三沢光晴の情報(みさわみつはる) 格闘家/プロレス 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
三沢 光晴さんについて調べます
■名前・氏名 |
三沢光晴と関係のある人
村上和成: 10月6日、プロレスリング・ノアに初参戦を果たし、タッグマッチで三沢光晴と対戦。 福澤朗: 『全日本プロレス中継』の実況に抜擢されると、「ジャストミート!!」とスタン・ハンセンのウエスタン・ラリアット、小橋建太のムーンサルトプレス、川田利明の顔面蹴りで、「ファイヤー!!」と三沢光晴のダイビング・エルボーでそれぞれ連呼して広く知られる。 レオン=ホワイト: 5月の東京ドーム大会(馬場の追悼興行)で三沢光晴に敗れて三冠王座を陥落したものの10月に奪還。 松下笑一: 大阪移籍以来名乗っている現在の笑一は、プロレスリング・ノア社長の三沢光晴が命名した。 佐山聡: 12月には、これまで試合での接点が全くなかった(1988年4月2日、両国国技館で行われた「格闘技の祭典」で、当時シューティングのエキシビションを行った佐山を激励する形で一緒のリングに上がったことはあったが)二代目タイガーこと三沢光晴との初対決がやはりタッグマッチで行われた。 川田利明: 三沢光晴はいつまでも、オレの1つ上の先輩の力を持っていてください」と意味深長な言葉を述べ、再戦を匂わせた。 添野義二: プロレスラーの三沢光晴にエルボーを伝授し、川田利明にもキックを習得させた。 小橋健太: 2011年6月13日、三沢光晴メモリアルナイトが行われた、大阪府立体育会館第二競技場大会の前半戦終了後リングに姿を現し、翌月7月23日に大阪府立体育会館で行われる「GREAT VOYAGE 2011 in OSAKA」大会での復帰を発表した。 ジャンボ鶴田: また10月の大阪府立体育会館での6人タッグ戦では、鶴田のエルボーが三沢光晴の鼻を直撃し、三沢が鼻骨を骨折してしまう。 新屋豊: NOAH 三沢光晴 スタン=ハンセン: 三沢光晴曰く、ハンセンが放つラリアットは「冗談抜きで目の前に星が飛ぶ」ほどの威力だという。 維新力: 実兄は国際プロレスのリングアナウンサー→国際プロレス崩壊後は全日本プロレスでバス運転手→三沢光晴の独立後はプロレスリング・ノアと、メジャー団体で裏方として働いていた飯橋一敏。 イジリー岡田: 三沢光晴 宮原健斗: (中略)(ベルトが似合う1人目は)三沢光晴さん」など今までにない大胆なコメントを残した。 スタン=ハンセン: チャンピオン・カーニバルでは1992年と1993年で2連覇を達成した(2度とも決勝の相手は三沢光晴。 杉浦貴: 練習生のまま三沢光晴が新たに旗揚げしたプロレスリング・ノアに移籍。 青柳政司: その後、WWFマニアツアーに参戦後、東京プロレスやレッスル夢ファクトリーを渡り歩き、2000年に三沢光晴がプロレスリング・ノアを旗揚げすると、斎藤と共に参戦。 蝶野正洋: 10月3日、ノア・大阪府立体育会館で行われた三沢光晴追悼興行に参戦した。 藤波辰爾: 同5月のドーム大会でジャンボ鶴田の付き人を務めたことのあるNOAHの三沢光晴とタッグを組み、「楽しかった。 垣原賢人: 解散後は他の選手たちのようにPRIDEやリングスなど格闘技団体ではなく全日本プロレスに参戦、Uインター時代の同僚高山善廣、ゲーリー・オブライトと第2次TOPとして活動した後、三沢光晴率いるアンタッチャブルの一員となって活躍した。 中邑真輔: 2009年1月4日東京ドーム大会で後藤洋央紀と組み、プロレスリング・ノアの三沢光晴、杉浦貴組と対戦。 武野功雄: 三沢光晴、天龍源一郎など全日本プロレス出身レスラーと交友関係がある。 永源遥: 現役引退後も、永源はプロレスリング・ノアの常務取締役として営業面を統括する要職にあったが2009年6月、社長である三沢光晴が試合中の事故で亡くなったことに伴い、同年7月に開かれたノアの臨時株主総会で常務取締役を辞任して相談役に退いた。 スコット=ビガロー: 同年6月には全日本プロレスにも5試合のみ参戦し、デイビーボーイ・スミスと組んでのテリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムスとの対戦や、スタン・ハンセンとのタッグチーム(三沢光晴&小橋健太に勝利)も実現。 百田光雄: 2000年6月に三沢光晴らとともに全日本プロレスを退団。 川田利明: 1991年度プロレス大賞 最優秀タッグチーム賞(パートナーは三沢光晴) 小橋健太: 1990年4月9日 - 二代目タイガーマスク(三沢光晴)と組んで、初のベルトであるアジアタッグ王座を獲得。 仁志敏久: 「スパルタンX」三沢光晴入場曲(2009年) 丸藤正道: 入門から5ヶ月でのデビューは師匠の三沢光晴と並ぶ異例の早さである。 清宮海斗: 小学生の頃にレンタルビデオ店で借りた、2001年GHCヘビー級初代王者決定トーナメント三沢光晴vs 高山善廣戦のビデオをきっかけに三沢光晴に憧れる。 |
三沢光晴の情報まとめ
三沢 光晴(みさわ みつはる)さんの誕生日は1962年6月18日です。北海道出身の格闘家
プロレスのようです。
父親、母親、テレビ、ドラマ、卒業、結婚、引退、事故、家族、解散、映画、離婚、兄弟、現在に関する情報もありますね。今年の情報もありました。2009年に亡くなられているようです。
三沢光晴のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)三沢 光晴(みさわ みつはる、1962年6月18日 - 2009年6月13日)は、日本の元男性プロレスラー。本名:三澤 光晴(読み同じ)。北海道夕張市出身、埼玉県越谷市育ち。血液型O型。1981年に全日本プロレスにてデビューし、同団体のトップレスラーとして活躍した後、2000年にプロレスリング・ノアを旗揚げした。 1962年6月18日、北海道夕張市に生まれる。父親は北海道炭礦汽船に勤務していたが、三沢が生まれて間もなく夕張炭鉱が閉山同然の状態となったため、一家は埼玉県越谷市へ転居した。そのため、三沢に北海道での記憶は全くないという。三沢の母親は「樹」という文字が好きだったため「秀樹」と名付けるつもりだったが、父親がそれを無視し、当時のテレビドラマの主人公だったという「光晴」名で勝手に出生届を出してしまったため「光晴」と名付けられた。 三沢は子供のころから体が大きかったが、当時から運動神経が良く、小学校時代には越谷市が開催した走り幅跳びの大会で優勝したこともある。ただし、三沢曰く幼稚園の頃から家に一人でいることが多かったといい、近所でやっていた少年野球チームに入ろうとしたことがあったものの仲間と打ち解けることができず、「意外に内向的な子供だったんですよ」と振り返っている。なお、小学生の頃の三沢はボクサーになりたいと思っていた。 中学校に入学すると器械体操部に入部。2年生の時、テレビで全日本プロレス中継を見て「観るよりやるほうが絶対におもしろい」と直感した三沢はプロレスラーを志すようになる。三沢は中学校を卒業してすぐにプロレスラーになるつもりだったが、担任の教師と母親にレスリングの強い高校へ進学して基礎を学んでからの方がよいと説得され、埼玉県内にレスリング部があるのは埼玉栄高校だけだったため、当時2年連続でインターハイを制していた足利工業大学附属高等学校に特待生として進学し、同校のレスリング部に入部した。三沢は高校の3年間を学校の寮で過ごし、ハードな練習に明け暮れる日々を送った。三沢は入学して1か月が経った頃に行われた練習試合で他校の2年生を相手に勝利し、3年時には国体(フリースタイル87kg級)で優勝するなど活躍したが、三沢にとってレスリングはプロレスラーになるための手段に過ぎず、競技自体を好きになることはなかった。 なお、三沢は高校2年時に寮を抜け出し、当時六本木にあった全日本プロレスの事務所を訪れ、入門を志願したことがある。この時はジャンボ鶴田から「頑張って高校を卒業してから来なさい。俺は大学を卒業してからプロレス入りしたんだから、決して遅くはないと思うよ」と諭されて断念している。 高校卒業後の1981年3月27日、全日本プロレスに入門。同年8月21日に浦和競馬場正門前駐車場で行われた越中詩郎戦でデビューした。入門から5か月でのデビューは全日本プロレス史上最速であった。1983年にはルー・テーズ杯争奪リーグ戦に出場して決勝に進出し、越中に敗れて優勝はならなかったものの、この試合の特別レフェリーを務めたルー・テーズは「日本で見た若手選手の試合のベストバウトじゃないか」とこの試合を高く評価した。三沢の1年前に入門したターザン後藤によると、三沢は受身を覚えるのが早く、瞬く間に自身と同じレベルに達したといい、またコーチ役だった百田光雄によると、三沢はあらゆる種類の受け身を1回教えれば大体覚えたという。冬木弘道によると三沢は当時から天才タイプで、「(三沢は)誰かから『あれやってみろ』と言われたこと」がすぐにできたといい、頭の中でイメージした動きができる理想的なレスラーだと評している。ジャイアント馬場は、練習において受け身の音を聞いただけで三沢が受け身をとったことがわかったとされている。 もともと全日本プロレスではジャイアント馬場以下、ジャンボ鶴田、タイガー戸口、天龍源一郎、ロッキー羽田、桜田一男などの大型レスラーが重視される傾向にあったが、若手レスラーの指導に当たっていた佐藤昭雄の後押しを受けて頭角を現すようになる。ちなみに、当時の全日本プロレス練習生の月給は5万円であったが、三沢だけは特別に7万円貰っていた。 1984年春、三沢は越中とともにメキシコへ遠征に出発した。当初は越中・三沢ともに本名で試合に出場していたが、後に越中は柔道や空手を連想させる白の道着風のロングトランクスに「必勝」と書かれた鉢巻を巻いて日章旗を持った出で立ちの『サムライ・シロー』、三沢は赤ラメのジャンパーに白いラインが入った赤のロングタイツという出で立ちの『カミカゼ・ミサワ』というリングネームに改名して試合に出場していた。しかし、数か月が経ったある日、三沢は馬場から国際電話で「コーナーポストに飛び乗れるか」と問われ、飛び乗れると答えたところ直ちに帰国するよう命じられた。三沢は7月22日にメキシコから日本へ極秘帰国し、馬場から2代目タイガーマスクとなるよう命令を受ける。三沢は初代タイガーマスク(佐山聡)のファンから二番煎じ扱いされるのではと抵抗を感じたが、2代目タイガーマスクは全日本、ジャパンプロレス、梶原プロダクション、日本テレビによる一大プロジェクトとなっており、すでにデビュー戦のスケジュールは組まれていた。 2代目タイガーマスクとなった三沢は7月31日の蔵前国技館大会にてお披露目され、8月26日に行われた田園コロシアム大会でのラ・フィエラ戦でデビューした。当初はジュニアヘビー級戦線で活躍し、初代の佐山を相手に「虎ハンター」と称された小林邦昭との抗争を展開。1985年8月31日には小林を破ってNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得したが、同年10月にヘビー級に転向した。 1986年にはアメリカに遠征し、4月19日にNWAのジム・クロケット・プロモーションズがルイジアナ州ニューオーリンズのスーパードームで開催したタッグチーム・トーナメント "Crockett Cup" に馬場とタッグを組んで参戦、シード出場した2回戦でジミー・ガービン&ブラック・バートに勝利したものの、準々決勝でロニー・ガービン&マグナムTAに敗退した。4月20日にはミネソタ州ミネアポリスのメトロドームで開催されたAWAの "WrestleRock 86" に出場、AWA世界ライトヘビー級王者バック・ズモフから勝利を収めた。1988年1月2日には後楽園ホールにて、カート・ヘニングが保持していたAWA世界ヘビー級王座に挑戦している。 タイガーマスク時代の三沢は、初代タイガーマスク(佐山聡)が確立した華麗な空中技を受け継ぐ必要に迫られた。これでは三沢が本来目指すプロレスを前面に出せないことを意味し、三沢はそのことに苦しんだ。そのため三沢はヘビー級に転向した理由について、「ファンが望む空中技をふんだんに取り入れつつも、2代目タイガーマスクとしての個性の確立を目指すようになったためであった」と説明している。空中技を多用したことで三沢の膝には負担がかかり、左膝前十字靱帯断裂を引き起こし、負傷箇所の手術を受けるため1989年3月から1990年1月にかけて長期欠場を余儀なくされた。 三沢のタイガーマスク時代に全日本プロレス中継の実況アナウンサーを務めていた倉持隆夫によると、三沢にはアメリカのプロレス界ではマスクマンは負け役で地位が低いという意識があり、そのため取材の際には本名で呼びかけないとまともな受け答えをしてもらえなかったと回顧している。倉持はタイガーマスク時代の三沢を「劇画のヒーローになったのだから、もっと劇画の世界のように、奇想天外な、自由奔放な発言をして、メディアを煙に巻くぐらいの話をすればいいのに、根が真面目な三沢青年は、最後までマスクマンレスラーになれなかったのだ」と評している。タイガーマスク時代の三沢は自己主張を強く行わなかったため、「口の重い虎戦士」と呼ばれた。週刊ゴング元編集長の小佐野景浩は2代目タイガーマスクとしての三沢について、「ヒーローは常に強くなければいけないのに、『やられてばかりで勝てないタイガーマスク』という印象が強い」とし、日本人・外国人選手にしても相手は格上ばかりだったためどうしても受けのファイトになってしまったこと、また当時の全日本は両者リングアウトなどの不透明決着で終わる試合が多かったことで三沢の勝率も決して高くはなかったため、「その意味で三沢タイガーは気の毒だった」と述べている。ただし、2代目タイガーマスクとして受けに回っている場面を多く経験したことで、「それは後の"不屈の三沢"を培ったと思う」と述べている。 なお、全日本では「タイガーマスクは1年に1つ新しい技を開発する」と宣伝していたため、三沢がタイガーマスク時代に開発した技の名前には「タイガー・スープレックス'84」といった具合に開発年がついている。ちなみに、三沢は2代目タイガーマスクとして活動していた最中の1988年5月に結婚したが、その際に記者会見で夫人がマスクを脱がせる演出によって4年5か月ぶりに公の場で素顔となって正体を明かし、その上で2代目タイガーマスクとしての活動は続行するという、覆面レスラーとしては異例の行動に出ている。 1990年春、天龍源一郎が全日本を退団しSWSへ移籍したことで、複数のプロレスラーが天龍に追随した(SWS騒動)。この騒動により、全日本は天龍対鶴田という当時の黄金カードを失うことになり、存亡の危機に晒された。騒動の最中の5月14日、「マスクマンが上を狙うのは限界がある」と感じていた三沢は、この日の試合中(東京体育館、タイガーマスク&川田利明 vs 谷津嘉章&サムソン冬木)、パートナーの川田にマスクの紐を解くように指示して唐突に素顔に戻り、脱いだマスクを客席に向かって投げ入れた。この試合から2日後の16日にはリングネームを「三沢光晴」に戻すことを発表し、ポスト天龍に名乗りを上げた。 三沢は川田利明、小橋健太らと共に超世代軍を結成。1990年6月8日に「全日の『強さ』の象徴」と見られていた鶴田とのシングルマッチで勝利を収め、1992年8月22日にはスタン・ハンセンを破って三冠ヘビー級王座を獲得するなど、超世代軍の中心レスラーとして活躍した。超世代軍とジャンボ鶴田を中心とする鶴田軍の世代抗争は全日本の新たな名物カードとなった。特に超世代軍は高い人気を獲得し、全日本に大きな収益をもたらした。仲田龍(リングアナウンサー。後にプロレスリング・ノア取締役)によると超世代軍は女性人気が高く、1993年に「超世代軍といくハワイツアー」を開催した際には、参加者143人のファンのうち140人が女性のファンだったという。永源遙は、超世代軍の人気は初代タイガーマスクを凌ぐほどであったと述べている。三沢はこの時期にエルボーやフェイスロックといった必殺技を習得した。 1992年7月、ジャンボ鶴田が内臓疾患で長期休養を余儀なくされたことによって超世代軍と鶴田軍の抗争は終了し、同時に三沢は実質的なエースとなった。超世代軍の活動は1993年に川田が離脱したことで区切りを迎え、以降は小橋・川田・田上明とともにプロレス四天王の一人として全日本プロレスの中心を担った。三沢は1992年8月から1999年10月にかけて三冠統一ヘビー級王座を5度獲得、21度防衛。1994年3月5日には全日本の象徴的存在であったジャイアント馬場からタッグマッチでフォール勝ちし、名実ともに同団体を代表するレスラーとなった。 超世代軍が結成された当時、馬場は凶器攻撃、流血、リングアウト・反則・ギブアップによる決着のない試合よりも、3カウントフォールによってのみ決着するプロレスを理想とするようになり、三沢たち超世代軍のレスラーは馬場の理想を具現化すべく、大技をカウント2.9で返し続ける激しい試合を行うようになった。プロレス四天王の時代になると、三沢達は次第に考案者である馬場の想像すら凌駕する激しい試合を繰り広げるようになった。馬場は三沢が川田と対戦した1993年7月29日の三冠戦について、「三沢と川田の勝因なんて、テレビ解説者として恥ずかしいが、高度な展開すぎて、俺にはわからないよ」と放送席でコメントし、同じく川田と対戦した1997年6月6日の三冠戦は、馬場が「あまりにもすごい」と涙したほど激しい試合として知られている。三沢自身はその中でも小橋との戦いを「持てる力のすべてを発揮し、極限の力を見せることができる」戦いとして認識しており、両者の試合の激しさは三沢自身が死の恐怖を感じることがあったほどであった。小橋は1997年1月20日に三沢の挑戦を受けた三冠戦の数日前に、母親に対して電話で「もし俺に何かあっても、決して三沢さんのことは恨まないでくれ」と伝えたことが知られている。受け身の技術が向上していくのと並行して危険な投げ技の攻防が注目されるようになり、このような大技を連発するプロレスは「王道プロレス」、「四天王プロレス」と呼ばれ、プロレスファンの絶大な支持を集めた。レフェリーとして三沢の試合を裁いた和田京平によると、試合中の三沢はどんなに攻撃を受けても音をあげず、「大丈夫か?」と問いかけると「大丈夫」と答えて試合を続ける意思表示をしたという。 全日本プロレスではジャイアント馬場の妻である馬場元子が会社の運営について大きな発言権を有し、試合会場での実務や対戦カードにまで口出しする状況が続いていた。仲田龍によると、1996年に三沢は元子に反発を覚えるレスラーや社員を代表する形で、元子本人に「周囲の人間の声に耳を傾けた方がよい」という内容の忠告をしたことがあったという。これがきっかけで三沢は元子と対立するようになり、1998年には馬場に対して所属レスラーを代表する形で「元子さんには現場を退いてもらえないでしょうか」と直談判するなど、対立を深めていった。 1999年に馬場が死去すると、マッチメイクなど現場における権限を譲り受けていた三沢はレスラーの支持を受けて後継の社長に就任した。ただし、馬場の死後約3カ月間もの間紛糾した末の人事であった。三沢は就任時に「いいものは採り入れて、今までとは違う新しい風を吹き入れてやっていきたい」と抱負を語ったものの、株式は三沢ではなく元子が保有しており、何をするにも自分に断りを入れるように要求する元子の前に思うように会社を運営することができなかった。 三沢がマッチメイクの権限を所有するようになってからはピンフォールによってのみ決着するスタイルは崩れ、リングアウトやギブアップで決着する試合が出るようにはなったものの、三沢は1998年に当時秋山準と組んでいたタッグを解体して前座での出場が多かった小川良成とタッグを結成して世界タッグ王座を獲得、また中堅に埋もれていた大森隆男が主張を始め、フリーとして全日本に参戦していた高山善廣とタッグを結成してアジアタッグ王座を獲得、さらに四天王の戦いに秋山準が絡むようになり、こうした全日本の変化をマスコミは「三沢革命」と称した。しかし、和田京平によると元子は三沢が決めたマッチメイクに対して必ず反対意見を出したといい、また仲田龍によると、三沢には馬場の運営方針を100%受け継ぐことが要求され、新たな試みを行うことは一切禁じられたという。三沢は会社の経費削減についても考えなければならず、巡業の際の移動手段や宿泊先なども変更を検討していたが、元子はこのようなことに関しても「馬場全日本の伝統を崩す行為」と捉えていたことで、三沢は会社の収支を考えなければならない一方で、「馬場全日本」の伝統とも向かい合わなければならない板挟みとなっていた。 三沢は全日本の社長としてこうした環境を経験したことで、ノア旗揚げ後に上梓した自伝『船出』において、「オレのやろうとすることが、尊敬する馬場さんが作り上げたプロレスを汚すと言われ、更に全日本らしくないと非難されるなら、俺の方から身を引く」と全日本退団を決意する原因になったと述懐している。さらに三沢は経営に関する不透明な部分を目にするうちに全日本に対する不信感が募り、その結果プロレスそのものに対して愛想が尽きかねない心境になり、そうなる前に退団した方がいいと思うようになったとも述べている。 2000年5月28日、臨時取締役会において三沢は社長を解任された。6月に入って東京スポーツが「三沢 社長解任」と報道し、同月13日に三沢は定例役員会において取締役退任を申し出、これをもって三沢は全日本を退団することになった。三沢は既に退団後に新団体を設立する構想を抱いており、16日に行われた記者会見において改めて全日本退団を発表すると、自身を含めて会見に同席したレスラー24人で新団体を設立することを宣言した。当初の三沢の構想は居酒屋を経営しながら5人の新人を育成し、3試合ほどの小さな興行を催すというものであったが、三沢以外に9人いた取締役のうち5人が三沢に追随して退任するなど社内から三沢の行動に同調する者が続出、全日本を退団して新団体に参加するレスラーは練習生を含め26人にのぼり、スタッフも含めて50人近くの賛同者が出た。一方、全日本への残留を表明した選手は川田利明、渕正信の2人に、当時留学生扱いだったマウナケア・モスマンを含めた3人だけだった。 予想より多くの選手が新団体への参加を表明したため三沢は仲田龍と共に資金繰りに苦しみ、三沢は自身の保険を解約し、さらに自宅を担保に金を借り入れて選手たちの給料に充てた。その後、18日に催された「ジャンボ鶴田メモリアル献花式」において、鶴田夫人の保子は今回の件について、「主人が生きていたら、三沢君の行動を支持していたと思います。でも、三沢君に全日本の名前を潰す権利はない」とコメントした。 7月4日、新団体の名称は「プロレスリング・ノア」(由来は『創世記』に登場するノアの方舟)に決まったことが発表され、三沢は記者会見において自身が目指す「理想のプロレス」について、「抽象的ですが、選手とファンがどっちも楽しめるプロレスを目指していきたいと思います」と語った。8月5日にディファ有明で旗揚げ戦が行われ、当日のチケットはわずか20分で完売し、前日夜の時点で当日券を求める100人以上のファンが列をなし、前売券も完売した。当日は三沢の指示で急遽会場外の駐車場に大型ビジョンを設置し、チケットが手に入らなかったファンのために無料で視聴できるサービスを展開し、1300人が大型ビジョンで観戦した。ディファ有明は三沢と行動をともにした仲田龍と関係の深い施設で、ノアの事務所と道場もここに置かれた。 なお、三沢には全日本退団後に興行主(プロモーター)が主催する売り興行に出場する契約があったため、その興行主への配慮から7月に全日本の大会に4日間出場している。全日本所属選手として最後の試合となったのは20日の博多スターレーンでの試合となったが、13日に愛媛県松山市のアイテムえひめで行われた試合では、試合を終えて退場する際に観客から「裏切り者」と罵声を浴びせられた。これに対し三沢は「お前にとっての裏切り者ってどういうものなのか聞いてみたいよ」、「オレの人生をその人が保証してくれるのか」と怒りを露わにした。 仲田龍いわく、ノア旗揚げ後の三沢は常に体調が悪く、思うように練習ができない日々が続いた。しかし、三沢はノア旗揚げ以降1度も試合を欠場せず、GHCヘビー級王座を3度(初代、5代、11代)、また小川良成とのコンビでGHCタッグ王座を2度(2代、8代)獲得。2007年にはGHCヘビー級王者として1年間防衛を続け、それまで縁のなかったプロレス大賞MVPに当時史上最年長(45歳)で選出された。また2009年5月6日には潮崎豪とのコンビで第2回「グローバル・タッグ・リーグ戦」の優勝を果たした。 三沢は激しい試合の代償で視神経や脳神経にダメージが及び、全日本時代から思った通りに言葉が出ない、日中でも立ちくらみがするといった症状に悩まされていたが、晩年は頸椎に骨棘と呼ばれる棘状の軟骨が増殖して下を向くことも後ろを振り向くことも困難になり、右目に原因不明の視力障害が起こるなど体力面の不安が深刻化した。頚部は歯を磨く、ガウンの襟の部分が当たる、寝返りを打つだけで痛みが走る状態にあり、さらに肩、腰、膝にも慢性的な痛みを抱えていた。この頃の三沢は周囲に「辞めたい」「引退したい」と口にすることが多くなっていたが、生前の三沢と親交があった徳光正行によると、一度自ら休養することを進言したことがあったが、その時に三沢から次のように反論されたという。 2009年6月9日、東京スポーツの取材に応じた三沢は「もうやめたいね。体がシンドイ。いつまでやらなきゃならないのかなって気持ちも出てきた。」と吐露していた。それから4日後の6月13日、三沢は広島県立総合体育館グリーンアリーナ(小アリーナ)で行われたGHCタッグ選手権試合に挑戦者として出場(【王者チーム】バイソン・スミス&齋藤彰俊 vs 【挑戦者チーム】三沢&潮崎豪)。試合中、齋藤の急角度バックドロップを受けた後、意識不明・心肺停止状態に陥った。リング上で救急蘇生措置が施された後、救急車で広島大学病院に搬送されたが、午後10時10分に死亡が確認された。46歳没。三沢が意識を失う前にレフェリーの西永秀一が「試合を止めるぞ!」と問い掛けた際に、かすかに「止めろ…」と応じたのが最後の言葉となった。 翌14日、広島県警察広島中央警察署は、三沢の遺体を検視した結果、死因をバックドロップによって頭部を強打したことによる頸髄離断であると発表した。 週刊ゴング元編集長の小佐野景浩や日本の複数のプロレス団体でリングドクターを務める林督元は、三沢が受けたバックドロップ自体は危険なものではなく受け身もとれており、三沢の死は事故であったという見解を示している。週刊プロレス編集長(当時)の佐久間一彦は、「本当に普通のバックドロップで、技にも受け身にもミスがなかった。あれは危ないシーンではなかった」と証言し、一連の連続写真は佐久間の判断で週プロにも掲載された。一方でプロレス関係者やファンの中には、三沢の死は過激な試合を繰り返したことで蓄積したダメージによって引き起こされたものであり、「頭から落とす四天王プロレスの帰着点」であると捉える者もいた。前田日明は「不運な事故ではない」と明言し、「三沢が落ちた瞬間に、全身がバッと青ざめた」という証言を伝えている。一方でザ・グレート・カブキは、三沢の首に激しい試合によってダメージが蓄積されていたことを認めつつも、「(バックドロップでマットに叩きつけられて)首がいったくらいで即死はないと思うんですよ」とし、齋藤に体を持ち上げられた瞬間に心筋梗塞がきたのではないかと推測している。蝶野正洋は当時の三沢の体調面の問題だけでなく、「(2005年に亡くなった)橋本(真也)選手のように、経営者としての心労が大きかったのではないか」と思ったといい、加えて試合と治療に追われて身体を休めることができなかったことで、過労死のような形に近かったと受け取っていると述べている。 6月19日に東京・中野区の宝仙寺にて密葬が行われ、200人が参列した。法名は「慈晴院雄道日光」。遺影には「リングの上の栄光の瞬間や社長としてのスーツ姿ではなく、2000年に1度だけ参戦した耐久レースにおいてレーシングスーツを着て笑っている写真」が家族の意向で選出となった。日刊スポーツは「トップレスラーとしてプロレス団体社長として家族として責任を背負い続けてきたので、最後くらいは解放させてあげたい」という家族の配慮があったのかもしれないと推測した。同日には日テレジータスが約4時間の追悼特番を編成するなどし、ノア中継から撤退していた地上波の日本テレビでも追悼特番が献花式後の深夜に放送された。なお、最後の試合になったGHCタッグ選手権試合はFIGHTING TV サムライが収録していたが、試合前のシーンを除きお蔵入りとなった。 7月4日にはディファ有明にて献花式「三沢光晴お別れ会 〜DEPARTURE〜」が開催され、会場にはプロレス関係者や徹夜組のファンなどを含めて約26,000人が参列した。会場に詰め掛けたファンが作った列は最寄りの有明テニスの森駅から始まり、市場前駅を通過し、次の新豊洲駅のさらにその先まで3kmもの列をなした。かつて全日本プロレスのファンであったルポライターの泉直樹は、この現象について以下のように述べている。 三沢の後任の社長には田上明が就任し、2009年秋には三沢光晴追悼興行『GREAT VOYAGE '09 〜Mitsuharu Misawa,always in our hearts〜』が9月27日に日本武道館で、10月3日に大阪府立体育会館で行われた。 三沢の死の翌日(14日)には、大阪プロレスにおいてレフェリーのテッド・タナベが試合終了直後に急性心筋梗塞を発症し、翌日死亡している。プロレス界で立て続けに発生した2件の問題を受け、6月18日に行われた自民党文部科学部会・文教制度調査会の合同会議において、再発防止策や選手の健康管理について意見交換が行われ、プロレス関係者からNOAH・仲田龍取締役、新日本・菅林直樹社長、全日本・武藤敬司社長が、自民党からは同部会長の衆議院議員・馳浩が出席した。仲田は、会議終了後「レフェリーや対戦相手は、戦いながら相手の状況を観察してもらう技術を身に付けてほしい」と再発防止を強調した。 1962年6月18日、誕生。 1978年、足利工業大学附属高等学校に入学、レスリングに入部。 1981年4月、全日本プロレス入門。 1981年8月21日、デビュー(浦和競馬場正門前特設リング、越中詩郎戦)。 1984年3月、越中詩郎と共にメキシコに遠征に出発。メキシコシティなどで試合を行う。 1984年7月、極秘帰国し、タイガーマスク(2代目)に変身。 1988年5月10日、結婚。 1990年5月14日、試合中に自らマスクをとり、素顔の三沢光晴に戻る。 1990年6月8日、ジャンボ鶴田とのシングルマッチで勝利を収めた。 1992年8月22日、スタン・ハンセンを破って初めて三冠ヘビー級王座を獲得。 1994年3月5日、タッグマッチでジャイアント馬場からフォール勝ちを収めた。 1999年5月、全日本プロレスの社長に就任。 2000年6月、全日本プロレスを退団し、新団体(プロレスリング・ノア)を旗揚げ。 2006年9月12日、グローバル・レスリング連盟(GPWA)が発足。初代会長に就任する。 2009年6月13日、試合中の事故により意識を失い、搬送先の病院で逝去。46歳没。 8月21日 - 埼玉・浦和競馬場正門前特設リングにて越中詩郎を相手にプロレスデビュー。 10月 - シングル戦初勝利。 4月 - ルー・テーズ杯争奪リーグ戦に出場、決勝で越中に敗れ準優勝。 3月 - 越中と共にメキシコ遠征に出発。メキシコシティなどで試合を行う。 (同年7月極秘帰国し、タイガーマスクに変身) 8月26日 - 田園コロシアムにてラ・フィエラを相手に、タイガーマスクとしてのデビュー戦を行い、8分37秒、タイガー・スープレックス'84で勝利。 6月 - 日本武道館にて小林邦昭の持つNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座にタイトル初挑戦するも敗退(2代目タイガーマスクとして初のフォール負け)。直後から痛めていた左膝の治療と肉体改造(ヘビー級転向をにらんだウエイトアップ)に専念するために試合を欠場。 8月 - 両国国技館大会で復帰。小林邦昭の持つNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に再挑戦、15分36秒、タイガー・スープレックス'85で勝利しシングル王座初戴冠。 10月 - チャボ・ゲレロを相手に王座初防衛。 3月13日 - 日本武道館でのジャパンプロレスとの全面対抗戦で長州力と唯一のシングル対決。長州のサソリ固め返しを披露するなど奮闘するも、リキラリアットでフォール負け。 3月 - 後楽園ホール大会のリング上でヘビー級転向を正式に表明する。この時すでに保持しており防衛戦を行っていなかったNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を返上する(同年7月にこの王座は世界ジュニアヘビー級王座に改称される)。 10月 - 猛虎七番勝負開始。1988年3月までに7戦が行われ、3勝4敗。 7月 - 後楽園ホールにてジャンボ鶴田をパートナーにPWF世界タッグ王座に挑戦し、スタン・ハンセン、テッド・デビアス組に勝利し第3代王者になるも、8日後のリターンマッチに敗れ王座陥落。 1月 - 後楽園ホールにてカート・ヘニングの持つAWA世界ヘビー級王座に挑戦。リングアウト勝ちを収めるがAWAルールにより王座移動はせず。 4月 - 両国国技館で開催された「'88格闘技の祭典」のメインイベントに馬場とのタッグで出場、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ジョージ・スコーラン組に勝利する。また、同興行にシューティングのエキシビションで出場していた初代タイガーこと佐山聡を激励する形で、初のツーショットが実現している。
6月 - 仲野信市・高木功・高野俊二・田上明と共に「決起軍」を結成。 9月 - 試合中の怪我で左膝の靭帯を切断。シリーズを数日間欠場しただけで復帰する。 3月 - 日本武道館にてリッキー・スティムボートの持つNWA世界ヘビー級王座に挑戦し敗北。
1月 - リング復帰。 2月 - 新日本プロレスのリック・フレアー来日中止騒動の余波から「'90 スーパーファイトIN闘強導夢」に天龍とのタッグで出場。自身初の交流戦に挑む。長州力・ジョージ高野に勝利。 4月13日 - 全日本・新日本・WWF(現・WWE)の3団体共催による「日米レスリングサミット」を東京ドームにて開催。ブレット・ハートとのシングルマッチを戦い、20分時間切れで引き分ける。 4月 - 岡山武道館にて小橋健太をパートナーにカンナム・エクスプレスの持つアジアタッグ王座に挑戦し勝利。第51代王者となった。 5月14日 - 試合中に自らマスクを取って投げ捨て、素顔の三沢光晴に戻る。 5月17日 - 広島県立総合体育館にてアジアタッグ王座初防衛後に返上。 6月8日 - 日本武道館にてジャンボ鶴田との一騎討ち。これに勝利して下の世代で初めて鶴田越えを達成。 7月27日、三冠ヘビー級王者のゴディが緊急入院したことを受け、ハンセンとの三冠王者決定戦に臨み、ウエスタン・ラリアットで敗れた。 8月の強化合宿にて川田・田上・小橋・菊地毅・浅子覚と共に「超世代軍」結成。 7月 - 石川県産業展示館にて川田をパートナーに世界タッグ王座挑戦、ゴディ&ウィリアムスを破り王座奪取。第17代王者となった。 9月 - 日本武道館にて川田をパートナーに鶴田&田上明組と世界タッグ王座防衛戦。フェイスロックにより鶴田から初ギブアップ勝ちを奪う。世界最強タッグ決定リーグ戦に伴い王座返上。 8月 - 日本武道館にてハンセンの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、勝利し第10代王者に。 12月 - 日本武道館にて川田をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦で田上&秋山準組を下し優勝、第20代世界タッグ王者となった。 1月、千葉県体育館にて世界タッグ王座防衛戦、ゴディ&ウィリアムス組に敗れ王座転落。 12月 - 日本武道館にて小橋をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦で川田&田上組を下し優勝、第24代世界タッグ王者となった。 3月 - 馬場から初のピンフォール勝ち。チャンピオン・カーニバルのダグ・ファーナス戦で喰らったフランケンシュタイナーが原因で歩行困難に。途中リタイアとなった。 6月 - 日本武道館にてチャンピオン・カーニバル優勝者の川田利明を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛戦、タイガードライバー’91で防衛。 7月 - 日本武道館にてスティーブ・ウィリアムスを相手に三冠統一ヘビー級王座防衛戦、ウィリアムスの殺人バックドロップの前に敗れ王座転落。 12月 - 日本武道館にて小橋をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦でウィリアムス&エース組を下し優勝。第25代世界タッグ王者となった。 1月 - 山形県体育館にて川田&田上組を下し世界タッグ王座初防衛。 4月 - チャンピオン・カーニバルの試合中に川田の蹴りを浴びて左眼窩骨折の重傷。以後、試合に出続けて、日本武道館での優勝決定戦で田上に勝利して初優勝。 5月 - 札幌中島体育センターにてハンセンの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、勝利し第14代王者に。 6月 - 日本武道館にて川田&田上組に敗れ世界タッグ王座から転落。初めて川田からピンフォール負けを喫した。
12月 - 日本武道館にて小橋をパートナーに世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦で川田&田上組を下し2連覇。 5月 - 札幌中島体育センターにて秋山をパートナーに川田&田上組の世界タッグ王座に挑戦。勝利し第29代王者になる。札幌中島体育センターにて田上を相手に三冠統一ヘビー級王座戦。田上の迎撃式のど輪落としに敗れ王座転落。 9月 - 日本武道館にてウィリアムス&エース組に敗れ世界タッグ王座から転落。 1月 - 大阪府立体育会館にて小橋の持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦、40分を越える激闘を制し王座奪取。第17代王者になる。
10月21日 - 日本武道館にて小橋を相手に三冠統一ヘビー級王座防衛。この年のプロレス大賞・ベストバウト賞に選ばれる大激闘だった。 4月 - 日本武道館のチャンピオン・カーニバル優勝決定戦で秋山を下し3年ぶりの優勝。 5月 - 全日本初の東京ドーム大会開催。川田に敗れ三冠統一ヘビー級王座を失う。長く続く激闘を考慮し、馬場社長の命を受け暫く休養に入る。8月に復帰。 9月 - 秋山に敗れた小川良成に試合後寄り添い、タッグチーム「アンタッチャブル」を結成。 10月 - 日本武道館にて小橋の持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦。王座奪回に成功し第20代王者に。
1月 - 大阪府立体育会館大会で川田に垂直落下式ブレーンバスターで敗れ、王座転落。ただし、川田は右腕尺骨骨折のため直後に王座返上。 5月 - 1月に死去したジャイアント馬場の引退興行として行われた東京ドーム大会にて、ベイダーの持つ三冠統一ヘビー級王座に挑戦。王座奪回に成功し第23代王者に。大会後、選手会の強い要請を受け全日本社長に就任、三沢体制が誕生する。 8月 - 広島市東区スポーツセンターにてアンタッチャブルとしてノーフィアーの持つ世界&アジア両タッグに挑戦、勝利し第39代世界タッグ王者、第67代アジアタッグ王者に。この時三沢は三冠ヘビー級王座、小川は世界ジュニアヘビー級王座を保持しており、二人で全日本に存在するタイトルを総ナメにした。アジアタッグは即返上。 10月 - 愛知県体育館にて小橋&秋山組を相手に世界タッグ王座防衛戦、王座転落。日本武道館にて三冠統一ヘビー級王座にベイダーの挑戦を受けるも、敗北し王座転落。 4月 - チャンピオン・カーニバルでベイダーを裏十字固めで骨折させ、勝利。 5月 - 臨時取締役会議にて代表取締役を解任。 6月 - 全日本プロレスを退団、プロレスリング・ノアを設立。 8月5日 - プロレスリング・ノア旗揚げ戦開催。 10月 - 「アンタッチャブル」を「WAVE」に名称を変更、池田大輔と丸藤正道が加わる。 12月 - 有明コロシアムにて因縁のベイダーとのシングルマッチをランニングエルボーで勝利。 1月 - 橋本真也とタッグマッチで対戦。闘魂三銃士と初めて手を合わせる。 3月21日、団体公認のベルトGHCヘビー級王座をかけたトーナメント戦が開始。 4月、有明コロシアムにて高山善廣をエメラルド・フロウジョンで下し初代GHCヘビー級王者となった。
7月 - 旗揚げ1周年興行でノア初の日本武道館に進出。メインで秋山を相手にGHCヘビー級王座防衛戦に臨むも敗北。 11月 - 小川をパートナーにベイダー&スコーピオ組からGHCタッグ王座獲得。 12月 - 有明コロシアムで高山善廣&大森隆男組(ノーフィアー)に敗れGHCタッグ王座を失う。 5月2日 - 新日本との交流戦で新日本東京ドーム大会に参戦し、蝶野正洋とシングルマッチで対戦、蝶野がジャイアント馬場の得意技であるランニング・ネックブリーカー・ドロップや三沢がアントニオ猪木の得意技である卍固めを掛け合う攻防を展開、30分フルタイムで引き分ける。 9月23日 - 「GREAT VOYAGE 2002」日本武道館大会にて高山を下しGHCヘビー級王座奪還に成功、第5代王者に返り咲く。 3月1日 - 「Navigate for Evolution 2003」最終戦 日本武道館大会において、完全復帰を果たした小橋を相手にGHCヘビー級王座防衛戦に挑むも、小橋のバーニング・ハンマーの前に敗れる。
1月 - 小川とのコンビで新日本の永田裕志・棚橋弘至組に流出していたGHCタッグ王座に挑戦し、ベルト奪還に成功。 7月10日 - ノア初の「DEPARTURE 2004」東京ドーム大会を開催。GHCタッグ選手権試合にて全日本の武藤敬司&太陽ケア組と対戦し、防衛に成功。
1月23日 - 神戸ワールド記念ホールにおいてスコーピオ&ダグ・ウイリアムス組に敗れGHCタッグ王座を失った。 7月18日 - 2年連続となる東京ドーム大会「Destiny 2005」を開催。同大会のメインイベントで川田利明と対戦し、ランニング・エルボーで勝利。 9月18日 - 「2nd GREAT VOYAGE 2005」日本武道館大会において、力皇猛の持つGHCヘビー級王座に挑戦するも敗北。
12月10日 - 「GREAT VOYAGE 2006」日本武道館大会において、かつて自身の付き人を務めた丸藤正道の持つGHCヘビー級王座に挑戦。雪崩式エメラルド・フロウジョンで勝利し、第11代王者に返り咲いた。 12月10日 - GHCヘビー級王座を7度防衛。プロレス大賞最優秀選手を史上最高齢で初受賞。プロレス大賞年間最高試合賞を受賞(12月2日の小橋建太復帰戦)。 3月2日 - 森嶋猛のGHCヘビー級王座の挑戦を受けるもバックドロップからフォールされて敗れ、8度目の防衛に失敗し王座から陥落。 5月6日 - 潮崎豪とのコンビでグローバル・タッグ・リーグ戦で優勝した。 6月13日 - 広島県立総合体育館グリーンアリーナ(小アリーナ)大会で行われたGHCタッグ選手権試合に王者組の齋藤彰俊&バイソン・スミス組に潮崎とのタッグで挑戦。試合中、齋藤の急角度バックドロップを受けた後、意識不明・心肺停止状態に陥り午後10時10分に広島大学病院で三沢の死亡が確認された。46歳没。 三冠ヘビー級王座 : 5回(第10・14・17・20・23代) NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座 : 1回(第17代) 世界タッグ王座 : 6回(第17・20・24・25・29・39代) アジアタッグ王座 : 2回(第51・67代) PWF世界タッグ王座 : 1回(第3代) 新春ヘビー級バトルロイヤル : 優勝1回(1987年) チャンピオン・カーニバル : 優勝2回(1995年・1998年) 世界最強タッグ決定リーグ戦 : 優勝4回(1992年・1993年・1994年・1995年) GHCヘビー級王座 : 3回(初代・第5・11代) GHCタッグ王座 : 2回(第2・8代) 初代GHCヘビー級王座決定トーナメント : 優勝1回(2001年) グローバル・タッグ・リーグ戦 : 優勝1回(2009年) 1982年、新人賞 1985年、敢闘賞 1990年、殊勲賞 1991年、最優秀タッグチーム賞(パートナーは川田利明) 1992年、特別大賞 1993年、最優秀タッグチーム賞(パートナーは小橋健太) 1994年、最優秀タッグチーム賞(パートナーは小橋健太) 1995年、年間最高試合賞(川田利明&田上明 vs 三沢光晴&小橋健太) 1997年、殊勲賞、年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋健太)ダブル受賞 1998年、年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋健太) 2003年、年間最高試合賞(三沢光晴 vs 小橋建太) 2007年、最優秀選手、年間最高試合賞(三沢光晴&秋山準 vs 小橋建太&高山善廣) 2009年、特別功労賞 タイガーマスクのテーマ(演奏:寺内タケシとブルージーンズ) - 2代目タイガーマスク時代 スパルタンX(作曲:Keith Morrison) - ジャッキー・チェンの映画「スパルタンX」の主題歌。
なお、この曲は三沢よりも早く上田馬之助が入場曲として使用していた。 その他、映画「惑星大戦争」のサントラ曲や、アニメ「メガゾーン23PART II」のサントラ曲「レッド・ゾーン・ファイター」、佐野元春の「約束の橋」を使用していたこともある。 三沢は「受け身の天才」と評される。三沢自身、「相手の得意技をわざと受けて身体的な強さをアピールする」ことがプロレスの最高の技術であり、それは「受け身への確固たる自信があるからこそ体現できる」ことだと述べている。三沢は相手の得意技をあえて受けて相手の特徴・長所を十分に引き出し、その上で勝利を目指すことが他の格闘技にはないプロレスの特徴であるとしている。 一方で三沢は、2004年に上梓した著書『理想主義者』において、受け身をとりきれない技が多くなっていると述べており、受け身の取りにくい技としてフルネルソン・スープレックス、ハーフネルソン・スープレックス、タイガー・スープレックス、バーニング・ハンマー、エクスプロイダーなどを挙げていた。また、三沢は同書において近年のプロレスについて、「1試合のうちに脳天から落とされる類の大技を何度も受け、それが毎日のように続く」ことからダメージがどんどん蓄積されると述べ、自身の首にもダメージが蓄積していることを認めていた。上述のように「天才」と称されるほど受け身において高い評価を受けていた三沢がリング禍によって死去したことは、世間に大きな衝撃を与えるものであった。 三沢は受け身の巧拙について、投げられた際にどのようにマットに着地するかを見ればわかると述べている。受け身の下手なレスラーは腰からマットに落ち、次いで後頭部を打ち付ける。そのため、マットにぶつかる音が2回聞こえる。受け身をとりきれない投げ技に対しては、投げられる瞬間に自ら飛んで衝撃を和らげることがダメージを和らげるコツとしている。三沢曰く、オーバーアクション気味に技を受けるレスラーは受け身が上手い(ハーリー・レイス、リック・フレアー)。自ら飛ぶという方法は投げ技だけでなく、ドロップキックやラリアットなどの打撃技にも有効としている。 渕正信は、三沢の受け身の優れた点は、通常レスラーは背中でとるのに対し、首筋の下でとる点にあると評しており、三沢の首筋の下は非常に柔らかかったと述べている。秋山準は「三沢の受け身はどの点が上手いか」という問いに「例えば頭から落とされた時は手からつくんです。かばい手でダメージを逃していました」と答えているが、「手だけでは限界がありますから、首や肩も使わなければならない。それが原因で、三沢さんも首と肩を悪くしていきました」と述べている。丸藤正道は三沢の受け身の中でもアームドラッグの受け身について「三沢さんがズバ抜けて巧かったです。あの体の大きさで、あれだけの受け身を取れるのは」と評している。 レスラーに求められる資質として、前述したように相手の得意技をあえて受けて相手の特徴・長所を十分に引き出し、その上で勝利を目指すための心身の強さを挙げている。また、自分の体型に惚れこむナルシスト的な要素があったほうがトレーニングに打ち込みやすいと述べている。 一流のプロレスラーは「自然と滲み出てくる個性の表れ」がそのままパフォーマンスになることが多いと考え、マイクパフォーマンスをしたり無理に怖い表情を作るといった意図的なパフォーマンスを好まなかった。ただし、全日本の社長に就任して以降はジャイアント馬場が禁じた舌戦などリング外での話題作りを容認した。三沢が初めてリング上で自らマイクを握ったのは、1995年10月に小橋と対戦した三冠戦の試合後に、退場する小橋に「小橋、ありがとう」と叫んだ時のことであった。ただし、三沢はタイガーマスク時代に一度だけ試合後のリングへ乱入したことがあり、それは1988年に行われた「猛虎七番勝負」の最終戦・ジャンボ鶴田戦を4日前に控えた秋田大会で、ジェリー・オーツを相手に勝利を収めた鶴田に攻撃を加えるというものだった。 徳光正行によると、三沢は試合中に倒れた相手を引き起こす際、髪の毛を掴んで行おうとすることを「下品だ」と嫌っていたという。 三沢は自身の技について、ヘビー転向後は自分よりも体が大きく体重の重い相手と戦うことが多くなったため、力ではなく技のキレ、落とす角度を重視するようになったと述べている。他のレスラーが使用する技のうち印象に残るものとしては、ジャンボ鶴田のバックドロップ、スタン・ハンセン、小橋建太のラリアットを挙げている。 三沢は「やっている方が楽しくないといけない」という考えから従来プロレス界にあった「若手は派手な技を使ってはいけない」という暗黙のルールを排し、若手であっても大技を使い、先輩レスラーの持ち技を使うことも許可した。三沢自身も小川良成にタイガー・ドライバーを使うことを許可し、「技の繰り出し方が上手い」と評している。 緑は三沢を象徴する色として知られる。三沢はタイガーマスクから素顔に戻った後、緑のロングタイツ を着用した。これは三沢が好きだった正統派外国人レスラーのホースト・ホフマンに倣ったといわれることが多いが、週刊ゴング主任の佐々木賢之によると実際には知人の助言がきっかけで着用するようになった。緑のロングタイツが定着する前に数回ではあるが赤や青のロングタイツを着用したこともある。2000年にプロレスリング・ノアを設立すると、他の団体にはない色という理由から緑色のマットを使用した。 全日本での若手時代にはジャンボ鶴田の付き人を務めたが、鶴田は干渉をあまりしない性格で、その影響から三沢自身も付き人に対し雑用を多く言いつけたり小言を言うことがなかった。徳光によると、これは三沢自身が新人時代に先輩から理不尽な仕打ちを受けた経験から、「自分は下の人間に、おなじようなことは絶対にしない」と心に誓ったのだという。丸藤正道によると三沢は「基本的に自分のことは自分でやる人」だったといい、プロレス・私生活に関してもあれこれ言われたことはなく、付き人時代に一緒に食事に行った際もプロレスの話は絶対にしなかったという。後輩に対しても先輩風を吹かせたりことさら厳しくせず、小佐野景浩によると酒席では他の先輩に飲まされて酔っぱらった浅子覚や井上雅央に対して「無理しなくていいよ。酒は楽しく飲まなきゃ!」とよく言っていたという。 冬木弘道は三沢の人間的な魅力について、「何をするってわけでもないんだけど、女のほうから寄ってくるんだよね。あれは持って生まれた人間の器だと思うよ。若いころから大将の器を持っていたと思う」と評する一方で、「大人しい温厚な男に見えるし、実際もそうなんだけど、いざとなったら凄いよ。ある一線を超えたら三沢は体を張るし、いつでも体を張れるレスラーだよ」とも述べている。冬木は三沢のそうした人柄を表す逸話として、若手時代に地方の会場でヤクザと揉め事になったことを明かしている。冬木によると、ヤクザは"完全に頭に血が上っている"状態で、三沢に対して「テメエ殺すぞ!」と言ってきたのに対し、三沢はそれに動じることなく「殺せるもんなら殺してみろ!」と言い返したといい、冬木は相手に謝ることと三沢をなだめることの両方で大変だったというが、三沢は「いや別に殺すなら殺せばいいんだよ」と言って一切引かなかったという。この出来事から冬木は、「コイツとは絶対にケンカしちゃダメだってのがわかるんだよ。三沢は本当のケンカになったら、最後の最後、息の根が止まるまでやる根性があるってわかるから」、「むやみやたらに凄んでる奴よりも、本当は三沢みたいな男のほうが怖いんだよ」と述べている。 三沢はしばしば男気があると評される。そのような性格を物語る逸話として、冬木弘道の引退興行が挙げられる。若手時代、三沢は冬木と仲が良かった。1990年に冬木がSWSへ移籍したことで両者の交流は途絶えたが、三沢の全日本プロレス退団・ノア旗揚げをきっかけに再び接点が生まれ、2002年4月7日にシングルマッチで対戦した。翌8日、冬木は医師から大腸癌であると宣告され、18日に手術を行いプロレスラーを引退することを決意した。当初冬木は9日の冬木軍興行での試合を引退試合にするつもりで試合後記者会見を行ったが、この事実を知った三沢は急遽6日後のディファ有明を押さえてノアの主催で引退興行を行い、5月5日に予定されていた新団体・WEWの旗揚げ興行(川崎球場)にも全面的に協力。同大会のチケットは全て当日券で発売されたものの、当日はZERO-ONEの所属選手や大仁田厚が参戦したこともあって超満員の観客を動員する大成功を収め、三沢はその収益の全てを冬木に贈った。徳光正行によると、冬木は「俺の人生で、三沢光晴に出会えたことが最高の出来事だった」と語ったという。 新日本プロレス初参戦となった2002年5月2日の東京ドーム大会、対蝶野正洋戦が実現するまでの経緯についても、蝶野が2019年に小橋建太との対談で明かしている。2002年2月、新日本の札幌大会(北海道立総合体育センター)において、蝶野はアントニオ猪木から突如現場監督に指名された。当時の新日本は武藤敬司が中枢社員らを引き連れて全日本へ移籍した直後で経営面で危機的状況に陥り、3月になっても当日の対戦カードは決まらずチケット販売も行われていなかったため、当日試合を中止する可能性もあった。その中で蝶野は三沢に対して「急な話で本当に申し訳ないけど、ウチのドームで自分と一騎打ちをやってほしい」と電話を入れた。この時点で新日本は一週間の内に三沢から電話がなかったら当日の大会を中止する意見で一致していたが、電話から30分後に三沢は「いいよ、やるよ」と蝶野に折り返しの電話を入れ、出場を快諾した。蝶野は当時を振り返り、「あんな短時間だから、たぶん周りには聞かず、社長の一存で決断してくれたんだと思う」、「本来のノアにとって新日本は競合団体なんだけど、プロレス界全体のことを考えて決断してくれたんだと思う」と述べ、小橋は「三沢さんはちゃんとスジを通す人だから、その30分の間に日本テレビに話したかもしれないです。でも、蝶野さんを待たせちゃいけないっていう男気もあって、すぐ動いたんでしょうね」と述べている。この件で蝶野は「業界全体を考えたマッチメイクを返さなきゃいけない」と思うようになったといい、翌2003年5月の新日本東京ドーム大会では、当時のGHCヘビー級王者であった小橋に自身との選手権試合を行うオファーをし、これを実現させている。 仲田龍は、三沢を「損得勘定で動かない人間」、小佐野景浩は「人に左右されず、しっかりと自分というものを持ち、自分自身の判断で人付き合いをする男だった」と評している。ノアの経営者として三沢は、休養中の給料保障、年間の最低保障を定め、所属レスラーを金銭面でバックアップすることに留意した。全日本プロレスの社長時代には、会社の財政状態が厳しいにもかかわらず所属レスラーがかける保険の保険料を全額負担する決断を下している。元週刊ゴング記者の鈴木敦雄によると、1994年にUWFインターナショナルが『94プロレスリング・ワールド・トーナメント』の開催を発表し、そこで自身が招待されて優勝賞金1億円が出されることを知った三沢は、「俺が十何年間、全日本プロレスで頑張ってきたのが無になっちゃう。怒るというより呆れたね」、「ファンは観たいかもしれないけど、それをしたら全日本が好きで観に来てくれるファンを裏切ることになるよ」と怒りを露わにしたという。 没後10年を前に三沢の最後の試合で、バックドロップをかけた齋藤彰俊がLINE NEWSの取材に応じ、三沢が事故の2年前に「もしも俺がリングの上で死ぬことがあったら、その時の相手に伝えてほしい」と親しい友人に託した手紙を受け取っていたことを明かした。「重荷を背負わせてしまってスマン」「きっとお前は俺のことを信頼して、全力で技をかけてくれたのだと思う」「それに俺は応えることができなかった。信頼を裏切る形になった。本当に申し訳ない」「それでも、お前にはプロレスを続けてほしい」「つらいかもしれないが、絶対に続けてほしい」と対戦相手が自らを責めることを予見した内容で、自殺も考えた齋藤は10年たった今もその手紙を巡業用のバッグの中にいつもいれているという。あまり人に見せたことはないものではあったが、節目での公開であった。 2代目タイガーマスクとして覆面をつけ視野が狭い状況で試合を続けた影響から、ロープに振られると下を向いて走る癖があった。また、額の汗を指を使ってぬぐう癖があった。 三沢によると父親は酒乱で家庭内暴力がひどく、母親を包丁で刺したこともあった。母親は暴れる夫から子供たちを守るために2歳年上の兄と光晴を連れて近所の公園に避難し、いつでも逃げられるように靴や毛布をすぐに持ち出せる準備をしていた。父は兄のことは可愛がり、決して自分に懐こうとしない次男の光晴のことは疎んじていた。幼少期の三沢はいつも「はやく大きくなって親父をぶん殴ってやろう」と考えていたといい、自身が酒を飲むようになってからは、父親のような酔い方はしたくないと思うようになった。三沢は「家族4人がそろって飯を食ったという風景がない」といい、父親に対しては「よくうちに来るやつ」「酔っぱらってうちに来るやつ」という印象しかないという。三沢が小学校1年の時に両親は離婚し、父親とは音信不通になった。高校時代の同期の渡辺優一によると、1年生時の練習終わりに道場の外にあるトレーニング室で三沢が涙を流していたことがあり、心配した渡辺が声をかけると、三沢は「いや、母ちゃんのこと思い出しちゃってさ」と言ったという。プロレスリング・ノアを旗揚げした時期には父親に対して、「今さら俺たち家族の前に顔を現すのだけはやめてくれ」と心情を吐露していた。 徳光正行によると、三沢はヒーローものが好きで、三沢の部屋はヒーローもののグッズで溢れていたという。葬儀の際には三沢が好きだったヒーローものの曲が多くかかった。カラオケに行った際もヒーローものの曲やアニメソングを好んで歌い、丸藤正道によると十八番は「ウルトラマンレオ」と「新造人間キャシャーン」だったという。漫画も好きで、「少年誌から青年誌まで、ほとんど全てを自分で買っていた」という。イラストを描くのも得意で、中学時代に人気だった漫画『タイガーマスク』を描くのも上手だった。プロレスを描いた漫画の中では『1・2の三四郎』について、「プロレスの練習風景を、ここまでリアルに描いた作品は他にないね」と高く評価していたという。 学園もののテレビドラマが好きで特に「スクール☆ウォーズ」、「3年B組金八先生」、「GTO」、「ごくせん」が好きだった。2008年にテレビドラマ、2009年に映画が公開された「ROOKIES」に関しては、潮崎豪に勧めるほど熱中していた。またノアの巡業バスにはモニターが備え付けられていたため移動中はこれで映画を見ることが多く、特にジャッキー・チェンやトム・ハンクス主演の映画を好んだ。 動物好きで、ネコ、イヌ、鳥、カメ、ウサギなどを飼っていた。 スキューバダイビングを好み、年に1度は必ずハワイに行ってダイビングを行っていた。 1999年、交友関係があった一世風靡セピアの武野功雄の結婚披露宴に天龍源一郎や全日本所属レスラーらと出席した際、三沢が下品な内容の祝辞を延々と述べたり武野の女性遍歴を暴露した、天龍が武野の父親の頭を振りまわすなどしたことに激怒した柳葉敏郎とにらみ合いとなったということが伝えられている。天龍と柳葉をなだめていたという哀川翔は伝えられている内容を大筋認めているものの、披露宴に同席した目撃者の女性によると伝えられている内容と事実が違うと明かしている。その女性曰く、実際は酔っぱらった柳葉と哀川が一方的に暴れだし、哀川が「俺がタイガーマスクになる予定だったんだ」と言って近くにいた当時の若手レスラーに凄み、柳葉は酩酊状態でグラスを床に落としながら「プロレスなんて強くない、俺がみんなぶっ飛ばしてやる」と叫んで一方的に突っかかっていこうとしていたところを天龍がなだめていたといい、また三沢が下ネタを言っていた時には揉め事にはなっていなかったと述べている。徳光正行によるとこの後二次会が予定されていたが、三沢は酔い潰れてしまったため参加しなかった。三沢が酔い潰れて飲み会をキャンセルしたのはこの時のみだけだったという。 ノアの興行で募金活動を行う など、日本移植支援協会の活動を10年近くに渡り支援していた。三沢が臓器移植に大きな関心を持つようになったのは、ジャンボ鶴田が肝臓移植手術中に死去したことがきっかけであった。三沢の死の直後の2009年6月18日、衆議院において臓器移植法の改正A案が可決されたが、この日は三沢自身の47歳の誕生日でもあった。 三沢光晴、蝶野正洋『胎動 プロレス新世紀論』(アミューズブックス、1999年)ISBN 4906613438 『船出 三沢光晴自伝』(光文社、2000年)ISBN 4334972756 『理想主義者』(ネコ・パブリッシング、2004年)ISBN 4777050475 『ドンマイ ドンマイッ! プロレスラー三沢からのメッセージ』(ミシマ社、2010年)ISBN 4903908194 長谷川博一『チャンピオン 三沢光晴外伝』(主婦の友社、1999年)ISBN 4072245674 中田潤『三沢さん、なぜノアだったのか、わかりました―。』(BABジャパン、2000年)ISBN 4894224100 長谷川博一『三沢光晴外伝 完結編』(主婦の友社、2009年)ISBN 4072694983 徳光正行『伝説になった男~三沢光晴という人~』(幻冬舎、2010年)ISBN 4344018400 長谷川晶一『2009年6月13日からの三沢光晴』(主婦の友社、2015年)ISBN 4074129108 週刊プロレス編集部『6月13日を忘れない 三沢光晴最後の一日』(ベースボール・マガジン社、2015年)ISBN 4583108826 小佐野景浩『至高の三冠王者 三沢光晴』(ワニブックス、2021年)ISBN 4847071352 ^ メキシコ遠征時のリングネーム。 ^ 2002年10月に行われたプロレスリング・ノアのハロウィン興行で変身した覆面レスラー。 ^ タイガーマスク(2代目)から素顔に戻った後、三沢に怪我が多かったことから付けられた。 ^ 三沢は自著の中で、器械体操を経験したことがプロレスの飛び技に生きていると述べている。 ^ レスリング部の同級生に仮面シューター・スーパーライダー、1年後輩に川田利明がいる。 ^ 休みは大晦日と正月三が日のみであったが、後に三沢はレスリング部の練習がハードだったことで全日本プロレスの練習をさほど苦に感じなかったと回顧している。 ^ 三沢は高校卒業時に複数の大学や自衛隊からスカウトされたが、その時の気持ちについて「『やっと3年間我慢したのに、あと4年も我慢できるわけねーだろ、コノヤロー!』って感じですよね」と言い表している。 ^ 三沢と越中の試合はその後も行われ「前座の黄金カード」と呼ばれるようになった。三沢自身も越中との試合では気分が乗ったと述べている。 ^ そのため三沢は、佐藤について「何気に心の師匠」と語っている。 ^ 越中によると当初はアメリカの予定だったが、ワーキングビザが下りなかったためメキシコに変更になったという。 ^ 越中はこのリングネームに改名した経緯について、ファンから名前を覚えてもらえない頃の試合の帰りに日本車のタクシーに乗車し、そのタクシーの名前が「サムライ」で、もう一台近くに停車していた日本車の名前が「カミカゼ」だったため、この出来事からそれぞれのリングネームに改名したと述べている。 ^ ただし、当初馬場は川田を2代目タイガーマスクにする予定だったという。川田によると馬場から「お前をタイガーマスク2号にする」と伝えられていたが、「馬場さんの気が変わってお蔵入りになった」と述べている。 ^ 全日本は正体についてあくまでも「正体不明」と公表していたが、プロレス関係者・マスコミ・ファンの多くは2代目タイガーマスクの正体が三沢だと気付いており、試合中には三沢コールが起こった。また一部の観客からは「佐山が見てえんだよ」という野次もあり、佐山コールも起こった。 ^ 渕正信によると、三沢には「もっと寝技をやりたい」という願望があった。 ^ 膝の故障からくる後遺症により、三沢は試合中に膝が脱臼する症状に悩まされることになった。三沢曰く、手術の際に埋めたボルトの摘出を行わなかった結果、ボルトの周りに新たな骨が形成されたという。 ^ 三沢によると、「毎年新しい型のタイガースープレックスを開発する」と宣伝されてもいたという。 ^ 渕によると、三沢がワイドショーなどから取材を受けた際に「三沢って、いい男じゃないか」という声を多く聞き、こういった声を耳にしていた馬場は「いつかは(マスクを)脱ぐ最高の場を作ってやらないとダメだな」と語っていたという。 ^ 三沢は素顔に戻ってリングネームを本名に戻して以降の8大会では、タイガーマスク時代に使用していたコスチュームで試合を行っている。 ^ 後に秋山準が加わり「五強」と呼ばれた。 ^ このことから三沢は「ミスター三冠」と呼ばれる。 ^ 三沢対小橋の試合はプロレス大賞において1997年、1998年、ノア旗揚げ後の2003年に年間最高試合賞(ベストバウト)を受賞。2年連続で同一カードがベストバウトに選出されたのは両者の対戦のみである。 ^ 和田は三沢の言葉の中で、「大丈夫」が最も印象に残っていると回顧している。 ^ その他、当時衆院選活動中でプロレス復帰が流動的だった馳浩も、結果的に全日本に残留している。 ^ 三沢はこの事実を公にすることを嫌っていたが、死後、徳光和夫によってテレビ番組で公表された。 ^ 団体名について小川良成によると、「〇〇プロレス」「プロレス〇〇」というのはもうやめようという意見で一致していたというが、「ノア日本プロレス」「プロレスリング・ノア日本」といった、名前のどこかに「日本」を入れるべきだという意見もあったという。 ^ 秋山準によると三沢は後ろに手が回らなくなっていたためセカンドロープに上る時は一度エプロンサイドに出て外から上っていたと述べており、元付き人の丸藤正道によると振り向く時は首が回らないから身体ごと振り向いていたといい、巡業中のバスで寝ているときも「普通の人が座って寝ている時の、息を吸って吐いての首の動きとはちょっと違って苦しそうだった」と述べている。 ^ 全日本入門当時の三沢の視力は両目ともに1.5だったが、スープレックス系の投げ技を多く受けたことにより、1999年の時点で両目ともに裸眼で0.01にまで低下していた。 ^ 仲田龍によると亡くなる4日前のキラメッセぬまづ大会で三沢からあと3年で現役を退くという意向を伝えられ、「悪いけど、サヨナラツアーみたいなのはしないよ、試合が終わった後に、今日が最後だったんだよと言って、おしまい、みたいなことにする」と言っていたという 。 ^ これについて蝶野は、当時のノアの経営面での不振に対して多くの選手を抱えていたことで本来ならば選手との契約を解除しなければならなかったところを、「三沢社長はそういうところの情が厚い人だから、経営者としての判断と、仲間という部分で、物凄く悩んでたんじゃないかと思うんだよね」と述べている。 ^ この時三沢のパートナーとして川田利明も合宿に同行し、中には蹴り技の特訓も行われたものの川田は三沢よりも蹴り技の上達が早かったため、川田は後にレガースを着用してこの特訓により得た蹴り技を主体としたファイトスタイルを行うようになった。 ^ 1998年のプロレス大賞年間最高試合賞に選定された小橋戦のフィニッシュ・ホールドであり、この時が本邦初公開だった。長谷川博一によると、三沢がこの技を思いついたのはこの試合の前日に全日本の道場で練習していた時のことで、当時の三沢の付き人である丸藤正道を相手に試したところ、丸藤は技を受けた後あまりの衝撃の大きさに立ったまま固まり、真っすぐ後ろに倒れていったという。 ^ 鶴田がギブアップでの敗戦を喫したのは1981年10月9日の蔵前国技館大会でリック・フレアーが保持するNWA世界ヘビー級王座に60分3本勝負で挑戦した際の2本目に足4の字固めでギブアップして以来10年ぶりのことであり、また鶴田が日本人選手相手にギブアップ負けを喫した唯一の事例となった。 ^ 三沢は全日本時代に受けたインタビューで両者のラリアットについて、ハンセンのラリアットは技を受けてマットで後頭部を打つ時に痛みが走るといい、小橋のラリアットは当たった瞬間から痛みを感じ、腕の太さゆえに打った後に体の軸がぶれず、普通は当たった瞬間に腕は衝撃で後ろに戻るものの小橋は筋力で押し切ってしまい、また若い分瞬発力もあるため、時にはハンセン以上のダメージがあると述べている。 ^ ロングタイツには、2代目タイガーマスク時代に手術した左膝の傷跡を隠す目的もあったと言われている。 ^ ザ・グレート・カブキは三沢が受けた理不尽な仕打ちについて、淡路島で興行が行われた際の一日休みで吉村道明がちゃんこ鍋を振る舞ったが、三沢が他の卓にいたレスラーたちと一緒に鍋のふたを開けたら、後ろにいたある兄弟子が三沢から鍋のふたを取り上げてそれで三沢を殴った、またその兄弟子が三沢に手を出すように言い、三沢が出した掌に鍋の中に入っていた食材の葉物野菜を乗せ、驚いた三沢が涙を流したことがあったと述べている。カブキは三沢と一緒の卓におり、その卓には川田利明と小川良成もいたという。カブキによるとその兄弟子は後にある団体を旗揚げした人物で名前こそ明かさなかったが、生前の三沢はノア旗揚げ以降様々な団体と交流を行った中で、その人物が旗揚げした団体とは一切の関わりを持たなかったという。なお、その兄弟子は後に柴田惣一がグレート小鹿だったことを明かしている。 ^ 実際に三沢の付き人を務めた丸藤正道、鈴木鼓太郎、太田一平は「三沢さんに怒られたことはない」と語っており、初代付き人の浅子覚はしばしば三沢に怒られることがあったが(丸藤によると、三沢自ら浅子を殴ったことがあると言っていたという)、三沢が怒るのは同じことを何度もミスするときだけだったため、根が真面目な浅子は常にノートを持ち歩き、三沢が愛読する漫画週刊誌の発売日や愛飲していたドリンク類、愛煙していたタバコの銘柄などを書き記した。そうした浅子の姿を温かい目で見守っていた三沢は周囲に「アイツは真面目ないいやつなんだ」と語っていた。浅子も前述の三人と同様に「付け人時代はいい思い出しかない」と述べている。 ^ 三沢2000、49-50頁。 ^ 大阪スポーツ追悼号、7面。 ^ 週刊プロレス緊急追悼特集号、15頁。 ^ 三沢2000、96頁。 ^ 俺たちのプロレス vol.2、13頁。 ^ 小佐野2021、395頁。 ^ 長谷川晶2015、21頁。 ^ 三沢2000、12頁。 ^ 小佐野2021、8頁。 ^ 市瀬2019、25頁。 ^ 長谷川博1999、95頁。 ^ 三沢2000、18-19頁。 ^ 長谷川博1997、46頁。 ^ 中田2000、51-52頁。 ^ 市瀬2019、27頁。 ^ 三沢2000、22頁。 ^ 中田2000、54頁。 ^ 中田2000、59-60頁。 ^ 三沢2000、26頁。 ^ 三沢2000、27頁。 ^ 中田2000、61頁。 ^ 三沢2000、39-40頁。 ^ 小佐野2021、64頁。 ^ 小佐野2021、55頁。 ^ 三沢2000、30頁。 ^ 小佐野2021、22-23頁。 ^ 三沢2000、28頁。 ^ 週刊プロレス緊急追悼特集号、40頁。 ^ 三沢2000、51頁。 ^ 小佐野2021、96・160頁。 ^ 三沢2000、44頁。 ^ 三沢2000、42頁。 ^ 中田2000、70頁。 ^ Gスピリッツ Vol.13、18頁。 ^ 小佐野2021、65頁。 ^ 中田2000、67頁。 ^ 小佐野2021、66頁。 ^ 仲田・本多2007、128-130頁。 ^ 小佐野2021、86頁。 ^ 長谷川博1999、10頁。 ^ プロレスに殉じた男 三沢光晴、53頁。 ^ 「レスラーヒューマンストーリー第202回 越中詩郎」『週刊プロレス』 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ケビン・フォン・エリック 力皇猛 浅子覚(メディカルトレーナー) 大川正也(リングアナ) 難波信二(異動、リングアナ) マイティ井上(引退、レフェリー) 味方冬樹(リングアナ) 山本義浩(レフェリー) 松丸元気(フリーリングアナ) 福田明彦(チーフレフェリー) GHCヘビー級 GHCナショナル GHCタッグ GHCジュニアヘビー級 GHCジュニアヘビー級タッグ GHC女子 グローバル・ハードコア・クラウン無差別級 N-1 VICTORY グローバル・タッグ・リーグ戦 グローバル・ジュニア・ヘビー級リーグ戦 グローバル・ジュニアヘビー級タッグ・リーグ戦(日テレG+杯) モーリシャス杯争奪リーグ戦 プロレスリング・セム 東京ドーム大会 GREAT VOYAGE'09 CyberFight Festival MONDAY MAGIC LIMIT BREAK 浅子覚 太田一平 伊藤旭彦 力皇猛 小橋建太 田上明 森嶋猛 平柳玄藩 友寄志郎 NOSAWA論外 武藤敬司 原田大輔 小川良成 百田義浩(取締役) 三沢光晴(創設者・初代代表取締役) ラッシャー木村(終身名誉選手会長) ジョー樋口(初代監査役・初代GHC管理委員長) バイソン・スミス 仲田龍(元取締役・リングアナウンサー) 永源遙(元常務取締役) ハーリー・レイス(2代GHC管理委員長) TNAレスリング MLW AAA IWRG 新日本プロレス KAIENTAI DOJO ROH WLW CyberFight(運営会社) ノア・グローバルエンタテインメント(旧運営会社) サイバーエージェント(親会社) ピーアールエヌ(旧:株式会社プロレスリング・ノア) GPWA プロレスリング・ノア中継(日本テレビ) ディファ有明 力道山杯 ディファカップ ALL TOGETHER NOAH “NEW HOPE”(ABEMA) NOAH ABEMA中継 WRESTLE UNIVERSE 表 話 編 歴 三沢光晴 2000.7-2009.6 田上明 2009.7-2016.10 不破洋介 2016.11-2019.5 鈴木裕之 2019.5-2020.1 髙木規 2020.1-2020.8 髙木規 2020.9-2024.5 岡本保朗 2024.6- プロレスリング・ノア サイバーエージェント ザ・リーブ リデットエンターテインメント 表 話 編 歴 青柳優馬 芦野祥太郎 綾部蓮 安齊勇馬 大森北斗 斉藤ジュン 斉藤レイ 諏訪魔 本田竜輝 宮原健斗 青柳亮生 井上凌 田村男児 長尾一大心 渕正信 MUSASHI ライジングHAYATO(愛媛プロレスとダブル所属) サイラス デイビーボーイ・スミス・ジュニア(MLW) ハートリー・ジャクソン 黒潮TOKYOジャパン 羆嵐 鈴木秀樹 宮本裕向(暗黒プロレス組織666) 阿部史典 カーベル伊藤 佐藤光留(パンクラスMISSION) セニョール斉藤 立花誠吾 土井成樹 吉岡世起 諏訪魔 青柳優馬 鈴木秀樹 佐藤光留 宮本裕向 阿部史典 斉藤ジュン 斉藤レイ セニョール斉藤 "ミスター斉藤"土井成樹 黒潮TOKYOジャパン 立花誠吾 大森北斗 愛澤 No.1 羆嵐 ジャック・ケネディ サイラス ハートリー・ジャクソン 安齊勇馬 綾部蓮 本田竜輝 ライジングHAYATO 和田京平 神林大介 二子玉川(フリー) 新土裕二 ライチ聖矢(フリー) 福田剛紀(代表取締役社長) 十枝利樹(社外取締役) ドリー・ファンク・ジュニア(PWF会長) 三冠ヘビー級 世界タッグ アジアタッグ 世界ジュニアヘビー級 アジアヘビー級 GAORA TV 全日本プロレスTV認定6人タッグ NWAインターナショナルヘビー級 NWAインターナショナルタッグ NWAユナイテッドナショナル PWFユナイテッドステイツヘビー級 PWF世界タッグ PWF世界ヘビー級 チャンピオン・カーニバル 世界最強タッグ決定リーグ戦 Jr. BATTLE OF GLORY Jr. TAG BATTLE OF GLORY 王道トーナメント ジャイアント馬場(創立者・元社長) 三沢光晴(元社長) 馬場元子(元社長) 武藤敬司(元社長・元会長) 内田雅之(元社長) 秋山準(元社長・元GM) ジャンボ鶴田 ロード・ブレアース(元PWF会長) スタン・ハンセン(元PWF会長) 馳浩(元PWF会長) PWF NWA AWA Actwres girl'Z ALLJAPAN B-Banquet 全日本プロレス中継 全日本プロレス マザー プロレスLOVE 全日本プロレスアーカイブス サイコー宣言 全日本プロレスバトルライブラリー 第1作 世界最強タッグ ジェット 3・4武道館 セガ版 レッスルキングダム ALL TOGETHER 日本テレビ 表 話 編 歴 馬場正平 1972-1981 松根光雄 1982.1-1989.3 馬場正平 1989.4-1999.1 三澤光晴 1999.5-2000.6 馬場元子 2000.7-2002.9 武藤敬司 2002.10-2011.6 内田雅之 2011.6-2012.10 内田雅之 2012.11-2013.5 白石伸生 2013.6-2013.9 井上博太 2013.9-2014.6 秋山潤 2014.7-2019.7 福田剛紀 2019.7-現在 全日本プロレス 表 話 編 歴 1 三沢光晴 2 秋山準 3 小川良成 4 高山善廣 5 三沢光晴 6 小橋建太 7 力皇猛 8 田上明 9 秋山準 10 丸藤正道 11 三沢光晴 12 森嶋猛 13 佐々木健介 14 秋山準 15 潮崎豪 16 杉浦貴 17 潮崎豪 18 森嶋猛 19 KENTA 20 森嶋猛 21 永田裕志 22 丸藤正道 23 鈴木みのる 24 丸藤正道 25 杉浦貴 26 潮崎豪 27 杉浦貴 28 中嶋勝彦 29 エディ・エドワーズ 30 拳王 31 杉浦貴 32 清宮海斗 33 潮崎豪 34 武藤敬司 35 丸藤正道 36 中嶋勝彦 37 藤田和之 38 潮崎豪 39 小島聡 40 拳王 41 清宮海斗 42 ジェイク・リー 43 拳王 44 イホ・デ・ドクトル・ワグナー・Jr. 45 清宮海斗 表 話 編 歴 1 ベイダー&スコーピオ 2 三沢光晴&小川良成 3 大森隆男&高山善廣 4 森嶋猛&力皇猛 5 秋山準&齋藤彰俊 6 小橋建太&本田多聞 7 棚橋弘至&永田裕志 8 三沢光晴&小川良成 9 ダグ・ウイリアムス&スコーピオ 10 鈴木みのる&丸藤正道 11 森嶋猛&モハメド・ヨネ 12 小橋建太&本田多聞 13 森嶋猛&モハメド・ヨネ 14 秋山準&力皇猛 15 ディーロ・ブラウン&ブキャナン 16 丸藤正道&杉浦貴 17 バイソン・スミス&齋藤彰俊 18 佐々木健介&森嶋猛 19 力皇猛&モハメド・ヨネ 20 バイソン・スミス&キース・ウォーカー 21 高山善廣&佐野巧真 22 ジャイアント・バーナード&カール・アンダーソン 23 秋山準&齋藤彰俊 24 サモア・ジョー&マグナス 25 KENTA&マイバッハ谷口 26 潮﨑豪&齋藤彰俊 27 丸藤正道&杉浦貴 28 矢野通&飯塚高史 29 マイキー・ニコルス&シェイン・ヘイスト 30 森嶋猛&マイバッハ谷口 31 杉浦貴&田中将斗 32 マイキー・ニコルス&シェイン・ヘイスト 33 ランス・アーチャー&デイビーボーイ・スミスJr. 34 丸藤正道&矢野通 35 ランス・アーチャー&デイビーボーイ・スミスJr. 36 潮﨑豪&マイバッハ谷口 37 拳王&マサ北宮 38 杉浦貴&拳王 39 丸藤正道&マイバッハ谷口 40 潮崎豪&小峠篤司 41 モハメド・ヨネ&クワイエット・ストーム 42 中嶋勝彦&マサ北宮 43 潮崎豪&清宮海斗 44 中嶋勝彦&マサ北宮 45 丸藤正道&齋藤彰俊 46 中嶋勝彦&潮崎豪 47 マイバッハ谷口&火野裕士 48 モハメド・ヨネ&クワイエット・ストーム 49 中嶋勝彦&潮崎豪 50 杉浦貴&KAZMA SAKAMOTO 51 中嶋勝彦&潮崎豪 52 丸藤正道&望月成晃 53 イホ・デ・ドクトル・ワグナー・ジュニア&レネ・デュプリ 54 杉浦貴&桜庭和志 55 中嶋勝彦&マサ北宮 56 マサ北宮&清宮海斗 57 丸藤正道&武藤敬司 58 杉浦貴&鈴木秀樹 59 イホ・デ・ドクトル・ワグナー・ジュニア&レネ・デュプリ 60 マイケル・エルガン&マサ北宮 61 ティモシー・サッチャー&鈴木秀樹 62 杉浦貴&小島聡 63 マサ北宮&稲葉大樹 64 杉浦貴&谷口周平 65 ティモシー・サッチャー&サクソン・ハックスリー(英語版) 66 ジャック・モリス&アンソニー・グリーン 67 丸藤正道&杉浦貴 表 話 編 歴 1 ジャンボ鶴田 2 天龍源一郎 3 ジャンボ鶴田 4 テリー・ゴディ 5 スタン・ハンセン 6 テリー・ゴディ 7 スタン・ハンセン 8 ジャンボ鶴田 9 スタン・ハンセン 10 三沢光晴 11 スティーブ・ウィリアムス 12 川田利明 13 スタン・ハンセン 14 三沢光晴 15 田上明 16 小橋健太 17 三沢光晴 18 川田利明 19 小橋健太 20 三沢光晴 21 川田利明 22 ベイダー 23 三沢光晴 24 ベイダー 25 小橋健太 26 天龍源一郎 27 武藤敬司 28 川田利明 29 天龍源一郎 30 グレート・ムタ 31 橋本真也 32 川田利明 33 小島聡 34 太陽ケア 35 鈴木みのる 36 佐々木健介 37 諏訪魔 38 グレート・ムタ 39 高山善廣 40 小島聡 41 浜亮太 42 鈴木みのる 43 諏訪魔 44 秋山準 45 船木誠勝 46 諏訪魔 47 曙 48 大森隆男 49 諏訪魔 50 ジョー・ドーリング 51 潮崎豪 52 曙 53 秋山準 54 諏訪魔 55 宮原健斗 56 石川修司 57 宮原健斗 58 諏訪魔 59 ジョー・ドーリング 60 宮原健斗 61 ゼウス 62 宮原健斗 63 諏訪魔 64 ジェイク・リー 65 宮原健斗 66 ジェイク・リー 67 諏訪魔 68 宮原健斗 69 永田裕志 70 青柳優馬 71 中嶋勝彦 72 安齊勇馬 73 青柳優馬 74 デイビーボーイ・スミスJr. 表 話 編 歴 1 ジャンボ鶴田&谷津嘉章 2 スタン・ハンセン&テリー・ゴディ 3 ジャンボ鶴田&谷津嘉章 4 天龍源一郎&阿修羅・原 5 ジャンボ鶴田&谷津嘉章 6 スタン・ハンセン&テリー・ゴディ 7 ジャンボ鶴田&谷津嘉章 8 天龍源一郎&スタン・ハンセン 9 ジャンボ鶴田&谷津嘉章 10 天龍源一郎&スタン・ハンセン 11 天龍源一郎&スタン・ハンセン 12 テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス 13 ジャンボ鶴田&ザ・グレート・カブキ 14 テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス 15 スタン・ハンセン&ダニー・スパイビー 16 テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス 17 三沢光晴&川田利明 18 テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス 19 ジャンボ鶴田&田上明 20 三沢光晴&川田利明 21 テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス 22 川田利明&田上明 23 スタン・ハンセン&テッド・デビアス 24 三沢光晴&小橋健太 25 三沢光晴&小橋健太 26 川田利明&田上明 27 スタン・ハンセン&ゲーリー・オブライト 28 川田利明&田上明 29 三沢光晴&秋山準 30 スティーブ・ウィリアムス&ジョニー・エース 31 川田利明&田上明 32 小橋健太&ジョニー・エース 33 スティーブ・ウィリアムス&ゲーリー・オブライト 34 小橋健太&ジョニー・エース 35 川田利明&田上明 36 小橋健太&秋山準 37 ジョニー・エース&バート・ガン 38 大森隆男&高山善廣 39 三沢光晴&小川良成 40 小橋健太&秋山準 41 ベイダー&スティーブ・ウィリアムス 42 川田利明&田上明 43 太陽ケア&ジョニー・スミス 44 天龍源一郎&安生洋二 45 武藤敬司&太陽ケア 46 ブライアン・アダムス&ブライアン・クラーク 47 小島聡&太陽ケア 48 武藤敬司&嵐 49 小島聡&カズ・ハヤシ 50 永田裕志&ケンドー・カシン 51 太陽ケア&ジャマール 52 川田利明&太陽ケア 53 小島聡&TARU 54 武藤敬司&ジョー・ドーリング 55 太陽ケア&鈴木みのる 56 武藤敬司&船木誠勝 57 太陽ケア&曙 58 KONO&ジョー・ドーリング 59 グレート・ムタ&KENSO 60 ダーク・オズ&ダーク・クエルボ 61 大森隆男&征矢学 62 真田聖也&ジョー・ドーリング 63 大森隆男&征矢学 64 大森隆男&征矢学 65 秋山準&潮﨑豪 66 諏訪魔&ジョー・ドーリング 67 秋山準&大森隆男 68 秋山準&大森隆男 69 曙&吉江豊 70 潮﨑豪&宮原健斗 71 ゼウス&ボディガー 72 関本大介&岡林裕二 73 ゼウス&ボディガー 74 真霜拳號&KAI 75 ゼウス&ボディガー 76 ジェイク・リー&野村直矢 77 関本大介&岡林裕二 78 秋山準&大森隆男 79 諏訪魔&石川修司 80 宮原健斗&ヨシタツ 81 ゼウス&ボディガー 82 崔領二&ディラン・ジェイムス 83 諏訪魔&石川修司 84 関本大介&岡林裕二 85 諏訪魔&石川修司 86 ゼウス&崔領二 87 諏訪魔&石川修司 88 宮原健斗&青柳優馬 89 諏訪魔&芦野祥太郎 90 石川修司&佐藤耕平 91 芦野祥太郎&本田竜輝 92 諏訪魔&KONO 93 宮原健斗&野村卓矢 94 青柳優馬&野村直矢 95 拳王&征矢学 96 宮原健斗&青柳優馬 97 斉藤ジュン&斉藤レイ 98 諏訪魔&鈴木秀樹 99 斉藤ジュン&斉藤レイ 表 話 編 歴 1 キング・コング&タイガー・ジョキンダー 2 フランク・バロア&ダン・ミラー 3 力道山&豊登 4 ルター・レンジ&リッキー・ワルドー 5 力道山&豊登 6 バディ・オースチン&マイク・シャープ 7 力道山&豊登 8 力道山&豊登 9 豊登&吉村道明 10 ジン・キニスキー&カリプス・ハリケーン 11 豊登&ジャイアント馬場 12 ザ・デストロイヤー&ビリー・レッド・ライオン 13 豊登&ジャイアント馬場 14 キラー・カール・コックス&ジョー・カロロ 15 吉村道明&ヒロ・マツダ 16 キラー・カール・コックス&エディ・グラハム 17 吉村道明&ジャイアント馬場 18 吉村道明&大木金太郎 19 吉村道明&アントニオ猪木 20 吉村道明&大木金太郎 21 スカル・マーフィー&クロンダイク・ビル 22 吉村道明&大木金太郎 23 大木金太郎&アントニオ猪木 24 吉村道明&アントニオ猪木 25 吉村道明&アントニオ猪木 26 吉村道明&坂口征二 27 グレート小鹿&松岡巌鉄 28 グレート小鹿&大熊元司 29 ジェリー・オーツ&テッド・オーツ 30 高千穂明久&サムソン・クツワダ 31 グレート小鹿&大熊元司 32 マイティ井上&アニマル浜口 33 グレート小鹿&大熊元司 34 グレート小鹿&大熊元司 35 ケビン・フォン・エリック&デビッド・フォン・エリック 36 佐藤昭雄&石川隆士 37 マイティ井上&阿修羅・原 38 阿修羅・原&石川隆士 39 佐藤昭雄&石川隆士 40 アニマル浜口&寺西勇 41 寺西勇&保永昇男 42 マイティ井上&石川隆士 43 阿修羅・原&スーパー・ストロング・マシーン 44 マイティ井上&石川隆士 45 サムソン冬木&川田利明 46 仲野信市&高野俊二 47 サムソン冬木&川田利明 48 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット 49 サムソン冬木&川田利明 50 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット 51 タイガーマスク(三沢光晴)&小橋健太 52 仲野信市&田上明 53 小橋健太&ジョニー・エース 54 ダイナマイト・キッド&ジョニー・スミス 55 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット 56 小橋健太&ジョニー・エース 57 ジョー・ディートン&ビリー・ブラック 58 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット 59 小橋健太&菊地毅 60 パトリオット&ジ・イーグル 61 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット 62 秋山準&大森隆男 63 ウルフ・ホークフィールド&ジョニー・スミス 64 本田多聞&泉田純 65 ハヤブサ&新崎人生 66 大森隆男&高山善廣 67 三沢光晴&小川良成 68 本田多聞&井上雅央 69 垣原賢人&長井満也 70 嵐&北原光騎 71 嵐&荒谷信孝 72 佐藤耕平&横井宏考 73 金村キンタロー&黒田哲広 74 ミスター雁之助&黒田哲広 75 グレート・コスケ&獅龍 76 天龍源一郎&渕正信 77 長井満也&成瀬昌由 78 ブキャナン&リコ 79 近藤修司&"brother"YASSHI 80 佐々木健介&中嶋勝彦 81 鈴木みのる&NOSAWA論外 82 曙&浜亮太 83 TARU&ビッグ・ダディ・ブードゥー 84 真田聖也&征矢学 85 関本大介&岡林裕二 86 真田聖也&征矢学 87 関本大介&岡林裕二 88 曙&浜亮太 89 金本浩二&田中稔 90 大和ヒロシ&佐藤光留 91 金本浩二&田中稔 92 鈴木鼓太郎&青木篤志 93 秋山準&金丸義信 94 入江茂弘&石井慧介 95 宮原健斗&鈴木鼓太郎 96 長井満也&南野タケシ 97 金丸義信&ウルティモ・ドラゴン 98 木髙イサミ&宮本裕向 99 青木篤志&佐藤光留 100 渕正信&大仁田厚 101 青木篤志&佐藤光留 102 ブラック・タイガーⅦ&TAKAみちのく 103 野村直矢&青柳優馬 104 秋山準&永田裕志 105 野村直矢&青柳優馬 106 ジェイク・リー&岩本煌史 107 河上隆一&菊田一美 108 ジェイク・リー&岩本煌史 109 木髙イサミ&宮本裕向 110 ゼウス&イザナギ 111 T-Hawk&エル・リンダマン 112 大森北斗&児玉裕輔 113 稔&歳三 114 佐藤光留&田村男児 115 ヨシタツ&TAJIRI 116 児玉裕輔&花畑正男 117 大森隆男&井上雅央 118 NOSAWA論外&ケンドー・カシン 119 大仁田厚&ヨシタツ 120 秋山準&鈴木鼓太郎 121 坂口征夫&岡谷英樹 122 大仁田厚&To-y 123 佐藤光留&田村男児 124 吉岡世起&MUSASHI 125 安齊勇馬&ライジングHAYATO 1 坂口征二&ストロング小林 2 タイガー・ジェット・シン&上田馬之助 表 話 編 歴 1974 アントニオ猪木 1975 ジャイアント馬場 1976 アントニオ猪木 1977 アントニオ猪木 1978 アントニオ猪木 1979 ジャイアント馬場 1980 アントニオ猪木 1981 アントニオ猪木 1982 タイガーマスク 1983 ジャンボ鶴田 1984 ジャンボ鶴田 1985 藤波辰巳 1986 天龍源一郎 1987 天龍源一郎 1988 天龍源一郎 1989 前田日明 1990 大仁田厚 1991 ジャンボ鶴田 1992 高田延彦 1993 天龍源一郎 1994 橋本真也 1995 武藤敬司 1996 小橋健太 1997 蝶野正洋 1998 小橋健太 1999 武藤敬司 2000 桜庭和志 2001 武藤敬司 2002 ボブ・サップ 2003 高山善廣 2004 佐々木健介 2005 小島聡 2006 鈴木みのる 2007 三沢光晴 2008 武藤敬司 2009 棚橋弘至 2010 杉浦貴 2011 棚橋弘至 2012 オカダ・カズチカ 2013 オカダ・カズチカ 2014 棚橋弘至 2015 オカダ・カズチカ 2016 内藤哲也 2017 内藤哲也 2018 棚橋弘至 2019 オカダ・カズチカ 2020 内藤哲也 2021 鷹木信悟 2022 オカダ・カズチカ 2023 内藤哲也 表 話 編 歴 タイガーマスク二世 タイガーマスクW 梶原一騎 辻なおき 真樹日佐夫 佐山聡(初代タイガーマスク、ザ・タイガー、スーパータイガー) 三沢光晴 金本浩二 タイガーマスク (4代目) タイガー・エンペラー ブラック・タイガー タイガーマスクW 虎の穴 講談社 東京スポーツ 東映アニメーション 読売テレビ 日本テレビ テレビ朝日 日本テレビ系列木曜夜7時枠のアニメ テレビ朝日系列月曜夜7時台枠のアニメ テレビ朝日深夜アニメ枠 新日本プロレス 全日本プロレス みちのくプロレス タイガーマスク運動 本名のリダイレクト 日本の男子レスリング選手 VIAF 日本 三沢光晴 日本のプロレスラー タイガーマスク アマチュアレスリング出身のプロレスラー 21世紀日本の実業家 全日本プロレスに所属したプロレスラー 全日本プロレスの元関係者 プロレスリング・ノアに所属したプロレスラー NWAに参戦したプロレスラー AWAに参戦したプロレスラー 競技中に死亡したプロレスラー 覆面レスラーとして活動していたプロレスラー 日本のプロレスのプロモーター プロレス・トレーナー 足利大学附属高等学校出身の人物 埼玉県出身のスポーツ選手 北海道出身のスポーツ選手 1962年生 2009年没 ウィキデータにあるWrestling Database ID 良質な記事 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2024/11/10 04:10更新
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misawa mitsuharu
三沢光晴と同じ誕生日6月18日生まれ、同じ北海道出身の人
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