清原和博の情報(きよはらかずひろ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]


清原 和博さんについて調べます
■名前・氏名 |
清原和博と関係のある人
コウノコウジ: 2011年3月、『ビジネスジャンプ』(集英社)8号より、元プロ野球選手の清原和博をモデルとした監督が甲子園を目指す『だんじり』の連載を開始し、同作の作画を担当する。 小坂勝仁: PL学園高と再び対戦するが、清原和博に2本塁打を喫し、桑田に完封を許す。 広澤克実: 1997年、松井秀喜が中堅手にコンバートされたことから、広澤は左翼から右翼手にコンバートされ、一塁はFA移籍の清原和博が起用された。 トム=デイビー: 広島時代の2003年に、7月23日の巨人戦で当時巨人に在籍していた清原和博に死球を与え、故意に当たったと思っていた清原に睨み付けられ激怒、両軍選手が駆けつけ二人をなだめ事なきを得る。 田尾安志: また、西武時代には監督の森祇晶が、「清原和博を三塁にして、秋山幸二を中堅、田尾に一塁を守らせる」構想を練ったが田尾は反対した。 龍円愛梨: 問題となった雑誌記事の取材記者は、2000年2月に『週刊ポスト』で発覚した、当時読売巨人軍に在籍していた清原和博をめぐる捏造記事や、後の「堀江メール問題」(2006年)における仲介者などで知られる人物だった。 片岡篤史: 11月29日にはPL学園の2年先輩である清原和博とのYouTube動画の撮影を行い、12月上旬から4本の動画を投稿。 髙木大成: 入団時の入団発表および記者会見は単独で行われたが、これは西武ライオンズ球団では清原和博以来となる異例の厚遇であった。 土井正博: 同年から自身と同じ「18歳の四番打者」の境遇にあった清原和博を指導し、在任中は3年連続リーグ優勝と2年連続日本一に貢献。 仰木彬: 清原和博も、「朝飯のお茶代わりにビールを飲むような人」と自身の著書で述べている。 リトル清原: 清原和博のものまねで知られる。 速水隆成: この年オフには清原和博らによる「ワールドトライアウト」に参加。 堀内恒夫: また、ペタジーニと清原和博を構想外とし、清水を一塁手にコンバートするという構想だったが、これに対し契約を1年残した清原が球団に直訴、堀内自身も球団フロントの意を汲み、一転して4番一塁清原で開幕を迎えることとなる。 榎本喜八: 139試合・592打席・490打数・84得点・146安打・24二塁打・7三塁打・87四球・5敬遠・5犠飛・出塁率.414はすべて高卒新人の歴代最高記録であり(三塁打はタイ記録)、打率.298・67打点・232塁打・10死球も1986年の清原和博に破られるまでは歴代最高記録であった。 中村順司: 清原和博、桑田真澄のKKコンビを始め、立浪和義、松井稼頭央、サブロー(大村三郎)、福留孝介らを代表とする、数々の超高校級の選手を育てあげた名将。 新谷博: 同年の契約更改では年俸が1億1,000万円(推定)となり、清原和博と潮崎哲也に並ぶチーム史上最速の6年目で1億円の大台に到達した。 秋山成勲: 試合後はセコンドについた清原和博と抱き合い勝利を喜んだ。 高島毅: 大阪出身で幼い頃からのオリックスファンで、憧れの選手は清原和博であった。 野村貴仁: 初奪三振:同上、6回表に清原和博から マッコイ斉藤: 近年、YouTubeで、貴ちゃんねるず (石橋貴明のチャンネル)・清ちゃんスポーツ(清原和博のチャンネル)の演出も手がけている。 炭谷銀仁朗: 高卒新人がルーキーイヤーに満塁本塁打を記録したのは清原和博以来20年ぶりで、かつ高卒新人捕手としては史上初の快挙であった。 長谷川努: 広島東洋カープ・佐々岡真司のノーヒットノーラン(1999年5月8日、広島対中日)、読売ジャイアンツ・清原和博の通算500号ホームラン達成(2005年4月29日、広島対巨人)、広島東洋カープ・鈴木誠也の史上10人目となる2試合連続サヨナラホームラン(2016年6月18日、広島対オリックス)を実況した(なお、2017年6月14日の広島対オリックス2回戦にて、鈴木誠也の2年連続サヨナラホームランを実況)。 潮崎哲也: 西武時代の清原和博は潮崎のシンカーを「ボールがホームベース直前で視界から消える。 小瀬浩之: かつて共にプレーした清原和博からも「いいバッティングセンスしてる。 加藤正樹: 2学年下に清原和博と桑田真澄がいた。 前田銀治: 幼少期から埼玉西武ライオンズの大ファンであり、憧れの選手は清原和博。 遠山奨志: 清原和博の指名重複に伴う抽選で独占交渉権を逃した末の単独再指名であったが、推定年俸360万円という条件で入団した。 山内嘉弘: 7回まで1点リードでPL打線を無失点に抑えていたが、8回に清原和博(当時1年生)の安打から逆転を許した結果、金星を逃した。 野々垣武志: “清原和博が大切なものを取り戻す日。 西川佳明: 後に、「プロ野球生活で残念だったこと」として、プロ入り一年目の1986年に新人王を獲得できなかったこと(西川も新人としては10勝を挙げ新人王に選ばれてもおかしくない成績を挙げたがこの年新人王を取ったのはPL学園高校の後輩にあたり、高卒新人本塁打記録を作った清原和博だった)、10勝しながらも契約更改で年俸が思ったほど上がらなかったことに抵抗しなかったこと、1988年4月9日の西武との開幕戦で好投しながらも敗戦投手になってしまったことの3つを上げている。 |
清原和博の情報まとめ

清原 和博(きよはら かずひろ)さんの誕生日は1967年8月18日です。大阪出身の野球選手のようです。

家族、母親、父親、卒業、現在、事件、引退、結婚、事故、テレビ、離婚、ドラマ、映画、兄弟に関する情報もありますね。今年の情報もありました。清原和博の現在の年齢は57歳のようです。
清原和博のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 清ちゃんスポーツ 清原 和博(きよはら かずひろ、1967年(昭和42年)8月18日 - )は、大阪府岸和田市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、野球評論家、タレント、YouTuber。愛称は「お祭り男」「(球界の)番長」。 元妻はタレントの亜希。 高校野球の甲子園大会での通算本塁打数の最多記録保持者(13本。春に4本、夏に9本)。 NPBでは1986年から2008年までの23年間にわたり、西武ライオンズ、読売ジャイアンツ、オリックス・バファローズの3球団でプレーした。 NPBにおける打率(.304)、本塁打(31本)、打点(78点)、塁打(236本)の高卒新人記録保持者。サヨナラ安打(20本)、サヨナラ本塁打(12本)、オールスター通算打点(36打点)、オールスターMVP(7回)の最多記録保持者。プロ入りから21年連続2桁本塁打、13年連続20本塁打以上の日本記録保持者。西武ライオンズでの四番出場数1121試合の球団記録保持者。巨人在籍185本塁打の移籍入団選手の最多記録保持者。 2000本安打達成者の中で安打に占める本塁打の割合は、歴代で王貞治に次ぐ2位である。 通算196被死球はNPB記録。 1967年8月18日、大阪府岸和田市で生まれた。3姉弟の長男で、異母姉と弟がいる。生家は電器店(東芝ストアー)を経営していた。 父は阪神ファンで、父以外の家族はみな巨人ファンであり、その影響で自身も巨人ファンとして育った。 1974年、岸和田市立八木南小学校に入学。 1976年5月に少年硬式野球チームの岸和田リトルリーグの部員募集ポスターを見て入団テストを受け、岸和田リトルリーグに入団。なお、小学3年生の時点で、すでに身長が155cmあり、入団テストの遠投では70mを記録したとのこと。毎日祖父から100円を貰い練習をしていた。 1977年、6年生ばかりのレギュラーに混じり唯一4年生でレギュラーを獲得。投手としても才能を発揮した。この頃、岡田圭右との対戦もあった。 1980年、岸和田市立久米田中学校に進学。中学硬式野球チームの岸和田リトルシニアに入団。そこでは中学2年生にしてキャプテンとなり、関西シニアで優勝を果たす。 1983年、高校は30校近いスカウトの中から、大阪府富田林市のPL学園高校(当時は全寮制)を選んだ。なお、清原の母親は奈良県出身であり、清原へ「奈良県の強豪の天理高校から甲子園大会に行ってほしい」と幼少のころから言い聞かせていた。 しかし、PL学園野球部は全員が野球部専用の寮に居住しており、その寮の部屋での集団生活は極めて過酷な環境であった。 それを知らずに入学した清原も日常的に殴られており、一度は涙を流したことがあった。 その極限生活の中、唯一の癒しとなったのが、母が密かに差し入れてくれた森永製菓のキャラメルであった。1年生は菓子類の摂取を禁止されていたが、母は清原に「靴下」を差し入れ、靴下の先へキャラメルを少しずつ隠し入れた。 また、寮で上級生たちが食事をする際、1年生に不手際があると茶碗を顔へ投げつけられた。それを避けるとひどく殴られるため、わざと当たりにいかなければならなかった。清原は「この経験が、のちにプロ野球で死球を避けずに当たりに行く姿勢に繋がったのかもしれない」と語っている。 なお、清原に限らず、1年生もやられっぱなしというわけではなく、3年生に作る食事に何らかの異物を入れるなどで仕返しをしていたという。 ただし、PL学園での練習のレベルや先輩たちの技術は、高校1年生の清原にとって「大したものではなかった」という。 打撃練習では簡単に場外へ飛ばしてしまい、上級生からの嫉妬を受けて殴られることあった。そのため「打ちたくないのに打ってしまう」状態だった。 当時の1年生はバッティング練習の際には飛距離の出ない竹バットを使用していたが、それでもネットを軽々越えて場外に飛ばしていたために、先輩からの殴打が頻発するようになった。 清原は先輩からの殴打を恐れて、打撃練習の際にはなるべく飛距離が出ないようにライト方向への流し打ちを意識するようになった。それが、のちに得意とする流し方向への本塁打を習得したきっかけとなった。甲子園での最初の本塁打もライト方向であった。 清原にとっては身の安全のため、「生きるため」に編み出したものであり、その技法を他人へ言葉にして指導することは難しいという。 ほかに、部員全員で競ってグラウンドを5周走り、首位の1人だけが抜けて延々と繰り返すという過酷な練習もあった。清原は脱水を避けるために和式便所の水をすくって飲み、生き延びたという。4月に入学してから春の大阪府予選大会までの間に体重が10kg落ちた。 また、守備練習では、1年生がエラーをするたびに、上級生である2年生部員が3年生部員に臀部をバットで殴られる制裁を受けた。これも非常に精神的な負担が大きいものであった。さらに練習の後、その2年生は報復として1年生を殴ったという。 清原は早くから1年生では田口権一と共にレギュラー組に選ばれていたが、6月頃に(入学当初から希望していた)投手の練習はもうしなくていいと言われた。その後、同期の桑田真澄の傑出した実力を知った。新入部員が最初に集まった際に、桑田を探しその姿を発見すると「なんだ、こんな小さい奴か」と思ったが、実際の投球を見て驚嘆し、PL学園で投手になることを断念したと、後にYOUTUBEの片岡篤史チャンネルでコメントしている。(2019年12月12日配信) 全国から精鋭の集まるPL学園野球部にあって1年生から4番打者を務め、エース桑田と共に甲子園大会に5季連続出場を果たす。1年生の夏に優勝、2年生の春・夏は共に準優勝、3年生の春はベスト4、3年生の夏は2度目の優勝を経験している。 なお、3年生(1985年)夏の甲子園準々決勝では5回裏に、高知市立高知商業高等学校の中山裕章から「甲子園史上最大」とされる本塁打(飛距離140 m)を打ったが、清原自身は後年にこの本塁打を「(野球人生で)最も記憶に残る一発」「(甲子園で)僕が打った中では一番大きいホームランだと思う」と振り返っている。また決勝戦も制することが出来た。 特に清原と桑田の2人は「KKコンビ」と呼ばれ、後には桑田清原世代と呼ばれるようになる、この世代を代表する人物となった。後にプロ入りした松山秀明、今久留主成幸、内匠政博も、共に活躍した。 個人としても甲子園通算13本塁打を放つなど(第66回大会で香川伸行の記録を更新)、高校通算64本塁打を記録。3年夏の決勝戦でこの試合2本目、当時の1大会での新記録となる5号を放った際、植草貞夫は「甲子園は清原のためにあるのか!」と実況した。 3年生春の対浜松商戦と同年夏の東海大学山形高等学校戦(共に大量得点差のついた最終回)では監督の中村順司に懇願し、投手として登板させてもらった。浜松商戦では八回1死満塁の場面で3番手として登場。試合終了まで打者5人を完璧に封じ、中にはナックルボールも駆使し連続三振を奪ったものもあった。東海大学山形高等学校戦では29-7で大勝した試合でも9回に4番手としてマウンドに上がり、打者4人に対し計17球を投げ、2者連続押し出し四球を与えたが1三振を奪った。なお、初球にカーブを投じたことに対し、同試合の球審を務めていた西大立目永から「真ん中、まっすぐ放りなさい!」と指導されるエピソードが残されている。 豪快な本塁打など、試合での活躍が多くの伝説を生んだが、練習に対する姿勢も真摯だった。3年春のセンバツ準決勝では渡辺智男に3三振と完璧に抑えられ、チームも1-3で敗れ高校3年間で唯一甲子園大会の決勝に進むことができなかった。清原は試合後ベンチで涙を流したが、その日学校に戻ってからの夜、監督の中村が誰もいないはずの室内練習場に明かりがついているのを見つけて中をのぞいてみると、上半身裸の清原が湯気のような汗を流しながら一人で黙々とバッティング練習をしていたというエピソードがある。 清原は子供の頃から熱烈な読売ジャイアンツ(巨人)ファンだった。 プロ野球チームへ入団する際には、自身および父親以外の家族全員がファンである巨人、もしくは、父親がファンである阪神入りを熱望した。両軍がプロ野球ドラフト会議で自身への交渉権を逃した場合には、プロ入りせずに翌年までは日本生命硬式野球部で社会人野球を行うことを表明していた。 しかし、運命の1985年のドラフト会議当日、巨人は清原ではなく、早稲田大学進学を表明していたチームメイトの桑田真澄をドラフト1位で強行指名した。 後に自宅で泣く清原を見て、母親が「あんたが勝手に惚れて、勝手に振られたんやないの。男らしく諦めなさい。男なら見返してやりなさい。泣いてる暇なんてないはずやで!」と言い聞かせ、巨人を見返すために日本生命硬式野球部の内定を断り、プロ入りを決断した。 高校卒業の年、清原はそのまま西武に入団、背番号は3とした。 ルーキーイヤーの1986年、オープン戦ではプロの洗礼を受け本塁打を1本も打てないまま開幕を迎えるが、打撃フォームの修正を重ね、開幕2戦目(4月5日)の南海ホークス戦の6回表から一塁の守備につき途中出場でプロ公式戦デビューすると、第1打席では四球、第2打席には藤本修二からプロ初安打・初打点をも兼ねる初本塁打を打つ。 試合は2対4で敗れたが、個人的な活躍から、なおも大喜びしていたため、「味方の負け試合でそんなに天真爛漫に喜ぶやつがあるか」と怒られたという。打たれた藤本は試合後のインタビューで、「本塁打よりもその前の打席で誘い球にも手を出さず、ベテランのようにきっちり四球を選んだことのほうが驚きだった」という内容の言葉を残している。清原自身はこのことを自著で「自分たちのチーム(南海)が優勢で浮かれていたろうし、なにより自分を新人だと思って手を抜いていただけ。だから単調で読みやすかった」と語っている。 その後は4月8日に8番で初スタメン出場を果たすと、以後はスタメンに定着。徐々に打順を上げ、5月27日には早くも5番を任されることとなった。 前半戦を打率.252、11本塁打で折り返し、オールスターゲームにはファン投票で1位選出された。高卒新人がオールスターに出場したのは1954年の梶本隆夫、1955年の榎本喜八、1970年の太田幸司に次ぐ史上4人目だったが、清原はその中で初めて安打、本塁打を放った選手となった(第1戦で安打、第2戦で本塁打)。第2戦ではMVPを獲得している。 後半戦(オールスター後の59試合)だけで20本塁打を記録し、9月には高卒新人初となる月間MVPを受賞した。同年のチームは調子が上がらず、前半戦は下位を低迷していたものの、清原が調子を上げるのに合わせてチームの成績も上がり、バファローズと激しい優勝争いを演じ、9月6日の近鉄戦では村田辰美から初の満塁本塁打を放った。9月27日の近鉄戦では小野和義から初回に28号を放ち豊田泰光の高卒新人本塁打記録を33年ぶりに更新すると、8回にも小野から29号を放ち、長嶋茂雄のルーキーシーズンの記録に並んだ。10月7日のロッテ戦で初の4番に抜擢され、その試合で1点ビハインドの6回、田子譲治から高卒新人史上最多の31本目の本塁打を放って1959年の桑田武に並ぶ新人本塁打記録の最多タイ記録を達成。桑田は達成時は23歳、清原は19歳であった。同点で迎えた7回には二死二塁の場面でプロ初の敬遠も経験した。10月9日、2安打1打点で勝利に貢献し、チームの優勝が決定。当時はシーズン130試合制だが、129試合目まで争いがもつれた。この時点で打率.301であったが、翌日のシーズン最終戦では森監督が「お前、今日出たら高卒1年目の打率3割、ホームラン30本が無くなるかもしれんぞ、休むか?」と清原に出場するかどうかの打診をし、清原は「出ます」と出場して3安打を放って打率を.304まで伸ばした。この年は126試合に出場、本塁打31の他、打率.304及び打点78も1955年・榎本の打率.298・67打点を更新する高卒新人の歴代最高記録を残し、新人選手の2桁本塁打は27年ぶり5人目の快挙であり、新人王に選出された。高卒1年目野手の受賞は、パ・リーグでは2021年現在までで清原が最後。また、高卒1年目での規定打席到達かつ3割到達は現在でも清原が唯一。日本シリーズには8試合全てに4番・一塁手でフル出場を果たし、初戦で自打球を左足に当てて親指を骨折するというアクシデントに見舞われたものの、打率.355(31打数11安打)でシリーズ首位打者および最多安打を記録して、チームの日本一に貢献。シリーズ優秀選手賞を獲得した。 この年は流行語大賞を獲った「新人類」の代表として、工藤公康、渡辺久信と表彰式に出席した。 1987年は打率.259と下がり、2年目のジンクスに陥る形となったが29本塁打を放つなど長打力は健在で打点は前年を上回った。また三振数も100を割り高卒2年目で全試合出場を達成した。日本シリーズでは、王貞治監督率いる巨人と対戦。西武3勝と王手をかけていた第6戦では、3対1とリードし、9回二死になった時、一塁の守備についていた時に涙を流し、試合が一時中断となった。清原は自著の中で「9回、ファーストから、三塁ベンチの巨人の選手、王さんの姿が見え、ドラフトのことを思い出し涙が止まらなくなった」と述べており、二塁手の辻発彦になだめられた。この試合に先発し9回のマウンドに立っていた工藤公康は、試合後のインタビューで「(あと1アウトで胴上げ投手だったので)どんなガッツポーズをしようか考えていたのに、アイツ(清原)が泣きやがってそれどころじゃなくなった」と答えつつも、「あの涙は本当に美しかった」と語っていた。同年7月には、警察庁が「覚せい剤等薬物防止強化月間」に合わせて制作した覚醒剤追放ポスターに清原を起用したが、そのポスターには「覚せい剤うたずにホームラン打とう」というキャッチコピーが掲載されていた。このポスターは、警察庁が発行していた冊子『けいさつのまど特集号』の表紙にも掲載されているが、後に清原が覚醒剤事件で逮捕された(後述)際にはこのポスターが話題となった。 1988年も前年同様全試合出場を果たし、31本塁打を記録し、打率も前年より上げ、最多勝利打点タイトルを獲得、リーグ最多の97得点を記録し、リーグ3連覇に貢献。7月5日のロッテ戦では小川博からプロ入り初となるサヨナラ本塁打を打っている。中日との日本シリーズでは第1戦の2回小野和幸から1ストライク3ボールの5球目の甘く入ったスライダーをとらえレフト場外(ナゴヤ球場の近くを走る東海道新幹線の防音壁に当たったと言われている)に消える、推定飛距離145mの特大の先制ソロ本塁打、第4戦では5回に上原晃から2点本塁打、第5戦では6回に小松辰雄からソロ本塁打と3本塁打を打ち、16打席6安打4打点を記録を記録し、4勝1敗で3年連続日本一、優秀選手賞を受賞した。 1989年6月4日には史上最年少となる21歳9か月での100号本塁打を達成。しかし、優勝争いの真っ只中の9月23日、対ロッテ戦で4回に平沼定晴から受けた死球に怒り、バットを放り投げ乱闘を起こしたとして初の退場処分を受け、パ・リーグから即日「厳重戒告・制裁金30万円・2日間出場停止」の処分が下された。このため、前日まで続いていた清原の連続試合出場は490でストップした。なお、この件は後に、2015年10月11日放送の『行列のできる法律相談所』で、改めて謝罪した。最終成績は35本塁打を放ち、打率.283を残した。三振数は60で、これは規定打席に到達した年では自己最少の数字だった。 1990年の日本ハム戦との開幕戦で西崎幸広から2HRを放つなど好調で、最終的に打率.307、37本塁打、94打点を記録した。37本塁打は自己最多である。自身2度目の打率3割を達成したが、これ以降は規定打席に到達しての3割は記録できなかったため、規定打席到達の3割は同年が最後だった。規定打席到達のキャリアハイの打率もこの年である。同年の105四球は野村克也を22年ぶりに破る当時のパ・リーグ記録。巨人との日本シリーズでは第2戦8回表に木田優夫から適時打、第4戦5回裏に水野雄仁から適時打を打ち、チームも4連勝し日本一となり、また3戦目までは第一打席では毎回四球を選び、次打者のデストラーデのMVP獲得をアシストした。オフの契約更改では当時としては史上最年少となる23歳で1億円プレイヤーとなり、「25歳までに1億円プレイヤーになる」という願望を成し遂げた。 1991年は4月6日のロッテとの開幕戦で小宮山悟、平沼定晴から2本塁打を放ち、史上初の2年連続開幕戦2HRを達成する。その後も、開幕7試合で6本塁打と最高のスタートを切るが、そこから35試合・151打席のあいだ本塁打が出ないという極端なスランプに陥り、成績を落とした。広島との日本シリーズでは第1戦1回裏に佐々岡真司から2点本塁打、第6戦1回裏川端順から先制適時打を打ち、4勝3敗で2年連続日本一。 1992年6月26日には同じく史上最年少となる24歳10か月で200号本塁打を達成。同年は最高出塁率のタイトルを獲得した。しかし、日本シリーズでは第2戦6回に荒木大輔から2点本塁打を打つも、野村監督率いるヤクルトに研究され絶不調に陥り、第4戦から第7戦まで17打席無安打となり、第7戦は途中で守備からベンチに下げられて胴上げの瞬間はベンチで迎えた。 1993年5月3日の対ロッテ戦(西武球場)で、伊良部秀輝との対戦時に当時の日本球界最速の158km/hのストレートを投げられた(最後は157km/hのストレートをセンター前に打ち返し、対戦は清原に軍配が上がった)。同年は三振数が120となり、5年ぶりに三振数が100を超えた。清原はこの時のことを度々回想している。 1994年も三振数が100を超えたが、一方で四球も100を超えるなど選球眼の良さが光った。四球が100を超えるのは4年ぶりだった。巨人との日本シリーズでは23打数8安打で打率.348、4本塁打、8打点、桑田から第1戦で先制ソロ、第5戦でバックスクリーンに2打席連続で本塁打を放った。 1995年は右肩を脱臼、安打100本未満に終わったが自身通算で最高のIsoD(出塁率 - 打率)を記録したシーズンとなった。9月19日での試合でオリックスがリーグ制覇を果たしプロとして初めて相手チームの優勝を見届けてしまい、球団自体も黄金期に終止符を打つこととなる。FA権を取得したが、肩の怪我もあり、西武残留を決断。契約更改では自ら減俸を申し出て、2000万円ダウンの2億3000万円プラス出来高でサインするも、複数年契約を拒否して単年契約にこだわった。 1996年は前年より打撃3部門全てを上回った。打率は.257と不調だったが8年ぶりに全試合に出場し、4年ぶりに30本塁打以上を記録した。 かつては王貞治を超えるのは清原しかいないとまで言われ、森祇晶の監督在任中の9年間でリーグ優勝8度、日本一6度を成し遂げ名選手を多数輩出した「西武黄金時代」の4番に君臨、3番・秋山幸二とのコンビは「AK砲」と呼ばれた。88年はタイ・バンバークレオが加わり「AKB砲」となり、1989年以降はオレステス・デストラーデに代わって「AKD砲」となる。特に「AKD砲」は当時の監督の森からも重宝されており、後の世代になっても「バントなどの小細工なしにチャンスならば絶対に打たせていた」と言われるほど信頼されていた。森は清原に対してサインらしいサインはなく基本ノーサインだったという。 土井正博は「今だから何でも言えるけれど、清原を二軍スタートさせようと言い張ったのは森さん自身。ところが堤義明オーナーのバックアップがあると知ったら、ガラリと態度を変えて、自分が我慢して使ったと言う。毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人だった」と述べている。松沼博久は「堤オーナーの意向で1年目から清原を使うことになった。森さんも起用法に苦労されたと思いますよ。」と述べている。清原は森が2005年に野球殿堂入りした時には一番に駆けつけて祝辞を述べ、森がハワイに移住後も付き合いが続いており後に逮捕される5年前ほど前にも連絡が来てハワイの森の家で相談したが、その後は音信不通になったという。 入団1年目から3年間同僚で西武最後の2年間監督だった東尾修は「世代交代を図らなければならない段階だったが、清原がベンチでブスッと座っていると、周りの若手は萎縮してしまう。清原は左肩に脱臼癖があるため、野手の一塁送球が少しでも右側にずれると嫌な顔をする。そのためセカンドの高木浩之はイップスになってしまった。とにかく、当時は清原の存在が悪循環ばかりを生んでいた」と述べている。 清原自身も「東尾さんには現役時代から可愛がってもらいました。だから、優勝するための力になりたかったんです。でも台頭してきた若手とは年も離れていて、みんなが僕に気を使って、孤立しているような雰囲気でした。それで、このままいると迷惑をかけるのではないか、自分が出て行った方が東尾さんもやりやすいんじゃないかと……。僕はチームリーダーになって、みんなを引っ張れる人間じゃないので」と述べている。 スポーツニッポン特別編集委員で西武も担当しゴールデングラブ賞に投票経験のある永瀬郷太郎が「清原も当時の西武の若手内野手を結構イップスにさせたらしい」と述べたところ、守備走塁コーチだった伊原春樹は「松井稼頭央、出始めの時の高木浩之とか」と答えていた。 日本シリーズでは一度もMVPは獲れなかったが、1986年と1988年は優秀選手に、敗戦した1993年と1994年は敢闘賞に選出されている。 清原本人も自分は恵まれすぎていると自認していたが、それだけにジレンマを感じていたこととFAの資格を得て、憧れていた巨人への移籍が可能になったことから、オフにFA宣言。巨人と阪神が獲得に名乗りを上げた。 清原はFA宣言した際に、阪神監督・吉田義男の「(ユニフォームの)縦縞を横縞に変えてでも…」、巨人監督・長嶋茂雄の「僕の胸に飛び込んできなさい」という2つの口説き文句が話題となった。 結果、清原は5年契約で念願の巨人に移籍した。背番号は長嶋が自らの永久欠番3を譲る考えも明らかにしたが、清原は「それは日本中を敵に回す」「(長嶋監督の)3番なんて重すぎて…」と思って丁寧に断り、「5」に決定した(「5」は清原の移籍時にそれまで「5」を付けていた岡崎郁が引退したため、空き番号になっていた)。 清原は巨人入団会見の際にデレデレと笑みを浮かべていたと伝わり、それまで清原のファンであった吉永小百合はその姿に幻滅して「ファンを辞める」と言い出したという。 ただし、阪神との契約では提示された契約金は阪神の方が3倍近く高く、契約年数も巨人の倍であり、引退後の身の振り方を踏まえ、それを弁護士を通したうえでの契約という完全な好待遇であった。当時阪神で背番号3をつけていた八木裕も、清原が加入する暁には同番号を譲る意思を表明していた。 実際に阪神から提示された条件は「10年契約・合計36億円・監督および球団社長への終身雇用」であり、一方で巨人から提示された条件は当初「2年契約・合計5億円程度」という大きな格差があったという。清原が後に2021年に語った。 また、もし阪神へ移籍する場合、その本拠地となる甲子園球場はライト方向からの浜風が強いことによって清原の得意なセンターからライト方向への打球が押し戻されて不利になることを危惧した。さらに、清原が移籍する際には年俸を前年度の1.5倍となる3億6000万に設定されたが、当時の阪神で最も高年俸である和田豊が1億円程度であったことから、阪神ファンの反感を買うのではないかとも懸念したという。 なお、清原の加入により、巨人の一塁を守っていた当時43歳の落合博満が出場機会を求め日本ハムに移籍した。巨人退団会見にて落合は「清原君と勝負して負けるとは思わないが、(落合と清原の)どちらを使うかで悩む長嶋監督の顔は見たくない」と報道陣に応じた。 1997年は開幕から4番を務め、開幕3試合目に移籍第1号となる本塁打を放ったものの、シーズンを通して阪神の4番・桧山進次郎と三振数を争い、当時のリーグ新記録となる152三振を記録(桧山は150三振)し、一時は応援ボイコット(応援歌・コールなし)も受けた。最終的には打率.249、32本塁打、95打点という成績を記録し、本塁打と打点は前年よりも上回り、巨人の右打者で30本塁打越えは1988年の原辰徳以来であり、90打点以上も1987年の原以来となった。これが清原にとって30本塁打を超えた最後の年であった。しかし、勝負どころで相手チームが松井秀喜を敬遠して清原勝負を選択し、清原が凡退した結果敗戦した試合も度々あり、清原のエンジンがかかり始めたのも優勝争いから脱落してからだった。本人が引退後に語ったところによると「負けたら清原のせい、勝ったら長嶋監督か松井のおかげ」「コンビニに行っても新聞が全部清原大ブレーキ(と書いていたから)、もう心が押しつぶされてしまいました」と不満だったとしている。 巨人はこの年、優勝戦線から早々に脱落し、清原自身もプロ入り後初めてBクラスでシーズンを終えた。 1998年は前年の反省から長年の神主打法からの大幅な打撃フォーム改造を敢行。セ・リーグの厳しいインコース攻めに対応するため、より最短距離で球を捉えようと、これまで垂直気味に立てていたバットを寝かせ、グリップも一握り余すなどプライドを捨ててまで清原は再起に懸けていた。そうして3番清原、4番松井で始まったシーズン当初、膝の故障もあって不振に苦しむ松井とは対照的に、清原は打撃改造の甲斐あって絶好調。4月は広島の前田智徳を抑え月間首位打者で終えるなど順調なスタートを切り、4番の座を松井から奪い取った。しかし、左太腿肉離れなどの故障もあって次第に調子を落としていった。最終的に同年は100試合近く4番を打ち、打率.268、23本塁打、80打点と打撃成績の数値上では前年度より落としたが、三振数は前年の半分以下に抑えた成績を残し、原辰徳の12年連続を上回り、プロ入りから13年連続20本塁打の日本記録を達成した。しかし一方で、この年以降は常に下半身の故障に悩まされることになった。 1999年は開幕から怪我に悩まされ、阪神タイガースの藪恵壹からの死球を受け、左手を亀裂骨折。6月にも広島戦でクロスプレーの際に右足靭帯を負傷した。最終的に出場は86試合に終わり、打率.236、13本塁打、46打点とプロ入り後最低の数字となり、前年までの「連続20本塁打記録」は13年で途切れた(尚この年の8月24日の対横浜戦にて、公式戦としては1991年の10月10日対ダイエーホークス戦以来の三塁手として先発出場し、年間で11試合の三塁手先発出場は、1990年に並ぶ試合数であった)。しかも右足の負傷は膝側副靭帯断裂という重症であった。いよいよ土俵際となった清原はオフに鹿児島・最福寺にて護摩行を行った後、アメリカに飛び筋力トレーニング(「肉体改造」)に励む(詳細は後述)。この年には、1996年のオフに暴力団員と賭けゴルフをしていたことが報じられており、この時の騒動が後の薬物事件に繋がったという声も逮捕時に上がっている。 2000年もキャンプ中に肉離れを起こし、プロ入り初の開幕二軍スタートとなった。その際、巨人のオーナーだった渡邉恒雄には「(清原が一軍にいないことで)勝利要因が増えたな」とまで言われた。前年から清原離脱の際に一塁に入っていたドミンゴ・マルティネスがこの年も活躍していて清原も崖っぷちに立たされていたが、7月7日の復帰後初打席で代打三点本塁打を放ち復活をアピール。7月12日、当時毎年開催していた「札幌シリーズ」(札幌市円山球場)では先発メンバー入りし、場外本塁打でプロ入り通算400号本塁打を達成。夏場にはレギュラーの座に返り咲き、75試合の出場で打率.296、16本塁打を記録。チームも清原が移籍してからは初となるリーグ優勝を果たし、日本シリーズも制覇した。この年にモデルの木村亜希と結婚。また、この頃ようやく禁煙に踏み切った。 2001年は5年契約の最終年でこれまでの成績から契約更新は絶望的であるといわれていたが、開幕から大きな怪我をすることなく打ち続け、特にチャンスに滅法強く終盤まで打点王争いをするなど、打率.298、29本塁打、121打点という巨人入団以降では自己最高の好成績を残し(打点においては自身初の100点超え)、大幅な年俸アップと4年契約を勝ち取った。 2002年も開幕から好調だったが、故障のため戦線離脱。同年8月23日には長男が誕生。シーズン終盤には復帰し、最終的に出場は55試合に終わったが、打率.318、12本塁打と一定の成績は残した。この年の開幕第2戦(巨人-阪神:東京ドーム)で400号本塁打達成時に目標にしていた尊敬する長嶋の現役通算本塁打数「444」本に並ぶ。またそれは試合当日、解説を担当していた長嶋の目の前で放った。故障を押して出場した日本シリーズでは古巣の西武と対戦。第1戦に松坂大輔から2点本塁打、第3戦では1点ビハインドの2回に張誌家から同点本塁打を放つなど計2本塁打を放ち、日本一に貢献し、西武時代だった1988年以来、14年ぶりに優秀選手賞に選出。清原自身はこれ以降リーグ優勝も日本一も経験していないため、この年が自身にとって最後のリーグ優勝と日本一となった。また、張からの本塁打が日本シリーズ最後の本塁打となった。 2003年は前年オフに松井移籍数日後、燦々会の会合で原監督に早々と4番に指名され、故障に悩まされ続けながらも打率.290、26本塁打を記録。4月24日の対ヤクルト戦(東京ドーム)7回裏に成本年秀に腕に死球を当てられ、通算167死球で竹之内雅史の記録を抜いてプロ野球記録となった。5月18日の対阪神戦で下柳剛と安藤優也から本塁打を放ち門田博光を抜いて本塁打を打った投手が185人でトップに立つなど記録を作ったが、シーズン後半にはロベルト・ペタジーニが4番を打つことが多くなり、(ただし、ペタジーニも規定打席不足)清原は主に5番を打ち114試合、341打数と評価の分かれるシーズンとなる。この年以降は度重なる怪我の影響で出場数が激減したため同年が最後の100試合出場となった。なお、7月5日PLの2年後輩で中日の立浪和義が先輩の清原に先んじて通算2000本安打を東京ドームの巨人戦で達成。その際、一塁守備に就いていた清原が花束を贈呈し祝福した。 2004年は4月4日の阪神戦で吉野誠から三振を喫し、秋山幸二を抜き通算三振記録1位となった(2022年7月6日に中村剛也が更新)。6月4日のヤクルト戦(神宮)でジェイソン・ベバリンから史上31人目、巨人の選手では落合以来6人目の通算2000本安打を達成するが、6月に死球を受けて骨折し、長期離脱した影響もあって40試合の出場に終わり、打率.228、12本塁打、27打点と低迷。シーズン終了後に堀内恒夫監督の戦力構想から外れたことが判明し、退団の危機に陥ったが、滝鼻卓雄新オーナーに「編成権は監督にあるのか、フロントにあるのか」と直談判し、巨人には契約があと1年残っていたこともあり、何とか残留を果たした。なお、清原自身はこの直談判について(当時は球団には関わってなかった)長嶋一茂を通して構想外を通告してきたことに困惑し、球団から直接話して欲しかったことを最大の理由に挙げている。残留決定の際、「泥水をもすする覚悟で精一杯プレーしたい」とコメントした。この年の秋には後述するオリックスやセ・リーグのあるチーム(交換相手は投手)から巨人にトレードが打診され、オーナー辞任直後の渡邉恒雄が特に清原放出に積極的だったが、これらは成立しなかった。 2005年は400m日本記録保持者で東海大学陸上競技部コーチの高野進から走法の指導を受け、下半身の強化に努めた。また、ダイヤのピアスを両耳に付けて試合に臨んだ。これは一般にメジャーリーガーであり、尊敬してやまないバリー・ボンズにあやかったと受け取られていたが、実際には後に自らの著書『男道』や『告白』で「巨人軍に契約交渉の席で煮え湯を飲まされ、その悔しさを忘れないために刺青の代わりにつけた」と述べている。このピアスに関しては巨人OBをはじめ他球団のOBからも評判は悪く、野村克也など苦言を呈す野球関係者も多かった。なお、元来巨人は「紳士たれ」という姿勢でいるため、茶髪、ひげ、ピアスなどは基本的に禁止であったが、当時の監督であった堀内もキャンプでは無精ひげを生やし「お山の大将同士の冷戦」と揶揄された。それでもこの年は開幕4番を任され、4月14日の阪神戦で福原忍から本塁打を放ち、本塁打を打った投手の人数が200人に到達(史上初)した。その一方で通算500本塁打に王手をかけた状態で臨んだ4月21日の対阪神6回戦(東京ドーム)では、10対2とリードを許していた7回裏・二死満塁の場面で藤川球児と対戦したが、藤川がフルカウントまで追い込んだ後、フォークを投げてきて三振したため、相手バッテリーに対し品のない発言をした。これに対し、阪神側(岡田彰布監督ら)は「藤川はその前に直球勝負していた。空振りした清原が悪い」と反論した。なお、この発言に関しては「藤川に対する罵倒」という旨で報道されていたが、当時藤川とバッテリーを組んでいた捕手の矢野輝弘は魚住ゆかり(『朝日新聞』記者)のインタビューに対し、サインを出した自身に対する非難の言葉であり、藤川に対しては「悪いな」と思っていると述べている。また、清原本人は2020年11月10日に開かれた藤川の引退試合後のセレモニーで流されたビデオメッセージで、自らの非を認めて謝罪している。4月29日の対広島東洋カープ戦(広島市民球場)では広池浩司から本塁打を打ち、史上8人目の通算500本塁打を達成し、その後しばらくは本塁打、打点の暫定2冠王で、打率も一時は.309まで上昇。オールスターゲームにも出場し、西口文也から本塁打を放った。 しかし、チームは相反する様に開幕から勝てない日々が続き、清原自身も5月11日の対オリックス戦で延長11回裏に山口和男から頭部死球を受け、下半身の故障なども重なって成績は徐々に低迷した。この時、清原は山口に対して直接忠告したが、翌年にチームメイトになった時には山口が直接謝罪を行った際に「あれは事故だ」とコメントした上で受け入れた。 そこへ、堀内との確執が表面化した問題が起こった。怪我から復帰した8月4日の対広島戦で4回表に本塁打を放ち、ダイヤモンドを一周した後、ベンチで堀内やコーチ、選手とのハイタッチを拒否。これは、この試合で自身が7番で起用されたことに激怒したとされている。当時の清原は先述した大怪我の影響でもはや打線の中軸として出場できる状況ではなく、球団なりに配慮した起用だったが、かえって清原の打者としてのプライドを刺激し、認めることができなかったと見られている。なお、8月13日に登録を抹消されたこともあり、この本塁打が巨人時代最後の本塁打となった。 この年は張本勲に並ぶ入団以来20年連続2桁本塁打、2年ぶりに20本塁打以上を記録し、前年よりも出場機会を増やし96試合に出場したが、打率は自己最低となる.212に終わった。 結局は左膝半月板損傷の怪我と、前述のハイタッチ拒否事件で自ら孤立したため、シーズン終了を待たず、10月1日に同シーズン限りでの退団が決まったことが球団から発表され、12月2日に正式に自由契約選手として公示された。 清原の巨人時代はマスコミや野球ファンからは否定的な意味で語られることが多く、在籍中には様々なバッシングに晒され続けたものの「巨人に入団して後悔しているか」との質問に対しては「NO」と即答しており「様々な感情が入り混じっているけれども、それらをひっくるめて人生の中で充実した9年間だった」「巨人に対して感謝している」と後に語っている。 その一方で同年監督を辞任した堀内は週刊ポストで「清原は野球に向かない。団体競技である野球に進んだのが間違い」と批判していた。また、清原も後にイベントなどで何度も堀内を批判している。なお、両者の確執は堀内がコーチ時代からあったという。 巨人時代は規定打席に到達したのは1997年、1998年、2001年の3回だけで、巨人では規定打席に到達しての打率3割は記録できなかった。また、100試合出場は前述の規定打席到達年の他、2003年の計4回しかなかった。また、巨人移籍後の優勝経験も2000年と2002年の2回しかなかったが、いずれも日本一となっている。 巨人から戦力外通告を受けたシーズン終了後のある日、オリックスの監督を辞任して同球団のシニアアドバイザー (SA) に就任したばかりの仰木彬から電話があった。 清原は後に自著『男道』で「お前、オリックス・バファローズに来てくれんか?キヨ、お前の悔しさはわかってる。巨人に対する気持ちも、ようわかる。だけど、お前はそんな風にして自分の野球人生に幕を引いたら駄目だ。お前は大阪で育った人間や。大阪に育てられた人間は、最後は大阪に恩返しをしないといけない。そやから、大阪に帰ってこい。お前の最後の花道は俺が作ってやる。ジャイアンツに負けて、尻尾を丸めて逃げ出すんやない。お前なら、今の大阪を元気にできる。お前が自分の野球人生を全うするために、最後の力を振り絞って戦っている姿を見せたら、大阪だけやない、関西の人間はみんな元気になる。生まれ故郷の関西に恩返しするために、大阪へ帰ってこい。ウチがどうしても嫌やと言うんならば、阪神でもええんやぞ」と、仰木に口説き文句を言われたことを明かしている。 その後も仰木に何度も説得され、清原も熟考した結果、オリックス入団を検討するようになった。仰木が近鉄の監督1年目だった1988年、10.19の死闘の末西武との優勝争いに敗れ、その後清原擁する西武が中日との日本シリーズを制し、清原は日本シリーズ優勝後のインタビューで「これで近鉄の選手の皆さんに顔向けができます」と語った。これを観た仰木は「なんて男気のある奴なんや」と心を打たれ、以来、ことあるごとに清原に声を掛けていた。 直後に仰木は肺癌による呼吸不全で死去したが、上記にある仰木の口説き文句に心を打たれた清原は、仰木を「野球界で最も尊敬する人物」と語るようになった。生前の仰木による清原獲得の意向を、仰木の後任の監督となった中村勝広と当時の球団社長であった小泉隆司が理解したことで、球団としても清原獲得を決断した。中村と小泉は、清原の入団交渉の席上に同席し、最大限の誠意を見せ、清原はこの誠意にも心を打たれて、オリックスに入団した。しかし、入団の決断は仰木の死去直後に下されたため「他球団からのオファーが無かったことを確認してからオリックス入りを決めたのではないか」との批判もなされたが、これについては本人は「既に入団は決意していたが、膝の具合を見て自分が戦力になるかどうか判断したかった」と否定している。仰木は近鉄との球団合併前年のブルーウェーブ時代、2004年オフにも熱心に清原を勧誘し、巨人の球団代表らと直接会ってトレードの交渉をしていた。なお、東北楽天ゴールデンイーグルスも清原の巨人退団直後に楽天オーナーの三木谷浩史や当時監督の田尾安志による意向でオファーを検討していたことが後年(2022年)に判明している。 背番号は巨人時代に引き続き「5」(当初は西武時代の3と巨人時代の5を足した8も用意されたが、8は同年日本球界に復帰した中村紀洋が着けた)。入団会見では「ヒットにせよデッドボールにせよ、塁に出てチームの勝利に貢献したい」と新たな決意を語った。当時体重は120kgに達していたが、2か月足らずで約20kgの減量をした。 2006年は開幕前に球団が吉本興業と業務提携を結んでいたことから、中村らと共に吉本新喜劇にも出演した。シーズンでは開幕後しばらくは清原の持ち味であるセンターからライト方向へのヒットや四球が目立った。4月20日の日本ハム戦で、初回にダルビッシュ有から左手小指付け根部分に死球を受け、全治3週間のケガ。「次からは命をかけてマウンドに走り、相手を倒したい」と激高したが、現役引退後には「一番痛かったデッドボール」と回想している。5月21日の対阪神戦に代打で出場し、満塁で中前適時打を放って史上8人目の通算1500打点を達成。5月26日の対横浜戦で通算517号となる3号ソロ本塁打を三浦大輔から右翼席に放ち、史上12人目の4000塁打を達成。翌5月27日の対横浜戦では、9回裏に4号逆転サヨナラ満塁本塁打をマーク・クルーンから放ってチームを勝利に導いた。なお、このサヨナラ本塁打で野村克也の持つ通算サヨナラ本塁打記録11本に並んだ。7月23日のオールスターゲーム第2戦では8回二死走者なしの場面で代打として出場し、藤川球児と対戦、あと1本と迫っていたオールスターゲーム最多本塁打記録を狙ったが、空振り三振に倒れている。8月29日の対西武戦で長田秀一郎から10号サヨナラ本塁打を放つ。この本塁打で21年連続2桁本塁打を達成し、通算サヨナラ本塁打(12本)及び通算サヨナラ安打(20本)でプロ野球歴代単独トップに立った。9月2日のロッテ戦で初回に清水直行から11号3点本塁打を放つが、2007年は一軍出場できず、2008年は現役最終年で2年ぶりに一軍出場したが本塁打を打てなかったため、これが現役最後の本塁打となった。 この年は前述のサヨナラ本塁打など記憶に残る活躍もあり、本塁打数は11本と中村紀洋に次ぐチーム2位の本塁打数だが、中村も清原も故障離脱を繰り返し、チームに大きく貢献しているとはいえず、中村と合わせて23本の本塁打しか打てず67試合の出場で打率も.222と低迷し、チームの順位も5位と下がった。 このシーズンで死球を受けた後日、死球についてインタビューされた際に「もしそういうことがあれば命をかけてマウンドに走っていき、そいつを倒したいと思う」と報復を宣言したともとれる発言をしたため問題になった。 2007年はキャンプ中に左膝を痛めて離脱し、2月28日に左膝の軟骨除去手術を行う。交流戦での復帰が報道されたこともあったが回復具合は思わしくなく、7月6日に神戸市内の病院で左膝に移植手術をし、この年はプロ入り以来初めての一軍試合出場なしに終わった。その後記者会見で、「桑田の、メジャーでの頑張りを見てたらね、桑田がこんなに頑張ってるんだからって思うし、僕も現役を続行したい」と宣言。「普通の選手ならこんな大手術を認めてもらえないのに、球団にはそれを認めてくれたことに感謝している」と語っている。12月10日に契約更改を行い、野球協約による減額制限(40%)を上回る45%・9000万ダウンの1億1000万円の単年契約でサインした。 2008年も前年の手術の影響で二軍調整が続いたため、同年から始まった「ビッグボーイズ打線」のレギュラーを務めることはできなかったが、7月31日に532日ぶりに一軍に合流した。しかし、8月2日に記者会見を開き、「こんな状態なので、来年はグラウンドに立てないと思う」と話し、同年限りでの現役引退を事実上表明した。この1日に、清原関連の球団グッズは5000万円を売り上げた。これはオリックス全選手1年分の売り上げに相当するという。8月3日の福岡ソフトバンクホークス戦で7回に代打で695日ぶりに出場したが、大隣憲司の前に空振り三振。翌日の同戦でも再び代打で出場し三瀬幸司のストレートをセンター前に打ち復帰後初のヒットを打った。8月18日の西武ドームでの対西武戦終了後、「現役選手として最後の誕生日を、ここ(西武ドーム)で迎えられて嬉しかった」と語り、同年限りでの現役引退を決めていることを明らかにした。9月29日プロ入りから11年間を過ごした西武ドームでの西武とのカード最終戦終了後、グラウンドに出てライトスタンドの西武ファンの清原コールに応えた後、オリックスと西武の両軍選手が清原を胴上げするというセレモニーが行われ、渡辺久信からも花束を贈呈された。また中島裕之とユニフォームを交換した。 10月1日、京セラドーム大阪でのオリックスのシーズン最終戦、対ソフトバンク戦が清原の引退試合となった。通常、前売り入場券は試合の1か月前、ただし、その日が月曜日の場合はその翌日に発売開始されるのが通例だが、オリックスは特例として月曜日の9月1日に発売開始の措置を取った。入場前売り券は発売開始から1時間足らずで完売した。イチローや下柳剛、同年に引退した桑田真澄、PL学園野球部時代の監督だった中村順司らが見守る中、4番・指名打者で先発出場(野球関係者以外では、藤原紀香、秋山成勲などが駆けつけていた。)。試合前には王貞治から花束贈呈もあり、王は清原に対し「生まれ変わったら、同じチームでホームラン競争しよう」と伝えた。外野スタンドから西武・巨人・オリックスの在籍時代の応援歌が順に演奏される中、第1打席は2回先頭打者、2ストライクから3球目をライトフライ。第2打席は4回裏一死一塁で4球目を空振り三振。第3打席はオリックスが3-1とリードした6回裏一死一塁で5球目を右中間適時二塁打(打点1)。これが現役最後の安打・打点となった。8回裏一死での最終打席は6球目を空振り三振に終わる。対戦投手の杉内俊哉は4打席18球全て直球を投げた。清原は杉内にヘルメットを脱いで一礼し、空振りしたボールは記念球として、この試合で球審を務めた東利夫から清原に手渡され、清原はこのボールに『杉内へ 最高の球をありがとう 清原和博』とサインし杉内に贈った。試合は4-1でオリックスが勝利した。ウイニングボールは完投勝利を記録した近藤一樹から清原に手渡されたが、近藤がこの試合でプロ入り初の2桁勝利と規定投球回を達成したことを知っていた清原は、このボールにもサインを入れて近藤に贈り返している。試合終了後の引退セレモニーでは、北川博敏と金本知憲から花束が贈呈され、長渕剛が清原が巨人時代から入場テーマ曲として使用していた「とんぼ」をアコースティック・ギターの生演奏で熱唱した。引退挨拶では自分が所属した西武・巨人・オリックス及び各球団ファン、そしてオリックス入団への道を開いた仰木に感謝の気持ちを述べ、最後に「今日、引退させて戴きます。全国のプロ野球ファンの皆様、23年間、応援どうもありがとうございました」と涙ながらに締めくくった。その後場内を1周し、ホームベース上でオリックスの選手たちによって胴上げが行われた。翌10月2日、オリックス球団は本人の希望で清原を任意引退選手として申請し、同日パシフィック野球連盟から公示された。オリックスはこの年2位に入りクライマックスシリーズ出場権を獲得したが、清原は出場の辞退を自ら申し入れた。そのクライマックスシリーズ・第1ステージ(対北海道日本ハムファイターズ)では選手の要望で清原のユニフォームがベンチ内に掲げられ、清原本人もゲストルームから声援を送った。 引退後以降は野球評論家として活動を開始することとなり、2009年1月29日に日刊スポーツ大阪本社と専属評論家としての契約を交わした。評論家契約後のコメントにて、「将来的にはNPBの属する球団の二軍監督となって、自身が育てた選手と一軍で戦いたい」とも語っており、「ワールド・ベースボール・クラシックも取材する」意向を示していた。 前述のこともあり、プロ野球解説者として引退直後以後特定の放送局との専属契約を結ばず、「2009 ワールド・ベースボール・クラシック」にてサンディエゴラウンドの中継権を保持していた、TBSテレビ中継分のスペシャルナビゲーターに就任。 その後は、『すぽると!』(フジテレビ)や『サンデーモーニング』(TBSテレビ)へのコメンテーター出演や、『F1グランプリ』(フジテレビ)のゲストとして、モナコグランプリへスペシャル・キャスターとしての現地出演を含めたタレント活動を行って行った。 2011年2月15日、2011年シーズンにおいて『文化放送ライオンズナイター』(文化放送)の番組30周年記念イメージキャラクターに就任。それに伴い、特別解説者として、月1度程度出演していた。 しかし、評論家・タレント転身後以後、ジャイアンツ時代末期と同様に仕事のドタキャンが目に付くようになった。 前述の2009 WBC出演時には、アメリカ合衆国に入国したのにも関わらず、準決勝・決勝の中継解説は行ったが、サンディエゴラウンドの解説をドタキャンした。『ライオンズナイター』の特別解説も同様な対応を取ったことで、このシーズンを最後に放送局から野球解説者として出入り禁止状態となった。 また、前述のコメンテーター・タレント活動開始直後から、妻帯者でありながら、銀座の高級クラブのママと不倫関係を週刊誌に報じられていた。そのクラブママをサンディエゴやモナコに帯同させるといった公私混同行為を問題視され、日刊スポーツ大阪本社との評論家契約も、契約更新されず契約解除された。 その他、講演会やCMキャラクターとしての撮影でも、撮影中に立腹して帰宅する等の素行不良が相次ぎ、写真週刊誌の的となった。 2013年には週刊実話で落合を大批判したことで話題になった。 自身が所属したチームにおいても、2014年2月21日、春季キャンプにて、沖縄セルラースタジアム那覇で行われたジャイアンツの一軍キャンプ訪問時、奇抜な上下白のスーツとエナメル靴を着用した。 2014年3月6日、「週刊文春」2014年3月13日号にて、「清原和博 緊急入院 薬物でボロボロ カリスマモデル妻は『刃物を持って追いかけ回された』」というトップ記事で、違法薬物使用による副作用の治療のため、大学病院での診察後に清原に直撃した記事が発刊された。また、文春記者に暴行を加えて恫喝したことも掲載され、録音機を破壊したことも報じられている。 しかし、清原は翌週発売の写真週刊誌「FRIDAY」にて、「診察は2型糖尿病のためである」との診断書やインスリン接種用ペン型注射器を提示して違法薬物使用を否定する主張を反駁し、文春に対して民事訴訟を提起する意向を示したが、結果的に民事訴訟を提訴しなかった。この文春発刊記事により右足の脹脛と左胸から背中に掛けて昇り龍の刺青を入れていたことが判明した。 前述の素行不良で実質的にタレント活動が立ち行かなくなったが、それでも2015年夏頃から清原は疑惑を払拭するため、大手芸能事務所の後ろ盾を得て、番組制作者側へ積極的にプッシュを行った結果、テレビのバラエティ番組に出演し続けた。しかし、『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ)のロケ企画である「男気ジャンケンシリーズ」のロケ中、真冬にもかかわらず覚醒剤使用の副反応である大量の発汗を起こし、ロケVTRをお蔵入りさせてしまう。また『ダウンタウンなう』(フジテレビ)2015年8月放送分の「本音でハシゴ酒」に出演の際、番組内トークでの求めに応じ、左胸の刺青の公開や、「風邪薬は使用している」という冗談を交えながら薬物使用を否定した。疑惑に答える機会を増やすため、2015年11月25日午後3時33分に、突如オフィシャルブログを始めた。また、逮捕の1か月前の2016年1月11日に福岡ドームで行われた名球会主催のイベント「名球会ベースボールフェスティバル2016」にパ・リーグチームとして出場し、打席に入り佐々木からヒットを放ち、普段と変わらない様子を見せていた。 しかし、週刊文春の報道は的中する。文春の記事が引き金となり各種週刊誌も後追い報道を行ったのを機に、警視庁組織犯罪対策部第五課ならびに厚生労働省関東信越厚生局麻薬取締部は1年に渡り内偵捜査を続けた。清原の行動確認を継続的に行った結果、当初は2015年夏に逮捕の方針を立てる。だが、清原が捜査を警戒し、自宅分譲マンションや自家用車を売却したことで証拠隠滅を謀っていると見做し、方針を見送り自当たり捜査を続けていた。後に逮捕の前日に滞在していた都内ホテルの廃棄物であるティッシュに付着した汗から覚醒剤成分が検出された。 2016年2月2日午後8時頃、警察は清原の港区東麻布に所在した自宅であるウィークリーマンションにて家宅捜索を行い、48分頃覚醒剤0.1gの所持を現認し、注射器3本、ストローとパイプ各1本、スマートフォン2台を含む携帯電話計4台を押収。その後、清原に任意同行を求め、同日午後11時に同行先である中野区の警視庁庁舎にて覚醒剤取締法(所持)容疑で通常逮捕。同年2月23日、同法違反(使用)容疑で再逮捕され、同日に東京地方検察庁は、同法違反(所持)事実で東京地方裁判所に起訴した。その後、3月15日には同法違反(使用)の罪(2月1日頃港区内のホテル客室で覚醒剤を使用したとされる)で、都合3回追起訴された。 清原は逮捕後、警視庁本部庁舎に収監。後に留置番号「114番」で管理されていた事実を公表、その後の発信のネタの1つになっている。同年3月16日、清原の弁護人は東京地裁に保釈請求を行い、翌17日に東京地裁は許可の裁定を行い、保釈金500万円を納付して、逮捕から44日ぶりに保釈。保釈後、警視庁本部から出発し、民放放送局の中継用のヘリコプターやオートバイに追われながら、千葉県松戸市に所在する千葉西総合病院に直行し、そのまま保護入院。弁護人を通じて、4月1日に東京地検は「9月1日頃、群馬県太田市内のホテルでから覚せい剤約1.2gを8万円で譲り受けた」として覚醒剤取締法違反の罪で清原を在宅のまま追起訴し、一連の捜査は終結した(同日には清原に覚醒剤を売った密売人も起訴された)。 逮捕後、清原の覚醒剤使用や売人等の後追い報道が発信されており、折しも逮捕のタイミングが2016年シーズンの春季キャンプ中のタイミングと重なり、疎遠となっていた現役プロ野球選手・OBである各球団の指導者、評論家、フロントスタッフ、学生時代の指導者、交友関係の有名人やプロ野球ファン等のコメントがメディアに踊り、清原の逮捕から3日後には元妻である木村も対外的にコメントを発表した。野村貴仁からは巨人時代から覚醒剤を使用していたと証言された他、一部報道からは西武時代に既に大麻吸引に及んでいたとする西武関係者の証言が聞かれた。また、公式ブログでは逮捕前日まで発信をし続けていたが、アメーバブログの運営元であるサイバーエージェントの規約に基づき、削除された。 2016年5月17日、東京地裁にて初公判が開かれ、清原は起訴内容を概ね認め、「遅くとも現役引退の2008年からの覚醒剤使用」を認め、ジャイアンツ時代の元同僚であった野村貴仁が週刊誌誌面でのロングインタビューで証言した、現役時代からの覚醒剤使用については否定。「引退後の目標もなく、私生活が荒み、指導者としてのオファーもなく、心の隙を埋める為」との理由を証言した。 また、情状酌量の証人として佐々木主浩が出廷し、「「野球人」として、一緒に野球を通して野球を通じた更生の道を探りたい」と証言を行い、検察側は「依存性や常習性は顕著」として、懲役2年6月の実刑を求刑して、審理は即日結審。同年5月31日に判決が下され、懲役2年6か月(執行猶予4年。弁護側が求めていた保護観察はつかない)の有罪判決が下された。 判決確定後は、人目を気にしてプロ入団以後から生活の拠点としていた東京から、出身地の大阪に身を潜めて潜伏生活を送っており、後に同年9月に沖縄県の宮古島へバカンスする姿が、写真週刊誌に掲載された。また、判決確定に伴い、覚醒剤常習者でありながら、自動車運転をしたとして、東京都公安委員会から180日間の運転免許停止の行政処分が執行された。清原は後の発信で、この行政処分明け以後も自家用車所持はおろか、自動車を運転していないことを語っている。 判決確定前後時期の同年11月30日、野球殿堂博物館は、2017年の野球殿堂入りの候補者を発表し、2014年からプレーヤー部門で清原が候補者入りしていたが、競技者表彰委員会の幹事会は、有罪判決が確定したことを受けてメンバー18人の全会一致で候補から除外することが決定された。 判決確定から半年経過後の『新・情報7daysニュースキャスター』同年12月24日放送分と『ニュースキャスター 超豪華!芸能ニュースランキング2016決定版』(TBSテレビ)同年12月24日放送分にて、逮捕後初となるインタビューが放送され、判決確定以後から薬物依存症の治療を開始したこと、清原の逮捕前に野村貴仁が自身の覚醒剤取締法違反の逮捕、有罪判決以後、週刊誌のロングインタビューにて証言していたアンフェタミン系興奮剤「グリーニー」の使用(2007年より禁止薬物)を認め、ジャイアンツ・バファローズ時代の覚醒剤使用については「あんなもの使って野球なんてできない」と否定した。また、過去において引退後の2011年6月、2013年、前述の週刊文春誌が最初に覚醒剤使用を報じた、2014年2月に急性薬物中毒で緊急搬送されたことを告白。2011年6月は清原の母親が搬送先の病院に駆け付け号泣して命乞いの懇願をし、2013年の際は清原の父親が、搬送先の病院に駆け付け清原を殴打したことを明かした。清原の母親は、清原が逮捕当時から体調を崩し、療養施設に入所していたこともあり、清原の逮捕事実すら認知出来ていない状態であった。 それから、半年が経過した2017年6月、文藝春秋のスポーツ雑誌「Sports Graphic Number」930号にて、薬物依存症からの更生過程を吐露するための特集記事でインタビューに応じ、後に同雑誌内でコラム連載を開始し、連載後単著として出版された。この本は11万部を売り上げた。執行猶予中ではあるが、メディアにて依存症治療過程を発信しており、その媒体へのプッシュについて、親友である佐々木が常に気にして口添えを行っている。それもあり、佐々木、清原双方が評論家契約経験が無いスポーツ紙のインタビューに応じたり、「Number」の企画で全国高校野球選手権 決勝戦である「大阪桐蔭×金足農業」を、当日はウィリアム・F・ハガティ(当時:駐日アメリカ合衆国大使)が来場のため、球場警備が厳戒態勢の中、甲子園球場で記者席から生観戦を行い、スタンドをざわつかせた。 その後、2019年から厚生労働省主催の薬物依存症の啓発イベントへ3年連続で出演している。また、同年11月30日には公開トライアウトイベント「WorldTryout 2019」に監督として出場した。このイベントはPL学園およびライオンズでの後輩でもある野々垣武志が代表理事を務める団体(一般財団法人グリーンシードベースボールファンデーション)が主催したもので、有罪判決後初の野球のユニフォームを着用した仕事であった。翌年にも同団体主催の少年野球教室を開催し、この時には団体の顧問の萩生田光一も出席し、挨拶を行った。 このイベント出場を契機に、「片岡篤史チャンネル」の動画撮影に参加して動画に出演。以後、「デーブ大久保チャンネル」、「小田幸平のはげch」の動画に出演し、小学生時代以降から高校時代、現役時代、逮捕以降の話題をメインにトークしている。 2020年6月15日、有罪判決を受けた覚醒剤取締法違反についての執行猶予が満了し、それに合わせて著作を出版。 同月22日、『プロ野球ニュース 2020』に片岡と野村弘樹との共演の形で、執行猶予明け後初のテレビ出演を果たし、以後タレントの石橋貴明の地上波テレビ番組と石橋のYouTubeチャンネルの動画への出演以降、佐々木とニッポン放送へのラジオ番組出演や、野球教室等活動の幅を広くしていった。 同年12月12日、ライオンズ入団発表会見と同じ日付にマッコイ斎藤の協力の元、自身のYouTubeチャンネル開設したことを同じく開設した自身のTwitterアカウントで発表した。今後は少年野球指導の際に、自身の打撃を見せながら指導できることを目標に置いており、自身のYouTubeチャンネルにて2012年の年末特番である『大晦日スポーツ祭り! KYOKUGEN2012~史上最大の限界バトル~』(TBSテレビ)にて桑田と対決以来、8年ぶりに打撃を披露したが、球速100kmの投球すら打ち返せない状態であることと、体重も現役時代のベストであった108kgから110kgの間から30kg増加した状態であることを明かした動画を配信。 その後、同年12月からジャイアンツ時代にトレーニングを行っていたトータル・ワークアウト六本木店でジャンアンツ時代から付き合いのあるパーソナルトレーナーによる減量に向けた食事指導と打撃練習を、並行して同じ六本木に所在する別のパーソナルトレーニングジムで減量の筋力トレーニングを開始。YouTubeチャンネルで行ってるプロ野球評論や現役時代に対戦及び同チームで一緒に戦ったプロ野球OBへのインタビューを含めて動画配信している。しかし、前述のトレーニング模様を自身のYouTubeチャンネルで公開しているが、自身のTwitterアカウントのツイートにて既往症と覚醒剤中毒依存症のフラッシュバックに苦しめられていることを吐露している。 2020年12月と2021年1月には、オンラインで行われた学生野球資格回復制度を受講し、2021年2月5日に資格を回復した。同資格の回復は、高校生、大学生への指導が可能になるものだが、日本学生野球協会の指導者に関するガイドラインには、執行猶予の期間経過後5年を経過していない者を「適任者に該当しない者」とする規定があるため、実際に指導が可能になるのは2025年6月以降と見込まれる。 また、母の三回忌を迎えたことを契機に、覚醒剤取締法違反の刑事裁判時の情状証人だった佐々木と公判前に約束していた、引退後に右脚と左胸に彫った刺青の除去施術を受け始めたことを明かした。なお、刺青は巨人時代に入れようと思っていたが、「告白」などいくつかの自身の著書によると、母親に反対されたためその時は入れなかったことを明かしている。 YouTuberとしての活動を契機に2021年4月から実質的にタレント活動を再開し、テレビ番組出演やCM出演も行うようになった。同年7月10日開催されたの阪神タイガース×読売ジャイアンツ戦の中継権を持っている関西テレビ放送の『プロ野球中継 2021』にて、同局専属の解説者であり、PL学園の後輩でもある片岡と共にテレビ中継では2009年 日本シリーズ第2戦以来12年ぶり放送局制作の野球中継では約10年ぶりにプロ野球解説者として出演することが同局のWebサイトで公開された。試合当日、清原が番組放送開始前に甲子園球場の放送ブースに入場した際は、バックネット裏の観客からの声援が響き、試合終了直後、当該試合に勝利した読売ジャイアンツの首脳陣が選手をお出迎えした直後、清原のジャイアンツ時代の後輩である一軍ヘッドコーチの元木大介が放送ブースの清原のことを指で指し示したこともあり、監督の原と清原がジャイアンツ移籍1年目に共に戦った先輩である、一軍投手チーフコーチの宮本和知の3人が清原に向けて手を振って挨拶する粋な演出がされ、番組放送後も放送ブースの構造上バックネット裏のタイガースファンに密々な状態で囲まれ、歓声とスマートフォンで撮影するシャッターに包まれており、清原もファンの声援に手を振って応えていた。甲子園球場を後にした清原は、自身のTwitterアカウントでツイートを行い「この日が来るまでずっと緊張していた。夢のような時間だった」と吐露した。 また、2020年年末に開始した、自身のYouTubeチャンネルにおいて、プロ野球選手OBが発信しているYouTubeチャンネルにおいて、同年7月迄チャンネル登録者数トップだった里崎智也(元千葉ロッテ)の「Satozaki Channel」を抜いて登録者No.1を記録した。 2022年2月22日、PL学園の後輩である立浪が監督を務める中日ドラゴンズの一軍キャンプを訪問。石川昂弥や鵜飼航丞を指導した。翌日には二軍の読谷キャンプも訪問し、二軍監督の片岡を激励した。薬物事件以後、球場への出入りはどの球団からも禁止されていたといい、キャンプ訪問は8年ぶりとなった。 2022年2月23日、キャンプ訪問のため友人の運転する車で那覇市内を移動していた際に、乗用車とバイクの衝突事故を目撃。友人と共にバイクの運転手の男性を安全な場所まで避難させた他、バイクの破片をどかすなど安全確保を行った。 8月、次男が慶應義塾高等学校で甲子園に代打で出場し、同校は優勝を果たし、史上初の親子制覇となった。 中堅から右方向へ打つのが上手い。当初は内角のボールを苦手としていたが、フォームをコンパクトにしたことで内角のボールにも無理なく対応できるようになった。左スタンドに257本、中スタンドに112本、右スタンドに156本と通算500本塁打以上を記録している打者の中で3方向へ100本以上は歴代で清原のみであり、3打席連続本塁打を記録した2001年6月9日の阪神戦では右→中→左の順で打ち分けた。右翼方向にも打球が良く伸び、2001年9月8日のヤクルト戦では東京ドームの右中間にある看板に流し打ちで当てている。 勝利打点王や最高出塁率の獲得経験はあるが、打者の三冠タイトルである首位打者、本塁打王、打点王の獲得経験は無い。通算525本塁打は本塁打王を獲得していない選手の中では史上最多である。チーム打撃に徹する選手であり、西武時代の監督である森祇晶は清原について「『無冠の帝王』なんて言われたりしたが、西武で一緒に野球をやっていた時、何年間も連続して優勝したチームの4番を務めてくれた。相当な重圧だったはず。これこそ、彼しか持っていない立派な『タイトル』だと僕は思いますね。彼ほどチームの勝利に喜びを感じていた選手はいなかったんじゃないかな。打点や本塁打などタイトルを取れそうな時もあったが、自分の記録よりチームの勝利に貪欲だった。本塁打より犠飛が欲しい場面というものがある。そんなベンチの期待に応えようとする選手だった」と語っており、PL学園時代の監督である中村順司も「巨人時代に長嶋監督が『清原ほどチーム打撃に徹する選手はいない』と話しておられた。高校時代も自分本位にやるなら、もっと本塁打数は多かった。チームのために頑張ってきた結果」と振り返っている。 清原の実力には賛否両論があり、清原が師と仰ぐ落合博満は清原の全盛期は高校からプロ入り1年目位までだったと酷評する一方、清原が現役引退をした後でも素質を認めている人間もおり、野村克也は「『右の清原、左の王』になれた程の逸材。清原がタイトルを獲得出来なかった理由として森が清原を甘やかしたことが原因」としている。掛布雅之も大型新人といわれていた佐藤輝明のことを「清原や松井秀喜と似たものがある」と評しており、間接的ながらも引き合いに出されることがあるほどに認められていた。また、落合も先述の手厳しい発言をした上で「だからこそ高校時代のままでやったら清原は成功した。そもそも俺より後の三冠王は清原しか考えられなかった。」とも述べていた。 現役中10度のリーグ優勝、8度の日本シリーズ優勝を経験しているが、シーズンMVPおよび日本シリーズMVPの獲得経験は無い。シーズンMVP選手を選出する際の得票数では2位に3回つけている(1986年、1位は石毛宏典、1990年、同・野茂英雄、1992年、同・石井丈裕)。日本シリーズについては、優秀選手賞を3回、敢闘賞を2回獲得している。 2000本安打、500本塁打、1500打点を達成した打者は日本プロ野球史上清原を含めても6人しかおらず(他は王貞治、野村克也、門田博光、張本勲、落合博満)、通算本塁打数は歴代5位、通算打点数は歴代6位に位置している。しかしながら清原はこの6人の中で唯一、打者の三冠タイトル(首位打者、本塁打王、打点王)の獲得経験が一度も無い(3割を2回しか経験しておらず、6人の中で通算打率が最も低い)。また、オールスター戦に強く、オールスター戦通算打率1位(100打数以上対象)・通算本塁打2位・通算打点1位・通算塁打1位・通算得点1位という記録を残している。オールスターMVP受賞最多記録(7回)も保持しており、現役時代は「お祭り男」の異名を取った。 故障離脱があった年も多かった中、1986年にプロデビューしてから2006年まで2桁本塁打を記録した長打力に加え、シーズン100四球を2度、最多四球を4度記録するなど選球眼が良かった。通算1346四球は王と落合と金本に次いで歴代4位(2019年度シーズン終了時点)の記録で、通算打率.272に対して通算出塁率は.389、OPS.909を記録。また、サヨナラや満塁の場面に非常に強く、通算サヨナラ本塁打12本・通算サヨナラ安打20本・通算サヨナラ満塁本塁打2本(青田昇、広野功、立浪和義、井口資仁と並ぶタイ)の日本プロ野球最多記録を保持している。通算196死球は日本プロ野球最多記録、通算1955三振は中村剛也に次ぐ2位。死球の多さについて「避けるのが下手」という批判もあったが、本人は引退後(2021年)に「投手に対して、三振がイヤでセカンドゴロ打つようなことしたくないんですよ。実際、僕、三振日本一(1955三振)ですから。死球も多かったですし。よく言われるんですよ、避け方がヘタクソだったとか…。避けなかっただけなんですよ」「僕に当てたりすると、その後のバッターがものすごい打つんですよ」とあえて避けなかったと主張した。その他にも、2020年にデイリースポーツの評論家である内田順三が書いた記事によると清原は「松井、由伸に当てさせるわけにはいかないでしょう。あのふたりを死球のターゲットにはさせません。自分が盾になりますよ」と話していたことがあり、一度死球を当てると2度目は当てにくいので、仲間に対する厳しい内角攻めを少しでも減らそうという考えだった評されている。 西武入団時、自分に合うサイズのヘルメットがなく困っていたところ、1980年に同球団で引退した野村克也のヘルメットを発見し、これがピッタリ合ったため着用。その後、引退まで23年間チームが変わる度に色を塗り直しながらこのヘルメットを使い続けた。巨人在籍時の2005年5月10日には、オリックスの山口和男から危険球を受け、ヘルメットの巨人の塗装(黒)が飛び散り、西武の水色が一部露わになった。 1999年オフに肉体改造を行ったが、これはその前年に日米野球で来日したサミー・ソーサと食事した際、彼の体を見て衝撃を受け、清原自身も周りに認めてもらえるようパワーアップするという思いから実践に至った。また、グリーニーもこの頃から服用していた。なお、この改造は筋力アップを主体としていたため走り込みはやらないことが多く、これが下半身のアクシデントに繋がったとも語っている。 また、筋力アップを主眼に置いたトレーニングであるのは既出の通りだが、医師であり、清原のファンである斎藤真嗣は著書で「清原は140kgのベンチプレスを持ち上げたが、あの体格ならば、最低でも160kgは持ち上げないと及第点とは言えない」と語っており、第一の目的である筋力の向上さえもトレーニング理論にかなっておらず、失敗していたことが示唆されている。 一方では「自分はヒットの延長がホームランであり最初からホームラン狙いで打席に入ったことはない」とも述べている。 キャリア初期から中期にかけての西武時代は打撃だけではなく守備や走塁にも定評があり、初年度の1986年夏までに正一塁手として定着。西武時代にゴールデングラブ賞を5度受賞している。ルーキー時代の清原は当初片平晋作と併用の一塁手であったが、片平より守備が安定していたためレギュラー起用に繋がった。 また、1990年のペナントレースでは森博幸、日本シリーズなどでは指名打者制度がない試合でデストラーデらが一塁を担当し、清原が三塁、正三塁手の石毛宏典が遊撃を守ることが数度あったが、三塁もそつなくこなす守備力を持っていた。その守備力は巨人移籍後も評価されていたため、1999年には11試合で三塁手の守備に就いている。 伊原春樹は「やっぱり動かないのよ。打つ方をしっかりやるんだけどね。ノックをやっていても今日は気合が入ってないなと思ったから強い打球をバチーンと飛ばしたらミットからボールを落としてそのボールを踏んで情けねぇって。」と述べている。 走塁面ではシーズン2桁盗塁を2度(1987年、1990年)記録したことがあり、盗塁王になれた可能性を期待されたこともある。 死球をくらい痛がる選手を見ても「実際は大丈夫でしょう」と断言することもある。 清原の人物像について、西武時代の関係者からは、「実に純枠な男である」(森祇晶)、「素顔は少々シャイな感じで、それでいてよく気がつく、気持ちのとても優しい男」(渡辺久信)などという声がある。 大久保博元は自身のYouTubeチャンネルで「目上に対して礼儀正しい男」と評価しているが、門限破りなどで罰金が嵩んでしまい200万円となるほどだった。東尾修が助け舟を出して球団に清原の罰金を分割にするよう交渉した逸話を明かしている。 ただし、罰金として徴収されていた額は巨人に移籍するときに全額を返してくれたという。いしいひさいちの野球マンガには20代前半のころ描かれることが多かったが、短躯でシュールな言動の桑田との凹凸コンビで振り回される、一本気な大男キャラクターとなっており、このころのマスコミイメージを反映している。 愛甲猛は「西武時代は頼るものが無かった」「秋山は真逆のバッティングで清原の参考にならなかった」と、清原の西武時代の苦悩の背景について語っている。 しかし、巨人へ移籍した頃から日焼、短髪、ピアスなどファッション傾向に変化が出始め「番長」のニックネームが定着するようになった。 こうした人物像の変遷の果ての先述の有罪判決(2016年)を受けて、西武入団直後の森監督ら西武側の指導者の人間教育などに、その原因を求める声もある(広岡達朗、野村克也)。また「タイトルを獲りたい」「周りに認められたい」という思いが人一倍強かったゆえ、その呪縛に陥ったという分析もある。 野球選手時代に稼いだ金を使い切ってしまったと後の2020年7月にYouTubeに出演した時に告白している。 酒を嗜んでいたが2021年に断酒している。 引退後に持病となった糖尿病は逮捕時点には重度の段階まで進行し、一部報道では血糖値が900に達していたことが伝えられた。 来歴で前述したように巨人時代には松井を敬遠し清原勝負を選ぶチームも多かったが、そのことについて引退後に「ジャイアンツに入って調子悪くなって、そのときは3番が松井(秀喜)だったでしょ? 松井敬遠、俺勝負っていうのが多かったのよ。今は申告敬遠だけど、昔はちゃんと4球投げたやんか?キャッチャーが立った瞬間に球場がざわつくわけよ。ウワー! みたいな。2球目、2ボールになって、それで3ボールになって松井がバットを静かに置いて、俺が(バッターボックスに)……。最初は腹が立ってしょうがないで、そんな」「それを克服するにはちょっと時間がかかったね」「あ、10年後ここで俺が三振したこと、誰も覚えてへんやろな。思い切ってホームラン狙うしかないやろ」「それからボコボコ打点をあげるようになった」と述べている。 お祭り男(高校時代は甲子園、プロではオールスター・ゲームや日本シリーズなどの大舞台で活躍し、さらに通算サヨナラ本塁打と通算サヨナラ安打も歴代1位であることなどから付けられた) キヨマー(西武入団当時に活躍していた阪急の強打者ブーマー・ウェルズに対抗できる位の活躍を期待されたため) 番長、または球界の番長 だんじりファイター(岸和田十月祭礼の1つである八木だんじり祭より命名。日本テレビがよく使用した) キヨさん 長渕剛との関係は、怪我などで苦しみ不調に陥っていた1999年から始まる。その後彼の曲「とんぼ」を入場テーマ曲として使用。清原が引退を最初に伝えたのも長渕であった。当時はお互いを「和博」「剛さん」と呼び合う仲であった。先述の薬物事件報道が原因で音信不通になったことが示唆され、2015年8月に『ダウンタウンなう』に出演した際、松本人志から当時ネットで浮上した「長渕と清原が居酒屋で殴り合いの喧嘩に発展した」という都市伝説を問われて否定したものの、疎遠になったことは婉曲に認めていた。2015年10月に取材を受けた際に長渕との交友が途絶えていることを告白していたと、逮捕後の2016年2月に報じられた。 河口正史、三浦知良、小川直也と親交がある。また、西武時代にはF1日本グランプリ観戦のため鈴鹿サーキットを訪れ、中嶋悟・一貴親子を西武球場に招待している。 元妻の亜希との間に2人の息子がいて、苗字については、引き続き元妻の旧姓の「木村」ではなく「清原」を名乗っている。離婚後も息子たちのことは気にかけており「野球選手になってほしい」と語ったこともある。長男は、中高の間は野球から離れながらも、2021年から慶應義塾大学の野球部に入部し、「おやじのような選手になりたいです」と語っている。長男が東京六大学野球春季フレッシュトーナメントでベンチ入りした際には、清原もスタンドに駆け付けた。同年6月に第14回ベスト・ファーザー賞 in 関西のスポーツ部門特別賞を受賞し、元妻の亜希にも連絡を取ったところ、喜ばれたという。次男は慶應義塾高等学校でプレーしており、2年生時の2023年8月の第105回全国高等学校野球選手権大会でベンチ入りしている。次男が甲子園優勝を果たした結果、史上初の親子Vが達成された。長男は2024年のドラフトでプロ志望届を提出したが、指名漏れになった。その後、(競技者としての)野球は大学で終えることも発表された。 巨人のスーパースターとして同じく名を馳せていた松井秀喜とは、お互いの実力を認め合ってはいたが、性格の不一致からあまり仲は良くなかったとされる。しかし、松井がメジャーリーグベースボールに挑戦する際には「俺はお前を誇りに思う。いつまでも応援しているぞ!」と激励のFAXを送っている。 大久保博元の経営する居酒屋には何度か訪れるなど引退後でも付き合いがあり、大久保は有罪後に執行猶予が付いて放免された清原の近況を語ったことがある。後に大久保のYouTubeのチャンネルに出演したことがある。なお、大久保がプロ2年目の時に新人として入ってきたのが清原であり、当時の西武の慣わしとしては2年目の選手が新人の選手を教育することをしていたため、大久保は清原の教育係だった。 佐々木主浩とも現役時代から付き合いがある。佐々木は前述の通り清原の裁判に証人として出廷したことがあり、清原の有罪後の生活を語ったことがある。 一方で、巨人時代の選手とは実生活では食事や飲みには出かけたりはしなかった。本人曰く、巨人時代は「生え抜きと外様の選手の間で断絶があった」といい、マスコミからは「清原軍団」などと書き立てられたもののプライベートでは、ほとんど関わりがなかった。巨人時代の後輩と飲みに行ったのは「二岡智宏と元木大介の退団時」など数える程度しかないという。 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高 太字年はゴールデングラブ賞の受賞 最高出塁率:2回(1990年、1992年) 最多勝利打点:1回(1988年) 新人王(1986年) ベストナイン:3回(一塁手部門:1988年、1990年、1992年) ゴールデングラブ賞:5回(一塁手部門:1988年、1990年、1992年 - 1994年) ※一塁手部門を5度受賞はパ・リーグ最多タイ(他に小笠原道大) 月間MVP:5回(1986年9月 野手部門:1990年8月、1992年9月、1994年5月、2001年6月) オールスターゲームMVP:7回(1986年 第2戦、1987年 第3戦、1990年 第2戦、1993年 第1戦、1996年 第2戦、1997年 第2戦、2000年 第3戦) ※歴代1位 日本シリーズ優秀選手賞:3回(1986年、1988年、2002年) 日本シリーズ敢闘賞:2回(1993年、1994年)※2年連続は他に長池徳二のみ パ・リーグ特別表彰:2回(会長特別賞:1986年 功労賞:2008年) スカパー! ドラマティック・サヨナラ賞制定記念表彰(2009年) ナンバーMVP賞:1回(1986年) 初記録
初打席:同上、7回裏に藤本修二から四球 初安打・初本塁打・初打点:同上、9回裏に藤本修二から左中間へソロ 初先発出場:1986年4月8日、対日本ハムファイターズ1回戦(後楽園球場)、8番・一塁手として先発出場 初盗塁:1986年5月15日、対南海ホークス8回戦(西武ライオンズ球場)、2回裏に二盗(投手:藤本修二、捕手:吉田博之) 節目の記録
150本塁打:1990年8月5日、対近鉄バファローズ18回戦(西武ライオンズ球場)、6回裏に野茂英雄から左越ソロ ※史上92人目 200本塁打:1992年6月26日、対オリックス・ブルーウェーブ11回戦(西武ライオンズ球場)、1回裏に伊藤敦規から左越先制2ラン ※史上62人目 1000試合出場:1993年9月9日、対オリックス・ブルーウェーブ20回戦(グリーンスタジアム神戸)、4番・一塁手として先発出場 ※史上313人目 1000安打:1993年10月13日、対千葉ロッテマリーンズ25回戦(千葉マリンスタジアム)、1回表に伊良部秀輝から左前安打 ※史上172人目 250本塁打:1994年5月4日、対日本ハムファイターズ5回戦(西武ライオンズ球場)、2回裏に白井康勝から左越ソロ ※史上33人目 300本塁打:1996年4月10日、対日本ハムファイターズ2回戦(西武ライオンズ球場)、1回裏に西崎幸広から右越先制2ラン ※史上23人目 1000三振:1996年5月18日、対近鉄バファローズ6回戦(藤井寺球場)、4回表に高村祐から ※史上23人目 350本塁打:1997年8月21日、対阪神タイガース22回戦(東京ドーム)、3回裏に湯舟敏郎から中越3ラン ※史上17人目 1500試合出場:1997年8月22日、対横浜ベイスターズ20回戦(横浜スタジアム)、4番・一塁手として先発出場 ※史上120人目 1000打点:1997年9月27日、対中日ドラゴンズ25回戦(東京ドーム)、8回裏に中山裕章から左越決勝2ラン ※史上24人目 1500安打:1998年5月23日、対広島東洋カープ5回戦(東京ドーム)、3回裏に紀藤真琴から左越3ラン ※史上75人目 1000得点:1999年6月5日、対横浜ベイスターズ9回戦(横浜スタジアム)、3回表に村田真一の右犠飛で記録 ※史上29人目 400本塁打:2000年7月11日、対広島東洋カープ15回戦(札幌市円山球場)、3回裏に山﨑健から左越ソロ ※史上13人目 1500三振:2001年6月17日、対中日ドラゴンズ15回戦(ナゴヤドーム)、1回表に正津英志から ※史上4人目 150死球:2001年5月25日、対阪神タイガース10回戦(阪神甲子園球場)、6回表に谷中真二から ※史上3人目 300二塁打:2001年6月23日、対横浜ベイスターズ13回戦(東京ドーム)、4回裏にマーク・ホージマーから左越二塁打 ※史上38人目 3500塁打:2001年9月27日、対広島東洋カープ28回戦(東京ドーム)、1回裏に酒井大輔から中前安打を放ち達成 ※史上20人目 450本塁打:2002年7月3日、対中日ドラゴンズ13回戦(東京ドーム)、3回裏にメルビン・バンチから中越ソロ ※史上11人目 2000試合出場:2003年4月11日、対阪神タイガース1回戦(東京ドーム)、4番・一塁手として先発出場 ※史上33人目 2000安打:2004年6月4日、対ヤクルトスワローズ9回戦(明治神宮野球場)、1回表にジェイソン・ベバリンから中前安打 ※史上31人目 500本塁打:2005年4月29日、対広島東洋カープ4回戦(広島市民球場)、8回表に広池浩司から中越ソロ ※史上8人目 1500打点:2006年5月21日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)、5回表に平野佳寿の代打として出場、江草仁貴から中前2点適時打 ※史上8人目、打点王未獲得での達成は他に張本勲のみ 4000塁打:2006年5月26日、対横浜ベイスターズ1回戦(大阪ドーム)、2回裏に三浦大輔から右越ソロを放ち達成 ※史上12人目 オールスター戦
オールスター戦通算打率:.365(100打数以上では、歴代1位タイ) オールスター戦通算本塁打:13本(歴代2位タイ) オールスター戦通算打点:34(歴代1位) オールスター戦通算得点:26(歴代1位タイ) オールスター戦通算塁打:96(歴代1位) その他
13年連続シーズン20本塁打以上(1986年 - 1998年 歴代3位タイ)※入団1年目からの記録としては、歴代1位。 シーズン20本塁打以上:16回(1986年 - 1998年、2001年、2003年、2005年 歴代3位タイ) 通算サヨナラ本塁打:12本(歴代1位) 通算サヨナラ安打:20本(歴代1位) 通算死球数:196死球(歴代1位) 通算満塁本塁打:11本(歴代11位タイ) 通算サヨナラ満塁本塁打:2本(歴代1位タイ) 3イニング連続本塁打:2001年6月9日、対阪神タイガース13回戦(東京ドーム)、3回裏にバディ・カーライル、4回裏・5回裏に伊達昌司から ※史上7人目 リーグ最多四球:4回 ※福本豊に次ぐパ・リーグ2位タイ 3(1986年 - 1996年) 5(1997年 - 2008年) 日本ジュエリーベストドレッサー賞(男性部門:2006年) 新語・流行語大賞 流行語部門金賞(1986年、「新人類」、工藤公康・渡辺久信と共同で受賞) 岸和田市市民栄誉賞(2004年) 第14回ベスト・ファーザー賞 in 関西 スポーツ部門 特別賞(2021年) スポーツマンNo.1決定戦(TBS) ミックスモダン大作戦~結束~(なんばグランド花月、2006年3月10日) - 当時のオリックス・バファローズ主要選手が出演した吉本新喜劇の舞台。後の2006年6月21日に『NGKにバファローズがやって来た!』(日本コロムビア、YRBY-50047)としてDVD化。 入団以来、所属球団の西武が副業禁止への一環として選手のCM出演を禁止していたが、フリーエージェント宣言による他球団流出対策と、選手の一般層への知名度向上のため、堤義明オーナー(当時)が方針を転換したことによりこの規則が廃止となったことから、清原が初めて全国CMに出演することが出来たのは、CM出演が解禁された入団8年目の1993年オフのことである。 エースコック「スーパーカップ」 - 初のCM。 常盤薬品工業「ビタシーゴールド」 - 西武から巨人移籍後も出演。セールスコピーは「飲むところ敵なし」 ナイキ サントリー「スーパーマグナムドライ」(2003年) PlayStation 2用ゲームソフト「GENJI」- 豪傑武蔵坊弁慶に扮した。 ポッカコーヒー フィールズ パチンコ機・パチスロ機 - 架空の球団「フィールズ」の投手として登板。打者に本塁打を打たれて、悔しそうな顔を浮かべる。巨人からオリックス移籍後も出演。 日清食品「麺の達人」 - プロ野球引退後初のCM出演。CM内で現役時代の試合のプレーが流れる。 サッポロビール「サッポロドラフトワン」(多部未華子、オードリーと共演) ベガスベガス - パチンコチェーンベガスベガス「番長祭」(2011年) スカパー! - 「スカパー!野球王道 全国」篇。桑田真澄との共演。(2012年 - 2013年) DMM.com証券 - ローラと共演。(2013年・2015年 - 2016年1月) 『清原和博 2000』(VHS、バップ、2000年11月)VPVH-69342 『清原和博/2001~巨砲復活』(VHS、バップ、2001年11月)VPVH-69382 『ホームランアーチスト清原和博500本塁打の軌跡』(DVD、日本テレビ・バップ、2005年6月)VPBH-12359 『清原和博怪物伝説:23年間の我が野球道』(DVD、フジテレビ映像企画部・ポニーキャニオン、2009年3月)PCBG-51241 『男道』幻冬舎、2009年1月。 - 1967年の誕生から2008年の現役引退までの清原の自伝。2010年8月に幻冬舎文庫から文庫版(ISBN 9784344414457)が発売されている。
『反骨心』角川書店、2009年8月。ISBN 4047102075。 - 巨人時代の苦悩や、選手時代の終盤を中心に書いた自伝。 『清原和博:魂の言葉』ぴあ、2009年12月。ISBN 9784835617497。 - 引退までに数多く残した発言を掲載。 『清原和博:告白』文藝春秋、2018年7月27日。ISBN 9784163908762。 - 岸和田リトルリーグ時代から2018年5月頃までの様子を執筆した物。 『魂問答』鈴木泰堂共著、光文社、2019年12月。ISBN 9784334951313。 『薬物依存症』文藝春秋、2020年6月。ISBN 9784163912288。 - 覚醒剤取締法違反からの4年間の、薬物依存の怖さ、鬱病との戦い、家族の支えについて執筆した物。 『西武ライオンズ・清原和博 : オリジナル報道グラフ』桐野抄次郎著、ダックス、1986年。ISBN 4331450163。 『ヤングレオ清原和博』佐藤有著、日本文芸社、1986年10月。ISBN 4537020350。 『清原和博の真実 : 21世紀に王手をかけた男』永谷脩著、徳間書店(Tokuma books)、1986年11月。ISBN 4195033586。 『ルーキー : もう一つの清原和博物語』山際淳司著、毎日新聞社、1987年4月。ISBN 4620305618。 『清原和博vs桑田真澄 : スーパーグラフ』Sports Graphic Number編、文藝春秋(文春文庫)、1987年5月。ISBN 4168108058。 『野球少年キヨマー : 清原和博』戸部良也著・上総潮絵、講談社、1988年5月。ISBN 4062036681。 『清原和博打倒「巨人軍」宣言!!』清原番記者グループ著、リム出版(Lucky books)、1989年9月。ISBN 4871200744。 『清原和博の「まっすぐでこい!」』永谷脩著、ネスコ(NESCO books)、1990年4月。ISBN 4890360727。 『ミスターを超える男 : 清原和博の1826日』永谷脩著、広済堂出版、1991年7月。ISBN 4331503348。 『桑田よ清原よ生きる勇気をありがとう』清水哲著、ごま書房、1994年12月。/増補版、1997年9月。ISBN 4341080466。/ISBN 4341190164。 『鎧袖一触・清原和博 : 私と清原の11年間』平吉一弥著、(ラインブックス)、1997年4月。ISBN 4847012747。 『夢一途 : 清原和博11年目の選択』永谷脩著、未来出版、1997年4月。ISBN 4943901271。 『男、清原どこへ行く : 不良番長の野球バカ一代』中田潤著、飛鳥新社、2001年10月。ISBN 4870314770。
『おう、ワイや!番長日記 : 清原和博 : 1997|05→2003|05 : Friday名物企画』舩川輝樹著、講談社、2003年5月。ISBN 4063528014。 『キヨのほろりええ話』古矢徹といかしたナイン編著、宝島社、2005年2月/改訂版、(宝島sugoi文庫)、2008年12月。ISBN 4796644555。/ISBN 9784796668071。 『清原和博 : 夢をつらぬく情熱のバッター』平井勉著、旺文社(素顔の勇者たち)、2005年4月。ISBN 4010725559。 『清原和博番長伝説 : 1985~2008 : 『Friday』が追い続けた24年間』フライデー編集部編、講談社、2008年11月。ISBN 9784062151375。 『清原和博 : 1983-2009 : 完全復刻版』文藝春秋(Sports Graphic Number plus)、2009年9月。ISBN 9784160081567。 『完本清原和博』Sports Graphic Number編、文藝春秋(文春文庫)、2010年8月。ISBN 9784167217860。 『だんじり』清原和博監修・工藤晋脚本・コウノコウジ画、集英社(ヤングジャンプコミックスBJ)、第一巻、2011年8月19日。ISBN 9784088791937。/第二巻、2012年2月17日。ISBN 9784088792750。
『清原和博への告白 甲子園13本塁打の真実』鈴木忠平著、文藝春秋(Sports Graphic Number Books)、2016年12月。ISBN 9784163905785 ^ クラブチーム所属のため、中学校の野球部には所属していない。 ^ なお、清原によれば、清原が同期の松山秀明とともに回想した限りでは、桑田真澄だけは一度も殴られなかったという(ただし桑田が先発した試合でチームが負けたことで罵られるなどの「言葉の暴力」はあったということが『「週刊ポスト」1986年1月31日号「独占インタビュー 逆転入団の真相 桑田真澄 (17) が初めて明かす巨人軍のこと、宗教心のこと 聞き手:海老沢泰久」P45』に書かれている)。 ^ 2017年に、広陵高校の捕手である中村奨成が夏の大会で6本を打ってこの記録を更新した。 ^ 同大会では藤井進(宇部商)が先に4本打っていた。 ^ ただし、本人は後年に自著『反骨心』で「セ・リーグであれば阪神の他にも、自分を指名してくれた中日ドラゴンズでもよかった」と述べている。 ^ 清原自身も著書で、当時の巨人が投手整備が急務だったこと、巨人側が確実に1位指名をすると確約していたわけではなかったことを認めている。しかし、その当時の自分は若く、その事実を認めることができなかったと述懐している。 ^ セ・リーグ最後の高卒1年目野手の受賞者は立浪和義 ^ 1998年に高校時代の後輩・片岡篤史が更新 ^ 清原自身も、この時期を「自分の黄金期」と自身の著書『男道』で振り返っている。 ^ 落合博満はかつて三冠王を3度達成している歴史的な強打者で、この年も巨人で43歳ながら打率3割越え、本塁打21本という一定の記録を残していた。 ^ 日本人選手で1シーズン150三振を記録するのは初であり、2004年に岩村明憲が更新するまで日本人最多記録保持者であった。清原のシーズン152三振は2019年現在も巨人の球団記録である。 ^ 「反骨心」でも触れられているが、一茂の名前は伏せられていた。 ^ 「尻の穴が小さい」「陰茎がついていないのか」という趣旨の発言。直球勝負にこだわっていたのはこの時だけではなく、2014年7月31日発売の雑誌『Sports Graphic Number』第858号では、スライダーで三振した時に相手投手が直球を投げなかったため卑怯だと発言したことがあると桑田が証言している。また、オリックス時代にも紅白戦で金子千尋がイチローに対して変化球を投げた時には、金子に対して直球で勝負しろと叱責したことがある。 ^ ただし、自著「反骨心」では2004年の時点で戦力外通告されることを前もって知らされていたとあった。 ^ 中村も旧近鉄時代に「5」を着用していた。 ^ 「死にたいくらいに憧れた 花の都大東京」の一節を、自分が子供の頃から巨人軍に憧れていたことに重ね合わせたもの。 ^ 1959年の殿堂の制定以降、1994年の殿堂時の江夏豊以来、2人目の覚醒剤取締法違反の有罪判決起因の候補者除外となった。ただし、永久追放では無く、プレーヤー表彰の候補者復活の可能性は残っており、後にエキスパート表彰へと回る道も復帰の可能性は存在するが、委員会規程第11条2項がついて回るため、相当厳しい道のりとなる。 ^ このインタビューの3年後の2019年3月5日に死去した。 ^ 個人事務所「オフィス清原」で個人マネージャー兼運転手を担当し、清原の素行不良時期に離脱したが後に復帰した。 ^ 通常、関西テレビの中継試合は近畿圏ローカル扱いとなることがほとんどだが、当該試合はフジテレビTWOにて全国中継の編成が敷かれた。 ^ 当時、新庄剛志とのダブル解説でフジテレビ専属の解説者(高木豊と片岡篤史)がフィールドリポーターに格下げされたことでフリーダムな内容になり、中継を担当したフジテレビが試合をメインにした番組構成では無く、スペシャル解説者メインに構成したこともあり、同局に対して約6,000件のクレームが殺到した。 ^ 放送開始前には、引退セレモニーやYouTube動画のコラボ出演をした藤川球児が専属契約しているNHKのNHK BS1にて同対戦カードの実況中継が組まれていたため、隣のブースから挨拶に訪れた。 ^ 中日には立浪と片岡の他、オリックス時代の同僚である中村紀洋、巨人時代の同僚である小田幸平がコーチとして在籍。また、1989年の乱闘事件の当事者である平沼定晴が用具係として在籍している。 ^ コメントした2021年シーズン開幕前当時。中村剛也に更新されたのは2022年シーズン中である。 ^ ただし、留年しているため、高校野球の公式戦に出場できる最終年度。 ^ 現役引退した翌2009年度より制定された表彰。歴代最多サヨナラ安打・本塁打の記録保持者としての功績を讃えての記念表彰となった。 ^ 清原 和博(オリックス・バファローズ) | 個人年度別成績 | NPB.jp 日本野球機構 ^ 「清原和博氏が来場 「胸が苦しい」 慶応の次男・勝児の甲子園初打席安打にネット裏でガッツポーズ」『デイリースポーツ online』株式会社デイリースポーツ、2023年3月21日。2023年3月21日閲覧。 ^ 「歴代最高記録」『日本野球機構』。2021年5月15日閲覧。 ^ 「清原和博の父が激やせ 近所へ謝罪、こだわりの電器店も閉店」『女性自身』2016年3月31日。2021年1月10日閲覧。 ^ 国内情勢研究会『清原和博 栄光と破滅への軌跡』『清原和博 堕ちた怪物』 1. 幼少期=王パジャマと長嶋パジャマ ^ 著者・平井勉『素顔の勇者たち 夢を貫く情熱のバッター 清原和博』2005年、11頁。 ^ 「ますおか岡田、怪物・清原と対戦しプロ野球断念!?」『ORICON NEWS』2012年8月4日。2020年11月1日閲覧。 ^ 「清原だけが知っているコレが本当のPL学園!!」『清ちゃんスポーツ』YouTube、2021年3月20日。2021年9月10日閲覧。 ^ 「清原和博氏 PL学園の1年生付き人は「もう一回やれと言われてもみんな1億円もらっても断る」」『デイリースポーツ online』株式会社デイリースポーツ、2022年12月21日。2022年12月21日閲覧。 ^ 燃える闘志を白球に込めて、戦い続けた日々。 - TOYOTA Athlete Beat - 藤木直人、伊藤友里 - TOKYO FM 80.0MHz 14.08.16 野村弘樹 ^ 「清原和博、松井秀喜、中田翔…歴代“怪物高校1年生”の歴史」『週刊ベースボールONLINE』2015年5月8日。2021年5月16日閲覧。 ^ 永谷脩「清原和博 ~完全復刻版インタビュー~ 「僕の原点甲子園 忘れ得ぬ三度の挫折」(1/3)」『Number Web』2009年8月14日。2021年5月16日閲覧。 ^ 【高校野球100年】第5回 4番・清原と外野手としてベンチ入りした桑田 - スポーツ報知 蛭間豊章記者の「Baseball inside」 ^ 清原和博 2009, p. 98. ^ 和田裕司「【高知】「打てない」苦しんだ清原 鍵穴にはまった高知商・中山の剛速球 第67回大会準々決勝 高知商 3―6 PL学園 (1985年8月19日 甲子園)」『スポーツニッポン』スポーツニッポン新聞社、2018年7月26日。2018年9月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年9月18日閲覧。 ^ 清原和博 2009, p. 100. ^ 和田裕司、松井いつき「【高校野球メモリアルイヤー】PL・清原和博 史上初の1試合3発「はっきり覚えている」」『スポーツニッポン』スポーツニッポン新聞社、2018年5月19日。2018年9月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年9月18日閲覧。 ^ 【甲子園】清原和博氏 初の父子Vに喜びもひとしお 次男・勝児のいる慶応全5試合を現地観戦 ^ 「PL学園 復刻ニュース 清原3発、甲子園通算7号驚弾」『日刊スポーツ』1984年8月11日。2021年5月16日閲覧。 ^ 「1大会5本塁打の記録持つ清原 甲子園決勝で桑田に言ったひと言」『スポーツニッポン』2017年8月21日。2021年5月16日閲覧。 ^ 「夏の甲子園・我が心の決勝戦(6)「最高の舞台で逃げる必要はない」清原に立ち向かった背番号11」『アサ芸プラス』2016年8月21日。2021年5月16日閲覧。 ^ PLに敗れた宇部商・藤井さん「まだ君に憧れている人たくさんいる」…清原容疑者へメッセージ - スポーツ報知、2016年2月5日 ^ 「PL学園 復刻ニュース キヨマーが投手デビュー、最速133キロ」『日刊スポーツ』1985年3月30日。2021年5月16日閲覧。 ^ 「【野球】今、思い出す清原和博氏の甲子園での投球 清原ブランドは決して色あせない」『デイリースポーツ online』株式会社デイリースポーツ、2023年8月7日。2023年8月11日閲覧。 ^ 「「まっすぐ放れ」清原を一喝した名審判」『デイリースポーツ』2015年5月19日。2015年5月20日閲覧。 ^ 「【高校野球】あの春、清原はベンチで泣いた 打ち砕かれた「自分が一番」の思い(1/2ページ)」『産経WEST』2015年7月8日。2021年5月16日閲覧。 ^ 「清原和博「18歳の気持ちを踏みにじられた」36年経ても消えない、ドラフト制度への強い恨み」『J-CAST ニュース』2021年10月12日。2024年5月9日閲覧。 ^ 「【7月20日】1986年(昭61) 高卒ルーキー初!清原和博、初球たたいてMVP」『スポニチアネックス』。2009年7月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月16日閲覧。 ^ 「【10月7日】1986年(昭61)“新人類”清原和博、新人タイ記録の31本塁打 逆転Vへの狼煙」『スポニチアネックス』2007年10月7日。2007年10月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年9月12日閲覧。 ^ 「清原29号、長嶋さんに並んだ - 清原特集 西武ライオンズ復刻ニュース」『日刊スポーツ』1986年9月28日。2016年1月13日閲覧。 ^ 『読売新聞』1987年7月9日東京夕刊(読売新聞東京本社) ^ 「「覚せい剤打たずにホームラン打とう」清原容疑者、プロ2年目に警視庁のポスター起用」『サンスポ』産業経済新聞社、2016年2月4日。2022年2月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月13日閲覧。 ^ 沢井メグ「【画像あり】かつて清原容疑者が登場した「覚せい剤うたずにホームラン打とう」 ポスターを探してみた → あった! 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※「清ちゃんスポーツ」公式アカウント 清原和博公式ウェブサイト 表 話 編 歴 金田正一 稲尾和久 小山正明 米田哲也 梶本隆夫 皆川睦雄 村山実 鈴木啓示 堀内恒夫 山田久志 江夏豊 平松政次 東尾修 村田兆治 北別府学 佐々木主浩 高津臣吾 工藤公康 野茂英雄 山本昌広 岩瀬仁紀 黒田博樹 上原浩治 藤川球児 平野佳寿 山内一弘 榎本喜八 野村克也 長嶋茂雄 広瀬叔功 張本勲 王貞治 江藤慎一 土井正博 高木守道 松原誠 柴田勲 大杉勝男 藤田平 衣笠祥雄 福本豊 山崎裕之 山本浩二 有藤通世 若松勉 谷沢健一 加藤秀司 門田博光 大島康徳 新井宏昌 秋山幸二 駒田徳広 立浪和義 鈴木一朗(イチロー) 清原和博 古田敦也 野村謙二郎 石井琢朗 松井秀喜 田中幸雄 前田智徳 金本知憲 松井稼頭央 小笠原道大 稲葉篤紀 宮本慎也 小久保裕紀 アレックス・ラミレス 中村紀洋 谷繁元信 井口資仁 和田一浩 新井貴浩 福留孝介 荒木雅博 青木宣親 阿部慎之助 鳥谷敬 内川聖一 福浦和也 坂本勇人 栗山巧 大島洋平 表 話 編 歴 1957 豊田泰光 1958 中西太 1959 杉山光平 1960 近藤和彦 1961 塩原明 1962 岩下光一 1963 王貞治 1964 K.ハドリ 1965 林俊彦 1966 長嶋茂雄 1967 D.スペンサー 1968 柴田勲 1969 足立光宏 1970 黒江透修 1971 黒江透修 1972 長嶋茂雄 1973 高田繁 1974 山崎裕之 1975 中沢伸二, 外木場義郎 1976 B.ウイリアムス 1977 福本豊 1978 若松勉 1979 水谷実雄 1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰 1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正 1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義 1983 田淵幸一, テリー, 中畑清 1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊 1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二 1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実 1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己 1988 清原和博, 森山良二, 郭源治 1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸 1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤 1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎 1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也 1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也 1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦 1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾 1996 大島公一, 鈴木平, イチロー 1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛 1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広 1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司 2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成 2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満 2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之 2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎 2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信 2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁 2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲 2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博 2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広 2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一 2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平 2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩 2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー 2013 田中将大, 銀次, 内海哲也 2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太 2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太 2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔 2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大 2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃 2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩 2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐 2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎 2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆 2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸 2024 筒香嘉智, A.ジャクソン, A.ケイ 表 話 編 歴 1953 簑原宏 1954 大下弘 1955 戸川一郎 1956 稲尾和久 1957 宮本敏雄 1958 藤田元司 1959 土屋正孝 1960 田宮謙次郎 1961 J.スタンカ 1962 吉田義男 1963 稲尾和久 1964 山内一弘 1965 森下整鎮 1966 渡辺泰輔 1967 足立光宏 1968 長池徳二 1969 長池徳二 1970 井石礼司 1971 山田久志 1972 足立光宏 1973 野村克也 1974 高木守道 1975 山本浩二 1976 柴田勲 1977 河埜和正 1978 足立光宏 1979 井本隆 1980 小川亨 1981 井上弘昭 1982 上川誠二 1983 西本聖 1984 山沖之彦 1985 石毛宏典 1986 達川光男 1987 篠塚利夫 1988 宇野勝 1989 新井宏昌 1990 岡崎郁 1991 川口和久 1992 岡林洋一 1993 清原和博 1994 清原和博 1995 小林宏 1996 仁志敏久 1997 松井稼頭央 1998 大塚光二 1999 川上憲伸 2000 城島健司 2001 T.ローズ 2002 A.カブレラ 2003 金本知憲 2004 井上一樹 2005 矢野輝弘 2006 川上憲伸 2007 ダルビッシュ有 2008 A.ラミレス 2009 髙橋信二 2010 和田一浩 2011 吉見一起 2012 稲葉篤紀 2013 長野久義 2014 R.メッセンジャー 2015 山田哲人 2016 B.エルドレッド 2017 宮﨑敏郎 2018 鈴木誠也 2019 亀井善行 2020 戸郷翔征 2021 山本由伸 2022 J.オスナ 2023 紅林弘太郎 2024 今宮健太 表 話 編 歴 1951 川上哲治, 野口明, 林義一 1952 飯島滋弥 1953 飯田徳治, 平井三郎, 堀井数男 1954 中西太, 山内和弘 1955 山内和弘, 西沢道夫 1956 森下正夫, 吉田義男 1957 大下弘, 宮本敏雄 1958 宮本敏雄, 中西太 1959 山内和弘, 中利夫 1960 森下整鎮, 金田正一, 張本勲 1961 広瀬叔功, 田宮謙次郎 1962 ブルーム, 張本勲 1963 近藤和彦, 王貞治, 古葉毅 1964 金田正一, J.マーシャル, J.スタンカ 1965 D.スペンサー, 高倉照幸, 江藤慎一 1966 広瀬叔功, 榎本喜八, 古葉竹識 1967 土井正博, 長池徳二, 大杉勝男 1968 江藤慎一, 柴田勲, 小池兼司 1969 土井正博, 船田和英 1970 長池徳二, 江夏豊, 遠井吾郎 1971 江夏豊, 長池徳二, 加藤秀司 1972 野村克也, 阪本敏三, 池田祥浩 1973 若松勉, 福本豊, 山崎裕之 1974 高井保弘, 福本豊, 張本勲 1975 山本浩二, 松原誠, 土井正博 1976 有藤道世, 門田博光, 吉田孝司 1977 若松勉, 野村克也, 王貞治 1978 A.ギャレット, 簑田浩二, 掛布雅之 1979 王貞治, B.マルカーノ, 山本浩二 1980 岡田彰布, 平野光泰, 江夏豊 1981 藤原満, 掛布雅之, 山倉和博 1982 福本豊, 柏原純一, 掛布雅之 1983 門田博光, 梨田昌崇, 落合博満 1984 簑田浩二, ブーマー, 江川卓 1985 高木豊, W.クロマティ, 松永浩美 1986 山本和範, 清原和博, 吉村禎章 1987 高沢秀昭, 石毛宏典, 清原和博 1988 ブーマー, 岡田彰布, 正田耕三 1989 村田兆治, 彦野利勝 1990 R.ブライアント, 清原和博 1991 古田敦也, 広沢克己 1992 石井浩郎, 古田敦也, 駒田徳広 1993 清原和博, T.オマリー 1994 秋山幸二, G.ブラッグス 1995 落合博満, 松井秀喜 1996 山本和範, 清原和博, 金本知憲 1997 松井稼頭央, 清原和博 1998 川上憲伸, 松井秀喜 1999 松井秀喜, R.ローズ, 新庄剛志 2000 R.ペタジーニ, 山﨑武司, 清原和博 2001 松井稼頭央, R.ペタジーニ, 中村紀洋 2002 G.アリアス, 的山哲也 2003 高橋由伸, 金本知憲 2004 松坂大輔, SHINJO 2005 金城龍彦, 前田智徳 2006 青木宣親, 藤本敦士 2007 A.ラミレス, 阿部慎之助 2008 山﨑武司, 荒木雅博 2009 青木宣親, 松中信彦 2010 阿部慎之助, 片岡易之 2011 畠山和洋, 中村剛也, 稲葉篤紀 2012 中村紀洋, 前田健太, 陽岱鋼 2013 澤村拓一, 新井貴浩, 内川聖一 2014 B.エルドレッド, 柳田悠岐 2015 藤浪晋太郎, 會澤翼 2016 筒香嘉智, 大谷翔平 2017 内川聖一, A.デスパイネ 2018 森友哉, 源田壮亮 2019 森友哉, 近本光司 2020 (中止) 2021 菊池涼介, 島内宏明 2022 清宮幸太郎, 柳田悠岐 2023 柳田悠岐, 万波中正 2024 牧秀悟,佐藤都志也 表 話 編 歴 1950 荒巻淳 1951 蔭山和夫 1952 中西太 1953 豊田泰光 1954 宅和本司 1955 榎本喜八 1956 稲尾和久 1957 木村保 1958 杉浦忠 1959 張本勲 1961 徳久利明 1962 尾崎行雄 1965 池永正明 1967 高橋善正 1969 有藤通世 1970 佐藤道郎 1971 皆川康夫 1972 加藤初 1973 新美敏 1974 三井雅晴 1975 山口高志 1976 藤田学 1977 佐藤義則 1978 村上之宏 1979 松沼博久 1980 木田勇 1981 石毛宏典 1982 大石大二郎 1983 二村忠美 1984 藤田浩雅 1985 熊野輝光 1986 清原和博 1987 阿波野秀幸 1988 森山良二 1989 酒井勉 1990 野茂英雄 1991 長谷川滋利 1992 高村祐 1993 杉山賢人 1994 渡辺秀一 1995 平井正史 1996 金子誠 1997 小坂誠 1998 小関竜也 1999 松坂大輔 2001 大久保勝信 2002 正田樹 2003 和田毅 2004 三瀬幸司 2005 久保康友 2006 八木智哉 2007 田中将大 2008 小松聖 2009 攝津正 2010 榊原諒 2011 牧田和久 2012 益田直也 2013 則本昂大 2014 石川歩 2015 有原航平 2016 高梨裕稔 2017 源田壮亮 2018 田中和基 2019 高橋礼 2020 平良海馬 2021 宮城大弥 2022 水上由伸 2023 山下舜平大 2024 武内夏暉 表 話 編 歴 1962 張本勲 1963 ブルーム 1964 張本勲 1965 D.スペンサー 1966 榎本喜八 1967 張本勲 1968 張本勲 1969 張本勲 1970 張本勲 1971 江藤慎一 1972 張本勲 1973 張本勲 1974 張本勲 1975 小川亨 1976 加藤秀司 1977 加藤秀司 1978 佐々木恭介 1979 加藤英司 1980 栗橋茂 1981 門田博光 1982 落合博満 1983 スティーブ 1984 スティーブ 1985 落合博満 1986 落合博満 1987 門田博光 1988 門田博光 1989 松永浩美 1990 清原和博 1991 白井一幸 1992 清原和博 1993 辻発彦 1994 イチロー 1995 イチロー 1996 イチロー 1997 鈴木健 1998 片岡篤史 1999 イチロー 2000 イチロー 2001 中村紀洋 2002 A.カブレラ 2003 小笠原道大 2004 松中信彦 2005 松中信彦 2006 松中信彦 2007 T.ローズ 2008 中島裕之 2009 中島裕之 2010 A.カブレラ 2011 糸井嘉男 2012 糸井嘉男 2013 E.ヘルマン 2014 糸井嘉男 2015 柳田悠岐 2016 柳田悠岐 2017 柳田悠岐 2018 柳田悠岐 2019 近藤健介 2020 近藤健介 2021 吉田正尚 2022 吉田正尚 2023 近藤健介 2024 近藤健介 表 話 編 歴 1981 T.ソレイタ 1982 落合博満 1983 スティーブ 1984 ブーマー 1985 秋山幸二, 落合博満, R.デービス, 古屋英夫 1986 P.パットナム 1987 秋山幸二 1988 清原和博 表 話 編 歴 投 西崎幸広 捕 伊東勤 一 清原和博 二 福良淳一 三 松永浩美 遊 田中幸雄 外 秋山幸二 / 平野謙 / 高沢秀昭 指 門田博光 表 話 編 歴 投 野茂英雄 捕 伊東勤 一 清原和博 二 大石第二朗 三 松永浩美 遊 田中幸雄 外 秋山幸二 / 石嶺和彦 / 西村徳文 指 O.デストラーデ 表 話 編 歴 投 石井丈裕 捕 伊東勤 一 清原和博 二 辻発彦 三 石毛宏典 遊 田辺徳雄 外 秋山幸二 / 佐々木誠 / 高橋智 指 O.デストラーデ 表 話 編 歴 1972 大杉勝男 1973 C.ジョーンズ 1974 W.パーカー 1975 加藤秀司 1976 加藤秀司 1977 加藤秀司 1978 柏原純一 1979 柏原純一 1980 小川亨 1981 柏原純一 1982 柏原純一 1983 片平晋作 1984 山本功児 1985 山本功児 1986 ブーマー 1987 ブーマー 1988 清原和博 1989 愛甲猛 1990 清原和博 1991 J.トレーバー 1992 清原和博 1993 清原和博 1994 清原和博 1995 J.フランコ 1996 片岡篤史 1997 髙木大成 1998 髙木大成 1999 小笠原道大 2000 小笠原道大 2001 小笠原道大 2002 小笠原道大 2003 福浦和也 2004 松中信彦 2005 福浦和也 2006 小笠原道大 2007 福浦和也 2008 A.カブレラ 2009 髙橋信二 2010 小久保裕紀 2011 小久保裕紀 2012 稲葉篤紀 2013 浅村栄斗 2014 T-岡田 2015 中田翔 2016 中田翔 2017 銀次 2018 中田翔 2019 内川聖一 2020 中村晃, 中田翔 2021 中村晃 2022 中村晃 2023 中村晃 2024 山川穂高 表 話 編 歴 1位:清原和博 2位:山野和明 3位:原口哲也 4位:森博幸 5位:岡田展和 6位:横田久則 表 話 編 歴 ジェーン・コンドン(『タイム』フリー記者) 渡辺和博(イラストレーター) 近藤道生(博報堂生活総合研究所社長) 慶應義塾大学体育会 雁屋哲 清原和博、工藤公康、渡辺久信 伊丹十三、宮本信子 安部譲二 ニコライ・ソロビエフ(駐日ソビエト連邦大使) 若尾文子 河本和子(弁護士) 堀田かつひこ、土井たか子 三上遵太郎(松下電器産業電化研究所所長) トーマス・リード(『ワシントン・ポスト』東京支局記者) 表 話 編 歴 1999:ともさかりえ 2000:加藤あい 01:深田恭子 02:上原多香子 03:上戸彩 04:後藤真希 05:松浦亜弥 06:BoA 07:長澤まさみ 08:堀北真希 09:成海璃子 10:福田沙紀 11:前田敦子 12:武井咲 13:川島海荷 14:川口春奈 15:橋本環奈 16:小松菜奈 17:中条あやみ 18:岡田結実 19:浜辺美波 20:Kōki, 21:森七菜 22:芦田愛菜 23:ラウール 1990:紺野美沙子 91:安田成美 92:今井美樹 93:牧瀬里穂 94:松雪泰子 95:石田ゆり子 96:飯島直子 97:梅宮アンナ 98:鶴田真由 99:松嶋菜々子 2000:安室奈美恵 01:本上まなみ 02:米倉涼子 03:菊川怜 04:伊東美咲 05:長谷川京子 06:小雪 07:倖田來未 08:加藤ローサ 09:広末涼子 10:ベッキー 11:黒木メイサ 12:大島優子 13:剛力彩芽 14:吉高由里子 15:桐谷美玲 16:井上真央 17:西内まりや 18:菜々緒 19:吉岡里帆 20:有村架純 21:新木優子 22:広瀬アリス 23:永野芽郁 1990:池上季実子 91:古手川祐子 92:島田陽子 93:名取裕子 94:樋口可南子 95:黒木瞳 96:石川さゆり 97:かたせ梨乃 98:川島なお美 99:高島礼子 2000:財前直見 01:中村江里子 02:川原亜矢子 03:小島奈津子 04:水野真紀 05:天海祐希 06:深津絵里 07:篠原涼子 08:中谷美紀 09:滝川クリステル 10:観月ありさ 11:木村佳乃 12:米倉涼子* 13:松嶋菜々子* 14:吉瀬美智子 15:深田恭子* 16:松下奈緒 17:柴咲コウ 18:上戸彩* 19:橋本マナミ 20:木村文乃 21:戸田恵梨香 22:佐々木希 23:田中みな実 1990:村山勝美 91:沢田研二 92:阿川泰子 93:篠ひろ子 94:小池百合子 95:和田アキ子 96:田丸美寿々 97:小林幸子 98:小柳ルミ子 99: 天童よしみ 2000:安藤優子 01:林真理子 02:萬田久子 03:浅田美代子 04:黒木瞳* 05:大竹しのぶ 06:大地真央 07:YOU 08:江角マキコ 09:真矢みき 10:大塚寧々 11:草刈民代 12:檀れい 13:永作博美 14:鈴木保奈美 15:宮沢りえ 16:吉田羊 17:石田ゆり子* 18:遼河はるひ 19:常盤貴子 20:藤原紀香 21:小池栄子 22:アンミカ 23:松嶋菜々子 1990:芳村真理 91:岩下志麻 92:若尾文子 93:佐久間良子 94:野際陽子 95:三田佳子 96:浅丘ルリ子 97:中村玉緒 98:島倉千代子 99:五月みどり 2000:瀬川瑛子 01:木の実ナナ 02:由美かおる 03:松坂慶子 04:桃井かおり 05:秋吉久美子 06:小池百合子* 07:阿川佐和子 08:風吹ジュン 09:夏木マリ 10:戸田恵子 11:高畑淳子 12:余貴美子 13:高橋惠子 14:浅野温子 15:片平なぎさ 16:沢口靖子 17:賀来千香子 18:浅野ゆう子 19:紫吹淳 20:松下由樹 21:斉藤由貴 22:真矢ミキ 23:永作博美 1997:森英恵 98:朝丘雪路 99:雪村いづみ 2000:市原悦子 01:デヴィ・スカルノ 02:白川由美 03:黒柳徹子 04:十朱幸代 05:野際陽子* 06:八千草薫 07:岩下志麻* 08:阿木燿子 09:森山良子 10:髙橋真梨子 11:八代亜紀 12:浅丘ルリ子* 13:由紀さおり 14:竹下景子 15:伊藤蘭 16:和田アキ子* 17:桃井かおり* 18:大竹しのぶ* 19:森昌子 20:原田美枝子 21:田中美佐子 22:宮崎美子 23:大地真央 1992:岡田眞澄 93:山城新伍 94:カールスモーキー石井 95:鹿賀丈史 98:小林旭 99:佐々木主浩 2000:高橋由伸 01:西城秀樹 02:新庄剛志 03:氷川きよし 04:坂口憲二 05:中村獅童 06:清原和博 07:速水もこみち 08:谷原章介 09:松山ケンイチ 10:佐藤隆太 11:伊藤英明 12:佐藤浩市 13:東山紀之 14:市原隼人 15:哀川翔 16:DAIGO 17:三浦春馬 18:福士蒼汰 19:舘ひろし 20:田中圭 21:横浜流星 22:北村匠海 92: ジュリー・ドレフュス 93: ヒロコ・グレース 2001: 高橋尚子 08: 松坂大輔 10: イ・ビョンホン、鳩山幸 11: ウォンビン、蓮舫 12: 少女時代、本田圭佑 13: KARA、内村航平 14: 松本潤 15: 髙橋大輔、May J. 16: ももいろクローバーZ、市川海老蔵 17: 福原愛 18: 浅丘ルリ子、村田諒太 19: コシノジュンコ、加山雄三 20: 浅田真央、高橋英樹 21: 内田篤人 22: 水谷隼 表 話 編 歴 1982 広岡達朗 1983 青木功 1984 山下泰裕 1985 吉田義男 1986 清原和博 1987 岡本綾子 1988 千代の富士貢 1989 ラグビー日本代表 1990 野茂英雄 1991 中嶋悟 1992 亀山努 1993 三浦知良 1994 長嶋茂雄 1995 イチロー 1996 伊達公子 1997 中田英寿 1998 清水宏保 1999 松坂大輔 2000 高橋尚子 2001 イチロー 2002 稲本潤一 2003 松井秀喜 2004 北島康介 2005 武豊 2006 WBC野球日本代表 2007 中村俊輔 2008 上野由岐子 2009 原辰徳 2010 本田圭佑 2011 澤穂希 2012 内村航平 2013 上原浩治 2014 羽生結弦 2015 ラグビー日本代表 2016 大谷翔平 2017 桐生祥秀 2018 大坂なおみ 2019 ラグビー日本代表 2020 藤井聡太 2021 大谷翔平 2022 井上尚弥 2023 栗山英樹・WBC日本代表 2024 北口榛花 表 話 編 歴 春日由三 吉本明光 中山晋平 春日由三 吉川義雄 春日由三 吉川義雄 川村専一 狩野近雄 河上英一 笹本恭彦 明瀬裕 池田太郎 牧定忠 春日由三 吉川義雄 渋沢秀雄 横山隆一 西崎緑 貝谷八百子 田付辰子 メイ牛山 春日由三 吉川義雄 岩田専太郎 勅使河原蒼風 千代の山雅信 小山いと子 吉村公三郎 市川翠穂 マヤ片岡 春日由三 吉川義雄 三國連太郎 小西得郎 栃錦清隆 青木茂高 河上牧子 水木洋子 坂西志保 田村佐紀子 吾妻徳穂 吉川義雄 田中角栄 菊田一夫 若乃花勝治 金田正一 奥むめお 森田たま 細川ちか子 近藤百合子 吉川義雄 横山泰三 水原茂 稲垣浩 朝汐太郎 沢田美喜 杉村春子 戸川エマ 赤堀全子 吉川義雄 木下惠介 大宅壮一 杉浦幸雄 若羽黒朋明 長谷川春子 大濱英子 榊淑子 谷桃子 吉川義雄 秋山登 唐島基智三 柏戸剛 松本幸四郎 中村汀女 田中絹代 秋山ちえ子 江上トミ 長沢泰治 土門拳 高田元三郎 仲代達矢 大鵬幸喜 和田夏十 勅使河原霞 村山リウ 森光子 長沢泰治 工藤昭四郎 東郷青児 森英恵 大山康晴 山内一弘 佐田の山晋松 藤間紫 岡田茉莉子 十返千鶴子 浪花千栄子 長沢泰治 細川隆元 丹羽文雄 實川延若 中西太 栃ノ海晃嘉 飯田蝶子 貞閑晴 新珠三千代 花柳壽輔 佐久間良子 長沢泰治 大林清 北葉山英俊 林与一 古賀忠道 春風亭柳橋 岩下志麻 司葉子 長谷川町子 林美智子 吉屋信子 坂本朝一 円地文子 安達曈子 入江美樹 藤村志保 小絲源太郎 松下幸之助 ファイティング原田 緒形拳 坂本朝一 樫山文枝 五代利矢子 浜美枝 山崎豊子 大佛次郎 尾上菊之助 加藤芳郎 鶴ヶ嶺昭男 中山卯郎 福島慎太郎 木村秀政 西本幸雄 石坂浩二 福原美和 栗原小巻 塩月弥栄子 平岩弓枝 中山卯郎 江夏豊 王馬熙純 榊原仟 鈴木俊一 曽野綾子 高田敏子 藤田弓子 三船敏郎 中山卯郎 浅丘ルリ子 市川海老蔵 今井通子 大谷直子 菅野義丸 佐藤愛子 鶴岡一人 平幹二朗 中道定雄 坂東玉三郎 樋口久子 小林弘 三田佳子 志村喬 武原はん 玉の海正洋 中山律子 仲代達矢 小野田勇 浪花家辰造 大場政夫 宇田川龍男 堀内寿子 大山英子 村山加代子 中山きよ子 樫山文枝 山口果林 高橋信雄 山下迪子 館弘子 石田芳夫 中山紀子 井沢つま 森戸辰男 溝尾正志 花本方美 為久優子 成田和子 桑田たつ子 村上巳里 山下誠 小川善三郎 河野久枝 桑原永子 田中由起子 佐藤太圭子 山田三智穂 大谷豊二 高橋優子 貴ノ花利彰 赤塚洋文 平内義幸 富岡雅寛 山崎勲 平賀輝子 中川時子 加藤稔 池内淳子 中原誠 森英恵 小林桂樹 中村汀女 井上ひさし 中野貴代 神田好武 真木洋子 輪島大士 高橋洋子 生沼スミエ 棟方志功 村上元三 京マチ子 サトウサンペイ 高田ユリ 尾上菊五郎 寺島純子 北の湖敏満 根本良夫 橋本明治 杉村春子 尾上松緑 栗原小巻 堀江謙一 檀ふみ 魁傑將晃 新垣留美子 根本良夫 尾上梅幸 高橋展子 吉永小百合 加藤剛 三林京子 大竹しのぶ 古葉竹識 三重ノ海五郎 池田彌三郎 浅丘ルリ子 中村梅之助 小野清子 村上隆 堤加蓉子 カロリーナ・ピレス・ド・リオ 若三杉壽人 川上哲治 川口幹夫 市川染五郎 上田利治 旭國斗雄 水島新司 川橋幸子 橋田壽賀子 新井春美 竹下景子 川口幹夫 北の湖敏満 岩下志麻 植村直己 八千草薫 安奈淳 森和人 森下洋子 山本浩二 加藤好雄 若山富三郎 ミヤコ蝶々 菅原文太 大原麗子 松本零士 重兼芳子 古葉竹識 多岐川裕美 加藤好雄 松本幸四郎 陳舜臣 佐久間良子 木田勇 向田邦子 島田陽子 鈴木喜久子 角田好雄 渡辺一雄 石毛宏典 古手川祐子 緒形拳 花井幸子 倉本昌弘 森光子 坂田栄男 高橋洋子 秋竜山 澤地久枝 香川宏 生沼スミエ 玉の海梅吉 森英恵 山藤章二 池上季実子 広岡達朗 村松友視 真野響子 滝田栄 橋田壽賀子 前橋汀子 市川猿之助 香川宏 三船敏郎 松本幸四郎 大原麗子 田淵幸一 樋口久子 松坂慶子 田中裕子 隆の里俊英 谷川浩司 林真理子 胡桃沢耕史 宮尾登美子 山口小夜子 役所広司 菊池綜一 江上由美 釜本邦茂 名取裕子 風間杜夫 石井幹子 連城三紀彦 里中満智子 衣笠祥雄 松坂慶子 市川海老蔵 遠藤利男 三田佳子 中村吉右衛門 高野悦子 小池一夫 武原はん ジェームス三木 山口洋子 吉田義男 大地真央 北尾光司 中野正之 森光子 清原和博 森下洋子 雁屋哲 黒柳朝 加藤芳郎 山崎洋子 渡辺謙 加納みゆき 千代の富士貢 吉岡利夫 若尾文子 中井貴一 森瑤子 江藤俊哉 俵万智 逢坂剛 森口祐子 近藤真一 若村麻由美 北勝海信芳 今西陽一郎 三田佳子 片岡孝夫 伊藤京子 森祇晶 浅野温子 安野光雅 伊勢桃代 新井満 山口智子 千代の富士貢 沖清司 千代の富士貢 いしだあゆみ ねじめ正一 小林浩美 中村勘九郎 村崎芙蓉子 西田敏行 石岡瑛子 斎藤雅樹 渡辺梓 沖清司 山本陽子 中村鴈治郎 諏訪内晶子 野田秀樹 コシノジュンコ 渡辺久信 森口祐子 松岡修造 沢口靖子 真田広之 小林由紀子 増井光子 山崎豊子 秋山幸二 芦原すなお 荻野アンナ 若花田勝 貴花田光司 緒形直人 鷲尾いさ子 田中好子 内林達夫 有森裕子 曙太郎 古賀稔彦 富司純子 中田久美 野茂英雄 村上弘明 伊藤みどり 森光子 高橋克彦 松尾武 三田佳子 米長邦雄 市川團十郎 細川直美 筒井道隆 つみきみほ 松原敏春 平瀬真由美 宮尾登美子 川淵三郎 内館牧子 田村亮子 植木等 野村克也 中丸三千繪 古田敦也 ミヤコ蝶々 曙太郎 古橋廣之進 大林素子 松尾武 イチロー 赤井英和 奥野史子 岩下志麻 羽生善治 南井克巳 賀来千香子 川本ゆかり 市川崑 森光子 上田洋一 古田敦也 田村亮子 天海祐希 竹中直人 原辰徳 水谷八重子 中村紘子 ジョージ川口 柳家小さん 大石芳野 上田洋一 有森裕子 川口能活 江角マキコ 仰木彬 清水市代 中村橋之助 森英恵 桂米朝 大石静 周防正行 大橋晴夫 井原正巳 吉永小百合 片岡仁左衛門 伊藤みどり 佐々木主浩 佐藤夕美子 本木雅弘 篠田節子 谷川浩司 吉行あぐり 大橋晴夫 清水宏保 藤原紀香 琴錦功宗 中村玉緒 松平健 俵万智 ジェームス三木 服部道子 熊川哲也 浅利純子 伊東律子 出島武春 松嶋菜々子 内館牧子 野村萬斎 田村亮子 津川雅彦 草笛光子 阿久悠 福嶋晃子 乙武洋匡 伊東律子 田村亮子 長嶋茂雄 高橋尚子 渡辺謙 池内淳子 佐々木主浩 岡本綾 井上康生 木村佳乃 内藤國雄 出田幸彦 栃東大裕 川原亜矢子 室伏広治 竹田恆和 松岡佑子 唐沢寿明 平良とみ 天海祐希 藤田宜永 森下洋子 出田幸彦 朝青龍明徳 米倉涼子 市川新之助 阿川佐和子 宮本恒靖 仲間由紀恵 高橋由伸 恩田美栄 岩合光昭 岸惠子 中村季恵 浅野ゆう子 五木寛之 優香 三谷幸喜 村山由佳 末續慎吾 村主章枝 武田真治 有馬稲子 星野仙一 中村季恵 野口みずき 野村忠宏 橋田壽賀子 中村勘九郎 荒川静香 滝沢秀明 高島礼子 和田一浩 森光子 日野原重明 琴欧州勝紀 薬師丸ひろ子 野口聡一 長澤まさみ 山田洋次 森光子 上川隆也 眞鍋かをり 林家正蔵 栗原はるみ 渡辺謙 阿木燿子 リリー・フランキー 藤山直美 内野聖陽 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2025/04/03 07:08更新
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kiyohara kazuhiro
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