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ラッシャー木村の情報 (らっしゃーきむら)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

ラッシャー木村の情報(らっしゃーきむら) 格闘家/プロレス 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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ラッシャー木村さんについて調べます

■名前・氏名
ラッシャー木村
(読み:らっしゃー きむら)
■職業
格闘家
プロレス
■ラッシャー木村の誕生日・生年月日
1941年6月30日 (年齢68歳没)
巳年(へび年)、蟹座(かに座)
■出身地・都道府県
北海道出身

(昭和16年)1941年生まれの人の年齢早見表

ラッシャー木村と同じ1941年生まれの有名人・芸能人

ラッシャー木村と同じ6月30日生まれの有名人・芸能人

ラッシャー木村と同じ出身地北海道生まれの有名人・芸能人


ラッシャー木村と関係のある人

剛竜馬: しかし剛が外国人レスラーのブッキングを独占しようと図り、そのために生じた利害関係で団体との関係が悪化したことから、ラッシャー木村と共に在籍4ヶ月のみで退団となった。


ジャイアント馬場: 1985年7月30日(火曜日)、ハンセンに敗退し、PWFヘビー級王座から転落したのをきっかけにタイトル戦線から退いた後は、社長業やタレント業に比重を移しながらも義弟を自認するラッシャー木村や百田光雄とファミリー軍団を結成し、悪役商会との抗争を開始し、前座で「明るく楽しいプロレス」を展開し、最後の試合が行われた1998年12月5日(土曜日)までリングに上がり続けた。


剛竜馬: ただし、シングル戦は無く全てラッシャー木村とのタッグである。


サンダー杉山: 1971年4月20日には国際プロレス所属選手では2人目となる金網デスマッチに挑戦し(対ドクター・デス)、同年9月23日にはラッシャー木村を新パートナーに、レッド・バスチェン&ビル・ハワードを破ってIWA世界タッグ王座を再度獲得。


アニマル浜口: 1981年9月23日(水曜日)、新日本プロレス田園コロシアム大会に国際プロレスのエースだったラッシャー木村とともに来場。


ストロング金剛: 日本人選手同士・団体エース同士のタイトルマッチとして、大きな話題を呼んだ(同門対決のタイトルマッチとしては、小林は1973年7月9日に大阪府立体育館においてラッシャー木村を相手にIWA世界ヘビー級王座の防衛戦を行っている)。


リック=フレアー: 初来日の国際プロレスのリングでは、6月18日の市原で大位山勝三と来日第一戦を行い、6月26日に大館でラッシャー木村との金網デスマッチも行われている。


石川孝志: 予選リーグ戦ではラッシャー木村、キム・ドク、ディーン・ホーに次ぐBブロック4位の戦績を収め、シード選手だった大木金太郎の棄権で決勝トーナメントに繰り上げ出場。


ジャンボ鶴田: 1970年代中盤は、復活したUNヘビー級王座決定戦でジャック・ブリスコを破って初めてのシングルタイトルを獲得し、キム・ドクとの抗争や国際プロレスのラッシャー木村との対抗戦、ディック・スレーターをジャーマン・スープレックスで破ってのチャンピオン・カーニバル初優勝などの実績を上げ、1977年8月25日に行われたミル・マスカラスとの田園コロシアム決戦が評価され、東京スポーツ主催のプロレス大賞において3年連続年間最高試合賞・ベストバウトを受賞した。


アントニオ猪木: 10月4日、ラッシャー木村と初対戦、反則負け。


ジャイアント馬場: その後、同月4日の千葉公園体育館大会で復帰し、年内興行最終戦となった同月5日の日本武道館大会の第3試合・馬場&ラッシャー木村&百田光雄対渕正信&永源遙&菊地毅戦の『ファミ悪対決』に出場した試合が馬場にとって生前最後の試合となった。


タイガー戸口: 移籍後、IWGPアジア予選リーグ戦の名目で猪木とのシングルマッチが9月23日に田園コロシアムのメインイベントとして組まれるが、この試合前のセレモニーにラッシャー木村とアニマル浜口(後のはぐれ国際軍団)が登場してマイクアピールを行い、さらにはセミファイナルにてスタン・ハンセン対アンドレ・ザ・ジャイアントの歴史的名勝負も行われたなど、試合自体の印象が薄くなる不運に見舞われた。


ニック=ボックウィンクル: AWA世界タッグ王者としてレイ・スティーブンスとのコンビで来日し、11月21日に大阪府立体育館において、IWA世界タッグ王者のラッシャー木村&グレート草津との「AWA対IWA」のダブルタイトルマッチが行われた。


グレート草津: ヨーロッパ・タッグ王座(w / ラッシャー木村


アンドレ・ザ・ジャイアント: またこの来日時、5月4日に新潟市体育館において、イワン・バイテンをパートナーに杉山&ラッシャー木村が保持していたIWA世界タッグ王座に再挑戦している。


ジャンボ鶴田: 馬場・ラッシャー木村と組み、渕正信・永源遙・菊地組と対戦。


寺西勇: 小林は予選落ちとなり、ラッシャー木村が優勝した。


ドリー=ファンク・ジュニア: セントラル・ステーツ地区ではラッシャー木村の挑戦も受けたとされる。


千葉繁: APO APOワールド ジャイアント馬場90分一本勝負(ラッシャー木村


ディック・ザ・ブルーザー: 日本プロレス以来となる大木金太郎との対戦が注目され、同時参戦していたモンゴリアン・ストンパーと組んでのラッシャー木村&大木とのタッグマッチや、「和製ブルーザー」と呼ばれたアニマル浜口とのシングルマッチも行われた。


原口あきまさ: ラッシャー木村


百田光雄: 本人はラッシャー木村の持つ現役最年長記録(61歳10か月)の更新を狙っており、「春には引退しようと思っていたけど、7月までやれば(ラッシャー木村が持つ)61歳10か月の最年長記録をクリアできるんです」とその意気込みを語っている。


サンダー杉山: IWA世界タッグ王座:2回(w / グレート草津、ラッシャー木村


鶴見五郎: 1984年のリーグ戦の最終日には、ラッシャー木村・アポロ菅原・剛と共に『国際血盟軍』を結成するが、全日本における日本人選手が飽和状態となり1986年3月をもって初期メンバーである剛・菅原・1985年6月に加入した高杉正彦の3人が整理解雇されたことにより(後述)、同軍団は事実上解散。


グレート草津: タッグでは、IWA世界タッグ王座をパートナーを代えて再三保持しており、サンダー杉山とのコンビではモンスター・ロシモフ&マイケル・ネイダーやラリー・ヘニング&ボブ・ウインダム、ストロング小林とのコンビではディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーやマッドドッグ・バション&イワン・コロフ、ラッシャー木村とのコンビではテキサス・アウトローズやスーパースター・ビリー・グラハム&バロン・フォン・ラシク、ニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスなどの強豪チームとタイトルを争った。


ニック=ボックウィンクル: 挑戦者群にはAWAのレギュラーメンバー以外にも、アンドレ・ザ・ジャイアント、テリー・ファンク、ペドロ・モラレス、ジャイアント馬場、ボボ・ブラジル、トーア・カマタ、ワフー・マクダニエル、タイガー・ジェット・シン、ミル・マスカラス、ラッシャー木村、ダスティ・ローデス、パット・パターソン、ブルーザー・ブロディ、リッキー・スティムボート、ディック・スレーター、ジェリー・ローラーなどが名を連ねている。


ダスティ=ローデス: 6月30日に岐阜市民センターにてラッシャー木村&グレート草津のIWA世界タッグ王座に挑戦する一方、シングルでは6月23日に米沢にて小林と、7月1日に豊田にて草津と、それぞれ金網デスマッチで対戦している。


ビル=ロビンソン: IWA世界ヘビー級王座は、1969年1月から5月にかけて、グレート草津、チーフ・ホワイト・ウルフ、スタン・スタージャック、ラッシャー木村を相手に防衛。


冬木弘道: 海外遠征中には国際プロレスのエース格だったラッシャー木村が全日本に移籍し、鶴見五郎・高杉・菅原と国際崩壊直前に新日本プロレスへ移籍していた剛竜馬も加入した上で「国際血盟軍」を率いていたが、冬木はマイティ井上共々「国際血盟軍」には加入しなかった。


ジェイク=ロバーツ: アレックス・スミルノフが外国人エースを務めた同シリーズにおいて、1月16日に広島県立体育館にてラッシャー木村と金網デスマッチを行っている。


ラッシャー木村の情報まとめ

もしもしロボ

ラッシャー木村(らっしゃー きむら)さんの誕生日は1941年6月30日です。北海道出身の格闘家
プロレスのようです。

もしもしロボ

略歴、得意技などについてまとめました。解散、事件、兄弟、引退、現在、テレビに関する情報もありますね。68歳で亡くなられているようです。

ラッシャー木村のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

ラッシャー木村(ラッシャーきむら / Rusher Kimura、1941年6月30日 - 2010年5月24日)は、日本のプロレスラー、元大相撲力士。本名:木村 政雄(きむら まさお)。北海道中川郡中川町出身。

後期のエースを務めた国際プロレスでは「金網デスマッチの鬼」の異名を持つブルファイターとして活躍し、新日本プロレス参戦時は国際軍団の総帥としてアントニオ猪木と抗争を繰り広げ、全日本プロレスおよびプロレスリング・ノア在籍時はユーモアあふれるマイク・パフォーマンスで親しまれた。

2003年よりプロレスリング・ノア終身名誉選手会長。

佐久中学校を経て北海道天塩高等学校に進学、ポール牧と同級生であった。夢であるプロレスラーになるための基礎体力作りとして、高校を中退して大相撲の宮城野部屋に入門。

1958年3月場所にて、木ノ村(きのむら)の四股名で初土俵を踏む。幕下20枚目まで昇進したが「十両に上がったら辞められなくなる」という理由で1964年9月場所限りで、親方(元横綱・吉葉山)の慰留を振り切り脱走して廃業した。とされているが、昭和39年7月場所と9月場所で連続1勝6敗と負け越しが続き、三段目への降格が確定していた。

大相撲廃業後、1964年10月に日本プロレスに入団。1965年4月2日、リキ・スポーツパレスに於いて、高崎山猿吉戦でデビューする。

豊登の付き人をしていた関係から、翌1966年に豊登が興した東京プロレスの旗揚げに参加し、1967年の東京プロレス崩壊後は吉原功に口説かれて国際プロレスに移籍。1969年1月1日にリングネームをラッシャー木村に改名。同年4月20日、サンダー杉山と組んでスタン・スタージャック&タンク・モーガンを破り、TWWA世界タッグ王座を獲得、初戴冠を果たす。以降、ドリー・ディクソン&モーガン、ジャン・ウィルキンス&チーフ・ダニー・リトルベア、スタン・ザ・ムース&ニキタ・マルコビッチなどのチームと防衛戦を行った後、8月に王座を返上して渡米した。

アメリカでは中西部のカンザスおよびミズーリを拠点とするNWAセントラル・ステーツ地区を主戦場に、後に日本で流血の抗争を展開することになるキラー・トーア・カマタとタッグを組み、ロニー・エチソン、モンゴリアン・ストンパー、アーニー・ラッド、KO・コックス、ボブ・ガイゲル、ロジャー・カービーなどと対戦。当時のNWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンク・ジュニアとも対戦し、覆面を被ってシャチ横内とジ・インベーダーズ(The Invaders)なるタッグチームを結成していたこともある。

1970年8月に凱旋帰国し、10月8日には大阪府立体育館にてドクター・デスを相手に、日本初の金網デスマッチを行う。同デスマッチ第2戦となる12月12日のオックス・ベーカー戦で左足を複雑骨折する重傷を負うも、第3戦となる1971年3月2日のザ・クエッション戦はギプスを装着して強行出場した。以降もバスター・マシューズ、ダニー・リンチ、カーティス・イヤウケア、バロン・シクルナ、バディ・オースチン、ラーズ・アンダーソン、スカンドル・アクバ、リック・フレアー、オレイ・アンダーソン、ザ・ブルート、レネ・グレイ、セーラー・ホワイト、バロン・フォン・ラシク、レイ・スティーブンス、マッドドッグ・バション、カマタ、ブッチャー・ブラニガン、ジプシー・ジョー、ピエール・マーチン、ギル・ヘイズ、リッパー・コリンズらに連勝。金網デスマッチでは不敗を誇り、「金網の鬼」の異名が定着した。1974年6月5日には米沢にて、ホワイトと日本初の金網チェーン・デスマッチを行っている。

タッグでは1971年9月、TWWA世界タッグ王座戴冠時のパートナーだった杉山と組み、グレート草津の海外遠征による返上で空位となっていたIWA世界タッグ王座をレッド・バスチェン&ビル・ハワードと争う。9月7日の新王者チーム決定戦では敗退するも、9月23日に再び杉山と組み、新王者チームのバスチェン&ハワードを破ってIWA世界タッグ王座を初奪取。以降、1972年の木村の再渡米に伴う王座返上まで、リンチ&ラシク、ブロンド・ボンバーズ、ダン・ミラー&イヤウケア、モンスター・ロシモフ&イワン・バイテンなどを相手に7回防衛した。

帰国後の1973年4月30日には、グレート草津を新パートナーにバション&イワン・コロフが保持するIWA世界タッグ王座に挑戦。敗退したものの、5月14日の再戦で勝利し同王座を再び奪取。草津とのコンビでは、1975年4月にタイトルを返上するまで、テキサス・アウトローズ(ダスティ・ローデス&ディック・マードック)、ミネソタ・レッキング・クルー(オレイ&ジン・アンダーソン)、ハリウッド・ブロンズ(ジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツ)、ザ・キウィズ(ニック・カーター&スウィート・ウィリアムス)、スーパースター・ビリー・グラハム&ラシク、ワフー・マクダニエル&バスチェン、AWA世界タッグ王者チームのニック・ボックウィンクル&スティーブンスなど、当時のアメリカでもトップクラスの強豪チームを相手に11回の防衛に成功した。このうち、1974年3月31日に釧路市厚生年金体育館で行われたジム・ブランゼル&ブルートとの防衛戦は、木村初の金網タッグ・デスマッチとなった。

1973年6月19日、茨城県笠間大会にて、国際のエースだったストロング小林がローデスを下しIWA世界ヘビー級王座を防衛した直後、小林に挑戦状を突きつけ、同年7月9日の大阪府立体育会館で小林VS木村の同門対決となるIWA世界ヘビー級王座戦が実現、1954年12月22日の力道山VS木村政彦戦以来となる大物日本人選手同士のタイトルマッチとなった(小林が勝利し王座防衛)。同年10月には『IWAワールド・シリーズ』第5回大会の決勝戦でブラックジャック・マリガンを破り、シリーズ初優勝を果たしている。

1974年の小林離脱後は、一度はマイティ井上に先を越されるも、1975年4月19日にバションを金網デスマッチで破りIWA世界ヘビー級王座を獲得(これに伴い、IWA世界タッグ王座を返上)、以後、国際プロレスが消滅する1981年夏まで、6年間に渡ってエースとして活躍した。1975年6月6日にはアントニオ猪木に挑戦状を突きつけ、同年12月20日にはジャイアント馬場にも挑戦を表明。全日本プロレスとの交流戦では馬場やジャンボ鶴田と対戦、1976年3月28日の蔵前国技館における鶴田戦は、東京スポーツ新聞社のプロレス大賞において年間最高試合に選定されている。1977年3月には、4年ぶりに開催された『IWAワールド・シリーズ』第6回大会の決勝戦でバションに勝利、シリーズ連覇を果たした。1978年11月には、鶴田、草津、井上、アニマル浜口、キム・ドク、ミスター・サクラダ、ミスター・ヒト、ディーン・ホーらが参加した『日本リーグ争覇戦』において、決勝戦でプロフェッサー・タナカを破り優勝。1979年8月26日の『プロレス夢のオールスター戦』では、セミファイナルで因縁の小林と対戦、リングアウト勝ちを収めた。

IWA世界ヘビー級王者としても、前王者バションをはじめ、カマタ、ジョー、ホワイト、ワイルド・アンガス、リップ・タイラー、アレックス・スミルノフ、キラー・ブルックス、ベーカー、ジョン・トロス、ジョー・ルダック、ストンパー、上田馬之助などのラフファイターを挑戦者に流血戦を繰り広げる一方、ビッグ・ジョン・クインやマイク・ジョージと正攻法のパワーレスリングを展開した。1979年10月5日には後楽園ホールにてAWA世界ヘビー級王者ボックウィンクルとのIWAとAWAのダブル・タイトルマッチを行い、反則勝ちを収めている(反則勝ちのためAWA王座は移動せず)。同年は7月にアンドレ・ザ・ジャイアント、11月にバーン・ガニアとのIWA王座戦もそれぞれ行われた。1980年12月13日には新日本プロレスのリングで、7年前とは逆に小林を挑戦者に迎えての防衛戦が実現、小林から初のフォール勝ちを収めた。

このほか、得意技ブルドッギング・ヘッドロックの開発者であるカウボーイ・ボブ・エリス、前WWWFヘビー級王者として久々に国際プロレスに参戦したビリー・グラハム、東京プロレス以来の対戦となるジョニー・パワーズ、後にNWAの主要テリトリーで活躍するロン・バス、他団体から移籍してきたキラー・カール・クラップやレイ・キャンディ、当時の米マット界における成長株だったランディ・タイラーやスティーブ・オルソノスキーらの挑戦も退けた。途中、上田、スミルノフ、ガニアに王座を奪われるも、いずれも短期間で奪還。1976年から1979年にかけては、元王者の小林が記録していた25回を上回る26回の連続防衛に成功している。1981年8月6日、室蘭で行われたジ・エンフォーサー戦が最後の防衛戦であり、最後の金網デスマッチでもあった。

1981年10月、国際の解散に伴い、残党のアニマル浜口、寺西勇と共に新日本プロレスに参戦し、アントニオ猪木との抗争を開始。当初は国際のメンバーは新日本に参戦し、新日本対旧国際の団体対抗戦が行われるはずだったが、新日本の手法に反感を持っていたマイティ井上らが全日本プロレスへの移籍を選択した為、最終的に新日本に登場した選手は木村、浜口、寺西の3人だけとなった。1981年9月23日、田園コロシアム大会に来場し、メインイベント前に決意表明を示す場を与えて貰ったが、木村の真面目な性格によって「こんばんは事件」(後述)が発生。この出来事が「マイクの鬼」と呼ばれ、マイク・パフォーマンスが代名詞となるきっかけになった。新日本では人気絶頂の猪木に対する悪役ユニット「国際軍団」のリーダーとしてヒールを演じた。

1982年には久々にアメリカに遠征し、ミスター・トヨ(Mr. Toyo)のリングネームでロサンゼルス地区を短期間サーキット、国際の後輩であるミスター・ゴーこと剛竜馬をパートナーに、ブラック・ゴールドマン&エル・ゴリアスからNWAアメリカス・タッグ王座を奪取した。以降も浜口と寺西を従え、猪木1人を相手に3対1のハンディキャップ・マッチを行うなど話題を集めたが、IWGP構想の中で次第にメインストリームから外れていき、1983年下期からは浜口と寺西が長州力率いる維新軍に加わったため国際軍団は解散。その後はバッド・ニュース・アレンと共闘するなど、外国人サイドから単独での参戦を続けた。なお、1983年11月にはカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングに遠征、国際プロレス時代の怨敵ミスター・ヒトとのタッグや、モンゴリアン・ストンパーおよびキューバン・アサシンとの久々の対戦も実現した。

1984年4月、新日本で勃発した内紛により、新間寿に請われて剛、前田日明、グラン浜田らと第一次UWFの旗揚げに創設メンバーとして参画。UWF草創期のブッカー兼重鎮的存在となったが、剛が外国人レスラーのブッキングを独占しようと図り、そのために生じた利害関係で団体との関係が悪化したことから、同年10月5日に剛と共に離脱した。

UWF離脱直後、全日本プロレスの1984年世界最強タッグ決定リーグ戦にジャイアント馬場のタッグパートナーとして参戦。馬場のパートナーは開幕戦まで事前に発表されず「ミステリアス・パートナー」とされていた。馬場と元国際のエースである木村のタッグは注目を浴びたが黒星が先行する結果となる。そして12月8日の愛知県体育館での対鶴田&天龍源一郎戦の試合中、突然木村が馬場にラリアットを放ち造反。国際の残党である剛竜馬、鶴見五郎も乱入し木村に加勢。試合放棄となり馬場とのタッグはリーグ戦途中で空中分解する事態となる。これら一連の動きを木村は「(プロレス人生で)自分の意思で動いたのは、これが初めてだった」と述懐した。なお、UWFを離脱後新日本プロレスも木村の獲得に動いたが、木村は全日本プロレスを選択している。これについて、後に和田京平が木村になぜ全日本を選択したのか聞いたところ、木村曰く「新日本は会社の重役が話に来た。全日本は馬場さんが料亭に招いてくれて、直接誘ってくれた。となればどちらを選ぶかは明白でしょう」と答えたという。

以降は鶴見、剛、アポロ菅原、高杉正彦と「国際血盟軍」を結成。全日本軍と敵対するアングルが組まれ、試合後に馬場を挑発するマイクパフォーマンスが次第に注目を集める。1985年6月21日の日本武道館大会では馬場が持つPWFヘビー級王座に挑戦するも敗退。またジャパンプロレス勢の参戦など日本人選手の過剰により剛、菅原、高杉は全日本を解雇され、以降は鶴見とのタッグで活動。ヒットマンのキャラクターで一匹狼となった同じく国際の残党である阿修羅・原とも一時的に共闘した。

1988年8月29日、武道館にて馬場とのシングル戦に敗れるも、試合後のマイクで「お前のことをな、アニキと呼ばせてくれ」とアピール。このマイクがきっかけとなり同年の世界最強タッグ決定リーグ戦に馬場との「義兄弟コンビ」で出場。馬場50歳、木村47歳のベテランチームであったが3位の好成績を収め、翌1989年2月には義兄弟コンビで鶴田&谷津嘉章が持つ世界タッグ王座にも挑戦した。その後は体力の衰えからミッドカード戦線での活動を余儀なくされフェイスターンし、馬場と共に1989年春のスーパー・パワー・シリーズより「ファミリー軍団」を結成。悪役商会(永源遙、大熊元司、渕正信ら)を相手にユーモラスな前座試合を展開し、試合後のマイクパフォーマンスも含め全日本のコンセプト「明るく・楽しく・激しいプロレス」の「明るく・楽しく」を担った。

だが1989年11月29日、札幌中島体育センターにて世界最強タッグリーグ公式戦として行われた馬場&木村vs天龍&スタン・ハンセン戦では、入場時の天龍の攻撃により馬場が昏倒したため10分以上に渡って木村1人が天龍とハンセンの攻撃を流血しながらも、真正面から受け続けるという国際在籍時代や猪木との抗争時代を髣髴とさせる「激しい」試合を展開。また1990年春のチャンピオン・カーニバルでは天龍との抗争が繰り広げられ、3月31日の富山市体育館大会のタッグ戦(木村&寺西vs天龍&川田利明)ではゴング前、天龍に毒霧を浴びせるという異例な攻撃を見せたこともある。次期シリーズで天龍とのシングル戦が構想されていたが、天龍の全日本退団により幻に終わっている。

1992年4月18日、後楽園ホールで行われたファン感謝デー大会では、メインイベント「4対4サバイバル・タッグマッチ」に欠場した田上明の代理として鶴田軍の一員で急遽出場。既に50歳を過ぎていたが、超世代軍の三沢光晴、川田利明、小橋健太と対戦し往年の激しいプロレスを展開した。

ファミリー軍団結成時にはマイクパフォーマンス人気によるユニークなキャラクターが買われ、土曜深夜の『三宅裕司のいかすバンド天国』(TBS)にレギュラー審査員として出演。一人だけピンマイクではなく、手持ちのマイクで喋っていた。国際時代の寡黙なブルファイターのイメージとは180度異なるコミカルな存在となったが、彼のマイクパフォーマンスは桑野信義も『志村けんのだいじょうぶだぁ』で物まねをするなど、プロレス界の名物として定着した。

馬場の病没後、全日で再度顕在化した内紛から、プロレスリング・ノアに旗揚げメンバーとして参加。

2001年に還暦を迎えて生涯現役を宣言。翌年には馬場を抜いて日本人最高齢のレスラーとなるが、最晩年にはまったく攻撃をしないまま、マイクパフォーマンスのみで終わる試合もあるなど精彩を欠き、2003年3月1日の武道館大会を最後に体調不良により長期欠場に入る。

2004年7月10日、体調の悪化と「これ以上関係者に迷惑をかけられない」との理由で東京ドーム大会にビデオレターを送って引退を表明。以降、公の場から姿を消した。

同年12月にはノアの終身名誉選手会長への就任が発表され、その後は病状など一切公表されなかったが、当時、毎年行われていたノア選手会主催の「選手会興行」のポスターには、終身名誉選手会長として顔写真が掲載されていた。「プロレス格闘技DX」内のノア公式ウェブサイトにて、ファンからの「木村さんは今でもノア所属なのか」との質問には三沢光晴社長が「終身名誉選手会長であり、現在も所属である」と答えていた。還暦を迎えた際、全日本移籍の前に年金未納期間があったことが判明し、未納分の払込が完了し受給資格を得られるまで、引退後もノアの社員として雇用することにしたという。

2009年6月19日に行われた三沢の告別式で、久しぶりに公の場に姿を現した。

2010年5月24日、腎不全による誤嚥性肺炎のため死去。68歳没。終の住処となったのは、新宿区内の都営住宅だった。誰もが「あのラッシャー木村」とは気づかなかったという。

関係者によると現役引退直後に脳梗塞で倒れ、車椅子生活であったという。木村が体調を崩して公の場から去った後、浜口や鶴見などかつての国際プロレスの仲間やプロレス評論家が見舞いを希望したが、木村本人は頑として誰にも会おうともしなかったことを浜口や門馬忠雄が語っている。

なお、死去に際しては親族のみで葬儀を行ったことから、ノア主催で「お別れの会」を2010年6月26日にディファ有明にて開催した。アニマル浜口が「プロレス界はあなたを忘れることはありません」と涙ながらに弔辞を読み、遺影に向かって「気合だ!」を叫んで故人を偲んだ。

また同日にディファ有明で行われた "プロレスリング・ノア創立10周年記念" 『Summer Navig.10 part1』シリーズ開幕戦が、『ラッシャー木村追悼興行』と銘打って開催された。

略歴

1958年 大相撲宮城野部屋入門(四股名:木ノ村)

1964年 相撲を廃業。日本プロレス入門

1965年4月2日 対高崎山猿吉(北沢幹之)戦(東京リキ・スポーツパレス)でプロレスデビュー

1966年 東京プロレス旗揚げに参加、日本プロレスより移籍

1967年 東京プロレス崩壊。国際プロレス入団

1969年 リングネームを「ラッシャー木村」に改名

1970年 日本初の金網デスマッチを行い勝利(対ドクター・デス)

1973年 ブラックジャック・マリガンを破り、IWAワールド・シリーズ初優勝(第5回大会)

1975年 マッドドッグ・バションを下してIWA世界ヘビー級王者となる

1976年 全日本プロレスとの対抗戦で、ジャンボ鶴田と対戦(引き分け)

1978年 東京12チャンネルの特撮番組『スパイダーマン』(東映制作)にカメオ出演

1981年 国際プロレス崩壊。アニマル浜口、寺西勇とともに「国際軍団」を結成、新日本プロレスにヒールとして殴り込み

1984年 第一次UWF旗揚げに参加。短期間(4 - 10月)で離脱、11月より全日本プロレスに参戦

1990年 CD-ROMマガジン「ウルトラボックス」に出演

1990年 日本テレビ『いけない女子高物語』に出演

2000年 プロレスリング・ノア旗揚げに参加

2001年 還暦記念試合を行う(満60歳)

2004年 プロレスリング・ノア東京ドーム大会にて自ら引退を発表

2006年 東スポ主催プロレス大賞 功労賞を受賞

2010年5月24日 腎不全による誤嚥性肺炎のため死去

得意技

ブルドッギング・ヘッドロック

ラッシング・ラリアット

クロス・チョップ

水平チョップ

バックハンド平手打ち(相手をロープ際へ追いつめた時に連続で繰り出す技。一発が非常に重く、受けるごとに相手の腰がどんどん下がっていき、最後には崩れ落ちてしまうこともしばしばあった。この技を受けた天龍源一郎は「丸太ん棒でひっぱたかれた様な感じ」と語っている)

ヘッドバット

パイルドライバー

ラッシャー・スープレックス

バックドロップ

逆エビ固め

裏4の字固め

回転4の字固め

逆足4の字固め

アルゼンチン・バックブリーカー

スタンプ・ホールド

風車吊り(リバース・フルネルソンの変形技)

グラウンド式卍固め(国際プロレス末期にフィニッシャーとして使用していたが、その後はほとんど使わなくなった)

エクスプロイダー(秋山準を意識してフィニッシュアピールから技を掛けるが、持ち上げるところでカットされ技を決められないというノア時代の定番ムーブ)

永源遙の唾吐きのアシスト(誤爆も多く、顔面に浴びる憂き目にも遭っていた)

2024/06/15 11:17更新

rassya kimura


ラッシャー木村と同じ誕生日6月30日生まれ、同じ北海道出身の人

マミ川崎(まみ かわさき)
1931年6月30日生まれの有名人 北海道出身

マミ川崎(マミかわさき、本名・川崎真美子(かわさきまみこ)、英 Mami Kawasaki、1931年6月30日 - )は、日本のフラワーアーティストでありエッセイスト。日本で初のフラワーデザインスク…

山岸 秀匡(やまぎし ひでただ)
1973年6月30日生まれの有名人 北海道出身

山岸 秀匡(やまぎし ひでただ、 1973年6月30日 - )は、日本のボディビルダー、YouTuber。日本人で初めてミスター・オリンピアとアーノルドクラシックに出場した、元IFBBプロ・ボディビル…

川越 誠司(かわごえ せいじ)
1993年6月30日生まれの有名人 北海道出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 川越 誠司(かわごえ せいじ、1993年6月30日 - )は、北海道札幌市豊平区出身のプロ野球選手(外野手)。左投左打。中日ドラゴンズ…


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ラッシャー木村と近い名前の人

ラッシャー板前(らっしゃーいたまえ)
1963年6月15日生まれの有名人 千葉出身

ラッシャー板前(ラッシャーいたまえ、1963年6月15日 - )は、日本のお笑い芸人、たけし軍団メンバー。本名:鈴木 浩(すずき ひろし)。 千葉県松戸市出身。株式会社TAP所属。松戸市立河原塚小学…

神庭 亜夢(かんば あむ)
1991年9月15日生まれの有名人 千葉出身

神庭 亜夢(かんば あむ、1991年9月15日 - )は、日本の元タレントである。千葉県出身、マグニファイに所属していた。姉の神庭美帆と共にお笑いコンビ「神庭姉妹」としても活動していた。 特技は逆…

マツコ・デラックス(まつこ・でらっくす)
1972年10月26日生まれの有名人 千葉出身

マツコ・デラックス(1972年〈昭和47年〉10月26日 - )は、日本のコラムニスト、タレント、司会者。千葉県千葉市稲毛区出身。ナチュラルエイト所属。 出版会社の編集部で働いていたが、人間関係がう…

立花 沙羅(たちばな さら)
6月1日生まれの有名人 島根出身

立花 沙羅(たちばな さら、6月1日 - )は日本の女性声優。島根県出雲市生まれ。兵庫県出身。フリー。以前はLOVE×TRAX所属していた。主にアダルトゲームに出演している。 2014年7月1日よ…

T.ラック(てぃー らっく)
6月14日生まれの有名人 神奈川出身

T.ラック(ティー ラック、6月14日 - )は、日本の男性声優。神奈川県出身。血液型はA型。以前はムーブマンに所属していた。旧名:T-Lac。 エイリアス エバーウッド 遥かなるコロラド(パーチ…

アンラッキー後藤(あんらっきーごとう)
1977年6月27日生まれの有名人 東京出身

アンラッキー後藤(アンラッキーごとう、1977年6月27日 - )は、日本の元お笑いタレント、編集者。本名:後藤 美葉(ごとう みよう)。東京都目黒区出身。ズームリパブリックに所属していた。 芸人…

グラッサム紗亜奈(ぐらっさむ さあな)
2002年6月20日生まれの有名人 出身

グラッサム紗亜奈(グラッサム さあな、英: Saana Grassham、2002年6月20日 - )は、日本のモデル。BONAPRO所属。元ジュネス企画所属。オウサムにプロフィールが登録され…

クジラックス(quzilax)
1985年12月9日生まれの有名人 栃木出身

クジラックス(quzilax、1985年12月9日 - )は、日本の漫画家、同人作家。栃木県出身。宇都宮大学教育学部(美術教育専攻)卒業。『COMIC RIN』2008年10月号の『まなでし!』でデビ…

KLUTCH(クラッチ)
1978年9月15日生まれの有名人 大阪出身

KLUTCH(クラッチ、1978年9月15日 - )は、日本のJ-POPグループであるET-KINGのメンバーで、ボーカルを担当。大阪府泉南市出身。血液型はA型。泉南市特命観光大使。 泉南市立雄信…

ラッキィ池田(らっきぃ いけだ)
1959年10月25日生まれの有名人 東京出身

ラッキィ池田(ラッキィいけだ、本名:池田 新一(いけだ しんいち)、1959年10月25日 - )は、日本の振付師、タレント。東京都・墨田区出身。東京都立江戸川高等学校卒業、獨協大学法学部中退。 …

田附未衣愛(たつき みいあ)
【からっと☆】
1999年12月4日生まれの有名人 神奈川出身

からっと☆は、日本の5人組女性アイドルグループ。2012年2月9日に結成。からっと☆の合言葉は「Smiling Sky!!」。 2012年2月9日に、アリエル、ありす、みいあの3人で結成され、日本…

中原ありす(なかはら ありす)
【からっと☆】
1998年5月27日生まれの有名人 東京出身

5月27日生まれwiki情報なし(2024/06/10 16:41時点)

菅井さくら(すがい さくら)
【からっと☆】
2001年2月14日生まれの有名人 千葉出身

2月14日生まれwiki情報なし(2024/06/12 22:47時点)

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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「ラッシャー木村」を素材として二次利用しています。

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