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川藤幸三の情報 (かわとうこうぞう)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

川藤幸三の情報(かわとうこうぞう) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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川藤 幸三さんについて調べます

■名前・氏名
川藤 幸三
(読み:かわとう こうぞう)
■職業
野球選手
■川藤幸三の誕生日・生年月日
1949年7月5日 (年齢74歳)
丑年(うし年)、蟹座(かに座)
■出身地・都道府県
福井出身

(昭和24年)1949年生まれの人の年齢早見表

川藤幸三と同じ1949年生まれの有名人・芸能人

川藤幸三と同じ7月5日生まれの有名人・芸能人

川藤幸三と同じ出身地福井県生まれの有名人・芸能人


川藤幸三と関係のある人

森若佐紀子: 2005年12月には、『ゲツキン!』の企画で大平サブローや川藤幸三らと共にホノルルマラソンに出場、見事完走した。


五木ひろし: 元・阪神の川藤幸三は美浜駅を挟んで同じ町内の出身。


森中慎也: また、『ズームイン!!朝!』で東京のメインキャスター代理として出演した際には、「プロ野球イレコミ情報」のコーナーの際に阪神タイガースの半被を着用していたので、解説者の川藤幸三から「北海道支部長」と言われていたこともある。


山尾孝雄: 日本テレビ系列全国ネットの中継は村山実・川藤幸三が担当)。


五木ひろし: 川藤幸三 - 美浜町・美浜駅付近で少年時代を共にしていた


堤真一: 『得ダネを追え! シニアはじめてスマホ割』篇(2015年)- 川藤幸三、高畑充希と共演


後藤次男: 同年のシーズン後半には掛布を4番に我慢強く起用したほか、川藤幸三が代打で生き残るきっかけを作った。


遥洋子: 1986年(昭和61年)には、テレビ番組『週刊トラトラタイガース』のキャスターとなり、その後14年以上に亘って川藤幸三と共演した。


宮川孝雄: ^ 週刊野球太郎【プロ野球必殺技列伝】川藤幸三、高井保弘、宮川孝雄。


鈴木尚広: 19年目でのオールスター初出場は1986年の川藤幸三と並ぶ最遅記録。


池之上格: ^ この相手投手は、川藤幸三や当時池之上の同僚であった堀場英孝からも連続三振を奪い、最優秀選手に選ばれている。


山口良治: 阪神タイガースOBの川藤幸三は高校の後輩であり親交が有り親友である。


遠井吾郎: 大のビール党で、後輩の田淵と川藤幸三もよく連れられた。


桑野議: 同期には後に同じ代打の切り札で活躍する川藤幸三がいた。


中元綾子: 阪神タイガース応援番組(『週刊トラトラタイガース』)に中元が出演していた関係で、阪神の安芸キャンプを川藤幸三・松村邦洋・森たけしらと取材していて、安芸の飲食店に夕食を出演者・スタッフ全員で食べに行った際に、松村が食事を食べ過ぎてしまったために腹の調子を崩してトイレに入ろうとしたところ、その店はトイレと手洗い場の距離が近い造りになっていて中元がたまたま手洗い場に居たために、女性に排泄音を聞かれたくなかった松村は「中元さん、俺今お腹の調子が悪くて、排泄音が聞こえても嫌なんでトイレから離れてもらえますか?」と中元にお願いしたところ、「もう〜松村さん、私は音が聞こえたからって全然気にしませんよ〜」と答えたので松村がそのままトイレに入って大の方をしたら、排泄音が聞こえた中元が「ギャーッ!気持ち悪〜っ!」と大声で叫んで店から逃げ出してしまったという。


原口あきまさ: 川藤幸三


奥田瑛二: 愛知県で生まれ育ち、東邦高校出身であることから中日ドラゴンズのファンに思われがちだが、実のところ阪神タイガースの大ファンであり、オールスターのテレビ中継に同級生でもある川藤幸三と一緒にゲストとして出演したことがある。


藤村富美男: 同年には甲子園を訪問した際に川藤幸三に対し、「テレビで見たが、お前ベンチで偉そうにしているな。


やしきたかじん: 2003年、「やっぱ好きやねん」がバックに流れ川藤幸三がCM出演した『大阪ソウルバラード』(全15曲のうち5曲がたかじんの歌が収録されている「やっぱ好きやねん」「生まれる前から好きやった」「なめとんか」「大阪恋物語」「あんた」)が阪神タイガースの18年ぶりの優勝に猛進していることも相まって15万枚の売り上げを記録した。


那須翔: 阪神ファンで特に川藤幸三のファンだった。


権藤正利: 趣味は将棋であり、阪神に在籍していた時は川藤幸三とよく指していた(川藤に将棋を教えたのも権藤)。


小林繁: 引退の真の理由が右手の血行障害であったことを、小林はチームメイトの川藤幸三にだけ打ち明けていた。


乗替寿好: 2年生の時には、1年上のエース川藤幸三を擁し、一塁手、控え投手として1967年春の選抜に出場。


松橋慶季: 1986年のオールスターゲーム第2戦(7月20日に大阪スタヂアムで開催))で阪神の川藤幸三がレフトオーバーの打球に鈍足を飛ばすもあえなくタッチアウトとなった場面で、二塁塁審として、笑みを浮かべながらアウトのコールをしていた。


重松収: 川藤幸三


吉田義男: しかし、なかなか「優勝」の2文字を口にしないことに川藤幸三が苦言を呈し、選手に対しては8月下旬になってようやく「優勝しよう」と語ったという。


中川貴志: 川藤幸三の物まねが得意で、ピンとして「中川春団治」、「代打屋中川」としてうめだ花月に出演している。


和由布子: 上原げんと - 遠藤実 - 長沢純 - 野口修 - 山口洋子 - 平尾昌晃 - 猪俣公章 - 吉岡治 - 徳間康快 - 和由布子 - 川藤幸三 - 川藤龍之輔


藤村隆男: 熱意と愛情あふれる指導で、広島では安仁屋宗八・外木場義郎、阪神では川藤幸三らを育てた。


横田慎太郎: 2020年の8月下旬からは、阪神OB会長(元・外野手)の川藤幸三がYouTube上に開設している「川藤部屋」というチャンネルへ「プロデューサー」という肩書で参画するとともに、単独で(または川藤やゲストと共に)登場する動画を定期的に配信している。


川藤幸三の情報まとめ

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川藤 幸三(かわとう こうぞう)さんの誕生日は1949年7月5日です。福井出身の野球選手のようです。

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人物、詳細情報などについてまとめました。母親、引退、テレビ、現在、卒業に関する情報もありますね。川藤幸三の現在の年齢は74歳のようです。

川藤幸三のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

川藤部屋 川藤幸三&横田慎太郎 kawato kouzo & yokota shintaro

川藤 幸三(かわとう こうぞう、1949年7月5日 - )は、福井県三方郡美浜町出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者・評論家・タレント・YouTuber。本名:開田 幸三(かいだ こうぞう、旧姓:川藤→武田)。通称「浪速の春団治」、「野次将軍」。あるいは「川さん」、「川」とも。

所属事務所は有限会社ダッシュ・フォーで、田辺エージェンシーのグループ会社・ぐあんばーると業務提携している。

元プロ野球投手の川藤龍之輔は実兄。

地元の名士の家に生まれ、少年時代はやんちゃであったが、佛國寺の甚玄和尚に諭されて、野球に取り組んだ。本格的に野球を始めたきっかけは、同郷で当時日体大生にしてラグビー日本代表選手であった山口良治である。中学の野球部出身であった山口が帰省の折り、母校の野球部に人手が足りないことを知り、練習環境を鑑みて、当時小学6年生であった川藤を無理やり引き入れたという。

1965年に福井県立若狭高等学校へ進学し、エースとして2年次の1966年に秋季北信越大会決勝へ進出。吉岡悟を擁する富山商業高校に敗退するが準優勝を果たし、3年次の1967年には甲子園に春夏連続出場。春の選抜では遊撃手を兼ねて出場するが、1回戦で報徳学園高校に大敗を喫する。その試合でピッチャーライナーを受けて三角筋断裂の重傷を負ったことから、以後は1年下の乗替寿好に投手を任せる。4番・左翼手として出場した夏の選手権は、1回戦で武相高校の島野修に完封負けを喫した。同高OBで東京スタジアムの藤田副社長が戸沢一隆球団社長に紹介したこともあり、同年のドラフト9位で阪神タイガースに内野手として入団。入団当初の背番号は45で、同期入団の選手には、自身と同じく現役時代の後半に代打で活躍した桑野議などがいる。

1968年は甲子園の遊撃位置から銀傘にボールを放り上げて吉田義男を驚かせ、10月9日の対中日ドラゴンズ戦(阪神甲子園球場)に9番・遊撃手として初出場し、翌10日には8回裏に松本忍からソロ本塁打を放って初安打・初本塁打・初打点を記録。高校から阪神へ直接入団した後に、スタメンでの一軍公式戦デビューを入団1年目で果たした野手は、この年の川藤から2020年の井上広大まで52年間出なかった。結局、通算3試合の出場ながら、いずれも遊撃手としてスタメンに起用された。

1969年から、後藤次男監督に俊足と強肩を買われて外野手に転向。この年はシーズン終盤の4試合に中堅手としてスタメンに起用され、ウエスタン・リーグではリーグ最多の30盗塁をマーク。5月22日の対広島東洋カープ戦では、1回に出塁すると、1イニング3盗塁という快挙を達成した。

1973年には一軍に定着し、主に右翼手として33試合に先発出場。

1974年は左翼手に回り、打率は低迷するもののチャンスメーカーとして自己最高の58試合に先発を果たし、リーグ最多の20犠打をマーク。

1975年のキャンプでアキレス腱を断裂する大怪我を負ってしまう。完全断裂ではなかったため、むしろ治るまで時間がかかり、同年は僅か8試合の出場に終わった。

1976年には母親の実家に養子に入ったことから戸籍上の苗字を「武田」に改める、同年のシーズン終盤には外野手として本格的な復帰を果たす。

1977年には主に中堅手、右翼手として22試合に先発出場し、内野手もこなす回復を見せた。

1978年も11試合に先発するなど準レギュラーとして起用されるが、足に負担が掛からない代打に段々と自分の役割を絞る。同年は初の.327、1979年は.304、1980年には自己最高の.362、1981年は.305と4年連続打率3割の好成績を残し、長く右の代打の切り札として活躍。左キラーでもあり、特に読売ジャイアンツのリリーフエースであった角盈男との対決は通算打率.370で1本塁打、1982年にはサヨナラ打も浴びせている。通算代打サヨナラ打は6本で、1970年代には巨人の新浦壽夫、1980年代には広島の大野豊・川口和久、角、大洋ホエールズの斉藤明夫・遠藤一彦ら、全て各チームのエースあるいはリリーフエースからのものであった。大洋の2人を除く4人は左腕で、左キラーぶりでもあった。球場でモーニングコーヒーを飲むほどの早出もさることながら、最後の一振りを心がけ、フリーバッティングの最後を必ずスタンドに放り込むことで相手に「振れている」印象を刷り込んでいた。また、代打出場時はなるべく初球をスイングすることも信条であった。

1983年には当時の一軍最低保障年俸で阪神と再契約したが、この話に感動した阪神ファンの上岡龍太郎、2代目桂春蝶、中村鋭一らが「川藤の給料はワシらで出そう!」とカンパで集めた金銭をシーズンオフに「これを給料の足しにしてほしい」と持参したところ、川藤は「上岡さんたちの気持ちはありがたいけど、そんなことは出来ない。このお金は自分のためではなく、ファンのために使わせていただきます」と言って、甲子園球場の年間予約席を購入した。川藤はこの席に毎試合、身体障害者を招待し、席はファンから「川藤ボックス」と呼ばれるようになった。引退勧告を受けてなお、勝負強さは健在どころか、むしろ磨きがかかったとも言え、1983年の成績は34試合出場・打率.241・1本塁打・5打点であった。

1984年には主に代打として62試合出場、13安打ながら打率.241、2本塁打、自己最多の20打点をマーク。前年を上回る成績を残し、年俸も元の金額に戻っている。通算6本目となる代打サヨナラ打を放っているが、これは唯一の代打サヨナラ本塁打でもあった。

1985年は長崎啓二、永尾泰憲らが勝負所で優先的に代打起用され、川藤本人は不振だったものの、持ち前の勝負強さをここぞという場面で発揮しセ・リーグ優勝に貢献。チーム日本一となった西武ライオンズとの日本シリーズでは出番がなかったが、首脳陣と選手とのパイプ役として欠かせない存在だった。特にランディ・バースに対しては、将棋を教えながらほとんど日本語だらけの英語でコミュニケーションを取り、決してチームから孤立させなかった。川藤自身も入団18年目で初めて優勝を経験する。1973年に阪神がマジック1から優勝を逸した時の現役で、1985年の優勝時にも現役として吉田義男監督を胴上げした唯一の選手であった。川藤は、2015年の書籍に掲載されたインタビューで1973年の「V逸」について「優勝のチャンスなんてそうはない。85年の優勝までそこから12年や。その間に退団した江夏さんもブッちゃんも、引退した藤田平さんも結局タテジマで優勝を味わえんかった。あと一つ勝っていれば…。歴史が変わったと思うと今でも悔しい。」と述べている。この年、甲子園球場を訪れた藤村富美男から「テレビで見たが、お前ベンチで偉そうにしているな。それでいい。タイガースの歴史を作ってきたのは大学出のスターじゃない。お前ら補欠の人間だ。だからそのまま偉そうにしておけ」と激励を受けた。以来、その言葉を忠実に守っているという。

1986年は好調であり、7月11日時点で22打数9安打(打率.409)、4本塁打、11打点という成績もあって、同日、現役19年目にしてオールスターゲームに、全セ吉田監督の監督推薦により初出場が決まった。大阪スタヂアムでの第2戦では全パの小野和義から左中間真っ二つの見事な長打性の安打を放った。全セの王貞治コーチの指示で二塁を狙ったが、王の予想していた以上に鈍足だったため、秋山幸二 - 石毛宏典 - 大石大二郎の見事な中継に阻まれ二塁で悠々アウト、選手・ファンらの爆笑を誘った。また、アウトをコールした二塁塁審松橋慶季でさえも爆笑していた。球宴初安打の記念ボールは直後に大石から川藤に贈られ、笑顔で受け取っている。川藤いわく「バットにボールが当たって、やれ仕事が終わったと思ったら、一塁で王さんがグルグル腕を回してる。これはあかんと思った」。この試合のテレビ中継で、ベンチレポートを務めていた元チームメイトの小林繁は、インタビューブースに現れた川藤に対し「先ほど見事な“二塁打”を放った川藤選手です!」と呼び掛け、現場スタッフや視聴者を爆笑させた。川藤は「じゃかましいわい!!」と突っ込みながらも、ひたすらに照れ笑いするしかなかった。10月14日の対大洋ホエールズ戦(阪神甲子園球場)が引退試合となったが、1984年から代打専門であったためか、最終打席もやはり代打での出場だった。バースが川藤の引退試合に際し、一塁守備を譲ると言った逸話がある(当時の実況でそのことをアナウンサーが口にしている)。その男臭い風貌と、常に全力を信条としたプレースタイルで、特に男性ファンが多かったとされる。なおこの年は引退年でありながら自己最多の5本塁打を放っていた。

通算記録に特筆すべきものはないが、一度もレギュラーに定着することなく主力に迫る人気を誇ったという点では、他球団も含め例が少ない。

通算代打成績は318打数、84安打、11本塁打、58打点、打率.264。1984年から引退するまでの3年間は代打一筋の野球人生を過ごしてきたため、この3年間の守備記録はない。しかし、試合前の守備練習では自費で購入したミットを手に一塁手を担い、時には内野手からの送球を後ろに逸らすなどしてチームのムード作りに努めていた。また、プロ入り当初は内野手だった経験から、一軍でも何度か遊撃手、二塁手として起用されたことがある。

引退後は日本テレビ・読売テレビ「○曜ナイター」・MBSラジオ「ダイナミックナイター」解説者、サンケイスポーツ評論家(1987年 - 1989年)やタレントを務めた。1987年には大晦日に放送された『ビートたけしのスポーツ大将』(テレビ朝日)のスピンオフ特番『元祖ビートたけしのマラソン野球』に出場し、草野球の投手相手に三振している。

1990年に一軍外野守備コーチとして阪神に復帰するが、代打専門のイメージが強いため、外野守備コーチの役割に対しては疑問の声が一部で上がった。同年シーズン途中にラリー・パリッシュが退団する際、「来年からはこれを使えや」と愛用のノックバットを餞別に手渡されると、パリッシュと固い握手を交わした。

1991年には一軍総合コーチに昇格するが、同年の総合コーチについてもチーフコーチとして河野旭輝がいたために違和感を持たれた。しかし、川藤はむしろ肩書にとらわれることなく、現役時代同様のムードメーカーとして中村勝広監督の下で後進の育成とベンチの盛り上げに励んだ。メガホンを片手にベンチから率先して声を出し、選手にもそれを強要していたほか、ノックアウトされて落ち込んでいる投手にさえも声を出すよう促していた。選手の指導方針について中村と対立し、このシーズン限りで辞任。この時に川藤は「中村は血も涙もない冷酷非情な男や。俺は犠牲者やで」と言い放ったが、中村とは後に和解している。

阪神コーチ辞任後は日本テレビ・読売テレビの解説者とタレントとして復帰し、ゲスト解説として日本テレビ製作の巨人×阪神戦も担当。野球の活動としてはサントリー「モルツ」のCMに出演した縁で、大沢啓二率いるモルツ球団に参加。毎年一度組まれる球団の試合に代打として登場している際、水島新司原作の野球漫画『あぶさん』の景浦安武が得意とする「酒飛沫」よろしく、モルツを口に含んでバットに吹き付ける登場の仕方で場内を沸かせている。2001年からはプロ野球マスターズリーグ・大阪ロマンズにも参加しているほか、2003年から2007年までデイリースポーツ評論家も兼任。

2003年に「武田」姓から義父(妻の父)の姓である「開田」姓を名のり、2005年には妻の実家である兵庫県丹波市の建設会社の社長に就任(現在「川藤」姓は評論活動やタレント活動上の通称、いわゆる芸名として用いられている)。

2009年より、マルシェグループ・大衆居酒屋酔虎伝の応援団長や京都府京都市内を中心に展開する『らーめん川藤屋』のイメージキャラクターとなっている。

2010年11月27日、田淵幸一の後任として第7代阪神OB会長に就任した。

2011年9月17日にはTUBEが当時恒例としていた甲子園球場でのライブにゲスト参加し、球団歌「六甲おろし」を熱唱した。2013年5月1日から5月31日まで、スポーツニッポン紙上で「我が道・川藤幸三」を連載。

2020年8月下旬からは、元阪神の横田慎太郎がプロデュースするYouTubeチャンネル「川藤部屋」が開設され、横田と共にYouTuber活動を行っている。

人物

現役時代

試合中はベンチ二列目の真ん中にどっかりと座って、帽子を目深に被って一応グラウンド方向を見ていたが、目をつぶっていた。隣の関係者が横腹に肘鉄を入れると「えっ!何かありましたあ?」と惚け、時計にチラッと目をやって「まだ早いやないですか」と再び目をつぶりだした。それでも試合の途中で、監督が選手の交代を告げるものなら、わざと監督に聞こえるような大声で「何で代わるんやあ」と代えられた選手に檄を飛ばした。それでもゲーム展開を見ながら、自分の出番が見えてくると、ベンチ裏の鏡の前で必死の形相でバットを振っていた。たっぷり汗をかき、いつ出番が来てもいいように体を動かすなど、用意は怠らなかった。

ビジターの試合後に帰宿する際、負け試合の時のバスの中は静まりかえるが、暗いムードの時に川藤の出番がやってきた。チームのマネジャーが翌日の予定を車内放送し、食事、ミーティング、球場への出発時間等を説明するが、選手の返事で伝達は終わったかと思うと、2~3分後に川藤が「すんまへん。明日の予定をもう一度お願いします」とその予定を必ず聞き直した。この時点でバスの中のムードが一変し、マネジャーからは「何聞いとんのや―。今、言ったばかりやないか」とお叱りを受けるが、川藤は「ちょっとよそ事を考えていましたんで」とか「この頭、どうしようもないんですわ」など、その言い訳がまた面白く、笑いが起きた。

1985年のリーグ優勝を決めた試合ではベンチを飛び出して一番早くマウンドにかけ寄ったが、後に川藤は「バッターが打った瞬間、飛び出していましたから」と、試合が終了する前にスタートしていたことを明かしている。

プライベート

一人称は「ワシ」。

若手時代は、酒豪であった遠井吾郎の「愛弟子」として、日々酒を飲むのに付き合っていたという。川藤は後に「野球も人生もワシの師匠や」と述べており、「飲んだら次の日は打てよ」が遠井の口癖であった。「明日打つのか?」と問われ「打ちます」と答えると「じゃあ、行こう」となる一方、「打てるかどうか分かりません」と答えると「帰れ」であり、川藤は「明日への酒だった」と振り返っている。

    遠井と飲んだ際は「あと5分」が1時間に、「もう1軒」が続いて朝になるなど、門限に関係無く飲み続けることは日常茶飯事だった。遠井は店の窓から朝日が差し込んでくる時間になっても、表情を変えず淡々と飲み続けていたという。眠たくなった川藤が遠井に「もうそろそろ帰りましょう」と告げると、「分かった。あと5分だけ付き合え」と返されたものの、一向に帰る気配を見せなかった。その後も1時間は飲み、「カワ、あと1軒だけ行こう」と言われた際も1軒で終わることは当然なく、何軒も飲み屋をハシゴすることが頻繁にあった。電車で通勤のサラリーマンに交じってホテルに帰る際、川藤は「一軍の選手は毎日こんな飲み方しているのか。これはえらい世界に入ってしもうたな」と感じたという。

    辛子明太子(からしめんたいこ)を「幸子明太子(さちこめんたいこ)」、カミュ(CAMUS)のエックスオー(XO)を「カマスのペケマル」と呼んだことがある。

    現役時代から、遠阪トンネル付近でスポーツ用品店「KAWATO TIGER SPORTS SHOP」を経営している。

    45歳で双子の娘を授かり、その娘2人は2013年に大阪桐蔭高等学校の卒業式で総代を務めて答辞を述べている。

    阪神OB会長として

    2017年の阪神の新人合同自主トレをOB会長として視察した際、大山悠輔、長坂拳弥、糸原健斗に「酒を飲め!」「人のいうことなんか(いちいち)聞かなくてもええ。好きにやったらええんや。練習もいいけど、酒を飲めよ。大山は酒は飲めるのか?」「長坂は一升飲めるんか?」と川藤節を炸裂させた。大山は「色々な考え方があると思いますし、自分に生かせるものがあれば取り入れたい」と、長坂は「プライベートでもコミュニケーションをとっていきたい。性格を知ることで、かける言葉が変わることもある」と、それぞれ川藤の言葉から真意を汲み取ろうとしていた。

    詳細情報

    年度別打撃成績

    年度 球団 試合 打席 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 塁打 打点 盗塁 盗塁死 犠打 犠飛 四球 敬遠 死球 三振 併殺打 打率 出塁率 長打率 OPS
    1968 阪神 3 11 11 1 1 0 0 1 4 1 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .091 .091 .364 .455
    1969 14 24 24 5 6 0 1 0 8 0 1 1 0 0 0 0 0 6 0 .250 .250 .333 .583
    1970 7 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
    1971 22 15 15 5 3 0 0 0 3 0 3 0 0 0 0 0 0 5 0 .200 .200 .200 .400
    1973 77 164 151 14 32 3 2 0 39 7 9 2 5 1 6 0 1 20 5 .212 .245 .258 .504
    1974 106 240 202 20 40 3 0 1 46 8 9 7 20 1 14 0 3 36 6 .198 .259 .228 .487
    1975 8 7 7 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .143 .143 .143 .286
    1976 20 16 15 5 2 0 0 0 2 0 0 1 0 0 1 0 0 3 1 .133 .188 .133 .321
    1977 82 89 80 14 17 1 0 2 24 7 4 0 1 0 6 0 2 7 0 .213 .284 .300 .584
    1978 42 66 55 6 18 2 0 2 26 8 0 2 2 1 7 0 1 8 1 .327 .406 .473 .879
    1979 61 24 23 3 7 2 0 0 9 6 1 0 0 0 1 0 0 5 0 .304 .333 .391 .725
    1980 53 49 47 9 17 1 1 0 20 3 2 5 1 0 0 0 1 4 2 .362 .375 .426 .801
    1981 52 65 59 3 18 5 0 1 26 13 0 1 1 2 2 0 1 9 0 .305 .328 .441 .769
    1982 48 50 46 3 11 3 0 1 17 10 0 0 0 1 1 0 2 8 2 .239 .280 .370 .650
    1983 34 32 29 2 7 1 0 1 11 5 0 0 0 0 3 0 0 7 2 .241 .313 .379 .692
    1984 62 62 54 3 13 4 0 2 23 20 0 0 0 0 6 0 2 18 2 .241 .339 .426 .765
    1985 31 31 28 2 5 1 0 0 6 6 0 0 0 0 3 0 0 7 1 .179 .258 .214 .472
    1986 49 49 49 5 13 0 0 5 28 14 0 0 0 0 0 0 0 12 1 .265 .265 .571 .837
    通算:18年 771 994 895 101 211 26 4 16 293 108 29 19 30 6 50 0 13 159 23 .236 .284 .327 .612

    各年度の太字はリーグ最高

    記録

    初出場・初先発出場:1968年10月9日、対中日ドラゴンズ25回戦(阪神甲子園球場)、9番・遊撃手として先発出場

    初安打・初本塁打・初打点:1968年10月10日、対中日ドラゴンズ26回戦(阪神甲子園球場)、8回裏に松本忍からソロ

    オールスターゲーム出場:1回 (1986年)

    背番号

    45 (1968年 - 1969年)

    4 (1970年 - 1986年)

    77 (1990年 - 1991年)

2024/06/13 11:09更新

kawatou kouzou


川藤幸三と同じ誕生日7月5日生まれ、同じ福井出身の人

石川 光陽(いしかわ こうよう)
1904年7月5日生まれの有名人 福井出身

石川 光陽(いしかわ こうよう、本名:石川 武雄。1904年(明治37年)7月5日 - 1989年(平成元年)12月26日)は、日本の警察官・写真家。 警視総監直々の命令を受けて東京大空襲の惨状など…


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川藤幸三と近い名前の人

相川 冬也(あいかわ とうや)
1970年10月2日生まれの有名人 千葉出身

相川 冬也(あいかわ とうや、1970年10月2日 - )は、日本の俳優、声優、ナレーター。千葉県出身。東京俳優生活協同組合所属。旧芸名は熱田 秀男。 東京アナウンス学院卒。俳協演劇研究所出身。 …

河東杏樹(かわとう あんじゅ)
【アイドルカレッジ】
1994年5月20日生まれの有名人 神奈川出身

5月20日生まれwiki情報なし(2024/06/16 09:45時点)

川藤 龍之輔(かわとう りゅうのすけ)
1947年8月17日生まれの有名人 福井出身

川藤 龍之輔(かわとう りゅうのすけ、1947年8月17日 - 2021年3月21日)は、福井県三方郡美浜町出身のプロ野球選手(投手)。 元プロ野球選手の川藤幸三は実弟。 地元の名士の家に生まれ…

阿川 藤太(あがわ とうた)
1958年8月29日生まれの有名人 東京出身

垂水 藤太(たるみ とうた、1958年8月29日 - )は、日本のモデル、元俳優。本名同じ。別名、阿川 藤太(あがわ とうた)。父は俳優の垂水悟郎。

長谷川 藤三郎 〈2代目〉(はせがわ とうさぶろう)
1925年10月22日生まれの有名人 新潟出身

10月22日生まれwiki情報なし(2024/06/03 20:44時点)

北河 トウタ(きたかわ とうた)
9月25日生まれの有名人 出身

北河 トウタ(きたかわ トウタ、9月25日 - )は、日本の漫画家。女性。成人向け漫画で活動することが多いが、一般向けの作品も多数発表している。以前は上杉秀彦、トウタ、北河かりな等の名義で活動していた…

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