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金城龍彦の情報 (きんじょうたつひこ)
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【6月1日】今日誕生日の芸能人・有名人

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金城 龍彦さんについて調べます

■名前・氏名
金城 龍彦
(読み:きんじょう たつひこ)
■職業
野球選手
■金城龍彦の誕生日・生年月日
1976年7月27日 (年齢47歳)
辰年(たつ年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
大阪出身

金城龍彦と同じ1976年生まれの有名人・芸能人

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金城龍彦と関係のある人

高木由一: 在任中は鈴木尚典(1997年 - 1998年)、ロバート・ローズ(1999年)、金城龍彦(2000年)と4年連続で球団から首位打者を輩出。


藤井彰人: 近畿大学附属高校に進学し、当時投手だった同級生の金城龍彦とバッテリーを組む。


石井琢朗: シーズン最終戦となる10月8日の対古巣・DeNA戦(横浜スタジアム)では試合前に引退セレモニーが行われ、かつてのチームメイトの三浦大輔と金城龍彦から花束を受け取り、両チームのファンによる応援歌の合唱が行われた。


相川亮二: それまで正捕手だった阿部慎之助の一塁手転向を予定する読売ジャイアンツ(巨人)へのFA移籍がまとまり、2014年12月8日に横浜時代のチームメイトで同じくDeNAからFA移籍を表明していた金城龍彦とともに入団会見を行った。


松井稼頭央: 決勝戦では近大付高の金城龍彦との投げ合いとなった。


宮本好宣: その後は、横浜ベイスターズの近畿地区担当スカウトを務め、大家友和、金城龍彦、藤田一也らを担当。


乙坂智: 子どもの頃から横浜スタジアムにもよく通うベイスターズファンで、石井琢朗や金城龍彦に憧れていた。


今江敏晃: 2006年ワールド・ベースボール・クラシックの二次予選・韓国戦でセンター金城龍彦からの返球を落としてしまい、さらに「落としていない」とアピールする間に打者走者に二塁への進塁を許してしまった(記録にはエラーはついていない)。


梶谷隆幸: さらに、荒波翔の故障離脱や金城龍彦の不振により、中堅手としての起用も増加し、シーズン通算では一軍公式戦142試合に出場するとともに、39盗塁で盗塁王のタイトルを獲得した。


福山博之: 転向直後はストレートでの最速記録が128km/hどまりであったが、大学近くの公園で偶然知り合った金城龍彦の叔父からの指導で球速を伸ばした。


高田繁: スカウト陣を駆使して三嶋一輝・三上朋也・山﨑康晃・関根大気等をドラフトで獲得するかたわら、それまでチームの中心選手だった金城龍彦らベテランを放出し若手重視の編成を行った。


堀田一郎: その後勢いづいた横浜打線は金城龍彦の打球が一塁手の清原和博の目に照明の光が入り捕球できずに後逸するラッキーなヒットなどで繋がり、2死1・2塁から相川亮二の逆転サヨナラタイムリーが飛び出して巨人は敗れてしまった。


松本啓二朗: 金城龍彦、吉村裕基と外野の座を争った結果、同じ新人の細山田、山崎憲晴と共に開幕から一軍登録された。


三木肇: 浜寺ボーイズで遊撃手となり、上宮高校時代は高校通算23本塁打を記録した強打者として知られ、2年夏の府大会では同期・大場豊千 - 的場直樹のバッテリーを擁して準決勝へ進むが、金城龍彦 - 藤井彰人がバッテリーを組んだ近大付高に大敗し、3年夏は府大会ベスト8。


波留敏夫: 新監督の森祇晶の方針により金城龍彦と入れ替わる形で三塁手に再転向するも、シーズン序盤に種田仁、山田博士とのトレードで中日ドラゴンズへ移籍。


岡島秀樹: 5月29日対横浜DeNAベイスターズ戦の延長11回に同点の場面で登板、先頭筒香嘉智に四球を与えると、犠打、金城龍彦敬遠などで二死一二塁とし、白崎浩之の適時打によりサヨナラ負けを喫した。


山下大輔: 一方で森時代に不振に陥っていた鈴木尚典は打率.311と復活、同じく森時代は1割台の不振に陥っていた金城龍彦も.302と復活し、多村仁、古木克明、村田修一も揃って本塁打20本以上を打ったが、投手陣と守備が早々に崩壊。


多村仁志: 前年まで主にライトの守備についたが金城龍彦と守備位置を入れ替え、2006年に移籍するまでレギュラーではセンターを守った。


多村仁志: 2014年に梶谷隆幸と筒香嘉智が外野にコンバートされ、この2人がスタメンでほぼ固定され、残りの外野1枠を荒波翔や金城龍彦などと日替わりオーダーで出場するか、右の代打要員となり、73試合の出場。


多村仁志: 横浜時代、同じく守備に定評のあった右翼手の金城龍彦とは球界屈指の右中間コンビとして鉄壁を誇った。


吉川正洋: 鈴木尚典や金城龍彦などレパートリーを披露。


古木克明: しかし、多村仁、佐伯貴弘、金城龍彦が揃って3割に到達し、外野のレギュラーが固定されていたため、主に代打や多村仁あるいはタイロン・ウッズの欠場時として出場。


進藤達哉: 2000年は右足首の故障に加えて欠場中の代役に入った金城龍彦が首位打者および新人王に輝く活躍をみせてポジションを奪われてしまい、わずか59試合の出場で打率.224、2本塁打にとどまる。


松原聖弥: 子供の頃から横浜ベイスターズのファンで、好きだった選手は石井琢朗、金城龍彦


小池正晃: 2007年、多村がソフトバンクへ移籍したため、前年までライトを守っていた金城龍彦が4年ぶりにセンターに復帰。


篠田純平: 初奪三振:同上、4回表に金城龍彦から空振り三振


田代富雄: コーチとして、多村仁志・金城龍彦・内川聖一・村田修一・吉村裕基・下園辰哉・筒香嘉智といった野手を育てた。


新井貴浩: この時のチームメイトには後に横浜ベイスターズに入団する金城龍彦がいた。


日野茂: 西武退団後は横浜ベイスターズで二軍ヘッドコーチ(1998年)→二軍監督(1999年 - 2003年7月6日)→一軍ヘッドコーチ(翌7日 - シーズン終了)を歴任し、二軍監督時代には金城龍彦・石井義人を育てた。


高橋尚成: 新人王こそ首位打者を獲得した金城龍彦に譲ったものの最終的に9勝6敗、防御率3.18の好成績を挙げる(巨人ではドラフト指名された左腕投手としては初の入団一年目から年間規定投球回をクリアした投手となった)。


金城龍彦の情報まとめ

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金城 龍彦(きんじょう たつひこ)さんの誕生日は1976年7月27日です。大阪出身の野球選手のようです。

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選手としての特徴、人物などについてまとめました。現在、結婚、卒業、テレビ、引退、家族に関する情報もありますね。去年の情報もありました。金城龍彦の現在の年齢は47歳のようです。

金城龍彦のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

金城 龍彦(きんじょう たつひこ、1976年7月27日 - )は、大阪府大阪市東成区出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)、コーチ。現在は読売ジャイアンツの三軍外野守備兼走塁コーチ。

実父の金城晃世も元プロ野球選手である。

2000年に首位打者を獲得し、NPBにおけるスイッチヒッターのシーズン歴代最高打率を記録している。

元在日韓国人3世で、近鉄バファローズの投手だった金城晃世の三男として出生(旧名は金 龍彦 韓国名: 김용언。横浜選手時代の2000年に結婚したことを機に、日本国籍を取得している)。父とはキャッチボールはしたものの野球を教えてもらったことはなかったが、自然とかつての父と同じプロ野球選手を目指すようになる。

近畿大学附属高等学校時代は投手で、同期の藤井彰人とバッテリーを組んでいた。2年生の夏に、大阪大会決勝で松井稼頭央・福留孝介を擁するPL学園に勝利し、第75回全国高等学校野球選手権大会に出場(背番号15)。2回戦で金子誠を擁する常総学院に敗退。なお、投手でありながら1番打者を任されていた。

1994年には韓国の鳳凰大旗全国高校野球大会に新井貴浩らとともに在日韓国人チームの一員として出場するが、その際には現地の韓国人に受け入れてもらえず厳しいバッシングを受け、とても悔しい思いをしたという。

高校卒業後は社会人野球の住友金属に所属。速球と大きく曲がるカーブを武器に活躍。チームを日本選手権優勝に導き、1997年には優秀選手にも選ばれる。

1998年度のドラフトで、横浜ベイスターズからの5位指名を受けて入団。投手としてではなく、打者としてテストを受けた上での指名であった。

1999年、入団を機に打者へ転向し、スイッチヒッターに挑戦。本来は右打者だが、社会人での4年間に1度もバットを握っていなかったため、ブランクを埋めようと必死に打撃練習に取り組んだ。10月3日の対中日ドラゴンズ戦でプロ初出場。

2000年、対読売ジャイアンツ戦で代打で出場し槙原寛己からプロ入り初本塁打を記録。その後正三塁手の進藤達哉や二番打者の波留敏夫の故障もあり「2番・三塁」でレギュラーに定着。驚異的なペースでヒットを積み重ね、打率が一時4割を超え話題となった。7月は2度のサヨナラ打を含む月間打率.398を記録し、初の月間MVPに選ばれた。8月18日の対阪神タイガース戦で打率.384で規定打席に到達した。そのまま閉幕まで打率トップを維持し、首位打者のタイトルを獲得し新人王に選出された。同時受賞はプロ野球史上初であり、横浜の選手が新人王となるのは斉藤明雄以来23年ぶりであった。オフにはテレビCMにも出演するなど飛躍の1年となったが、当時、球団が金城の人気を盛り立てようとファンから募集して決まった「ハマの龍神」というニックネームは、あまり定着しなかった。代わりに野性的なプレースタイルから野生児という愛称で親しまれることのほうが多かった。

2001年、三塁手としては失策が目立ったことや、俊足・強肩を生かすため、新監督の森祇晶の意向でこの年から外野手へ本格転向。他球団のマークが厳しくなったこと、サインプレーを好む森監督の采配によって2番打者としての要求が増え、自由な打撃が出来なくなったことなどから打率を大きく下げたが、球団記録となる43犠打を記録するなど繋ぎ役として活躍。

2002年、キャンプイン前の減量が仇になり、さらに大きく打率をさげて1割台に終わった。

2003年、山下大輔監督により1番打者に起用されると、打撃も復調を見せ打率3割を記録し、16本塁打を記録するなど長打力も身につけた。オールスターゲームにも初出場を果たす。同年、1試合左右両打席本塁打を2回記録した。1年での記録はセ・リーグ史上初であった。外野転向後は主に中堅を守っていた。

2004年、多村仁が中堅に入り、金城は右翼をメインとして守るようになった。同時に、打順も6番になったが、2年連続となる打率3割を記録した。7月25日の対巨人戦(横浜スタジアム)では9-9の同点の延長11回一死二塁の打席で久保裕也からサヨナラ2点本塁打を放った。

2005年、この年も打率.324と好調な成績を残し、7月14日の対広島東洋カープ戦(横浜スタジアム)では5-5の同点の延長11回に高橋建からサヨナラ本塁打を放つ。同月に開催されたオールスターゲームの第1戦では逆転打を含む猛打賞の活躍でMVPに選ばれた。3番打者としてロバート・ローズの球団記録にあと1本と迫る191安打を記録し、打点も自己最多を記録。さらに守備も評価され、ゴールデングラブ賞を初受賞。

2006年、開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選出された。シーズンでは前年に続き3番・右翼に入るが、調子が上がらず、後半になると7番打者に回り、最終的な打率も.268に終わる。しかし故障者が相次ぐ中全144試合出場を果たした。

2007年、多村が福岡ソフトバンクホークスへ移籍したこともあり、再び中堅手に戻る。前半戦は打撃不調に陥るが、後半戦で打率を2割8分台まで持ち直した。2度目のゴールデングラブ賞を受賞した。

2008年、4月に猛打賞を3度記録するなどしたが、夏場には調子を落とし、スタメン落ちもしばしば経験した。最終的には打率.247で、本塁打も9本の成績に終わる。FA権を取得したが、FA権は行使せず残留することを表明し、横浜と2年の複数年契約を結んだ。

2009年以降はスタメン出場が激減し、守備固めや代打として出場することが目立つようになった。

2010年オフにFA権を行使したが、他球団からオファーはなく、年俸5000万円の1年契約で横浜に残留した。

2011年、体重を首位打者を獲った当時に戻した。開幕スタメンこそならなかったが、前半戦はレギュラーに定着。夏場はスタメン落ちが増えるも安定した成績を残していたが、9月26日の対広島東洋カープ戦で走塁中に左足を痛め、左大腿二頭筋肉離れで全治4~6週間と診断され戦線を離脱する。そのまま復帰できずにシーズンを終え、108試合の出場に留まった。

2012年、開幕スタメンに名を連ね、4月1日の開幕第3戦となる対阪神戦(京セラドーム大阪)で横浜DeNAベイスターズとしてのチーム第1号本塁打を打つ。9月14日の対東京ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)にて村中恭兵からこの日2安打目となるヒットをセンター前へ打ち、通算1500安打を達成。スタメンの機会は多かったが、代打での打率が3割越えを記録するなど、代打で結果を残すことが多かった。一方得点圏打率が.132に終わるなど、チャンスには極端に弱かった。結局、オフには40%ダウンの3000万円プラス出来高で契約更改を行った。

2013年、5月25日の対千葉ロッテマリーンズ戦で通算100号本塁打を達成。118試合に出場し、打率.291、本塁打6、打点36を記録した。

2014年、5月26日の対オリックス・バファローズ戦(横浜スタジアム)の延長10回二死一・二塁の場面で代打で出場し、平野佳寿からサヨナラ打となる中前適時打を打つ。通算8本目のサヨナラ安打は球団タイ記録となった。しかし、一軍では2002年以来の本塁打0に終わった。シーズン終了後には、現役からの引退とコーチへの就任を打診した球団に対して、海外FA権の行使を宣言。球団が宣言選手の残留を認めない方針を立てているため、事実上退団が決まった。なお、監督の中畑清は金城を来年の戦力とも考えていたようで、引退勧告は中畑への事前の相談をせずにフロントが行ったものであったと伝えられている。

海外FA権の行使を宣言した金城に対して、巨人だけが交渉に応じたため、2014年11月15日の初交渉で同球団への入団に合意。2014年12月8日の入団記者会見には、自身と同じくFA権の行使によってヤクルトから移籍した横浜時代のチームメイトの相川亮二も顔を揃えた。背番号は33。

2015年、春先から野手の故障者や不振が相次いだことを受けて、開幕から1番打者としてスタメンに起用された。古巣・DeNAと横浜スタジアムで対戦した4月15日には、ギジェルモ・モスコーソから移籍第1号となる3点決勝本塁打を打ってチームの勝利に貢献。試合後には、移籍後初めて、同スタジアムでヒーローインタビューを受けた。しかし、試合を重ねるにつれて、打率が徐々に下降。左前腕外頭部の損傷で登録を抹消された6月以降は、一軍公式戦での出場機会がなかった。二軍のイースタン・リーグ優勝で臨んだソフトバンクとのファーム日本選手権(10月3日・サンマリンスタジアム宮崎)では、「7番・左翼手」としてスタメンに起用されると、3安打を打って優秀選手賞を受賞。その一方で、一軍公式戦への出場は36試合にとどまった。オフの10月18日に球団へ任意引退を申し入れた。球団はこの申し入れを受諾した上で、金城の現役引退を発表した。11月5日に日本野球機構(NPB)から任意引退選手として公示された。11月23日に行われたファンフェスタで引退セレモニーが開かれ、「1年間という短い時間ではありましたが、素晴らしい選手たち、ファンの皆さまと戦えたこと、本当に幸せでした。今までご指導下さいましたすべての皆さま、横浜時代から応援いただいたすべての皆さま、本当にありがとうございました。」と挨拶した。

2016年、読売ジャイアンツの三軍打撃コーチに就任。背番号は「103」。

2017年、二軍外野守備走塁コーチに配置転換。背番号は「71」に変更。また、11月25日から台湾で開催される2017アジアウインターベースボールリーグにおいて、NPBイースタン選抜の外野守備走塁コーチに就任。

2019年、ファーム打撃コーチに配置転換。水野雄仁が一軍投手コーチに就任した関係で背番号は「74」に変更。1月18日にファーム打撃兼外野守備コーチに配置転換。

2020年、三軍野手総合コーチに配置転換。背番号は「103」に変更。

2022年10月13日、2023年シーズンから三軍外野守備兼走塁コーチへの配置転換が発表された。

選手としての特徴

もともと投手で右打ちだったが、150km/hのストレートを投げる肩の強さ、身体能力の高さに横浜のスカウトが目をつけ、プロ入りを機に野手に転向。俊足を活かすためにスイッチヒッターとなった。

右打席のときはバットを振り切り、左打席ではフォロースルー直後に一塁へ駆け出す。上体を突っ込み気味にしながら打つというプロ野球選手でも珍しいバッティングフォームだが、ボールとの距離感を掴むためにはこのフォームが一番打ちやすいという。ストライクゾーンから離れたワンバウンドしそうな低めの球も体勢を崩しながらヒットにさせるバランス感覚を持ち合わせる。

横浜時代の通算8本のサヨナラ安打は球団最多タイ記録である。

外野守備では肩の強さを発揮させ、守備範囲も広く外野手のアウト寄与率を示すレンジファクターも2度1位を記録している。横浜時代、同じく守備に定評のあった中堅手の多村仁志との右中間コンビは鉄壁を誇り、幾度もチームを救った。

打撃、守備ともに俊足を生かしたプレーをしていたが、盗塁は通算の成功数が40にして盗塁死数が49と顕著に苦手としていた。

阿部慎之助は現役時代にキャッチャーとして出場していた際に、「狙い球が全く読めなかったバッター」として金城の名を挙げている。阿部曰く「『球種にヤマを張っている様子もなく、来たボールを素直に打ち返すだけ』という、あの動物的な感覚というのは、他のバッターにはなかったので、打ち取るのは相当厄介」だったという。

人物

チームメイトからは『金ちゃん』や『タツ』と呼ばれ、ベイスターズ時代に公募でつけられた愛称は『ハマの龍神』(定着しなかった)だったが、攻守ともに動物のように球に食らいつくプレースタイルから『野生児』とも呼ばれていた。

親しみやすい人柄で人望が厚く、横浜時代の金城と同僚だった選手は「(金城さんは)元気がない選手がいると声を掛けたり、いいプレーをするとほめてくれる。自分の調子が悪くても暗くならずにチームのことを第一に考えて振る舞っていた。金城さんほどの人格者はいないと思います」と語っている。自身の父がとても優しく謙虚な人柄で子どもの頃からずっと父を目標にしてきたという。

「人々に夢や希望を与えるのがプロ野球選手の仕事。困っている人がいれば助けたい」と、2008年から横浜市の社会福祉協議会に障害者施設、高齢者施設で利用される車椅子を寄贈してきた。

家族は妻と3人の子どもがおり、長男と次男はともに東海大学付属相模高等学校の硬式野球部でプレーし、甲子園出場も果たしている。

2024/05/24 17:03更新

kinjou tatsuhiko


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