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千葉真一の情報 (ちばしんいち)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

千葉真一の情報(ちばしんいち) 俳優 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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千葉 真一さんについて調べます

■名前・氏名
千葉 真一
(読み:ちば しんいち)
■職業
俳優
■千葉真一の誕生日・生年月日
1939年1月22日 (年齢82歳没)
卯年(うさぎ年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
福岡出身

(昭和14年)1939年生まれの人の年齢早見表

千葉真一と同じ1939年生まれの有名人・芸能人

千葉真一と同じ1月22日生まれの有名人・芸能人

千葉真一と同じ出身地福岡県生まれの有名人・芸能人


千葉真一と関係のある人

小谷充: 千葉真一


河原崎長一郎: 何度か共演経験がある千葉真一は「素晴らしい俳優さんだと思った。


卯木浩二: 1989年、『将軍家光の乱心 激突』では長門裕之のスタントを務め、千葉真一指揮の下、「人馬もろとも火だるまになりながら疾走する」という危険なアクションを敢行した。


平井和正: ウルフガイ 燃えろ狼男(1975年、実写映画) 千葉真一(犬神明)、他


キアヌ=リーブス: 上述のとおり千葉真一の熱狂的なファンで、「(千葉主演の)『激突! 殺人拳』からアクションと芝居を学んだ。


緒形拳: 合間に出演した1981年の映画『魔界転生』では、宮本武蔵に扮して柳生十兵衛(千葉真一)と激闘を演じ、新国劇で培った殺陣を披露している。


関根勤: 千葉真一・ジャイアント馬場・長嶋茂雄など、これまでやり手のいなかった人物のモノマネで次第に注目される。


スティーブン=セガール: 千葉真一と親交があり、千葉がハリウッドに拠点を移してからは、セガールが流暢な大阪弁で「千葉先生、居てはりまっか?」などと、頻繁に千葉へ連絡している。


植村喜八郎: 小学生のころに観た『キイハンター』の千葉真一に憧れ、1978年に東映アクションタレントクラブの第一期生として、スタントマン兼俳優活動を開始。


杉義一: 1967年、東横を退社してフリーとなり、1973年から1975年までは千葉真一のジャパン・アクション・クラブの代表を務めた。


遠藤実: 妻に捧げる歌 (千葉真一、1966年9月)


本間千代子: ほかは1.「東京紳士」(千葉真一)、2のB面「女の心も知らないで」(小林裕子)、3.「下町野郎」(小川守)、4.「夜の口笛」(三田佳子)を収録。


ヤン=スエ: 千葉真一主演の日本・香港・タイ王国3か国合作映画『激殺! 邪道拳』 (1977年) では、俳優と映画スタッフを兼務して原案を担当するなど、多才な一面を見せている。


矢吹二朗: 1967年に関東高等学校を卒業するが、6年間の学費は兄・千葉真一が支払った。


中島貞夫: 本作の劇伴で流されている千葉真一の楽曲「流れ唄」の作詞も書いている。


いしだあゆみ: いしだは千葉真一の熱狂的ファンで、仕事の合間を縫いながら必ずテレビドラマ『キイハンター』を観ており、千葉と会ったときには「大ファンです」と伝えている。


小池朝雄: その一方で、同年の千葉真一主演映画『日本暗殺秘録』では理不尽な融資打ち切りに遭う温厚な経営者や、『仁義なき戦い 頂上作戦』で同窓会の最中に暗殺される中立派の組長、テレビドラマ『野性の証明』では沈着冷静に捜査する刑事など、善人・悪人と分け隔てなく演じている。


村田英雄: 鶴田浩二・高倉健・北島三郎・千葉真一らと多数共演した。


木下龍太郎: 千葉真一「野良犬のブルース」


森岡賢一郎: 千葉真一


山口和彦: 東映東京撮影所に配属され、千葉真一主演映画の助監督やテレビドラマの助監督で経験を重ねる。シリーズ物としては任侠映画で梶芽衣子の『銀蝶シリーズ』、アクション映画では志穂美悦子の『女必殺拳シリーズ』や千葉真一の『けんか空手シリーズ』などを手掛け、東映ポルノを数本撮っている。


ジャン=ギャバン: 千葉真一も準レギュラーで出演していた特撮番組「宇宙刑事ギャバン」の主人公・作タイトル名の由来は、ギャバンである。


吉川晃司: 幼少期は千葉真一と倉田保昭の大ファンで、彼らの活躍に憧れを抱いていた。


青木望: 影 (1985年、千葉真一)※編曲含む


真田広之: 世界進出について千葉真一からアドバイスを受けており、「(師は)いつも世界市場の未来に目を向けていたので、その姿勢に大きな影響を受けました。


宮川彬良: ミュージカル 酔いどれ公爵 (1985年、演出・主演 : 千葉真一


中島ゆたか: 1974年、千葉真一主演作品『激突! 殺人拳』、『直撃! 地獄拳』シリーズ、『ルバング島の奇跡 陸軍中野学校』、『少林寺拳法』、『けんか空手 極真無頼拳』など、ヒロインとして出演する機会が増え、1975年の『トラック野郎 御意見無用』では初代マドンナに扮した。


井筒和幸: 同シリーズに傾倒しており、深作特集の映画祭で黒沢清と阪本順治と共にゲストに招かれた際には、シリーズ第二作で北大路欣也と千葉真一が実質上の主人公の第二作の仁義なき戦い 広島死闘篇をリクエストし上映後に深作とトークを行った。


キアヌ=リーブス: 本人は少年時代を振り返り「僕はサニー・チバ(千葉真一)の映画とともに育ったようなものなんだ」と語っている。


ミッチー=ラブ: 9歳の時に沖縄でロケをしていたテレビドラマ『キイハンター』(TBS)の撮影現場を観覧していたところを千葉真一の目にとまり、スカウトされる。


千葉真一の情報まとめ

もしもしロボ

千葉 真一(ちば しんいち)さんの誕生日は1939年1月22日です。福岡出身の俳優のようです。

もしもしロボ

生涯、追悼などについてまとめました。映画、テレビ、ドラマ、家族、事件、父親、結婚、卒業、子役に関する情報もありますね。82歳で亡くなられているようです。

千葉真一のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

千葉 真一(ちば しんいち、Sonny Chiba, 1939年1月22日 - 2021年8月19日)は、日本の俳優・体操選手・空手家・歌手・芸能プロモーター・アクション監督・演出家・映画プロデューサー・映画監督。愛称:千葉ちゃん・チバシン。本名:前田 禎穂(まえだ さだほ)。

日本を代表する映画スター・アクションスターとして、海外ではSonny Chiba(サニー ちば)の通称で名高い。特技の器械体操・極真カラテ四段・乗馬・スキー・少林寺拳法弐段を活かしたアクロバティックなスタント・殺陣は、吹き替えに任せず、自ら演じてきたことや、名優としての存在感も併せ、定評を博している。

芸能生活は半世紀以上の60年を越え、映画テレビ映画ドラマ・演劇など、計1,500本以上の作品に出演。1970年に創設したジャパンアクションクラブ (JAC) からは、数々のスタントマン・スーツアクター・殺陣師・俳優・アクション監督を輩出している。本職だけではなく、指導者として後進の育成をし、映画・演劇の演出、製作にも参画するなど、多岐にわたり活躍していた。

生涯

オリンピックを目指して

福岡県福岡市博多区雑餉隈にて、二男三女の長男・第二子として生誕。4歳の時、千葉県君津市へ転居。中学生から器械体操を始め、オリンピックで日の丸を掲げたいという夢を抱くようになり、千葉県立木更津第一高等学校へ入学後、1年生で全国大会上位入賞、3年生で全国大会優勝を成し遂げた。 (⇒ #家族

1957年、日本体育大学体育学部体育学科に進学した。器械体操の仲間には後の1964年東京オリンピックの体操競技で女子団体銅メダルを獲得する千葉吟子や、同オリンピック金メダリストで“山下跳び”の山下治広がおり、「種目によっては山下より上」と評されている。将来を嘱望されていたが、2年生の時に、跳馬を練習中に着地で失敗し、腰・膝を痛めてしまう。医者から「1年間運動禁止」と宣告され、選手を続けることが困難となる。休学も検討したが、学費を工面できないので余儀なく退学した。 (⇒ #2010年代#体操界・日体大#器械体操

今後を模索し始め、実家に帰る途中の代々木駅で「東映第6期ニューフェイス募集!」のポスターを偶然見かける。地元に戻り、相談した親友も賛成してくれたことや、かつてミスタースポーツウエア・コンテストに入賞し、東映ニューフェイスを受験するよう勧められていたこともあり、応募した。日本体育大学で器械体操をしていた経歴を珍しがられたが、2万6千人の応募からトップの成績で合格を果たす。1959年、大学を中退し、入社。男性6名・女性14名のうち、俳優では新井茂子・亀石征一郎・志村妙子・都築克子・中条宏美・春海洋子や、映画監督では中島貞夫が、同期生にいた。

アクションスター

俳優座で6か月の研修を経て、1960年1月7日に『新 七色仮面』の二代目・蘭光太郎として主演デビュー。続けて『アラーの使者』にも主演した。 (⇒ #変身ヒーロー

1961年、中山昭二の代役で『警視庁物語 不在証明』に出演後、深作欣二が初めて監督をした『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』に主演して、2期先輩の曽根晴美と「拳銃コンビ」のキャッチコピーで売り出された。吹き替えなしでスタントをこなすことから、「アクションができる素材に演技の磨きを増せば」と期待される新人であった。以後、深作は自身が愛着もしくは面白味のある役どころに千葉を起用していくことで作品を弾けさせ、千葉も深作を師匠と仰ぎ、その期待に応えていく。 (⇒ #アクション作品

1962年は『事件記者シリーズ』の第1作『恐怖の魔女』に主演したほか、1963年には『八州遊侠伝 男の盃』で時代劇に初出演。『事件記者シリーズ』の第2作『殺人鬼の誘惑』と『柔道一代シリーズ』第一作に主演している。

1963年から音楽活動も始め、「男一匹生きるなら」をリリースして歌手デビューを果たした。1967年には“千葉真一とザ・サタンズ”というグループ・サウンズのバンドを結成。リーダーとして夜は都内の音楽喫茶・ライブハウスで歌い、九州などにも巡業し、ライブをしていた。 (⇒ #音楽#キイハンター#ディスコグラフィ

1966年、『カミカゼ野郎 真昼の決斗』(日台合作)、『海底大戦争』(日米合作)にそれぞれ主演し、国際的にも活動し始め、後に『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』(1973年、日香泰韓合作)、『激殺! 邪道拳』(1977年、日香泰合作)、『ゴルゴ13 九竜の首』(1977年、日香合作)など、諸外国との共同作品に主演するきっかけになった。その合間に前年の『くらやみ五段』、遠藤実の自伝を映画化した『太陽に突っ走れ』、『子守唄シリーズ』、『組織暴力』や、父親が軍人だったので、「夢にまで特攻隊が出てくる」と語る『あゝ同期の桜』、『河内遊侠伝』、『陸軍諜報33』など次々と主演していた。 (⇒ #Sonny Chiba#海外進出#アクション作品#家族

1968年から『キイハンター』に主演。これまで誰も見たことのないスーパーアクションで人気をさらい、千葉ちゃんの愛称で、一躍国民的アイドルとして親しまれた。 (⇒ #音楽#キイハンター#ファン

転機

1969年、オールスターキャストで製作された『日本暗殺秘録』では、小沼正に扮して主演した。『キイハンター』を休んで撮影に臨み、小沼が悩み苦しみ葛藤から、怒りへ覚醒していく情念を、アクションスターという枠に収まらない、印象深い演技をしている。同年の京都市民映画祭では、主演男優賞を受賞。『キイハンター』で人気者になるだけではなく、「様々な作品に出演していかなくてはいけない」と考え直す転機にもなっている。 (⇒ #キイハンター

1970年、日本の映画テレビ映画のアクションシーンを向上するには、自分と同レベルで動ける俳優・スタントマンの育成が急務を要すると痛感し、法人としてジャパンアクションクラブ (JAC) を創設した。 (⇒ #ジャパンアクションクラブ (JAC)#演劇

1973年の『仁義なき戦い 広島死闘篇』では主役に選ばれていたものの、北大路欣也の要求を受け入れた東映の意向でクランクイン直前、大友勝利役に代えられたが、凶暴・凶悪なキャラクターを演じ、『仁義なき戦いシリーズ』の中で、主人公をしのぐほどの強烈な印象を残す。大友はシリーズ中1, 2を争う名キャラクターとして人気をつかんでおり、これ以降、他のヤクザ映画でも「『仁義なき戦い』の千葉真一さんがやった大友勝利のような」と影響を与え続け、ヤクザ役のひな型となっている。 (⇒ #ヤクザ映画

『広島死闘篇』と同時進行で『柔道一代シリーズ』以来、10年ぶりの格闘技をモチーフとした『ボディガード牙シリーズ』の撮影に入り、『殺人拳シリーズ』と次々主演作がクランクインしたため、『仁義なき戦いシリーズ』の再出演は実現しなかった。これ以降は格闘をメインとした作品に続けざま主演していくが、極真カラテを修行して黒帯を允許された技量が生かされることとなる。 (⇒ #空手道

Sonny Chiba

『ボディガード牙シリーズ』(1973年)は日本だけにとどまらず、欧米でもヒットし、ブームになる先駆けの作品となった。これを皮切りに、『殺人拳シリーズ』(1974年 - 1976年)、『地獄拳シリーズ』(1974年)、『少林寺拳法』(1975年)、『けんか空手シリーズ』(1975年 - 1977年)、『激殺! 邪道拳』(1977年)と、前後して『やくざ刑事シリーズ』(1970年 - 1971年)、『狼やくざシリーズ』(1971年 - 1972年)、『麻薬売春Gメンシリーズ』(1972年)や、小説『ウルフガイ 燃えろ狼男』(1975年)と劇画『ドーベルマン刑事』『ゴルゴ13 九竜の首』(1977年)の映画化なども含め、数々の作品に主演。『キイハンター』と同様のスタントに、空手道・拳法・器械体操が加わり、アクロバティックでスリリングとシャープな演技は好評を博した。 (⇒ #アクション作品#格闘作品

とりわけ1974年に主演した『激突! 殺人拳』から始まる『殺人拳シリーズ』は国内のみならず、海外でも『The Street Fighter』のタイトルで公開され、アメリカ合衆国では日本映画として初めて興行収入100万ドル以上を記録。この成功は同国で最も権威のある総合情報週刊誌『バラエティ (アメリカ合衆国の雑誌)』の12月18日付にも掲載され、同誌が初めて日本映画を取り上げるという快挙を成し遂げている。この頃から国際的にSonny Chiba(サニー ちば)という名前で認知されることとなり、主演・出演するカラテをメインにした格闘映画は続々と世界的に大ヒットした。海外でも著名人のファンは多い。 (⇒ #格闘作品#ファン(海外)

テレビ映画では『キイハンター』以降、『ザ・ボディガード』(1974年)、『ザ★ゴリラ7』『燃える捜査網』(1975年)『大非常線』(1976年)とアクション作品に主演。この頃、カリフォルニア州に聳えるマンモスマウンテンのバックカントリーをスキーで滑走しており、その姿は1974年5月6日にドキュメンタリー『千葉真一 4,000メートルのマンモスマウンテンを滑る』(東京12ch)や6月6日の『ザ・ボディガード』第10話「グランドキャニオンの殺人者」で、それぞれ放送されている。前後して若手の育成に追われる日々となったが、1976年の『沖縄やくざ戦争』では京都市民映画祭の主演男優賞を受賞した。

1977年4月にハワイ州で開催された「日本代表極真会館チーム対ハワイ代表チーム」というフルコンタクト空手の対抗戦に参戦。180センチメートル以上あるネグロイドのアメリカ東海岸空手チャンピオンと戦い、二段蹴りでKO勝ちを収めた。 (⇒ #2022年#極真カラテ#空手道

ジャンルを越えた活躍

名実共に日本を代表するアクションスターとして活躍していたが、1978年から本格的に時代劇へ進出。主演した『柳生一族の陰謀』は興行収入30億円以上の記録的な大ヒットをした。1979年に第2回日本アカデミー賞の優秀助演男優賞を受賞。柳生但馬守宗矩(若山富三郎)・宮本武蔵(緒形拳)と華麗で凄みのある一騎討ちを披露した主演作『魔界転生』(1981年)は観客動員数200万人・配給収入10.5億円を超し、『赤穂城断絶』(1978年)、『闇の狩人』(1979年)、『里見八犬伝』(1983年)、『必殺4 恨みはらします』(1987年)などにも出演している。

特に『柳生一族の陰謀』、『魔界転生』、『柳生あばれ旅シリーズ』(1980年 - 1983年)の柳生十兵衛と、傑作と評価されている『影の軍団シリーズ』(1980年 - 1985年)の服部半蔵は、十八番である。 (⇒ #時代劇

1979年には芸能生活20周年記念作品である『戦国自衛隊』で、主演と日本映画初のアクション監督を兼務し、配給収入で13.5億円の大ヒットを記録。その演出が評価され、1980年にブルーリボン賞のスタッフ賞を受賞した。1981年の主演映画『冒険者カミカゼ -ADVENTURER KAMIKAZE-』は自ら企画し、『忍者武芸帖 百地三太夫』(1980年)と『吼えろ鉄拳』(1981年)で出演とアクション監督を兼務。1989年の『将軍家光の乱心 激突』でも出演とアクション監督を兼ね、同作は第39回ベルリン国際映画祭に招待された。1990年には映画プロデューサーと初映画監督を兼ねた『リメインズ 美しき勇者たち』を手がけ、アクション作品の全盛期を牽引していた。 (⇒ #2022年#アクション作品

1981年から演劇にも進出し、『ゆかいな海賊大冒険』(1982年 - 1984年)、『酔いどれ公爵』(1985年)など複数の作品を企画・演出・主演し、JACミュージカルとして定期的に公演した。新宿コマ劇場の観客動員数では、3年間にわたって満員御礼となる記録的な成功を収めている。 (⇒ #ジャパンアクションクラブ (JAC)#演劇

並行して1970年代から1980年代にかけ、『七色とんがらし』(1976年)や『十字路』(1978年)、『深夜にようこそ』(1986年)、『夢に見た日々』(1989年)の人間ドラマにも主演。1982年には楽曲「誓い(JACのテーマ)」を作詞、1985年には10年ぶりに歌手としてリリースした「曠野」の作曲も手がけ、俳優・歌手に留まらない映画監督・映画プロデューサー・作詞家・作曲家など、その活躍ぶりはジャンルを越えて幅広いものであった。 (⇒ #音楽#人間ドラマ

海外進出

1966年から1970年代に数々の日本と諸外国との合作作品に主演するほか、1981年は『武士道ブレード』(英米合作)に主演した。 (⇒ #アクションスター#Sonny Chiba

1975年12月、「千葉真一とアル・パチーノの共演で映画を撮りたい」とフランシス・フォード・コッポラから東映に申し入れが届いていたので、海外進出のチャンスが訪れるはずだった。しかしこのオファーを岡田茂 (東映) が断ったので実現せず、関係者内では「本格的な海外作品の出演をあきらめた」と認識されていた。それでもハリウッドへの思いは募り、水面下のアピールや主演映画の評判などで、海外進出を決意。その姿勢は真田広之にも大きな影響を与えており、「(師は)国内だけでなく、常に世界市場に目を向けていた。私も海外の俳優・監督と一緒に仕事をするには、どうしたらいいかを考えるようになった」と述懐している。 (⇒ #JAC OB OG

1990年頃からアメリカ映画の出演依頼が届き始め、折しもロサンゼルスでは『激突! 殺人拳』(1974年)、『子連れ殺人拳』(1976年)など、14本の主演作がリバイバル興行されていた。 (⇒ #格闘作品

1991年、ジャパンアクションクラブ (JAC) の売却を経て、1992年に『エイセス / 大空の誓い』に出演。これを機に拠点をロサンゼルスへ移し、アメリカ合衆国でも活動をするようになり、グリーンカードも取得した。日本未公開作品もあるが、長年の経験で培ったそのアクションは高く評価されている。 (⇒ #外国作品

1998年に出演した『風雲 ストームライダーズ』では、ラスボス“雄覇(ホンパ / ホンファ)”を演じた。原作のイメージを彷彿とさせるその演技は話題に上り、翌年の第18回香港電影金像奨では、外国人として初めて優秀主演男優賞にもノミネートされた。2001年には台湾でも連続ドラマ化された。 (⇒ #外国作品

2003年、友人でもあるクエンティン・タランティーノが監督した『キル・ビル』シリーズでは出演と、ユマ・サーマン、ルーシー・リューらハリウッドスターへ剣術指導をした。第30回サターン賞では『キル・ビル』で助演男優賞にノミネートされた。 (⇒ #外国作品

2005年10月29日に開催されたハワイ国際映画祭では、これまでの功績を讃えた“MAVERICK AWARD”を受賞した。

2007年、英国放送協会製作の、日本をテーマにしたドキュメンタリーの『Japanorama』に出演。「Densetsu (Legends)」(伝説)をテーマにした回で取り上げられ、4月9日に放送された。同年の『風林火山 (NHK大河ドラマ)』に板垣信方役で出演。 11月には海外で通称としていたJJ Sonny Chiba(JJ サニー チバ)を日本でも使うようになった。11月26日には厚生労働省から健康大使にも任命されている。2008年10月から2009年3月まで京都造形芸術大学の教授を務めた。

2010年代

2010年10月22日にはグランドプリンスホテル赤坂で、結婚披露宴を兼ねた芸能生活50周年記念式典を開いた。もともとはアントニオ猪木・池谷幸雄・石田純一・市川亀治郎・今井雅之・内野聖陽・梅宮辰夫・岡崎二朗・ガッツ石松・川地民夫・神取忍・樹木希林・北の湖敏満・京本政樹・具志堅用高・郷田勇三・小林幸子・コロッケ・高橋英樹・竹本直一・田中好子・谷村新司・津川雅彦・十朱幸代・夏八木勲・白竜・張本勲・布施明・風吹ジュン・松井章圭・松坂慶子・美川憲一・三田佳子・やまさき十三・山本KID徳郁・横峯良郎・ラモス瑠偉ら計60名を発起人とした芸能生活50周年記念式典が先に決まっていたところ、現妻と挙式や披露宴をしていなかったため、千葉の要望で記念式典と合わせて企画された。前半の披露宴には家族でキャンドル点灯のほか、長女・真瀬樹里は父への尊敬とお祝いの挨拶が行われ、芸能界にまだ入っていなかった長男・新田真剣佑と次男・眞栄田郷敦の二人も登壇し、手紙を読み上げる形で両親を祝福している。後半の記念式典では主演・出演した映画テレビ映画ドラマ・演劇が順に紹介され、樹里とは殺陣、真剣佑・郷敦とは空手道の演武で型と杉板の試割りを家族皆で披露。勝野洋・小堺一機・夏樹陽子らは花環を贈呈し、出席者に上記発起人ほか、太田昭宏・北島三郎・関根勤・高岡早紀・高橋和也、デヴィ・スカルノ、南部虎弾、ビリー・ブランクス、堀田眞三・魔裟斗・松木安太郎ら、多数の芸能人を含む、各界から約600人がお祝いに集った。「あっという間の50年だった。まだまだ、やり残したことがあるので精進したい」と気を引き締めつつ、感謝の意を表している。 (⇒ #最期#人柄#家族

2011年以降、芸名を日本のみ千葉 真一、海外ではJJ Sonny Chibaとしている。同年9月29日から10月2日にアジア・アメリカ映画を祝す国際フィルムフェスティバル「SINGAFEST 2011」(ビッグフット・エンターテインメント主催)がロサンゼルス・ウエストウッドのビッグフット・クレスト・シアターにて開催され、LIFETIME ACHIEVEMENT AWARDを受賞。代表作の一つである『魔界転生』が上映され、授賞式には樹里・真剣佑・郷敦も出席し、千葉と樹里は殺陣を、真剣佑と郷敦は空手を披露し、集まった多くのファンをわかせている。11月、徳島県鳴門市で生産・販売されている「本格焼き芋焼酎“斬”」の監修をした。 (⇒ #最期#外国作品#家族

2013年3月10日、日本体育大学から正式に卒業を授与され、これにより最終学歴は「日本体育大学体育学部体育学科卒業」となり、学校教育法第104条および学位規則第2条の規定に従って「学士(体育学)」の学位が与えられた。 (⇒ #体操界・日体大#器械体操

2014年の『おわこんTV』に主演し、テレビ業界のウラのウラまで知り尽くす名物社長を、存在感醸し出しながらも軽いタッチで演じた。同ドラマは文化庁芸術祭参加作品となっている。

2016年4月14日に勃発した熊本地震では、母の故郷を憂い、オスマン・サンコンと一緒に被災地で炊き出しをした。同年8月21日、千葉市の「第41回 親子三代夏祭り」で、千葉氏中興の祖である千葉常胤に扮して武者行列を務めた。 (⇒ #親交の有った芸能人

2019年12月19日、千葉市の健康大使に任命された。市民が主体的に健康づくりを取り組めるよう、同市は広報・啓発の一環として、県内出身で芸能生活60周年を迎えていた千葉が就任する運びとなった。任命式では「来月、81歳を迎えるので少々不安でございますが」と挨拶をしながらも、年齢を重ねるごとに健康管理を替えてきたことや、その矜持、健康大使としての抱負を述べた。 (⇒ #家族

晩年

2020年、文化活動に優れた成果を示し、文化振興や日本文化の海外発信・国際文化交流に貢献したとして、文化庁長官表彰をされた。前年に芸能生活60周年を迎えており、これまでの歩みを振り返りながら、近況や家族のことと併せて、「私にはあんまり似合わない賞をいただいちゃって…。これからはこれに恥じないよう、しっかり努力して生きていきたい」と笑顔を見せた。 (⇒ #最期

2021年6月、個人事務所「ルイアンドリーブス」を、「エム&リーヴス」へ設立し直した。子供たちに自身の企画やアイデアを受け継いでもらう願いと「いまのうちにきちんとしておきたい」という思いからである。千葉が代表で新田真剣佑は取締役となり、それまで複数あった会社の事業を統一し、全著作権を「エム&リーヴス」が引き継ぐと決めた。西田真吾は「膝・足が硬直するなど、昔と比べて身体の自由が利かなくなり、日課のジョギングも思うようにできなくなっていた。一昨年末頃から『もう長くない』と漏らし、断捨離を始めていた」と証言しており、本人も「60代までは、まだまだ若者に負けないくらいのスピードができていた。しかし、今ははっきりと肉体が衰えていることを自覚している。気持ちとして、まだまだ演技や作品を追求したいけど、肉体がついてこない」と吐露していた。 (⇒ #家族

スティーブン・セガールとダブル主演での映画や、ジェシー・ベンチュラやウェズリー・スナイプスと共演するハリウッド映画も撮影予定であったが、コロナウイルスのパンデミックにより撮影が延期になっていた。

最期

事業の統一から2か月過ぎた2021年8月19日17時26分、新型コロナウイルス感染症 (COVID-19) による肺炎のため、千葉県木更津市の君津中央病院で死去した。82歳没。折しもCOVID-19の第5波で感染爆発している日本は、同月6日に感染者が100万人を超えており、医療体制が逼迫・確保できていない真っ只中に失命した。自らの意思で、COVID-19ワクチンを接種していなかった。

7月末に感染。咳嗽などの症状はあったが、元気だったので、そのまま自宅療養を続けていた。しかし8月4日に38.8度の熱を発し、PCR検査の数値も悪く、肺炎が悪化。救急車で搬送され、8日に入院した。酸素吸入などの治療を受け、一時は回復する兆しがあったものの、容体は急変。18日あたりから意識がなくなり、そのまま息を引き取った。新田真剣佑はハリウッド映画の撮影でアメリカ合衆国に滞在しており、真瀬樹里と眞栄田郷敦は仕事後に駆けつけるも、3人は父親の最期を看取ることができなかった。 (⇒ #家族

緊急事態宣言中のため、通夜は行われていない。翌20日、眞栄田郷敦を喪主とし、葬儀が営まれた。人数が制限されていたため、親戚5人のみが参列。荼毘に付され、郷敦と前夫人が遺骨を拾った。 (⇒ #家族

長女・真瀬樹里は「一報を受け、仕事後に駆けつけましたが、最期に立ち会うことはできず…。しかし、顔を見て、お別れと伝えたい事を言うことはできました。苦しんだとは思えないほど、穏やかな顔をしておりました」と最期の様子を振り返り、「少し前に、電話で父の元気な声を聞いたばかりでした。私にとっても突然のことで、まだ現実感がありません。ただただ悔しいです…。天国から両親が見守ってくれていることを信じて、胸を張って見せられる仕事ができるよう、精一杯生きていきたいと思います。父の遺した作品を、これからも愛し続けて頂けたら幸いです」と所属事務所を通じて発表した。

長男・新田真剣佑はインスタグラムにて、ローソクが立てられたケーキを前に、幸せそうに笑う千葉と微笑む幼少期の真剣佑や、千葉の体の上で安心した様子で眠る幼少期の真剣佑の姿が収められている2ショットを公開し、「No matter where I am, you'll always be in my heart.(私がどこにいても、あなたはいつも私の心の中にいます)Love you so much Dad.(お父さん、あなたをとても愛しています)」と思いを綴った。

次男・眞栄田郷敦は防護服を着て対面した日の夜に、所属事務所を通じて「一方的な約束をしてきました。それを守るだけです」と発表した。

2019年に世阿弥の著作より格言を抜粋し、樹里には『花鏡』から「初心不可忘(初心忘るべからず)」、真剣佑には『風姿花伝』から「秘すれば花」、郷敦には『風姿花伝』から「離見の見」と、それぞれ自筆の巻物にして娘・息子たちへ授けている。 (⇒ #晩年#体操界・日体大#2022年#空手道#家族

追悼

国内外の各界から追悼が寄せられた。

追悼(国内)

『白昼の死角』と『伊賀忍法帖』で共演している中尾彬は千葉県立木更津第一高校の後輩で、「とても真面目な方だった。会うと地元の先輩後輩のように話し、お互い実家も近かった。3歳年上なので同時期に通わず、入れ替わりで卒業しましたが、頻繁に器械体操部のコーチに来ていました」と、バレーボール部の中尾とも会えば話す間柄だったと語った。「芸能界に転身しても器械体操の指導で母校へ通い続け、当時珍しかったジーンズを履き、慎太郎カットにしていた」と在りし日の姿や、中尾も芸能界に入ると「おお、頑張れよ」「俺の映画見てる?」と親しく声をかけてくれた気さくな人柄、夢を語る様を振り返っている。「ワクチンも率先して受けるタイプ」と中尾は接種していないことを訝しがりながら、「映画スター。今時、ああいう夢を語れる人が減っちゃったよなあ」と寂しそうだった 。 (⇒ #交友(国内)

東映ニューフェイスの後輩・堀田眞三は『あゝ同期の桜』、『キイハンター』、『人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊』、『影の軍団シリーズ』、『柳生あばれ旅』で共演しており、ツイッターで一緒に撮った写真を掲載。「千葉真一先輩の訃報 信じられないが あの日 あの時無限様々な想いがよぎる 謹んでご冥福をお祈りします 合掌」とつづっている。

11歳の時、共演した小林幸子はインスタグラムにて、「初めて出会ったのは、私にとって初出演だった『くらやみ五段』。デビューしてまもない私を“チビ”と呼び、肩車してくれたり、一緒にキャンプファイヤーしたり、とっても優しいお兄ちゃまという印象でした。その後も『キイハンター』など、いろんなお仕事でご一緒させて頂きました。いつも撮影の合間には、体を鍛えたりアクション練習したり、ずっと動いていて格好いい方でした。最後にお会いしたのは、昨年の文化庁長官表彰の時、息子さんの話を笑顔でお話していたことが印象に残っています。日本のアクションの世界を作り上げ、千葉真一さんご自身が日本の刀のような、何にも負けないはず方なのに。悔しいです。コロナが憎いです。今はゆっくり休んでください。ご冥福をお祈りします。合掌」と思いを記した。

倉田保昭は訃報を聞き、「ショックで寂しかった」と語っている。東映演技研修所に一期生で通っていた倉田にとって、7歳上で既にスターとして活躍していた違いもあり、「『キイハンター』で特に意識し、“ああなりたい”と思うような憧れの先輩でしたね」と回想した。1970年から香港映画に活動の場を移した倉田は、1974年に“和製ドラゴン”として凱旋帰国後、『直撃! 地獄拳』に出演。同作では直接手合わせするシーンは無く、あまり話す機会はなかったものの、『バーディー大作戦』『Gメン'75』に出演していた時、近藤照男から「千葉真一ならこうだ」「千葉ならこうした」と倉田を発奮させるかのように幾度となく話をされ、更に意識するようになっていた。『必殺女拳士』でも共演するが同じシーンは無く、ようやく対面で演技をしたのは『服部半蔵 影の軍団』第2話「闇に潜む牝豹」。終盤に決闘するシーンもあったが、『影の軍団シリーズ』のレギュラーを断っていたので、倉田はきっちり共演できていないと気持ちに駆られていた。そのような思いから、倉田が製作する『マスター・オブ・サンダー 決戦!! 封魔龍虎伝』に出演してもらえるよう、自ら頼んでいる。「当時、日本のアクション映画は若手が育っていなかったので、千葉さんと私がぶつかる姿を若手に教材として見せたい」「3度ほど、二人きりで10時間以上お話をして ようやく千葉さんはOKしてくれた」「千葉さんとの最初のアクションを撮影する日には、ジャパンアクションクラブ (JAC) と倉田アクションクラブの門下生が大勢、セットへ見学に来たのが驚きだった」と振り返った。撮影の合間に「作りたい映画を、何時間も語り合ったことが思い出深い」と語る倉田は、同作で共演以降、ほとんど会う機会も無く、「いつも私の片思いでした」と残念がっている。倉田は千葉の出演作では「『赤穂城断絶』が特に印象に残っている」と評し、「何人ものスターを作り上げ、息子さん二人(新田真剣佑と眞栄田郷敦)もスターになりつつある。その情熱は素晴らしいし、大変な方だと思います。亡くなられた時に思い出したのは、千葉さんと私が立ち回りで闘ったこと。私たちの時代、特に私は先輩がいらっしゃったからガンバレたし、目標としていつも背中を追い求めてきました。良い時代を過ごさせていただき、ありがとうございました」と追悼した。

『影の軍団III』と『写真甲子園 0.5秒の夏』で共演した秋野暢子は「千葉真一さん……残念です」とブログで書き始め、「若い頃、東映スタジオで殺陣を教えていただきました。とても優しく、丁寧に指導してもらい、お優しい素敵な方」と、最近は会えなかったが、世界を代表するアクション俳優から指導を受けた思い出を振り返り、「とても頑強でお元気な方が、コロナ感染されるなんて信じられません」とショックを隠せず、「どうぞゆっくりおやすみください。ご冥福お祈りしています。合掌」と哀惜した。

20代のころに『織田信長』で共演した野村真美は、「ジャパンアクションクラブにお友達もいて、一緒にお食事をしたことも。今朝、テレビで見て『あぁ、そうか…』って言葉がない感じ。胸がつまる思いがありました」と偲んだ。

『源義経』で共演した東山紀之は、悲報に「20代のころに共演させていただきましたが、千葉真一さんが時代劇の立ち回りにアクションを入れた最初の方なんです。今、世界中の映画で行われているアクションものの一番最初は千葉さんがお考えになったものなので、この功績は凄いです」と改めて存在の大きさを絶賛した。千葉の弟子・真田広之とメールで連絡し、「真田さんは千葉さんという父親を亡くした。これは自然の摂理で、しょうがないことなんですが、僕らはその教えを次の世代に伝えていくっていうのが、これからますます大事になるねっていうやり取りをさせていただきました」と誓い合ったことを明かしている。

『寺子屋ゆめ指南』で父娘役を演じた西田尚美は「千葉真一さん、信じられません 半年間、時代劇で私の父上様でした」と受け入れがたい心境を吐露した。この時代劇は千葉と真瀬樹里の初共演作でもあり、西田は「千葉さんと娘さんの樹里ちゃんと殺陣のお稽古とか…私がふらふらになっても、千葉さんと樹里ちゃんはとても楽しそうで。なんて素晴らしい時間だったんだろう」と振り返りつつ、「ありがとうございました。心よりご冥福をお祈り致します」と結び、西田が2014年3月2日にリツイートした千葉、樹里、新田真剣佑、眞栄田郷敦の写真を添えている。

『悪名』で共演した的場浩司はオフィシャルブログで「ため息。笑顔が似合う気さくで偉大な先輩が逝かれた。“千葉真一さん”。偶然にも前回の写真は、千葉さんと初めて共演させて頂いた『悪名』のもの。京都のロケ現場で全身からオーラを放つ千葉さんに、緊張しながら御挨拶させて頂いた場面を思い出しました。優しい笑顔が印象に残っています。その後も御会いする度に色んなお話しを聞かせてくれました。千葉さんの御冥福を御祈り致します。朝からため息しか出ないよ」と沈痛の思いをつづった。

『柳生十兵衛七番勝負』で共演した村上弘明は、世界的アクションスターとして活躍してきた様を「アクション・スタントにアクロバットを取り入れ、時代劇・現代劇を問わず、魅せる演技を創り上げた人で、旧来の殺陣に変革をもたらした」と敬意を表した。「決闘ではその一振りに鍛錬を重ねた荘厳さが感じられ、たいへん充実した立ち合いになったと思います。芝居に対するほとばしる情熱がまるで純粋な子供のようで、それがとても印象的でした」と回想。その数年後に『柳生十兵衛七番勝負 最後の闘い』のリハーサル室に現れ、村上に「やってるねー!相談事があったら、いつでも連絡して。待ってるからさ」と名刺を渡し、立ち去ったという。天国の千葉真一へ村上は「とても残念です。ご冥福をお祈りします」と追悼した。

創設したジャパンアクションクラブ (JAC) からは、愛弟子たちが追悼コメントを捧げた。

金田治は「千葉真一さんとの思い出は数えきれないほどあるが、同じ作品に出演したことよりも、一緒に練習し、JACの合宿、番組の企画でアメリカのアクション映画のロケ地を、千葉さんと二人で巡ったりなどのほうが印象に残っている。千葉さんの功績は、アクションの専門職を作ったこと。『自分だけが凄いアクションができてもダメだ』と言い、スタントマンが冷遇されていたなか、日本のアクションを変え、アメリカ映画に負けないスタントが日本でもできるというポリシーを持って続けてきた。僕は千葉さんが考えていたこと、やりたいことを今も自分なりに続けている。千葉さんがいなかったら僕はこの道に入っていないかもしれないし、アクションの仕事で飯を食えていないかもしれない。今の自分は存在していなかった」と回想し、“日本アクション界の偉大な父”の冥福を祈った。

「見上げる空に」と題するブログにて、志穂美悦子は「それは、あまりに突然で、言葉にならない」と綴るのが精一杯ながら、「でもJACイズムは生きている。それぞれの場所で生きている」と恩師の死を悼み、JACへの思いを記した。

真田広之は、「子役の頃から、様々な事を学ばせて頂きました。何よりも、夢を抱くことの大切さを。志を受け継ぎ、走り続ける事が恩返しと心得ております。本当にお世話になりました。安らかにおやすみ下さい。合掌」と師匠を悼んだ。 (⇒ #海外進出

ツイッターで伊原剛志は「千葉真一さん!40年前、18歳でJACに入って、目をかけて貰い『影の軍団IV』『コータローまかりとおる!』に抜擢してくれた。二人きりになると優しく、京都で良く一緒に走ったりトレーニングもした」と思い出を回顧。「俺が役者であるキッカケになった人だ!有難う御座いました。心からご冥福をお祈りします」と人生に大きな影響を与えた名優をしのんでいる。

千葉を敬愛する芸能関係者は多く、親交していた芸能人も各々追悼している。

池畑慎之介はブログで偉大な名優との思い出として、「53年ぐらい前の何かの雑誌に掲載されたもの。ピー(池畑)が16歳。千葉真一さんが29歳。野際陽子さんが30代前半。みんな若かった」と3ショットを公開。しみじみ振り返りつつ、「千葉真一さんのご冥福を心からお祈りいたします。合掌」と哀悼した。

オスマン・サンコンは日本でタレント活動し始めたころに知り合い、それからは“千葉のアニキ”と慕っていた。「コロナでアニキが亡くなったのはショックだった。千葉さんはサムライね!アニキほど、アフリカのことを考えてくれた俳優はいなかった」と語り、千葉が創ったJAC (JAPAN ACTION CLUB) の顧問に令和4年4月、就任している。 (⇒ #2010年代

空手道を通じ、交流があった長嶋一茂は「本当に残念」と切り出し、「千葉さんは僕が傾倒する空手団体の門下生で、四段を允許されているし、トーナメントにも出ている。それぐらい凄い方で、小中学校時代には千葉さんの強さについて話を聞いていた」と振り返った。2019年に開催された空手の世界大会では「お会いして。黒づくめのスーツでお洒落なハットを被って、『一茂くん』と来てくれて。本当に格好良くて、ほとんどしゃべれなかったが、こういう年の取り方ができたらいいなって。憧れの方だった」とも語った。「生き方や生きざまでの判断・決断だったと思うので、ワクチンを打っていれば…と悔やまれるが、打たなかった千葉さん、変な言い方ですけど、格好良かったなっていう風に思う。ただ残念であることは間違いないです」と偲んでいる。 (⇒ #極真カラテ

1964年東京オリンピックの体操競技で女子団体銅メダルを獲得し、日本体育大学で共に練習に励んだ千葉吟子は突然の訃報に、「選手としての実力は相当なものだった。在学中の1年半を一緒に練習していたが、男性なのに柔らかくて、とても素敵な演技をしていた。当時、同期のみんなは彼が入学した時からオリンピック選手になれると思っていた」と振り返り、1960年ローマオリンピックの体操競技にも出場した吟子は「怪我をしていなければ、一緒に出場していたかもしれない。すごくハンサムで、女性は密かに憧れや気持ちを寄せていた」と回想。「とにかく残念。新型コロナウイルス感染症 (COVID-19) が終わったら、同期会をやろうって言っていたのに・・・。とても寂しいです」としんみり語った。 (⇒ #オリンピックを目指して#プロレス界#器械体操

日本体育大学の理事長を務める松浪健四郎は、1か月前に話したばかりだったので「残念だね・・・」と絶句した。2019年に芸能生活60周年パーティーが催された時、日体大の伝統応援“エッサッサ”を、80歳で現役学生と共に白いパンツ一丁でやり通した姿に、松浪は「あれはきつくて、でも引き締まった美しい肉体で見事なエッサッサを見せてくれた」と、衰えぬ身体に驚いている。同大学の特別卒業第1号に認定されたときは「すごく喜んでくれて、ずっと中退が心残りだったと思う。五輪壮行会にも二つ返事で駆けつけてくれた」と母校愛がとても強く、スターを育成したい気持ちから「アクションスター学科を作ってほしい」といつも話していたと回想し、哀悼の意を表した。 (⇒ #2010年代#最期#2022年#プロレス界

山崎照朝は自身の格闘技コラム“撃戦記”にて、「訃報には驚いた。暗いニュースだった」と嘆き、「千葉さんは極真会館の前身・大山道場に入門しており、私の大先輩。俳優になる前は器械体操の選手として、五輪を目指すほどの実力を持っていた。私が大学生の頃、稽古でご一緒したこともある。嗜むスポーツは多彩で、アクションスターとして格好いい存在だった」と、その経歴・印象や在りし日の思い出を振り返りながら、追悼を寄せている。

「本当に格好よく、小学生の時に『キイハンター』を観ていて、身体のキレが素晴らしく、憧れていました」と語る八代英輝は、「中学・高校と6年間、本部道場に通っていた際、直接教えて頂く機会に恵まれた。あの時、間違いなく日本で一番強かったですね。稽古の一つにスクワットして前蹴り100回を10本するんですが、物凄くキツいこの鍛錬を笑顔で一緒にこなされていたのが、とても印象深い。それから20年ほど経ち、映画の仕事で千葉さんとニューヨークで再会できたが、僕のことを覚えていてくれて、とても嬉しかったですね。多くの人材を育て上げた実績もある」と追憶している。

松井章奎は極真会館 松井派の公式サイトで「千葉真一氏の訃報に接し謹んで哀悼の意を表します」と声明を出した。大山道場で修行を始め、『けんか空手シリーズ』の主演、1977年にハワイ州で開催された極真日本代表 vs ハワイ代表の試合に参戦、ジャパンアクションクラブを率いて第3回全世界空手道選手権大会でアクションの演武、松井体制では総本部相談役として大会に出席するとファンにサインをねだられるなど、極真を世に広めた大きな功労を紹介・感謝し、冥福を祈っている。

(⇒ #Sonny Chiba#2022年#親交の有った芸能人#空手道

船木誠勝は「千葉真一さんがお亡くなりになられました。『新 影の軍団シリーズ』の撮影時に大変お世話になりました。本当にありがとうございます。心より御冥福をお祈り致します」とオフィシャルブログに綴った。「撮影でご一緒する機会が多く、千葉さんは筆で台詞を大きな紙に書き、台本の代わりに持ち歩いていた。私がYouTubeの脚本を書いているのも、あの時の千葉さんが頭の片隅にあるんでしょうね」と回想しつつ、大スターへ哀悼の意を表している。

永田裕志は「日本体育大学の偉大な大先輩で、何度かお会いさせて頂きました。いつも優しい言葉をかけて頂きました。ご冥福をお祈りします」とTwitterでお悔やみの言葉を寄せた。同大学の先輩に紹介されて知り合った永田は、「なんてご挨拶したらいいか分からなくて、ひたすら『新日本プロレスの永田裕志です』と自己紹介した。紳士というか、偉ぶることなく優しい言葉で接してくれて、いたく感動したのを覚えている」、母校で催された2016年リオデジャネイロオリンピックの代表になった選手の壮行会では「敬語でお話され、こちらが申し訳なく思った」、アントニオ猪木や藤原喜明らが参加した会合でも「優しく声をかけてもらったことが忘れられない」、「かっこいい方だったなあ。アクションスターの先駆けのような存在だったし。心よりお悔やみ申し上げます」と振り返り、しんみりと悼んでいる。 (⇒ #体操界・日体大

追悼(海外)

アメリカ合衆国では、『バラエティ』、『ハリウッド・リポーター』、『Deadline.com』といった業界誌はもちろん、『ニューヨーク・タイムズ』『ロサンゼルス・タイムズ』『ワシントン・ポスト』といった主要一般紙や、『ニューヨーク・ポスト』などのニュースサイト、CNNエンターテインメントをはじめとするテレビでも、その死が大々的に報じられた。映画にしてもテレビドラマにしても、自国製の作品のみで十分に調えて供給できるアメリカでは、外国人俳優に対する一般人の関心が決して高くないことを踏まえると、Sonny Chiba(サニー千葉)は例外的存在だったと言える。各媒体とも新型コロナウイルス感染症 (COVID-19) による合併症で亡くなったことから始まり、出生地から生い立ち、器械体操と空手道の修練、長く尊敬されるキャリアを築いてきた俳優であることをしっかり紹介。さまざまな作品に出演し、欧米で知名度を一気に上げた代表作『殺人拳シリーズ』にも言及している。 (⇒ #Sonny Chiba#格闘作品#空手道

アカデミー賞公式Twitterは千葉の訃報に触れ、追悼メッセージを発表した。

イギリスのインデペンデントは「『キル・ビル』などで知られる日本の有名なベテランスターは、新型コロナが原因で死去した」と速報し、フランスのBFM TV は「彼は絶望の危機に瀕している日本映画の真の伝説」と評し、世界中の千葉作品を愛したファンたちも、SNS などで「RIP(安らかに眠れ)」とメッセージを投稿した。

2024/06/09 19:05更新

chiba shinichi


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