梶本隆夫の情報(かじもとたかお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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足立光宏: 同年は米田哲也(20勝)・梶本隆夫(14勝)に次ぐ8勝に防御率1.96を挙げて頭角を現す。 安藤順三: 多治見工業高校では中学時代に続き、小学校時代からの幼馴染で同期のエース・梶本隆夫とバッテリーを組む。 安藤敏雄: 8月27日には阪急を相手に先発、梶本隆夫と投げ合い8回を4失点に抑え、9回に味方が逆転して初勝利を挙げる。 須藤豊: 8月23日の阪急戦(駒沢)では延長12回裏無死一塁で、梶本隆夫から左中間を破る二塁打を放ち、一塁走者沼澤康一郎が生還してサヨナラ打になった。 星野仙一: また、投手コーチの小松辰雄は退団し、後任に宮田征典、打撃コーチに水谷実雄、外野守備走塁コーチに二宮至、二軍監督には仁村徹、二軍投手コーチに梶本隆夫を招聘。 白崎泰夫: 阪急が3点リードでむかえた7回、南海が先発の種田弘より2点を返し、阪急は一死よりエース梶本隆夫を投入した。 大石清: 1967年頃の阪急投手陣には足立光宏、米田哲也、梶本隆夫ら10年選手が先発陣に腰をすえていたこともあり、大石はリリーフに転向して復活する。交代した梶本隆夫が王貞治に3点本塁打を喫し敗戦投手となった。 小形利文: 初安打:1972年8月27日、対阪急ブレーブス20回戦(阪急西宮球場)、5回表に高橋直樹の代打として出場、梶本隆夫から適時打 安藤治久: 米田哲也・梶本隆夫の2投手で支えていた低迷期の阪急ブレーブス(通称:ヨネカジコンビ時代)で、2人に次ぐ年間登板数を重ねていた。 今井雄太郎: しかし、1974年から投手コーチに就任していた梶本隆夫がその無類の酒好きに目をつけ、1978年5月4日、大阪スタヂアムでの南海戦で紙コップ入りのビールを飲ませてからマウンドにあげたところ、それまでとは別人のような好投を見せた。 大谷翔平: 先発投手が3番から5番の打順(クリーンナップ)を打つのは1963年の梶本隆夫以来50年ぶりのことだった。 稲尾和久: それに加え、三原脩監督が稲尾を重点的に起用する方針を採ったため、米田哲也や梶本隆夫(阪急ブレーブス)、土橋正幸(東映フライヤーズ)といった同世代のエースと比較しても稲尾の登板試合数は極端に多い。 水谷孝: 当時の阪急には梶本隆夫、米田哲也、足立光宏、石井茂雄といった好投手が揃っていたが、1968年には先発陣の一角に食い込み15勝7敗、防御率2.83(リーグ7位)と米田の29勝に次ぐ好成績をあげる。 岩下光一: その後は阪急3番手の梶本隆夫に反撃を断たれ、5-6で惜しくも敗れシーズン3敗目を喫した。 穴吹義雄: 1956年は3月21日の阪急との開幕戦(大阪)に6番・三塁手として初出場を果たし、2回の初打席で梶本隆夫から初安打を放つ。 石井茂雄: その後は梶本隆夫・米田哲也・足立光宏らと共に1960年代の阪急の主力投手として活躍し、1964年には自己最高の28勝をマークするも、小山正明(大毎)が30勝を挙げたため最多勝には届かなかった。 東尾修: また、通算200勝より先に通算200敗を達成しており(梶本隆夫に次いで史上2人目。 米田哲也: その後は右のエースとして活躍し、左腕エースの梶本隆夫と共にヨネカジコンビを成した。 梶本靖郎: 兄はプロ野球選手の梶本隆夫。 橘高淳: 2022年4月10日の千葉ロッテマリーンズ対オリックス・バファローズ第3回戦で球審を務め、その試合はロッテ先発佐々木朗希が完全試合、1試合19奪三振のプロ野球タイ記録(1995年4月21日にオリックス・バファローズの野田浩司に並ぶ)、そして13者連続奪三振の日本記録(1957年7月23日に阪急ブレーブスの梶本隆夫、1958年5月31日に東映フライヤーズの土橋正幸が記録した9者連続を超える)を達成するなど3つの大記録が生まれた。 清原和博: 高卒新人がオールスターに出場したのは1954年の梶本隆夫、1955年の榎本喜八、1970年の太田幸司に次ぐ史上4人目だったが、清原はその中で初めて安打、本塁打を放った選手となった(第1戦で安打、第2戦で本塁打)。 山下健: 後に入団した梶本隆夫、米田哲也らとバッテリーを組み低迷期の阪急を支えた。 山田久志: 山田が入団した頃の阪急は、ヨネカジコンビと呼ばれた米田哲也、梶本隆夫の他、石井茂雄、足立光宏など一流投手の揃った投手王国で、山田は「俺なんかどうやって入っていったら…」と不安だったという。 関森正治: 1959年6月12日の対阪急戦で相手投手の梶本隆夫に9回2アウトまでノーヒットに抑えられていたが、関森がヒットを放ち梶本のノーヒットノーランを阻止した。 三輪田勝利: 監督が梶本隆夫に交代した1979年に阪急ブレーブスの二軍投手コーチに就任するが、1980年にコーチを辞任、上田が監督に復帰した翌年からスカウトに復帰することを発表した。 高峰三枝子: 阪急ブレーブスの大ファンで、特に当時のエース・梶本隆夫がお気に入りだった。 菊池雄星: 2018年8月24日には、通算で一軍公式戦18試合目の対戦で13敗目を喫し、1960年から1963年にかけて梶本隆夫(阪急ブレーブス)が対南海戦で13連敗を記録して以来55年ぶりにリーグの同一カード連敗記録に並んだ。 藤本定義: 戦後の1957年から1959年にかけて阪急ブレーブス監督時代に日本で初めて「先発ローテーション」を本格的に導入し、当時エースだった米田哲也・梶本隆夫を一定間隔で先発起用した。 竹之内雅史: 初安打:1968年8月10日、対阪急ブレーブス20回戦(平和台球場)、9回裏に梶本隆夫から 伊達正男: 1955年からは阪急ブレーブスのコーチとして5年間指導し、梶本隆夫・米田哲也の「ヨネ・カジ」両エースの成長に貢献した。 |
梶本隆夫の情報まとめ
梶本 隆夫(かじもと たかお)さんの誕生日は1935年4月8日です。岐阜出身の野球選手のようです。
兄弟、父親、母親、現在、引退、病気、趣味に関する情報もありますね。今年の情報もありました。2006年に亡くなられているようです。
梶本隆夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 梶本 隆夫(かじもと たかお、1935年4月8日 - 2006年9月23日)は、岐阜県多治見市出身(山梨県甲府市生まれ)のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者・評論家。愛称は「梶」あるいは「梶さん」「梶やん」。 弟は元プロ野球選手の梶本靖郎。兄と同じ阪急ブレーブスの投手としてプレーし、通算3勝2敗の成績を残している。このうちの1勝は兄弟でリレーした試合であった。 実家は岐阜県多治見市の「梶本ミシン商会」。梶本が中学生の時に父親が亡くなり、母親が女手ひとつで子育て、仕事を切り盛りした。 多治見工業高校では同学年の安藤順三とバッテリーを組み、2年次の1952年には秋季中部大会に進むが、1回戦で浜松北高に惜敗。翌1953年春の選抜への出場を逸する。3年次の1953年には夏の甲子園岐阜予選2回戦で郡上高から完全試合(7回コールド)、準々決勝で関一高からノーヒットノーランを記録するなど活躍し、決勝でも岐阜高をノーヒットノーランで降して優勝。三岐大会に進出するが、決勝で津高に完封負けを喫し、甲子園出場はならなかった。 プロ3球団から入団交渉を受け、阪急ブレーブスが契約金50万、中日ドラゴンズが120万、最後の読売ジャイアンツ(巨人)が200万を提示したが、最も提示額の少ない阪急入りを決めた。その理由は「高いお金をいただいてダメだったら申し訳ない。だったら一番安いところに」という母親の考えによるものである。一方野村克也の著書によると、阪急に同じ多治見工業OBの先輩である柴田英治が所属していたためという。 1954年に阪急へ入団。高卒1年目にして監督の西村正夫から「どの投手よりも梶本の球が一番速かった」との理由で開幕投手に指名され、3月27日の対高橋ユニオンズ戦に先発、9回に柴田英治の救援を仰ぐが5-3で勝ち、勝利投手となる。オールスターまでに12勝を挙げてファン投票で1位で選ばれる。同年は55試合に登板して20勝(12敗)を挙げるも、新人王争いは26勝の宅和本司(南海ホークス)に敗れる。ルーキーで20勝しながら新人王に選ばれなかった選手は、2023年現在も梶本ただ一人である。スポーツ新聞では「5000円エース」と称されたが、実際の月給は2万円であった。本人は「その年の8月からいきなり給料が倍額になった」と回想しているが、これは新聞記事によって名を知らしめてくれたことに対するリップサービスである。 2年目の1955年も18勝し、1956年には28勝(17敗)にリーグトップの327奪三振を挙げてベストナインに選ばれるが、大映の三浦方義(29勝)に阻まれてわずか1勝差で最多勝を逃した。1957年にも24勝(防御率1.92〔リーグ4位〕)と2年連続20勝、1960年にも21勝を挙げるなどエースとして阪急の「灰色の時代」を支えた。後に入団する米田哲也とヨネカジコンビを形成し、Bクラスが多かった昭和30年代の阪急を支えたが、二人とも年間50試合前後の登板数であり、このタフさがチームの支柱となっていた。 この間の1954年7月10日の近鉄パールス戦(和歌山県営)では、日本プロ野球史上初となる「1イニングに三者連続三球三振」を達成。さらに、1957年10月18日の南海戦(西宮)で2回目を記録したが、日本プロ野球で複数回達成したのは2023年にリバン・モイネロ(福岡ソフトバンクホークス)が記録するまで梶本のみだった。また、1957年7月23日の南海戦(西宮)で達成した公式戦9連続奪三振は、2022年4月10日に佐々木朗希が更新するまで、60年以上もの間、プロ野球記録であった。このときの1人目が投手の皆川睦男。最初は「いつもよりちょっと三振が多いな」くらいにしか思っていなかったが、9人目の三振を奪った時に捕手の山下健に「カジ、これ新記録やで」と言われ、急に記録を意識したという。10人目の打者は再び投手の皆川(皆川も好投していたため、代打を出せなかった)であったが、不用意にストライクを取り行ったところをバットに当てられ、センターフライになり、記録が途絶えた。梶本は後に「もし皆川をまた三振に取っていたら20は行ったんじゃないかな」と語っている。1959年6月12日の近鉄戦(西宮)で9回2死まで無安打に抑えながら、最後の打者に安打を打たれてノーヒットノーランを逃している。 1960年から1963年にかけ、南海に13連敗を喫するが、これは2018年に菊池雄星(埼玉西武ライオンズ)が並ぶまで、同一カードにおける連敗のパシフィック・リーグ単独最多記録であった。1966年にはシーズン15連敗という不名誉な記録をマークした結果、200勝以上を記録した投手としては史上初の先に200敗を記録した投手となった(後に東尾修も記録)。 1967年はパームボールを習得して復活し、15勝(防御率2.44〔リーグ7位〕)を挙げて念願の初優勝に貢献。同年に通算200勝を達成。1967年から1971年まで、巨人との4度の日本シリーズでは9試合に登板。 1968年の第5戦では中継ぎで初勝利を記録するが、通算1勝3敗に終わり真価を発揮できなかった。1972年4月14日の対東映フライヤーズ戦(後楽園)では、二塁塁審の露崎元弥に公認野球規則8.04に規定された、20秒ルール(無走者の時、投手はボールを受けてから20秒以内に投球しなければ、球審はボールを宣告する。試合の引き延ばしを防ぐための規定)によってボールを宣告された。露崎はストップウオッチで計測しており、文句のつけようがなかった。梶本は日本プロ野球公式戦で投球の遅延行為を取られた最初の適用者であった。 1973年限りで現役を引退。通算254勝255敗と、200勝以上を記録した投手の中で唯一負け越している。時には貧弱な打線を支えるべく3番として出場したことがあるほか、一塁手や外野手としてそれぞれ6試合出場したこともあった。 引退後は阪急→オリックスで一軍投手コーチ(1974年 - 1978年)、監督(1979年 - 1980年)、一軍ヘッド兼投手コーチ(1981年 - 1985年)、球団調査部長(1986年 - 1988年)、二軍投手コーチ(1989年 - 1991年)、二軍リザーブチーフコーチ(1992年 - 1993年)を歴任。指導者としての評価も高く、コーチ時代には4度のリーグ優勝と3度の日本一に貢献。監督を辞任した次の年に同一チームにコーチとして残留した例はプロ野球史上でも非常に稀であり、1984年には上田利治の病気療養により、数試合だが監督代行を務めたこともあった。後輩の面倒見が非常によく、選手たちからも慕われた。一軍で実力の出せなかった今井雄太郎の酒好きに目を付け、今井に酒を飲ませて登板させてエースに成長させた。今井は監督時代の梶本について「投手出身だったから投手に優しかった。「もう少し投げさせてやろう。」と引っ張ってくれて。」と述べている。佐藤義則は「現役時代、何人かのコーチにアドバイスを受けたのですが、一番、的確だったのが梶本さん。いい時のフォームを覚えてくれていて、いくつかのポイントしか指摘しないんです。余計なことは一切言わない。僕には非常にありがたいコーチでした」、「コーチとして手本にしているのは梶本さん」と述べている。退団後はラジオ関西解説者・デイリースポーツ評論家(1994年 - 1997年)を経て、中日二軍投手コーチ(1998年 - 1999年)を務めた。 1979年には新人監督として開幕連勝記録をタイながらも達成した。 中日退団後はラジオ関西・J SPORTS解説者・デイリースポーツ評論家(2000年 - 2006年)として活動したが、2006年9月23日午前6時26分、呼吸器不全のため神戸市内の病院で死去。満71歳没。 死後、2007年に野球殿堂入り。 同時代の投手の多くが力投型のフォームで投げたのに対して、長身にもかかわらずスリー・クォーター気味の、一見おとなしく見えるフォームからの快速球を特徴としていた。ゆったりとしつつ全身を大きく使うフォームは当時最高の左腕投手の呼び声が高かった金田正一を手本にしたと言う。しかし本人によれば「カネさんの独特の全身の使い方はあの人にしか出来ないもの。ついにものにできなかった」という。力投型投手が小柄な巧打者を苦手とするケースがよくあり、金田は阪神の吉田義男を苦手としたが、梶本も西鉄の高倉照幸は苦手でよく打たれた。一方で、同じ西鉄の強打者であった中西太や豊田泰光らには強かった。 若い頃は直球とカーブだけで抑えていたが、それだけでは限界が見え出すと、直球と同じ腕の振りから緩い球で打者のタイミングを外すパームボールを覚えて復活。それも打者に研究されて次第に通用しなくなると、今度はフォークボールを習得。これは面白いように決まり、ピンチに立たされるとよく投げたことから、多い時は1試合に20~30球も投げていた。梶本は手が大きかったことから、これらの球種はあまり苦労なく覚えられたという。晩年には、密かにナックルボールを研究するが、コーチ就任を要請されて引退したため、実戦で使う機会はなかった。 身体が丈夫で、肩や肘を一度も故障することなく、20年間に渡る現役を全うした。また、勝っても負けても飄々と投げ、感情が顔に表れないことから「梶本のポーカーフェイス」と呼ばれた。 タイトルや記録にこだわるような性格では全くなく、シーズン終盤、最多勝を獲らせるために勝ちゲームでのリリーフ登板を監督から促されたこともあったが、「他人の勝ち星を奪うようなことは勘弁してください」と登板を断ったことがある。同様に自身の勝ち星にもこだわりがなく、現役最後の年に自身の通算勝利数が通算敗戦数を上回らせるために、リリーフで登板する事を監督が打診しても拒否したという。雑誌のインタビューで「10-0で勝つより0-1で負けたほうがいい。勝った負けたより、内容のあるピッチングをしたかどうか、そのほうが自分にとって大事だった」と語っている。なお、通算254勝は、最多勝利のタイトルを獲得していない選手としては歴代最多である。 私生活でも極めて温厚な人物として知られ、野村克也に言わせれば「ピッチャーらしくない、仏様のような性格」。反面、非常に芯の強いところもあり、プロ入り直後に「酒ぐらい飲めないと一人前になれないぞ」と言われた先輩選手の前でボトル一本分の水割り(グラス十数杯分)をズラリ並べ、すべて飲み干したというエピソードもある。同時代に梶本とともにエースとして阪急を支えた米田哲也は「どんな無理なことも気安く引き受けて実行してくれる誠実な人。だから、アニキ(梶本)のためならワシもどんな苦労もいとわない」と語っていた。 趣味はクラシック音楽の鑑賞。また、独身時代は衣食住が保証され、練習にも専念しやすいという理由から、長年合宿住まいであった。 各年度の太字はリーグ最高 最多奪三振:2回 (1956年、1957年) ※当時連盟表彰なし、パシフィック・リーグでは、1989年より表彰 ベストナイン:1回 (1956年) 野球殿堂競技者表彰(2007年) 初登板・初先発・初勝利:1954年3月27日、対高橋ユニオンズ1回戦(阪急西宮球場)、6回3失点 初奪三振:同上、1回表に黒田一博から 初完投:1954年4月3日、対西鉄ライオンズ1回戦(小倉豊楽園球場)、8回4失点で敗戦投手 初完投勝利・初完封勝利:1954年4月8日、対近鉄パールス5回戦(藤井寺球場) 1000投球回:1957年5月11日、対毎日オリオンズ2回戦(後楽園球場) ※史上65人目 1000奪三振:1957年8月24日、対西鉄ライオンズ15回戦(阪急西宮球場)、2回表に稲尾和久から ※史上14人目 100勝:1958年7月9日、対東映フライヤーズ16回戦(駒澤野球場)、12回5失点完投勝利 ※史上23人目 1500投球回:1958年8月10日、対西鉄ライオンズ15回戦(平和台球場)※史上35人目 1500奪三振:1960年7月12日、対南海ホークス12回戦(阪急西宮球場)、7回表に福田弘文から ※史上6人目 2000投球回:1960年9月10日、対東映フライヤーズ24回戦(駒沢野球場)※史上19人目 150勝:1961年8月12日、対近鉄バファロー16回戦(阪急西宮球場)、8回表に3番手で救援登板・完了、4回無失点 ※史上14人目 2500投球回:1962年8月15日、対毎日大映オリオンズ22回戦(阪急西宮球場)※史上12人目 500試合登板:1963年9月21日、対毎日大映オリオンズ25回戦(東京スタジアム)、先発登板で5回0/3を6失点(自責点4)で敗戦投手 ※史上12人目 2000奪三振:1964年5月3日、対近鉄バファローズ8回戦(日生球場)、8回裏に土井正博から ※史上3人目 3000投球回:1965年5月19日、対東京オリオンズ5回戦(阪急西宮球場)※史上9人目 600試合登板:1965年7月8日、対東京オリオンズ21回戦(阪急西宮球場)、9回表2死に2番手で救援登板・完了、1/3回無失点 200勝:1967年6月6日、対南海ホークス10回戦(阪急西宮球場)、9回完封勝利 ※史上12人目 2500奪三振:1967年10月10日、対西鉄ライオンズ27回戦(阪急西宮球場)、8回表に伊藤光四郎から ※史上3人目 3500投球回:1968年4月29日、対南海ホークス4回戦(大阪スタヂアム)※史上6人目 700試合登板:1968年5月26日、対南海ホークス11回戦(阪急西宮球場)、先発登板で7回2/3を1失点で勝利投手 ※史上2人目 800試合登板:1970年10月16日、対ロッテオリオンズ24回戦(阪急西宮球場)、先発登板で3回1失点 ※史上2人目 4000投球回:1971年5月5日、対ロッテオリオンズ4回戦(阪急西宮球場)※史上6人目 250勝:1972年5月20日、対近鉄バファローズ6回戦(中日スタヂアム)、9回完封勝利 ※史上7人目、最多勝利未獲得での達成は史上唯一 リーグ最多投球回無しで通算4208投球回 ※歴代最多 シーズン17完投(1954年)※2リーグ制以降の高卒新人記録 1試合9者連続奪三振(1957年7月23日) ※プロ野球歴代2位記録タイ 3者連続3球三振(1954年7月10日対近鉄戦の6回と、1957年10月18日の対南海戦の3回)日本プロ野球史上初、一人2度も初(達成者は梶本を含め2名)。 オールスターゲーム出場:12回 (1954年、1956年 - 1958年、1960年 - 1963年、1965年、1967年 - 1969年) 33 (1954年 - 1977年) 78 (1978年 - 1985年) 91 (1989年 - 1993年) 80 (1998年 - 1999年) ^ 阪急ブレーブス黄金の歴史 [永久保存版] よみがえる勇者の記憶 1936-1988、ベースボール・マガジン社、2011年、P44-P45 ^ 野村克也『プロ野球 最強のエースは誰か?電子書籍版』彩図社、2014年10月7日、1974頁。ISBN 9784801300231。 ^ 『豪球列伝-プロ野球不滅のヒーローたち』216頁 ^ 野球殿堂2012 The Baseball Hall of Fame 野球体育博物館 (編集)、ベースボールマガジン社、2012年、P188 ^ “楽天松井裕樹が記録した3者連続3球三振を過去に達成しているのは?”. 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NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 三宅大輔 1936 - 1937 村上実 1937 山下実 1938 - 1939 村上実 1939 山下実 1940 井野川利春 1940 - 1942 西村正夫 1943 - 1944, 1946 - 1947 浜崎真二 1947 - 1953 西村正夫 1954 - 1956 藤本定義 1957 - 1959 戸倉勝城 1959 - 1962 西本幸雄 1963 - 1973 上田利治 1974 - 1978 梶本隆夫 1979 - 1980 上田利治 1981 - 1990 土井正三 1991 - 1993 仰木彬 1994 - 2001 石毛宏典 2002 - 2003 レオン・リー 2003 伊原春樹 2004 仰木彬 2005 中村勝広 2006 テリー・コリンズ 2007 - 2008 大石大二郎 2008 - 2009 岡田彰布 2010 - 2012 森脇浩司 2013 - 2015 福良淳一 2016 - 2018 西村徳文 2019 - 2020 中嶋聡 2021 - 2024 岸田護 2025 - 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 表 話 編 歴 金田正一 稲尾和久 小山正明 米田哲也 梶本隆夫 皆川睦雄 村山実 鈴木啓示 堀内恒夫 山田久志 江夏豊 平松政次 東尾修 村田兆治 北別府学 佐々木主浩 高津臣吾 工藤公康 野茂英雄 山本昌広 岩瀬仁紀 黒田博樹 上原浩治 藤川球児 平野佳寿 山内一弘 榎本喜八 野村克也 長嶋茂雄 広瀬叔功 張本勲 王貞治 江藤慎一 土井正博 高木守道 松原誠 柴田勲 大杉勝男 藤田平 衣笠祥雄 福本豊 山崎裕之 山本浩二 有藤通世 若松勉 谷沢健一 加藤秀司 門田博光 大島康徳 新井宏昌 秋山幸二 駒田徳広 立浪和義 鈴木一朗(イチロー) 清原和博 古田敦也 野村謙二郎 石井琢朗 松井秀喜 田中幸雄 前田智徳 金本知憲 松井稼頭央 小笠原道大 稲葉篤紀 宮本慎也 小久保裕紀 アレックス・ラミレス 中村紀洋 谷繁元信 井口資仁 和田一浩 新井貴浩 福留孝介 荒木雅博 青木宣親 阿部慎之助 鳥谷敬 内川聖一 福浦和也 坂本勇人 栗山巧 大島洋平 表 話 編 歴 1950 米川泰夫 1951 阿部八郎 1952 柚木進 1953 米川泰夫 1954 宅和本司 1955 河村久文 1956 梶本隆夫 1957 梶本隆夫 1958 稲尾和久 1959 杉浦忠 1960 杉浦忠 1961 稲尾和久 1962 米田哲也 1963 稲尾和久 1964 尾崎行雄 1965 尾崎行雄 1966 田中勉 1967 鈴木啓示 1968 鈴木啓示 1969 鈴木啓示 1970 鈴木啓示 1971 鈴木啓示 1972 鈴木啓示 1973 成田文男 1974 鈴木啓示 1975 東尾修 1976 村田兆治 1977 村田兆治 1978 鈴木啓示 1979 村田兆治 1980 木田勇 1981 村田兆治 1982 松沼博久 1983 山沖之彦 1984 佐藤義則 1985 佐藤義則 1986 渡辺久信 1987 阿波野秀幸 1988 小川博 1989 阿波野秀幸 1990 野茂英雄 1991 野茂英雄 1992 野茂英雄 1993 野茂英雄 1994 伊良部秀輝 1995 伊良部秀輝 1996 工藤公康 1997 西口文也 1998 西口文也 1999 工藤公康 2000 松坂大輔 2001 松坂大輔 2002 J.パウエル 2003 松坂大輔 2004 新垣渚 2005 松坂大輔 2006 斉藤和巳 2007 ダルビッシュ有 2008 杉内俊哉 2009 杉内俊哉 2010 ダルビッシュ有 2011 ダルビッシュ有 2012 田中将大 2013 金子千尋 2014 則本昂大 2015 則本昂大 2016 則本昂大 2017 則本昂大 2018 則本昂大 2019 千賀滉大 2020 千賀滉大, 山本由伸 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山本由伸 2024 今井達也 表 話 編 歴 投 梶本隆夫 捕 野村克也 一 榎本喜八 二 佐々木信也 三 中西太 遊 豊田泰光 外 山内和弘 / 杉山光平 / 戸倉勝城 表 話 編 歴 1936春夏 宮武三郎 1936秋 北井正雄 1937春 石田光彦 1937秋 石田光彦 1938春 宮武三郎 1938秋 小田野柏 1939 浅野勝三郎 1940 重松通雄 1941 浅野勝三郎 1942 橋本正吾 1943 天保義夫 1944 笠松実 1946 天保義夫 1947 天保義夫 1948 天保義夫 1949 今西錬太郎 1950 天保義夫 1951 天保義夫 1952 天保義夫 1953 柴田英治 1954 梶本隆夫 1955 柴田英治 1956 梶本隆夫 1957 梶本隆夫 1958 梶本隆夫 1959 米田哲也 1960 梶本隆夫 1961 米田哲也 1962 石井茂雄 1963 梶本隆夫 1964 米田哲也 1965 足立光宏 1966 石井茂雄 1967 米田哲也 1968 石井茂雄 1969 米田哲也 1970 米田哲也 1971 米田哲也 1972 足立光宏 1973 足立光宏 1974 竹村一義 1975 山田久志 1976 山田久志 1977 山田久志 1978 山田久志 1979 山田久志 1980 山田久志 1981 山田久志 1982 山田久志 1983 山田久志 1984 山田久志 1985 山田久志 1986 山田久志 1987 佐藤義則 1988 佐藤義則 1989 佐藤義則 1990 星野伸之 1991 佐藤義則 1992 星野伸之 1993 星野伸之 1994 星野伸之 1995 佐藤義則 1996 星野伸之 1997 星野伸之 1998 星野伸之 1999 小林宏 2000 小林宏 2001 金田政彦 2002 E.ヤーナル 2003 吉井理人 2004 具臺晟 2005 川越英隆 2006 川越英隆 2007 川越英隆 2008 金子千尋 2009 小松聖 2010 金子千尋 2011 木佐貫洋 2012 A.フィガロ 2013 金子千尋 2014 金子千尋 2015 B.ディクソン 2016 金子千尋 2017 金子千尋 2018 西勇輝 2019 山岡泰輔 2020 山岡泰輔 2021 山本由伸 2022 山本由伸 2023 山下舜平大 2024 宮城大弥 VIAF 日本の野球選手 オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手 最多奪三振 (NPB) 名球会 オリックス・バファローズ及びその前身球団の監督 日本の野球監督 野球解説者 中日ドラゴンズ関連人物 日本の野球殿堂表彰者 岐阜県出身のスポーツ選手 1935年生 2006年没 外部リンクがリンク切れになっている記事/2023年3月 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子 VIAF識別子が指定されている記事
2024/11/15 03:34更新
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kajimoto takao
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