寺西勇の情報(てらにしいさむ) 格闘家/プロレス 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
寺西 勇さんについて調べます
■名前・氏名 |
寺西勇と関係のある人
冬木弘道: 国際出身者でジャパンプロレスのアニマル浜口・寺西勇も海外遠征直前に全日本へ移籍していた。 アントニオ猪木: 11月4日、国際軍団(ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇)と1対3変則マッチで対戦、寺西と浜口からフォールを奪うも木村にリングアウト負け。 ストロング金剛: 1980年6月29日には、アニマル浜口が返上して空位となっていたIWA世界タッグ王座の新王者チーム決定戦に永源遙と組んで出場、ジプシー・ジョーら外国人選手の乱入でマイティ井上&寺西勇を下し8年ぶりに同王座に返り咲いたが、半月後の7月15日に井上&浜口に奪還された。 アニマル浜口: また、技巧派で知られる同門の寺西勇や井上の動きを見習い、頭脳的(ときに狡猾)なプレーを自らのものとする。 阿修羅・原: 覆面レスラーとして試験的に試合を行った後、1978年6月29日の「'78ビッグ・サマー・シリーズ」大阪府立体育館大会にて、寺西勇を相手に素顔で正式にデビュー。 長州力: さらに、ラッシャー木村率いる国際軍団を振り切る形で長州と活動を共にしたアニマル浜口、浜口と同じく国際軍団を離れた寺西勇、タイガーマスクとの抗争で同じく新日本正規軍を敵に回していた小林邦昭、そしてレスリング日本一の触れ込みで新日本入団後、海外武者修行に出て帰国した長州の弟子ともいえる谷津嘉章らを加えて「維新軍」を結成する。 永源遥: 1980年6月にはストロング小林と組んで国際プロレスに出場、マイティ井上&寺西勇を下し、前王者アニマル浜口の返上で空位となっていたIWA世界タッグ王座を奪取した。 ジャンボ鶴田: 天龍が繰り出す激しい攻撃に触発され、鶴田も恵まれた身体能力を背景に覚醒、一般的なプロレス技で仲野や天龍を失神させる、寺西勇やアニマル浜口が全治数ヶ月の入院を余儀なくされる、といった怪物ぶりを発揮した。 石川優子: 好きな選手は寺西勇、スタン・ハンセン。 谷津嘉章: さらにマサ斎藤、寺西勇、アニマル浜口らと維新軍を復活させ、平成維震軍との抗争も始まる。 寺西正司: 寺西重郎(一橋大学名誉教授)は兄、三和ドック社長を継いだ寺西勇は弟。 大剛鉄之助: 大相撲廃業後は、1966年10月12日に東京プロレス設立に伴ってプロレスに転向し、入門同期には寺西勇・大磯武・柴田勝久・永源遙らがいた。 小林邦昭: その後は新日本プロレスの中でも反体制の維新軍団として(長州、斎藤、キラー・カーン、アニマル浜口、谷津嘉章、寺西勇)らと行動を共にし、中でも寺西とはジュニアヘビー同士ということで多くタッグを組む。 アニマル浜口: アジアタッグ王座:2回(w / マイティ井上、寺西勇) ビル=ロビンソン: また、国際プロレスでは若手選手のトレーナーも兼任し、寺西勇、マイティ井上、アニマル浜口らを指導している。 ラッシャー木村: アニマル浜口、寺西勇とともに「国際軍団」を結成、新日本プロレスにヒールとして殴り込み リック=フレアー: TV中継では、マイティ井上戦(6月30日)と寺西勇戦(7月10日)がTBS『TWWAプロレス中継』にて放送された(いずれも敗退)。 石川孝志: 佐藤とはルーファス・ジョーンズ&ビクター・リベラやグレート小鹿&大熊元司(極道コンビ)、原とはスーパー・デストロイヤー1号&2号や鶴見五郎&バズ・タイラー、井上とはアニマル浜口&寺西勇やサムソン冬木&川田利明(フットルース)などのチームを相手に防衛戦を行った。 長州力: 長州側の陣容は、ジャパンプロレス時代に1986年8月全日マットで謀反を起こしたカーン、そして当時引退状態にあったアニマル浜口、全日本にそのまま残った谷津嘉章、寺西勇らを除き、マサ斎藤、小林邦昭、カルガリーハリケーンズのリーダースーパー・ストロング・マシン、またマシンとともに常に行動を共にしていたヒロ斎藤、更に専修大学の後輩でジャパンプロ出身の馳浩、そしてジャパンプロ生え抜きの佐々木健介といった選手らと反新日体制を率いる。 アニマル浜口: 10月8日、新日本プロレスとの対抗戦に出場、そのまま木村や寺西勇と共に国際軍団として新日本に参戦する。 佐山聡: 8月4日、デビュー戦と同じ蔵前国技館で行われた寺西勇戦の試合前に改名を予告し、ファンに新リングネームを当てさせるクイズ企画も用意された。 ラッシャー木村: 1981年10月、国際の解散に伴い、残党のアニマル浜口、寺西勇と共に新日本プロレスに参戦し、アントニオ猪木との抗争を開始。 剛竜馬: その後剛と吉原並びに選手会との話し合いが行われ、剛は「自分は国際を退団するつもりはない」と弁明したが草津・井上・寺西勇は激怒し、井上は「新日本に行った暁にはぶっ殺すから」と発言したという。 |
寺西勇の情報まとめ
寺西 勇(てらにし いさむ)さんの誕生日は1946年1月30日です。富山出身の格闘家
プロレスのようです。
ファイトスタイル、エピソードなどについてまとめました。現在、引退に関する情報もありますね。寺西勇の現在の年齢は78歳のようです。
寺西勇のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)寺西 勇(てらにし いさむ、1946年1月30日 - )は、富山県射水郡(現:射水市)出身で立浪部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー。本名:寺西 等(てらにし ひとし)。大相撲時代の四股名は寺西(てらにし)、最高位は三段目1枚目。 大相撲の立浪部屋に入門し、1963年5月場所に本名の寺西の四股名で初土俵を踏んだ。しかし伸び悩んでしまい、入門3年後の1966年5月場所をもって廃業した。大相撲廃業後は、1966年に同門の永源遙とともに豊登道春率いる東京プロレスに入ってプロレスラーに転向。同年10月21日、団体旗揚げ戦においてデビュー(相手は竹下民夫)。東京プロレス崩壊後はラッシャー木村らと共に国際プロレスに移籍する。 1973年10月6日、高岡市民体育館で行われた第5回IWAワールド・シリーズで国際プロレスのエースでIWA世界ヘビー級王者のストロング小林から逆さ押さえ込みでフォール勝ちしている。小林は予選落ちとなり、ラッシャー木村が優勝した。 1975年3月13日、茨城県境町体育館において稲妻二郎を破り、IWAミッドヘビー級(現在で言うジュニアヘビー級)王座を獲得し、3度防衛。防衛相手の中には、後のトップレスラー、リック・マーテルも含まれている。またその技術が評価され、1976年にはプロレス大賞・技能賞を受賞している。同年5月8日には、大宮スケートセンターにてジ・インフェルノと初の金網デスマッチを行っている。 しかし国際も1981年に崩壊し、ラッシャー木村・アニマル浜口とともに「国際軍団」を結成して新日本プロレスに殴り込みをかける。1983年・84年頃は浜口とともに長州力の維新軍に参加し、小林邦昭と共にジュニアヘビー級戦線で活躍する。1983年8月、維新軍在籍時に初代タイガーマスクの新日マット最後の対戦相手となる。その試合はタイガーマスクの保持するNWA世界ジュニアヘビー王座への挑戦でもあった。そのままジャパンプロレスにも合流する。1985年7月、浜口とアジアタッグ王座を獲得。 1987年にジャパンが崩壊した後は谷津嘉章らと共に全日本プロレスの一員となったが1992年、怪我により一旦引退。全日本スタッフの一員として裏方の仕事に従事するが、1シリーズのみで公の場から姿を消した。1994年、ジャパン時代の同僚である谷津嘉章が率いるSPWFで現役復帰、平成維震軍と昭和維新軍の対抗戦でも谷津とともに維新軍の一員として出場した。その後はプロレス界を離れて解体業関係の仕事をしていた。 2002年の新日本プロレス創立30周年記念大会(東京ドーム)では、アニマル浜口らと共に来賓として会場で観戦した。 現在の近況は不明。 ファイトスタイル大相撲出身者にありがちなパワー一辺倒ではなく、アクロバティックな素早い動きや連発のドロップキックを駆使するスタイルを貫き、マイティ井上らに影響を与えた。現在ジュニアヘビー級の選手がよくやる、ショルダースルーを食らっても足から着地して反撃するムーブを、日本人レスラーで最初に見せたのも寺西である。また、こういったスタイルを得意にする選手の多くはメキシコなどで修行を積んでいるものだが、寺西には海外修行の経験がない。 田中忠治の「身体が大きく見える」というアドバイスを取り入れ、国際プロレス時代から白いトランクス(ショートタイツ)を身につけ、リングシューズも白く白装束であった。 技術を買われ、新人選手や初参戦選手の査定試合に起用されることが多かった。1979年7月に初来日したダイナマイト・キッドの来日第一戦の相手を務めたほか、阿修羅・原のデビュー戦の相手も務めた。全日本参戦時も若手選手とのシングルマッチが多く組まれ、バックドロップをフィニッシュホールドに多用し前座の壁として立ちはだかり、若手の育成に貢献した。 なお、1980年1月にキッドの国際プロレスへの再来日が予定され、シリーズ第2戦で対戦する予定だったが、キッドが新日本プロレスへ移籍したため、国際プロレスにおける再戦は実現しなかった。 練習熱心であり、国際でビル・ロビンソンから仕込まれたためシュートの心得もあった。国際プロレスが新日本プロレスと対抗戦を始めた際の第一戦が寺西・アニマル浜口 vs. 長州力・木戸修戦であり、両団体とも何かあった時に対処できるシュートの強い選手を出してきている。 エピソード「和製(エドワード・)カーペンティア」の異名があったが、国際に参戦したころのカーペンティアはすでに全盛期を過ぎており、寺西自身はカーペンティアに強い印象を持っていない。 国際プロレス最後のシリーズのポスターには「寺西修」と誤記されている。 「勇」はリングネームだが、自らの実子には勇と名付けている。 プロレス好きであるシンガーソングライターの石川優子は「好きなプロレスラーは誰ですか?」の質問に迷わず「寺西勇さんですね」と答えていた。 2024/06/23 23:54更新
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teranishi isamu
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