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片岡篤史の情報 (かたおかあつし)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

片岡篤史の情報(かたおかあつし) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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片岡 篤史さんについて調べます

■名前・氏名
片岡 篤史
(読み:かたおか あつし)
■職業
野球選手
■片岡篤史の誕生日・生年月日
1969年6月27日 (年齢54歳)
酉年(とり年)、蟹座(かに座)
■出身地・都道府県
京都出身

(昭和44年)1969年生まれの人の年齢早見表

片岡篤史と同じ1969年生まれの有名人・芸能人

片岡篤史と同じ6月27日生まれの有名人・芸能人

片岡篤史と同じ出身地京都府生まれの有名人・芸能人


片岡篤史と関係のある人

立浪和義: また、片岡篤史の後任として北海道文化放送の「スポーツワイド Fの炎」のレギュラー解説者にも起用された。


星野仙一: オフにオリックスからジョージ・アリアス、FAで日本ハムから片岡篤史を獲得した。


金子誠: オフにはこの年より阪神タイガースへ移籍の兄貴分として慕っていた片岡篤史が着用していた背番号8(2002年は1年間欠番だった)を受け継いだ。


金村曉: また同日の夜、日本ハム時代の先輩だった片岡篤史・下柳剛(当時、ともに阪神に在籍)から呼び出され、直接「(俺たちは)お前にそんな事を教えたか?目を覚まさせてやる!」と厳しい叱責を受けたが、最後には「こういう経験がないと大きくなれない。


宮本好宣: 大学の後輩でもある片岡篤史、岩本勉を獲得した。


建山義紀: 先輩の片岡篤史が、引退する際に「家にある1番いいワインを飲ませてくれ」と頼んできたが、その時点で既に沢山酒を飲んでいた片岡は、建山がワインのふたを開けてすぐに突然「帰るわ~」と言い出しワインを飲まずに帰ってしまい、泣く泣く開けてしまったワインを朝食の準備の下ごしらえに使ったと『FFFFF』で語った。


木田優夫: 1000投球回:2000年8月13日、対日本ハムファイターズ19回戦(東京ドーム)、5回裏3死目に片岡篤史を投手ゴロ ※史上283人目


若田部健一: 最優秀新人(新人王)は髙村祐が受賞したが、片岡篤史・河本育之とともにパ・リーグ会長特別表彰を受けた。


金村義明: 『プロ野球ニュース』が地上波(フジテレビ)で最後に放送された2000年度オフシーズンに、同番組のレギュラー解説者として出演したロケ企画で片岡篤史(当時は日本ハムファイターズ内野手)の実家(京都府久世郡久御山町)を訪れた際に、「片岡が自費で実父に贈った」という檜造りのサウナへいち早く入浴した。


柴田猛: ^ 「もうこれ以上はタダで殴られるのは嫌だ」衝撃のプロ野球に進んだ理由と大爆笑の南海ホークス時代を暴露 - 片岡篤史チャンネル


広瀬哲朗: 1997年は、落合博満の加入により一塁手の片岡篤史が三塁へ再コンバートとなったため、玉突き的にレギュラーポジションから弾き出され広瀬の出番は大きく減る。


面出哲志: 初奪三振:同上、9回表に片岡篤史から


上田利治: 小笠原道大・井出竜也・西浦克拓・野口寿浩・上田佳範など、スタメンに定着できなかった若手を中心選手に育て、特に小笠原は捕手から一塁に転向させて一気に打撃センスが開眼し、怪我で低迷していた片岡篤史をクリーンアップに起用して復活させた。


大島康徳: 日本ハム監督時代の2001年オフ、当時チームの中心選手であった片岡篤史がFA権を行使。


森慎二: 初奪三振:同上、1回表に片岡篤史から


野村弘樹: 1987年、桑田泉(桑田真澄の実弟)、立浪和義(元中日)、片岡篤史(元日本ハム)、橋本清(元巨人)、宮本慎也(元ヤクルト・宮本のみ1学年下)らを揃えた強力チームのエースとして史上4校目の甲子園春夏連覇を達成した(野村は10試合に登板し6勝0敗を記録)。


江越大賀: 2017年の秋季キャンプからは、その打開策の一環として監督の金本知憲や一軍打撃コーチの片岡篤史(いずれも当時)の勧めで両打へ挑戦。


髙津臣吾: 同年秋の明治神宮野球大会では準決勝で、杉浦正則や3年生片岡篤史らを擁して優勝した同志社大に小池温存高津先発により3-4で惜敗した。


小田智之: 初出場:2001年10月1日、対西武ライオンズ28回戦(西武ドーム)、5回表に片岡篤史の代走として出場


西崎幸広: また、ストレートは体がバランスよく投げられている時はわずかにスライダー回転をしており(いわゆる真っスラ)、バッティングピッチャーとして登板した西崎の球を実際に打った日ハムのチームメイトだった片岡篤史は左打者だったため「重い」と感じたという。


ジョージ=アリアス: この年3番を担った片岡篤史とのコンビは阪神の強力打線の口火となった。


山崎武司: 1999年にも出場して2年連続優勝するが、対戦相手の片岡篤史が右肩脱臼の重傷を負い、これ以降、プロ野球選手の相撲競技は行われなくなった。


伊藤史隆: その一方で、星野仙一の逝去(2018年1月4日)を受けて朝日放送テレビで同月8日に放送した『虎バン追悼特別番組 ありがとう!星野仙一さん』では、阪神一軍監督時代(2002年・2003年)の星野を頻繁に取材した縁で、当時選手や球団職員として星野を支えていた金本知憲・平田勝男・矢野燿大・片岡篤史の対談パートを進行した。


尾山敦: 2回戦では野村弘、橋本清や片岡篤史、立浪和義を擁して春夏連覇を果たすPL学園と対戦。


小笠原道大: 2002年も、阪神タイガースへ移籍した片岡篤史が抜けた打線の柱として3番打者に定着。


松坂大輔: 同回には3番・片岡篤史に対し球速155 km/hの速球で三振を奪い、8回2失点で初勝利を挙げ、デビューを飾った。


赤堀元之: また、スライダーについて片岡篤史は「松坂ぐらいのキレの良いスライダーを投げられるのは、赤堀だけ」、吉村禎章は「モノが違う」と絶賛している。


石川慧亮: 10月16日の対中日ドラゴンズ戦では同球団二軍監督・片岡篤史の計らいで、育成選手として所属する兄・翔との対戦が実現。


伊達昌司: ^ 同時期に発表された坪井智哉と野口寿浩のトレードとは別件と長らく語られていたが、下柳は、2020年に片岡篤史のYouTubeチャンネルにて、本来このトレードは野口と坪井も含めた3対3で発表される予定だったが、下柳本人が年俸のダウン金額等の不満から球団と揉めたことにより発表のタイムラグが出たと語った。


田中賢介: 当時の正三塁手だった片岡篤史が故障したため、翌日の開幕2戦目にプロ初先発起用され、3月31日から4月6日まで6試合連続で3番打者を任されたが、打率を残せず、一軍定着は出来なかった。


片岡篤史の情報まとめ

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片岡 篤史(かたおか あつし)さんの誕生日は1969年6月27日です。京都出身の野球選手のようです。

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選手としての特徴、人物などについてまとめました。卒業、テレビ、結婚、引退、父親に関する情報もありますね。今年の情報もありました。片岡篤史の現在の年齢は54歳のようです。

片岡篤史のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

片岡篤史チャンネル

片岡 篤史(かたおか あつし、1969年6月27日 - )は、京都府久世郡久御山町出身の元プロ野球選手(内野手、右投左打)、コーチ、野球評論家。

2024年から中日ドラゴンズの一軍ヘッドコーチを務める。芦屋大学で客員教授を務めていたこともある。

中学校時代はシニアリーグのチームに入っており、後にPL学園で同学年のチームメイトとなるボーイズリーグ出身の立浪和義とは試合をしたことがなかった。シニアでは「京都の怪物」の異名をとるほどの強打者として有名だったが、PL学園時代は体は大きいが要領が悪く、洗濯機を奪い合う競争にもいつも負けていた。同期の1年生たちが先輩たちのユニフォームの洗濯を終えて眠りをむさぼる深夜、ようやく片岡は洗濯機に先輩のユニフォームを突っ込んでうなだれているという有様だった。そんな片岡の様子を、立浪は「いつか、寮から逃げ出すのではないか」とずっと心配していたという。

高校2年の秋の大会ではレギュラーのポジションを獲ったが、打撃には安定感がなく、左打者である片岡は、相手チームのエースが左投手だとスターティングメンバーから外されて悩んでいたという。当時大阪桐蔭高校の1年生には、後に立浪とともに中日ドラゴンズでプレーする左のエース・今中慎二がいた為、彼が出てくると先発から外された。また、ここという大一番で出番がないのが片岡の課題だった。そんな片岡に何とかレギュラーに定着してほしいと、立浪は寮で同じ部屋になったという。秋が深まり寒さが厳しくなった時期、「悩むくらいなら、毎朝一緒に落ち葉掃きをしないか!」と立浪から提案され、毎朝5時半に起きて約1時間、グラウンドの周りの落ち葉を掃除し続けた。最初、片岡は立浪から起こされてもなかなか布団から出ようともしなかったが、日を重ねるにつれて片岡も自分から起き出すようになり、立浪曰く「晴れやかな気持ちで一日が始まる快感を知ると、最初の眠気にさえ勝てば、むしろ楽しみになる」ほどとなり、落ち葉がとうとう落ちなくなるほどまで続けられたという。春になって片岡のバッティングは良くなり、片岡は不動のレギュラーとなった。

PL学園高校時代、4番打者として1987年春の第59回選抜と同年夏の第69回全国選手権で優勝を果たし、甲子園史上4校目となる春夏連覇を達成。同期に立浪・橋本清・野村弘ら、1学年下には大学でも後輩となる宮本慎也、2学年上には清原和博・桑田真澄のKKコンビがおり、片岡は清原の付き人であった。また、2学年下には清原和博の弟の清原幸治がおり、3年時の片岡の付き人であった。

卒業後は同志社大学に進学。関西学生野球リーグでは1989年春季リーグで首位打者になる。エース杉浦正則を擁し1990年秋季リーグで7年ぶりの優勝を飾る。同年の明治神宮鎮座70年記念明治神宮野球大会でも決勝で立大を延長12回の熱戦で降し優勝。リーグ戦通算91試合出場、311打数100安打、打率.322、10本塁打、48打点。ベストナイン4度受賞。

1991年度ドラフト会議にて日本ハムファイターズから2位指名を受けて入団。担当スカウトは大学の先輩である宮本好宣。

1992年4月4日の西武ライオンズ戦に「7番・三塁手」で先発しプロ初出場。この試合で工藤公康からプロ初ヒットを放った。4日後の近鉄バファローズ戦では入来智からプロ初本塁打を放った。その後は本塁打が出ず、6月末まで打率.262、1本塁打と低調な成績ながらも土橋正幸監督に辛抱強く使い続けられると、7月に打棒が爆発し、.385、6本塁打、20打点で月間MVPを獲得する。西武がリーグ3連覇を決めた9月30日の試合では潮崎哲也から左飛に打ち取られ最後の打者になっている。1年目から三塁のレギュラーとして出場し、125試合で打率.290、10本塁打を記録し、規定打席にも到達するなど活躍した。新人王争いは高村祐(近鉄)に敗れたが、その活躍から特別表彰を受けている。また、入団の際に大学卒業に必要な単位が不足していたため、1年留年し、シーズンオフに残存単位を取得して卒業した。

1993年はオールスターゲームに初めて選出された。同年は打点と本塁打が前年より減り、三振数は102を記録したが、打率.287を記録した。

1994年は2年ぶりに2桁本塁打を記録したが、肘の故障に苦しみ99試合の出場にとどまり、打率も2割台前半だった。また、チームも10年ぶりの最下位に終わった。

1995年は肘の状態を考慮して一塁にコンバートし、2年ぶりに100試合出場を超えた。規定打席には到達したが、打撃不振は変わらず、2年続けて100安打に到達しなかった。

1996年はこれまでの不振を一掃する活躍を見せ、自身初の3割となるリーグ2位の打率.315を記録(自己最高打率)し、15本塁打を記録した。

1997年、読売ジャイアンツから自由契約になった落合博満が加入した関係で一塁から三塁へ再びコンバートした。打撃では3割は逃したが、17本塁打を放った。

1998年は、前年同様17本塁打を記録した。また2年ぶりの打率3割と最多四球を記録し、最高出塁率のタイトルを獲得した。113四球は当時のパ・リーグ記録。オフに出演したプロ野球オールスタースポーツフェスティバルの相撲競技で右肩を脱臼した。(対戦相手は山崎武司)

1999年、開幕戦から4打数4安打の固め打ちするなど4試合で打率5割を記録した中、4月7日の西武戦で、プロ初先発の松坂大輔が投げた155km/hの速球に、片岡は豪快な空振りをした。その映像は松坂のデビュー戦のハイライトとしてよく使用されている。試合前には「データでは松坂は変化球投手だ」と分析しており、前日に食事をした金村義明にもそう語っていた。後に片岡は「松坂は僕の空振りを見て自分のボールに自信がついたんだろう」と冗談交じりに語った。しかし、それ以後片岡は松坂を得意としている。同シーズンはこの松坂の初対戦時のフルスイングで脇腹とヒラメ筋を痛めてしまい故障を抱えたまま戦ったため、前年の成績を下回った。

2000年4月2日の西武戦で土肥義弘からソロ本塁打を放ち、プロ通算100本塁打を達成した。5月31日の福岡ダイエーホークス戦で1000試合出場を達成した。6月13日の近鉄戦では1000本安打を達成した。6月30日の対西武戦で、9回裏に松坂のノーヒットノーランを阻止するヒットを打っている。打ったボールは前年空振りを喫した高めの直球だった。同年は節目だらけの年となり、打率.290で自己最多の21本塁打、97打点を記録した他、2年ぶりに最多四球を記録した。また、1997年から2000年まで4年連続でオールスターゲームに選出された。

2001年は打撃3部門全て前年を下回る成績で出場試合数も106試合と前年からやや減少し、打率も.254で終わるなど不本意な成績となった。チームも7年ぶりの最下位に終わった。

日本ハム時代は、選手会長としてチームを引っ張る立場だった。岩本勉はテレビ番組で「マウンド上でくじけそうになったときも、片岡さんが後ろから励ましてくれて有り難かった」と話している。また、小笠原道大がまだ新人だった頃、その才能を見抜いて熱心に指導を行い、小笠原本人も「いつも片岡さんの背中を追いかけていた」と語っている。後に小笠原がFA宣言し、日本ハムに残留するか読売ジャイアンツへ移籍するか迷った時に、最初に相談した相手は片岡だった。

2001年シーズンオフにFA宣言し、12月21日に星野仙一が監督に就任した阪神タイガースへ移籍。このオフに結婚。夫人は当時大学4年生だった。その後、2児をもうける。

2002年は2年ぶりにオールスターゲームに選出されたが、シーズンではセ・リーグのバッテリーの配球に苦しみ、120試合に出場して規定打席には到達したが打率.228、11本塁打、46打点と不本意な成績で終わった。

2003年は規定打席には到達しなかったが勝負強い打撃で復活し、110試合の出場で打率.296、12本塁打、55打点の成績を残した。阪神のリーグ優勝に貢献した。12本塁打は阪神移籍後最多だった。チームが優勝を決めた9月15日の広島東洋カープ戦では、8回裏に代打で登場して同点ソロ本塁打を放ち、9回裏にも一死一塁から右前へのヒットで一・三塁として赤星憲広のサヨナラ打を演出した。

2004年は新監督に現役時代阪神のスターだった岡田彰布が監督に就任。新外国人のマイク・キンケードが加入し、三塁のレギュラーを争うことになった。開幕スタメンこそ逃したがキンケードの故障離脱でスタメン出場が増えた。しかし今度は片岡が不調に陥ってしまい、開幕から遊撃手で起用された新人の鳥谷敬が打撃不振のため数試合でその座を藤本敦士に譲り、その鳥谷が片岡の不調に伴って三塁手に配置転換されるとそのまま定着したため代打に回る機会が増えた。最終的に出場機会を確保できず46試合の出場にとどまり、打率も.205と不振で本塁打も9年ぶりの1桁(3本塁打)に終わった。

2005年は鳥谷が遊撃手に戻ったが、三塁手に今岡誠、一塁手にはアンディ・シーツが起用されたことでこの年もレギュラーで起用されなかった。代打で6打席連続ヒットを記録するなど、ここぞという時の切り札として活躍したが、全体では50試合の出場で前年同様低調な成績で終わった。また、本塁打数はプロ入り後ワーストの1本だった。この年チームは2年ぶりにリーグ優勝した。

2006年は関本健太郎らにポジションを奪われ、更に相次ぐ故障から前年同様50試合の出場に留まった上、本塁打がわずか1本で打率も1割台と打撃不振に陥り、シーズン終盤に戦力外通告を受けた。これを受けて体力的な限界もあったことからこの年をもって現役を引退。阪神ではシーズン100安打を打てず、規定打席に到達したのは2002年の1回だけだった。引退試合となった10月12日の中日ドラゴンズ戦では「6番・三塁手」でスタメン出場し、左翼を守っていた盟友である立浪の頭上を越える二塁打を放つなど2安打で有終の美を飾った。胴上げには阪神選手のほか、中日から立浪、谷繁元信、井上一樹、PL学園の後輩である福留孝介、日本ハム時代のチームメイトである奈良原浩、上田佳範も加わった。引退セレモニーでは立浪が花束を贈呈し、片岡と熱く抱擁を交わした。

2007年から3年間フジテレビ・関西テレビの野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家に就任。関西テレビの『ぶったま!』では、阪神の一軍打撃コーチに就任した広澤克実に代わりレギュラーコメンテーターを番組終了時まで務めていた。

また、日本ハムOBということで、『STVアタックナイター・ファイターズスタジアム』(STVラジオ)解説者として北海道のラジオでも解説を担当している。2007年9月29日の千葉マリンスタジアムでのロッテ対日本ハム戦は、日本ハムのリーグ優勝がかかっていたため、STVラジオ制作として片岡の解説で千葉から放送を行い、NRN系列で全国放送された。

2008年2月4日より広瀬哲朗の後任として、『スポーツワイド Fの炎〜SPORT HOKKAIDO〜』(北海道文化放送)の野球解説者となる。これは片岡の北海道で初のレギュラー番組である。

2010年シーズンからは阪神に一軍打撃コーチとして復帰。コーチ1年目はチーム打率.289の球団記録を残すなど、シーズンを通して打線が好調だった。

2011年12月9日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載される。

2012年はチーム打率はリーグ4位、チーム本塁打はリーグ最下位と低迷し、責任を取って辞任。

2013年から再び3年間、フジテレビ・関西テレビ・北海道文化放送の野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家へ復帰。また、芦屋学園スポーツモダニズムプロジェクトの一環として、芦屋大学の客員教授を務めた。

2015年には上記の活動に加え、札幌テレビの北海道日本ハム戦中継で解説を担当。シーズン終了後の10月27日、新監督の金本知憲の強い要請で阪神の一軍打撃コーチへ再び就任することが発表された。

阪神の打撃コーチとしては逆方向への打撃の指導を重視していた。それは2017年シーズンにチーム最多の20本塁打を放った中谷将大に対しても例外ではなかった。大山悠輔を4番に抜擢したのは片岡の進言だった。

2018年は一軍ヘッド兼打撃コーチとなったが、チームの打率と得点がリーグ5位、本塁打数がリーグ最下位に低迷し、チームも17年ぶりの最下位に終わった。10月14日、球団へ辞任を申し入れ、受理された。

2019年からは三たび3年間、フジテレビ・関西テレビ・北海道文化放送の野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家に復帰する。

YouTuber活動を行っている高木豊のチャンネル動画に幾度か出演していたが、同年10月12日より自身のYouTubeチャンネルも開設し、YouTuber活動を本格化させる。初回投稿動画には高木も出演した。11月29日にはPL学園の2年先輩である清原和博とのYouTube動画の撮影を行い、12月上旬から4本の動画を投稿。清原が覚醒剤取締法違反で有罪判決後、まだ執行猶予中の身分であることもあり、反響を呼んだ。清原が監督を務めた同年のワールドトライアウトでは、片岡は打撃コーチを務めていた。

2020年4月14日、新型コロナウイルスに感染し、8日から入院中であると自身のYouTubeチャンネルへの動画投稿をもって公表した。投稿された動画は片岡による病床での自撮り映像で現状を報告したもので、鼻に酸素吸入のチューブをつけ、呼吸をするのも苦しそうな途切れ途切れのかすれ声で、うつろな目をしながら話すという衝撃的なものだった。ファビピラビル(アビガン)を服用しその後は回復し、4月24日に退院したことを報告する動画を投稿している。

2021年からは日本ハムOBとしてGAORAの解説者としても活動。

現役引退後の15年間は、「解説者・評論家としての活動期」と「阪神打撃コーチ」を3年ごとに交互に繰り返していた。

上述のように現役引退後の活動は、在籍経験のある日本ハム・阪神両球団のOBとしてのものが主であり、この時点で中日ドラゴンズとは無縁と思われていたが、2021年オフにPL学園時代のチームメートで同級生でもあった立浪和義が一軍監督に就任すると、直後の2021年11月2日に立浪に請われる形で二軍監督に就任することが発表された。

2023年10月4日、二軍監督から一軍ヘッドコーチへ昇格することが球団関係者への取材で分かった。

選手としての特徴

がに股で構えて球を惹き付け、腰を沈めながら足を高く上げてフルスイングする独特な一本足打法が特徴の好打者。日本ハム時代は“ビッグバン打線”の一角を担い、主に3番打者として活躍。1998年はつなぎの打撃で打線の潤滑油となり、抜群の選球眼でリーグ最多の113四球を選ぶと、出塁率.435で最高出塁率のタイトルを獲得。内野守備も巧みで三塁手で2度、一塁手で1度のゴールデングラブ賞に輝いている。

人物

現役時代から徹底した嫌煙家である。

PL学園の同級生には鍋山隆弘もいる。

阪神タイガースにFA移籍した経緯

日本ハム時代の2001年オフに片岡はFA権を行使すると、日に日に阪神に移籍したいという気持ちが芽生えていた。しかし、当時監督の大島康徳やチームメイトを「裏切ってしまうことにならないか」という気持ちもあり、思い悩んだという。片岡は父親から「大島さんに決めてもらえ」と言われ、大島の元を訪れて正直な思いを伝えた。大島は片岡に対し、「寂しいけれど、他のチームから来て欲しいと言ってもらえる選手になれたんだから、素晴らしいことじゃないか。(阪神で)頑張ってこい」と伝え、片岡は移籍を決断したという。

応援歌

日本ハム時代の応援歌は、古屋英夫のテーマ曲を流用。ファンファーレから始まる曲だった。阪神の応援団は片岡の応援歌を作る際に、このファンファーレを継承。さらに、「右投げ左打ち、実家は檜風呂 リフォーム リフォーム 片岡篤史」という歌詞を付け加えた。元々は「小さい頃からの、夢を叶える為、やってきた~、やってきた~ 我らが篤史」である。また、応援歌の本編はゲームのファンタジーゾーンのBGMである。

この歌詞の由来は、日本ハム時代に片岡が父親に贈った実家の風呂の一番風呂に金村義明が入るというプロ野球ニュースのオフ企画と推測されており、金村は後に「応援歌のネタにされてしまい、申し訳ないことをした」と振り返った。

なお、片岡が「打席で応援歌が気になる」と契約更改で発言したため、応援団は2003年までで片岡のファンファーレの演奏を止め、この箇所を新たに作り直した。なお、引退後は阪神時代の応援歌について「今考えれば、それだけ応援歌が取り上げられることはなかなかない。いまだに皆さんに『応援歌は良かった』と言ってもらえるので」と語っている。

ジャンクSPORTS出演時や、自身のYouTubeチャンネルで「檜風呂」ではなく「檜のサウナ」だったことを証言している。このエピソードを語った動画は投稿から1日で再生回数約3万7000回、高評価数1,190件を記録した。

後に、実家の風呂はホーロー製であることを明かしており、この縁でタカラスタンダードのWebムービーに起用された。

YouTuberとして

チャンネル開設には先んじてYouTuberとして活動していた先輩・高木豊の強い勧めがあった。高木は「テレビの解説はクソつまらないが普段は面白い」「普段からのあの調子が出せれば一大人気者になれる」と片岡のトークがカメラが回っておらず、リラックスしている所では非常に面白いことを評価しており、「(YouTuberに)向いてるからやれ」とアドバイスしたのがきっかけとなった。

2022年シーズンからは、中日ドラゴンズの2軍監督を勤めつつ、並行してYouTubeでの活動を続けている。

2024/06/14 07:56更新

kataoka atsushi


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片岡篤史と近い名前の人

片岡 優香(かたおか ゆうか)
1981年10月3日生まれの有名人 愛媛出身

片岡 優香(かたおか ゆうか、1981年10月3日 - )は、日本のタレント。チーズプロフェッショナル。ライター。愛媛県生まれ、千葉県育ち。フロムファーストプロダクション、アヴリルを経て独立。Iris…

片岡 未優(かたおか みゆ)
1999年2月7日生まれの有名人 愛知出身

片岡 未優(かたおか みゆ、1999年〈平成11年〉2月7日 - )は、日本の女性アイドル、グラビアアイドル。女性アイドルグループ「どーぴんぐ疑惑」のメンバー。女性アイドルグループ「虹のコンキスタドー…

片岡 彩(かたおか あや)
1985年7月6日生まれの有名人 出身

片岡 彩(かたおか あや、1985年7月6日 - )は、専属モデル、タレント。 ファッション雑誌「bis」には2001年の創刊当初から登場。 数少ない専属モデルとして活躍し、表紙を計30回飾る。 …

片岡 沙耶(かたおか さや)
1993年7月18日生まれの有名人 神奈川出身

片岡 沙耶(かたおか さや、1993年〈平成5年〉7月18日 - )は、日本のタレント、グラビアアイドル。 神奈川県出身。愛称は「さやぼー」。 中学時代は吹奏楽部でフルートを演奏。 高校時代は…

片岡 凜(かたおか りん)
2003年10月6日生まれの有名人 群馬出身

片岡 凜(かたおか りん、2003年10月6日 - )は、日本の女優。群馬県出身。フラーム所属。 幼少期から、映画を愛好する父と一緒に観て「俳優がちょっとした目の動きやひとことのセリフで見ている人…

片岡 未来(かたおか みらい)
1980年5月22日生まれの有名人 千葉出身

片岡 未来(かたおか みらい、1980年5月22日 - )は、日本の元タレント。 明治大学政治経済学部卒業。テレビ番組『喝!リベンジナイト』で女子大生タレント「リベギャル」の1人として出演しデビュ…

片岡 明日香(かたおか あすか)
1975年7月7日生まれの有名人 岡山出身

片岡 明日香(かたおか あすか、本名同じ、1975年7月7日 - )は、日本のグラビアアイドル、女優。岡山県出身。旧芸名は立河あすか。劇団東俳を退所後、プロダクションハーモニーに所属。 現在のプロ…

片岡 かずさ(かたおか かずさ)
1996年3月3日生まれの有名人 岐阜出身

片岡 かずさ(かたおか かずさ、1996年3月3日 - )は、日本のタレント、モデル、レースクイーン。 名古屋のアイドルユニット『dela』の元メンバー(1期生)である。岐阜県出身。 アイドルユニッ…

片岡 礼子(かたおか れいこ)
1971年12月20日生まれの有名人 愛媛出身

片岡 礼子(かたおか れいこ、1971年12月20日 - )は、日本の女優。愛媛県伊予郡松前町出身。ハイイロ所属(元:芹川事務所、pdash、カクトエンタテインメント)。 松前町立岡田小学校、愛媛…

片岡 洋介(かたおか ようすけ)
1982年5月26日生まれの有名人 埼玉出身

片岡 洋介(かたおか ようすけ、1982年5月26日 - )は、埼玉県入間郡三芳町出身の元プロサッカー選手。ボランチやセンターバックなど守備的ポジションについている。 2016年にガイナーレ鳥取に…

片岡 直温(かたおか なおはる)
1859年10月13日生まれの有名人 高知出身

片岡 直温(かたおか なおはる、1859年10月13日(安政6年9月18日)- 1934年(昭和9年)5月21日)は、明治から昭和初期の実業家、政治家。土佐国高岡郡半山郷永野村(現在の高知県津野町永野…

片岡 富枝(かたおか とみえ)
1944年11月2日生まれの有名人 千葉出身

片岡 富枝(かたおか とみえ、1944年11月2日 - )は、日本の女優、声優。劇団青年座所属。千葉県松戸市出身。 主な出演作品に、「オバタリアン」(絹代)、「ツヨシしっかりしなさい」(井川美子)、…

片岡 身江(かたおか みえ)
1972年4月14日生まれの有名人 神奈川出身

片岡 身江(かたおか みえ、1972年4月14日 - )は、日本の声優、女優。旧芸名は片岡 みえ(読みは同じ)。 神奈川県出身。1979年、劇団若草に入団して芸能活動を開始。その後マウスプロモーシ…

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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「片岡篤史」を素材として二次利用しています。

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