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有藤通世の情報 (ありとうみちよ)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

有藤通世の情報(ありとうみちよ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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有藤 通世さんについて調べます

■名前・氏名
有藤 通世
(読み:ありとう みちよ)
■職業
野球選手
■有藤通世の誕生日・生年月日
1946年12月17日 (年齢77歳)
戌年(いぬ年)、射手座(いて座)
■出身地・都道府県
高知出身

(昭和21年)1946年生まれの人の年齢早見表

有藤通世と同じ1946年生まれの有名人・芸能人

有藤通世と同じ12月17日生まれの有名人・芸能人

有藤通世と同じ出身地高知県生まれの有名人・芸能人


有藤通世と関係のある人

落合博満: 有藤通世、レオン・リー・レロン・リー兄弟らとクリーンナップを形成し、日本ハムとのプレーオフでは第4戦で本塁打を放った。


森安敏明: 制球力の悪さも特徴で、ビーンボール気味に右打者に襲いかかる荒れ球は多くの対戦打者から「一番怖い投手だったのは間違いない」と評され、有藤通世に至っては「ぶつける時の方が制球が良かった」とまで述べた程であった。


正垣宏倫: 同年の全日本大学野球選手権大会でも、決勝で山下律夫、有藤通世らのいた近大を降し優勝。


中村奨吾: この席上で併せて、背番号を過去に有藤通世や今江敏晃などが着用し、ロッテにおける「特別な背番号」とされている8へ変更することが発表された。


島田伸也: 高知市立高知商業高等学校では、1963年夏の甲子園県予選決勝に進出するが、エース有藤通世を擁する高知高に敗退。


深沢恵雄: 有藤通世監督就任後は構想から外れ、現役続行を希望していたが1988年限りで引退。


福本豊: また福本は、飯塚佳寛や弘田澄男、有藤通世らロッテの俊足の選手もこのために走れなくなり「阪急より大きな損をしたように思う」と記している。


榊親一: 山内一弘・山本一義・稲尾和久・有藤通世・金田正一・八木沢荘六ら6人の監督を支え、その後は平成国際大学のコーチを務めた。


和田康士朗: ロッテOBの野球解説者・有藤通世からは、脚力だけでなくスライディングも非常に速く、通算盗塁数およびシーズン盗塁数の日本記録保持者である福本豊を思い出させると絶賛されている。


落合博満: その翌年は一塁手に転向したが、三塁手であった有藤通世の外野手転向により三塁手に戻り、その後は守備の負担を考慮して再度一塁手に転向した。


福澤洋一: 有藤通世監督に「キャッチャーがいないんだ」と見込まれて、ロッテオリオンズの練習生となり、1988年オフにドラフト外で入団した。


江夏豊: 1980年7月22日のオールスターゲーム第3戦(後楽園球場)では、セ・リーグが2-0と勝っていたが9回裏に1点差まで詰め寄られ、無死満塁のピンチを背負った野村収(大洋ホエールズ)を救援し、レオン・リー、有藤通世(共にロッテオリオンズ)、山内新一(南海ホークス)を3者連続三振に打ち取り、先制打を放った真弓明信、本塁打を放った掛布雅之を抑えてMVPを獲得した。


山下律夫: 大学の2年下には前出の藤原のほか、有藤通世がいた。


安田尚憲: なお、21歳11か月での開幕4番は、1970年の有藤通世(23歳3か月)の記録を上回り球団史上最年少となった。


ジョー=ディマジオ: 5分足らずで有藤通世・山崎裕之らの長所短所を指摘し、金田正一監督を唸らせた。


初芝清: 1989年、有藤通世監督の厳しい指導により、苦手にしていた内角をさばけるようになり、1年目から70試合に出場する。


醍醐猛夫: オリオンズが関西へ遠征したその晩に有藤通世や山崎裕之と麻雀を打ち終えて部屋に戻ると、ルームメイトの榎本が居なかった。


濃人渉: 1969年、近藤貞雄を再び投手コーチに招聘、有藤通世をルーキー年から三塁手のレギュラーに抜擢、「ミサイル打線」復活を目指し、与那嶺を再び打撃コーチとして招き、球団名がロッテに変わった2年目の1970年、投の成田文男、木樽正明、小山正明、打の江藤愼一、アルトマン、榎本喜八、山崎裕之、有藤道世らを率いてパ・リーグ独走優勝。


藤原満: 高校卒業後は1965年に近畿大学へ進学し、後にロッテで活躍した有藤通世と三遊間を組む(当初は有藤を遊撃手に起用していたが、ある試合の満塁のピンチで有藤がトンネルをしてしまったため、藤原と守備位置を交換)。


籠尾良雄: 当時の教え子に片田謙二、横山小次郎、有藤通世、浜村孝、山下司、井本隆がいる。


水谷宏: ドラフト同期には藤原をはじめ星野仙一、田淵幸一、山本浩司、福本豊、有藤通世らがいる。


金田留広: 後半戦では先発割合が増えたものの、終盤で打ち込まれる試合も多く、18勝13敗6Sの成績で終了、同年の新人王は有藤通世に惜敗する。


広瀬宰: その裏に広瀬のソロ本塁打で追い上げたが、4回表さらに2点を追加され阪急ペースの試合になったが、6回裏には有藤通世のソロ本塁打が飛び出し、次打者池辺巌が安打で出塁したがここで雷雨が激しくなってコールドゲームとなり、2-4で首位阪急に敗れた。


福沢洋一: 有藤通世監督に「キャッチャーがいないんだ」と見込まれて、ロッテオリオンズの練習生となり、1988年オフにドラフト外で入団した。


尾崎将司: 同年夏の地方予選では南四国大会準決勝で、有藤通世のいた高知高に延長12回で敗退している。


高沢秀昭: 一方の松永はロッテとの3試合を残して.3234で、この日のダブルヘッダーでは7打数0安打以下ならば松永に逆転されるという状況で、監督の有藤通世からは「残り4試合あるが、この日でうちは終わりのつもりだから自分で首位打者を取れ」と言われてスタメンで出場した。


池田重喜: ロッテ移籍2年目の1972年から右肩痛に悩まされながらも、榎本喜八、有藤通世、落合博満、野村克也、江藤慎一、張本勲といった歴代の主力打者に好まれるほど、打撃練習では抜群の制球力を発揮してきた。


園川一美: だが、この日は既にロッテが消化試合に突入していた事、さらにチームの大ベテラン・有藤通世が現役引退を表明した日とも重なり、新聞での扱いは小さかった。


清水将海: なお、この時点では8番は一時的に「ミスター・ロッテ」(過去の山内和弘や有藤通世、後年の今江敏晃、中村奨吾)としての球団の象徴的な扱いとなっていなかった。


小松健二: 高校同期に光内数喜(芝工大-鐘淵化学)、1期上に有藤通世がいる。


有藤通世の情報まとめ

もしもしロボ

有藤 通世(ありとう みちよ)さんの誕生日は1946年12月17日です。高知出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

監督時代、選手としての特徴などについてまとめました。現在、離婚、母親、テレビ、卒業、引退に関する情報もありますね。去年の情報もありました。有藤通世の現在の年齢は77歳のようです。

有藤通世のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

有藤 通世(ありとう みちよ、1946年12月17日 - )は、高知県高岡郡宇佐町(現:土佐市)出身・千葉県船橋市在住のプロ野球解説者、元選手(内野手、外野手)・監督。元プロゴルファーの有藤実花(長女)、有藤智香(次女)、有藤英世(長男)の父。

1975年シーズン途中から1989年までの登録名は有藤 道世(読み同じ)。現役時代から監督までロッテオリオンズ一筋を貫き、「ミスター・ロッテ」と呼ばれる。パ・リーグ初の三塁手部門のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞している。

生まれは名古屋市だったが、2歳の時に両親が離婚し、相撲の盛んな高知に移る。母親に育てられ、元々は亡き祖父の影響で相撲少年だった。中学入学前、後に土佐高校を甲子園に導いた籠尾良雄から野球の手ほどきを受け、野球に出会う。

高知高校では2年生の時に、エースとして1963年県予選決勝で高知商を下し、夏の甲子園に出場。しかし2回戦(初戦)で東奥義塾に延長10回裏逆転サヨナラ負けを喫する。同年秋季四国大会県予選では準決勝に進み土佐高の島村聖(慶大-日本鋼管)と投げ合うが1-2で惜敗。翌1964年夏の予選は光内数喜(芝工大-鐘淵化学)とともに投の二本柱として順調に勝ち進み、南四国大会決勝で徳島商を破り、甲子園に進出する。開幕試合の秋田工戦に四番打者、右翼手として出場するも、秋田工のエース三浦健二から第1打席で顔面に死球を受けて以後の試合を欠場。高知高は光内の好投もあり、決勝で早鞆高を降し優勝する。有藤はチームの全国制覇を、病院のベッドでテレビを通して見る羽目になった。

母子家庭のため卒業後は働くつもりでいたが、周囲の支援もあって特待生で近畿大学に進学。三塁手として、藤原満と三遊間を組む(入学当初は有藤を遊撃手として育成する予定だったが、ある試合の満塁のピンチで有藤遊撃手がトンネルをしてしまったため、三塁手が本職の藤原と守備位置を交換)。関西六大学野球リーグでは1966年春季リーグで、エース山下律夫を擁し近大の初優勝に貢献した。同年の全日本大学野球選手権大会は決勝で日大に敗れ、準優勝にとどまる。在学中に3度優勝し、1968年春季リーグでは首位打者を獲得。リーグ通算78試合出場、274打数84安打、打率.307、8本塁打、36打点。

同期には「法大三羽烏」の異名で呼ばれた田淵幸一・山本浩二・富田勝や明大の星野仙一などがいたため、有藤の知名度は低かった。母はプロ入りに反対したため、社会人野球を経験してからプロ入りでも遅くないと考えたり、落ち着かない日々を送っている時、新聞で当時の近鉄・三原脩監督が「高知の人間は素質はあるんだけど、酒と女で潰れてしまう」とコメントした記事を目にした。確かにそれまでプロ野球で大成した高知県人はいなかったが、同じ四国の香川県出身の「知将」が何を根拠にそんなことを言うのかと「何くそ」と腹を立て、プロに入って力を見せつけてやりたいという気持ちが強くなった。

1968年のドラフト1位で東京オリオンズ(翌1969年からロッテオリオンズ)に入団。山内一弘がつけていた背番号8を受け継ぐ。指名当初は社会人野球に進むかで迷っていたものの、「25歳までにレギュラーを取れなかったら大学職員として戻る」という約束を取り付け、プロ入りを決意した。

1969年の1年目から当時の濃人渉監督に三塁手のレギュラーに抜擢され、パ・リーグ新人歴代最多の111三振を喫する一方、打率.285(リーグ11位)、21本塁打の成績で新人王を獲得する。シーズン111三振は、1999年に福留孝介が121三振を記録するまではプロ野球新人記録でもあった。

翌1970年には全試合出場を果たし、オールスターゲームにも選出される(オールスターには以後13年連続で選出された)。主に5番打者としてリーグ6位となる打率.306を残して25本塁打・80打点・27盗塁も記録。同年のチームのリーグ優勝に貢献した。しかし守備面ではリーグ最多の26失策を記録してしまう。読売ジャイアンツとの日本シリーズでは、5番・1番打者として全5試合に先発出場、しかし21打数4安打1打点と振るわず、1勝4敗で敗退。

1971年には1番・5番・6番打者などで出場するが、2年連続リーグ最多の24失策と守備の課題は解決されなかった。1972年には主に3番打者として自己最多となる29本塁打・31盗塁を残す。守備面でも失策が半減、三塁手としてシーズン147刺殺のパ・リーグ記録を樹立した。

1973年は打率.300(リーグ9位)、20本塁打の成績を残し、1974年は25本塁打・20盗塁の活躍でチームの日本一に貢献。中日ドラゴンズとの日本シリーズではMVPは弘田澄男に譲ったが、21打数9安打2打点2本塁打、打率.429を残して打撃賞と技能賞に輝く。10月10日、八木沢荘六の完全試合を見届ける。

1975年シーズン途中、後期開幕前に登録名を有藤道世に変更。本人は「プロ入りしてから顔にデッドボールを5度食らうなどケガが多く、それである人に勧められて」変更したと話している。

1977年は主に3番打者として活躍し、9月以降は主に1番打者を務めた。同年は自己最高の打率.329で首位打者に輝く。一方で同年のキャンプで左手首の腱鞘炎を発症し、シーズンでもダイビングキャッチをした際に負傷したり死球で肘を痛めたりするなど満身創痍の状態であり、本塁打は16本に終わり、入団以来続けていた連続20本塁打以上の記録が途切れた。

1978年8月31日、今井雄太郎(阪急)の完全試合を見届ける。

1980年は主に5番や6番打者として起用され、打率.309・22本塁打・27盗塁の成績を残す。1981年には通算10度目となるベストナインを授賞した。同年10月19日に監督の山内一弘が1年の契約期間を残して退団、ロッテ本社はフロントを急がせ「10人の候補者リスト」を作り、片っ端から交渉を開始したが野村克也、土橋正幸、豊田泰光と次々に断られ、有藤の監督兼任案も出たが、オーナーの重光武雄が「あと3年、プレーヤーで専任させよう」とストップをかけ、最終的には山本一義が監督に就任した。

1982年、リーグ7位の打率.301を記録するが、翌1983年からは衰えが見られるようになった。1984年に「俺は三塁手失格。監督もやりづらいでしょう。外野に回る」と述べ、落合博満に三塁のポジションを譲り、外野手に転向し、監督の稲尾和久は「エラーもするけど、いいところで打ってくれる。」と有藤を評価した。

1985年7月11日、川崎球場で行われた阪急ブレーブス戦にて、星野伸之から三塁線に二塁打を放ち、パ・リーグの大卒選手では史上初となる通算2000本安打を達成。同年10月14日の西武ライオンズ戦では永射保から代打満塁本塁打を放った。翌1986年に現役引退引退試合は同年10月19日のダブルヘッター2戦目の日本ハムファイターズ戦で4番・三塁手で出場し、1打席目に現役最後となる安打を高田博久から打った。

引退直後の1987年、ロッテの監督に就任。同年に中日ドラゴンズの監督に就任した星野仙一と共にNPB史上初の戦後生まれの監督となった。1度もAクラス入りすることができず、1989年のシーズン終了を以って退任。

監督退任後の1990年よりTBSテレビ(2005年まで)・TBSラジオ、スポーツニッポンの野球評論家を務める(2009年からはTwellVで放映されるロッテ球団制作の中継も兼任)かたわら、海浜幕張駅近くのお好み焼き屋「有賀藤(ありがとう)」のオーナーでもある(「プレナ幕張」1階にある店は、ロッテ球団公式ショップと通路を挟んで向かい合う)。店は長男が切り盛りしている。

2005年5月6日の横浜ベイスターズ対千葉ロッテマリーンズ(横浜スタジアム)の交流戦開幕始球式で、元大洋の平松政次がマウンドに立った。その際、打席に入ったのが有藤であった。平松が投げたボールを有藤が思わず打ち返した(始球式では、普通は空振りストライクにする)その光景に、スタンドの観客は大いに湧いた。

2022年4月3日、佐々木朗希が登板した際に解説者として「次はノーヒットノーラン、完全試合を。」とノーヒットノーランか完全試合を望む発言をする。そして次の登板となった4月10日、佐々木朗希の完全試合を解説者として見届ける。先述の対戦相手、味方としての完全試合を含め、自身三度目の完全試合の目撃となった(なお1969年8月16日、対阪急ブレーブス戦で成田文男が達成した球団初のノーヒットノーランもスタメン出場しており、2022年現在、球団が達成した3度のノーヒットノーランすべてに居合わせている)。

現役時代の背番号8は、自身が監督に就任した1987年に準永久欠番となったが、球団が千葉に移転した1992年以降は準永久欠番ではなくなった(同年に新外国人のマックス・ベナブルがつけている)。2005年から2015年までは同じ三塁手の今江敏晃がつけていた。今江がFA移籍した2016年は空き番となっていたが、2017年からは中村奨吾がつける。

監督時代

現役を引退した1986年オフ、監督を務めていた稲尾和久が解任され、稲尾の後任には現役を引退したばかりの有藤が指名された。就任直後に主砲の落合博満が中日ドラゴンズに移籍、さらに1987年オフにはレロン・リーも退団し、長距離打者を欠いたチームは急速に弱体化(有藤は落合とは確執があったために放出し、代わりに来た上川誠二を使うために二塁手だった西村徳文を三塁手にコンバート、前年からレギュラーとして台頭していた佐藤健一が控えにまわってしまい、共に中距離打者の入団2年目の古川慎一や高沢秀昭を4番打者にせざるを得なくなった)。落合の著書によると「(有藤は)監督を引き受ける条件の一つに私(落合)をトレードで出すのが条件」と記している。リーの妻である美樹リーの著書によると「リーを使わない」「仲の悪い落合の放出」の2つを監督就任の条件に挙げたという。また有藤は「落合は確かに良く打つが、走れない、守れないではチームプレーが成り立たない。彼がいなくなって、ウチのピッチャーは喜んでいる」と述べている。就任当初は同学年で中日監督となった星野仙一同様に厳しく選手に接し、試合でも抗議等で度々グランドに飛び出して闘争心を露わにしていた。コーチ陣には高校及びオリオンズの先輩となる土居章助や球界を離れていた同郷の浜村孝を据えていた。在任中の成績は5位→6位→6位と低迷、それまで最下位経験がほとんどなかった(フルシーズンでは1983年のみ)ロッテにとって2年連続最下位は球団史上初の屈辱となり、3年で退任することとなった。

1987年は落合が抜けた穴が大きく、シーズンを通じて4番打者を固定できなかった。当初期待されていた古川は打率が振るわず、打線は西村の2年連続盗塁王くらいしか明るい話題がなかった。投手陣は中日から移籍してきた牛島和彦が24セーブを挙げ最優秀救援投手のタイトルを獲得し、先発陣も荘勝雄・園川一美・村田兆治が奮闘したが、同年は5位に終わった。チーム盗塁数こそリーグトップの152個を記録したが、完封負けは17度、本塁打は前年の171本からリーグ最少の104本、チームトップの本塁打数も古川のわずか12本と終始貧打に悩まされ続けた。

1988年は貧打解消のため、メジャーで首位打者4度の実績を持つビル・マドロックを獲得。チームは序盤こそ好調で5月には一時期は2位にも立ったが、後半戦からは連敗を重ねていき、最終的に最下位にまで転落した。期待されていたマドロックは37歳とピークを過ぎていたこともあり、期待されていたほどの成績は残せなかった。一方で西村が55盗塁で3年連続盗塁王を獲得し、高沢秀昭も打率.327で首位打者を獲得している(ただし高沢に首位打者を獲得させるため、阪急の松永浩美に対して11打席連続で四球を与えている)。投手陣も荘・小川博・園川・村田の先発4名が2桁勝利を挙げ、牛島が最多セーブを記録し小川もリーグ最多奪三振を記録(当時連盟表彰なし)したが、園川はリーグワーストの15敗、荘もワースト2位の14敗、牛島もタイトルは取ったが1勝6敗防御率4点台とリリーフ陣が総崩れで投手の駒不足に泣かされた。

1989年は「ランボー」の愛称で親しまれたマイク・ディアズを獲得する。ディアズはシーズンでも打率.301・39本塁打・105打点という成績を残し、西村も42盗塁で4年連続盗塁王を獲得した。投手は先発に転向した牛島が12勝を挙げ、村田は防御率2.50で最優秀防御率を獲得。しかし他の投手陣が軒並み不振に陥り、同年は勝率3割台(.393)という屈辱で2年連続で最下位となった。この結果を受けて有藤は監督を辞任し、後任には金田正一が就任した。後年、有藤はこの監督時代について「本当は1年目に辞めたかった、負けてばかりで悔しい、選手からいきなり監督はやるべきではない」と回想している。

選手としての特徴

トリプルスリーが狙える程の走攻守三拍子が揃った選手として活躍し、ダイナミックなプレーでファンを沸かせた。同じ三塁手だったが、あまり体格には恵まれていなかった阪神タイガースの掛布雅之は、26歳頃のインタビューで憧れる選手がいるか聞かれた際、「僕は有藤さんが好き。あの人みたいに打ちたい、守りたいのが理想なんだけど、あの人は身体が大きい。だからね……」と残念そうに語っている。

キャンプで相部屋になった西村徳文は、有藤が毎日その日学んだこと感じたことをノートに書いているのを見てプロ意識の高さに感銘を受けたという。

ニックネームのミスターロッテは、金田正一監督が1973年春季キャンプで命名して定着した。

2023年現在、ロッテ球団最多本塁打は有藤の348本である。

2024/06/15 00:57更新

aritou michiyo


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