吉原功の情報(よしはらいさお) 格闘家/プロレス 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
吉原 功さんについて調べます
■名前・氏名 |
吉原功と関係のある人
ストロング金剛: 1966年10月、友人が出場したボディビル大会の会場で、国際プロレス社長・吉原功と出会い、その場で吉原とマティ鈴木にスカウトされ、団体旗揚げ間近の同年11月1日に入門。 バーン=ガニア: 国際プロレスの吉原功社長とは太いパイプで結ばれ、1974年11月には、AWA世界ヘビー級王者のガニアとAWA世界タッグ王者チームのニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスの現役AWA世界王者3人が同時来日した。 大剛鉄之助: 国際プロレス代表の吉原功に対する傾倒は、若松市政と双璧をなしていた。東京プロレス崩壊後に自分を引き取ってくれた感謝の念に加え、国際プロレスがTBSと放送契約を結ぶまでの間、吉原功が自宅を抵当に入れて生活費を出してくれたり、前述の招聘ルート選択に多大なる恩義を感じたからである。 川島壮雄: エリザベス女王杯(2015年 - 2017年) - 吉原功兼より引継ぎ。 林弘典: ちなみに、この回で共演した吉原功兼(大学・アナウンス研究会・関西テレビを通じての5年後輩)も、学生時代からのSIAM SHADEファンである。 遠藤幸吉: 芳の里と並んで腐敗した経営陣の一角として攻撃されたこともあり、営業部長を務めていた後輩の吉原功とは見解の相違もあって確執が生じていた。 石巻ゆうすけ: 吉原功兼 坂元龍斗: 「“劇団関テレ”を支える看板スターが必要」というわかぎゑふの発案で7月に結成されたイケメンアナウンサーユニット「KT☆BOYS」には、先輩アナウンサーの吉原功兼・堀田篤・川島壮雄と揃ってメンバーに名を連ねていた。 渡辺長武: 1970年、国際プロレス社長の吉原功と日本レスリング協会会長の八田一朗から頼まれ、国際プロレス所属の若手レスラーだった濱口平吾に自らの代名詞であった「アニマル」を授け、リングネームをアニマル浜口と命名した。 岡安譲: 2011年の第72回菊花賞ではオルフェーヴルの牡馬三冠達成の瞬間を伝え、関西テレビのアナウンサーとしては松本暢章・杉本清・石巻ゆうすけ・馬場鉄志・大橋雄介・川島壮雄・吉原功兼(達成順。 新実彰平: 第35回(2021年7月27日未明放送分)において、吉原功兼(当時木曜日に『報道ランナー』で共演していた先輩アナウンサーで後継番組『newsランナー』のメインキャスター)とのコンビでパーソナリティを務めた。 鶴見五郎: 吉原功が入院した際も、見舞いにはいつも訪れていた。 豊登道春: 復帰に関して最初は「吉原功に引退興行をしてもらって正式に引退しているからカムバックはない」「もう体力的に無理だ」と断ったが、新間が「私は豊さんが出るということで(猪木)社長から金を受け取っているんですよ」とハッタリを口にしたことで復帰を決めた。 川島壮雄: 関西テレビのアナウンサーで三冠達成実況を行ったのは松本暢章(1964年)・杉本清(1983年、1984年、1986年、1994年)・石巻ゆうすけ(2003年、2010年)・馬場鉄志(2005年)・岡安譲(2011年)・大橋雄介(2012年)・吉原功兼(2020年)(達成順。 グレート草津: 同じく日本プロレスを退団していた吉原功やヒロ・マツダ、同期の杉山恒治とともに国際プロレスの旗揚げに参加する。 吉原功兼: ^ 報道ランナーが「newsランナー」に刷新4月から 吉原功兼アナがメイン担当(『スポーツニッポン』2023年3月24日付記事) 川島壮雄: 桜花賞(2016年 - 2019年、2022年 - ) - 吉原功兼より引き継ぎ。 冬木弘道: 一ファンとして国際の試合が開催されていた後楽園ホールで吉原功代表に押しかけ同然で行き、その時吉原に「君の体付きを見ると、運動経験は無いみたいだけどね」とスポーツ経験が無いことを見破られて入門が危ぶまれたが、嘆願して入門を果たした。 ラッシャー木村: 豊登の付き人をしていた関係から、翌1966年に豊登が興した東京プロレスの旗揚げに参加し、1967年の東京プロレス崩壊後は吉原功に口説かれて国際プロレスに移籍。 ストロング金剛: 国際プロレス社長であった吉原功が死去する直前に、小林は吉原の元へ見舞いに訪れ3時間会話した。 カール=ゴッチ: その後はハワイで清掃関係の企業を経営していたが、1971年3月、国際プロレスの吉原功社長の招きで、第3回IWAワールド・シリーズに参加。 アンドレ・ザ・ジャイアント: まだアメリカで注目を浴びる前の無名時代、吉原功にスカウトされモンスター・ロシモフ( アニマル浜口: 1970年には1964年東京オリンピックレスリング金メダリストの渡辺長武から渡辺自身の代名詞であった「アニマル」を授けられ、吉原功が命名する形でリングネームをアニマル浜口( 杉本清: 2021年3月には、アニメ『ウマ娘 プリティーダービー』とのコラボレーション企画として、現役局アナの吉原功兼・服部優陽と共に、出演声優の上田瞳(ゴールドシップ役)・前田佳織里(ナイスネイチャ役)と対談、トウカイテイオーやメジロマックイーンを中心にアニメの題材となったレースのエピソードを語った。 大剛鉄之助: 1981年の国際プロレス解散後もカナダでモントリオール地区を中心にブッカーを継続し、ジェリー・モロー(稲妻二郎)の全日本プロレス出場を斡旋したり、若松市政をマネージャーとしてカルガリーに招聘したりしていたが、1984年7月に新日本プロレスが吉原功を顧問として迎えたことが縁で、新日本の北米支部長に就任した。 鶴見五郎: 1975年、帰国して中堅レスラーとして活動するが、1979年10月3日の青森県黒石市大会で会場入りした際に自分のカードが組まれていなかったことに激怒し、国際プロレス社長の吉原功に抗議。 大剛鉄之助: 当時、国際プロレスはAWAと提携していたが、AWAへ支払う高額なブッキング料が経営を圧迫していたこともあり、大剛ルートからの招聘の比重が高まるに至ってバーン・ガニアから「自分達(AWA)を取るか、大剛を取るかどっちなんだ?」と迫られ、この際に吉原功代表が大剛を選んだために提携は解消され、AWAは全日本プロレスとの提携に踏み切る。 大橋雄介: 関西テレビのアナウンサーで三冠達成実況を行ったのは松本暢章(1964年)・杉本清(1983年、1984年、1986年、1994年)・石巻ゆうすけ(2003年、2010年)・馬場鉄志(2005年)・岡安譲(2011年)・川島壮雄(2018年、2020年、2023年)・吉原功兼(2020年)(達成順。2014年は石巻ゆうすけの後を引き継ぎ、宝塚記念の実況を担当した(2015年は後輩の川島壮雄、2016年は吉原功兼、2019年は岡安譲が担当)。 剛竜馬: 「'78スーパー・ファイト・シリーズ」開催中の1978年4月16日に行われた広島県東広島市大会にて、選手会長のラッシャー木村に対して国際プロレス退団を申し出たが、木村からこの話を聞いた吉原功は、4月18日に東京から巡業が行われていた長崎県島原市へと向かい、剛と話し合いの席を持つことになった。 川島壮雄: 2009年9月6日に開催された「アナウンサー朗読会2009・恋する時間」の演出を手がけたわかぎゑふの「“劇団関テレ”を支える看板スターが必要」という発案により、2009年7月に吉原功兼・堀田篤・坂元龍斗とともに、イケメンアナウンサーユニット「KT☆BOYS」を結成。 |
吉原功の情報まとめ
吉原 功(よしはら いさお)さんの誕生日は1930年3月2日です。北海道出身の格闘家
プロレスのようです。
引退、解散、テレビ、事件に関する情報もありますね。1985年に亡くなられているようです。
吉原功のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)吉原 功(よしはら いさお、1930年3月2日 - 1985年6月10日)は、日本のレスリング選手、プロレスラー、実業家。元国際プロレス社長。岡山県出身。 早稲田大学レスリング部出身。1952年に東洋製鋼に入社し、同年に開催された東北3県国体を目指して日本橋浪花町にあった日本プロレス・センターに通い詰める。1953年に力道山に口説かれて日本プロレスに入門してプロレスラーとして活動した。1956年10月24日には新設された日本ライトヘビー級王座の決定トーナメント決勝戦で芳の里淳三と戦うものの0-2で敗退。後に芳の里の王座返上を受けて1960年10月19日に行われた決定戦で大坪清隆を破り第2代日本ライトヘビー級王者となる。ただし、芳の里も吉原もほとんど防衛戦をやっていない(当時日本人同士の対戦は今ほど一般的でなかった。またマッチメイクも「力道山VS大物外国人」が中心だった)ので王者としての印象は薄い。現役時代の十八番技はコブラツイスト(アバラ折り)であった。 元々レスリング出身という経歴のため、日本レスリング協会、中でも第3代会長の八田一朗とのつながりがあり、八田の人脈を通じて国際プロレスで初来日した選手も多く、ビル・ロビンソン、モンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)など、後にブレイクした選手も少なくない。ロビンソン、ロシモフ、ジョージ・ゴーディエンコ、ホースト・ホフマンといったヨーロッパの強豪が数多く来日し、日本プロレスのアメリカルートとは一味違ったレスリングをファンに提供したのも大きな功績である。AWAの帝王であったバーン・ガニアを招聘するなど、日本プロレスとは違うアプローチで団体の色を見せた。吉原はアメリカンスタイルではなくヨーロッパスタイルのプロレスを目指していたとされており、その背景の1つとしてヨーロッパには豊富な人材があり安いギャラで参戦させることができるというものがあった。 またトップ団体の日本プロレスに対抗するため、文書による選手契約の導入・金網デスマッチ・選手入場のテーマ曲など会場でのBGM・総当たりリーグ戦でのバッドマーク・システム(リーグ戦で、各選手一定の持ち点でスタートし、負け・引き分けのたびに持ち点を減らしていき最も多くの得点が残った者が優勝、という方式。消化試合がなくなり好カードは多く実現できる、という触れ込みだった)など数々の新機軸を案出し、その中には近年のプロレス界で広く受け入れられている物も存在する。 1970年にはNWAに加盟を申請したが日本プロレスの妨害により加盟できなかった他、1973年には国際プロレス・新日本プロレス・全日本プロレスの3団体が共存共栄を図るべく、日本プロ・レスリング協会の設立を提案したことがある。 『ビッグ・サマー・シリーズ』の最終戦が行われた1973年7月15日から『第5回IWAワールド・シリーズ』開幕戦が行われた9月8日までの54日間のオフには、すでに引退していた吉原がリングに上がって試合をしたという幻の非公式巡業、通称『合宿シリーズ』が行われた。この巡業は吉原が人間ドックで運動不足を指摘されてショックを受けたことにより行われたとされており、この頃の吉原は選手とボウリング大会を開くなど積極的に運動をしていた。 国際プロレスは1981年8月9日に興行を停止して同年9月30日に消滅したため、国際プロレス解散後は保険会社のセールスマンに転身したが、1984年2月に胃潰瘍で入院。同年7月から新日本プロレスの顧問に就任したと同時にプロレス界に復帰したが、1985年6月10日、胃がんのため死去。55歳だった。 葬儀の際、国際出身者代表としてラッシャー木村が弔辞を読み上げ、木村は「我々はバラバラになってしまいましたが、国際プロレス精神を忘れずに闘っていきます」と読み上げた。 墓所は岩手県北上市にある。 現役時代、右ひじを脱臼して通院していた際、力道山に「こんな程度で医者にかかるんじゃねぇ!今日から試合に出ろ!」と言われ、腫れていた右ひじを殴られた。吉原は通院をやめて試合に出場し続けたという。 国際プロレスの選手は吉原に信頼を寄せ、さらに絆を深めていた。
無口な性格であったが、これが国際プロレスの教育法であった他、気の優しい性格でもあった。 酒の席では選手が誰一人帰ろうとせず、自宅で選手と朝まで飲みまくっていたことは日常茶飯事であった。 吉原が入院した際、見舞金を受け取ろうとする気はなかった。しかし国際出身の選手が見舞金を渡す際に、感謝の言葉を寄せていたという。 1972年11月27日に愛知県体育館で行われた興行は、11月21日に行われた日本プロレスとの名古屋での興行戦争となったが、すでにジャイアント馬場とアントニオ猪木が抜けた日本プロレスは弱体化しており、吉原はこの名古屋大会で「打倒日本プロレス」を果たすべく勝負をかけた。最終的に国際プロレスが勝利し、その際、吉原の喜び様は尋常ではなかったという。 吉原の死去直後、国際出身者である国際血盟軍メンバーや将軍KYワカマツは弔意を示すかのように「打倒馬場・猪木」を誓った。ワカマツは吉原死去の翌日である1985年6月11日に東京体育館で行われた第3回IWGPリーグ戦において、マネージャーを務めておりともに吉原には恩義のあるアンドレ・ザ・ジャイアントの優勝を誓い、国際血盟軍は同年6月21日に日本武道館で行われた馬場VS木村のPWFヘビー級選手権において、木村のPWFヘビー級王座奪取を誓った他、木村のセコンドについたメンバーも弔意を示すために黒い鉢巻を締め、高杉正彦は国際時代のジャージを着用した。 長男は吉原に柔道を習わされ、次男も、国際に対して特別な感情を持ち「親父を思っている皆さんには心から感謝しています」と話している。初めての酒は、遊びに来ていたグレート草津に「お前も飲め」と言われて飲んだという。 ^ 「忘れじの国際プロレス」P63 ^ 「忘れじの国際プロレス」P66-P67 ^ 「忘れじの国際プロレス」P108 ^ 『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p48 ^ 『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p49 ^ 『日本プロレス事件史 vol.8』P71 - P75 ^ 『G SPIRITS Vol.42』(辰巳出版・ISBN 9784777818129)p.54‐55 ^ 『実録・国際プロレス』、P459-P460 ^ 「忘れじの国際プロレス」P71 ^ 「忘れじの国際プロレス」P107 ^ 「忘れじの国際プロレス」P13 ^ 「忘れじの国際プロレス」P17 ^ 『日本プロレス事件史 vol.10』P71 - P75 ^ 「忘れじの国際プロレス」P69 『忘れじの国際プロレス』ベースボール・マガジン社、2014年。ISBN 9784583620800。 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.8』ベースボール・マガジン社、2015年。ISBN 9784583622699。 『週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.10』ベースボール・マガジン社、2015年。ISBN 9784583622996。 『実録・国際プロレス』辰巳出版、2017年。ISBN 9784777819775。 この項目は、スポーツ関係者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ人物伝)。 日本のプロレスラー 日本の実業家 プロレスの関係者 プロレス・エグゼクティブ 日本のプロレスのプロモーター プロレス解説者 日本プロレスの関係者 日本プロレスに所属したプロレスラー 国際プロレスの関係者 新日本プロレスの関係者 アマチュアレスリング出身のプロレスラー 岡山県出身の人物 胃癌で亡くなった人物 1930年生 1985年没 ISBNマジックリンクを使用しているページ すべてのスタブ記事 スポーツ関係者関連のスタブ項目
2024/11/17 02:44更新
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yoshihara isao
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