もしもし情報局 > 1952年 > 10月16日 > 野球選手

金城基泰の情報 (かねしろもとやす)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【11月21日】今日誕生日の芸能人・有名人

金城基泰の情報(かねしろもとやす) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

金城 基泰さんについて調べます

■名前・氏名
金城 基泰
(読み:かねしろ もとやす)
■職業
野球選手
■金城基泰の誕生日・生年月日
1952年10月16日 (年齢72歳)
辰年(たつ年)、天秤座(てんびん座)
■出身地・都道府県
大阪出身

(昭和27年)1952年生まれの人の年齢早見表

金城基泰と同じ1952年生まれの有名人・芸能人

金城基泰と同じ10月16日生まれの有名人・芸能人

金城基泰と同じ出身地大阪府生まれの有名人・芸能人


金城基泰と関係のある人

森口益光: 1984年は抑えに転向、金城基泰と共にダブルストッパーに任じられたが振るわなかった。


佐藤龍一郎: 初盗塁:1974年6月29日、対広島東洋カープ10回戦(広島市民球場)、5回表に二盗(投手:金城基泰、捕手:水沼四郎)


津末英明: 初安打:1983年9月13日、対南海ホークス21回戦(大阪スタヂアム)、8回表に嶋田信敏の代打として出場、金城基泰から


加藤秀司: 300本塁打:1984年6月9日、対南海ホークス10回戦(藤井寺球場)、9回裏に金城基泰から右越逆転サヨナラ満塁本塁打 ※史上16人目


島田誠: 初打点:1977年5月29日、対南海ホークス前期11回戦(青森市営野球場)、2回裏に山下司の代打として出場、金城基泰から適時打


福士敬章: 1977年に広島東洋カープの古葉竹識監督の希望により、金城基泰との交換トレードで門田純良と共に広島に移籍。


水谷茂雄: 2年目の1981年には故障で出遅れた金城基泰の代わりに抑えの切り札として10セーブを記録するなどブレイクするが、肘の故障や肝炎のため登板機会が減少。


水谷宏: 水谷が打撃投手として抜擢された理由は彼の投球フォームがサイドスローで、山田久志、金城基泰、高橋直樹といった当時ライバル球団に多くいたサイドスロー・アンダースロー投手対策だったためだという。


山本浩二: 現役引退後の1999年6月27日の巨人戦(広島市民球場)にて、かつて広島に在籍した金城基泰の始球式で打席に立ったところ、初球の投球を振らずに見送った上に2球目を左翼席への本塁打にしたことがある。


野村克也: 1977年は広島から金城基泰が松原とのトレードで加入、ゲイル・ホプキンスとも契約した。


武田一浩: なお、NPB史上最多勝利と最優秀救援投手の両方を獲得した投手は、武田以外では江夏豊・金城基泰・村田兆治・山沖之彦(このうち村田は、厳密には最優秀救援ではなく最多セーブ)の4人のみである。


古葉竹識: 南海コーチ時代投手だった福士敬章を金城基泰との交換トレードで獲得し移籍2年目の1978年に15勝8敗、1980年は再び15勝6敗とチームの勝ち頭となる活躍を見せリーグ2連覇に貢献した。


倉持明: このタイトルはセーブポイント(セーブ数と救援勝利数の合計)を最も多く記録した投手に与えられていて、実際にタイトルを獲得した金城基泰(南海ホークス)のポイントが19(13セーブ+6救援勝利)であったのに対して、倉持は18セーブを記録しながら救援で白星が付かなかったことによる。


木庭教: 以降、山本浩二、水沼四郎、三村敏之、池谷公二郎、金城基泰、正田耕三ら有名アマチュア選手の獲得に辣腕を振るい、また達川光男、高橋慶彦、川口和久、大野豊、長嶋清幸、紀藤真琴といった野に埋もれていた無名選手の才能も見出した。


広瀬叔功: いきなり投打の軸を失った南海と広瀬だったが、在任中には金城基泰の抑え転向(1979年に最優秀救援投手)、片平晋作の一塁レギュラー定着(1979年には打率.329)、村上之宏の新人王(1978年)など明るい話題もあった。


中条善伸: 1984年オフに金城基泰との交換トレードで南海ホークスに移籍。


大石弥太郎: チーム防御率12球団最下位の投手陣において、佐々木宏一郎・金城基泰に次ぐ好成績を挙げた。


佐伯和司: これは鶴岡一人がキャピー原田を通じて佐伯をアメリカに留学させた上で、アメリカのプロ野球でプレーさせようとしたものだったが、当時の鈴木龍二セ・リーグ会長の反対でこれは実現せず、同年ドラフト1位で地元広島入団(金城基泰らが同期)、地元出身のスター選手として大いに騒がれた。


加藤英司: 300本塁打:1984年6月9日、対南海ホークス10回戦(藤井寺球場)、9回裏に金城基泰から右越逆転サヨナラ満塁本塁打 ※史上16人目


三浦政基: 前年の10月2日の阪急戦ではチームメイトの金城基泰が一塁走者の福本豊を牽制でアウトにし、史上初の0球セーブを記録。


飯田幸夫: 9月3日の広島戦(中日)では金城基泰から代打満塁サヨナラ本塁打を打ち、巨人のV10を阻止しての20年ぶりのリーグ優勝に貢献。


ジョー=ルーツ: ルーツが指揮権を放棄した4月27日ダブルヘッダー第2試合から野崎泰一が監督代理を4試合務めた後、5月3日に古葉竹識がコーチから監督に昇格し、同年、チームは大下や衣笠、山本浩二、水谷実雄、三村敏之、ゲイル・ホプキンス、外木場義郎、池谷公二郎、金城基泰、佐伯らの大活躍で、球団創設25年目にして悲願の初優勝を達成した。


西沢正次: 本職である捕手としてはシーズン終盤の9月下旬以降に数試合で先発起用され続け、10月3日の南海戦(西武)で金城基泰から第1号本塁打を放ったが、その試合以外は無安打で終わり、9月23日のロッテ戦(西武)では4打席連続三振を喫するなど打撃はさっぱりであった。


門田純良: 1976年オフに金城基泰とのトレードで松原明夫と共に広島東洋カープへ移籍。


兼光保明: 初打席:1981年9月18日、対南海ホークス後期11回戦(大阪球場)、9回表に金城基泰の前に凡退


ハル=ブリーデン: 同年は5月2日の巨人戦(後楽園)で新浦寿夫・水谷孝、5月5日の広島東洋カープ戦(甲子園)で金城基泰、5月9日の中日ドラゴンズ戦(ナゴヤ)で星野仙一・稲葉光雄、15日の大洋戦(甲子園)で杉山知隆・小谷正勝、5月22日の東京ヤクルトスワローズ戦(神宮)で安田猛からと、月間5試合で5球団から1試合2本塁打を記録した。


ドン=ブレイザー: 1982年はトリオ・ザ山内が揃って二桁勝利を挙げ、金城基泰が21セーブと投手陣が整備されたが、最多打点がタイロン、定岡智秋の48で、主砲の門田が故障で離脱するなど打線が沈黙し、順位は年間最下位(前期5位、後期6位)に終わった。


香川伸行: 7月13日の日本ハム戦(後楽園球場)で初めて先発マスクを被り、名取和彦・金城基泰をリードして勝利に貢献。


金城基泰の情報まとめ

もしもしロボ

金城 基泰(かねしろ もとやす)さんの誕生日は1952年10月16日です。大阪出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

事故、引退、現在に関する情報もありますね。去年の情報もありました。金城基泰の現在の年齢は72歳のようです。

金城基泰のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

金城 基泰(かねしろ もとやす、1952年10月16日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手(投手)。

在日朝鮮人として生まれ、後に日本人へ帰化した。日本プロ野球(NPB)と韓国プロ野球(KBO)の双方で活動。帰化前の本名およびKBOでの登録名は金 基泰(キム・ギテ、김기태、きん もとやす)。

1970年秋、此花商業高校(現・大阪偕星学園高校)から翌春の法政大学への進学がほぼ決定していたが、広島東洋カープスカウトの木庭教による熱心な口説きに折れ、ドラフト5位で入団。金城自身も「本当は法政大に決まっていて、PL学園の新井宏昌と一緒に行くことになっていた」と述べている。

サブマリン投手で、下から浮き上がるような速球を武器に1972年に一軍に定着。1973年には10勝6敗の成績で、規定投球回(リーグ8位、防御率2.54)にも達する。

1974年には外木場義郎、安仁屋宗八、佐伯和司とともに先発ローテーションの中心として奮闘し、チームは最下位ながら20勝を挙げて最多勝、207奪三振で最多奪三振のダブルタイトルを獲得。なお、最下位のチームでの最多勝獲得は1962年の近鉄バファローズ・久保征弘以来史上二人目の珍事であった。

しかし、同年オフにご褒美として向かったオーバーホール先の大分・湯布院で、知人の運転する乗用車に同乗した際に交通事故に巻き込まれ、飛散したフロントガラスの破片を顔面に浴び(日本車では1987年までは合わせガラスの使用が義務化されておらず、強化ガラスが使用された車種が多かった)、あわや失明の危機に陥る。

1975年8月に戦列に復帰。登板16試合で1勝4セーブを挙げ救世主となり、広島の初優勝に貢献した。阪急ブレーブスとの日本シリーズでも4試合に登板。第3戦で先発するが、早々と4点を失い3回に降板した。リーグ優勝決定試合の翌日の試合での勝ち投手を巡り監督の古葉竹識への不信感が芽生え関係が悪化する。

1976年は僅か2勝に終わり、古葉と旧知の関係の野村克也の希望もあり、松原明夫、門田純良との交換トレードで南海ホークスに移籍。古葉は、後年「ノムさんだから金城を渡した」と語っている。

1977年は江夏豊のリリーフ転向により、先発に復帰し10勝を挙げ、防御率2.51(リーグ4位)を記録。南海先発投手陣唯一の防御率2点台であった。

1978年より再度、抑えに転向。チームは低迷する中、リリーフエースとして活躍。

1979年には4勝16セーブ(20SP)で最優秀救援投手となる。

1980年にも6勝13セーブ(19SP)を記録、2年連続最優秀救援投手に輝いた。

1984年6月9日の対近鉄戦では加藤英司に通算10本目の被満塁本塁打となる逆転サヨナラ満塁本塁打を打たれたが、それまでの被満塁本塁打の日本プロ野球記録を更新するものとなった。

同年オフ、中条善伸とのトレードにより巨人に移籍する。

1985年限りで自由契約となる。日本プロ野球通算セーブ数(92)は当時歴代5位。

1986年、韓国プロ野球界の青宝ピントゥスに入団し、42試合登板で9勝5セーブを挙げる。青宝では福士敬章や新浦壽夫らと同等の活躍が期待されたものの9勝に留まり、同年入団の金城信夫を下回る結果に終わった。

1987年、三星ライオンズは金瑾錫(朝鮮語版)と鄭鉉發(朝鮮語版)の2選手を放出する2対1のトレードで金城を獲得、同年のオールスターゲーム(朝鮮語版)にも出場し、7勝を挙げた。1987年の韓国シリーズでは第2戦に登板するも敗戦、同年限りで現役引退

引退後は、大阪市平野区でそば屋を経営していた。その後は韓国の知人が経営する関連会社を任され、12年間ほどソウルを拠点にしていた。

2020年現在は大阪で少年野球の指導者をしている。

日本のプロ野球史上ほんの数人しかいない、アンダースローの速球投手である。投球フォームに特徴が有り、テイクバックで打者に背番号を見せる程に上体を捩りながら右手を垂直に高く掲げて一瞬静止し、更に左手を打者に突き出して肩の可動範囲を限界まで広げつつ、サイドハンド気味に一気に投げ込むという豪快なものであった。広島、南海時代を通じて「印象に残る美しいフォームであった」と評するファンも多い。韓国球界でも「鷹が空を舞う様なフォーム」として知られており、盗塁が行われやすい弱点がある反面、優雅で印象に残る投球であったと評されている。

『プロ野球ここだけの話』第17回「潜航御礼!サブマリンここだけの話」に於いて、松沼博久(金城と同学年のアンダースロー投手)はアンダースロー三傑として杉浦忠、山田久志と共に金城の名を挙げており、バックスイングと腕の振りの大きさは真似が出来ない程であったと評していたが、一方で山田久志はそれが長所である反面、打者からはボールの握りが完全に見えてしまう弱点にも繋がっていたと指摘した。しかし、山田は金城の球速について「本当に速かった」とも評していた。

キャリアの全期間を通じてアンダーハンドから威力のある直球でグイグイ押す投球スタイルが持ち味であり、後藤正治著の『スカウト』によると、金城は現役を引退するまで変化球は『僅かに変化する程度のチェンジアップ(本人の弁では「曲がらんカーブ」)』しか投げることができなかったという。同著では、上記の交通事故から奇跡の復活を遂げるまでの経緯についても触れられている。なお、ベースボールマガジンによると、手術により視力がある程度戻ったのは右目のみで、左目はその後もほとんど見えないままであったといい、この左目に特殊なコンタクトレンズを着用する事でどうにか戦列に復帰できたとされている。

事故を境に球威や球速が低下した事が最終成績が伸びなかった一因であるとされているが、一方で福本豊は南海時代の金城を、森繁和や津田恒実と同じタイプの本格派投手(英語版)であったと評しており、「(投球のフォロースルー近くまで)なかなかボールを離さないし、浮き上がってくるような軌道に見えたため、苦手な投手の一人だった」と述べていた。

本人の述懐では、引退までクイックモーションは遂に出来ないままだったと述べており、日本球界での現役続行を諦めた要因として「力の衰え」と共に、「(日本球界が)大雑把な野球では無くなってきた事」を挙げていた。僅かな球種を全力のモーションで投げ続けるスタイルが通用する時代ではなくなり、旧知の野村の勧めで韓国球界に挑戦した時には、長年の酷使で既に身体はボロボロの状態であったという。

同い年の同胞で本来法大野球部でチームメイトになるはずだった新井宏昌と仲が良く、後に読売ジャイアンツ(巨人)へトレード移籍する際にも彼に相談したという。

一方、韓国では同じ同胞でも張本勲には対抗心があったのではないかと分析されている。1976年、巨人の張本は中日の谷沢健一と熾烈な首位打者争いを繰り広げていたが、谷沢は中日のシーズン最終戦である対広島ダブルヘッダーの第一戦で4打数3安打を放ち、土壇場で張本を逆転して初の首位打者を獲得する。この時、広島の先発として登板したのが金城であり、谷沢には二打席とも早いカウントから安打を打たれている。この打席の映像は谷沢の2000本安打達成時の特集映像の一幕として現存するが、韓国の野球ファンの間では、この時の金城は明らかに谷沢に打たせる様な球を投げており、これが無ければ張本が江藤慎一に次ぐ両リーグでの首位打者獲得を達成していたのではないかと言われているという。なお、谷沢自身も2010年にこの一戦を振り返った際、「4打数3安打のうち、1本、2本目の安打は容易く打てた」と証言している。

金城が1975年に交通事故に遭遇した際、当時の広島のオーナーである松田耕平は、「野球は無理でも何とか社会復帰はさせてやれ!」とチーム関係者に号令を出し、結果として長期に渡る治療とリハビリが実現したという。

1980年10月2日、大阪球場での南海対阪急後期12回戦で9回表2死一、二塁の場面で金城がリリーフ登板し、初球を投げる前に1塁走者の福本豊を牽制球でタッチアウトしてゲームセットとなり「0球セーブ」という珍記録を樹立している。

韓国での金城は此花商業時代の1969年、1970年の2度に渡り、在日同胞学生野球団(朝鮮語版)の一員として訪韓した事もあり、プロ入り以前から著名な存在であった。

    1969年の初訪韓の際、金城は気負いによる練習過多が祟って指が腫れ上がってしまい、遠征緒戦を欠場する羽目になる。金城を欠いた在日同胞学生野球団の戦績は芳しくなく、韓国側の関係者からは「所詮は弱体選手が中心の母国観光団か」と訝しまれる事態を招く事になるが、金城は同年8月15日から17日に掛けてソウル特別市・蚕室野球場で行われた善隣商業高校、城南高等学校(朝鮮語版)との試合に3日連続で登板。15日のダブルヘッダー第2戦の善隣商戦では8回までノーヒットノーランに抑えた末に1-1で引き分け。16日の城南高戦、17日の善隣商・城南高連合戦には2戦連続完投勝利を収め、韓国側の関係者からも「在日同胞はやはり格が違う」と高い評価を受けたという。金城は20日の善隣商戦でも完投勝利を収めるが、この時には既にソウル市民から「サブマリン」という渾名で呼ばれており、アンダースローの物珍しさから蚕室野球場を連日満員にするほどの集客力があったという。
      なお、金城がこの年に3日連続の登板を志願した理由は、韓国人に在日同胞を誤解されたくないという意志もあったが、「地方から親戚が観戦に来ていたから」という実情もあったという。

      翌1970年の二度目の訪韓の際、善隣商業高校戦にて16奪三振で完封勝利した試合は韓国の野球関係者に衝撃を持って受け止められ、同年に金城が広島に入団した際には中央日報でも大きく報じられた。後年、青宝ピントゥス監督として金城を招聘した許龜淵(朝鮮語版)は、韓国教育放送公社(EBS)の特別番組『전설의 재일동포 야구 선수들(伝説の在日同胞野球選手)』に於いて、在日同胞学生野球団時代の金城を評して「当時の韓国にはアンダースローがほとんどいなかった事もあり、金城の投球には全くお手上げであった」と述べていた。

      韓国球界での金城は、KBOのリーグ全体やチームの技術レベルに対して不満を持ち、常に意見を述べていたという。金城は契約更改におけるオプションの概念を韓国球界に初めて持ち込んだ選手であるともされており、プロ意識が概して低かった当時の韓国のプロ野球選手達にも大いに刺激を与えたと言われている。韓国の野球ファンは金城の青宝入団が発表された時、始め誰であるのかを忘れていたというが、そのフォームを見て17年前にソウル市民を湧かせた「サブマリン」である事をすぐに思い出し、金城の「復帰」を喜んだという。

      引退後にうどん屋を開業した際、中畑清に開店祝いの花輪を贈呈されており、今でもその恩を忘れていないという。

      1999年6月27日の巨人戦(広島市民球場)にて金城は始球式の投手を務めたが、打席に立ったカープ優勝当時の戦友でもある山本浩二に初球を見逃された後、2球目を左翼席への本塁打にされてしまうという珍事が起きている。この時は入団した年のユニフォームと背番号を再現して着用したため、金城と山本の背番号がどちらも27番だったが、着用していたユニフォームは金城は1971年 - 1972年の、山本は1968年 - 1970年のものだった。

      各年度の太字はリーグ最高

      最多勝利:1回 (1974年)

      最多奪三振:1回 (1974年) ※当時連盟表彰なし、セントラル・リーグでは、1991年より表彰

      最優秀救援投手:2回 (1979年、1980年)

      初登板:1972年5月31日、対中日ドラゴンズ7回戦(広島市民球場)、6回表に3番手で救援登板、1回無失点

      初奪三振:同上、6回表にバート・シャーリーから

      初先発・初勝利:1972年8月16日、対阪神タイガース22回戦(広島市民球場)、7回3失点

      初完投勝利:1972年9月10日、対読売ジャイアンツ18回戦(後楽園球場)、9回1失点

      初完封勝利:1973年7月18日、対中日ドラゴンズ13回戦(中日スタヂアム)

      初セーブ:1975年8月10日、対阪神タイガース18回戦(阪神甲子園球場)、6回裏2死に3番手で救援登板・完了、3回1/3を1失点

      0球セーブ:1980年10月2日、対阪急ブレーブス後期12回戦(大阪スタヂアム)、9回表2死1,3塁で2番手で救援登板・完了、一塁走者・福本豊を牽制死で試合終了 ※史上初(後に三浦政基が記録)

      オールスターゲーム出場:3回 (1974年、1977年、1982年)

      27 (1971年 - 1976年)

      21 (1977年 - 1984年)

      19 (1985年)

      26 (1986年)

      17 (1987年)

      金城 基泰 (かねしろ もとやす、1971年 - 1985年)

      金 基泰 (キム・ギテ、김기태、1986年 - 1987年)

      ^ 『南海ホークスFOREVER』、ベースボールマガジン社、2015年12月、P76。

      ^ “交通事故で失明寸前→カープ初の胴上げ投手に 不死身のサブマリンが激動の野球人生を語る”. まいどなニュース (2020年8月2日). 2023年9月21日閲覧。

      ^ “最下位球団の最多勝投手”. visualb.web.fc2.com. 2023年9月21日閲覧。

      ^ CORPORATION, TOYOTA MOTOR (2015年6月26日). “フロントウィンドウ――視界を広く、安全に(1944年)”. GAZOO.com. 2023年9月21日閲覧。

      ^ “車のフロントガラスが割れても散らばらない理由”. CarMe[カーミー] by 車選びドットコム (2020年1月9日). 2023年9月21日閲覧。

      ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」454ページ

      ^ 김기태(재일교포) - 리그베다위키

      ^ 추억의 한국시리즈 1987년 한국시리즈 해태 vs 삼성 - YouTube

      ^ 『プロ野球人名事典2001』(2001年5月、日外アソシエーツ発行・紀伊國屋書店発売。編著者:森岡浩。ISBN 4816916695)

      ^ 金城基泰投手 ( 野球 ) - ホークスとミステリー小説とラブソングと・・・ - Yahoo!ブログ

      ^ 忘れてはならない選手.1 金城基泰 - 広島 -陽のあたらない所 - FC2ブログ

      ^ サブマリン投手 ( 野球 ) - 人生いろいろ - Yahoo!ブログ

      ^ “金城基泰 天国と地獄を味わった不屈のサブマリン/プロ野球1980年代の名選手 | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE (2018年10月31日). 2023年9月21日閲覧。

      ^ ちょっとした投手列伝 - 南海ホークス年代記

      ^ “プロ野球史上最強のリリーフエースは誰だ?(福本 豊,山﨑 武司)”. 現代ビジネス (2016年11月13日). 2023年9月21日閲覧。

      ^ 谷沢(中日)、大逆転の首位打者獲得 - 2000本安打への道

      ^ 1976年 中日vs広島 25回戦 - 日本プロ野球記録

      ^ 運命を変えた一球18 - 俊日语考试库

      ^ 谷沢健一 2000本安打達成までの軌跡 - YouTube

      ^ 谷沢健一なう_Part3 「首位打者獲得とその裏話」 - YouTube

      ^ 読売新聞1980年10月3日17面「ドカベン6号 南海が連勝」読売新聞縮刷版1980年10月p101

      ^ ‘슬픈 전설’, 재일동포 야구단 [3편] - 스포츠 한마당 - 천호역

      ^ [제658호동대문운동장, 내 마음의 아틀란티스] - ハンギョレ21(朝鮮語版)

      ^ 교포, 선린상 격파 - 中央日報、1970年8月13日。

      ^ 교포 김기태 투수「히로시마」에 입단 - 中央日報、1970年12月29日。

      ^ 전설의 재일동포 야구선수들2.avi - YouTube

      ^ 始球式でホームラン - ニコニコ動画

      ^ “史上初の「0球セーブ」に「勝ち星・セーブの両獲り」も! 本当にあった“珍セーブ”記録”. BASEBALL KING (2020年7月28日). 2020年7月29日閲覧。

      大阪府出身の人物一覧

      広島東洋カープの選手一覧

      福岡ソフトバンクホークスの選手一覧

      読売ジャイアンツの選手一覧

      個人年度別成績 金城基泰 - NPB.jp 日本野球機構

      ※いずれも、KBOでの成績を掲載。

      statiz.co.kr(韓国語)

      ☆Strike Zone☆(日本語。室井昌也運営のサイトより)

      1950 真田重男

      1951 杉下茂

      1952 別所毅彦

      1953 大友工

      1954 杉下茂

      1955 大友工, 長谷川良平

      1956 別所毅彦

      1957 金田正一

      1958 金田正一

      1959 藤田元司

      1960 堀本律雄

      1961 権藤博

      1962 権藤博

      1963 金田正一

      1964 G.バッキー

      1965 村山実

      1966 村山実

      1967 小川健太郎

      1968 江夏豊

      1969 高橋一三

      1970 平松政次

      1971 平松政次

      1972 堀内恒夫

      1973 江夏豊

      1974 松本幸行, 金城基泰

      1975 外木場義郎

      1976 池谷公二郎

      1977 高橋里志

      1978 野村収

      1979 小林繁

      1980 江川卓

      1981 江川卓

      1982 北別府学

      1983 遠藤一彦

      1984 遠藤一彦

      1985 小松辰雄

      1986 北別府学

      1987 小松辰雄

      1988 小野和幸, 伊東昭光

      1989 斎藤雅樹, 西本聖

      1990 斎藤雅樹

      1991 佐々岡真司

      1992 斎藤雅樹

      1993 今中慎二, 山本昌広, 野村弘樹

      1994 山本昌広

      1995 斎藤雅樹

      1996 斎藤雅樹, B.ガルベス

      1997 山本昌

      1998 川崎憲次郎

      1999 上原浩治

      2000 M.バンチ

      2001 藤井秀悟

      2002 上原浩治, K.ホッジス

      2003 井川慶

      2004 川上憲伸

      2005 下柳剛, 黒田博樹

      2006 川上憲伸

      2007 S.グライシンガー

      2008 S.グライシンガー

      2009 吉見一起, 館山昌平

      2010 前田健太

      2011 吉見一起, 内海哲也

      2012 内海哲也

      2013 小川泰弘

      2014 R.メッセンジャー, 山井大介

      2015 前田健太

      2016 野村祐輔

      2017 菅野智之

      2018 大瀬良大地, 菅野智之

      2019 山口俊

      2020 菅野智之

      2021 青柳晃洋, 九里亜蓮

      2022 青柳晃洋

      2023 東克樹

      2024 菅野智之

      1950 杉下茂

      1951 金田正一

      1952 金田正一

      1953 金田正一

      1954 杉下茂

      1955 金田正一

      1956 金田正一

      1957 秋山登

      1958 金田正一

      1959 金田正一

      1960 金田正一

      1961 権藤博

      1962 小山正明

      1963 金田正一

      1964 金田正一

      1965 村山実

      1966 村山実

      1967 江夏豊

      1968 江夏豊

      1969 江夏豊

      1970 江夏豊

      1971 江夏豊

      1972 江夏豊

      1973 高橋一三

      1974 金城基泰

      1975 外木場義郎

      1976 池谷公二郎

      1977 池谷公二郎

      1978 斉藤明雄

      1979 新浦寿夫

      1980 江川卓

      1981 江川卓

      1982 江川卓

      1983 遠藤一彦

      1984 遠藤一彦

      1985 小松辰雄

      1986 遠藤一彦

      1987 川口和久

      1988 槙原寛己

      1989 川口和久

      1990 木田優夫

      1991 川口和久

      1992 仲田幸司

      1993 今中慎二

      1994 桑田真澄

      1995 斎藤雅樹

      1996 斎藤隆

      1997 山本昌

      1998 石井一久

      1999 上原浩治

      2000 石井一久

      2001 野口茂樹

      2002 井川慶

      2003 上原浩治

      2004 井川慶

      2005 門倉健, 三浦大輔

      2006 川上憲伸, 井川慶

      2007 内海哲也

      2008 C.ルイス

      2009 C.ルイス

      2010 前田健太

      2011 前田健太

      2012 杉内俊哉, 能見篤史

      2013 R.メッセンジャー

      2014 R.メッセンジャー

      2015 藤浪晋太郎

      2016 菅野智之

      2017 M.マイコラス

      2018 菅野智之

      2019 山口俊

      2020 大野雄大

      2021 柳裕也

      2022 戸郷翔征

      2023 今永昇太

      2024 戸郷翔征

      1974 佐藤道郎

      1975 村田兆治

      1976 佐藤道郎

      1977 江夏豊

      1978 山口高志

      1979 金城基泰

      1980 金城基泰

      1981 江夏豊

      1982 江夏豊

      1983 森繁和

      1984 山沖之彦

      1985 石本貴昭

      1986 石本貴昭

      1987 牛島和彦

      1988 吉井理人

      1989 井上祐二

      1990 鹿取義隆

      1991 武田一浩

      1992 赤堀元之

      1993 赤堀元之

      1994 赤堀元之

      1995 平井正史

      1996 赤堀元之, 成本年秀

      1997 赤堀元之

      1998 大塚晶文

      1999 B.ウォーレン

      2000 R.ペドラザ

      2001 R.ペドラザ

      2002 豊田清

      2003 豊田清

      2004 三瀬幸司, 横山道哉

      2005 小林雅英

      2006 MICHEAL

      2007 馬原孝浩

      2008 加藤大輔

      2009 武田久

      2010 B.シコースキー

      2011 武田久

      2012 武田久

      2013 益田直也

      2014 平野佳寿

      2015 D.サファテ

      2016 D.サファテ

      2017 D.サファテ

      2018 森唯斗

      2019 松井裕樹

      2020 増田達至

      2021 益田直也

      2022 松井裕樹

      2023 松井裕樹

      2024 則本昂大

      1位:佐伯和司

      2位:永本裕章

      3位:石井高雄

      4位:前田三郎

      5位:金城基泰

      6位:荒金雄司(入団拒否)

      7位:守岡茂樹

      韓国の野球選手

      現代ユニコーンズ及びその前身球団の選手

      サムスン・ライオンズの選手

      日本の野球選手

      広島東洋カープ及び広島カープの選手

      福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の選手

      読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手

      サムスン・ライオンズの選手

      最多勝利 (NPB)

      最多奪三振 (NPB)

      最多セーブ投手及び最優秀救援投手 (NPB)

      NPBオールスターゲーム選出選手

      20世紀日本の実業家

      帰化日本人の野球選手

      韓国・朝鮮系日本人の野球選手

      大阪偕星学園高等学校出身の人物

      大阪市出身の人物

      1952年生

      存命人物

      ISBNマジックリンクを使用しているページ

      野球に関する記事

      プロジェクト人物伝項目

      ウィキデータにある日本野球機構選手識別子

2024/11/21 21:15更新

kaneshiro motoyasu


金城基泰と同じ誕生日10月16日生まれ、同じ大阪出身の人

福本 大晴(ふくもと たいせい)
【Aぇ!group】
1999年10月16日生まれの有名人 大阪出身

福本 大晴(ふくもと たいせい、1999年10月16日 - )は、日本のアイドル、俳優、タレント。愛称は、大晴、たいちぇ。 大阪府堺市出身。NEW EVIDENCE所属。2023年までSMILE-U…

山田 美也子(やまだ みやこ)
1951年10月16日生まれの有名人 大阪出身

山田 美也子(やまだ みやこ、1951年10月16日 - )は、日本のタレント、文化ジャーナリスト、エッセイスト、歌手。 大阪府豊中市出身。父は中国人で旧満州国の国費留学生、母は大阪の酒問屋の一人娘…

益田 アンナ(ますだ あんな)
1994年10月16日生まれの有名人 大阪出身

益田 アンナ(ますだ あんな、本名及び旧芸名:益田 杏奈 (読み方同じ)、1994年〈平成6年〉10月16日 - )は、日本のファッションモデル、グラビアアイドル、タレント、レースクイーンである。 …

義山 望(よしやま のぞみ)
1979年10月16日生まれの有名人 大阪出身

義山 望(よしやま のぞみ、1979年10月16日 - )は、日本のフリーアナウンサー。 大阪府出身。近畿大学文芸学部在学中にアナウンサーを志望し、MC企画が設置していたアナウンサー養成校「中央放送…

若一 光司(わかいち こうじ)
1950年10月16日生まれの有名人 大阪出身

若一 光司(わかいち こうじ、1950年(昭和25年)10月16日 - )は、日本の作家・画家、テレビのコメンテーター。大阪府豊中市出身。大阪市立工芸高等学校美術科卒業。 高校在学中から大阪(信濃橋…


湖中 謙介(こなか けんすけ)
1960年10月16日生まれの有名人 大阪出身

湖中 謙介(こなか けんすけ、1960年10月16日 - )は、日本の実業家。コナカ代表取締役社長、サマンサタバサジャパンリミテッド代表取締役社長、フィットハウス取締役会長、フタタ取締役。 大阪府大…

桜井 真由美(さくらい まゆみ)
1981年10月16日生まれの有名人 大阪出身

10月16日生まれwiki情報なし(2024/11/19 15:02時点)

田中 朝子(たなか あさこ)
1983年10月16日生まれの有名人 大阪出身

10月16日生まれwiki情報なし(2024/11/21 14:33時点)

川端 慎吾(かわばた しんご)
1987年10月16日生まれの有名人 大阪出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 川端 慎吾(かわばた しんご、1987年10月16日 - )は、大阪府貝塚市出身のプロ野球選手(内野手)。右投左打。東京ヤクルトスワロ…

長船 加奈(おさふね かな)
1989年10月16日生まれの有名人 大阪出身

長船 加奈(おさふね かな、1989年10月16日 - )は、大阪府豊中市出身の女子サッカー選手。マイナビ仙台レディース所属。ポジションはディフェンダー。大阪府立豊島高等学校卒。 サッカーをしている…


TOPニュース

動画を見るだけで10万円稼げる!?

闇バイトに引っかからない方法

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去


金城基泰と近い名前の人


金城 興福(かねしろ こうふく)
1953年2月27日生まれの有名人 宮崎出身

金城 興福(かねしろ こうふく、1953年2月27日 - 2002年12月29日)は、宮崎県児湯郡高鍋町大字北高鍋出身で春日野部屋に所属した大相撲力士。本名同じ。 1979年3月場所から1985年1…

金城 武(かねしろ たけし)
1973年10月11日生まれの有名人 出身

金城 武(かねしろ たけし、1973年10月11日 - )は、台湾の台北生まれの俳優。かつては歌手としても活動していた。日本人の父親と台湾人の母親との間に生まれ、沖縄県出身の祖父を持つ。日本国籍。身長…

金城 一紀(かねしろ かずき)
1968年10月29日生まれの有名人 埼玉出身

金城 一紀(かねしろ かずき、1968年10月29日 - )は、日本の小説家・脚本家である。埼玉県川口市出身。慶應義塾大学法学部卒業。 中学校までは民族学校(朝鮮学校)に通う。朝鮮籍から韓国籍に変え…

金城 茉奈(きんじょう まな)
1996年2月24日生まれの有名人 沖縄出身

金城 茉奈(きんじょう まな、1996年2月24日 - 2020年12月1日)は、日本の女優、ファッションモデル、タレント。沖縄県那覇市出身。Grick所属。 東京ガールズコレクション公式ランニング…

金城 大和(きんじょう やまと)
1983年9月9日生まれの有名人 沖縄出身

金城 大和(きんじょう やまと、1983年9月9日 - )は、日本の俳優、声優。沖縄県那覇市出身。ステイラック所属。 妹はシンガーソングライターの金城しおり。 2002年に、高校卒業と同時に上京し…


金城 わか菜(きんじょう わかな)
1983年6月10日生まれの有名人 沖縄出身

金城 わか菜(きんじょう わかな、1983年6月10日 - )は、沖縄テレビ放送(OTV)のアナウンサー。身長168cm。沖縄市在住。 沖縄県沖縄市生まれ。沖縄市立山内中学校、沖縄県立球陽高校(国際…

金城 哲夫(きんじょう てつお)
1938年7月5日生まれの有名人 沖縄出身

金城 哲夫(きんじょう てつお、1938年〈昭和13年〉7月5日 - 1976年〈昭和51年〉2月26日)は、日本の脚本家。沖縄県島尻郡南風原町出身。第一期ウルトラシリーズを企画し、文芸部長としてシリ…

金城 豊明(きんじょう とよあき)
1943年7月21日生まれの有名人 沖縄出身

7月21日生まれwiki情報なし(2024/11/20 06:48時点)

金城 龍彦(きんじょう たつひこ)
1976年7月27日生まれの有名人 大阪出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 金城 龍彦(きんじょう たつひこ、1976年7月27日 - )は、大阪府大阪市東成区出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)、コーチ。現…

金城 佑実(きんじょう ゆみ)
1984年7月31日生まれの有名人 沖縄出身

7月31日生まれwiki情報なし(2024/11/17 03:13時点)


金城 綾乃(きんじょう あやの)
1977年8月15日生まれの有名人 沖縄出身

Kiroro(キロロ)は、日本の女性二人組音楽ユニット。所属事務所はビクターミュージックアーツ、所属レコード会社はビクターエンタテインメント。 共に沖縄県中頭郡読谷村出身。 玉城千春(たましろ ち…

金城 愛乃(きんじょう あいの)
1974年8月29日生まれの有名人 沖縄出身

宮城 愛乃(みやぎ あいの、1974年8月29日 -)は、沖縄県出身のプロボウリング選手。JPBA第27期生。ライセンスNo.284。永久A級ライセンス保持者。プロショップベガ所属。用具契約はサンブリ…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
金城基泰
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

こっちのけんと 斎藤元彦 松島かのん 澤繁実 小野寺紘毅 桜井誠_(活動家) 安野貴博 ジャンボ松田 後藤輝樹 石丸幸人

グループ

NORD (アイドルグループ) Number_i King & Prince PRIZMAX 原因は自分にある。 さくらしめじ M!LK 10神ACTOR WATWING 三四郎 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「金城基泰」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました