佐山聡の情報(さやまさとる) 格闘家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
佐山 聡さんについて調べます
■名前・氏名 |
佐山聡と関係のある人
小林邦昭: 前田日明が佐山聡との対談内で語ったところによれば、今も抗がん剤治療を続けているとのことであったが、2020年の段階ではPET検査を年1回受けているものの、薬はのんでいないとのことである。 アントニオ猪木: 前田日明(猪木の関係する旧UWFへエースとして参加→崩壊)、佐山聡(旧UWF→シューティング→UFO→決裂→和解→IGF参戦)、高田延彦(「PRIDE」で共闘するも後に絶縁)、いわゆる闘魂三銃士(武藤敬司=全日本プロレスへ移籍、蝶野正洋=IGF GM→退任、橋本真也=ZERO ONE設立)などである。 藤原喜明: 持ち前の関節技のテクニックを披露し、関節技の藤原vs.キックのスーパータイガー(佐山聡)の試合は今までのプロレスになかったリアリティある名勝負となり、プロレスマスコミのバックアップもあり硬派のファンの注目を集める。 前田日明: 体格が大型であることから、新日本からは将来のエース候補として期待され、1982年2月に海外修行でイギリスへ渡り、「サミー・リー」(佐山聡)の弟というギミックのもと、クイック・キック・リー( 坂本一生: 天龍源一郎のプロレス団体WARでのリングアナウンサーを経て、1999年、佐山聡主宰の格闘技団体「掣圏道」に入門しプロレスラー転向を目指すが断念。 中村頼永: 卒業後はアニメーターをしながら、佐山聡が主宰する「スーパータイガージム」で修斗の特訓も受ける。 朝日昇: 1986年、専修大学入学と同時に、当時三軒茶屋にあった佐山聡のスーパータイガージムに入会、修斗を学ぶ。 獣神サンダー・ライガー: 唯一、三沢と違った面はヘビー級とジュニアヘビー級の違いは別として、山田=ライガーは「生涯マスクマンとして現役を終える」と公言しており、三沢もアニメや漫画のタイガーマスクは好きだったが「自分は佐山聡さんのコピーではない」と強調しており、素顔で戦う道を選んだ。 橋本真也: 猪木以外にもタイガーマスクこと佐山聡にも憧れており、若手時代はタイガーの四次元プロレスの真似ばかりしていたという。 前田日明: 1977年、佐山聡の目に止まり、やがて新日本プロレスへ入門。 長谷川初範: そのため、この間は俳優業を制限して佐山聡が開いた「タイガージム」に通い、身体を鍛えることで喘息の克服に努めていた。 カール=ゴッチ: 居住していたフロリダ州タンパにおいて、藤波辰巳、木戸修、藤原喜明、佐山聡、前田日明らプロレスラーを数多く育成する。 中村頼永: ブルース・リーをはじめ、色々な格闘技のファンであり、上記のように佐山聡認定シューティスト(修斗最高ランク)である。 大仁田厚: 2012年初頭からは、リアルジャパンプロレスでの佐山聡、ZERO1での曙との抗争を立て続けに宣言したことをきっかけに、「邪道軍」としての活動を活発化。 藤川のぞみ: 初代タイガーマスク こと佐山聡率いるリアルジャパンプロレス初の女性ゲストとして、後楽園ホールのリングに登場し主催者の初代タイガーマスクにかけて「虎柄のパンティーをはいてきました。 ヒクソン=グレイシー: 「ビーチでのストリートファイトも含めてそれぐらいの試合を経験した」と本人が佐山聡に語ったところ、それがキャッチフレーズとして使われ続けることになった。 小林邦昭: 増量してしまった佐山聡に対しては度々、苦言を呈している。 矢口壹琅: 修斗の佐山聡やSAWの木村浩一郎らとも稽古した。 前田日明: その後、UWFは佐山聡の影響によりキックと関節技を中心とした格闘技色の濃いプロレススタイル(後にUWFスタイルと呼ばれる)に移行するが、「格闘技の試合は月に一度」と言う“競技志向”の佐山と「会社が大変なんだから試合を増やそう」という“興行志向”の前田が対立し、佐山は退団、後にUWFは解散。 小林邦昭: また、2007年9月21日には、リアルジャパンプロレスの後楽園大会で、佐山聡を相手に1試合限定の復帰戦を行った。 橋本真也: もっとプロレスラーは強いんだぞってところを見せてもらわないと困る」とコメントし、小川のセコンドについていた佐山聡も「セメントマッチ」であったと語っている。 沢村忠: 佐山聡は「格闘技を好きになったのは、小学生の時に沢村さんをテレビで観てから。 菊田早苗: 小学校6年の時に佐山聡のスーパータイガージムに入門。 高橋広樹: 特に佐山聡のファンだったという。 キューティー鈴木: この頃には横浜のスーパータイガージムを訪れ、佐山聡の指導も受けている。 安田顕: 現在では、初代タイガーマスクであった佐山聡のタイガーマスクを所持している。 三沢光晴: タイガーマスク時代の三沢は、初代タイガーマスク(佐山聡)が確立した華麗な空中技を受け継ぐ必要に迫られた。 アントニオ猪木: 2013年2月20日、古希を祝うパーティーが東京都港区のホテルオークラ東京で催され、坂口征二、小川直也、藤波辰爾、藤原喜明、木村健悟、佐山聡、ジョージ高野、前田日明、北沢幹之、蝶野正洋、棚橋弘至、橋本大地、スタン・ハンセンらかつての愛弟子・ライバルや、各界から千葉真一・谷隼人、デヴィ・スカルノ、船越英一郎、九重親方、南部虎弾、野村克也&野村沙知代夫妻など、660人が祝福に駆けつけた。 藤原喜明: 巡業先の旅館で連日、ドン荒川、佐山聡らと女風呂を覗きに行った。 和田安生: プロレスラーの佐山聡は小中学校時代の同級生。 |
佐山聡の情報まとめ
佐山 聡(さやま さとる)さんの誕生日は1957年11月27日です。山口出身の格闘家のようです。
引退、父親、テレビ、卒業、結婚、脱退、趣味、現在、事件、映画、病気に関する情報もありますね。今年の情報もありました。佐山聡の現在の年齢は66歳のようです。
佐山聡のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)佐山 聡(さやま さとる、1957年11月27日 - )は、日本の男性プロレスラー、格闘家。総合格闘技の元祖とされる競技・シューティング(のちの修斗)の創始者。山口県下関市長府出身。血液型B型。 1976年に新日本プロレスでプロレスラーとしてデビュー。若手時代はメキシコ、イギリスで活躍。イギリスではサミー・リーをリングネームに。 1981年にタイガーマスク(初代)に扮し、空中技を駆使したファイトスタイルで国民的な人気を集め、一大プロレスブームを巻き起こした。 1983年に理想の格闘技確立を目指して現役を引退したが、1984年には現役復帰してザ・タイガー、スーパータイガーのリングネームで第1次UWFに参戦した。 1984年に総合格闘技団体「修斗」、1999年には武道団体・「掣圏道」を創始、2004年に「掣圏道」を「掣圏真陰流」と名称変更、2005年には「リアルジャパンプロレス(のちのストロングスタイルプロレス)」を旗揚げ。 2020年まで掣圏真陰流興義館総監を務めた。 2020年、掣圏真陰流の運営に幕を閉じて興義館を閉館し、総合格闘技「佐山道場」を立ち上げる。 2022年から新武道「神巌流総術」を発表、2023年に名称を「神巌流総道」に決定。 格闘家以外に武道家、思想家としても活動している。 1957年11月27日、山口県下関市長府に産まれる。誕生から3日後には「佐山稔」と名付けられたが、父親が「えらい」という意味を込めて「聡」と名付けられた。 小学校2年生時に兄に連れられ、家の近くの乃木神社の境内にある道場で柔道を始める。当時の佐山は警察官になってゆくゆくは警視総監になることを将来の夢としており、当時書いた作文には「たくさんのどろぼうを、つかまえようとおもいます」と書いていた。しかし、小学校4年時にキックボクシングのテレビ番組で沢村忠を見たことで格闘技に興味を惹かれるようになる。佐山にとって沢村は好きな野球選手だった王貞治とともに憧れの対象となったが、やがて憧憬の対象がキックボクシングからプロレスへと移り、また中学校時代に来日したミル・マスカラスの大ファンとなった。 中学校では柔道部に所属し、3年時の秋には下関市代表として山口県中学校秋季体育大会に出場している。中学卒業後は高校に進学せずにプロレスラーになろうと考えていたが、担任と父親から猛反対されたため山口県立水産高等学校に入学し、レスリングに入部。入学直後に出場した大会の75kg級で第3位となると、後に国体候補選手にも選ばれ、11月に行われた新人戦の75kg級で優勝する。しかし、佐山はこれでプロレスラーになれると感じたことで高校を中退する意思を固め、新日本プロレスに入門するために上京したい旨を父親に伝えた。ここで父親と激しく衝突したが、最終的に父親が根負けし、父が紹介する仕事に就くという条件を付きで佐山は上京をすることとなった。 上京した佐山は千葉県千葉市の工場に勤務することとなったが、体を動かす機会が自主トレーニング以外になくなったため会社のサッカー部に入り、背番号3をつけて千葉県内の企業のサッカー部で作られたリーグ戦「京葉リーグ」にも出場した。しかし、父親は工場の同僚たちに対し、佐山をプロレスに近づけないようにしてくれと手を回しており、後にこれに気付いた佐山は怒りからこの工場を退職。退職後は柏市の新聞販売店に就いたが、この職場も父親の紹介だったためすぐに退職した。 前述の新聞販売店を退職後は1974年8月から南千住のレストランに住み込みで働き始めた。また、このレストランに入った後に自宅へ無事を知らせる手紙を出したが、この時父に対して「これがもうお父さんに返事を聞く最後の手紙です」と前置きしたうえで「プロレスラーになってもよろしいでしょうか?」と強調した文を書いていた。この直後に新聞社と連絡を取って新日本プロレスの入門テストを受けることになった。後楽園ホールで行われた入門テストをクリアして新日本への入門が決まった。 1975年7月に新日本の道場に入門。入門の前に一度新日本を訪れているが、その時は新間寿から、身長が170cmを超えて体重が70kgになったら連絡するように促され、実際に身長が172cm、体重が72kgになってから再訪、そこで後楽園ホールで行われた試合に連れて行ってもらった。新間が新日本の弟子を独断で採用したのは佐山の時が初めてであり、アントニオ猪木からは最初「あんなちっこいの」呼ばわりされたが、その練習熱心さから次第に猪木も佐山を認めるようになった。 1976年5月28日に魁勝司戦でデビューし、57戦目となる栗栖正伸戦で初勝利を挙げている。初勝利までは1引き分けを挟んで55連敗を喫したが、試合内容は良かったと言われている。佐山は道場での練習に執心していたが、他の格闘技の技術を習得しようと考えるようになり、黒崎健時が目白に創設したキックボクシングジムの目白ジムに入門し、新日本での練習と並行して同ジムでトレーニングを積んだ。入門2年目からは猪木の付き人になった。 1977年には梶原一騎主催の「格闘技大戦争」で、全米プロ空手ミドル級第一位のマーク・コステロと両者ボクシンググローブ着用・統一ルールの下で対戦した。1Rこそ果敢にバックドロップや反り投げなどの投げ技を繰り出したものの(ただし反則)、コステロの激しい蹴りを浴び続け、6ラウンド戦い抜いての判定負けを喫した。なお、この試合に負けたから打撃を取り入れた格闘技に傾倒していったのではなく、元々リアル指向で、会社に内緒で打撃の練習をしていた。佐山はこの試合での悔しさから直後に一人で合宿に出かけ、この合宿でバック回し蹴りやローリングソバットを思いついたという。後に佐山は、コステロ戦に関して「立ち技系の相手にタックルが通じるのか?」「相手のパンチとキックをかわしつつタックルから相手を投げる事が出来るのか?」を実践するためにあえて反則覚悟で投げ技を使用したと発言しており、試合後に佐山の意図を理解していない人たちからは負けた事で非難されたが、猪木だけはその意図を理解し「よくやった」と褒められたという。 1978年、佐山は新日本副社長の坂口征二からメキシコへ遠征に行くように指示され、同年6月に現地へ向かった。佐山は猪木から「格闘技の選手として育てる」と伝えられていたため釈然としていなかったが、1975年にUWAに選手を引き抜かれたEMLLオーナーのカモウ・ゴンザレスがプロモーターのマイク・ラベールに、海外から「メキシコに定住し、興行の柱になるプロレスラー」のスカウトを依頼され、ラベールが付き合いのあった新日本に「身軽で動けるレスラー」を打診したところ、佐山が選ばれたというものだった。 佐山はグアダラハラに5か月ほど滞在した後にメキシコシティへ移り、先輩の木村健吾と共同生活をしながらメキシコで暮らすこととなった。メキシコでは環境や食生活の違いから体調を崩し、一時期体重が20kg近く減るなど、苦労したという。新日本での前座時代は使う技が限られていたが、メキシコでは自分の技を試すようになり、後の得意技となるローリングソバットやサマーソルトキックを披露し、1979年9月にはNWA世界ミドル級王者となるなど活躍した。なお、漫画「プロレススーパースター列伝」では、メキシコ時代に覆面レスラー『ティグレ・エン・マスカラド』および目に隈取を施したペイントレスラー『ミスターカンフー』として活動したと紹介されているが、これらはフィクションであり、実際は本名の『サトル・サヤマ』として素顔で活動している。その後、カール・ゴッチの家でトレーニングを積み、イギリス人レスラーのピート・ロバーツと合流し、ロンドンへ向かった。 ロンドンについた直後、佐山はロバーツとともに現地のレスラーにマーシャルアーツショップへ連れていかれ、黄色に黒のラインが入ったジャンプスーツを着て、「サミー・リー」のリングネームでブルース・リーのファミリーとして試合に出るように要請された。1980年10月8日にサミー・リーとしてのデビュー戦を行ったが、回し蹴りや飛び技を次々と披露し、その派手な動きに観客から拍手を送られた。その後の現地で試合を重ねるごとにサミー・リーの人気は高まり、、イギリス各地のプロモーターの間で引っ張りだこの存在となった。 1981年、佐山は新日本プロレスの営業本部長だった新間寿から「いい話があるから戻ってこい」とのコレクトコールを受ける。しかし、当時の佐山はサミー・リーとして英国マット界で多大な人気を獲得しており、マーク・ロコとのタイトルマッチを目前に控えていたこともあって帰国を断るが、新間から「もう話は進んでいる、テレビ朝日と梶原に対して顔が立たない」「アントニオ猪木の顔を潰さないで欲しい」と説得され、一試合だけと念を押して日本に一時帰国することを受け入れた。 タイガーマスクとしてのデビュー戦の2日前となる4月21日、佐山は日本へ帰国した。この時期にはテレビ朝日系列でアニメ『タイガーマスク二世』の放送が開始され、デビュー戦となる23日の蔵前国技館大会で「実物のタイガーマスク」がデビューするという予告も流れていた。しかし、新間によるとマスクの発注を失念してしまい、直前にスタッフが既製品を改造して短時間で作り上げたものを用意したという。その結果、マスクは雑な作りの粗悪なものとなり、マントもまるでシーツのようであった。 1981年4月23日、蔵前国技館におけるダイナマイト・キッド戦でデビューを飾る。この試合で佐山はイギリスで披露していたステップを踏む動きや蹴り技を見せ、ジャーマン・スープレックス・ホールドで勝利したものの、イギリスの観客のように技を出すと総立ちになるという反応がなかったため、観客の反応が悪いと感じていたという。 しかしながら、新日本プロレス伝統のストロングスタイルに全米プロ空手流の打撃技と武者修行先で培ったルチャリブレの空中殺法とを織り交ぜた革新的なレスリングスタイルは、全国的に空前のタイガーマスクブームを巻き起こした。そのファイトスタイルは、実況の古舘伊知郎によって「四次元プロレス」「四次元殺法」と形容された。タイガーマスクの試合を中継した『ワールドプロレスリング』の視聴率は、ほぼ毎週25%を超え地方興行も空前の大入り満員が続いた。子供たちの間では、新日本プロレスの看板レスラーであるアントニオ猪木を凌ぐほどの人気を獲得していた。 1981年5月18日にはメキシコのアレナ・プエブラにて、ビル・ロビンソン&エル・ソリタリオとトリオを組み、カネック、ビジャノ3号、スコルピオと6人タッグマッチで対戦した。ロビンソンはタイガーマスクについて「ベリーグッドだ。レスリングのできる者でなければ不可能なムーブができていた」などとコメントしている。同年12月8日の蔵前国技館大会では、カネックとのシングルマッチも行われた。 1982年1月1日、王座決定戦でダイナマイト・キッドを破りWWFジュニアヘビー級王座を獲得。5月25日にはレス・ソントンからNWA世界ジュニアヘビー級王座を奪取、WWFとNWAのジュニアヘビー級王座を史上初めて統一した。この時期の代表的な好敵手としては、デビュー戦の相手でもあったキッドをはじめ、後にWWF世界ヘビー級王者となるブレット・ハート、英国でも抗争を繰り広げたブラック・タイガー、ビリー・ライレー・ジム出身のスティーブ・ライト、ローラン・ボックからも技巧派として高く評価されたピート・ロバーツ、そして「虎ハンター」として名を馳せた小林邦昭などが挙げられる。また、猪木や藤波辰巳と組んでの6人タッグマッチにも出場し、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ワフー・マクダニエル、スーパースター・ビリー・グラハム、バッドニュース・アレン、ダスティ・ローデス、マスクド・スーパースター、ドン・ムラコ、グレッグ・バレンタイン、ボブ・オートン・ジュニアなどヘビー級の外国人選手とも対戦した。 1982年はジュニアヘビー級王者としてアメリカのWWFにも遠征し、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでは8月30日にキッド、11月22日にカルロス・ホセ・エストラーダ、フィラデルフィアのスペクトラムでは11月25日にエディ・ギルバートを相手に防衛戦を行ったこともある。同年11月から12月にかけてのWWFサーキットでは、12月4日にマサチューセッツ州スプリングフィールドにて、当時のWWFヘビー級王座のトップコンテンダーだったプレイボーイ・バディ・ローズを破り、12月7日にはペンシルベニア州アレンタウンにて、当時WWFを主戦場としていたミスター・サイトーことマサ斎藤からも勝利を収めている。サーキット中は、斎藤のパートナーだったミスター・フジや若手時代のカート・ヘニングとも対戦した。 人気絶頂の最中、新日本プロレスでの活動には突然終止符が打たれた。1983年5月に漫画『タイガーマスク』の原作者である梶原一騎が講談社編集者への暴行容疑で逮捕され、社会的影響度から改名問題が浮上する。8月4日、デビュー戦と同じ蔵前国技館で行われた寺西勇戦の試合前に改名を予告し、ファンに新リングネームを当てさせるクイズ企画も用意された。しかし、8月10日に新日本プロレスに対して契約の解除を一方的に告げ、突如引退を宣言した。契約解除の通告書では、タイガー人気で得られた収益が猪木の個人事業「アントン・ハイセル」へ流用されていることを糾弾した(8月末に社内クーデター騒動が勃発し、猪木が社長を一時辞任)。佐山個人は結婚式を海外で極秘に挙げるようフロントから強要されたことに憤りを感じており、タイガーブームの仕掛け人である新間と佐山の個人マネージャーだったショウジ・コンチャが対立していたという事情もあった。 9月21日付の東京スポーツに素顔の写真が掲載され、タイガーマスクの正体が佐山であることが公開される。テレビ朝日系のバラエティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』にゲスト出演し、自らあっさりとマスクを脱ぎテレビで素顔を公表した。 新日本プロレスでタイガーマスクとして活動した2年4か月間のシングル通算戦績は155勝1敗9分けで、この1敗はキッドをフェンスアウトさせての反則負けであり、シングルとタッグを含めて一度もフォール負けがない(メキシコではWWFジュニアヘビー級王座の防衛戦で、1982年12月12日にペロ・アグアヨから、1983年6月12日にフィッシュマンから、それぞれ1フォールを奪われたことがあるが、スコアの上では勝利を収めた)。 初代タイガーマスク時代、1982年10月26日の大阪府立体育館での対戦を初めとし、小林邦昭に何度もマスクを破られたり、剥ぎ取られそうになった。それまでの覆面レスラーにもマスク剥ぎがなかったわけではないが、基本的には覆面レスラーのマスクには手を掛けないのが暗黙の了解で、小林のように毎試合マスクに手をかける行為はそれまでなかったものであった。 それ以後、歴代タイガーマスクや、女子プロレスにおける派生キャラクター、タイガードリーム、タイガーエンジェル等の試合でも、マスク剥ぎが「お約束」として必ず入っている。後に佐山は小林と対談した際に、マスク剥ぎのことに触れて「先輩(小林)がのし上がるためならと、僕は我慢していたんですよ」と語っているが(両者は実際には仲が良かった)、実際それ以降の小林は『虎ハンター』として完全にブレイクする。 人気絶頂期での引退発表を行った頃、自身のジム「タイガージム」を設立。ザ・タイガーとして、ほぼ同時期に新日本プロレスを退団した山崎一夫をインストラクター兼スパーリングパートナーに迎え、新格闘技と称して新しいスポーツを模索する中、1984年7月23日、24日にUWFの「無限大記念日」興行に約1年振りの現役復帰。高田伸彦と組んで、前田日明、藤原喜明とのタッグマッチを行った。 ザ・タイガーのマスクデザインは額の赤いマークが廃され、新格闘技ではアップライトスタイルからのキックが重要になってくるため、スポーツとして蹴られた相手を必要以上に傷つけない様、脛当て(レガース)が佐山により考案された。この時期にも、バラエティ番組では自らマスクを脱ぎにらめっこ勝負を行なったりしていた。 UWF正式入団時にスーパータイガーと改名(タイガージムが商標登録しているザ・タイガーの名称が使用できないため)。紫×銀のマスク+コスチュームに一新。藤原との試合でがぶられて(上からホールドされること。レスリングでよく使われる言葉)スタミナを失い、アームロックから逃れられずに腕を脱臼したことから、スーパー・タイガー名義のままで素顔にて試合をするようになる。自身のジムは一旦閉鎖し、「スーパータイガージム」として後に再スタートする。 リング上では前田、藤原、高田、木戸修、山崎らとの日本人対決を軸に壮絶な試合を行ない、「UWFはプロレスではなくシューティング」自分達を「シューター」と称した。公式ルールの制定にも着手するが、スポーツライクな、競技としてのシューティングを確立しようとする佐山と他の選手との間には徐々に溝ができていた。そして1985年9月2日。大阪府立臨海スポーツセンターで行われた試合で、特に不信を抱えていた前田からセメントを仕掛けられる。張り手や膝蹴りを多用し、グラウンドの佐山にローキックをする等、前田の尋常ならざるファイト、精神状態を懸念した佐山が、腹部に入った右膝を金的アピールしてレフェリーに試合を止めさせた(結果は18分57秒スーパー・タイガーの反則勝ち)。これがきっかけとなって、佐山は10月11日にUWF脱退を表明。看板選手を失った団体は活動休止に追い込まれ、佐山以外の選手は新日本プロレスと業務提携することになる。 前田との関係はまだ完全ではないもの、2006年に真樹日佐夫の仲介で行われた『週刊文春』での前田との対談で一定の修復はなされ、その後は電話で話すなど仲直りしている 。
現役復帰初代タイガーマスク基金の設立獲得王座
WWFジュニアヘビー級王座…第6代(防衛6回)、第8代(防衛16回)、第9代(防衛1回) NWA世界ジュニアヘビー級王座…第34代(防衛4回)、第35代(防衛2回) TWA認定世界タッグ王座…第3代(パートナーは安生洋二) 1981年度プロレス大賞 大衆賞 1982年度プロレス大賞 最優秀選手賞 1982年度プロレス大賞 技能賞 1984年度プロレス大賞 技能賞 全盛期は体重が軽くパワーもそれほど強くないタイプであったが、1975年12月の新日本の忘年会で腕相撲を行うと並み居る選手達に対して圧倒的な強さを見せつけた。ミスター高橋は、瞬発力や運動神経に優れ、腕相撲の「コツ」を掴んでいたことが佐山の腕相撲で強さを発揮した要因なのだろうと考察しており、さらに「最強かもしれない」と腕相撲の実力を評価した。 普段は物腰柔らかな人柄であるが、怒ると鬼の如く豹変してしまう。「師匠であるアントニオ猪木、同郷の先輩である長州力でさえ佐山が感情を爆発させたときには手に負えない」、「思想的に極右である」と言われるほか、スーパータイガージムでは上達のままならない弟子に対して「殺すぞ」といった言葉を口にすることもあり、ジムの会員が減少するきっかけになっていたといわれる。また、1991年9月に足利工業大学付属高校で行われた修斗の合宿では、弟子たちを蹴り倒す・平手打ちをする・竹刀で叩く・といった映像が記録された。ただし、佐山によるとこれは意図的なもので「うちはこれだけ厳しい練習をやっているんだよ、と外に見せるため」であり、他団体に対する威嚇行為だったという。 朝日昇は「佐山さんが朝日昇という名前を付けたのに普段は『あさのぼり君』と呼ぶ。滅茶苦茶で酷い。真面目に生きた人は耐えられない。久々に会ったら『あさのぼり君、時代は催眠術だよ』と言われて、次元が違う。天才」と語った。 朝日昇・川口健二は「スーパータイガージムには、生徒が沢山いたために佐山さんは会員の名前が覚えられず、風貌のイメージで仇名で呼んでいた。何とか苗字を覚えられても下の名前が覚えられない。佐山は大会開催時に伊藤という選手の下の名前が分からないため本人に知らせずに『伊藤四郎』にしてしまい、パンフレットに載せてしまった。伊藤は試合場の控室でパンフレットを見てショックを受けたが他選手は大爆笑した」と明かしている。 スーパーライダー - 初代シューティングウェルター級チャンピオン。 北原光騎 - シューティング出身、スーパータイガージムのインストラクターも務めた。 タイガーマスク(4代目) - シューティング出身、のちに新日本プロレス所属となる。 間下隼人 - 歴代の弟子の中でもかなりの強烈な趣味を持つ。ストロングスタイルプロレスや武道 掣圏などに出場している。 その他にストロングスタイルプロレスで活動しているスーパータイガー(2代目)やインディーで活動しているブルーシャークなど。 渡部優一(佐山によるアダ名(判明している物のみ表記)以下、アダ名:ナベ) - 懐刀の存在。修斗ウェルター級初代王者。「スーパータイガージム群馬道場」を主宰。 川口健次(アダ名:カワゴエ) - 修斗時代の愛弟子。現役時代は「シューティング最強の男」と呼ばれた。「シューティングジム横浜」を主宰。 朝日昇(アダ名:あさのぼり君) - 修斗時代の弟子。「奇人」の異名を持つ。「東京イエローマンズ」を主宰。 中井祐樹 - 修斗時代の弟子。ブラジリアン柔術「パラエストラ」の最高指導者。 エンセン井上 - 修斗時代末期の弟子。ヘビー級の実力者。ブラジリアン柔術を日本に普及させた功労者。「PUREBRED」を主宰。 中村頼永 - 日本国内の「截拳道」の最高指導者。修斗時代の佐山の指導を受け、北原と共にインストラクターも務めた。「USA修斗」代表。 田中健一(アダ名:サボテン) - 修斗ライト級初代王者。「スーパータイガージム田中塾」塾長。「格闘結社田中塾」時代の弟子に、高谷裕之らがいる。 関島康人(アダ名:セキ)、石川義将(アダ名:館長)、坂本一弘、桜田直樹(アダ名:スナカケ)、伊藤裕二(アダ名:伊藤チャン)、山田学、本間聡、草柳和宏(アダ名:ぜんじろう(善次郎?))、九平、他多数。 桜木裕司 - 2010年10月現在、日本のメジャー興行の参戦経験はないが、アルティメットボクシングや総合格闘技、キックボクシングの興行でも多数試合をしており、マルチに活動している。 瓜田幸造 - アルティメットボクシングや総合格闘技の興行でも多数試合をしている。「興義館」から独立し「掣圏会」を主宰。現在も「GRACHAN」や「Fighting NEXUS」に現役プロ格闘家として出場し活躍中。 直系の弟子はその他にも多数(「佐山聡の弟子」と呼ばれるのは上記のような「プロのリングで試合出場した選手」のみを指し、単に「スーパータイガージム」「掣圏真陰流」に在籍する一般会員一人一人のことを正しくは「会員」「生徒」「ジム生」「道場生」「門下生」と呼び、全員を「弟子」とは呼ばない)。 「バーニング・タイガー」(ブレイン・ウォッシュ・バンド) - タイガーマスクのデビュー戦で使用。ただし生演奏。 「タイガーマスク二世」(水木一郎、コロムビアゆりかご会)- 1981年夏頃までと1982年前半に使用。 「おまえは虎になれ」(村松とおる)- 1981年9月の田園コロシアム大会から年末まで使用。のちに弟子の4代目タイガーマスクが使用。 「燃えろ! 吠えろ! タイガーマスク」(古舘伊知郎)- 1982年後半から1983年の引退まで使用。 「バーニングタイガー」(佐山聡) - 本人歌唱(入場曲の予定も、実際は本人が恥ずかしがって使用されず)。 「アイ・オブ・ザ・タイガー」(サバイバー) - スーパータイガーとして第1次UWF参戦時に使用。 「虎覇王(ヴィクトリーロード)」(ネバーランド) - スーパータイガーとして第1次UWF参戦時のイメージ曲であり、入場時には使われていない。 「行け!タイガーマスク」(新田洋) - アニメ「タイガーマスク」のオープニング曲であり、現在の入場テーマ曲。 『スーパー・タイガーシューティング―格闘技最強への道』(1984年、山手書房) 『佐山聡のシューティング入門 : 打投極』(第1刷)講談社、1986年8月20日。ISBN 4062027119。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12146819/。 『佐山聡のシューティング上級編―パンクラチオンへの道』(1989年、講談社)ISBN 978-4062032391 『ケーフェイ』(1995年、ナユタ出版会)ISBN 978-4795220720 『ザ・格闘家―最強を目指した戦士たちの素顔』(1999年、光文社)ISBN 978-4334972325 『佐山聡の掣圏道』(2000年、ぴいぷる社)ISBN 978-4893741448 『ブレイヴ・オン・ハート 真の勇者とは―キレたら負ける』(2001年、ビジネス社)ISBN 978-4828409092 『護身―最強のリアルテクニック』(2002年、日本文芸社)ISBN 978-4537201024 『佐山原理 新生武道真陰』(2010年、東邦出版)ISBN 978-4809408502 『「リアル不動心」メンタルトレーニング』(2014年、講談社)ISBN 978-4062728799 新間寿、ミスター高橋、ターザン山本ほか『新日本プロレス10大事件の真相』(2015年、宝島社)ISBN 978-4800239884 ビクトル古賀(著作、監修)『これがサンボだ!』佐山聡(技術協力)、ベースボール・マガジン社、1986年6月。ISBN 4-583-02564-5。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12146863/。 STライターズ『佐山サトル―プロレス・シューティング・バーリ・トゥード』(1996年、エスエル出版会)ISBN 978-4846301590 布施鋼治、若林太郎『佐山聡のバーリ・トゥード必勝法―“何でもあり”の闘い方』(1997年、学習研究社)ISBN 978-4054004023 『初代タイガーマスク Ultimate Guide』(2015年、ダイアプレス)ISBN 978-4862149893 『KAMINOGE vol.44 不死身の虎!佐山サトル』(2015年、東邦出版、編集:KAMINOGE編集部)ISBN 978-4809413339 『KAMINOGE vol.52』(2016年、東邦出版、編集:KAMINOGE編集部)ISBN 978-4809413933 『KAMINOGE vol.64』(2017年、東邦出版、編集:KAMINOGE編集部)ISBN 978-4809414800 『初代タイガーマスク(G SPIRITS ARCHIVES vol.1)』(2018年、辰巳出版)ISBN 978-4777820306 田崎健太『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』(2018年、集英社インターナショナル)ISBN 978-4797673562 ザ・タイガーマスク(1983年、ディスコメイトレコード、DSK-4004)
ハングリーアングリータイガー/どぶねずみ(2005年4月27日、東芝EMI、TOCX-2415)
^ ただし、新日本所属レスラーであることを隠して入門していた。練習を積むうちに佐山の運動神経、反射神経の鋭さが目立ってプロレスラーであることが知られ、ジムから猪木にも連絡が行った際には首を覚悟したが、猪木から呼び出された際に練習熱心だと褒められたという。 ^ 後の新間寿の証言によると、佐山は新間の説得を受けて帰国に踏み切ったがイギリスの税金の未払いがあったため、新間は元総理大臣であった福田赳夫に掛け合ってロンドンの日本大使館とイギリス政府と外交交渉の末帰国させたという。 ^ 入場時に拍手はほとんどなく、この時佐山は、観客の「何者なのだ、どんなプロレスを見せてくれるのだ」という視線を感じていたという。 ^ 田崎 2021, p. 25. ^ 田崎 2021, p. 16. ^ 田崎 2021, p. 27. ^ 田崎 2021, p. 29-30. ^ 田崎 2021, p. 34. ^ 田崎 2021, p. 35. ^ 田崎 2021, p. 40-44. ^ 田崎 2021, p. 44-45. ^ 田崎 2021, p. 46-47. ^ 田崎 2021, p. 52. ^ 田崎 2021, p. 53. ^ 田崎 2021, p. 56-57. ^ 田崎 2021, p. 59. ^ 田崎 2021, p. 60. ^ 田崎 2021, p. 63. ^ 田崎 2021, p. 65. ^ 田崎 2021, p. 66-68. ^ 田崎 2021, p. 68-69. ^ 田崎 2021, p. 69. ^ 新間 2016, p. 62. ^ 田崎 2021, p. 69-71. ^ 田崎 2021, p. 91. ^ 田崎 2021, p. 97. ^ 田崎 2021, p. 106-108. ^ 田崎 2021, p. 109-110. ^ 新間 2016, p. 63. ^ 田崎 2021, p. 122. ^ 田崎2021, p. 123. ^ 佐山聡が反則連発の「実験」 キックボクシングの試合で敗戦もアントニオ猪木は「よくやった」と褒めたたえた 集英社スポルティーバ2022年10月4日6時45分(2023年10月4日閲覧) ^ 田崎 2021, p. 126. ^ 田崎 2021, p. 128. ^ 田崎 2021, p. 129-130. ^ 田崎 2021, p. 131-135. ^ 田崎 2021, p. 136-137. ^ 田崎 2021, p. 139-144. ^ 田崎 2021, p. 147-148. ^ 田崎 2021, p. 148-149. ^ 田崎 2021, p. 153. ^ 田崎 2021, p. 159-161. ^ 田崎 2021, p. 166-167. ^ Gスピリッツ Vol.40 2016, p. 16. ^ 田崎 2021, p. 167. ^ KAMINOGE Vol.64 2017, p. 104. ^ 新間 2016, p. 68. ^ 田崎 2021, p. 170. ^ 田崎 2021, p. 171-172. ^ Gスピリッツ Vol.26 2012, p. 77. ^ “NJPW 2nd Madison Square Garden Tag League - Tag 19”. Cagematch.net. 2017年11月23日閲覧。 ^ “WWFジュニアヘビー級選手権”. Wrestling-Titles.com. 2011年10月2日閲覧。 ^ “NWA世界ジュニアヘビー級選手権”. Wrestling-Titles.com. 2011年10月2日閲覧。 ^ Gスピリッツ Vol.23 2012, p. 72. ^ “The NJPW matches fought by First Tiger Mask in 1982”. Wrestlingdata.com. 2014年9月11日閲覧。 ^ “The WWE matches fought by First Tiger Mask in 1982”. Wrestlingdata.com. 2014年9月11日閲覧。 ^ “WWE Yearly Results 1982”. The History of WWE. 2013年1月5日閲覧。 ^ 塩沢 2008, p. 50-51,69. ^ 塩沢 2008, p. 64. ^ 塩沢 2008, p. 80. ^ Gスピリッツ Vol.15 2010, p. 49. ^ カクトウログ(2006年4月16日)) ^ カクトウログ(2012年4月20日)) ^ 扶桑社ムック『俺のプロレス Vol.04 覆面の告白』(2022年、扶桑社)24頁 ^ “藤波と長州13年5カ月ぶり一騎打ち”. デイリースポーツ. 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(2018年8月16日). https://wpb.shueisha.co.jp/news/sports/2018/08/16/106850/ 2018年9月10日閲覧。 塩沢幸登『U.W.F戦史 1983年〜1987年 誕生勃興編』河出書房新社、2008年8月。ISBN 978-4309907864。 新間寿『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 新間寿の我、未だ戦場に在り! 獅子の巻』ダイアプレス〈DIA COLLECTION〉、2016年7月。ISBN 978-4802301886。 田崎健太『真説・佐山サトル タイガーマスクと呼ばれた男』集英社〈集英社文庫〉、2021年4月。ISBN 978-4087442380。 ミスター高橋『知らなきゃよかった プロレス界の残念な伝説』宝島社、2018年10月。ISBN 978-4800289216。 柳沢健『1984年のUWF』文藝春秋、2017年1月。ISBN 978-4163905945。 『Gスピリッツ Vol.15』辰巳出版〈タツミムック〉、2010年3月。ISBN 978-4777807727。 『Gスピリッツ Vol.23』辰巳出版〈タツミムック〉、2012年3月。ISBN 978-4777810055。 『Gスピリッツ Vol.26』辰巳出版〈タツミムック〉、2012年12月。ISBN 978-4777811168。 『Gスピリッツ Vol.40』辰巳出版〈タツミムック〉、2016年6月。ISBN 978-4777817078。 『KAMINOGE vol.64』東邦出版、2017年3月。ISBN 978-4809414800。 タイガーマスク ケーフェイ プロレスの星 アステカイザー - 若手時代に数回モブ役で出演 1984年のUWF 初代タイガーマスク後援会 佐山道場チャンネル - YouTubeチャンネル 佐山サトルオフィシャルサイト 掣圏真陰流 bushido.jp 掣圏真陰流 オフィシャルサイト 初代タイガーマスク 佐山サトルのブログ 初代タイガーマスク(佐山サトル)OFFICIAL BLOG「虎の穴」 SSR(掣圏真陰流)ハートセラピー オフィシャルサイト 初代タイガーマスク基金 - ウェブアーカイブ 一般財団法人 初代タイガーマスク基金 (592645034155968) - Facebook 表 話 編 歴 タイガーマスク二世 タイガーマスクW 梶原一騎 辻なおき 真樹日佐夫 佐山聡(初代タイガーマスク、ザ・タイガー、スーパータイガー) 三沢光晴 金本浩二 タイガーマスク (4代目) タイガー・エンペラー ブラック・タイガー タイガーマスクW 虎の穴 講談社 東京スポーツ 東映アニメーション 読売テレビ 日本テレビ テレビ朝日 日本テレビ系列木曜夜7時枠のアニメ テレビ朝日系列月曜夜7時台枠のアニメ テレビ朝日深夜アニメ枠 新日本プロレス 全日本プロレス みちのくプロレス タイガーマスク運動 VIAF 日本 佐山聡 日本のプロレスラー ジュニアヘビー級のプロレスラー 日本の総合格闘家 新日本プロレスに所属したプロレスラー WWEに参戦したプロレスラー CMLLに参戦したプロレスラー タイガーマスク 覆面レスラー UWFに所属したプロレスラー 日本のプロモーター 総合格闘技プロモーター 総合格闘技の関係者 総合格闘技のトレーナー ストロングスタイルプロレス IGFに参戦した選手 プロレス・トレーナー プロレス・エグゼクティブ 修斗 参議院議員通常選挙の立候補経験者 日本の男性YouTuber 自由連合の人物 山口県出身のスポーツ選手 1957年生 存命人物 2024/11/21 11:15更新
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sayama satoru
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