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豊登道春の情報 (とよのぼりみちはる)
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【6月18日】今日誕生日の芸能人・有名人

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豊登 道春さんについて調べます

■名前・氏名
豊登 道春
(読み:とよのぼり みちはる)
■職業
格闘家
プロレス
■豊登道春の誕生日・生年月日
1931年3月21日 (年齢67歳没)
未年(ひつじ年)、牡羊座(おひつじ座)
■出身地・都道府県
福岡出身

(昭和6年)1931年生まれの人の年齢早見表

豊登道春と同じ1931年生まれの有名人・芸能人

豊登道春と同じ3月21日生まれの有名人・芸能人

豊登道春と同じ出身地福岡県生まれの有名人・芸能人


豊登道春と関係のある人

倍賞美津子: 新日本プロレスの旗揚げ戦時には宣伝カーのナレーションを吹き込んだり、豊登道春が紹介した融資先に自身が行ったことで1000万円を融資してもらえたりと、新日本プロレスの旗揚げには倍賞の貢献があった。


寺西勇: 大相撲廃業後は、1966年に同門の永源遙とともに豊登道春率いる東京プロレスに入ってプロレスラーに転向。


グラン浜田: 1972年3月6日の大田区体育館での新日本プロレスの旗揚げ戦にてイワン・カマロフを相手にデビュー戦を行うことが発表されていたが、当日、豊登道春が緊急参戦し、山本小鉄とタッグを組んで試合を行ったため、その煽りを受けて浜田が試合カードから外され、改めて3月16日、新日本プロレスオープニング・シリーズの対藤波辰巳戦にて、本名の浜田広秋をリングネームとしてデビュー戦を行った。


豊登道春の情報まとめ

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豊登 道春(とよのぼり みちはる)さんの誕生日は1931年3月21日です。福岡出身の格闘家
プロレスのようです。

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逸話、得意技などについてまとめました。現在、退社、テレビ、引退に関する情報もありますね。67歳で亡くなられているようです。

豊登道春のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

豊登 道春(とよのぼり みちはる、1931年3月21日 - 1998年7月1日)は、福岡県田川郡金田町(現在の福智町)出身で立浪部屋所属に所属した元大相撲力士・元プロレスラー。本名は定野 道春(さだの みちはる)。最高位は東前頭15枚目。大相撲時代の体格は、身長173cm、体重105kg。レスラー時代の体格は身長174cm、体重114kg。

立浪部屋に入門し、1947年6月場所初土俵。豊登の四股名に改め、1953年9月場所で十両優勝を果たし、1954年3月場所で幕内昇進して3場所勤*、親方との不仲により廃業。得意手は、右四つ、出し投げ、腕捻り、櫓投げ。力任せの強引な取り口だったという。

1954年10月、大相撲の先輩、力道山率いる日本プロレスに入団。11月に千葉県茂原市にて宮島富雄を相手にデビュー。1956年10月、全日本ウェート別選手権に出場し準決勝進出、頭角を現す。

その後、力道山のタッグパートナーとして海外遠征に同行したことで実力をあげ、1960年6月7日、力道山と組んでダン・ミラー&フランク・バロアを破り、第3代アジアタッグ王者となる。同王座は力道山の死後も、吉村道明やジャイアント馬場をパートナーに3回獲得した。

1963年の力道山の死を受け、1965年には日本プロレスの2代目社長に就任。ポスト力道山のエースとして、1964年にジン・キニスキー、1965年にフレッド・ブラッシーを破り、春のワールドリーグ戦連覇を果たした。

1964年12月4日、東京都体育館にてザ・デストロイヤーからWWA世界ヘビー級王座を奪取したが、デストロイヤーは帰国後も王者として防衛戦を続け、日米で2つのWWA王座が混在する事態となった(飛行機嫌いの豊登が渡米を渋り、WWAの本拠地ロサンゼルスでの防衛戦を行おうとしなかったため、WWA本部が豊登の王座奪取を無効にしたとされる)。以降、アメリカではペドロ・モラレスを経てルーク・グラハムへタイトルが渡り、最終的には1965年9月20日、ロサンゼルスに遠征してきた豊登をグラハムが下して統一王者となったが(一度は豊登が勝ち2本のベルトを巻いたが、反則絡みのため取り消し)豊登の王座戴冠はWWAのタイトル史には記録されていない。生涯のシングル王座戴冠はこのWWA世界ヘビー級王座のみである。

1965年末、生来のギャンブル好きから来る数々の横領が発覚して吉村道明ら幹部から非難を受け、ジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級王座獲得(力道山の死後封印されていたのが馬場にシングルの王座を与えるために復活)によりエースの地位が危うくなったこともあって社長を退任、日本プロレスからも退社することになった。

1966年3月、アメリカ遠征から帰国の途についていた当時日本プロレス所属のアントニオ猪木とホノルルで密会。「日本プロレスに帰ってもお前は馬場の2番手だぞ。俺の団体に来たら社長としてエースにしてやるから」と口説き落とし、猪木を伴い帰国。俗に「太平洋上の略奪」と呼ばれる。同年10月12日、蔵前国技館で東京プロレス旗揚げ戦を挙行した。

しかしここでも豊登は会社を私物扱いしており、売上金をわしづかみにして競輪場へ直行するという有様であった。テレビ放送が付かなかったこと、営業力が弱体であったこと、さらにこれらのトラブルから豊登と猪木の信頼関係が失われたことなどでわずか3か月で団体は消滅。猪木は日本プロレスに復帰した。

東京プロレス消滅後、国際プロレスに入団。1968年2月14日、サンダー杉山をパートナーにファビュラス・カンガルーズ(アル・コステロ&ドン・ケント)を下してTWWA世界タッグ王座を獲得。同年12月にはビル・ロビンソンとIWAワールド・シリーズの決勝を争った。1969年5月18日にはパリにてストロング小林とともに、モンスター・ロシモフ&イワン・ストロゴフを破りIWA世界タッグ王座の初代王者チームとなった。

1970年2月に一旦引退し、それからしばらくはプロレス界を離れて市井で働く新間寿に面倒を見てもらっていた。1972年3月、新日本プロレス旗揚げ戦に登場。復帰に関して最初は「吉原功に引退興行をしてもらって正式に引退しているからカムバックはない」「もう体力的に無理だ」と断ったが、新間が「私は豊さんが出るということで(猪木)社長から金を受け取っているんですよ」とハッタリを口にしたことで復帰を決めた。復帰に際して自転車で1日80km走る、150kgのベンチプレスを行うなどしていたが、スパーリングではすぐ息が上がったりボディスラムの感覚を忘れていたりと精彩を欠いていた。旗揚げ戦では全盛期のようなパフォーマンスを見せることはできなかったがファンからは喝采を送られた。その後も継続参戦する。

1973年、坂口征二の合流でNET(現:テレビ朝日)の新日本プロレス放映が決定し、経営の見通しが立ったことに伴い勇退。「新春バッファロー・シリーズ」最終戦(2月20日、横浜文化体育館)の対ブルーノ・ベッカー戦が現役最後の試合となった。その後は1974年10月10日、蔵前国技館での猪木VS大木金太郎戦でレフェリーを担当。以降はプロレス業界との接点を絶っていたが、1989年2月22日、新日本プロレスの『スペシャルファイト・イン国技館』で行なわれたユセフ・トルコ引退セレモニーに来賓として登場、公の場に久々に姿を見せた。

1998年7月1日、心筋梗塞のため死去。晩年は糖尿病を患っていた。67歳没。本人の意向により、葬儀は近親者のみで行われ、訃報も約2か月半公表されなかった。

逸話

豊登伝説

残された伝説、逸話は数多い。代表的なものを挙げる。

数度の金銭トラブルを起こすほどのギャンブルマニア。特に競輪に凝っていた。藤波辰爾に競輪選手への転向を本気で勧めたり、自ら自転車を手に入れて、トレーニングと称し乗り回したりしていた。

競馬にも一家言持っており、パドックで馬を見た後しか馬券を買わなかった。毛並みのつや、目、そして馬糞まで調べた。最後には「俺は馬語が解る」と言っていたという。また、競馬新聞の社長の家に1室を与えられて住んでいた。

常軌を逸した大食漢であり、好物の握り寿司を一度に250個食べたことがあるといわれる。早食いでも周囲を驚かせており、山本小鉄は「一緒にラーメンを食べに行って、こっちが一杯目を食べ終わる前に三杯目を注文していた」「色々なレスラーの中で、胃袋に関しては別格」と述懐している。

日本で初めての覆面レスラーとされる「覆面太郎(ストロング小林)」に対抗して、「ミスターZ」という青覆面のマスクマンになったことがある。

十八番は自らの手で替え歌にした「ソーラン節」。ほとんど猥歌と化していた。

失踪癖があった。これは現役引退後も続き、OB会を組織する動きが出た際、豊登の消息を知るものは誰一人としていなかった(後に判明)。

両腕を前で交差させ、脇の下から「パコン、パコン」と音を鳴らすパフォーマンスは非常に有名で、豊登の代名詞。桑田佳祐は1983年、小林克也率いるナンバーワンバンドに「プロレスを10倍楽しく見る方法〜今でも豊登を愛しています」という曲を提供したが、歌詞中にもやはり、「パコン、パコン」と小林克也が絶叫する部分がある。外国人レスラーがこの音を気持ち悪がったため、技として通用するともいわれた。新日本プロレスの旗揚げ戦でも仕上がりが悪い中でこのパフォーマンスで客の喝采を掴み取った。

山下財宝伝説を信じており、周囲のレスラー仲間に採掘の話を持ちかけたこともあった。

怪力で知られており、ある時新間寿と一緒に別府の温泉へ行って風呂に入りながら世間話をしていたら「新間にはいつも世話になっているから、一つぐらいワシの本気を見せてやろう」とタオルを左右に引っ張ってビシッと切った。また、ライトバンが山道の溝にはまったときはその怪力で一人で動かしたこともある。またグレート小鹿の回想によれば、リキ・スポーツパレスのボウリング場で、ボウリングの球をピンめがけて(転がすのではなく)放り投げたところ、球が上空に上がりすぎてしまい天井を突き破ってしまったことがある。

筋肉だけでなく骨も物凄く丈夫で、文字通り筋骨隆々であった。レスラーとしては上背がさほど無く、晩年は一般人のような体格に見えたといわれるが、火葬後の骨上げの際、その骨の大きさで周囲を驚かせた。

その他

上記のような数々の伝説を残しているが、山本小鉄の回想によると、普段は温厚で後輩に対して横暴に振る舞うことも無かったため、多くの後輩レスラーが彼を慕っていたという。東京プロレスで豊登に振り回された猪木も「若い頃は可愛がってくれましたし、本当に恨みは何もないんですよ」「豊登さんの存在がなかったら、絶対にプロレスを辞めていた」と振り返っている。しかし、そんな豊登もレスラー生活に馴染めない関川哲夫(後のミスター・ポーゴ)から長々と愚痴を聞かされて堪忍袋の緒が切れてしまい、関川の顔が腫れ上がる程に殴ったことがある。翌朝に山本と会った豊登は「やっちゃったよ…」と落ち込んでいたという。

数多くのレスラーのリングネームの名付け親で知られた。「アントニオ猪木」も彼の命名。命名の傾向としては

    時代劇の登場人物や侠客・剣客をイメージしたもの(例・田中忠治、上田馬之助、松岡巌鉄、小鹿雷三〈後のグレート小鹿〉、山本小鉄、星野勘太郎など)

    出身地からの連想(例・高千穂明久〈後のザ・グレート・カブキ〉、草津清正〈後のグレート草津〉)

    動物(例・高崎山猿吉〈後の北沢幹之〉、大熊熊五郎〈後の大熊元司〉、林牛之助〈後のミスター林〉)

    豊登が死去した際、日本テレビの情報番組『THE・サンデー』にて豊登の追悼コーナーを組み、かつてのプロレス実況アナウンサーでもあった徳光和夫が豊登のエピソードを語っていた。

    得意技

    逆エビ固め

    サバ折り

    パコンパコン

    アルゼンチン・バックブリーカー

    カナディアン・バックブリーカー

    シュミット式バックブリーカー

    エルボースマッシュ(エルボー・バット)

    ぶちかまし

2024/06/15 01:16更新

toyonobori michiharu


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