3、ダーッ!」を行った。日本プロレス殿堂会は、10日の後楽園ホール大会で大会前に藤波と長州のトークショーでしのび、試合後に追悼セレモニーを行った。西口プロレスも25日の新宿FACE大会で追悼した。ドラディションは、10月22日の福岡大会、30日の大阪大会で10カウントゴング、猪木の音声を使った「1、2、3、ダーッ!」で興行を締め、12月1日の代々木大会では藤波が猪木と同じデザインの深紅のガウンで「炎のファイター」をテーマ曲に入場し、試合後のセレモニーではこの日も10カウントゴングを鳴らし、「師匠である猪木さん。本来ならば、猪木さんもこのリングに立ってくれる約束でした。それが叶わぬこととなりましたが、我々レスラーはこれからも猪木さんの遺志を継いで邁進していきます。どうぞ、これからもプロレスを宜しくお願いします。」と語り「1、2、3、ダーッ!」で大会を締めた。ストロングスタイルプロレスでは、11月23日の大阪大会で佐山が30カウントゴング、12月8日の後楽園ホール大会では30カウントゴングの最後の一打で「炎のファイター」を流し、「天まで届け」と追悼した。11月17日の新日本プロレス50周年記念ライブイベント「シンニチイズム ミュージックフェス」でも「炎のファイター」で追悼、生前の猪木の映像と共に「1!2!3!ダーッ!」を行った。横浜DeNAベイスターズは当日の試合前、炎のファイター 〜INOKI BOM-BA-YE〜を流した。テレビ朝日は当日、「サタデーステーション2時間SP」の番組内容を変更し1時間50分「アントニオ猪木さん死去『燃える闘魂』を緊急追悼」を放送し、7日にはBS朝日で放送の「ワールドプロレスリングリターンズ」でも追悼し、9日には「ワールドプロレスリング」で追悼特集を放送し、CSテレ朝チャンネル2では、14日から3日連続で『ありがとう! 俺たちの“燃える闘魂”ワールドプロレスリング アントニオ猪木追悼SP』を放送し、BS朝日は11月11日の金曜よる8時に『アントニオ猪木 追悼 レジェンドが語る“燃える闘魂”完全版』を放送した。NHKはラジオ第一で23日『闘魂フォーエバーアントニオ猪木さんをしのんで』と題して生放送を行い、12月29日には2021年11月27日放送の『燃える闘魂 ラストスタンド 〜アントニオ猪木 病床からのメッセージ〜』に未公開映像を加えて『燃える闘魂 ラストスタンド〜アントニオ猪木 最後のメッセージ〜』として放送を行った。12月28日には、両国国技館にて追悼イベント「INOKI BOM-BA-YE×巌流島 in 両国(猪木祭り)」が開催され、その閉会式で小川直也が継続的にイベントを行うことを宣言、締めの「1、2、3、ダー!!」は藤原喜明が行なった。12月31日、さいたまスーパーアリーナで開催されたRIZIN.40で追悼セレモニーが行われ試合終了後には締めの「1、2、3、ダー!!」を高田延彦が行なった。

また猪木の訃報はロイター通信など、海外メディアでも速報などで報道された。

生前に開設していた自身のYouTubeチャンネルが死去当日夕方に更新され、9月21日に撮影された『アントニオ猪木「最期の言葉」』と題した動画が投稿され、ベッドに横たわりながらカメラに語る猪木の生前最後の姿が公開された。10月6日にも、同日に撮影された約12分に及ぶ動画が公開された。10月17日、通夜、告別式の動画が公開された。

猪木最後のサインをもらったのは小川だが、猪木の書く力が弱っていたため約1年半のリハビリの末に書かれたものである。

藤波は「生きる」という直筆の詩を、生前二か月前に渡され、受け取る手が震えたといい、7月30日には直筆のサイン色紙も貰っている。

猪木没後の10月4日に新日本プロレスから「アントニオ猪木が9月1日付で弊社(新日本プロレスリング株式会社)の終身名誉会長に就任した」ことが発表された。新日本プロレスによれば10月10日に開催する両国国技館での興行の際に猪木終身名誉会長の就任の件を発表する予定であったという。

猪木の親族のうち兄や長女が海外に居住しているため、葬儀まで猪木の遺体は同月2日に自宅から都内の安置所に移されて安置されており、弟の啓介を喪主とし近親者による家族葬が同月14日に桐ヶ谷斎場で行われた。戒名は「闘魂の道、覚悟を決めて突き進む。魂を機らかす」という意味の「闘覚院機魂寛道居士(とうがくいんきこんかんどうこじ)」、猪木の代名詞であった「闘魂」と本名の「寛至」、引退試合で披露した詩「道」の字がそれぞれ入れられた。家族葬としていたが、13日の通夜には333人が参列した。翌14日の告別式では358人が参列し、出棺の際には田中ケロがコールを行い『炎のファイター』が流れる中、赤い闘魂タオルを首に巻いた坂口征二、藤波辰爾、棚橋弘至、オカダ・カズチカ、中邑真輔、蝶野正洋、武藤敬司、高田延彦、藤田和之、小川直也、船木誠勝、柴田勝頼らが猪木の棺を担いだ。当初は6人で棺を担ぐ予定であったが、猪木の棺はかなり重さがあったため、坂口の音頭で10人以上が担いだという。その後、猪木の遺体は同斎場で荼毘に付された。

遺骨は兄弟や娘も納骨されている神奈川県横浜市鶴見区の總持寺に納骨され、青森県十和田市蔦温泉の「アントニオ猪木家の墓」にも分骨される予定である。

11月24日、四十九日法要が猪木家の菩提寺である總持寺で執り行われた。

プロレス大賞は栄誉賞を創設し、MVPを6度、特別功労賞を4度受賞した猪木の功績をたたえ贈ることとした。

2023年1月16日、生前のプロレス界での活躍や国会議員として国や公共に対する功績が評価され、日本国政府から猪木に対し死没日付をもって従四位に叙され、旭日中綬章が追贈されたことが猪木元気工場より発表された。日本のプロレスラーとしては初めての叙勲となる。叙位・叙勲の伝達は偶然にも、馬場の誕生日であり「1、2、3、ダー!!」にちなむ1月23日であった。

2023年2月21日に引退試合をした武藤は、その日のために猪木に映像などの依頼をしていた。猪木は「80歳最初の仕事は武藤の仕事か」と生前に語っていたことを近しい人が言っていたという。

2023年3月7日、猪木の正式な本葬となる「アントニオ猪木お別れ会」が両国国技館において執り行われ、生前の猪木と関わりがあった多くの関係者・ファンら7000人が参列、古館が弔辞を読み、愛弟子の藤波辰爾が亡き師に永訣を告げた。

同年6月8日には日本記念日協会より猪木の命日である10月1日を「闘魂アントニオ猪木の日」として認定されたことが発表された。記念日の目的について日本記念日協会は「『闘魂』を体現したアントニオ猪木氏を偲び、その功績・人物像・魅力などを後世に伝え、広めていくことが目的」とし、10月1日を記念日とした理由については猪木の命日であることと「闘(10)魂Antonio I(1)noki」の語呂合わせによるものとしている。

同年8月3日から15日までの日程で京王百貨店新宿店、11月15日から26日まで阪神百貨店梅田本店においてアントニオ猪木展が開催された。

同年9月12日、總持寺で一周忌法要が営まれ、その最後に小川の音頭で「1、2、3、ダァー!」を唱和した。法要後には「燃える闘魂 アントニオ猪木之像」除幕式も行われた。

同年10月6日から、アントニオ猪木に迫ったドキュメンタリー映画「アントニオ猪木をさがして」が全国公開された。

プロレス

主な戦績

1960年(昭和35年)9月30日、デビュー戦で大木金太郎(金一=キム・イル)に逆腕固めで敗退。

1961年(昭和36年)5月25日、馬場正平と初対決、羽交い締めで敗退。以後1963年10月まで16戦全敗。

1964年(昭和39年)3月12日、海外武者修行の初戦において、ハワイにてプリンス・イヤウケアと対戦(猪木のセコンドに付いていた豊登の乱入で反則負け)。以降、2年後の東京プロレス旗揚げに伴う帰国まで、ディック・ザ・ブルーザー、フレッド・ブラッシー、ザ・デストロイヤー、ジン・キニスキー、フリッツ・フォン・エリック、カウボーイ・ボブ・エリス、マーク・ルーイン、キラー・カール・コックスなどと対戦。

1966年(昭和41年)

    10月12日、東京プロレスの旗揚げ戦においてジョニー・バレンタインに勝利。

    11月19日、ジョニー・バレンタインを破り、USヘビー級王座を獲得。初のシングル王座戴冠を果たす。以降、バレンタイン、スタン・スタージャック、エディ・グラハムらを相手に防衛戦を行ったが、東京プロレスの崩壊に伴い王座は消滅。

    1967年(昭和42年)

      5月5日、日本プロレスへの復帰戦で吉村道明と組み、マイク・デビアス&ダン・ミラーに勝利。

      5月26日、吉村道明と組んでアイク・アーキンス&ワルドー・フォン・エリックを破り、アジアタッグ王座を獲得。

      1969年(昭和44年)

        5月16日、クリス・マルコフを破り、ワールドリーグ戦初優勝。

        12月2日、NWA世界ヘビー級王者のドリー・ファンク・ジュニアに挑戦、60分時間切れ引き分け。

        1970年(昭和45年)

          7月28日、テリー・ファンクと60分3本勝負で対戦、2-1で勝利。

          11月5日、星野勘太郎と組んでニック・ボックウィンクル&ジョニー・クインを破り、NWAタッグ・リーグ戦に優勝。

          1971年(昭和46年)

            3月6日、ミル・マスカラスと60分3本勝負で対戦、2-1で勝利。

            3月26日、ジョン・トロスを破り、UNヘビー級王座を獲得。以降、フレッド・ブラッシー、ジャック・ブリスコ、フリッツ・フォン・エリック、ディック・マードックを相手に防衛戦を行ったが、日本プロレスからの除名に伴い同年12月13日にタイトルを返上。

            12月7日、馬場とのBI砲でザ・ファンクスを挑戦者チームにインターナショナル・タッグ王座の防衛戦を行うが敗退、王座陥落。これが日本プロレスでの最後の試合となる。

            12月13日、「会社乗っ取り」を理由に日本プロレスから除名される。

            1972年(昭和47年)

              1月26日、京王プラザホテルで記者会見を開き、新日本プロレスの設立を発表。

              3月6日、新日本プロレスの旗揚げ戦においてカール・ゴッチに敗退。

              10月4日、カール・ゴッチを破り、世界ヘビー級王座を獲得。

              10月9日、レッド・ピンパネールを破り、世界ヘビー級王座を防衛。

              1973年(昭和48年)

                10月13日、坂口征二と組み、ルー・テーズ&カール・ゴッチと90分3本勝負で対戦、2-1で勝利。

                12月10日、ジョニー・パワーズを破り、NWF世界ヘビー級王座獲得。

                1974年(昭和49年)

                  3月19日、NWF世界ヘビー級選手権試合でストロング小林と対戦、大物日本人同士の対決が話題となった。29分30秒、ジャーマン・スープレックス・ホールドで勝利。

                  3月21日、NWFの本拠地オハイオ州クリーブランドにおいて、アーニー・ラッドを挑戦者にNWF世界ヘビー級王座を防衛。

                  4月26日、坂口征二と初対戦、30分1本勝負で時間切れ引き分け。

                  5月8日、キラー・カール・クラップを破り、新日本プロレス版ワールドリーグ戦初優勝。

                  6月26日、タイガー・ジェット・シンと対戦、アームブリーカーで右腕を折りTKO勝ち。

                  8月16日、坂口征二と組み、クルト・フォン・ヘス&カール・フォン・ショッツから北米タッグ王座を奪取。

                  10月10日、NWF世界ヘビー級選手権試合で大木金太郎と対戦、13分13秒でバックドロップからフォール勝ち。デビュー戦の敗退から初の、そして唯一の勝利。

                  11月13日、ザ・シークとランバージャック・デスマッチで対戦、シークの試合放棄で勝利。

                  1975年(昭和50年)

                    3月27日、韓国のソウルにて大木金太郎のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦、両者リングアウトで大木が防衛。

                    12月11日、NWF世界ヘビー級選手権試合でビル・ロビンソンと対戦、60分時間切れ引き分け。

                    1976年(昭和51年)

                      2月6日、ミュンヘンオリンピック柔道無差別級金メダリストのウィレム・ルスカと初の異種格闘技戦。バックドロップ3連発で勝利。

                      9月10日、スーパースター・ビリー・グラハムとシングルマッチで対戦、卍固めで勝利。

                      10月7日、アンドレ・ザ・ジャイアントと格闘技世界一決定戦で対戦、レフェリーストップで勝利。

                      10月10日、韓国のソウルにてパク・ソンを破り、NWFヘビー級王座を防衛。

                      12月2日、元WWWF世界ヘビー級王者のイワン・コロフを破り、NWFヘビー級王座を防衛。

                      12月12日、パキスタンのカラチにてアクラム・ペールワンと対戦、ドクターストップで勝利。

                      1977年(昭和52年)

                        1月7日、スタン・ハンセンと初対戦、反則勝ち。

                        8月2日、空手のWKA世界スーパーヘビー級王者ザ・モンスターマン(エベレット・エディ)と異種格闘技戦で対戦、KO勝ち。

                        10月25日、ヘビー級プロボクサーのチャック・ウェプナーと異種格闘技戦で対戦、逆エビ固めで勝利。

                        12月1日、パット・パターソンを破り、NWFヘビー級王座を防衛。

                        12月8日、グレート・アントニオと対戦、KO勝ち。

                        1978年(昭和53年)

                          2月8日、上田馬之助と釘板デスマッチで対戦、KO勝ち。

                          5月30日、アンドレ・ザ・ジャイアントを破り、MSGシリーズ初優勝。

                          7月24日、元WWWF世界ヘビー級王者のペドロ・モラレスを破り、NWFヘビー級王座を防衛。

                          11月25日、ドイツのシュトゥットガルトにてローラン・ボックと対戦、判定負け。

                          12月16日、ヒロ・マツダを破り、プレ日本選手権優勝。

                          12月18日、WWF世界マーシャルアーツ・ヘビー級王者に認定され、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてテキサス・レッドを相手に王座を防衛。

                          1979年(昭和54年)

                            1月12日、メキシコシティオリンピックレスリング元アメリカ代表のボブ・ループに反則勝ち、NWFヘビー級王座を防衛。

                            5月10日、元NWA世界ヘビー級王者のジャック・ブリスコを破り、NWFヘビー級王座を防衛。

                            8月26日、プロレス夢のオールスター戦でジャイアント馬場と組み、アブドーラ・ザ・ブッチャー&タイガー・ジェット・シンと対戦、シンを逆さ押さえ込みに仕留めて勝利。

                            11月1日、元NWA世界ヘビー級王者のダスティ・ローデスに反則勝ち、NWFヘビー級王座を防衛。

                            11月30日、ボブ・バックランドに勝利。日本人初、WWFヘビー級王座獲得(王座はのちに返上)。

                            12月17日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてハッサン・アラブを破り、NWFヘビー級王座を防衛。

                            1980年(昭和55年)

                              2月27日、元極真会館のウィリー・ウィリアムスと対戦、ドクターストップの無効試合となった。

                              4月13日、メキシコシティにてタイガー・ジェット・シンを破り、UWA世界ヘビー級王座を獲得。

                              8月9日、ニューヨークのシェイ・スタジアムにてラリー・シャープを破り、NWFヘビー級王座を防衛。

                              9月25日、NWFヘビー級選手権試合でスタン・ハンセンと対戦、逆ラリアットでフォール勝ち。

                              9月30日、ミュンヘンオリンピック重量挙げ元アメリカ代表のケン・パテラを破り、NWFヘビー級王座を防衛。

                              12月29日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてボビー・ダンカンを破り、NWFヘビー級王座を防衛。

                              1981年(昭和56年)

                                4月23日、NWFヘビー級王座決定戦でスタン・ハンセンに勝利。同時に、IWGP構想に基づき同王座を封印。

                                8月6日、マスクド・スーパースターと賞金3万ドル&覆面剥ぎマッチで対戦、ジャーマン・スープレックス・ホールドで勝利。

                                10月4日、ラッシャー木村と初対戦、反則負け。

                                1982年(昭和57年)

                                  1月1日、新日本プロレス初の元旦興行でローラン・ボックと対戦、反則勝ち。

                                  1月28日、アブドーラ・ザ・ブッチャーとシングルマッチで対戦、反則勝ち。

                                  2月11日、ワフー・マクダニエルとシングルマッチで対戦、フォール勝ち。

                                  4月21日、難民救済チャリティイベントでジェシー・ベンチュラと対戦、フォール勝ち。

                                  11月4日、国際軍団(ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇)と1対3変則マッチで対戦、寺西と浜口からフォールを奪うも木村にリングアウト負け。

                                  1983年(昭和58年)

                                    1月1日、元旦興行でブラックジャック・マリガンと対戦、フォール勝ち。

                                    5月27日、第1回IWGP決勝リーグ戦で前田明と唯一のシングル対戦、フォール勝ち。

                                    6月2日、第1回IWGP決勝戦でハルク・ホーガンと対戦、アックスボンバーによりリング外に転落し頭を打ちKO負け。

                                    11月3日、維新軍との4対4綱引きマッチで谷津嘉章と対戦、フォール勝ち。

                                    1984年(昭和59年)

                                      1月1日、元旦興行でダスティ・ローデスと対戦、両者リングアウト。

                                      6月14日、第2回IWGP決勝戦で前年優勝したハルク・ホーガンに挑戦、2度の延長戦の末、長州の乱入でリングアウト勝ち。

                                      12月28日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてデビッド・シュルツと対戦、フォール勝ち。翌年に新日本プロレスとWWFとの提携が解消されたため、これが最後のMSG出場となる。

                                      1985年(昭和60年)

                                        2月6日、キングコング・バンディと1万5000ドルの賞金をかけたボディスラムマッチで対戦、ボディスラムで投げられ賞金を失うも、試合にはフォール勝ち。

                                        4月18日、ブルーザー・ブロディと初対戦、両者リングアウト。

                                        12月12日、'85IWGPタッグリーグ戦決勝戦で坂口征二と組み、藤波辰巳&木村健吾と対戦、藤波のドラゴン・スープレックスで敗退。

                                        1986年(昭和61年)

                                          2月6日、UWF代表の藤原喜明と対戦、勝利。

                                          6月17日、アンドレ・ザ・ジャイアントから世界初のギブアップ勝ちを収める。

                                          1987年(昭和62年)

                                            3月27日、大阪城ホールでの「INOKI闘魂LIVE Part2」のマサ斎藤戦に海賊男が乱入。観客が暴動を起こす。

                                            10月4日、マサ斎藤と「巌流島の戦い」を行う。2時間5分14秒の死闘の末勝利。

                                            12月27日、たけしプロレス軍団の刺客、ビッグバン・ベイダーと対戦し、2分49秒で敗れる。再三のカード変更と猪木の敗北に観客が、大阪城ホールに続き暴動を起こす。

                                            1988年(昭和63年)7月22日、長州力と対戦、フォール負け。

                                            1989年(平成元年)

                                              4月24日、「格闘衛星闘強導夢」と釘打ち、プロレス初の東京ドーム大会で柔道ミュンヘン五輪金メダリストショータ・チョチョシビリと異種格闘技戦。裏投げを食らい、左肩を脱臼し(異種格闘技戦初の)敗北。

                                              5月25日、チョチョシビリと大阪城ホールで再戦し、ギブアップ勝ち。

                                              1990年(平成2年)2月10日、坂口征二と組み、蝶野正洋&橋本真也の挑戦を受ける形で対戦、蝶野からフォール勝ち。この試合で初めて「1、2、3、ダー!」を披露。

                                              1992年(平成4年)1月4日、馳浩と対戦、卍固めで勝利。

                                              1994年(平成6年)

                                                1月4日、天龍源一郎と対戦、パワーボムで敗れる。

                                                5月1日、福岡ドームでグレート・ムタと対戦、フォール勝ち。この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まる。

                                                1995年(平成7年)4月29日、北朝鮮の平壌で行われた「平和のための平壌国際体育・文化祝典」においてリック・フレアーと対戦、フォール勝ち。

                                                1998年(平成10年)4月4日、「ファイナルイノキトーナメント」を勝ち上がったドン・フライと引退試合で対戦、グラウンド・コブラツイストで勝利。

                                                通算成績

                                                シングル戦 - 612勝41敗50分

                                                タッグ戦 - 1466勝104敗130分

                                                獲得タイトル

                                                NWA世界タッグ王座(テキサス東部版):1回(第33代)(w / デューク・ケオムカ)

                                                NWA世界タッグ王座(ミッドアメリカ版):1回(第53代)(w / ヒロ・マツダ)

                                                NWF世界ヘビー級王座 / NWFヘビー級王座:4回(第13代、15代、17代、18代)

                                                WWFヘビー級王座 : 1回 (新日本プロレスは公式に認めているが、管理権を持つWWEは現在認めていない)

                                                WWF世界マーシャルアーツヘビー級王座:2回(初代、3代)

                                                UWA世界ヘビー級王座:1回(第4代)

                                                USヘビー級王座:1回(ジョニー・バレンタインを破り獲得したタイトル)

                                                UNヘビー級王座:1回(第6代)

                                                インターナショナル・タッグ王座:4回(第9代、10代、12代、14代)(w / ジャイアント馬場)

                                                アジアタッグ王座:4回(第19代、23代、24代、25代)(w / 吉村道明×3、大木金太郎)

                                                ワールドリーグ戦優勝:1回

                                                NWAタッグ・リーグ戦優勝:2回(w / 星野勘太郎、坂口征二)

                                                世界ヘビー級王座:1回(第2代)(カール・ゴッチが所有していたタイトル。前身はオハイオで1960年代前半に活動していた「AWA」認定の世界ヘビー級王座)

                                                IWGPヘビー級旧王座:3回(初代 第2代、3代)

                                                NWA北米タッグ王座(新日本プロレス版):2回(第3代、5代)(w / 坂口征二)

                                                ワールドリーグ戦(新日本プロレス版)優勝:2回

                                                プレ日本選手権優勝:1回

                                                IWGPリーグ戦優勝:4回

                                                MSGシリーズ優勝:4回

                                                MSGタッグ・リーグ戦優勝:4回(w / ボブ・バックランド、ハルク・ホーガン×2、藤波辰巳)

                                                ジャパンカップ争奪タッグ・リーグ戦優勝:1回(w / 藤原喜明)

                                                ジャパンカップ争奪イリミネーション・リーグ戦優勝:1回(w / 長州力&星野勘太郎)

                                                WCW殿堂

                                                WWE殿堂

                                                NJPWグレーテスト・レスラーズ

                                                得意技

                                                テーマ曲

                                                「イノキボンバイエ」のフレーズを持つ入場曲『炎のファイター 〜INOKI BOM-BA-YE〜』は、元々モハメド・アリの伝記映画『アリ/ザ・グレーテスト』の挿入曲(マイケル・マッサー作曲)であったが、猪木と対戦したアリから猪木に贈られ、それをアレンジしたものである。猪木の弟子で、「猪木最後の闘魂継承者」と呼ばれる藤田和之は、同曲のオーケストレーション・バージョンを入場曲とする。また高校野球の応援などでも使用されることが多い。

                                                「ボンバイエ」はリンガラ語の「Boma ye」(ボマ・イェ)が訛ったもので、直訳は「彼を殺せ」だが、「やっちまえ」程度の意味で使われる言葉である。アリがコンゴの首都キンシャサでジョージ・フォアマンと戦った際の声援が由来とされる。

                                                1977年(昭和52年)にシングルレコード「アントニオ猪木のテーマ 炎のファイター/炎のファイター(パート2)」(演奏:マンドリル(英語版))が発売(東芝EMI IER-20307)。同年、「炎のファイター〜アントニオ猪木のテーマ」(演奏、歌 : アントニオ猪木とザ・ファイターズ)も発売された。B面には歌詞(作詞:なかにし礼)をつけた「いつも一緒に」(歌:倍賞美津子)がカップリングされていた(東芝EMI TP-10341)。歌詞をつけたのはアリ戦後に彼から曲のレコードが家に送られてきた際に、倍賞が提案したからである。

                                                2002年(平成14年)、さまざまなバージョンを収録したアルバム「21世紀ヴァージョン 炎のファイター 〜INOKI BOM-BA-YE〜」(WBSS-20123)が発売された。

                                                2006年(平成18年)、韓国のヒップホップ・グループSide-B(サイドビー)が「SB BOMBA YE」としてラップ風にカバー。2007年(平成19年)にDJ OZMAが同曲を「疾風迅雷 〜命BOM-BA-YE〜」として再カバーした。

                                                フェイス・ワンダワークスが2015年(平成27年)に発表した、GIGAエンタメロディで15年間で最も多くダウンロードされた着信メロディを集計した「着信メロディ15年間ランキング」において、「炎のファイター 〜INOKI BOM-BA-YE〜」は86位にランクインした。

                                                2022年(令和4年)4月29日にデビューした日系ブラジル人のプロボクサーである但馬ミツロが入場曲に採用しており、試合2日前に但馬は所属する3150ファイトクラブの亀田興毅会長(当時)とともに猪木の下を訪れ承諾を得ている。

                                                2023年(令和5年)には、福山雅治が「炎のファイター~Carry on the fighting sprit~」としてアレンジし、猪木を題材としたドキュメンタリー映画『アントニオ猪木をさがして』の主題歌に使用された。

                                                猪木の弟子たち

                                                猪木の最初の弟子は、日本プロレス時代に付き人を務めた藤波辰爾である。現役時代に最後の付き人を務めたのは藤田和之である。猪木最後の愛弟子は、第10代UFC世界ライトヘビー級王者であるLYOTOである。

                                                猪木を慕って来た者の中には、その後袂を分かったケースも少なくない。前田日明(猪木の関係する旧UWFへエースとして参加→崩壊)、佐山聡(旧UWF→シューティング→UFO→決裂→和解→IGF参戦)、高田延彦(「PRIDE」で共闘するも後に絶縁)、いわゆる闘魂三銃士(武藤敬司=全日本プロレスへ移籍、蝶野正洋=IGF GM→退任、橋本真也=ZERO ONE設立)などである。

                                                寛水流空手

                                                この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)出典検索: "アントニオ猪木" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年8月)

                                                寛水流空手(かんすいりゅうからて)は、1979年(昭和54年)12月1日に空手家・水谷征夫とアントニオ猪木が創設したフルコンタクト空手の団体。その名称はアントニオ猪木の本名である猪木寛至の「寛」と水谷の「水」を取って命名された。現在は正式名称を「特定非営利活動法人 世界寛水流空手道(せかいかんすいりゅうからてどう)」として東海地方を中心に活動している。

                                                『いつ何時誰の挑戦でも受ける』と表明したアントニオ猪木に対して、安藤昇の小説『東海の殺人拳』のモデルとして知られる空手家・水谷征夫が「ルールの無い命をかけた戦い」を申し入れた。その申し出を猪木は承諾し、具体的な話が進められた。なお、「ルールの無い命をかけた戦い」とはプロレスと空手のいかなる技も自由とし、急所攻撃さえ禁止しない、勝負は生死をもって決するというものである。水谷が鎌、サイ、トンファーなど琉球古武術の達人でもあったことから、猪木の素手に対して鎖鎌で戦いを挑んだといわれているが、これは誤りである。この試合は両者で一旦は合意され、当時マスコミに「昭和の巌流島」として取り上げられた。猪木有利の予想の中、新間寿は水谷の実力を冷静な目で判断していた。そして、テレビ放映のスポンサーがつかなかったことと、水谷の貫手による目への攻撃や蹴りによる急所攻撃によって猪木に万一のことがあることを恐れた新間の必死の仲裁により、直前で中止された。交渉の過程で水谷は猪木に対して、プロレス界のスターでありながら、一空手家の挑戦をリスク覚悟で承諾した姿勢に尊敬の念を抱く。また猪木は、自らの命をかけて戦いを挑んでくる日本人がいることに驚嘆する。戦いを前に鋭く対立した二人であったが、その後交流を深め寛水流空手を創設した。水谷は1990年(平成2年)に死去したが、訃報を知った猪木は盟友の早すぎる死に涙したという。

2024/06/17 04:30更新

antonioinoki


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2月20日生まれの有名人 神奈川出身

茉莉邑 薫(まりむら かおる、2月20日 - )は、日本の女優、声優。神奈川県川崎市出身。元宝塚歌劇団星組男役。 2001年 - 宝塚音楽学校に89期生として入学。 2003年 - 宝塚歌劇団に8…

伊藤 万理華(いとう まりか)
【乃木坂46】
1996年2月20日生まれの有名人 神奈川出身

伊藤 万理華(いとう まりか、1996年〈平成8年〉2月20日 - )は、日本の女優であり、女性アイドルグループ・乃木坂46の元メンバーである。大阪府生まれ、神奈川県出身。乃木坂46合同会社所属。身長…

川淵 由香里(かわぶち ゆかり)
2月20日生まれの有名人 神奈川出身

川淵 由香里(かわぶち ゆかり、2月20日 - )は、日本の女性声優。神奈川県出身。フリー。 以前はキャロットハウスに所属していた。 薄桜鬼 破滅のマルス(川越京子) アガレスト戦記(シェルフ…

龍崎 一郎(りゅうざき いちろう)
1912年2月20日生まれの有名人 神奈川出身

龍崎 一郎(りゅうざき いちろう、1912年2月20日 - 1988年6月28日)は、日本の俳優。神奈川県横浜市出身。本名は龍崎 光一郎。旧芸名は竜崎 一郎。特技は剣道(5段)。師は映画監督の牛原虚彦…

黛 敏郎(まゆずみ としろう)
1929年2月20日生まれの有名人 神奈川出身

黛 敏郎(まゆずみ としろう、1929年〈昭和4年〉2月20日 - 1997年〈平成9年〉4月10日)は、日本の作曲家。戦後のクラシック音楽、現代音楽界を代表する音楽家の一人。東京藝術大学作曲科講師と…

小菅 晴香(こすげ はるか)
1990年2月20日生まれの有名人 神奈川出身

セント・フォース 小菅 晴香(こすげ はるか、1990年2月20日 - )は、セント・フォースに所属するフリーアナウンサー。 神奈川県藤沢市出身。身長154cm。 慶應義塾女子高等学校、慶應義…

上福 ゆき(かみふく ゆき)
1993年2月20日生まれの有名人 神奈川出身

上福 ゆき(かみふく ゆき、1993年〈平成5年〉2月20日 - )は、日本のモデル、タレント、グラビアアイドル、プロレスラー。スターレイプロダクション所属を経てフリー。 神奈川県横浜市で生まれ、…


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アントニオ猪木と近い名前の人

アントニオ小猪木(あんとにお こいのき)
1971年8月22日生まれの有名人 埼玉出身

アントニオ小猪木(アントニオ こいのき、1971年8月22日 - )は、日本のお笑いタレント。 埼玉県志木市出身。西口エンタテインメント所属。身長158cm、体重55kg、血液型はB型。 かつては…

アントニオ古賀(あんとにお こが)
1941年2月26日生まれの有名人 東京出身

アントニオ古賀(アントニオ こが、1941年2月26日 - )は、日本人ギタリスト、歌手、編曲家である また、東京国際大学人間社会学部客員教授でもある。 ギター演奏や、ピアノ、ギター寄贈などの活動…

マイケル=アンダーソン_(宇宙飛行士)(Michael Phillip Anderson)
1959年12月25日生まれの有名人 出身

マイケル・フィリップ・アンダーソン(Michael Philip Anderson、1959年12月25日 - 2003年2月1日)は、アメリカ空軍の大佐、アメリカ航空宇宙局の宇宙飛行士である。STS…

ブライアン=コックス_(物理学者)(Brian Edward Cox)
1968年3月3日生まれの有名人 出身

ブライアン・エドワード・コックス(英: Brian Edward Cox, OBE FRS、1968年3月3日 - )は、イギリスの物理学者、マンチェスター大学物理・天文学科(英語版)…

ブライアン=コックス_(俳優)(Brian Denis Cox)
1946年6月1日生まれの有名人 出身

ブライアン・デニス・コックス(Brian Denis Cox, CBE, 1946年6月1日 - )は、イギリスの俳優。スコットランドのダンディー出身。アイルランド系。 5人兄弟の末子。9歳の時に…

カルロス=ビアンチ(Carlos Bianchi)
1949年4月26日生まれの有名人 出身

カルロス・ビアンチ(Carlos Bianchi, 1949年4月26日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。選手としてアルゼンチン代表だった。選手時代のポ…

山口 純(やまぐち じゅん)
【新選組リアン】
1990年5月13日生まれの有名人 兵庫出身

山口 純(やまぐち じゅん、1990年5月13日 - )は、日本の男性歌手、ファッションモデル、タレント。兵庫県出身。身長187cm。立命館大学卒業。 男性アイドルグループ・新選組リアンの元メンバー…

榊原 徹士(さかきばら てつじ)
【新選組リアン】
1989年12月6日生まれの有名人 愛知出身

榊原 徹士(さかきばら てつじ、1989年12月6日 - )は、日本の歌手、俳優、モデルであり、アイドルグループ吉本坂46の元メンバーである。愛知県豊田市出身。京都外国語大学中退。身長172cm。愛称…

関 義哉(せき よしや)
【新選組リアン】
1989年4月7日生まれの有名人 京都出身

関 義哉(せき よしや、1989年4月7日 - )は、日本の男性歌手、J-pop、ダンサー、タレント。京都府京都市出身。身長171cm。京都府立洛北高等学校、滋賀大学経済学部卒業。 男性アイドルグル…

國定 拓弥(くにさだ ひろや)
【新選組リアン】
1988年7月8日生まれの有名人 兵庫出身

國定 拓弥(くにさだ ひろや、1988年7月8日 - )は、日本の男性歌手。兵庫県出身。現在はhiroyaとして活動中。 身長175cm、体重58kg。大手前大学出身。愛称は「ひろにゃん」、「さだち…

森 公平(もり こうへい)
【新選組リアン】
1988年4月12日生まれの有名人 大阪出身

森 公平(もり こうへい、1988年4月12日 - )は、日本の男性歌手、タレント、俳優。大阪府出身。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。 男性アイドルグループ・新選組リアンとサーターアンダ…

ロシアン佐藤(ろしあん さとう)
1985年9月18日生まれの有名人 島根出身

ロシアン佐藤(ロシアン さとう、本名:佐藤 ひとみ、1985年9月18日 - )は、日本のYouTuber、タレント、元フードファイター。島根県出雲市出身。血液型はA型。エッジニア合同会社に所属し、…

アンナ・リー(英: Anna Lee; 中: 安娜・李)
1984年4月22日生まれの有名人 出身

アンナ・リー(英: Anna Lee; 中: 安娜・李、本名:李 宗望〈リ・ゾンワン〉、1984年4月22日 - )は、台湾・台北市出身の歌手、タレント、女優。 話す言葉は中国語、台…

原 アンナ(はら あんな)
1985年8月21日生まれの有名人 出身

原 アンナ(はら アンナ、1985年8月21日 - )は、日本のタレント、モデル。本名及び旧芸名は「原 杏奈」(読み方同じ)。岐阜県中津川市出身。ケイダッシュステージ所属。元夫はお笑いコンビHi-Hi…

中村 アン(なかむら あん)
1987年9月17日生まれの有名人 東京出身

中村 アン(なかむら アン、英: Anne Nakamura、1987年9月17日 - )は、日本の女優、ファッションモデル、タレント。 東京都江東区出身。プラチナムプロダクションを経て、2…

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