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豊田泰光の情報 (とよだやすみつ)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

豊田泰光の情報(とよだやすみつ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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豊田 泰光さんについて調べます

■名前・氏名
豊田 泰光
(読み:とよだ やすみつ)
■職業
野球選手
■豊田泰光の誕生日・生年月日
1935年2月12日 (年齢81歳没)
亥年(いのしし年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
茨城出身

(昭和10年)1935年生まれの人の年齢早見表

豊田泰光と同じ1935年生まれの有名人・芸能人

豊田泰光と同じ2月12日生まれの有名人・芸能人

豊田泰光と同じ出身地茨城県生まれの有名人・芸能人


豊田泰光と関係のある人

渋谷誠司: ^ 週刊ベースボール2005年9月5日号=37号、豊田泰光の「オレが許さん!」第592回より。


野村克也: 7月5日、対西武戦(西武ドーム)では「ライオンズ・クラシック」企画の一環として、当時(1963年)の日本記録である野村の52本塁打達成の舞台となった西鉄ライオンズ対南海ホークス戦を再現するイベントが行われた(この試合では豊田泰光(元西鉄)が始球式を行い、野村が捕手を務めた)。


篠田勇: 1965年には水戸商の先輩でもある豊田泰光が故障で戦線離脱したため、主に遊撃手として85試合に出場(うち43試合に先発)。


山口鉄也: 『週刊ベースボール』の「2012年度ベストナイン」ではベスト中継ぎに選ばれた他、豊田泰光から「巨人の試合で山口、西村の8、9回だけは見応えがあった」「山口は影のMVP」と絶賛された。


三宅孝夫: ^ 日本経済新聞、豊田泰光コラム「チェンジアップ」2005.03.10


河野昭修: 翌1953年に豊田泰光が入団すると今度は二塁手にコンバートされ、さらに1954年の仰木彬の入団に伴って河野は一塁手へ転向、この年136試合に出場して打率.264でリーグ19位に入るなど、ようやくレギュラーの座を掴んだ。


皆川睦雄: 皆川自身は「221勝のほとんどが野村に助けられたもの」と言っているが、豊田泰光は「好リードでその力を引き出したのは野村だったが、野村もまた抜群の制球力を利用した研究によって、随一の配球理論を構築したという面があるだろう」と述べている。


中西太: 三塁の守備では柔らかなグラブ捌きを見せ、また目の前にフェンスが迫っていても怪我を恐れずに打球を追ったことから、遊撃手を務めていた豊田泰光とともに「金網デスマッチ」と言われていた。


中西太: 大下弘・豊田泰光・関口清治・高倉照幸・河野昭修らと形成する強力打線は「流線型打線」と呼ばれ、1954年に球団初のリーグ優勝を飾る。この年は29本塁打・95打点で二冠王に輝くも、打率は豊田泰光と4毛の差で三冠王を逃す。


義原武敏: 6回には豊田泰光に本塁打を打たれこの回で降板。


別所毅彦: 当時、選手兼任コーチで、後年にはフジテレビ・文化放送野球解説者として再び一緒に仕事をした豊田泰光は「やる気がある方だったんですが、選手の扱い方が拙劣。


中西太: 前者は首位打者を同僚の豊田泰光と争ったが、最終戦を前に三原監督が両者に休養を命じたため、豊田の首位打者が決まった(ただし、豊田は首位打者、中西は二冠王で構わないと最初から両者で話し合って決めていたとも言われている)。


トレイ=ヒルマン: 2007年の日本シリーズ開幕直前にロイヤルズで入団会見を行ったことについてはファンはもとより中心選手の森本稀哲や稲葉篤紀からも批判の声が挙がった他、ヒルマンを評価していた野村克也や豊田泰光からも「敵前逃亡に等しい行為」と酷評された。


仰木彬: しかし1963年に豊田泰光がチームを去ると、代わりにトニー・ロイ、ジム・バーマ、ジョージ・ウィルソンが入団し、バーマが二塁手としてレギュラー出場したことから出場機会が減少。


三原脩: 1954年にパシフィック・リーグを制覇した際には2番・豊田泰光、3番・中西太、4番・大下弘の強力打線を並べ、三原独自の打線論を披露した。


田村大五: 西鉄ライオンズの主力選手であった豊田泰光とは誕生日も近く同い年だったこともあり、田村が西鉄ライオンズ担当記者時代からの長年に亘る交友関係にあった。


滝内弥瑞生: 1年先輩の正遊撃手であった豊田泰光が少し打撃不調になると、滝内はベンチの横に来て「あんたが打てんかったら何の取り柄もなか。


倉島今朝徳: 1969年6月には豊田泰光の急な欠場で、1試合ではあるが四番打者、一塁手として先発出場している。


上田利治: 上田の阪急・日本ハム監督時代に野球評論家として活動していた豊田泰光も生前、第1期監督時代の1975-77年の阪急を「監督と選手の関係が理想に最も近かったチーム」に挙げていた。


小淵泰輔: 右翼手としても起用されシーズン後半には豊田泰光、徳武定之とともにクリーンアップを任される。


田中久寿男: 中西太が故障し、豊田泰光がチームを離れた後の中心打者と目され、1963年の巨人との日本シリーズでは第4戦(後楽園)で中村稔から本塁打を放つ。


大下弘: 1955年は辛うじて三割をキープ(.301〔リーグ6位〕)するが、12本塁打、63打点は中西太・豊田泰光・関口清治・高倉照幸ら他の若手主力打者に劣る成績に終わる。


高山忠克: 「(当時の主力選手だった)豊田泰光・徳武定祐に続く長距離打者」との期待を背景に、2年目の1964年に中堅手のレギュラーに定着すると、打順は下位ながらチーム2位の18本塁打を記録した。


高野价司: 同年夏の甲子園予選でも北関東大会準決勝に進出するが、豊田泰光、加倉井実のいた水戸商に惜敗。


皆川睦雄: 豊田泰光とは妙にウマが合い、食事をよく共にしたという。


香川伸行: 高卒新人での8本塁打は、豊田泰光、榎本喜八、張本勲、中西太に次ぐ当時歴代5位であった。


前場美保子: 豊田泰光 ウルトラサンデー (文化放送)


広瀬叔功: 同世代の豊田泰光は広瀬の連続写真を見ながら「こんな構えは(本来なら)絶対してはいけない。


田部輝男: ^ 豊田泰光『トヨさんの新・長幼の序』情報センター出版局 1986年、p.40


池永正明: これ以降、西鉄の先輩である稲尾や豊田泰光、同期入団だった尾崎、親交のある小野ヤスシ・なべおさみ・大橋巨泉らが中心となり、池永の処分取り消しを求める署名運動などが幾たびに行われ、国会でも取り上げられるなど広範囲に渡る支援が行われた。


豊田泰光の情報まとめ

もしもしロボ

豊田 泰光(とよだ やすみつ)さんの誕生日は1935年2月12日です。茨城出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

プレースタイル、人物などについてまとめました。引退、テレビ、父親、病気、現在、兄弟に関する情報もありますね。81歳で亡くなられているようです。

豊田泰光のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

豊田 泰光(とよだ やすみつ、1935年2月12日 - 2016年8月14日)は、茨城県久慈郡大子町出身のプロ野球選手・野球解説者。

現役時代は豪快な打撃で、西鉄ライオンズ(以下、西鉄)黄金時代の主力選手の1人として活躍した。引退後はニッポン放送、フジテレビ、文化放送、テレビ東京、テレビ大阪、スポーツニッポンなどの野球解説者をつとめた。2006年に野球殿堂入り。

3歳の時に日立市へ転居し、父は建設業を営んでいたが、国民学校(小学校)2年生の時に太平洋戦争に伴うアメリカ軍の空襲が起こったため 母の実家があり自分も生まれた大子町へ疎開し、5年生の時に戦争が終結した後も同地へ留まった。この終戦直後、国民学校(小学校)の教師が持ってきたソフトボールの道具 で野球をやったことが、豊田が野球を本格的に始めるきっかけとなった。

茨城県立水戸商業高等学校に進み、同校3年生だった1952年の夏の甲子園に出場。開会式の選手宣誓を務める。高野連から渡された文章を暗記するだけであったが、校長(岡田実)に宿舎から近い海辺に連れて行かれ、沖に向かって宣誓の練習を何十回もさせられたという。大会では、1回戦で都留高の矢頭高雄-西村一孔の強力バッテリーを打ち崩して5-0と勝利。2回戦(ベスト16)の成田高戦では、エース・穴澤健一から3本の長短打を放つが3-6で敗退した。高校同期に一塁手の加倉井実がいる。

高校No.1遊撃手の評価を受け、立教大学や早稲田大学、また複数のプロ球団からの誘いを受けた。水戸商業の先輩である砂押邦信が監督を務めていた立教大学野球部の夏練習に参加したほか、本人は神宮球場の早慶戦に憧れていたともされる。しかし、父親病気になったため大学進学はあきらめプロ入りに方向転換。西鉄のスカウト宇高勲から積極的な勧誘を受け、同球団への入団を決めた。

1953年、高卒1年目ながら遊撃手のレギュラーとなり、開幕戦となる3月21日のダブルヘッダーで初出場。翌22日には9番打者・遊撃手で初先発出場。高卒1年目ながら遊撃手のレギュラーに定着する。三原脩監督の卓抜した選手起用により、その後は投手の前を打つ8番打者を務め、4月の下旬以降は主に7番打者を打った。調子次第では6番打者を任され、9月の前半には5番打者としても出場した。9月15日以降は2番打者に定着し、強打の2番として活躍。最終的に115試合の出場で規定打席(12位、打率.281)に達し、27本塁打(同僚の中西太・36本塁打に次ぐリーグ2位)、25盗塁を記録した。同年は新人王を獲得し、この年に記録した27本塁打は当時の新人選手の最多記録となった。

プロ2年目の1954年には初のパ・リーグ優勝を成し遂げる。同年の中日ドラゴンズとの日本シリーズでは第6戦で勝ち越し2塁打を放つが、中日のエース杉下茂らに通算24打数4安打と抑えられ日本一はならなかった。

1956年には自ら首位打者となる活躍でチームをリーグ2度目の優勝に導く。この時の打率はチームメイトの中西太とは僅差(5毛差)であった。最終戦を前に中西は本塁打・打点の2冠をほぼ手中にしており、結果次第では戦後初の三冠王が誕生する可能性があったが、チームメイト同士がタイトルを争って雰囲気を悪くすることを懸念した三原監督が最終戦で両者を休ませ、豊田の首位打者が決まった。同年は初のベストナインにも選出された。続いて出場した読売ジャイアンツとの日本シリーズでも第3戦で別所毅彦から逆転につながる2点本塁打を放つなど、24打数11安打と活躍。チームは初の日本一となり、豊田はシリーズMVP、首位打者賞を獲得した。

その後も流線型打線と呼ばれた西鉄の強力な野手の一人として活躍を続け、読売ジャイアンツとの日本シリーズ3連覇に貢献。1957年の日本シリーズでは第1戦で義原武敏から勝ち越し本塁打、最終第5戦で3安打と活躍しシリーズ優秀選手賞を獲得した。1958年日本シリーズでも4本塁打、最終第7戦では4安打と24打数12安打7打点、2度目の首位打者賞に輝き日本一に大きく寄与した。

1959年のシーズン後は三原の退団や大下弘の引退が起こり、中西太が深刻な負傷で試合出場機会が激減。西鉄は優勝から遠ざかったが、同年の豊田は葛城隆雄に次ぐリーグ2位の81打点を記録、18敬遠は当時のパ・リーグ記録となった。その後も安定した成績を残しリーグを代表する遊撃手となった。

1962年には選手兼任で中西新監督を補佐する助監督を務めたがわずか1年で辞任し、同年のオフに国鉄スワローズ(1965年5月10日からサンケイスワローズ、1966年からサンケイアトムズ、1969年からアトムズ)へトレードされた。豊田は10年選手による移籍自由の権利を保有していたが、国鉄への移籍は権利行使による移籍ではなく金銭トレードである。

西鉄を退団した原因は川崎徳次監督の後任として就任した中西との対立だった。前年の1961年オフに成績不振の責任を取る形で川崎が監督を辞任すると、西鉄は「監督:中西・助監督:豊田・投手コーチ:稲尾」という青年内閣を組閣した(中西・豊田・稲尾とも当時20歳代で選手兼任)。しかし中西が三原元監督の娘婿であるということから誰もが中西の采配について文句を言わない中で、豊田だけが助監督の立場でいろいろと口を出したため、結果的にこれが中西との対立に発展した。ただ、本人は出演したテレビ番組の中で、移籍の理由は中西との対立ではなく、現役で脂に乗っている時期に助監督に任命されたことに対して「場当たり的な人事だ」とフロントに不満を持っていたと述べている。その後中西とは関係を修復し、晩年には「太さん」「トヨ」と呼びかける、普通の先輩後輩の関係に戻っていた。

国鉄入りした原因として、当時国鉄のコーチに水戸商の先輩である砂押邦信がいたことが挙げられる。豊田は水戸商時代、当時の立教大学野球部監督の砂押と入学の約束を交わしていたが、それを反故ほごにしてプロ入りしてしまった。そのため、砂押から「最初立教大学に入ると約束したのにプロ入りしたではないか。二度もワシの顔を潰すのか!!」と一喝された。これが原因で砂押には頭が上がらなくなってしまい、国鉄入団となった。また、西鉄の西亦次郎球団社長は、豊田の放出を当初否定したものの、この頃国鉄球団の経営に関与するようになった産経新聞社の水野成夫社長と九州政界の大立者が介入して成立したとも言われている。

協議の中で豊田と金田正一か村田元一のいずれかとの交換トレードも提案されたが、最終的に4500万円のトレードマネーで決着した。この経緯については、資料により国鉄側が交換を提案し、西鉄側があくまで金銭を要求したとするものと、西鉄側が豊田に見合う選手として金田か村田のいずれかとの交換を希望して、国鉄側がこの2人の放出は無理だと断った結果、金銭で解決したとするものとがある。西鉄はこのトレードで得た資金でウイルソン・ロイ・バーマの3外国人選手(いずれも野手)を獲得。1963年の優勝にはこの3人が大きく貢献することになる。

国鉄移籍決定後、豊田は、当時の球団フロントから「福岡はお前の放出が原因でファンが騒動を起こしているから、来るな」と言われ福岡では豊田不在のまま移籍会見が行われたため、豊田に対して「今まで応援してきたのに最後に姿を見せないとはどういうことだ」とファンから批判が起こった。

国鉄への移籍後も1963年に打率.292(リーグ9位)、20本塁打を記録するなど、2年間は中心打者として好成績を残す。しかし3年目から肘の故障が悪化し、2年にわたり治療を続けるものの完治には至らず、常時出場が困難になる。1967年には一定の回復が見られ106試合に出場するが、打率、長打力とも全盛期には及ばなかった。また脚力の衰えもあり、主に一塁手、あるいは代打として起用された。

1968年からは打撃コーチを兼任。同年には2試合連続で代打サヨナラ本塁打を達成し(この記録は豊田と若松勉しか達成していない)、相手投手は2試合とも中日ドラゴンズの山中巽だった。同じ投手からというのはプロ野球史上豊田のみの珍記録である。

1969年シーズン終了後、17年間の現役生活を終えて引退した。

現役引退後は1970年からニッポン放送・サンケイスポーツなどで解説者となった後、1972年には1年間だけ近鉄バファローズ一軍打撃コーチを務め、若手時代の梨田昌孝・羽田耕一の成長に一役買った。キャンプでは夜遅くまで大広間でスイングをさせるなど熱心な指導で、打撃ケージの後ろでは激しい口調となり、伊勢孝夫は一死三塁で凡退した時に「外野フライも打てないのか!」と言われたこともあった。また、1981年オフに山内一弘の後任監督としてロッテオリオンズから監督就任要請を受けたが、固辞した。1973年以降は評論活動に戻り、以後40年以上にわたって野球評論を続けた。『週刊ベースボール』にはコラム「豊田泰光のオレが許さん!」を1993年から2013年に終了するまでに通算1001回にわたって連載、日本経済新聞ではスポーツ欄にコラム「チェンジアップ」を1998年から2013年まで続けていた。そのほか、1973年はサンケイスポーツ紙上で、1981年から1985年までは東京中日スポーツ紙上で、1986年以降はスポーツニッポン紙上で野球評論活動を行った。

1994年に発足した日本プロ野球OBクラブには当初から参加(2000年までは副会長・技術委員長も任務)しており、1997年茨城県稲敷郡桜川村(現:稲敷市)でホームグラウンド(桜川村総合運動公園野球場〈現:稲敷市桜川総合運動公園野球場〉 - 茨城ゴールデンゴールズのホームグラウンドでもある)が完成した際のイベントにも登場していたが、運営方針をめぐって大沢啓二ら他の役員と意見が対立し、その後は批判的な立場をとった。

2016年8月14日、誤嚥ごえん性肺炎のため死去。81歳没。8月16日の『プロ野球ニュース』(フジテレビONE)と翌8月17日の『SET UP!!』(文化放送)では豊田の追悼コーナーが放送された。

プレースタイル

打撃

日本人史上初の遊撃手での首位打者を獲得するなど、遊撃手として屈指の打撃力を誇った打撃型ショートであった。豊田以外の日本人遊撃手の首位打者はプロ野球歴代で西岡剛(2010年)と坂本勇人(2016年)のみである。攻撃力の傑出度を測るRCWINは遊撃手史上最高の数値を記録しており、25歳5か月での1000本安打達成は榎本喜八、土井正博に次ぐ歴代3位タイのスピード記録である。

豊田がプロ入りした1950年代当時の野球では、遊撃手は打撃力は二の次で守備力が最優先、2番打者はバントか進塁打で走者を進めることが重要、という評価が常識として通用していた。その点で、年間で45失策を記録したが三原に起用され続け、新人王を獲得した豊田のプレースタイルは当時としては異質であった。ただし豊田の盗塁数は多く、「俊足」という点では他の2番打者との共通性を持っていた。

制約の多い2番打者での起用が多い選手での通算約1600安打は、当時では非常に高い数字だった。西鉄の全盛期にクリーンナップを打っていれば、通算1800安打から1900安打は確実に打っていただろうとするチームメイトの証言がある。

内野フライを打ち上げた時に、走塁の途中で「俺が捕る」と言い、守備側の選手を混乱させてエラーを誘った。そのエラーをした選手が引退後に審判になり、豊田は「以前に自分がした事を恨んでいて、追い込まれてからきわどいコースをストライクとして取られたらたまらない」と思い、その審判が豊田が出場する試合で主審を務める場合は早めのカウントで打つようにしていたという。

守備

6(遊撃手) - 4(二塁手) - 3(一塁手)のダブルプレーはプロ野球でもよく見られるが、西鉄の場合(遊撃手:豊田、二塁手:仰木彬、一塁手:河野昭修→中西太)は普段と異なる点がひとつあった。通常このプレーにおいて、遊撃手は二塁手が一塁へ送球しやすいように、二塁手の体の右側へと送球するのがセオリーとなっているが、仰木が「右側に投げられると一塁へ送球しにくい」といったため、豊田は仰木と二遊間を守る時は仰木の体の左側へ送球していた。ただし滝内弥瑞生など、仰木以外の選手が二塁を守る時は二塁手の体の右側に送球していたが、仰木とのコンビが9年間続いたせいで豊田の中には「6 - 4 - 3のダブルプレーの際には二塁手の体の左側に送球する」のが癖になってしまい、国鉄移籍後に遊撃手として出場した際に悪送球を犯している。

バント

3連敗のあと1勝を返して迎えた1958年の日本シリーズ第5戦、2-3とリードされた9回裏、先頭の小淵泰輔が二塁打で出塁。3番の豊田に打順が回り、強打か送りバントかの判断を迫られたが、ベンチの三原を見ても「お前に任せる」と言わんばかりの知らん顔だった。結局豊田は自分の判断で送りバントをしたが、西鉄のナインはこのシリーズ最も当たっていた豊田が送るとは思わず、ベンチに帰ったら「なぜ打たなかった」と袋叩きに遭ったという。一死三塁となったが、期待のかかった4番の中西がサードゴロに倒れ、二死となって5番の関口清治の場面では、豊田は「どんな神様でもいいです。お願いですから関口さんに打たせてください」と祈っていたという。関口は中前にはじき返し、土壇場で同点に追いついた西鉄は息を吹き返し、この試合稲尾和久の本塁打でサヨナラ勝ち、結局3連敗4連勝でシリーズも制覇した。尚、関口はその同点タイムリーを放つ打席を迎えるまで、この年のシリーズ打撃成績は15打数1安打と不調に見舞われていた。

人物

この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)出典検索: "豊田泰光" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年8月)
1956年の日本シリーズ制覇稲尾和久、三原脩とともに祝杯を挙げる
西鉄黄金時代の代名詞として知られるNLマークを、三原と共同で考案したことで知られる。それまでの西鉄の帽子は黒地に白のNマークだったが、これが選手の間で評判が悪かった。そこで三原は水戸商高出身で商業デザインに興味を持っていた豊田を自分の部屋に呼び出し(特に試合に負けた日の夜)、2人でNとLの形に切り抜いた紙を並べたり重ねたりして検討した結果、ニューヨーク・ヤンキースのNYマークを想起させるNLマークが完成したという。1954年の日本シリーズから西鉄の帽子が紺地に白のNLマーク(翌年から地色が黒)に変更されたが、この年に初優勝、さらに1956年からは3年連続日本一に輝いたこともあって、NLマークは川崎徳次監督時代の2年間(1960年・1961年)を除き、親会社西日本鉄道が球団を売却する1972年まで使用された(ただし1966年からはユニフォームにオレンジが加わったこともあって、NLマークもオレンジに変更された)。豊田が監修した2008年の「ライオンズ・クラシック」では、1954年から1959年に使用された西鉄のユニフォームが復刻・使用された。帽子も黒地に白のNLマークの物がそのまま使われ、一般ファンにも販売された。
    黒地に白のNLマークの帽子は、西鉄のマネジャー・常務を務めた藤本哲男が1979年に福岡市中央区に開業した野球用品店「ライオンズベースボールショップ」で現在も購入可能である。

    1958年のオフ、1月には歌謡曲「男のいる街」を発売し、その年上半期のビクターの歌謡曲(流行歌)レコード売上で10位に入り、7万枚を売り上げるヒットとなった。同曲は豊田の公式ホームページで試聴可能となっていて、豊田は「(日本の)スポーツ選手のレコーディング第1号」と述べている。作曲は日立市出身の吉田正で、その後も豊田とは親交を持っていた。吉田の没後の2004年に同市で吉田正音楽記念館が開設された際、吉田の遺品の寄贈式で豊田は体調不良の吉田の妻に代わって出席している。

    通算1000三振記録者を対象とする「千振会」(せんしんかい)の結成を提唱したが、他の対象者の賛同を得られず実現しなかった。

    晩年には、社会貢献として、木製バットの原材料であるアオダモの植樹活動を精力的に行っていた。2008年には茨城県に500万円の寄付を行い、県内の運動公園や文化施設などへ自動体外式除細動器(AED)約20台を設置するための資金に充てられることになった。

    人間関係

    稲尾和久が西鉄入団後に初めて球団寮を訪れた際、稲尾が中央球界では無名の存在だったこともあり、当時の寮長で3学年年上だった豊田は「西鉄に入る? 運転手になるなら本社(親会社の西日本鉄道)へ行け」と稲尾に対して冷たく対応したという。しかしその後は稲尾の人柄や野球に対する姿勢に感銘を受けた。2007年には稲尾の訃報に対して「ショックです。親、兄弟と同じ存在だった」「西鉄というのは稲尾ライオンズ。ライオンズをつくったのは稲尾。わたしの心の中で西鉄ライオンズはきょうで終わりです」とコメントした。その後2012年に稲尾の背番号が再び永久欠番になった際のセレモニーの開会挨拶では、「まるでここに稲尾がいるようで…」と人目も憚らず号泣した。豊田は「稲尾の話だけには弱い」と語っている。

    1990年代初めはテレビ東京のスポーツ番組『スポーツTODAY』(月曜日のコーナー「月曜スポーツ討論会」)にて青田昇、有本義明、ダンカンらとともにプロ野球に関して侃々諤々の議論をしていた。月曜スポーツ討論会の最終回(このとき豊田がフジテレビ解説に復帰することが報告される)でダンカンより本をプレゼントされるが、その本は確執があったとされる別所毅彦著作の『剛球唸る!―栄光と熱投の球譜』であったため、やや引きつった笑みで、「(本を)ありがとう」と言っていた。

    西鉄時代の監督だった三原を“恩師”として晩年に至るまで尊敬しており、自身の連載コラムや著書で「三原さんをプロ野球のコミッショナーにすべきだった」と時折語っていた。また、引退後の身の振り方について、西鉄時代に三原から「合宿先でも空いてる時間は漫画や雑誌ではなく、本を読め」とずっと言われて来て、豊田自身もその忠告を素直に受け入れたから今の評論家活動があると連載コラムや自筆の著書でもたびたび語っていた。

    豊田はプロ野球関係者の葬儀に基本的に参列しなかった。その理由について「グラウンドで戦った先輩や友人、仲間たちの葬式に行ったら、悲しくなってしまってね、涙が止まらなくなって堪らないからです。そういうのが嫌だから、自分は葬式に行かないで自分なりに(故人に)お別れするようにしているんです」と、『週刊ベースボール』のコラムに書いていた。ただし、親交の深い野球ジャーナリストの田村大五の葬儀には参加し弔辞も読んだ。

2024/06/14 22:03更新

toyoda yasumitsu


豊田泰光と同じ誕生日2月12日生まれ、同じ茨城出身の人

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豊田 綾乃(とよだ あやの、1976年5月14日 - )は、TBSテレビチーフアナウンサー。 神奈川県横浜市出身で、幼少期は父親の仕事の関係で沖縄、大阪、千葉を転居し、中学校と高等学校在学時はアメ…

豊田 ルナ(とよだ るな)
2002年7月17日生まれの有名人 広島出身

豊田 ルナ(とよだ ルナ、本名および旧芸名:豊田 留妃〈読み同じ〉、2002年〈平成14年〉7月17日 - )は、日本のタレント、グラビアモデル、女優。広島県福山市出生、埼玉県深谷市出身。プラチナムプ…

豊田 エリー(とよた えりー)
1989年1月14日生まれの有名人 東京出身

豊田 エリー(とよた えりー、Ellie Toyota、1989年1月14日 - )は、日本の女優・モデル。 中学1年生の冬に渋谷でスカウトされ、スターダストプロモーションに所属する。 2002年…

豊田 麻里(とよだ まり)
1973年3月30日生まれの有名人 熊本出身

豊田 麻里 (とよだ まり、1973年3月30日 - )は、日本の女優。熊本県出身。所属事務所はZONE。身長158cm、B80 H60 H86、靴のサイズ23.0cm。血液型はO型。 1990年…

豊田 眞唯(とよだ まい)
1989年12月17日生まれの有名人 大阪出身

豊田 眞唯(とよだ まい、1989年12月17日 - )は、日本の女優。大阪府出身。 物語を創作するのが好きだったことから、やがて演じることにも興味を抱き始める。1998年、以前からファンであった『…

豊田 麻衣(とよた まい)
1983年7月8日生まれの有名人 富山出身

豊田 麻衣(とよた まい、1983年7月8日 - )は、日本のフリーアナウンサー・ローカルタレント・リポーター・モデル。富山県富山市出身で、同県を中心に活動している。夫は映画監督の坂本欣弘。 高校…

豊田 順子(とよだ じゅんこ)
1966年4月25日生まれの有名人 埼玉出身

豊田 順子(とよだ じゅんこ、1966年4月25日 - )は、日テレイベンツ取締役。日テレ学院第4代学院長。元日本テレビアナウンサー。 埼玉県立浦和第一女子高等学校、立教大学文学部英米文学科卒業。…

豊田 四郎(とよだ しろう)
1906年1月3日生まれの有名人 京都出身

豊田 四郎(とよだ しろう、1906年(明治39年)1月3日 - 1977年(昭和52年)11月13日)は、日本の映画監督。多くの文芸映画を作り、「文芸映画の巨匠」と呼ばれた。 京都府京都市上京区…

豊田 利晃(とよだ としあき)
1969年3月10日生まれの有名人 大阪出身

豊田 利晃(とよだ としあき、1969年3月10日 - )は、日本の映画監督、脚本家。 『ポルノスター』『青い春』『ナイン・ソウルズ』『空中庭園』などの作品で知られる。監督したほぼ全作品で脚本を書…

豊田 萌絵(とよた もえ)
1995年3月15日生まれの有名人 茨城出身

豊田 萌絵(とよた もえ、1995年3月15日 - )は、日本の女性声優。茨城県出身。スタイルキューブ所属。 声優を目指したきっかけは豊田曰く漫画、アニメ、ゲームが好きな「ザ・オタク」だった。その…

豊田アキヒロ(とよだ アキヒロ)
生まれの有名人 愛知出身

豊田 アキヒロ(とよだ アキヒロ)は、日本の漫画家。愛知県名古屋市出身、愛知県在住。別名義にトイシキ。 可愛らしい絵柄とキャラクター達の織り成すゆるいボケボケな日常が作風。 おひとり女子高生が憑…

豊田 舜次(とよだ しゅんじ)
1927年2月11日生まれの有名人 静岡出身

2月11日生まれwiki情報なし(2024/06/15 14:36時点)

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豊田泰光
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