サンダー杉山の情報(さんだーすぎやま/ThunderSugiyama) 格闘家/プロレス 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]


サンダー杉山さんについて調べます
■名前・氏名 |
サンダー杉山と関係のある人
アンドレ・ザ・ジャイアント: 1970年1月18日、王座決定戦でサンダー杉山&グレート草津を破り獲得。 鶴見五郎: 1971年6月、サンダー杉山の知り合いのつてで国際プロレスに入門。 ビル=ロビンソン: 初来日時には豊登とサンダー杉山を相手にヨーロピアン・ヘビー級王座を防衛。 エドワード=カーペンティア: 7月8日の横浜での開幕戦ではスイスのジャック・デ・ラサルテスと対戦し、8月3日には盛岡にてサンダー杉山が保持していたIWA世界ヘビー級王座に挑戦した。 アンドレ・ザ・ジャイアント: 1月18日に福岡市九電記念体育館で行われたIWA世界タッグ王座決定戦では、マイケル・ネイダーとのコンビでサンダー杉山&グレート草津を破り王座を獲得するが、2月3日の広島県立体育館にて杉山&草津に敗れ、短命王者となった(2月11日にもネイダーと組んで杉山&草津に再挑戦したが敗退)。 マサ斉藤: 明治大学在学中の1964年、レスリング全日本選手権にて、97kg超級フリースタイル・グレコローマンの両部門で優勝(グレコローマン部門決勝の相手はのちのサンダー杉山こと杉山恒治。 ストロング金剛: 国際プロレスの象徴でもあった金網デスマッチには、1971年10月26日のダニー・リンチ戦で初挑戦(国際所属選手では木村とサンダー杉山に次いで3人目)。 マサ斉藤: 明大の同窓である坂口ともタッグを組んだが、1978年暮れにヒロ・マツダや上田馬之助・サンダー杉山らとフリーランサー同士によるユニット「狼軍団」を結成し、日本でもヒールに転向。 剛竜馬: IWAワールド・シリーズはBブロック6位に終わり、IWA世界タッグ王座争奪トーナメントはサンダー杉山とのコンビで出場したものの、準決勝でビッグ・ジョン・クイン&クルト・フォン・ヘスに敗退している(トーナメントはクイン&ヘスが優勝)。 八田一朗: また明治大学レスリング部のサンダー杉山をプロレス界に入れたり、中央大学のレスリング部にいた鶴田友美に「プロが栄えればアマも栄える」と説いてプロレス入りを決意させたことも有名である。 グレート草津: 草津戦後、テーズはTWWA選手権をかけてサンダー杉山や豊登と対戦しているが、いずれも三本勝負の1本を許しており「杉山や豊登と草津には、それだけ実力の差があったよね」と述べている。 ラッシャー木村: 同年4月20日、サンダー杉山と組んでスタン・スタージャック&タンク・モーガンを破り、TWWA世界タッグ王座を獲得、初戴冠を果たす。 グレート草津: IWA世界タッグ王座(w / サンダー杉山、ラッシャー木村、ストロング小林、マイティ井上、アニマル浜口) グレート草津: タッグでは、IWA世界タッグ王座をパートナーを代えて再三保持しており、サンダー杉山とのコンビではモンスター・ロシモフ&マイケル・ネイダーやラリー・ヘニング&ボブ・ウインダム、ストロング小林とのコンビではディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーやマッドドッグ・バション&イワン・コロフ、ラッシャー木村とのコンビではテキサス・アウトローズやスーパースター・ビリー・グラハム&バロン・フォン・ラシク、ニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスなどの強豪チームとタイトルを争った。 豊登道春: 1968年2月14日、サンダー杉山をパートナーにファビュラス・カンガルーズ(アル・コステロ&ドン・ケント)を下してTWWA世界タッグ王座を獲得。 |
サンダー杉山の情報まとめ

サンダー杉山(さんだーすぎやま / Thunder Sugiyama)さんの誕生日は1940年7月23日です。愛知出身の格闘家
プロレスのようです。

卒業、引退、テレビ、事件、ドラマに関する情報もありますね。2002年に亡くなられているようです。
サンダー杉山のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)サンダー杉山(サンダーすぎやま / Thunder Sugiyama、本名:杉山 恒治 / すぎやま つねはる、1940年7月23日 - 2002年11月22日)は、日本のプロレスラー、アマチュアレスリング選手である。 新潟県糸魚川市出身。明治大学農学部農業経済学科卒業。第2代IWA世界ヘビー級王者、第3代第7代IWA世界タッグ王者。レスリングで1964年東京オリンピックに出場後、プロレスラーに転向。現役引退後はタレント活動の他、実業家としても成功した。一般社団法人映像コンテンツ権利処理機構では、連絡先を求めている。 東海高校から同志社大学に入学して柔道部に所属していたが、1年の終わりに部を辞めている。他大学の柔道部にコーチ兼学部の特待生としてしばらく所属した後に、2年の進級時に明治大学農学部農業経済学科に編入学し、レスリング部に所属した。入部10日後に開催されたローマオリンピック最終予選でいきなり優勝を飾るが、経験不足を理由にオリンピック出場はならなかった。その後、ヘビー級の選手として全日本学生、全日本選手権を制覇し、1964年の東京オリンピックに出場。グレコローマン・ヘビー級で3回戦まで進んでいる。翌1965年、レスリングのエリートとして日本プロレスに入団、同じくレスリング出身の斎藤昌典、ラグビー出身の草津正武と共に「三羽烏」と称された。 1966年3月4日に本間和夫戦でプロデビューを果たしたが、新団体の国際プロレス旗揚げに参加するため、同年の夏にグレート草津と共に移籍。国際プロレス設立時の役員には父の正勝も名を連ねていた。その後、海外武者修行のために渡米し、「トーキョー・ジョー」のリングネームでヒールとして北米を転戦。ザ・シークが主宰していたNWAデトロイト地区では、ボボ・ブラジル、アーニー・ラッド、ビル・ミラー、マイティ・イゴール、フレッド・カリー、ビリー・レッド・ライオン、マーク・ルーイン、ドン・レオ・ジョナサン、ケンタッキー・ブッチャーなどと対戦した。来日前のアブドーラ・ザ・ブッチャー(グレート・アマラ)ともコンビを組み、親交を結んでいる。1967年9月から10月にかけてはテキサスのアマリロ地区にも参戦しており、ドリー・ファンク・シニア、ドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク、ホセ・ロザリオ、リッキー・ロメロらと対戦。10月4日にはラボックにおいて、ファンク・シニアの保持していたNWA北米ヘビー級王座に挑戦した。 帰国後の1968年2月14日、豊登のパートナーとなってファビュラス・カンガルーズ(アル・コステロ&ドン・ケント)を破り、TWWA世界タッグ王座を獲得。以降、ビル・ロビンソン&トニー・チャールズ、ジ・アウトロー&スカイ・ハイ・リー、ジョージ・ゴーディエンコ&ジョン・ダ・シルバ、ゴーディエンコ&ピーター・メイビアなどのチームの挑戦を退けた。1970年2月3日には草津とのコンビでモンスター・ロシモフ&マイケル・ネイダーからIWA世界タッグ王座を奪取。11月19日にラリー・ヘニング&ボブ・ウインダムに敗れるも、12月12日に草津とのコンビで王座奪回。以降、草津の海外遠征に伴う返上まで4回防衛した。 1970年5月19日、リングアウト勝ちながらビル・ロビンソンを破り、日本人として初めてIWA世界ヘビー級王座を獲得、第2代王者となる。以降、1971年3月4日にビル・ミラーに敗れるまで、ドクター・デス、エドワード・カーペンティア、ジャック・デ・ラサルテス、ブルー・デモン、ヘニング、マッドドッグ・バションらを相手に防衛戦を行い、国際プロレスの看板選手として活躍した。1971年4月20日には国際プロレス所属選手では2人目となる金網デスマッチに挑戦し(対ドクター・デス)、同年9月23日にはラッシャー木村を新パートナーに、レッド・バスチェン&ビル・ハワードを破ってIWA世界タッグ王座を再度獲得。以降、木村の海外遠征に伴う返上まで、ダニー・リンチ&バロン・フォン・ラシク、ジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツ、ダン・ミラー&カーティス・イヤウケア、ロシモフ&イワン・バイテンなどを挑戦者チームに7回の防衛に成功した。 その間にも『8時だョ!全員集合』など、国際プロレス中継の放映局であったTBSの番組にゲスト出演した。 1972年9月20日付けで全日本プロレスに円満移籍する。入団直後のジャンボ鶴田は、杉山に食事へ頻繁に連れて行って貰うなど、よく可愛がられていた。しかし、自身の扱いを巡って社長のジャイアント馬場と揉めて1976年3月末付で全日本を離脱し、フリー宣言をする。1976年と1977年に古巣の国際に特別参戦。1976年には上田馬之助と共闘し、同年7月7日に上田と組んで草津&マイティ井上が保持するIWA世界タッグ王座に挑戦したが敗退。1977年にはIWA世界タッグ王座争奪戦である「IWAワールド・タッグ・トーナメント」に剛竜馬と組んで出場したが2回戦敗退。1978年にはヒロ・マツダを総帥とする「狼軍団」の一員として新日本プロレスにも参戦し、プレ日本選手権に出場した。 なおプレ日本選手権の時点で事業が成功していた杉山は、無理に事業でのイメージに関わる負けブックを飲んでまでリングに上がる必要が無いため「勝ちの予定でないと、リングには上がらない」という約束でプロレスを続けていた。ところがブッカーの山本小鉄が、その約束を反故にしてプレ日本選手権を予選落ちするブックを押し付けたため山本と喧嘩になり、先に手を出した山本を叩きのめしたという逸話を残した。 フリー宣言後は『おはよう!こどもショー』に出演するなどタレント活動の後、名古屋で「サンダー杉山コーポレーション」(のちの「サンダー杉山ベンディングサービス」)を創立し、飲食業や自動販売機設置などの経営者として実業界でも大成功した。また全日本プロレスは名古屋興行の際に選手の宿舎として杉山経営のホテルを利用していた時期もあった。 しかし、現役時代から患っていた持病の糖尿病が悪化し、肝臓病や胃癌も併発。入退院を繰り返すようになり、右手首と両足の切断にも追い込まれた。しかし病室からメールで業務指示を出し、ビジネスへの情熱は最後まで衰えることはなかった。2002年11月22日、心不全により62歳で死去。 丸っこい体格から繰り出す雷電ドロップの印象が強く、パワフルでユーモラスなファイトスタイルと捉えられることが多いが、アマチュア時代に鍛えた素地は非常に高いレベルにあったといわれ、ロビンソンは彼が対戦した日本人レスラーの中で、杉山をアントニオ猪木に次ぐ実力者としている。また、1968年にはルー・テーズのTWWA世界ヘビー級王座に挑戦し一本取っているが、テーズは「杉山のテクニックには光るものがあった」「基礎のできたグッド・レスラー」と評価している。125 kgから130 kgの肥満型の体型でありながら動きはよく、ドロップキックやフライング・ヘッドシザース(ヘッドシザーズ・ホイップ)なども器用にこなした。また、マツダに次ぐ日本人としては2人目のジャーマン・スープレックス・ホールドの使い手だった。 雷電ドロップ ジャーマン・スープレックス・ホールド ソバット 巻き込み IWA世界ヘビー級王座:1回 IWA世界タッグ王座:2回(w / グレート草津、ラッシャー木村) TWWA世界タッグ王座:2回(w / 豊登、ラッシャー木村) ヨーロッパ・タッグ王座:1回(w / グレート草津) 喜劇 駅前大学 喜劇 駅前弁天 女必殺五段拳 宇宙からのメッセージ (東映) ビッグサム役 刑事物語 くろしおの詩 皇帝密使 猟色(日活) ハリマオ おはよう!こどもショー(日本テレビ) 底ぬけ脱線ゲーム(日本テレビ) 8時だョ!全員集合(TBS) 寺内貫太郎一家 第22話(1974年、TBS)- マッサージ師 ハテナゲーム(NHK総合) 特命刑事 ザ・コップ (朝日放送・松竹芸能) - 組織の用心棒兼殺し屋 事件記者チャボ! 第1話「チャボが大騒ぎでやってきた」(1983年) - 山本 火曜サスペンス劇場・大都会の死角(1983年、日本テレビ) 新・大江戸捜査網 第3話(通算第643話)「からくり極悪絵図」(1984年) - 巨漢 武蔵坊弁慶 誇りの報酬 第25話「あの美女は誰だ?!」(1986年) - 強盗団一味 腕におぼえあり2(1992年、NHK) - 熊ヶ嶽 大河ドラマ「秀吉」(NHK) - 穴山梅雪 ^ 一般社団法人映像コンテンツ権利処理機構 放送番組に出演されたサンダー杉山様をさがしています ^ 『忘れじの国際プロレス』P108(2014年、ベースボール・マガジン社)ISBN 9784583620800 ^ “The BTW matches fought by Thunder Sugiyama in 1967”. 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Puroresu.com. 2015年8月11日閲覧。 ^ ミスター高橋『知らなきゃよかった プロレス界の残念な伝説』宝島社、2018年。ISBN 9784800289216 pp.192-193 ^ 『Gスピリッツ』26号(辰巳出版、2012年12月) ^ 別冊宝島179『プロレス名勝負読本』(宝島社、1993年6月) ^ “TWWA World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2014年9月28日閲覧。 日刊スポーツ「訃報」 明大レスリング部特別インタビュー サンダー杉山 - Olympedia(英語) 表 話 編 歴 石川進 - 楠トシエ - 天地総子 - 小鳩くるみ - 鶴間エリ - 三井恒 - 海老名美どり - 峰竜太 - 関谷ますみ - サンダー杉山 - 橋達也 - 大場久美子 愛川欽也 - 富山敬 - 田の中勇 加藤精三 雷門ケン坊 海野かつを レッドマン - 行け!ゴッドマン - 行け! グリーンマン - 行け! 牛若小太郎(クレクレタコラ) カネゴン - ガラモン ウー - ゴモラ - ジラース - ゼットン - テレスドン - ドラコ - バルタン星人 - メフィラス星人 イカルス星人 - エレキング - ゴーロン星人 アーストロン - グドン - ゴーストロン - ゴキネズラ - コダイゴン - サドラー - ブラックキング - ベムスター ガバラ - サンダ - ガイラ ゴロザウルス - カメーバ ゴリラ - ミニラ スーパースリー - 電子鳥人Uバード - ウッドペッカー - トッポ・ジージョ - もうれつバット君 - 突撃キャット君 とびだせ!バッチリ - たまげ太くん 大村崑 - 石川牧子 - 横山やすし・西川きよし - 青空球児・好児 - 黒澤久雄 - 長谷川コッペ 山下毅雄 - 谷啓 - ハナ肇 薗田憲一 - 辻シゲル 佐々木信也 - 大下弘 - 沼澤康一郎 志生野温夫 須藤豊 巨人の好きな子この指とまれ - あいつの机 - おべんとうばこのうた - だるまさんがころんだ 日本テレビ - テレビのおばちゃま - カリキュラマシーン - ロンパールーム - おはよう!サンデー 正力松太郎 - 正力亨 - 小林與三次 本名のリダイレクト 日本の男子レスリング選手 オリンピックレスリング日本代表選手 VIAF 日本 日本のプロレスラー アマチュアレスリング出身のプロレスラー 日本プロレスに所属したプロレスラー 国際プロレスに所属したプロレスラー 全日本プロレスに所属したプロレスラー NWAに参戦したプロレスラー AWAに参戦したプロレスラー 新日本プロレスの元関係者 プロレス・エグゼクティブ オリンピック出場経験があるプロレスラー 20世紀日本の実業家 切断障害を持つ人物 障害を持つスポーツ選手 明治大学出身の人物 東海高等学校出身の人物 新潟県出身のスポーツ選手 1940年生 2002年没 ISBNマジックリンクを使用しているページ VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2025/04/01 15:13更新
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