権藤正利の情報(ごんどうまさとし) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
権藤 正利さんについて調べます
■名前・氏名 |
権藤正利の情報まとめ
権藤 正利(ごんどう まさとし)さんの誕生日は1934年5月1日です。福岡出身の野球選手のようです。
引退、事件、趣味に関する情報もありますね。今年の情報もありました。権藤正利の現在の年齢は90歳のようです。
権藤正利のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 権藤 正利(ごんどう まさとし、1934年5月1日 - )は、佐賀県鳥栖市出身の元プロ野球選手(投手)。 5歳の時、竹トンボを作っている最中、あやまってナイフで左手人差し指の先端を1cmほど削ぎ落とすという大怪我をするが、このケガにより、後述のドロップが生まれたとも言われている。また少年時代は小児麻痺にかかり、一時は左半身が不随となった。柳川商業高校(現・柳川高等学校)に進学、エースとして活躍する。1952年春季九州大会に県予選を勝ち抜き出場。準々決勝で鹿児島工との延長20回の激戦を制し、準決勝でも長崎商の太田正男に投げ勝つ。決勝は鹿児島商を大差で降し優勝を飾った。しかし同年夏は県予選準々決勝で嘉穂東高に敗退、甲子園には出場できなかった。柳川商業は猛練習で知られ、権藤はブルペンで投球練習を300球、そのあと打撃投手として200-300球と、毎日500球以上を全力投球していたという。 1953年に大洋松竹ロビンスへ入団。ドロップと呼ばれていた大きく縦に落ちるカーブを武器に1年目から活躍し、15勝12敗で新人王を獲得し、いきなりエース格となる。新人の頃は「なんでみんな本気で打たないんだろう?」と思い、さらに高校時代に比べて練習量も少なく練習も楽で楽で仕方なかったという。翌1954年も防御率2.83、奪三振222をマークするが、リーグ最多の143与四球を記録し、11勝20敗と大きく負け越した。 1955年7月9日の対広島戦から連敗が始まる。味方の貧打・拙守に泣かされ続けた上に、持病の胃下垂からくるスタミナ不足もあり全く勝てなくなった。1956年はシーズン通して未勝利の13連敗を喫し、1957年6月2日の対阪神戦まで、プロ野球記録の28連敗を記録する。1957年のシーズンも6月終了時点の成績は11試合登板、0勝7敗、防御率4.80だったが、7月7日の対巨人戦で自ら先制タイムリーを放つなど奮闘し、完封勝利を挙げた。大洋ナインは総出で彼を胴上げして祝福、巨人ファンからも暖かい声援が送られた。この連敗について、「今思えば、楽な練習に甘えていた。体力が落ちたからストレートが走らない。なら変化球で躱そうとも考えたが、ストレートがダメだと変化球も通用しなかった」と権藤自身が回想している。その後は復調し、シーズンでは12勝(17敗)を挙げた。 1958年4月10日の巨人戦では長嶋茂雄にプロ1号本塁打を打たれている。1959年にわずか3試合の登板に終わると、自信喪失から引退を表明するが、監督の三原脩の説得により引退を思いとどまり、リリーフへ転向。翌1960年は12勝5敗、防御率1.42の好成績を挙げ、大洋のリーグ初優勝に貢献した。同年の大毎との日本シリーズでも2試合にリリーフで登板、第3戦では勝利投手となり日本一に力を添えた。 1963年1勝に終わると大洋は権藤を放出することになり、まず権藤の出身地に近い西鉄ライオンズに打診するが、権藤の年俸が西鉄の水準では高すぎるとして断られる。次に、東映フライヤーズの山本久夫との交換を狙うが、先に中日ドラゴンズの寺田陽介とのトレードが先に決まってしまう。やむなく大洋は権藤を自由契約とし、行き先を権藤に任せることにした。そこで権藤は、東映の監督であった水原茂に直接会って身の振り方を相談する。これが事前交渉と判断され、コミッショナーの内村祐之から注意を受けるが、特に騒ぎになることもなく東映入りが決まった。 1964年のみ東映に在籍した後、1965年に阪神タイガースへ移籍する。主にリリーフで起用され、1966年は4勝11敗ながら防御率は2.25でリーグ6位に入り、翌1967年には最優秀防御率(1.40)のタイトルを獲得した。 選手生活の最後に監督となった金田正泰とは確執が生じた。金田は彼の容貌を揶揄して「サルでもタバコを吸うのか?」と発言したりした。1973年11月23日の阪神のファン感謝デー終了後に、権藤は甲子園球場内で金田に謝罪を求めたが「そんなこと言った記憶はないなあ。言ったとしたらどうなんだ」と惚けられ、この言葉を「金田が開き直った」と受け止めた権藤は金田を殴打した。江夏豊は自伝で以下のように証言している。8月31日、江夏のノーヒットノーラン達成後の内輪の祝いの席で権藤から「監督にはもう我慢できない」と打ち明けられ、「後輩として手助けをやります」と返答。ファン感謝デーの際に話し合うと決めた。当日、二人で監督室に赴き、その場にいたコーチやマネージャーに「権藤さんが一対一で監督と話がしたいそうです」と伝えて席を外させた。江夏はドアの外で立ち、ほどなく殴られた金田の悲鳴が響いた。人が来て自分を排除しようとしても動くまいとがんばった。しばらくのち、中を覗いた江夏が「権藤さん、納得した?」と尋ねると権藤は「うん」と答えて二人でその場を立ち去ったという。大立ち回りから一転、事件後には「わたしが悪い。手を出すなんて、年甲斐もないことをしてしまった。どうしてあんなことをしたのだろう」「21年プロ選手生活の最後をこんなことで汚してしまって悔いが残るが、どんな処分でも受ける」と述べた権藤にはリーグから厳重戒告処分、球団から謹慎処分が下されたが、権藤はすでに引退を決意していた。12月12日に球団から自由契約を通告されて退団。実働20年の連盟表彰を捨てての殴打事件であった。 幼少期の大怪我、大病、連敗、監督との確執による不幸な選手生活の最後と、権藤には不運ともいえる出来事が相次いだ。通算防御率は2.775の成績を残していながら117勝154敗と、37も負け越しているところに、彼の苦闘の跡を見ることができる。通算100勝達成時の登板数597と敗戦数145はいずれもNPBの最多記録である。殴打事件によりグラウンドを後にしてからは、郷里に戻って家業の権藤酒店の経営に専念するも1987年、倒産の憂き目に遭っている。 権藤の縦に割れるカーブは大きく曲がる上に切れがあり、バッテリーを組んだ土井淳が「キリキリキリと音を立てるように直角に落ちるんだ。」と証言している。当時は「懸河のドロップ」の名でファンに親しまれており、カーブの名手であった金田正一もバッターボックスに立った際、権藤のカーブには手を焼き、一目置いていた。名投手コーチとして知られる小谷正勝は、星野伸之と並んで「カーブの達人」と評している。右打者の柿本実は、権藤の投じた球を真ん中と思って振ったところ自分の右膝にあたってしまったという。 子どもの頃に誤って左手人差し指を切ってしまったことが、このカーブを生んだともされる。一方で権藤本人は「人差し指が使えていたら、もっと切れのいい、もっと力のあるカーブが投げられたと思うんだけどなあ」と語っている。 人柄の誠実さについては相手チームからも認められていた。1968年9月18日の対巨人戦で、先発ジーン・バッキーの王貞治への危険球紛いの投球により乱闘となり、代わって登板した権藤はいきなりその王の後頭部に死球を与えてしまうが、巨人監督の川上哲治は「権藤がそんなこと(故意の危険球)をするはずがない」と判断し、乱闘に飛び出した選手を自ら呼び戻したほどである。 ご飯に砂糖を大さじ3杯振り掛けて食べるほどの甘党で、枕元にはつねにキャラメルなどの菓子を置き、周囲がみなビールを飲んでいる時でも水に砂糖を山ほど入れて飲んでいた。 現役時代から、「骨皮筋右衛門」と言われていたほど痩身であった(1968年当時も身長176cm、体重60kg)。 趣味は将棋であり、阪神に在籍していた時は川藤幸三とよく指していた(川藤に将棋を教えたのも権藤)。 各年度の太字はリーグ最高 洋松(大洋松竹ロビンス)は、1955年に大洋(大洋ホエールズ)に球団名を変更 最優秀防御率:1回 (1967年) 新人王 (1953年) 初登板:1953年3月29日、対名古屋ドラゴンズ2回戦(中日スタヂアム) 初勝利:1953年4月1日、対広島カープ2回戦(広島県尾道西高等学校グラウンド) 100勝:1969年7月13日、対中日ドラゴンズ12回戦(阪神甲子園球場) 開幕から10連敗:1956年 ※5人目、13連敗はプロ野球記録 オールスターゲーム出場:3回 (1954年、1962年、1968年) 51 (1953年) 18 (1954年 - 1963年) 20 (1964年) 15 (1965年 - 1973年) ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、235ページ ^ 『魔球伝説-プロ野球不滅のヒーローたち』178頁 ^ 年度別成績 1953年 セントラル・リーグ ^ まさか丸2年勝てなくなるとは…権藤正利、28連敗始まる ^ 『日本プロ野球トレード大鑑』91頁 ^ 年度別成績 1967年 セントラル・リーグ ^ 江夏豊は『左腕の誇り』で、1973年5月の広島遠征時に権藤がパチンコで景品のタバコを持ち帰ったときの話としている。 ^ 前代未聞!阪神・金田正泰監督、引退する権藤正利投手に殴られる ^ 江夏豊・波多野勝『左腕の誇り 江夏豊自伝』草思社、2001年、P152 - 154。 ^ 場所については、1973年11月25日のサンケイスポーツと1973年12月2日の読売新聞では「ロッカールーム」と報道されている。 ^ 読売新聞1973年12月13日。処分の日付は11月23日にさかのぼる形でおこなわれた。 ^ 「プロ野球 記録の手帖」(千葉功著、ベースボールマガジン社刊、2001年)、P110。 ^ 『魔球伝説-プロ野球不滅のヒーローたち』177頁 ^ “カーブを投げてみませんか/小谷の指導論”. 日刊スポーツ. 2020年5月16日閲覧。 ^ 「先に手を出したのはアイツだ!」大荒れGT戦第3R ^ 公認野球規則10.16(h)が適用され、公式記録ではバッキーの与死球とされる。ただし1986年に改正され、現行ルールでは権藤の与死球となる ^ よみがえる1958-69年のプロ野球 別冊ベースボール Part11 1968年編(ベースボール・マガジン社、2024年10月刊)52頁 Sports Graphic Number編『魔球伝説-プロ野球不滅のヒーローたち』文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1989年 『日本プロ野球トレード大鑑』ベースボールマガジン社、2001年 佐賀県出身の人物一覧 横浜DeNAベイスターズの選手一覧 北海道日本ハムファイターズの選手一覧 阪神タイガースの選手一覧 迫畑正巳 - 28連敗当時の大洋ホエールズ監督(1955~57年)。権藤を一軍で起用し続けた。 個人年度別成績 権藤正利 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 1950 大島信雄 1951 松田清 1952 梶岡忠義 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 渡辺省三 1957 金田正一 1958 金田正一 1959 村山実 1960 秋山登 1961 権藤博 1962 村山実 1963 柿本実 1964 G.バッキー 1965 金田正一 1966 堀内恒夫 1967 権藤正利 1968 外木場義郎 1969 江夏豊 1970 村山実 1971 藤本和宏 1972 安田猛 1973 安田猛 1974 関本四十四 1975 安仁屋宗八 1976 鈴木孝政 1977 新浦寿夫 1978 新浦寿夫 1979 平松政次 1980 松岡弘 1981 江川卓 1982 斉藤明夫 1983 福間納 1984 小林誠二 1985 小松辰雄 1986 北別府学 1987 桑田真澄 1988 大野豊 1989 斎藤雅樹 1990 斎藤雅樹 1991 佐々岡真司 1992 盛田幸妃 1993 山本昌広 1994 郭源治 1995 T.ブロス 1996 斎藤雅樹 1997 大野豊 1998 野口茂樹 1999 上原浩治 2000 石井一久 2001 野口茂樹 2002 桑田真澄 2003 井川慶 2004 上原浩治 2005 三浦大輔 2006 黒田博樹 2007 高橋尚成 2008 石川雅規 2009 チェン 2010 前田健太 2011 吉見一起 2012 前田健太 2013 前田健太 2014 菅野智之 2015 K.ジョンソン 2016 菅野智之 2017 菅野智之 2018 菅野智之 2019 大野雄大 2020 大野雄大 2021 柳裕也 2022 青柳晃洋 2023 村上頌樹 2024 髙橋宏斗 表 話 編 歴 1950 大島信雄 1951 松田清 1952 佐藤孝夫 1953 権藤正利 1954 広岡達朗 1955 西村一孔 1956 秋山登 1957 藤田元司 1958 長嶋茂雄 1959 桑田武 1960 堀本律雄 1961 権藤博 1962 城之内邦雄 1964 高橋重行 1966 堀内恒夫 1967 武上四郎 1968 高田繁 1969 田淵幸一 1970 谷沢健一 1971 関本四十四 1972 安田猛 1974 藤波行雄 1976 田尾安志 1977 斉藤明雄 1978 角三男 1979 藤沢公也 1980 岡田彰布 1981 原辰徳 1982 津田恒美 1983 槙原寛己 1984 小早川毅彦 1985 川端順 1986 長冨浩志 1987 荒井幸雄 1988 立浪和義 1989 笘篠賢治 1990 与田剛 1991 森田幸一 1992 久慈照嘉 1993 伊藤智仁 1994 藪恵市 1995 山内泰幸 1996 仁志敏久 1997 澤﨑俊和 1998 川上憲伸 1999 上原浩治 2000 金城龍彦 2001 赤星憲広 2002 石川雅規 2003 木佐貫洋 2004 川島亮 2005 青木宣親 2006 梵英心 2007 上園啓史 2008 山口鉄也 2009 松本哲也 2010 長野久義 2011 澤村拓一 2012 野村祐輔 2013 小川泰弘 2014 大瀬良大地 2015 山﨑康晃 2016 髙山俊 2017 京田陽太 2018 東克樹 2019 村上宗隆 2020 森下暢仁 2021 栗林良吏 2022 大勢 2023 村上頌樹 表 話 編 歴 1950 今西錬太郎 1951 高野裕良 1952 高野裕良 1953 江田貢一 1954 権藤正利 1955 権藤正利 1956 江田孝 1957 大石正彦 1958 大石正彦 1959 鈴木隆 1960 幸田優 1961 秋山登 1962 島田源太郎 1963 稲川誠 1964 稲川誠 1965 稲川誠 1966 秋山登 1967 森中千香良 1968 森中千香良 1969 平岡一郎 1970 平松政次 1971 平松政次 1972 山下律夫 1973 平松政次 1974 平松政次 1975 平松政次 1976 平松政次 1977 渡辺秀武 1978 平松政次 1979 平松政次 1980 平松政次 1981 斉藤明雄 1982 斉藤明夫 1983 遠藤一彦 1984 遠藤一彦 1985 遠藤一彦 1986 遠藤一彦 1987 遠藤一彦 1988 欠端光則 1989 斉藤明夫 1990 中山裕章 1991 中山裕章 1992 野村弘樹 1993 有働克也 1994 有働克也 1995 野村弘樹 1996 盛田幸希 1997 盛田幸希 1998 川村丈夫 1999 三浦大輔 2000 川村丈夫 2001 小宮山悟 2002 三浦大輔 2003 吉見祐治 2004 三浦大輔 2005 三浦大輔 2006 三浦大輔 2007 三浦大輔 2008 寺原隼人 2009 三浦大輔 2010 S.ランドルフ 2011 山本省吾 2012 高崎健太郎 2013 藤井秀悟 2014 三嶋一輝 2015 久保康友 2016 井納翔一 2017 石田健大 2018 石田健大 2019 今永昇太 2020 今永昇太 2021 濵口遥大 2022 東克樹 2023 石田健大 2024 東克樹 日本の野球選手 柳川高等学校出身の野球選手 横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手 北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手 阪神タイガース及びその前身球団の選手 最優秀防御率 (NPB) セントラル・リーグ最優秀新人 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 佐賀県出身のスポーツ選手 1934年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/01 21:03更新
|
gondou masatoshi
権藤正利と同じ誕生日5月1日生まれ、同じ福岡出身の人
TOPニュース
権藤正利と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「権藤正利」を素材として二次利用しています。