もしもし情報局 > 1946年 > 5月19日 > 格闘家/プロレス

アンドレ・ザ・ジャイアントの情報 (AndreTheGiant)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

アンドレ・ザ・ジャイアントの情報(AndreTheGiant) 格闘家/プロレス 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

アンドレ・ザ・ジャイアントさんについて調べます

■名前・氏名
アンドレ・ザ・ジャイアント
(読み:Andre The Giant)
■職業
格闘家
プロレス
■アンドレ・ザ・ジャイアントの誕生日・生年月日
1946年5月19日
戌年(いぬ年)、牡牛座(おうし座)
■出身地・都道府県
不明

(昭和21年)1946年生まれの人の年齢早見表

アンドレ・ザ・ジャイアントと同じ1946年生まれの有名人・芸能人

アンドレ・ザ・ジャイアントと同じ5月19日生まれの有名人・芸能人

アンドレ・ザ・ジャイアントと同じ出身地の人


アンドレ・ザ・ジャイアントと関係のある人

カート=ヘニング: MSGタッグ・リーグ戦にてボビー・ダンカンのパートナーを務め、アントニオ猪木&ハルク・ホーガン、藤波辰巳&前田明、長州力&アニマル浜口、キラー・カーン&タイガー戸口、アンドレ・ザ・ジャイアント&スウェード・ハンセン、ディック・マードック&アドリアン・アドニスなどのチームと対戦したが、キャリア不足のために白星配給係となった。


スタン=ハンセン: GCWの本拠地アトランタのオムニ・コロシアムでのクリスマス興行では、1982年にアンドレ・ザ・ジャイアント&ティト・サンタナと組んでスーパースター&スーパー・デストロイヤー&ザ・グレート・カブキ組と、1983年にはバグジー・マグロー(1984年3月に全日本マットでハンセンのPWFヘビー級王座に挑戦)と組んでロード・ウォリアーズとそれぞれ対戦した。


テッド=デビアス: WWF世界ヘビー級王座こそ獲得できなかった(アンドレ・ザ・ジャイアントから金で買ったというストーリーがあったが、当然公認はされていない)ものの、ハルク・ホーガン、ランディ・サベージ、ジェイク・ロバーツ、ローデスらトップスターと長期間に渡って抗争。


アーニー=ラッド: アンドレ・ザ・ジャイアントとの巨人対決もWWWFを皮切りに、ドル箱カードとして全米各地でマッチメイクされた。


ビンス=マクマホン・シニア: 日本との関係では、1960年代前半にアメリカ武者修行中のジャイアント馬場をトップレスラーに起用したほか、1970年代中盤以降はアントニオ猪木の新日本プロレスと提携しアンドレ・ザ・ジャイアント、ボブ・バックランド、ハルク・ホーガンなどの大物レスラーを新日本に送り込み、自らもたびたび来日した。


吉原功: ワカマツは吉原死去の翌日である1985年6月11日に東京体育館で行われた第3回IWGPリーグ戦において、マネージャーを務めておりともに吉原には恩義のあるアンドレ・ザ・ジャイアントの優勝を誓い、国際血盟軍は同年6月21日に日本武道館で行われた馬場VS木村のPWFヘビー級選手権において、木村のPWFヘビー級王座奪取を誓った他、木村のセコンドについたメンバーも弔意を示すために黒い鉢巻を締め、高杉正彦は国際時代のジャージを着用した。


ドリー=ファンク・ジュニア: なお、外国人レスラーで馬場と一定期間コンビを組んで日本で活動したのは、ドリー以外ではハンセンと晩年のアンドレ・ザ・ジャイアントだけである。


ゴリラ=モンスーン: また翌年にはアンドレ・ザ・ジャイアントとボクシング・マッチを行った。


ダスティ=ローデス: アメリカでの活動が多忙のため1週間程度の特別参加が多く、シリーズを通しての参戦は困難だったものの、MSGシリーズにおけるアンドレ・ザ・ジャイアントやスタン・ハンセンとの対戦、マードックとのアウトローズ再結成、そして猪木やボブ・バックランドとのタッグ結成など数々の名場面を残した。


アーニー=ラッド: プロレスへの本格転向後の1970年代からは、後年のアンドレ・ザ・ジャイアントやブルーザー・ブロディのように、特定の地区に定着せずに全米の主要テリトリーをトップのポジションで行き来するフリーエージェントの立場で活動。


アントニオ小猪木: アンドレ・ザ・ジャイアントをフォールするアントニオ猪木


タンク=パットン: アンドレ・ザ・ジャイアントともシングルマッチで対戦した。


ウィレム=ルスカ: その後もプロレスラーとして新日本プロレスへの出場を続け、アンドレ・ザ・ジャイアント、タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセン、ボブ・バックランド、ハルク・ホーガンなど当時の新日本のトップ外国人ともタッグマッチで対戦したが、プロレスに対しての適応力が弱く、定着するには至らなかった。


ジョーニー=ローラー: 「世界9番目の不思議」(8番目はアンドレ・ザ・ジャイアント)の異名を持つ屈強な肉体を駆使し、女子プロレスラーでありながら男子戦線において活躍した。


マサ斉藤: 戴冠中はアンドレ・ザ・ジャイアント&トニー・アトラスなどの強力チームを相手に防衛を続け、ボブ・バックランドが保持していたWWFヘビー級王座にも挑戦。


リック=フレアー: NWA世界ヘビー級王者としては、ドリー・ファンク・ジュニア、ジャック・ブリスコ、アンドレ・ザ・ジャイアント、ブルーザー・ブロディ、テッド・デビアス、ポール・オーンドーフ、ジェリー・ローラー、ケリー・フォン・エリック、スタン・ハンセン、マスクド・スーパースター、サージェント・スローター、バリー・ウインダム、マグナムTA、ニキタ・コロフ、テリー・ゴディなど数々の強豪を挑戦者に迎えて各地で防衛戦を行い、同王座を通算8回(7〜10回と諸説有)獲得して一時代を築いた。


ミル・マスカラス: 3月20日の定期戦ではアンドレ・ザ・ジャイアント&ダスティ・ローデスと豪華トリオを組み、ケン・パテラ、ミスター・フジ、プロフェッサー・タナカ組と6人タッグマッチで対戦。


ジャイアント馬場: アンドレ・ザ・ジャイアントと組んだときは16文からアンドレのエルボー・ドロップ、ラッシャー木村と組んだ場合は16文と木村のラッシングラリアットというコンビネーション(通称・16文ラリアット)になった。


テリー=ファンク: 以降、1976年1月1日には後に流血の大抗争を展開することになるアブドーラ・ザ・ブッチャー、1月6日にはビル・ロビンソン、3月30日にはアンドレ・ザ・ジャイアントを相手に王座を防衛。


ハルク=ホーガン: 人気絶頂期に行われたアンドレ・ザ・ジャイアントとの対決(1987年3月29日、レッスルマニアIII)では9万3173人という観客動員数を記録している。


ハルク=ホーガン: 以後、アンドレ・ザ・ジャイアントの巨体に対抗できる超大型のヒールとしてトップ戦線で活躍。


ディック・ザ・ブルーザー: WWWFから参戦してきたアンドレ・ザ・ジャイアントやブルーノ・サンマルチノともタッグを組み、1973年7月21日にサンマルチノをパートナーにバロン・フォン・ラシク&アーニー・ラッドからWWA世界タッグ王座を奪取、翌1974年にはバリアント・ブラザーズとタイトルを争った。


スタン=ハンセン: 以降、新日本プロレスの主力外国人選手となり、1979年の「第2回MSGシリーズ」ではアンドレ・ザ・ジャイアントを抑えて猪木と優勝戦を闘い、1980年2月にはウィリー・ウィリアムスが観戦する面前で猪木からNWFヘビー級王座を奪取した。


平田淳嗣: 桜庭のほかにも、プロレスラーでは高野俊二、アンドレ・ザ・ジャイアント、マスクド・スーパースター、ブラックジャック・マリガン、ハルク・ホーガン、ロディ・パイパー、クラッシャー・リソワスキー、安生洋二、後藤達俊、石澤常光、高木功、杉浦貴、高山善廣、青木篤志などがマシーンのマスクを被ったことがある。


キラー・カーン: アンドレ・ザ・ジャイアントとのスーパーヘビー級抗争も開始し、1981年5月2日、ニューヨーク州ロチェスターにてアンドレの右足をニー・ドロップで骨折させたとして、ヒール人気は急上昇。


バーン=ガニア: その一方、ビル・ロビンソンやアンドレ・ザ・ジャイアントをはじめとして、国際プロレス経由でAWA参戦を果たしたレスラーも存在する。


タイガー=ジェット=シン: 同年11月開幕の『第1回MSGタッグ・リーグ戦』ではアンドレ・ザ・ジャイアントやダスティ・ローデスとのシングルマッチも行われている。


ジョニー=バレンタイン: ヒール陣営ではイワン・コロフ、スーパー・デストロイヤー、ミネソタ・レッキング・クルー、そして若手時代のリック・フレアーとも共闘、彼らをパートナーにアンドレ・ザ・ジャイアントともタッグマッチで対戦している。


チャック=ウェップナー: 1976年6月26日(アントニオ猪木対モハメド・アリと同日)、ニューヨークのシェイ・スタジアムで開かれたWWWF主催興行、ショーダウン・アット・シェイの一戦としてプロレスラーのアンドレ・ザ・ジャイアントと異種格闘技戦で対戦するも、場外に落とされリングアウト負けとなった(3R 1分15秒)。


平田淳嗣: 結果的には勝ち点8に終わったものの、アンドレ・ザ・ジャイアント&ジェリー・モローに反則勝ちしてアンドレ組の優勝戦進出を阻むなどリーグ戦を荒らした。


アンドレ・ザ・ジャイアントの情報まとめ

もしもしロボ

アンドレ・ザ・ジャイアント(Andre The Giant)さんの誕生日は1946年5月19日です。

もしもしロボ

得意技、獲得タイトルなどについてまとめました。父親、母親、卒業、映画、現在に関する情報もありますね。亡くなられているようです。

アンドレ・ザ・ジャイアントのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

アンドレ・ザ・ジャイアント(André the Giant、本名:André René Roussimoff、1946年5月19日 - 1993年1月27日)は、フランス出身のプロレスラー。

公式プロフィールでは身長が7フィート4インチ(約223cm)、体重が520ポンド(約236kg)とされ、北米では「世界8番目の不思議(The 8th Wonder of the World)」、日本では「大巨人」などの異名で呼ばれた。

フランスのセーヌ=エ=マルヌ県クロミエにて、ブルガリア出身の父親とポーランド出身の母親の元で生まれる。少年時代からサッカー、ボクシング、レスリングなどに打ち込む。中学時代は巨体過ぎてスクールバスに乗るのに支障が出たため、父の友人である隣人からトラックの荷台に乗せてもらって登校した。裕福な農家の生まれ育ちであったが「農家は高校に行かなくて良い」と考えたため14歳で地元グルノーブルの中学校を卒業してからは高校に進学せず、農場勤務や木工の見習い、ベーラー専用エンジンの製造工場勤務などに励んだ。1964年、18歳の時にパリでアンドレ "ザ・ブッチャー" ロシモフ(Andre "The Butcher" Rousimoff)としてデビュー。

なお、巨体過ぎて既成の軍服や軍靴、ベッドが用意できない、さらに塹壕に隠れることもできないという理由で、徴兵でフランス軍に召集されることはなかった。

『プロレススーパースター列伝』などで日本に流布していた「プロレスラーになる前にはきこりをしていて、山中にいるところをエドワード・カーペンティアに "発見" された」という逸話は事実ではなく、デビュー前はパリの家具運送会社に勤務しており、無名時代にカーペンティアに見出されたというのが真相である。もっとも、南アフリカでのデビュー説もあるなどフランス時代の経歴については不明瞭な部分も多く、様々な説がある。フランス時代はジェアン・フェレ(Géant Ferré / Giant Ferré)、モンスター・エッフェルタワー(Monster Eiffel Tower)などの名義で活動していた。

1970年2月に国際プロレスに初来日した際、同時来日していたAWAのバーン・ガニアに見込まれ、1971年9月より北米へ進出。フランス語圏であるカナダのモントリオールを拠点に、ジャン・フェレ(Jean Ferré / 日本では英語風に「ジーン・フェレ」と読まれた)の名で活動する。ここで映画『キング・コング』をモチーフにした世界八番目の不思議(The 8th Wonder of the World)というニックネームが付けられた。巨人選手対決として、キラー・コワルスキーやドン・レオ・ジョナサンなど超大物選手とも対戦した。

1973年、アンドレ・ザ・ジャイアント(André the Giant)と改名し、WWWF(現:WWE)のプロモーターのビンス・マクマホン・シニアと契約。3月26日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに初出場し、バディ・ウォルフから勝利を収めた。しかしWWWFとは専属契約をしたわけではなく、マクマホン・シニアのブッキングで古巣のAWAやNWAはもとより、世界中の様々な団体を定期的に短期参戦して回るようになる。これは「滅多に出会えない怪物」として希少価値を高めるというマーケティング上の戦術からの判断である。実際、それまでにプロレス界に登場したスカイ・ハイ・リーやグレート・アントニオなどの怪物レスラーは、アンドレとは異なりアスリートとしての実力的な問題もあって、短期間で一般層のファンから飽きられて人気が衰えていった。

この世界サーキットを行っていた10年間が彼の全盛期であり、アンドレはベビーフェイスのスペシャル・ゲストの立場で各地のビッグイベントに出場。バトルロイヤルやハンディキャップ・マッチなどで圧倒的体格による強さを見せつけつつ、テリー・ファンク、ハーリー・レイス、ニック・ボックウィンクル、スーパースター・ビリー・グラハムら当時のNWA・AWA・WWWFのヒール系世界王者を始め、ザ・シーク、ワルドー・フォン・エリック、モンゴリアン・ストンパー、ブラックジャック・マリガン、ブラックジャック・ランザ、レイ・スティーブンス、パット・パターソン、キラー・カール・コックス、アーニー・ラッド、イワン・コロフ、バロン・フォン・ラシク、スタン・ハンセン、マスクド・スーパースター、ブルーザー・ブロディ、リック・フレアー、ケン・パテラ、ボビー・ダンカン、バリアント・ブラザーズ、ミネソタ・レッキング・クルー、ロディ・パイパー、クラッシャー・ブラックウェル、アンジェロ・モスカ、ジョー・ルダック、キラー・ブルックス、バグジー・マグロー、ニコライ・ボルコフ、ザ・スポイラー、オックス・ベーカー、マーク・ルーイン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タンク・パットン、スーパー・デストロイヤー、サージェント・スローター、アレックス・スミルノフなど、各テリトリーのトップヒールと対戦した(欧州では1979年12月にローラン・ボックとのシングルマッチも実現している )。1974年のギネスブックには「年俸世界一(40万ドル)のプロレスラー」として彼が掲載されている。当時の為替レートは1ドル=約300円。

1984年、ビンス・マクマホン・ジュニアのWWF全米進出計画が始まるとベビーフェイス陣営の主要メンバーとしてサーキットに参加、以降は退団する1990年までWWF専属選手となった。スーパースター軍団となったWWFでは同じ巨人型のビッグ・ジョン・スタッドがライバルとなり、レッスルマニアの第1回大会ではスタッドと『15000ドル争奪ボディスラム・マッチ』で対戦した。その後もカマラやキングコング・バンディを抗争相手に、WWF世界ヘビー級王者のハルク・ホーガンと共に全米侵攻の主軸となって活躍した。

アメリカでは絶対のベビーフェイスであったが、WWFでの人気を二分していた盟友ホーガンを裏切り、1987年よりヒールに転向する。ボビー "ザ・ブレイン" ヒーナンをマネージャーに従え、コスチュームも黒のワンショルダータイツに変更。ベビーフェイス陣営にいたバンバン・ビガロやジム・ドゥガンらを破り、同年3月29日のレッスルマニアIIIではWWF世界ヘビー級王座を賭けたホーガンとの「世紀の対決」が行われたが、ホーガンにボディスラムを放たれて敗退した。翌1988年2月5日の "The Main Event" での再戦では勝利を収め、WWF王座を奪取したものの、直後にテッド・デビアスにアングルとしてベルトを売却。翌週にデビアスは王座を剥奪されたが、以後デビアスと「メガ・バックス(The Mega Bucks)」なるタッグチームを結成、ホーガン&ランディ・サベージの「メガ・パワーズ(The Mega Powers)」と抗争を展開した。

しかし、1980年代後半に入って急増した体重を起因とする膝や腰の痛みに悩まされ始め、全盛期の動きの切れは徐々に失われていった。その後、当時WWFがホーガンに代わる新しい主役として重用していたアルティメット・ウォリアーの売り出しに使われ、連敗を喫する。また「ヘビ嫌い」との設定も加えられ、ジェイク "ザ・スネーク" ロバーツとの抗争も行われた。1989年下期からはコンディションの悪化をカバーすべくタッグマッチ戦線に活動の場を移し、キング・ハクをパートナーに「コロッサル・コネクション(The Colossal Connection)」なるタッグチームを結成。アックス&スマッシュのデモリッションとWWF世界タッグ王座を争った。その後、マネージャーのヒーナンと仲間割れしてベビーフェイスに戻り、ジミー・ハートがマネージメントしていたアースクエイクとの対立アングルも組まれるが、体調不良のため1990年にWWFを退団。以降、さらに増した身体の痛みにより試合を行う機会は減少したが、最後の主戦場とした全日本プロレスにおいては、主にジャイアント馬場とのタッグ「大巨人コンビ」で活躍した。

父親の葬儀へ出席するためフランスに帰国していた1993年1月27日、パリ8区の高級ホテル内で死去。死因は急性心不全であった。長年に渡る過度の飲酒(全盛期はビール、レスラー後期から晩年はワインを愛飲していた)が原因と言われている。飲酒量が桁違いだったため、酒にまつわるアンドレの逸話は数知れない。ミスター高橋によると試合前でも何本も酒を飲み、しかも後年はほとんどトレーニングをしなかったため、余計心臓に負担がかかっていたことは明らかだったという。

WWFは生前の活躍に敬意を表するために、WWF殿堂(後のWWE殿堂)を設立し、殿堂入りの第一号を彼に与えた。2008年には彼の功績をまとめたDVDもWWEより発売された。さらに2014年のWWEレッスルマニアXXXにて、その功績を称え「アンドレ・ザ・ジャイアント メモリアル・バトルロイヤル」を開催し以降も継続。勝者にはアンドレ黄金像トロフィーが贈られた。

2018年、HBOによるドキュメンタリー作品『ANDRE THE GIANT』が放映。

初来日は1970年1月。まだアメリカで注目を浴びる前の無名時代、吉原功にスカウトされモンスター・ロシモフ(Monster Roussimoff)のリングネーム(吉原命名)で国際プロレスへ参戦した。この前年5月18日にパリで行われた初代IWA世界タッグ王座決定戦でイワン・ストロゴフと組み、豊登&ストロング小林と戦うも1-2で敗れているが、日本でも報道されて評判は伝わっていた。1月18日に福岡市九電記念体育館で行われたIWA世界タッグ王座決定戦では、マイケル・ネイダーとのコンビでサンダー杉山&グレート草津を破り王座を獲得するが、2月3日の広島県立体育館にて杉山&草津に敗れ、短命王者となった(2月11日にもネイダーと組んで杉山&草津に再挑戦したが敗退)。この初来日時、AWAの総帥バーン・ガニアと邂逅、北米進出のきっかけを掴む。1971年の再来日ではカール・ゴッチやビル・ロビンソンを抑え、第3回IWAワールド・シリーズで優勝を果たした。また、1972年の第4回IWAワールド・シリーズでも決勝に進出するが、小林に敗れて準優勝に終わった。またこの来日時、5月4日に新潟市体育館において、イワン・バイテンをパートナーに杉山&ラッシャー木村が保持していたIWA世界タッグ王座に再挑戦している。

その後、ブッキング権がガニアからWWFのビンス・マクマホン・シニアに移行したことに伴い、1974年2月より日本でのリングをWWFと提携していた新日本プロレスへ移し、アントニオ猪木との抗争を開始 。1974年3月15日に岡山武道館で行われた猪木との初のシングルマッチでは、当時のマネージャーだったフランク・バロアがロープに飛んだ猪木の足を取ってダウンさせ、ジャイアント・プレスでフォール勝ちを収めた。以降の対戦では、猪木が掛けたキーロックをアンドレが軽々と持ち上げる、アンドレが掛けたカナディアン・バックブリーカーを猪木がロープを蹴って返しリバース・スープレックスで投げる、というムーブが見せ場として定着した。

猪木がウィレム・ルスカやモハメド・アリとの対戦で異種格闘技戦をスタートさせた1976年の10月7日には、蔵前国技館にて「格闘技世界一決定戦」と銘打たれた両者のシングルマッチが行われた。猪木が保持していたNWFヘビー級王座には、1974年12月15日にブラジル・サンパウロのコリンチャンス・スタジアム、1977年6月1日に名古屋の愛知県体育館にて、2度にわたって挑戦。猪木が坂口征二とのコンビで戴冠していたNWA北米タッグ王座にも、ロベルト・ソト、トニー・チャールズ、ザ・プロフェッショナル(ダグ・ギルバート)など、いずれも弱体ながらパートナーを代えて3回挑戦している。

新日本プロレスではスタン・ハンセンとも外国人同士によるスーパーヘビー級の抗争を繰り広げ、1981年9月23日、田園コロシアムで行われたハンセンとの一騎討ちは、日本のプロレス史に残る伝説の名勝負とされる 。同年12月10日には、レネ・グレイをパートナーに大阪府立体育館にて猪木&藤波辰巳を破り、第2回MSGタッグ・リーグ戦に優勝 。1982年4月1日には蔵前国技館にてキラー・カーンを下し第5回MSGシリーズも制覇している(新日本のシングルのリーグ戦における外国人選手の優勝はこれが初めて)。

新日本プロレス参戦時は、実況アナウンサーである古舘伊知郎が、「大巨人」「巨大なる人間山脈」「一人民族大移動」などの表現を使ったことから、これらがアンドレのニックネームとなった(古舘はこの他にも「一人というには大きすぎる。二人といったら世界人口の辻褄が合わない」「人間というより化け物といった方がいいような」「都市型破壊怪獣ゴジラ」「怪物コンプレックス」「一人大恐竜」「ガリバーシンドローム」といった形容詞も使用している)。

1985年には将軍KYワカマツをマネージャーに従え、ジャイアント・マシーン(Giant Machine)なる覆面レスラーにも変身した。アンドレは1985年8月シリーズである「チャレンジ・スピリット'85」に素顔で参戦する予定であったが(ポスターやパンフレットには素顔のアンドレの写真が掲載されていた)、同月にスーパー・ストロング・マシーン、ヒロ斎藤、高野俊二の離脱により危機感を抱き『ワールドプロレスリング』の視聴率低下を危惧していた新日本プロレスが、苦肉の策として急遽アンドレをジャイアント・マシーンに、同シリーズに参戦していたマスクド・スーパースターをスーパー・マシーンに変身させたという。シリーズ開幕戦である8月23日の東村山大会では坂口をジャイアント・ボンバーで一蹴した他、メインイベントの猪木&木村健吾VSハクソー・ヒギンズ&トニー・セント・クレアーにもスーパー・マシーンと共に乱入し、猪木をジャイアント・ボンバーでKOした。この経緯から、ジャイアント・マシーンは「正体バレバレの覆面レスラー」と呼ばれた。マシーン軍団はWWFでもコピーされたため、アメリカにも同様のギミックで登場したことがある。キャリア晩年に使用していた黒のワンショルダー・タイツは、この頃の名残である。なお、ジャイアント・マシーンの正体は公然の秘密だったが、相棒であったスーパー・マシーンについては、WWFオフィシャル発表では「北海道生まれの日本人」ということにされていた。アンドレもそれに合わせ、プロモーション用のインタビューで珍妙な日本語を話したり、お辞儀をしたりなどしていた。

WWFと新日本プロレスの提携解消後も、1986年まで新日本プロレスに参戦し、4月29日にはUWFの前田日明との不穏試合も行われている。5月開幕のIWGPチャンピオン・シリーズでは、6月17日の愛知県体育館における公式戦にて、猪木に腕固めで初のギブアップ負けを喫した。それ以降、しばらく来日が途絶えていたが、1990年4月13日に東京ドームで開催された日米レスリングサミットにて久々に日本マットに登場し、ジャイアント馬場と大巨人コンビを結成。同年9月30日、馬場のデビュー30周年記念試合でタッグながら初対決してからは全日本プロレスへ主戦場を移し、1990年、1991年と世界最強タッグ決定リーグ戦には馬場との大巨人コンビで出場し、1991年には準優勝している。しかしコンディションはどんどん悪化したため、1992年からは馬場や木村のファミリー軍団に加わり、悪役商会との明るく楽しいプロレスが中心となった。しかし、10月21日に日本武道館で行われた全日本プロレス創立20周年記念試合(馬場&ハンセン&ドリー・ファンク・ジュニアvsジャンボ鶴田&アンドレ&テリー・ゴディ戦)では、アンドレvsハンセンの対決が再び実現。アンドレの動きは全盛期とは程遠かったものの、ハンセンのウエスタン・ラリアットを喰らっても倒れず、ロープにもたれる程度に踏み留まってみせるなど、最後の最後まで怪物ぶりを見せつけた。

なお、アメリカではベビーフェイスの人気選手として活躍していたが、新日本プロレスではヒールのポジションに回った。もっとも日本でも、ザ・シークやフレッド・ブラッシーのようなスタイルのヒールを演じていたわけではなく、馬場をも凌ぐ圧倒的な巨体と強さのためにヒール扱いされてしまったものである。しかし、アンドレは日本におけるヒールとしての役割を受け入れ、「日本人嫌い」というイメージが損なわれないようサインなどのファンサービスはほとんど行わず、マスコミの取材に応じることも少なかった。

一転して全日本プロレスへ参戦していた当時のアンドレは、馬場とコンビを組んでいたこともあって、新日本時代とは異なり完全なベビーフェイスとなった。全日本登場第1戦から出番のたびに大アンドレ・コールで迎えられ、笑顔でファンの声援に応じたり、入場時の花束贈呈の際には、花束を受け取るとブーケ・トスのように後方の客席に投げてプレゼントしたり、コールの時には二本指を立てて腕を上げるアピールも見せていた。一方、自分を化け物扱いして奇異の目で見ていたため実際はこの頃も日本人が嫌いであったといい、そんなアンドレの孤独を理解していたのは同じ巨人レスラーである馬場であったと伝わる。

また、初来日を果たし、北米進出の契機にもなった国際プロレスに対するアンドレの思い入れは非常に深く、1974年の新日本移籍後も、同年6月と1979年7月に国際プロレスに特別参加したことがある(1979年の参戦時には、7月20日に秋田県大館市において木村のIWA世界ヘビー級王座に挑戦した)。日本での親友でもあったマイティ井上の談では、ギャラについても「いくらでもいい」などと語っていたという(後述)。

1993年1月27日に死去したため、生涯最後の試合は1992年12月4日、日本武道館における馬場&木村とトリオを組んでの6人タッグマッチ(vs大熊元司&永源遙&渕正信)で、アンドレが自身のラリアットと馬場のチョップのW攻撃からヒップ・プレスで大熊をフォールした。アンドレの死去の前月に大熊も死去しており、奇しくも同試合は大熊の最後の試合でもあった。

得意技

フィニッシュ・ホールド

その他

特徴的なムーブ

技ではないが、トップロープとセカンドロープの間に両腕を絡める独自のムーブを持っている。明らかにアンドレ自身が故意に腕を絡めているのだが「アンドレの巨体によってロープがたわむハプニングで腕が絡まってしまった」と見るのが礼儀。両腕が塞がれているためアンドレは身動きが取れず、対戦相手がアンドレに向かっていくが逆にカウンターキックを見舞われてしまうのが一連の流れ。ちなみに、相手にカウンターキックを放った後、いとも簡単に両腕をロープから外す。タッグマッチではこれで身動きが取れない間にパートナーがフォールを奪われる、という流れになる。

2018年現在では、生前のアンドレに匹敵する体格を持つWWEの大型選手グレート・カリ、ビッグ・ショーも、試合でこのロープに絡まるムーブを度々披露している。ちなみに元新日本プロレスのレフェリーであったミスター高橋は試しにそれを実践してみたことがあるが、ロープが固く腕に巻きついて腕が折れそうになり、とてもではないが出来なかったという。このムーブはアンドレ並の巨体を持った者のみに可能なものだった。

獲得タイトル

IWA世界タッグ王座:1回(w / マイケル・ネイダー a.k.a. ミシェル・ナドール)

    1970年1月18日、王座決定戦でサンダー杉山&グレート草津を破り獲得。

    NWA豪亜タッグ王座:1回(w / ロン・ミラー)

      1978年12月8日、オックス・ベーカー&ブッチャー・ブラニガンから奪取。

      NWA USタッグ王座(トライステート版):1回(w / ダスティ・ローデス)

        1978年12月25日、トーナメント決勝でスタン・ハンセン&アーニー・ラッドを破り獲得。

        NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / ダスティ・ローデス)

          1981年2月12日、ボビー・ジャガーズ&ランディ・タイラーから奪取。

          WWF世界ヘビー級王座:1回

            1988年2月5日、ハルク・ホーガンから奪取。

            WWF世界タッグ王座:1回(w / キング・ハク)

              1989年12月13日、デモリッション(アックス&スマッシュ)から奪取。

              WWF殿堂 (1993年度)

                1993年6月3日に発表。殿堂入り第1号。

2024/06/23 09:58更新

Andre The Giant


アンドレ・ザ・ジャイアントと同じ誕生日5月19日生まれの人

近藤 洋介_(政治家)(こんどう ようすけ)
1965年5月19日生まれの有名人 山形出身

近藤 洋介(こんどう ようすけ、1965年5月19日 - )は、日本の政治家。米沢市長(1期)。元衆議院議員(5期)。経済産業副大臣(野田第3次改造内閣)、経済産業大臣政務官(鳩山由紀夫内閣・菅直人内…

松岡 里英(まつおか りえ)
1993年5月19日生まれの有名人 群馬出身

松岡 里英(まつおか りえ、1993年5月19日 - )は、日本の女優 、群馬県出身。 2023年12月28日、ジャパン・ミュージックエンターテイメントへの所属を発表。 人物 趣味はダンス、美…

永島 聖羅(ながしま せいら)
【乃木坂46】
1994年5月19日生まれの有名人 愛知出身

永島 聖羅(ながしま せいら、1994年〈平成6年〉5月19日 - )は、日本のタレント、女優であり、女性アイドルグループ・乃木坂46の元メンバーである。愛知県碧南市出身。ホリプロ所属。へきなん広報大…

東坂 みゆ(とうさか みゆ)
1996年5月19日生まれの有名人 大阪出身

東坂 みゆ(とうさか みゆ、1996年〈平成8年〉5月19日 - )は、日本のグラビアアイドル。大阪府出身。ダンスボーカルユニット「フラミングの法則」の元プロデューサー兼元メンバー。“お笑い賞レース挑…

芹那(せりな)
1985年5月19日生まれの有名人 北海道出身

芹那(せりな、1985年〈昭和60年〉5月19日 - )は、日本のタレントで、女性アイドルグループ・SDN48の元メンバー。 北海道士別市出身。A-PLUS所属。血液型はA型。 2008年、『ヤ…

久保 ユリカ(くぼ ゆりか)
1989年5月19日生まれの有名人 奈良出身

久保 ユリカ(くぼ ユリカ、本名:久保 由利香〈くぼ ゆりか〉、1989年5月19日 - )は、日本の声優、歌手、タレント、モデル。奈良県出身。ステイラックに所属。所属レコードレーベルはポニーキャニオ…

國嶋 絢香(くにしま あやか)
1993年5月19日生まれの有名人 奈良出身

國嶋 絢香(くにしま あやか、1993年5月19日 - )は、日本のタレント、モデル。奈良県出身。所属事務所はシンフォニア。 立命館宇治高等学校、立命館大学文学部心理学科卒業。 スカウトされ、2…

金子 みひろ(かねこ みひろ)
1982年5月19日生まれの有名人 新潟出身

女優、タレント、歌手、YouTuber元恵比寿マスカッツメンバー(第1世代:2008年 - 2010年)(第2世代:2017年 - 2022年) mihiroom みひろの素【Mihironomot…

樫村 みなみ(かしむら みなみ)
1989年5月19日生まれの有名人 千葉出身

樫村 みなみ(かしむら みなみ、1989年5月19日 - )は、日本の女優。千葉県出身。フリーランスの女優として活動中。 ダンス歴19年、アクション歴5年。小学5年生の時にダンススクールに通い始め…

甲斐田 樹里(かいだ じゅり)
1988年5月19日生まれの有名人 東京出身

甲斐田 樹里(かいだ じゅり、1988年〈昭和63年〉5月19日 - )は、日本の歌手、タレント。女性アイドルグループ・SDN48の元メンバーで、ダンス&ボーカルユニット・7cm(ナナセンチ)…

尾崎恵理(おざき えり)
1980年5月19日生まれの有名人 愛知出身

尾崎恵理(おざき えり、1980年5月19日 - )は、日本の元タレント。1997年から2000年までの約4年間、プロダクション尾木に所属し、活動。大学2年時に、芸能界を引退。 愛知県出身。 名古…


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


アンドレ・ザ・ジャイアントと近い名前の人

ALEXANDRE(あれきさんだー)
1982年4月20日生まれの有名人 出身

ALEXANDRE(アレキサンダー、1982年4月20日 - )は男性ファッションモデル、「Dreseed」アパレルデザイナー。日本とブラジルのハーフである。タイクーンモデルエージェンシー所属。 …

アンドレ=デュメリル(Andre Marie Dumeril)
1774年1月1日生まれの有名人 出身

アンドレ・マリー・コンスタン・デュメリル(フランス語:André Marie Constant Duméril、1774年1月1日 – 1860年8月14日)は、フランスの動物学者である。1801年か…

ダナ=アンドリュース(Dana Andrews)
1909年1月1日生まれの有名人 出身

ダナ・アンドリュース(Dana Andrews,本名Carver Dana Andrews,1909年1月1日 - 1992年12月19日)は、アメリカ合衆国ミシシッピ州出身の俳優。 人生とキャリ…

アンドリュー=バルモン(Andrew Orlando Valmon)
1965年1月1日生まれの有名人 出身

アンドリュー・オーランド・バルモン(Andrew Orlando Valmon、1964年4月9日 ‐ )は、アメリカ合衆国・ニューヨーク出身の元陸上競技選手。専門は短距離走の400m。1992年バル…

マイケル=アンダーソン_(宇宙飛行士)(Michael Phillip Anderson)
1959年12月25日生まれの有名人 出身

マイケル・フィリップ・アンダーソン(Michael Philip Anderson、1959年12月25日 - 2003年2月1日)は、アメリカ空軍の大佐、アメリカ航空宇宙局の宇宙飛行士である。STS…

ブライアン=コックス_(物理学者)(Brian Edward Cox)
1968年3月3日生まれの有名人 出身

ブライアン・エドワード・コックス(英: Brian Edward Cox, OBE FRS、1968年3月3日 - )は、イギリスの物理学者、マンチェスター大学物理・天文学科(英語版)…

ブライアン=コックス_(俳優)(Brian Denis Cox)
1946年6月1日生まれの有名人 出身

ブライアン・デニス・コックス(Brian Denis Cox, CBE, 1946年6月1日 - )は、イギリスの俳優。スコットランドのダンディー出身。アイルランド系。 5人兄弟の末子。9歳の時に…

カルロス=ビアンチ(Carlos Bianchi)
1949年4月26日生まれの有名人 出身

カルロス・ビアンチ(Carlos Bianchi, 1949年4月26日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。選手としてアルゼンチン代表だった。選手時代のポ…

山口 純(やまぐち じゅん)
【新選組リアン】
1990年5月13日生まれの有名人 兵庫出身

山口 純(やまぐち じゅん、1990年5月13日 - )は、日本の男性歌手、ファッションモデル、タレント。兵庫県出身。身長187cm。立命館大学卒業。 男性アイドルグループ・新選組リアンの元メンバー…

榊原 徹士(さかきばら てつじ)
【新選組リアン】
1989年12月6日生まれの有名人 愛知出身

榊原 徹士(さかきばら てつじ、1989年12月6日 - )は、日本の歌手、俳優、モデルであり、アイドルグループ吉本坂46の元メンバーである。愛知県豊田市出身。京都外国語大学中退。身長172cm。愛称…

関 義哉(せき よしや)
【新選組リアン】
1989年4月7日生まれの有名人 京都出身

関 義哉(せき よしや、1989年4月7日 - )は、日本の男性歌手、J-pop、ダンサー、タレント。京都府京都市出身。身長171cm。京都府立洛北高等学校、滋賀大学経済学部卒業。 男性アイドルグル…

國定 拓弥(くにさだ ひろや)
【新選組リアン】
1988年7月8日生まれの有名人 兵庫出身

國定 拓弥(くにさだ ひろや、1988年7月8日 - )は、日本の男性歌手。兵庫県出身。現在はhiroyaとして活動中。 身長175cm、体重58kg。大手前大学出身。愛称は「ひろにゃん」、「さだち…

森 公平(もり こうへい)
【新選組リアン】
1988年4月12日生まれの有名人 大阪出身

森 公平(もり こうへい、1988年4月12日 - )は、日本の男性歌手、タレント、俳優。大阪府出身。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。 男性アイドルグループ・新選組リアンとサーターアンダ…

ロシアン佐藤(ろしあん さとう)
1985年9月18日生まれの有名人 島根出身

ロシアン佐藤(ロシアン さとう、本名:佐藤 ひとみ、1985年9月18日 - )は、日本のYouTuber、タレント、元フードファイター。島根県出雲市出身。血液型はA型。エッジニア合同会社に所属し、…

アンナ・リー(英: Anna Lee; 中: 安娜・李)
1984年4月22日生まれの有名人 出身

アンナ・リー(英: Anna Lee; 中: 安娜・李、本名:李 宗望〈リ・ゾンワン〉、1984年4月22日 - )は、台湾・台北市出身の歌手、タレント、女優。 話す言葉は中国語、台…

原 アンナ(はら あんな)
1985年8月21日生まれの有名人 出身

原 アンナ(はら アンナ、1985年8月21日 - )は、日本のタレント、モデル。本名及び旧芸名は「原 杏奈」(読み方同じ)。岐阜県中津川市出身。ケイダッシュステージ所属。元夫はお笑いコンビHi-Hi…

中村 アン(なかむら あん)
1987年9月17日生まれの有名人 東京出身

中村 アン(なかむら アン、英: Anne Nakamura、1987年9月17日 - )は、日本の女優、ファッションモデル、タレント。 東京都江東区出身。プラチナムプロダクションを経て、2…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
アンドレ・ザ・ジャイアント
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)

グループ

私立恵比寿中学 CheekyParade DA PUMP Rev.from DVL 夢みるアドレセンス 純烈 PASSPO☆ AKB48G HKT48 SMAP 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「アンドレ・ザ・ジャイアント」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました