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榎本喜八の情報 (えのもときはち)
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【4月7日】今日誕生日の芸能人・有名人

榎本喜八の情報(えのもときはち) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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榎本 喜八さんについて調べます

■名前・氏名
榎本 喜八
(読み:えのもと きはち)
■職業
野球選手
■榎本喜八の誕生日・生年月日
1936年12月5日 (年齢2012年没)
子年(ねずみ年)、射手座(いて座)
■出身地・都道府県
東京出身

(昭和11年)1936年生まれの人の年齢早見表

榎本喜八と同じ1936年生まれの有名人・芸能人

榎本喜八と同じ12月5日生まれの有名人・芸能人

榎本喜八と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


榎本喜八と関係のある人

内川聖一: また初出場から1800試合目での記録達成は榎本喜八(1830試合)を抜いて歴代9位、右打者としてはアレックス・ラミレス、長嶋茂雄に次ぐ歴代3位の速さとなった。


柳田利夫: この年の5月下旬に打撃練習をしようとグラウンドを通っていると、気づかぬまま素振りを続けていた榎本喜八のバットが柳田の顎を直撃。


尾崎準: タイムカプセル 〜春〜(夏目恭、榎本喜八


濃人渉: 1969年、近藤貞雄を再び投手コーチに招聘、有藤通世をルーキー年から三塁手のレギュラーに抜擢、「ミサイル打線」復活を目指し、与那嶺を再び打撃コーチとして招き、球団名がロッテに変わった2年目の1970年、投の成田文男、木樽正明、小山正明、打の江藤愼一、アルトマン、榎本喜八、山崎裕之、有藤道世らを率いてパ・リーグ独走優勝。


山内一弘: 「闘将」西本幸雄が大毎の新監督に就任した1960年、山内は田宮謙次郎・榎本喜八・葛城隆雄らとともに「大毎ミサイル打線」の中軸を担った。


片田謙二: 夏の選手権は準々決勝で榎本喜八らがいた早稲田実を接戦で降すが、準決勝では松浦三千男、興津達男らがいた静岡商に逆転負けを喫する。


樋口正蔵: 同年は400フィート打線の一番打者として135試合に出場し、ジャック・ブルーム、榎本喜八に次ぐベストテン3位の打率.313を残す。


桑田武: 1954年は「4番・一塁手」として2年連続で東京大会決勝に進出するが、榎本喜八を擁する早稲田実業に大敗を喫し、甲子園出場は叶わなかった。


稲尾和久: 1957年からは、シュート・スライダーを意識して投げるようになり、加えて毎日の榎本喜八への対策のためにフォークボールを習得した。


田宮謙次郎: 首位打者を獲得した榎本喜八、本塁打・打点の2冠を獲得した山内一弘(打率は3位)との3人でリーグの打率上位3傑を独占。


小野正一: シーズンでは最多勝利(33勝)、最優秀防御率(1.98)、最高勝率(.750)、最多完封勝利(5完封)の4冠に輝き、打の田宮謙次郎・山内一弘・榎本喜八らとともにリーグ優勝に貢献。


義原武敏: 2回戦に進出するが、榎本喜八らのいた早稲田実に敗れる。


和田明: 1954年 - 早実野球部にて春のセンバツに榎本喜八、河西宏和とともに出場。


荒川俊三: 近鉄では控え内野手でほとんど出場機会がなかったが、1968年7月21日東京スタジアムでの東京オリオンズ戦で乱闘の最中、もみ合いの中で榎本喜八をバットで殴打し、昏倒させた。


皆川睦雄: 毎年、安定して2桁勝利を挙げ続けていたが、張本勲や榎本喜八といった左の強打者への攻めに限界があり、成績が伸び悩んでいた。


藤原恭大: 開幕戦でのプロ初先発出場は、球団の高卒新人では榎本喜八、山崎裕之に次いで54年ぶり3人目、高卒新人の「1番」での出場に限れば、近鉄バファローズの飯田幸夫に次いで史上2人目となる。


尾崎淳: タイムカプセル 〜春〜(夏目恭、榎本喜八


池田重喜: ロッテ移籍2年目の1972年から右肩痛に悩まされながらも、榎本喜八、有藤通世、落合博満、野村克也、江藤慎一、張本勲といった歴代の主力打者に好まれるほど、打撃練習では抜群の制球力を発揮してきた。


稲尾和久: これは一歳年上であり、大毎オリオンズの主砲だった榎本喜八を打ち取るためだけに習得したもので、榎本との対戦以外では1球も投げなかった。


和田明: 榎本喜八 - 早実野球部先輩


村上公康: 1972年に榎本喜八との交換トレードでロッテオリオンズへ移籍。


別当薫: 山内一弘・榎本喜八・葛城隆雄を育て、須藤豊を見出だしてレギュラーの二塁手に起用し、手腕を発揮した。


河西宏和: 同級生に榎本喜八が居た。


末次利光: 荒川博コーチの門下生としては榎本喜八、王、黒江透修の次の4番目に当たり、日本刀を振るなど、かなり鍛えられた。


清原和博: 高卒新人がオールスターに出場したのは1954年の梶本隆夫、1955年の榎本喜八、1970年の太田幸司に次ぐ史上4人目だったが、清原はその中で初めて安打、本塁打を放った選手となった(第1戦で安打、第2戦で本塁打)。


山崎裕之: 『長嶋二世』と言われた所以でオリオンズ入団時、当時の看板打者でもあった榎本喜八がつけていた背番号3を提示されたが、山崎は2を希望する。


江藤慎一: 1971年には榎本喜八に代わり一塁手に定着し、開幕から四番打者として起用されて3度目の首位打者を獲得、史上初のセ・パ両リーグ首位打者となる。


荒川博: 別当の挨拶にあるように後に指導者として大きな功績を挙げる荒川だったが、現役中からチームメイトで高校の後輩でもあった榎本喜八を指導したほか、少年時代の王貞治を見出して母校・早実への進学を薦めた。


稲川誠: 1963年から1965年までオールスター3年連続出場を果たし、初出場の1963年7月23日の第2戦(東京)では先発として登板し、榎本喜八に満塁本塁打を浴びるも勝利投手となっている。


前田智徳: また前田は若手時代に「ヒットはバットの芯でボールを捉えたものだけを言う」と発言したこともあるなど、オリオンズの打者であった榎本喜八の理想を求める打撃理論と類似点が多く、スポーツジャーナリストの二宮清純は前田へのインタビューのタイトルで「前田智徳に、榎本喜八の幻影を見た」と評している。


榎本喜八の情報まとめ

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榎本 喜八(えのもと きはち)さんの誕生日は1936年12月5日です。東京出身の野球選手のようです。

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兄弟、母親、父親、現在、卒業、引退、映画、テレビ、結婚に関する情報もありますね。2012年に亡くなられているようです。

榎本喜八のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

榎本 喜八(えのもと きはち、1936年12月5日 - 2012年3月14日)は、東京都中野区出身のプロ野球選手(一塁手)。

現役時代はオリオンズの中心選手として長きにわたって活躍した。「安打製造機」の異名を最初に取った選手である。通算1000安打・2000安打の最年少記録を保持し(31歳7ヵ月)、その他にも数々の高卒新人記録も持つ。

安打の歴代記録に残る打者は広角に打ち分ける打者が多かったが、榎本は引っ張り打法のフルスイングにもかかわらず安打を積み重ね、通算2314安打を記録した。

ホームランの世界記録保持者・王貞治の兄弟子である。早稲田実業学校の3年先輩であり、同じく荒川博から薫陶を受けた。王が荒川にコーチを受けるようになったのは榎本の活躍を見た巨人監督・川上哲治がコーチに呼んだためである。

1936年、農家の家庭に生まれる。祖父は新八、父は八雄、弟は省八、先祖は八十八、八佐衛門など、榎本家には男の子には全て「八」の字を付ける習慣があり、自身も喜八という名前が付けられた。

1941年、5歳の時に太平洋戦争が勃発。集団疎開に出発する日、33歳の母親が病死する。戦争に出征した父親は、終戦後もシベリア抑留され、しばらく帰ってこなかった。そのため、祖母と幼い弟と3人暮らしをしていた幼少時代の榎本は、極貧に苦しむこととなる。雨漏りを放っておくと屋根に穴が開き、寝室には雨が降ってきたという。畳には茸が生え、家の中で傘を差して立ったまま朝を迎えた日もあった。電車に乗ることもできず、当時は近所を走る西武鉄道(旧・西武鉄道、現在の西武新宿線)に乗ることに憧れていたという。

戦時下の1943年3月、近所の友人の姉に連れられて職業野球を後楽園球場へ観戦に行ったことが、野球を始めたきっかけとなった。その際に球場の美しさと巨人の呉昌征・青田昇や大和軍の苅田久徳のプレーに強い印象を受けたという。空腹と極寒の日々の中で、職業野球は榎本の唯一の希望となり、その後、「おばあちゃんを温かい家に住まわせてやりたい」という強い意志から、プロ野球選手を目指すようになる。

1952年、早稲田実業学校高等部に入学、甲子園に3回の出場を果たす。同期の80人が卒業時には7人しか残らなかった猛練習に耐え、強打者として頭角を現し、2年生の春には4番打者を務める。榎本の打撃スタイルはバットを長く握ってのフルスイングであり、流し打ちすることを好まなかった。早実のスタイルはバットを短く握ってコツコツ当てるというものであったため、OBのひとりが榎本の打撃を矯正しようとしたが、榎本は従わなかった。そのため同OBが監督に進言し、補欠に回されることもあったという。

1953年春の選抜に出場。1回戦で土佐高と対戦するが完封負け、自身も無安打に終わる。1年上のチームメイトのうち内野手の田中淳二(高橋)、外野手の斎藤精宏(西鉄)、捕手の佃明忠がプロ入りしている。翌1954年春の選抜にも同期のエース河西宏和(大映)を擁し連続出場。準々決勝に進むが泉陽高に敗退。同年夏は都予選決勝で桑田武を打の中心とする荏原高に完封勝ち、夏の選手権出場を決める。1回戦で小倉高の畑隆幸を打ち崩し完封勝ち。2回戦でエース義原武敏を擁する米子東高を降す。準々決勝は河西と高知商の片田謙二が投げ合い接戦となるが、9回裏サヨナラ負けを喫した。

1953年春の選抜1回戦は4番に入るが無安打、1954年春の選抜の準々決勝では3番打者を務めるがまたも無安打と、主軸打者の責任によるプレッシャーやチャンスに弱い面が目立った。また3番や4番を打つと敬遠されることも多かった。そのためスラッガータイプであったにもかかわらず、1954年夏以降は1番打者が定位置となり、早実は強打の榎本が出塁して後続が返すという得点スタイルを確立した。最後の甲子園出場になった1954年8月21日の試合後のインタビューでは、他の選手たちが「固くなった」というコメントを残している中、榎本は「決してあがってはいなかった。安打も1本打っている」と語っている。

地方大会では強打者として鳴らし、1954年夏の全国大会前の朝日新聞記者による座談会(8月12日付)では、出場選手の中で榎本は「十指に入る打者」という評価を得ていた。しかし全国大会になると途端に打てなくなり、2年生時からの全国大会通算成績は打率.143(21打数3安打4四球)に終わっている。同年秋の北海道国体では打棒が復活し、北海高との準々決勝では本塁打と三塁打を放つ。準決勝は高知商に敗退した。

後年、榎本は高校時代の自身を「390フィート(約119メートル)と書かれた外野の塀にゴツンとぶつかるライナーの三塁打を1本打っただけの、単純な大振りバッターでした」と振り返っており、当時後輩だった王貞治は高校時代の榎本について、「打球が良く飛ぶすごいスラッガーだった」と語っている。高校1年生の時にはライト場外の畑までボールを飛ばし、打球の最長不倒を示す印として、そこに1本の木ぐいが打ち込まれたという(後に王が更新)。また、合宿中の夜に他の部員が教科書を開く振りをしている中、榎本は牛骨でバットを磨き続けていた。当時チームメイトであった同級生は、榎本について「野球のことしか頭にない男」と評している。

当時はドラフト施行前であり、選手獲得は各チーム次第であった。榎本は「荒い打者」という評価から、どこからも声をかけられることがなかった。プロ入りを熱望していた榎本は、高校1年生時、早実の先輩で毎日オリオンズでもプレーすることが決まっていた荒川博に、オリオンズへの入団を頼んだ。荒川は「これから3年間、毎日朝5時に起きて登校する前に500本素振りすれば、世話してやる」と軽くあしらったが、榎本は口約束を真に受け、高校生活3年間素振りを敢行。3年生の秋に荒川の自宅を訪れ「毎日振りました。プロに入れて下さい」と土下座して懇願し、荒川も断りきれず、入団テストの運びとなった。荒川はこの時の榎本について、「あいつは馬鹿正直で、登校する前に500本素振りをしろというと1本も欠かさず毎日振った。1000本といえば1000本振った。ふつう1000本といえば、そのくらい沢山の、という意味なのだが、榎本は1本たりともゆるがせにしなかった」と語っている。また、榎本は早実の厳しい練習でクタクタになって帰宅した後も、「素振りをしないと落ち着いて寝られない」という理由から、寝る前にも500本以上素振りをしてから就寝していたという。

1955年、荒川の積極的な売り込みにより、毎日オリオンズの入団テストが無理矢理組み込まれる。入団テスト時、榎本の数打席を見ただけで、往年の名選手でもあった監督の別当薫や、一塁手の西本幸雄が目を見張ったとされる。そして完成されたバッティングフォームと優れた選球眼が認められテストに合格する。特にフォームに関しては、別当に「高校を出たばかりにして、既に何も手を加える必要のないバッティングフォームを持っている」と言わしめた程であった。西本は後年にこの時のことを振り返り、「榎本喜八の印象は強烈だった。打撃に天性のものがあった」と語っている。

テストに合格したことにより、毎日オリオンズに入団する。榎本は初めての給料で祖母にフランス人形を買ってあげたという。川上哲治2世の呼び声もあり、背番号は「3」を与えられた。

オープン戦で活躍し、開幕戦から5番打者を打つ など、高卒1年目からレギュラーとして活躍。デビュー戦の4打席目(それまでの3打席は無安打)には早くも敬遠を受けた。6月7日以降には3番打者に定着し、オールスターゲームにもファン投票で選出され、スタメン出場を果たす。安打が1本足りず打率3割は逃すが、シーズンを通して打率・本塁打・打点部門のすべてでリーグ10位以内に入り(本塁打はリーグ6位)、出塁率は山内一弘と中西太に次いでリーグ3位の.414を記録した。139試合・592打席・490打数・84得点・146安打・24二塁打・7三塁打・87四球・5敬遠・5犠飛・出塁率.414はすべて高卒新人の歴代最高記録であり(三塁打はタイ記録)、打率.298・67打点・232塁打・10死球も1986年の清原和博に破られるまでは歴代最高記録であった。このうち87四球は新人の日本記録で、当時のパ・リーグ記録でもあった。同年は新人王を獲得する。この年に記録したRCWIN4.40は高卒新人選手としては歴代1位である(高卒2年目の翌1956年も4.39を記録)。バットの芯で正確に球を捕らえ、事も無げにヒットを打つ様から、新人にして「安打製造機」と呼ばれた。

翌1956年もリーグ9位の打率.282・リーグ4位の15本塁打を残すなど、高卒から2年連続で打率・本塁打・打点の部門のすべてでリーグ10位以内に入り、95四球で2年連続となるリーグ最多四球を記録。一塁手のベストナインに選出される活躍を見せた。しかし3年目以降はランナーがたまって打席が回ってくると「ここで打てなくて負けたら自分のせいだ」とマイナス思考に陥って凡退する、打てないと給料が下がることを気に病む、といったことを繰り返して精神面で深みに嵌り、伸び悩んだ。荒川博など早稲田出身者による宿舎での打撃論議の中で、様々なアドバイスを受けるが、結果には繋がらなかった。榎本は幼少時代に貧乏に苦しんだという経験によるトラウマから、凡退する度に「打率が3割を切ると給料がさがる」、「3割を打たなければ給料が上がらない。おばあちゃんを楽にしてやれない」と思い込み、肩に無駄な力が入りすぎてフォームが崩れて打てなくなり、さらにファンからの野次を真に受けて落ち込むなど、悪循環の繰り返しでスランプに陥っていた。

チーム事情もあり、1958年はクリーンナップを外れて1番打者を務めた期間もあった。1959年は主に2番打者を務め、10月には右翼手として起用された。同年オフ、チームメイトで先輩の荒川博に合気道を紹介され、藤平光一に師事。そこで合気道をヒントにして得た打法と呼吸を研究して精神面の強化を図り、打席内で体の力を抜く方法を会得する。

翌1960年には3番打者、一塁手に戻り、打率.344で首位打者を獲得する活躍を見せた。リーグ5位の66打点も残し、チームのリーグ優勝に貢献。山内一弘・田宮謙次郎・葛城隆雄らと共に「大毎ミサイル打線」の一翼を担った。大洋との日本シリーズでは第2戦に島田源太郎から2点本塁打を放つが、15打数3安打に終わり、チームも日本一には届かなかった。

1961年は主に1番打者や2番打者として出場。9月に24歳9か月で通算1000安打を達成し、プロ野球史上最年少記録を樹立した。シーズン終盤まで張本勲と首位打者争いを繰り広げ、1番打者でスタメン出場した10月17日の東映戦(シーズン最終戦)では、タイトル争いのため1回に敬遠を受けた。同年シーズンはリーグ2位の打率.331、自己最多の180安打を記録する。

1962年からは3番打者に戻り、5月2日から6月3日にかけて23試合連続安打を記録した。翌1963年もリーグ2位の打率.318を記録するなど、チームの主力打者として活躍。1960年から1964年にかけ、毎年打率でリーグ5位以内に入った。1963年から1965年にかけては3番打者のほかに4番打者を任されることも多くなり、特に主力選手が抜けた1964年以降はチームの顔として期待されるようになる。

1965年は低迷するが、1966年にはシーズンを通してほぼ3番打者を務め、リーグ1位の打率.351・リーグ4位の24本塁打・リーグ3位の74打点という自己最高の成績を残して自身2度目の首位打者を獲得。当時のパ・リーグ新記録となる通算843四死球を樹立し、自身4度目の最多安打も記録した。翌1967年はリーグ7位の打率・リーグ2位の出塁率を残す。

1968年5月14日から6月18日までは2番打者を務め、それ以降は5番打者に定着し、シーズンではリーグ4位の打率.306を記録した。同年7月21日の対近鉄戦(東京スタジアム)ダブルヘッダー第一試合の第1打席にて、鈴木啓示投手の初球を打って右翼線への二塁打とし、プロ野球史上3人目となる通算2000安打を達成。31歳7か月での達成はプロ野球史上最年少記録である。続いて行なわれたダブルヘッダー第二試合では、近鉄の安井智規がセーフティバントを試みて一塁ベースへ駆け込んだ際、榎本と強く接触したため、二人は口論から殴り合いに発展した。これが発端となって両チーム全員入り乱れての大乱闘となり、近鉄の控え内野手であった荒川俊三が榎本の頭部をバットで殴った。榎本は意識を失って倒れ、担架で球場医務室に運ばれるという災難に見舞われている。

1970年は5月下旬から主に1番打者として起用され、6月13日の西鉄戦では代打サヨナラ本塁打を放つなど、規定打席不足ながら打率.284・15本塁打の成績を残し、チームのリーグ優勝に貢献。巨人との日本シリーズでは、江藤慎一、前田益穂と併用され3試合の出場にとどまるが、7打数3安打と活躍した。

1971年には江藤が一塁手に定着し、出場機会が急減。同年はプロ野球史上5人目となる通算3500塁打を達成したが、負け試合だったということもあり、榎本に手を差し出したチームメイトは小山正明だけであった。

1972年、トレードで西鉄ライオンズに移籍。既に引退して西鉄の監督に就任していた稲尾和久は、「榎本の洗練された技術と打撃理論は、まだ若い西鉄の選手たちの生きた手本になる」と考え、期待を寄せていた。榎本も稲尾のこの意図を汲み「今後は一兵卒として監督の手助けをしていく」と発言し、「榎本は選手としてのピークを過ぎて前にも増して気難しくなり、奇行を繰り返しているようだ」との話を耳にしていた西鉄の首脳陣を安堵させたという。しかし若手選手たちには榎本の打撃理論は難解すぎ、その理論と直結している技術もほとんど伝わらなかった。失望した榎本は若手への指導を諦め、試合前の練習中に客席から「それ、頑張れ」と大声を上げて稲尾らを困惑させるなど、次第に自暴自棄にも見える態度を取るようになっていった。

選手としては主に代打の切り札として起用され一定の成績を残したが、オリオンズ時代の輝きを取り戻すには至らず、同年に現役引退。通算2314安打は、引退時はパ・リーグ記録で、プロ野球史上では川上哲治に次いで歴代2位であった。また、背番号3番を18シーズンにわたって使用したが、これはパ・リーグ史上最長記録である(日本プロ野球史上最長記録は立浪和義の22年)。

引退後から10年間、憧れであった打撃コーチの役職に就任するための体作りとして、自宅とかつてのオリオンズ本拠地である東京スタジアムの間、往復約42キロを1日おきにランニングしていた。ところが現役復帰を目指しているという噂が立ったことや(通算打率3割復帰が目標という憶測もあった)、現役時代の件もあり、結局コーチ就任の声は掛からなかった。1977年に東京スタジアムが取り壊されることになった時には、榎本は毎日工事現場にやってきて、その一部始終を見守っていた。

晩年は地元の中野区でアパートを経営して生活し、前述のランニングは古希を越えても時々やっていたという。引退後は球界と一切の接触を断っていた。日本プロ野球名球会が創設された当初は会員となっていたが、1度も参加していないため、脱会扱いとされている。

2011年11月下旬、大腸がんが発見されて入院。2か月の入院後、自宅療養していたが、2012年3月14日、大腸がんのため、東京都内の病院で死去した。75歳没。

没後の2016年1月18日、野球殿堂顕彰者(エキスパート表彰)に選出された。同日に記者会見した長男の喜栄(よしひで)は、「正当な評価をいただいて、ありがたい気持ちでいっぱいです。今回のような賞をいただいたことで、父の選手としての印象もしっかり残ることになりますね。ファンの方、新しい世代の方に父のことを分かっていただけるとありがたいです」と喜びのコメントを出した。また晩年の榎本の様子については「指導者として球界に恩返ししていないのが心苦しいようでした」と振り返り、インターネットの情報や著作で榎本のことを知ったファンからよく手紙が届いていたことについては、「(榎本は)送られてきた色紙などによくサインをしておりました。そういう意味では、死ぬまで野球一色だったと思います」と語った。そして「関係者の方からは『ご存命中に殿堂入りしていただきたかった』といったお言葉もいただきますが、他界した後で功績を評価していただけたというのも、不器用な父らしくていいのではないかなと思います」と述べた。

才能・感性に裏打ちされた打撃理論を持ち、いかなる投手のボールであってもストライクゾーンに来れば反応したといわれ、特に選球眼が抜群であった。高卒新人から2年連続でリーグ最多四球という非常に珍しい記録を持っている。1年目の19歳時(シーズン期間中は18歳)に記録した97四死球は、新人選手の記録としては2位の田部輝男・65四死球(1950年)を大きく引き離しての歴代1位である。また、四球が多いにもかかわらず三振は少なかった。1964年は641打席に立って86四球に対して三振はわずか19という数字を残しており、シーズンBB/Kでは1951年の川上哲治に次ぐ歴代2位を記録している(川上は424打席)。さらに1966年には本塁打を24本打ったのに対して、三振は20個だった。

打低投高の時代で好成績を残し続け、セイバーメトリクスにおける通算RCWIN傑出度では歴代7位、RC27傑出度では歴代8位を記録している強打者である。通算BB/K傑出度においては2.80倍を記録しており、4000打席以上の選手中で歴代1位となっている。また通算打率.298は7000打数以上の選手中では歴代7位に位置する。

打者としては、グリップエンド一杯を持ってフルスイングを多用するプルヒッターであった。アウトコースの球もすべて巻き込んで豪快に引っ張り、当時同じリーグで左右に打ち分ける「スプレー打法」の異名を取った張本勲とは対照的に、打ち分けて打率を稼ぐタイプではなかった。インパクトの際に強く踏み込み、身体を沈めて下半身の力で振る打者で、ライナー性の強烈な打球が非常に多いラインドライブヒッターでもあったという。そして型が崩れず、軸が全くぶれない美しい打撃フォームが特徴だった。チームメイトであり榎本とクリーンナップを組んでいた山内一弘は、榎本のフォームについて、「これぞバッティングという完璧なフォーム」と語っている。

1962年シーズン途中から1972年までオリオンズの本拠地だった東京球場で、最も多く本塁打を打った選手である。パ・リーグのみでの通算409二塁打は福本豊の449二塁打に次いでパ・リーグ歴代2位の記録であり、通算1062四球はパ・リーグ歴代5位。また1960年から1962年までの3年連続を含み、通算で4回最多安打に輝いた。シーズン安打数リーグ1位を4回は、福本豊、ブーマー・ウェルズと並ぶパ・リーグ歴代2位である(イチローに抜かれるまではパ・リーグ記録)。

入団時、打撃とは対照的に守備は不得手であった。そのため当時の一塁手だった西本幸雄(榎本と同じく左投げ)は、榎本が自分のポジションを奪うかもしれない選手だったにもかかわらず、榎本に徹底的に守備をたたき込んだといわれる。その甲斐あってか、榎本は2年目の1956年に一塁手におけるシーズン守備機会とシーズン刺殺数の日本記録を樹立した。1965年にはシーズン補殺数122で一塁手のNPB記録(当時)を残し、守備得点22を記録。1967年8月から1968年9月にかけては1度も失策せず、1516守備機会無失策の日本記録(当時)を残した。1968年シーズンも9月に記録した失策ひとつだけで終え、シーズン一塁手守備率.9992のNPB記録(当時)を樹立した。

一塁手としてパ・リーグ一筋で残した通算守備記録は、2,147試合・20,859守備機会・19,625刺殺・1,137補殺・1,489併殺であり、すべて一塁手のパ・リーグ記録である。一塁手プロ野球歴代では、試合・守備機会・刺殺数が2位、併殺数が3位、補殺数が4位に位置する。失策は97個と少なく、通算守備率.9953は1,000試合以上対象で一塁手パ・リーグ歴代2位、1,500試合以上対象または13,000守備機会以上対象の場合は一塁手プロ野球歴代1位となる。また一塁手のほかに、1959年に右翼手として13試合出場している。

若手時代のオリオンズの選手名鑑には、榎本の選手紹介に「(打撃と共に)守備もうまい看板選手」という旨が記されている。守備指標でも高い数字を記録しているが、一方で1969年からチームの先発ローテーションに定着した投手の村田兆治は、キャリア晩年時の榎本の守備力について「守備では(榎本)自身の届く打球にしか動いてくれず、正直辛かった」「お世辞にも、上手いとは言えなかった。最低限の動きしかしないから。可もなく不可もなく、でしょうか」と評している(ただし、その後に「こと打撃に関しては、周囲からの好奇の視線や雑音には目もくれず、わき目も振らずに打撃に没頭する姿に、これこそプロだ、と感銘した」と続けており、榎本の打撃に対する姿勢から大きな影響を受けたという)。

現役時代は武道を取り入れたトレーニングを実践し、その求道的なスタイルも相まって数々の逸話を残した。プロ5年目の1959年シーズンオフ以降、荒川博らとともに藤平光一や剣道家の羽賀準一の道場に通って合気道や居合を習得し、打撃に取り入れて首位打者を獲得している。そのためかトレーニングのことを「稽古」、バッティングフォームのことを「形」と言っていた。試合前に座禅を組むこともあった。また、自宅の庭に専用の打撃練習場を造ったことでも知られる。

荒川博は1959年オフの頃の榎本について、「榎本は毎日私の家に来てバットを振り、私の合気道の修行にもついてきて、道場の隅に正座して見学するという、ハードなプロ野球選手の道を歩んでいた」、「そのうち、榎本は私の家に数ヶ月も泊り込み、出掛けるときには私のオートバイの後ろに乗ってついてくるという状態で、バッティングの極意を目指して、猛訓練を積み重ねるようになった。試合が終わってから、私と一緒に帰ってきて、私が『もうよい』と言うまで、何百回もバットの素振りをし、姿勢・間の取り方・足腰の位置などを徹底的に研究する毎日だった」と述懐している。

若手の頃の話に、「荒川博の自宅の庭で榎本が昼間から素振りをしていた。そのうち、荒川はそれを忘れてしまい、深夜に思い出して庭を見てみると榎本はまだバットを振っていた」というものがある。荒川は榎本について「まことに生真面目な男で、求道心のかたまりのようなところがある」と評しており、「王(貞治)の10倍、ばか真面目だった。大晦日も正月もうちに練習に来た」と語っている。榎本は試合後に自宅の畳の部屋で何時間も素振りを繰り返し、時には真剣を振って鍛錬していたという。

荒川から学んだ合気道打法について、後年に榎本は「バッターボックスの中にお城を構えているのと同じことなんです。私の体の前、ピッチャー方向に外堀と内堀があって、その間でボールを処理すると、バットは速い球にも負けないんですよ。外堀と内堀の幅は合わせて30〜40cmぐらいでしょう」と解説しており、「入団して数年、2割6、7分が続いて、どうしても3割バッターになりたかったんです。早々と3割バッターなんかになればすぐ死んじゃうでしょうにね。だけど子どもだったから、どうしても3割を打ちたかったんです。死にものぐるいでバットを振っているうちに、内堀と外堀のことがわかってきました」と振り返っている。また、入団以来データや相手投手についてのメモ・日記などは一切つけなかったという。

榎本の打撃フォームの調整方法は、新人時代から特異であり、荒川から教わった精神論である「バットを手で振るな、体で振るな、心で振れ」というイメージを忠実に実行し、フォーム調整では素振りをすること自体少なかったとされる。そのため、試合前にバットを1度も振らないまま試合に臨むこともしばしばあった。榎本の試合前の調整方法に関する逸話として、大鏡の前でバットを構えたまま微動だにせず、30分程経過したところでようやく構えを解き、満足気な表情で「いい練習ができた」と言ったというものがある。後年、榎本本人が語ったところによれば、構えたバットの先端が右目の視界の端にちらつく状態がバッティングにおける理想型であり、その微調整をしていたという。更に榎本は「要はボールを最短距離でミート出来る位置にバットのヘッドがあるかどうかが重要なのであって、それを確認するのにスイングする必要は無い」と解説している。

取材を行っていた近藤唯之によると、前述したフォーム調整の練習中、榎本は近藤に「ぼんやり構えていたら体が死にます。頭の中で飛んでくるボールを描きます。すると両腕の中の血がじんじんとバットに流れこむんです。だからバットを折ったら中から血が流れ出すんです」 と語ったという。

現役時代、榎本は打撃について、「体(たい)が生きて、間(ま)が合えば、必ずヒットになる」とよく呟いていた。4打数3安打でも、自分が納得できる完璧な打球でなければ「4の1か」と落ち込み、4打数ノーヒットでも納得がいけば「4の4だ」と喜んだ。テキサス安打(ポテンヒット)やボールが転がってゴロで外野へ抜けた安打では納得しなかった。榎本のチームメイトであった醍醐猛夫は、「ボテボテでも、テキサスでも、4打数4安打なら誰でも喜びますよね。ビールでも飲んでツキを祝うんだけど、榎本さんは違うんですね。部屋の中でグリップを握って、じっと考え込んでいるんですよ。『どうして打てなかったんだろう』と言って。打てないと言っても4の4なんですよ」と語っている。

1959年のオフ以降、臍下丹田(せいかたんでん)に気持ちを鎮め、そこを体の中心として指先や足先などの体の隅々までを臍下丹田と結び(五体を結び)、連結させるというトレーニング方法を実践するようになる。同トレーニングをすることで、榎本は体の隅々が意識されて、自分の臓器の位置までがわかったという。これらによって効率的な体の使い方ができるようになり、「以前の自分は無駄な力が入りすぎていた」ことや、「バットを振り回すのではなく、バット自身の重さで下に落ちる力をも利用する」ことに気がつき、打撃への理解を深めた。

1961年のインタビューで、榎本は「毎日が勝つか負けるかの激しいプロの世界です。敗者、勝者の無常観は、ある時期の僕の思考力をめちゃくちゃにしました。だから、その無常観に悩まされる心の安定を僕は合気道に求めました。合気道は武道としてより、精神修養の道として、僕は求めたのです」とコメントした。インタビュアーはそのような榎本の印象について、「クソがつくほどの生真面目で、これが25歳の華やかなプロ野球選手とは思えない」と記している。

1966年のシーズン中、毎日新聞の記者によるインタビューにて、榎本は「『気がついたらバットを振っていた』というのが理想なんじゃないかな、と僕は思うって話ですよ。僕みたいなヘボにそんな話をする資格なんかないんだ。荒川(博)さんや川上(哲治)さんみたいな人間に聞いてください。でも、日本人で箸をどうやって使うか考える人はいないでしょう。無意識に使って、うまくご飯を食べている。打撃の究極もそこだろう……と、これは僕の考えですよ。昨年のシーズンオフに荒川さんのところで捨て身でけいこをやった。けいこは時間でなくて内容です。それで形がなおった」と語っている。

榎本の信条は「球界を代表するピッチャーの最も得意な球を完璧に打ち返す」ことだったという。フェンス直撃の当たりを打っても、「何でフェンスを越えないんだ」と塁上で首を傾げ、ずっと悩んでいた。理想としていたバッティング理論に拘り、打撃が上手くいかずにいらいらした時には、家の中でバットを持って暴れたりした。また、打撃に何か活かせないかという理由で映画を見たり、猫の動きを勉強したり、水道の蛇口から出る水を2時間ほど見つめていたりしたこともあった。スランプ時には寝ていてもうなされ、バットを見るのも嫌な時があったが、それでも命がけで「自分の体がぶっ壊れて、おっ死んでもいい」という強烈な練習を何度もしたと語っている。キャリアの峠を越し、打撃に衰えが見えていた現役最終年には、「オリオンズの榎本はもう死んだんだ」と言ったとされる。

1963年7月7日の阪急戦で米田哲也と対戦した際、自分の身体の動きが寸分の狂いも無く認識でき、次はどのコースにどんな球が来るのか手に取るように分かるという奇妙な感覚を体験している。この際に榎本は心身共にかつてない充実感を覚え、投手とのタイミングという概念が無用になるほどの極限の集中力を常に発揮出来たという。8月1日の東映戦で足を捻挫し、以降の7試合を欠場するまでこの状態が続き、アウトになった打球も全てバットの芯で捉えた完璧な当たりだった。後年、榎本はこの時の様子を、「野球の神様から“神の域”に到達する機会を与えていただいたんですよ」、「“神の域”にいかせていただきました」と語っている。

この期間はすべて4番打者としてスタメン出場し、19試合(ダブルヘッダーを4回含む)で打率.411(73打数30安打)を記録した。特に14日以降の11試合の打率は.558(43打数24安打)である。この11試合の間に4安打2試合、3安打2試合、2安打4試合と固め打ちした。榎本はこの期間について、「天国で神様に頭を撫でられ続けた日々だった」とも表現している。

この時の経験は後年に詳細に語っており、「臍下丹田に、自分のバッティングフォームが映るようになったんです。ちょうどタライに張った水に、お月さんがきれいに映る感じ。寸分の狂いもなく、自分の姿が映って、どんなふうに動いているのかまでよくわかった。ボールがバットに当たった瞬間から、バットに乗っていくところもよくわかった」、「すると、どんなボールに対しても、自分の思い通りに打てちゃう。それまでは、タイミングは合った、狂ったと一喜一憂してたけど、この時期は相手とのタイミングがなくなったんですよ。最初からタイミングがないから、タイミングも狂わない。だから、打席で迷うこともなくなったんです」、「本当に夢を見てる状態で周りの動きがスローになった。プロに入ってから、バッティングの事ばかりでテレビを見ても心から笑った事がなかったんですが、初めて心から笑えたですね」と述べている。

また、「それまでは、いくら自然体をつくり、そこへ魂を吹き込んでバッターボックスに立っても、結局『バッティングでいちばん大切なのはタイミングだ』という思いを捨てきれなかったんです。だから、ヒットを打ったり打ち損じたりするたびに、タイミングが合った、狂ったと一喜一憂してた。しかし、臍下丹田に自分のバッティングフォームが映るようになると、ピッチャーとのタイミングがなくなってしまった」、「ピッチャーの投げたボールが、指先から離れた瞬間からはっきりわかる。こっちは余裕を持ってボールを待ち、余裕を持ってジャストミートすることが出来た。だからタイミングなんてなくなっちゃったんです。最初からないから、タイミングが狂わなくなったですね」、「26歳のとき、本筋でいくところまでいかしていただきました。本筋というのは、自分の脳裡に自分のバッティングの姿がよく映るんです。目でボールを見るんじゃなくて、臍下丹田でボールを捉えているから、どんな速い球でもゆるい球でも精神的にゆっくりバットを振っても間に合うんです。ちょうど夢を見ている状態で打ち終わる。その姿ははっきり脳裡に映っていながら、打ち終わるとスッと夢から覚めて我にかえって走りだす、そのようなところまでいかせていただきました」とも語っている。

1963年シーズンはリーグ2位の打率.318だった。この数字について「数字は悪いかもしれませんが、内容は良かったんです。その頃、ただヒットが打てればいい、タイミングが合ってヒットになればいい、という段階ではどうしても満足できなくなっちゃったんですね」、「納得のいく、1足す1は2というような方程式がピシッと立つようなバッティングが欲しくなって、稽古に稽古を重ねていたら、ある日、無意識のうちにそれができたんです。無心のうちの動きですから、ご飯を食べてるのと同じです。もう、パカーッ、パカーッといくらでも打てました」と語っている。またこの体験中の期間である7月23日のオールスターゲーム第2戦では、1回裏に右翼スタンドにオールスター史上初となる満塁本塁打を放った。榎本は同試合の第3打席でも右翼へのソロ本塁打を放っており、5打点を記録している。

1963年8月1日、守備時に一塁ゴロを捕球して一塁ベースへ駆け込んだ際、左足を捻挫して欠場した。榎本は10日の試合から復帰したが、7月7日から始まった一連の感覚を失っていることに気づいた。この際、榎本は強烈なショックを受け、絶望に打ちひしがれた。その後号泣し、成績も落ちていったという。一時は数字こそ持ち直したものの、球場から家までずっと泣きながら帰ることがしばしばあった。以降、2度と“神の域”の境地には踏み込めなくなり、苦悩の連続でしかなくなったという。また、7月14日から約2週間だけ続いた『本筋の打撃』の状態が消えてしまったことについて、榎本は「壊れた、という感じです」と振り返っている。

張本勲は「首位打者を一騎討ちで争って負けたのは榎本さんだけだった。投手がどんな球を投げても決して逃げなかった。あんな打者は他に川上哲治さんだけだった。すごい打者だった」と述べている。また、「私はね、過去の名打者として左で5〜6人、右で5〜6人をリストアップしておるんですよ。左は大下弘さん、川上哲治さん、榎本さん、王貞治、イチロー、私ですね」と語っており、「左打者の理想は榎本さん。教科書になるフォーム。ほとんど動かない。体も開かない」、「教科書になるようなバッティングなんですよ。正確に強い打球を飛ばすには、反動をつけたりしないで、本当は構えてから動かない方がいい。榎本さんは反動も使わず、構えてからなかなか動かない。理想的なバッティングでした」、「野球は動くボールを打つのだから動かないのが理想だが、それではボールの速さに負けるので、普通は反動をつける。足を上げるにも、そのひとつ。だが、榎本さんは、まったく動かなかった。バックステップ、テイクバックもなかった」と評し、「左打者としては完璧だった。川上哲治さんより理想的だったのではないか。『静』の中に『動』があるフォーム。まるで動かないように見えて、静かに膝でタイミングを取る。体が開くわけでも突っ込むわけでもない」、「口数が少なく生真面目で、妥協なく我が道をいく。本当の職人気質の選手だったと思う」と語っている。

豊田泰光は「打撃の上手さでは史上最高の一塁手。とにかく打てないコース、高さというものがほとんど存在しない。この点では、川上さんや大下弘さん、イチローより上。これは断言できる。すごいの形容しか見つからない打者」と語っており、有藤通世は「まさしく、天才の中の天才でした。相手投手の最高の球を、寸分の狂いもなく正確にミートするんです」、「新人で最初に見たプロ野球選手が榎本さんで、その打撃を見て、とんでもない世界に入ってしまったと思った。プロで生きていくためには榎本さんに追いつかなきゃいけない、という思いでずっとやっていた」、「私がロッテに入団した年、最初に見たプロの選手が榎本さんだった。東京球場での自主トレ。ティー打撃でのスイングに全く狂いがない。まるで機械のよう。『凄い…』という言葉しか出てこなかった」、「口数が少なく、求道者のような人だった」と振り返っている。

野村克也が現役時代に最も恐れた打者の一人である。野村が対戦相手の打者を「ささやき戦術」でかく乱したことは広く知られているが、榎本に対しては独特の雰囲気に呑まれ、ささやく余裕を無くしたと後年に証言している。野村は榎本について、「王は榎本と似てましたね。同じコーチに習ったせいでしょうけどね。まあ、こっちはいつも榎本と対戦しているんで、王を攻めるのは易しかったですよ。例えば、王の選球眼は凄いって言われるが、榎本のほうがもっと凄いですよ」、「王は際どい球にピクっとバットが動きそうになるんで、こちらとしても攻めやすいが、榎本は全然動かんのですよ……。ホント、あんな恐ろしいバッターには、後にも先にもお目にかかったことはないね」と語っている。また、野村は「榎本ほど選球眼のよい選手を私は見たことがない。ボール球に手を出さないのは勿論のこと、苦手なコースというものも殆どないのだから、捕手としてはお手上げである。唯一苦手なのが内角高めなのだが、そこも余程速い球でないと手を出してくれない。私の囁きもまったく通用しなかった」、「ボールを見送るとき、頭がピクリとも動かない。表情も変わらない。王のほうが、よほど扱いやすかった。あれほどに恐ろしい打者には、後にも先にもお目にかかったことがない」、「あれほど雰囲気のあるバッターはいない」、「捕手野村として、一番対戦したくなかった打者」とも述べている。

この件については稲尾和久や森安敏明も同様の証言をしており、ストライクゾーンぎりぎりのコースに投げても、榎本はそれがボール球なら首を少し動かすだけで見送り、身体やバットは微動だにしなかったという。稲尾は「とにかくボール球は絶対と言っていいほど手を出さなかった。外角ギリギリに投げ込んだスライダーを、ピクリともせず見送られたのにはまいった」と語っている。また稲尾がフォークボールを投じた唯一の打者である。稲尾は榎本を打ち取るためだけにフォークボールをマスターしており、「自分が対戦した中で榎本さんは最高にして最強のバッター。もっとも雰囲気のあるバッターでした」、「私はヒジへの負担が大きかったのでフォークボールを投げなかったんですが、榎本さんだけには投げざるを得なかった。1試合に5球以内と限定して、ただひとりだけに投げてました」、「構えたままで見切る、ボールの見送り方が嫌だった。無気味なくらいの集中力を感じましたね。シュートもスライダーもきれいに打たれてしまうので、榎本さんにだけはフォークを投げた。たったひとりのバッターを抑えるために新しいボールを覚えなければならなかったんです。榎本さんとの勝負だけは野球をやっている感じがしませんでした。スポーツではなく真剣勝負、そう、果たし合いだったような気がします」と振り返っている。

足立光宏は「榎本さんのは同じヒットでもボテボテじゃなく完璧に芯でとらえたヒット。自信を持って投げたボールをきっちり打ち返してくるんです。それも機械のような正確さで。いってみれば球界の宮本武蔵。打率では計り知れない怖さを感じました」と評していた。またその足立と、稲尾和久とバッテリーを組んでいた西鉄捕手の和田博実は、「榎本のミートポイントはかなり捕手寄りで、変化球を曲がりきった所で打たれてしまうのでお手上げだった」と証言している。また杉浦忠は榎本について、「投げる球がなかった。当たり損ないの内野安打やバントヒットなどはほとんどなかった。それで通算打率.298は凄いの一言に尽きる。引っ張り専門の弾丸ライナーで、アウトになった打球もほとんどヒット性の当たりだった」と述べ、「昭和30年代を代表するバッターを挙げろと言われれば、榎本喜八、張本勲、山内一弘、長嶋茂雄、王貞治の名前を挙げます」と榎本の名前を最初に出している。

広瀬叔功は「ボールを見逃し、ストライクを打つ。好球必打は野球における鉄則だが、それを徹底的に実施したのが、この榎本氏だった。恐ろしいばかりの選球眼。1年目に97四死球を選んだのは、偶然でも何でもない。彼の選球眼からすれば、必然の結果だろう。審判の判定にクレームをつける時、榎本氏は親指と人差し指を1センチほど広げて『今の(ボール)はこれだけ外れていましたよ』と平然とした顔で言っていた。大雑把な私には想像できない選球眼だったが、彼が言うと妙に説得力があった。1センチの差が分かる眼力にはただただ感心して敬服したものだ」と述べている。また、オリオンズの監督であった別当薫も「彼(榎本)が偉大だったのは、決してボール球には手を出さないことである」と語っている。

南海のエースであったジョー・スタンカは、日米を通じて榎本を最も苦手な打者としていた。どのように投げても打たれ続けたが、ある試合でようやく榎本を抑えた後にベンチに戻ると、クーラーボックスのビールを開けて他のチームメイトと乾杯したという。

捕手を務めていた辻恭彦は、榎本について、「大毎では榎本喜八さんもすごかったなあ。ミートがうまい左打者でね。覚えているのは、あるゲームで、審判のインサイドのジャッジがいつもより厳しかったんですよ。普通ならストライクのコースがボール、ボールって。榎本さんはバッターボックスのホームベース寄りに構えるんですが、こっちがコースいっぱいのところへ投げ、ボールとジャッジされたとき、悔しくて審判に文句を言っていたら、『辻君、このくらい外れてたろ』って、親指と人さし指を1センチくらい離していた。実は、ほんとそのくらい外れていたんで、びっくりです。いいバッターはたくさん見ましたが、コースでこんなことを言われたのは初めてです。すごい目だなと思いました」と述べている。

西本幸雄は榎本について、「今までに見たバッターの中で一番正確なバッターは誰かと聞かれれば、躊躇なく榎本と言うな。パ・リーグでは野村克也や張本勲が、榎本よりいい成績を残しているけれど」と評している。川上哲治は「“打撃の神様”の称号は自分ではなく、榎本が最も相応しい」と語っており、その実力を「長嶋(茂雄)を超える唯一の天才」と称している。

榎本と王貞治を指導した荒川博は、「バットコントロールが素晴らしく、あれだけの打撃の名人はいなかった」、「バッターとしての完成度は王より榎本の方が上」と述べており、「お客さんを喜ばせるプレーが初めて『芸』の域に達したプレーなんだね。まず『技』があって、その上に『術』がある。だから『技術』というんだ。『芸』はその上なんだよ。で、『芸』の上が『道』を極めるだ。野球で、それに挑戦したのが榎本なんだよ」、「確かに残した記録では王が上だが、到達したバッティングの境地でいえば、榎本が上だったね」と振り返っている。荒川は榎本の打撃について、「何よりボールの引きつけ方が違った。ヘッドスピードが速いから、ボールがホームベースへ入ってきてストライクだったら、ゆっくり打つ。今の選手みたいにヤマを張る必要がなかった」と評し、榎本が殿堂入りした際には「王、長嶋と榎本は私の教え子の三羽がらす。中でも(榎本は)一番弟子だからね。王、長嶋の殿堂入りとは違う。苦労したから」と祝福した。また、荒川の自宅へ練習に通う榎本を見ていた王貞治は、その姿勢に大いに影響を受けたという。

スポーツジャーナリストの二宮清純が、通算1000イニング以上投げた往年の投手たちへ「最強打者は?」と質問したところ、最も多く返ってきた答えは榎本喜八の名であった。二宮は少年時代に見た晩年の榎本しか知らず、榎本と同時代に生きたパ・リーグの投手たちが張本勲・野村克也・中西太などの上に榎本の存在を位置づけようとすることが不思議だったという。二宮は榎本の残した数字を見て「史上最強と呼ぶには物足りない」と判断したものの、実際に古いテープを取り寄せて榎本の打撃を繰り返し見ているうちに、「その偉大さを理解すると同時に、ピッチャーが榎本を恐れる理由も理解できた」という旨のことを述べており、「何が凄いかといって、榎本の打球はミリ単位も左右にブレないのだ。順回転のスピンで猛禽のように野手を襲うのだ。順回転のスピンというのは、すなわち寸分の狂いもなくピッチャーが投じたボールを打ち返している証拠であり、ピッチャーにしてみれば何一つとして言い訳が許されない。さながら一太刀で眉間を割られたようなものだろう」と評価している。また、二宮は少年の頃に晩年の榎本の「一、二塁間を真っ二つに割る強烈なライナーが印象に残っている」と記している。なお、右翼スタンドや右中間スタンドへの突き刺さるような榎本の本塁打は、負傷者を生み出したことがあった。打球を取ろうとして避けきれず、顔にボールを受けて昏倒した観客までいたという。

榎本自身は現役時代に印象深かった投手として、稲尾和久、杉浦忠、足立光宏の3人の名を挙げている。稲尾については「本当に良いライバルでした。どんなに打たれても、あの人だけは一回もひげそりボール(ブラッシュボール)を投げてこなかったです。素晴らしい人間でした」と讃えている。榎本と同じように左の中距離打者で「打撃の天才」と言われていた前田智徳については、「話を聞く限り、彼には私と共通するものがあると思います」とコメントした。打撃へのこだわりなど奇人めいたものを持つところまで共通している部分はある。二宮清純は1993年に、前田の打撃の理想を追い求める姿や、投手との対決での剣豪・職人じみた雰囲気から、「前田は榎本の姿を彷彿とさせる」という旨のことを述べている。また、榎本は1980年代中盤のインタビューで、ロッテで全盛期を迎えていた落合博満について問われた際、「彼はロボットが違いますから」と評した。1990年代後半のインタビューでは、宮本慎也について「エンジンがある」と評価している。

巨人の王貞治が伸び悩んでいた1962年、川上哲治監督は巨人のコーチとなっていた荒川博に「榎本を育てたように王を育ててくれ」と指示した。これに基づき、荒川が榎本に王への助言を頼んだ。榎本は実際に王の素振りを見て「君はスイングの後、右の膝が割れる(開く)からいけない。それだと力のある打球が飛ばないよ」とフォームの欠点を指摘。王の右足が動かないよう思い切り踏みつけながら素振りをさせ、フォームの矯正を指導した。王貞治は榎本について、「4つ上の先輩で、荒川道場では一緒に練習をさせていただいた。プロの厳しさを目の当たりにして、すごい世界に入ったと思いました」と振り返っている。

王との練習について、次のような逸話がある。1962年11月、荒川博の勧めにより、羽賀準一の下で王・広岡達朗・須藤豊と共に剣道を習った。その際、真剣を使って藁を切る練習を行い、全員失敗した(スイング時に無駄な力が入ると力を活かしきれないことを教えるため)。翌週、皆の前で榎本と王のみが再び真剣を使った練習を許され、王は一回で藁を切ったが、榎本は失敗した。その帰り道、自身の不甲斐なさと王に先を越された焦りから、榎本は涙したという。帰宅後、父に頼んでありったけの藁束を集めさせ、真剣で斬り始めるも上手くいかず、荒川を呼び寄せて指導を乞い、夕方に藁を斬ることができた。この際に榎本は羽賀の言う「無駄な力を使わない振り」を体得し、打撃への理解を深めたという。

榎本をプロ5年目から指導し、王貞治を本塁打王に育てた荒川博は、「榎本は真面目だから、首位打者を獲得してからも、さらに突き詰めようとした。王もよく練習したが、その突き詰め方は違った。王は運よくホームランになれば喜んだが、榎本はホームランになっても、こう打てばもっとよかったと考える。技術的には王よりも榎本のほうが上だった。しかし、榎本は極めようとしすぎたのだろう。精神的に大変な状態になった。その点、王は適当にサボることを知っていた。突き詰めた先に、ゆとりや遊びが生まれた。この点が、世界一のホームラン王になれた王と、そうでなかった榎本の違いではないだろうか」と両者の違いについて寸評している。

同い年(ただし、長嶋は早生まれ)で同じ背番号「3」の長嶋茂雄に対しては、強い敵対心を燃やしていた。榎本は「相撲だったら長嶋に勝てる。超満員の観衆の前で一度長嶋を投げ倒すのが僕の夢でした。一塁にきた長嶋に言ってやろうと思いました。“長嶋、相撲で勝負しろ”と」と語っている。また千葉茂は、ファンから人気があり派手な選手であった長嶋を「サーカスのライオン」、地味な選手であった榎本を「神主」と例えたことがある。

稲尾和久は、著書において、やり難かった打者として榎本と長嶋の名前を挙げている。稲尾は相手打者の目を見つめて心理状態を探ってから投球を組み立てていたが、この2人は「何を考えているのか分からなかった」という。稲尾の理論では「打者と対峙する時、気の強い打者は目を合わせてくる。気の弱い打者は目を合わせて来ない」が、榎本はそのどちらでもなく、「自分の方を見てはいるのだが、目は合わない。目ではなくて額か眉間を見られているようで不気味だった」と述べている。一方で長嶋については、日本シリーズで初めて対戦した際、じっと長嶋の目を見ても何も反応が返ってこなかったため、稲尾は「なんと隙だらけの打者なのか。一分の隙もない榎本さんとは大違いだな」と戸惑いつつも得意のスライダーを投じた。すると長嶋の身体がいきなり反応し、打たれたことのないコースを打てるはずのない体勢で打ち返してきて、長打にされたという。野村克也も、心理が読めずにやり難かった打者として、榎本と長嶋の名前を挙げている。

貧乏な家庭に生まれ、家にお金がなかった。そのため、百姓だった榎本の父親は、田畑を売って金銭を拵え榎本を高校に進学させた。榎本は恩を決して忘れず、プロ入り後に高給取りとなった後、この田畑を父親のために買い戻している。また、貧困に苦しんでいた榎本の実家はあばら家で、榎本が初めて肉を口にしたのは中学生の時であったという。しかもその肉は赤蛙だった。若い頃の榎本が打撃に対して思い詰め、プレッシャーなどで精神面で深みに嵌ってしまったのは、榎本の収入に一家の生活そのものがかかっていたという事情もあった。

安打や本塁打を放っても「自分の打撃ではない」と悩み、凡退しても悩み、を繰り返していた。また、若手時代には些細なことですぐに気に病む一面があり、無安打に終わった試合後にはバットを握りしめてうずくまることもしばしばあったという。荒川博は「榎本は真面目すぎた。真面目すぎて息を抜くことを知らなかった」「榎本にもっと遊びの部分があったら、3000本は打てていた」と述べている。オリオンズの打撃コーチとして現役晩年時の榎本と接したことのある与那嶺要は、「彼(榎本)は野球に対して真剣すぎた。もっと野球は楽しむべきなのに……」と語っている。

野村克也は前述のように榎本の打撃を絶賛する一方で「榎本は打つだけなのだ。あとは無関心もいいところ」「たとえチームが負けても、自分がヒットを打てば満足なのだ」とも述べており、プロ選手としてチーム全体の勝利に関心のない榎本を「はっきり言って、私は尊敬できない」としている。

榎本は自身の求める理想的な打球や安打の内容に拘ったうえで、新人時代から1流打者の証明である打率3割の数字 を生涯の目標としていた。シーズンにおいては新人年の1955年、10年後のシーズンである1964年もそれぞれ安打がわずか1本及ばず(どちらのシーズンもあと1安打していれば、ちょうど3割であった)、打率3割を逃している。新人王の翌年からは打率が下がり、長いスランプに陥っていたが、1959年オフに合気道と座禅に出会い、打撃が開眼。翌1960年に「3割の壁」を破ると同時に首位打者を獲得し、以降はシーズン打率3割以上を残すようになった。通算においては1970年シーズン終了時点では打率3割(.3001)であったが、1971年も現役を続行して打率を落とし、オリオンズ時代の通算打率が.2994となって3割を切った(安打があと1本あれば、四捨五入の数字ではあるが3割)。トレードした翌1972年にも通算打率を落とし、奇しくも新人年の打率と同じ.298となり、執着していた通算打率3割にはわずか安打15本、四捨五入上の3割には安打12本が足りなかった。

若手時代にチームメイトであった須藤豊は、一軍では貴重な同年代だったこともあり、榎本と親しかった。須藤は榎本について、「榎本さんは本当にバットが好きだった。パジャマ姿で部屋から出てくると、バットを持ったまま顔を洗いに行く。朝食もそばにバットを置いて食べ、食後は庭の木に向かって納得がいくまでスイング。デーゲームだろうとナイターだろうと毎日、欠かさなかった、試合後もまっすぐ帰ってまたスイング。私も最初は練習につき合ったが、2年目からは夜の街に誘われてしまって」と振り返り、「私が夜の街の話題や世間話をすると、自分には縁がない世界なものだから、本当に喜んで聞いてくれた。女性関係の話なんかしたら、顔を真っ赤にしてね。純情を画に描いたような人だった」と語っている。

妻とは、知り合いの新聞記者からの紹介で知り合った。元同僚であった佐々木信也から、「ほう、恋愛にもわき目振らずに野球一途のエノも彼女できたか、と思ったらもう結婚か。手が早いなあ」と冷やかされ、榎本は反論したという。また、現役晩年の不振時に癇癪を起こして家の中の物をバットで壊したが、後年に榎本は「今から考えるとずいぶん子供じみたことをしていましたね。『家が壊れたって、また建てればいいんだ』と言って、妻に大笑いされたのを覚えているけどね」と振り返っている。

若手時代、榎本の心の支えだったのが、早稲田大学出身の先輩たちとの打撃談義だった。当時、早稲田出身である荒川博・小森光生・沼澤康一郎と榎本の4人は非常に仲が良く、遠征先の宿でもお互いのバッティングを検討しあい、酒も飲まずに延々と打撃について論じ合ったという。また、山内一弘は、4人に混じって野球談義をしたかったが、自分は早稲田出身では無いので入りにくかったと述べている。

現在、打撃の練習として広く行われている「セットアップ・ティーバッティング(トスしたボールをネットに向けて打つ練習)」は、山内一弘と一緒にゴルフの練習方法を応用して編み出したという。山内とは打撃理論で通じ合い、現役時代は仲が良かった。1970年に山内が現役引退した際、榎本は「山内さんとは長く一緒にプレイしたが、若い時から私のよい手本だった。一言では言えない思い出がある。引退されることはとても寂しい」とコメントを寄せている。

オリオンズが関西へ遠征したその晩、醍醐猛夫が有藤通世や山崎裕之と麻雀を打ち終えて部屋に戻ると、ルームメイトの榎本が居なかった。榎本は結局、深夜の3時頃に帰ってきた。翌朝、醍醐が有藤と顔を合わせると、有藤は「参った、参った」と連発する。訊くと、部屋に戻った有藤と山崎を、榎本が待ちかまえ、バッティングのコーチをしてくれたという。しかし、有藤と山崎には榎本の言っている打撃理論がどうしても理解できず、有藤は醍醐に「剣道の達人の話を聞いているみたいだった」と語った。また、有藤が榎本の打撃練習を見て衝撃を受け、打撃について教えてもらおうと声をかけたところ、榎本は振り向きもせず、「自分で考えろ」とだけ返ってきたという。

選手として毎日オリオンズ・大毎オリオンズ・東京オリオンズ・ロッテオリオンズの全てに在籍した人物は、榎本と醍醐猛夫の2名のみである。醍醐は早実時代からの2年先輩である榎本のことを尊敬しており、引退後の1970年代に「今でも、榎本さんを笑い草にする若い選手がいるが、そんなのを見ると張り飛ばしたくなりますよ。榎本さんがどれほどの打者だったか、おまえたちは知っているのかと怒鳴りたくなります」と語っている。

キャリア終盤は衰えてきた身体に苦悩していたと語っており、「両手首の腱鞘炎やら、足腰の衰えで体力が続かなくなっていたんですよ。バッターボックスでハッと思ったら、グリップの位置が下がり、真綿を踏むように運んでいた足がアウトステップしている。『ストライク、バッターアウト』という声に、ブルブルッて震えるようになっちゃったしね」、「臍下丹田に鎮めた気持ちが、肩に上がっちゃって、何だか気持ちもプカプカ風船みたいに浮いてるの。ああ、もう野球生命の終わりだなと思いました」、「若い人は出てくるし、試合からは外されるし、それでも2人の息子のお父さんとして家庭を守らなきゃいけないし、『ヒットが打ちたい』『ヒットが打ちたい』。そう思ってバットを振り続けて、気がついたら、バットを握ったまま涙なんか流してんの。切なかったねぇ」 と振り返っている。

自身のキャリアの終了を悟った榎本は、若い選手に打撃を教えたが、話が伝わらなかった。これについては、「言葉が通じないの。『臍下丹田』も『五体を結ぶ』もわかんない。それに、昨日基本をやって、今日また同じことをやろうとしても『それは昨日習ったから、次を教えて下さい』なんて言われてね」、「野球でも、学問でも一緒だと思うけど、『基本=応用』で、基本を繰り返して身につけてこそ、応用ができるわけでしょ。なのに、基本を教えようとしたら、逆に、型にはめるって言われちゃうし。つくづく絶望しちゃったんですよ」 と語っている。

引退後の榎本の取材に成功したスポーツライターの松井浩は、難解な話を理解するために数年間榎本の自宅に通い続け、「Number PLUS - プロ野球 大いなる白球の軌跡 - 」(1999年、文藝春秋)において、榎本本人への取材を元にしたドキュメント記事を掲載した。その後も取材で得た話を咀嚼するために解剖学・運動生理学や武道・柔術の歴史などを勉強し、実際に脱力法や呼吸法のトレーニングを6年間積んだという。2005年には松井による評伝「打撃の神髄 榎本喜八伝」(ISBN 978-4-06-212907-7)が刊行された。

1963年オフには球団が「ミサイル打線を解体して守りのチームを作る」という目標を掲げたため、主力選手の葛城隆雄がトレードで出され、榎本の難解な打撃理論に理解を示していた4番打者・山内一弘もトレードによってチームを去った。特に山内のトレードは「世紀のトレード」と呼ばれ、永田は同トレードの放出候補に榎本の名前も挙げていた。また、ベテランで主力選手でもあった田宮謙次郎は同年シーズン後半に本堂保次監督から冷遇を受け、オフに現役引退を表明。これらの一連の流れによって「大毎ミサイル打線」は瞬く間に崩壊し、主力選手の中で榎本ひとりだけが残る形となった。

球団名が「毎日大映オリオンズ」から「東京オリオンズ」となった1964年オフの契約更改にて、球団は榎本に年俸をダウンさせる旨を告げ、さらに「3割に2厘欠けたから(同年の榎本の打率はリーグ5位の.298)」という理由で、A級10年選手制度によるボーナスも満額を渋って規定ギリギリしか出そうとしなかった。前年オフに主力選手が一挙に抜けていたため、同年の榎本はチームリーダーを務めなければならない立場に置かれ(沢木耕太郎は「榎本にはその役回りが(性格的に)向いていなかった」と述べている)、その重圧の中でプレーしながら結果を残したが、それが球団に全く評価されなかった。同年の榎本はリーグ5位の打率の他に149試合に出場して本塁打は7位、打点は6位、盗塁は3位、出塁率は3位、最多四球、最多死球、最小三振という成績を残していた。また、球団側は期待の新人であった山崎裕之に榎本の背番号「3」を提示し(山崎が固辞)、さらに前年の契約時にオーナーの永田雅一が「君はチームに大きく貢献している。打率など心配しないでやってくれ」と発言していたこともあり、榎本は球団に対して強い不信感を顕わにした。

大毎時代の球団代表であった和田準一によると、榎本はそれまで契約更改の場では、どのような金額を提示されても「はい」以外言わない選手であったという。18年間の現役生活の中で、榎本が契約更改で感情を表に出したのは、後にも先にもこの時だけである。沢木耕太郎は「その榎本が、この年だけは頑強に拒絶したのは、孤立無援にさせられた者の怒りも含まれていたのかもしれない」と分析している。

榎本は翌1965年のシーズン序盤頃から頭の中で耳鳴りを感じるようになり、原因不明の頭痛や悪寒を覚え、体調を崩すようになった。シーズン中盤頃からは奇怪な行動を見せ始め、腱鞘炎になったことも相まって成績が低迷。1966年頃には大金を費やして庭に自家用の打撃場を作り、試合が終わった後もそこで延々と練習するなど、それまで以上に打撃の錬磨にのめり込むようになる。同年以降は自分でもコントロールできないほど感情が爆発するという精神的発作に見舞われるようにもなり、自分の打撃に満足できないと自宅にてバットでコーラ瓶や窓ガラスを壊すようになった。また契約更改で訪れた球団事務所にて、椅子に座って瞑想に耽り、7時間動かないなどの行動も見られた。

1966年、メジャーリーガーが来日し、ロサンゼルス・ドジャースとの日米対抗戦が開催された際、他の選手が練習している中、榎本ひとりだけがダッグアウトでじっと座禅を組んでいた。不審に思った山内一弘が、「榎本は何やっとんのや?」と巨人の山崎マネージャーに訊くと、山崎は「1時間も前からああしたままなんです」と答えた。山内が「寝てるんか」と榎本を冷やかすと、榎本は「違う」と言って動こうとしなかった。川上哲治監督も、目を瞑ったまま動かない榎本を見て心配になり、試合に出場できるのか尋ねたという。その後、榎本はノックも受けずバッティング練習もしないまま、試合にスタメン出場した。また、榎本は同年のオールスター戦でもベンチで座禅を組んでおり、セ・リーグ監督であった川上を心配させたという。

1966年は自己最高の成績を残しているが、このシーズンに関しては後年に榎本自身全く説明がつかないと述べており、「とにかくこの頃はひたすら苦しんでいた」という。「(この頃は)気がついたらバットを持って涙を流していた」とも語っている。また1963年の「神の域」以降は、絶頂期を求めてひたすらフルスイングで挑んでも満足できるスイングができなくなり、いくら精神統一しても、しっくり来なくなったという。1964年以降は球団から打率よりも本塁打を求められるようになり、器用に自分の打撃スタイルを変えることも出来ず、苦悩していたと述べている。若手選手とも馴染めず、打撃の話や打撃論を交わせる人がいなくなり、やがてチーム内で孤立していった。1966年頃からは、自分の打撃に没頭する榎本の姿はチームメイトから奇異なものを見るような眼で眺められるようになり、チーム内の陰で笑い話にされるようになった。

チーム名が「ロッテオリオンズ」となった1969年以降は奇怪な行動がさらに激しくなり、三振をするとバットを逆さに持って地面に叩きつけたり、球場のガラスやベンチ裏でコーラ瓶などをバットで叩き割ったり、試合前の客席に入り込んで奇声を発したりするなどの行動を繰り返し、打撃にも影響を及ぼした。1971年7月途中まで監督であった濃人渉は歴代随一の選球眼を持つ榎本に対して「榎本はボール球を振りすぎる」と言い、榎本も不信感を募らせていた。それでも榎本は往年の打撃力を随所で見せていたが(1970年の優勝年など)、同年7月24日に二軍監督から一軍監督に昇格した大沢啓二とは本格的に馬が合わず、大沢は若手の機動力野球を掲げ、功労者である榎本や他のベテラン選手に対して厳しい姿勢を見せた。打撃の機会がほとんど与えられなくなり、首脳陣から信頼されていないことを悟った榎本は、時代の流れと共に周囲から自身の理解者たちが去っていったことや、衰えによって身体が思うように動かなくなったこともあり、精神的に追い込まれていった。

1971年8月7日、榎本は大沢監督の方針に対する不満から、大沢がいた医務室のドアのガラスをバットで叩き割り、二軍降格の処分を受けた。これによって精神的な悪化が極まった榎本は、自宅の応接間に猟銃を持って立てこもった。榎本の理解者であった荒川博は、榎本の妻の電話によって榎本宅に駆けつけ、「何をつまらないことをしているんだ」と応接間に入ろうとした。すると榎本は「入るな!」と叫んだ直後、「たとえ荒川さんでも、入ってきたらぶっ放す」と凄まじい音を立てて天井に発砲した。天井の壁土が頭にまばらに降ってきた荒川は、「もう自分の手には負えない」とし、自分の家へ帰るしか仕様がなかったという。この一件については当時の週刊誌は「真偽不明」という扱いで記事を載せたが、後に榎本本人が事実であったことを認めている。

旅館で他の選手が就寝している午後11時ごろから、榎本は外で黙々と練習をしていたといわれている。しかし、精神状態が悪化した晩年は成績が残せなくなった。キャリア最終年である移籍先の西鉄でも、榎本獲得時には喜んでいた稲尾監督も榎本を持て余し、結局打率.233の成績で現役引退となった。稲尾は「(西鉄時代の)榎本さんとは会話すら出来ない状態だった」と回想している。同年は出場が少なく、引退試合もなく、報道もほとんどされなかったため、消えていくような引退だったという。

現役時代、榎本は麻雀をやるわけでもなく、煙草を吸うわけでもなく、仲間と酒を飲んで騒ぐこともしなかった。若手時代に荒川博に連れて行かれたキャバレーでは、数分も経たないうちに「荒川さん、こんな不潔なところにはいられません。帰ります」と言って帰ってしまった程、生真面目な性格であった。酒はたまに飲むことがあったが、その時も部屋にこもって飲むことが多く、ずっと考え込んでいたという。榎本の精神状態について、葛城隆雄は「発散させるものが何もなかったのかもしれない。内にどんどんこもってしまった」と振り返り、田宮謙次郎は「責任の重さ(山内などの主力打者3人がチームから一挙にいなくなり、榎本ひとりだけになった)に耐えられなくなったのではないか」と語っており、醍醐猛夫は「(榎本が)あまりに『バッティング道』を追いつめすぎたからでしょう」という旨を述べている。また、沢木耕太郎が榎本の父親に、榎本がなぜ不安定になったのか訊いたところ、父親は「……お医者さんによれば、なんだか入団した年に喰ったデッドボールの後遺症だとかいうんですがね」とあまり信じていそうもない口調で答えたという。

大毎時代の球団代表だった和田準一は、榎本について、「神経が細過ぎた」と振り返っている。1960年5月26日、試合前の練習中にて、榎本がバットを振っていた。そこにチームメイトの柳田利夫が通りかかったが、榎本は気づかなかったため、榎本の振ったバットが柳田の顎に直撃した。柳田は倒れ込み、顎から血が噴き出し、大騒ぎになった。榎本は顔面蒼白になり、身体を震わせるほど怯え、試合どころの状態ではなくなった。試合数分前になっても榎本の顔が蒼白であったため、西本監督は「コノヤロー、これから戦争をしようってときに、何を女学生みたいにメソメソしてやがるか!」と怒鳴り、榎本をビンタしたという。それまで榎本は打率.364であったが、同日を境に成績が下降した。その後、打撃が復調したのは、柳田が怪我から復帰した6月の終わり以降だった。同年は2位の田宮に2分7厘の差をつけて首位打者を獲得している。

豊田泰光は著書にて、「打撃に関し、あれほど純粋で情熱的な人間を知りません。変わりもんと言えば変わりもんで、一塁守備についていても、気になるのは打撃で、ついつい構えている」に続けて、「何せ孤高の人ですから、周りからは敬遠されがちだったんだけど、榎本君のいくところ、不思議なくらい、いつも少年たちが群がっていたんです。守備中に打撃のポーズを取っているような選手は仲間には迷惑だったろうけど、子どもたちだけは一つのことにそれだけ夢中になれることのすごさを知ってたんだろうね」と、榎本の純粋さの本質を突くようなエピソードを紹介している。

引退後は野球界と関係を断ち、メディアからのインタビュー依頼も基本的に断っていた。榎本は「本当は打撃コーチをやりたいんです。でも誰も声をかけてくれない。僕は社交ベタだし。そういう人間には話が来ない」と語っている。また、オリオンズのOB会 などにも一切出席していない。野球選手としてはチームに多大な実績を残し、貢献したのにもかかわらず、OB会で榎本の話が出ることは全くなく、引退後の安否を知るOBも少なかったという。榎本は通算2314安打を記録しているが、長らく野球殿堂入りもしていなかった(没後の2016年1月にエキスパート表彰部門で選出された)。日本プロ野球名球会入りの条件を果たした選手の中で、引退後に球界に関連する仕事に携わらなかったのは、プロ野球史上で榎本ただ1人となっている。

榎本の死後、長男の喜栄は榎本について、「私は、外での父の言動を知りません。家にいる父は至って優しい人でした。ウィキペディアには色々と書かれていますが、全部が全部、本当のことではありません。ただストイックで不器用だったから理解されないという葛藤があったのかもしれませんね」「インターネットでいろんな父の話が載るようになって、サインを求めるファンが家に来たり、手紙をいただいたり、ぜひ、サインをして送り返してほしいと色紙が家に送られてきたりしました。父は『俺は引退してからの方が人気があるなあ』なんて言って丁寧にサインを返していました。僕ら2人の息子には『野球をしろ』とも言わずに僕もしませんでした。でも、父の孫が今3人います。お爺ちゃんが凄い野球選手だったってことを息子達も何となく知っていましてね。彼らが父の後を追っかけることになるかもしれません」と語っている。

各年度の太字はリーグ最高

毎日(毎日オリオンズ)は、1958年に大毎(毎日大映オリオンズ)に、1964年に東京(東京オリオンズ)に、1969年にロッテ(ロッテオリオンズ)に球団名を変更

首位打者:2回(1960年、1966年)

最高出塁数:2回(1960年、1966年)※タイトル設立は1962年。

最多安打:4回(1960年 - 1962年、1966年)※当時連盟表彰なし。

新人王(1955年)

ベストナイン:9回(1956年、1959年 - 1964年、1966年、1968年)※一塁手部門で通算9回受賞はパ・リーグ記録、王貞治と川上哲治に次いで歴代3位(6年連続受賞は王に次いで歴代2位、パ・リーグ最長)。

オールスターゲームMVP:1回(1966年第2戦)

野球殿堂エキスパート部門(2016年)

初出場・初先発出場:1955年3月26日、対近鉄パールス1回戦(西京極球場)、5番・一塁手で先発出場

初安打:1955年3月29日、対東映フライヤーズ1回戦(後楽園球場)、2回表に後藤修から中前安打

初打点:1955年3月30日、対東映フライヤーズ2回戦(後楽園球場)、3回表に江上重孝から右前適時打

初本塁打:1955年4月2日、対トンボユニオンズ1回戦(川崎球場)、4回表に大庭宏から右越ソロ

1000安打:1961年9月27日、対阪急ブレーブス26回戦(後楽園球場)、3回裏に米田哲也から右翼線へ先制決勝適時二塁打 ※史上38人目(24歳9か月での達成は史上最年少記録)

1000試合出場:1962年6月20日、対東映フライヤーズ13回戦(東京スタジアム)、3番・一塁手で先発出場 ※史上70人目

100本塁打:1962年9月30日、対東映フライヤーズ26回戦(後楽園球場)、3回表に尾崎行雄から右越ソロ ※史上26人目

1500安打:1964年9月25日、対南海ホークス30回戦(東京スタジアム)、6回裏に合田栄蔵から二塁打 ※史上15人目(27歳9か月での達成は史上最年少記録)

1500試合出場:1965年10月11日、対西鉄ライオンズ27回戦(東京スタジアム)、5番・一塁手で先発出場 ※史上19人目

300二塁打:1966年4月19日、対近鉄バファローズ1回戦(日生球場)、4回表に佐々木宏一郎から右翼線二塁打 ※史上6人目

150本塁打:1966年5月18日、対南海ホークス8回戦(東京スタジアム)、3回裏に森中千香良から右越ソロ ※史上22人目

350二塁打:1968年5月5日、対近鉄バファローズ3回戦(東京スタジアム)、1回裏に鈴木啓示から二塁打 ※史上4人目

1000得点:1968年6月8日、対阪急ブレーブス7回戦(阪急西宮球場)、8回表にジョージ・アルトマンの左越同点2ランで生還 ※史上4人目

2000安打:1968年7月21日、対近鉄バファローズ17回戦(東京スタジアム)、1回裏に鈴木啓示から右翼線適時二塁打 ※史上3人目(31歳7か月での達成はNPB史上最年少記録:日米通算ではイチローが最速。ただし、MLBはNPBよりも試合数が多いため直接比較できない)

200本塁打:1968年8月4日、対東映フライヤーズ17回戦(東京スタジアム)、2回裏に宮崎昭二から先制ソロ ※史上16人目

2000試合出場:1969年10月12日、対南海ホークス26回戦(大阪球場)、5番・一塁手で先発出場 ※史上3人目

400二塁打:1970年10月15日、対南海ホークス25回戦(大阪球場)、6回表に三浦清弘から二塁打 ※史上3人目

3500塁打:1971年7月8日、対近鉄バファローズ16回戦(東京スタジアム)、5回裏に清俊彦から左翼線二塁打 ※史上5人目

通算409二塁打(1955年 - 1972年)※パ・リーグ歴代2位。

通算67犠飛 ※リーグ最多犠飛を記録していない選手の中では歴代最多タイ(他に新井宏昌)

5年連続シーズン150安打以上(1960年 - 1964年)※パ・リーグ歴代2位タイ。

入団以来15年連続100安打以上(1955年 - 1969年)※歴代3位タイ、パ・リーグ歴代2位タイ。

入団以来12年連続20二塁打以上(1955年 - 1966年)

49試合連続出塁(1966年7月15日 - 9月27日)※歴代8位タイ、達成当時はパ・リーグ記録。

打率ベストテン入り:10回(1955年、1956年、1960年 - 1964年、1966年 - 1968年)※歴代9位タイ、パ・リーグ歴代2位タイ。

シーズンリーグ最多四球:4回(1955年、1956年、1964年、1968年)※パ・リーグ歴代2位タイ。

シーズン173打席連続無三振(1964年6月30日 - 8月25日)※歴代5位、達成当時はパ・リーグ記録。

シーズン一塁手守備機会:1665(1956年)※日本記録。

シーズン一塁手刺殺:1585(1956年)※日本記録。

シーズン一塁手補殺:122(1965年)※パ・リーグ記録、達成当時は日本記録。

シーズン一塁手守備率:.9992(1968年)※パ・リーグ記録、達成当時は日本記録。

シーズン一塁手守備機会連続無失策:1128(1968年4月6日 - 9月3日)※日本記録。

一塁手守備機会連続無失策:1516(1967年8月13日 - 1968年9月3日)※パ・リーグ記録、達成当時は日本記録。

オールスターゲーム出場:12回 (1955年 - 1964年、1966年、1968年)

オールスターゲームで満塁本塁打(1963年7月23日)※史上初。

3 (1955年 - 1972年)

『敗れざる者たち』(1979年、文春文庫、沢木耕太郎著) - ノンフィクション作品。同作品収録の「さらば 宝石」の主人公となった。作品の中ではEと表現されている(最後の一文で実名が明かされる)。

『豪打列伝』(1986年、ナンバー編、文春文庫ビジュアル版) - 独占インタビューに応じており、榎本の打撃フォームが連続写真で載っている。

『プロ野球名人列伝』(1996年、PHP文庫、近藤唯之著)

『Sports Graphic Number PLUS 20世紀スポーツ最強伝説③ - プロ野球 大いなる白球の軌跡 - 』(1999年、文藝春秋) - 取材者の松井浩によるドキュメント記事「榎本喜八 もののふの真実」が掲載されている。

『20世紀のベストプレーヤー 100人の群像』(2000年、ベースボール・マガジン社)

『スポーツ伝説13 栄光のアウトロー』(2000年、ベースボール・マガジン社)

『打撃の真髄 榎本喜八伝』(2005年、講談社、松井浩著) - 松井浩による榎本の評伝。

『憧れの記憶 連続写真で見るスーパースター 野手編』(2007年、ベースボール・マガジン社)

『プロ野球 無頼派 選手読本』(2008年、宝島SUGOI文庫)

『一刀斎は背番号6』(1959年、大映) - 同僚役

『愛の三分間指圧』(1968年、大映) - プロ野球の選手役

^ 榎本以降は、張本勲やイチローなどがそう呼ばれている。

^ ただし、喜八は自分の2人の息子には「八」の字を付けていない。「幸福と八は関係ないだろうと思ったから」だという(松井浩著『打撃の神髄 榎本喜八伝』)。

^ 1球も振らずに合格したと言う説もあるが、俗説である。テストでの打撃を見た別当は、高卒だった榎本の打撃フォームに直す箇所が見当たらなかったという。

^ 高卒新人野手の開幕スタメンは、同年に7番打者でスタメン出場した谷本稔と並び、中西太の7番打者スタメン出場以来2人目だった。

^ 榎本以降、高卒新人野手のオールスタースタメン出場は、1988年に立浪和義がスタメン出場を果たすまで、33年間現れなかった。

^ 清原に更新された4つの部門は、現在でも清原に次いで高卒新人歴代2位である。また、16本塁打と長打率.473はそれぞれ清原・豊田泰光に次いで高卒新人歴代3位、12盗塁は高卒新人歴代5位タイに位置しており、7併殺打は高卒新人の規定打席到達者8名中、豊田・張本勲・立浪和義に次いで4番目に少ない。

^ 前年の山内和弘を抜く

^ 2位は1953年豊田泰光(西鉄)で3.17、3位は1986年清原和博(西武)で2.82、4位は1959年張本勲(東映)で1.90、5位は1942年青田昇(巨人)で1.43となっている。

^ 高卒新人から2年連続で打撃三部門すべて10傑入りは史上唯一。大卒を含めると長嶋茂雄、高橋由伸、牧秀悟が達成している。

^ 1968年に野村克也に抜かされるまでパ・リーグ記録

^ 「青田昇が打撃コーチとして榎本を誘う」という噂を榎本が聞きつけ、打撃コーチとして恥ずかしくないように、体を鍛えるために走っていたのだという(松井浩著『打撃の真髄 榎本喜八伝』)。

^ 先祖代々の田んぼがあった土地の価値が高騰し、そこにアパートを建て、家賃収入と駐車場経営で生活していた。

^ 榎本と同じく荒川博を師に持った王貞治も典型的なプルヒッターである(本塁打868本中、右翼612本・右中間140本)。

^ 1999年にロベルト・ペタジーニが124補殺を記録して更新したため、榎本の記録は2018年現在パ・リーグ記録となっている。

^ 2018年にホセ・ロペス(DeNA)が946守備機会、0失策(守備率1.000)で更新。

^ 練習においては熱心に素振りをしていた。荒川は「王(貞治)が努力の人と言われるけれど、それ以上にバットを振ったのが榎本ですよ。時間の許す限り、振ってんだから。あの王の倍は振ったね」と語っている(『プロ野球 「無頼派」 選手読本』)。

^ ただし、近藤は1985年11月の夕刊フジの記事において、榎本について虚偽の文章を書いたことがあり、宇佐美徹也が『プロ野球 記録・奇録・きろく』(1987年、文春文庫、p.322)でそれを指摘している。その他にも「入団テストでバットを1度も振らず、榎本の構えを見ただけで別当監督が『合格』と叫んだ」という旨の近藤の話も、『打撃の神髄 榎本喜八伝』(2005年)での榎本本人が語ったインタビュー内容と異なっている。

^ その4年後に大杉勝男も達成しているが、現在でも達成者はこの2人だけである。

^ 榎本は稲尾との対戦の際、打席に入るとまず自分の右足のつま先に目を落とし、その視線を徐々にグラウンドに伸ばしていき、それが稲尾の足元まで届いたら、上に移していって視界に稲尾の顔を入れる、という方法を取っていたという。榎本は「私は稲尾さんをなるべく遠くに見ようとしていました。あれだけの投手が近くに見えたら、もう打つチャンスは殆どありません。(中略)なるべくあの目は見ないようにしていました。だって、あの人と目を合わせたら、すべて読まれてしまうような感じがしましたからね」と述べている(『打撃の真髄 榎本喜八伝』)。

^ 当時は特にリーグ全体の平均打率が.240程度の打低投高の時代であったため、3割は首位打者のタイトル争いに加われる目安の数字だった。

^ また、帰った榎本は、宿舎で素振りをしていたという。

^ 榎本はこの前年のオフから「体の隅々を臍下丹田と結ぶ」というトレーニングを既に実践していたため、感覚が非常に鋭くなっており、自分のバットが柳田の顎に食い込む様をはっきりと感じてしまったという。その夜は恐ろしさから一睡も出来ず、布団の上でお経を唱えたと述べている。また、これが原因で柳田が引退するようなら責任を取って自分も現役を引退し、生涯柳田の面倒を見る、と考えるほど思い詰めたという(松井浩著『打撃の神髄 榎本喜八伝』)。

^ 二宮清純は引退後の榎本に取材を申込むため、何度も榎本宅に足を運んだが、毎回榎本の妻が出てきて、「(榎本は)修行中の身でございます」とインタビューを断られたという(『Number』468号)。

^ 2016年に統一組織として『オリオンズ・マリーンズOB会』が発足するまでは、毎日 - 大毎時代のOB(球団職員OBや球団に関係した毎日新聞社OBを含む)を対象とした『毎日オリオンズOB会』のみが公的な組織として存在していた。

^ ツーシームみたいに『週刊ベースボール』2011年9月12日号、ベースボール・マガジン社、2011年、雑誌20442-9/12, 73頁。

^ “【野球】2000安打ラッシュとなるか。大記録まで残り100本を切った5選手たち”. デイリースポーツ online (2017年5月9日). 2022年8月23日閲覧。

^ “巨人の坂本が通算2000安打 史上2番目の年少記録”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2020年11月8日). https://www.daily.co.jp/baseball/2020/11/08/0013849235.shtml 2023年3月22日閲覧。 

^ 「Number PLUS - プロ野球 大いなる白球の軌跡 - 」(1999年、文藝春秋)

^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年

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^ 【張本勲氏が語る榎本喜八氏】この人には勝てないとただ一人思った打者 スポニチアネックス 2016年1月19日付

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^ 【12月26日】1963年(昭38) 小山正明と山内一弘“世紀のトレード”異例の同席発表

^ 「豊田泰光 108の遺言」ベースボールマガジン社 2013年

^ ベンチで座禅…榎本喜八氏 殿堂入りで孤高の大打者に光 スポニチアネックス 2016年1月19日付

^ 張本勲氏、榎本喜八さんを絶賛「理想的なフォーム」 日刊スポーツ 2016年1月19日付

東京都出身の人物一覧

千葉ロッテマリーンズの選手一覧

埼玉西武ライオンズの選手一覧

個人年度別成績 榎本喜八 - NPB.jp 日本野球機構

60 ヴィクトル・スタルヒン

62 池田豊

63 中島治康

64 若林忠志

65 川上哲治, 鶴岡一人

69 苅田久徳

70 天知俊一, 二出川延明

72 石本秀一

74 藤本定義, 藤村富美男

76 中上英雄

77 水原茂, 西沢道夫

78 松木謙治郎, 浜崎真二

79 別所毅彦

80 大下弘, 小鶴誠

81 飯田徳治, 岩本義行

83 三原脩

85 杉下茂, 白石勝巳, 荒巻淳

88 長嶋茂雄, 別当薫, 西本幸雄, 金田正一

89 島秀之助, 野村克也, 野口二郎

90 真田重蔵, 張本勲

91 牧野茂, 筒井修, 島岡吉郎

92 廣岡達朗, 坪内道則, 吉田義男

93 稲尾和久, 村山実

94 王貞治, 与那嶺要

95 杉浦忠, 石井藤吉郎

96 藤田元司, 衣笠祥雄

97 大杉勝男

99 中西太, 広瀬叔功, 古葉竹識, 近藤貞雄

00 米田哲也

01 根本陸夫, 小山正明

02 山内一弘, 鈴木啓示, 福本豊, 田宮謙次郎

03 上田利治, 関根潤三

04 仰木彬

05 村田兆治, 森祇晶

06 門田博光, 高木守道, 山田久志

07 梶本隆夫

08 山本浩二, 堀内恒夫

09 若松勉

10 東尾修

11 落合博満

12 北別府学, 津田恒実

13 大野豊

14 野茂英雄, 秋山幸二, 佐々木主浩

15 古田敦也

16 斎藤雅樹, 工藤公康

17 伊東勤

18 松井秀喜, 金本知憲

19 立浪和義

22 髙津臣吾, 山本昌

23 アレックス・ラミレス

24 谷繁元信, 黒田博樹

25 イチロー, 岩瀬仁紀

09 青田昇

10 江藤慎一

11 皆川睦雄

13 外木場義郎

16 榎本喜八

17 星野仙一, 平松政次

18 原辰徳

19 権藤博

20 田淵幸一

23 ランディ・バース

25 掛布雅之

59 正力松太郎, 平岡凞, 青井鉞男, 安部磯雄, 橋戸信, 押川清, 久慈次郎, 沢村栄治, 小野三千麿

60 飛田忠順, 河野安通志, 桜井彌一郎

62 市岡忠男

64 宮原清

65 井上登, 宮武三郎, 景浦將

66 守山恒太郎

67 腰本寿

68 鈴木惣太郎, 田邊宗英, 小林一三

69 三宅大輔, 田部武雄, 森岡二朗, 島田善介, 有馬頼寧

70 田村駒治郎, 直木松太郎, 中馬庚

71 小西得郎, 水野利八

72 中野武二, 太田茂

73 内海弘蔵, 天野貞祐, 広瀬謙三

74 野田誠三

76 小泉信三

77 森茂雄, 西村幸生

78 伊丹安広, 吉原正喜, 岡田源三郎

79 平沼亮三, 谷口五郎

80 千葉茂

81 佐伯達夫, 小川正太郎

82 鈴木龍二, 外岡茂十郎

83 内村祐之

84 桐原眞二

85 田中勝雄, 山内以九士

86 中河美芳, 松方正雄

87 藤田信男, 山下実

88 横沢三郎, 芥田武夫, 永田雅一

89 池田恒雄, 伊達正男

90 佐伯勇

91 中澤良夫

92 吉田正男

94 廣岡知男

95 呉昌征, 村上實

96 牧野直隆, 保坂誠

97 山本英一郎

98 中尾碩志, 井口新次郎

99 吉國一郎

00 福島慎太郎

01 武田孟, 長谷川良平

02 中澤不二雄, 生原昭宏

03 松田耕平

04 秋山登

05 志村正順

06 川島廣守, 豊田泰光

07 松永怜一

08 嶋清一

09 大社義規, 君島一郎

10 古田昌幸

12 長船騏郎, 大本修

13 福嶋一雄

14 相田暢一

15 林和男, 村山龍平

16 松本瀧藏, 山中正竹

17 郷司裕, 鈴木美嶺

18 瀧正男

19 脇村春夫

20 前田祐吉, 石井連藏

21 川島勝司, 佐山和夫

22 松前重義

23 古関裕而

24 谷村友一

25 富澤宏哉

02 フランク・オドール, 正岡子規

03 ホーレス・ウィルソン, 鈴鹿栄

金田正一

稲尾和久

小山正明

米田哲也

梶本隆夫

皆川睦雄

村山実

鈴木啓示

堀内恒夫

山田久志

江夏豊

平松政次

東尾修

村田兆治

北別府学

佐々木主浩

高津臣吾

工藤公康

野茂英雄

山本昌広

岩瀬仁紀

黒田博樹

上原浩治

藤川球児

平野佳寿

山内一弘

榎本喜八

野村克也

長嶋茂雄

広瀬叔功

張本勲

王貞治

江藤慎一

土井正博

高木守道

松原誠

柴田勲

大杉勝男

藤田平

衣笠祥雄

福本豊

山崎裕之

山本浩二

有藤通世

若松勉

谷沢健一

加藤秀司

門田博光

大島康徳

新井宏昌

秋山幸二

駒田徳広

立浪和義

鈴木一朗(イチロー)

清原和博

古田敦也

野村謙二郎

石井琢朗

松井秀喜

田中幸雄

前田智徳

金本知憲

松井稼頭央

小笠原道大

稲葉篤紀

宮本慎也

小久保裕紀

アレックス・ラミレス

中村紀洋

谷繁元信

井口資仁

和田一浩

新井貴浩

福留孝介

荒木雅博

青木宣親

阿部慎之助

鳥谷敬

内川聖一

福浦和也

坂本勇人

栗山巧

大島洋平

1951 川上哲治, 野口明, 林義一

1952 飯島滋弥

1953 飯田徳治, 平井三郎, 堀井数男

1954 中西太, 山内和弘

1955 山内和弘, 西沢道夫

1956 森下正夫, 吉田義男

1957 大下弘, 宮本敏雄

1958 宮本敏雄, 中西太

1959 山内和弘, 中利夫

1960 森下整鎮, 金田正一, 張本勲

1961 広瀬叔功, 田宮謙次郎

1962 ブルーム, 張本勲

1963 近藤和彦, 王貞治, 古葉毅

1964 金田正一, J.マーシャル, J.スタンカ

1965 D.スペンサー, 高倉照幸, 江藤慎一

1966 広瀬叔功, 榎本喜八, 古葉竹識

1967 土井正博, 長池徳二, 大杉勝男

1968 江藤慎一, 柴田勲, 小池兼司

1969 土井正博, 船田和英

1970 長池徳二, 江夏豊, 遠井吾郎

1971 江夏豊, 長池徳二, 加藤秀司

1972 野村克也, 阪本敏三, 池田祥浩

1973 若松勉, 福本豊, 山崎裕之

1974 高井保弘, 福本豊, 張本勲

1975 山本浩二, 松原誠, 土井正博

1976 有藤道世, 門田博光, 吉田孝司

1977 若松勉, 野村克也, 王貞治

1978 A.ギャレット, 簑田浩二, 掛布雅之

1979 王貞治, B.マルカーノ, 山本浩二

1980 岡田彰布, 平野光泰, 江夏豊

1981 藤原満, 掛布雅之, 山倉和博

1982 福本豊, 柏原純一, 掛布雅之

1983 門田博光, 梨田昌崇, 落合博満

1984 簑田浩二, ブーマー, 江川卓

1985 高木豊, W.クロマティ, 松永浩美

1986 山本和範, 清原和博, 吉村禎章

1987 高沢秀昭, 石毛宏典, 清原和博

1988 ブーマー, 岡田彰布, 正田耕三

1989 村田兆治, 彦野利勝

1990 R.ブライアント, 清原和博

1991 古田敦也, 広沢克己

1992 石井浩郎, 古田敦也, 駒田徳広

1993 清原和博, T.オマリー

1994 秋山幸二, G.ブラッグス

1995 落合博満, 松井秀喜

1996 山本和範, 清原和博, 金本知憲

1997 松井稼頭央, 清原和博

1998 川上憲伸, 松井秀喜

1999 松井秀喜, R.ローズ, 新庄剛志

2000 R.ペタジーニ, 山﨑武司, 清原和博

2001 松井稼頭央, R.ペタジーニ, 中村紀洋

2002 G.アリアス, 的山哲也

2003 高橋由伸, 金本知憲

2004 松坂大輔, SHINJO

2005 金城龍彦, 前田智徳

2006 青木宣親, 藤本敦士

2007 A.ラミレス, 阿部慎之助

2008 山﨑武司, 荒木雅博

2009 青木宣親, 松中信彦

2010 阿部慎之助, 片岡易之

2011 畠山和洋, 中村剛也, 稲葉篤紀

2012 中村紀洋, 前田健太, 陽岱鋼

2013 澤村拓一, 新井貴浩, 内川聖一

2014 B.エルドレッド, 柳田悠岐

2015 藤浪晋太郎, 會澤翼

2016 筒香嘉智, 大谷翔平

2017 内川聖一, A.デスパイネ

2018 森友哉, 源田壮亮

2019 森友哉, 近本光司

2020 (中止)

2021 菊池涼介, 島内宏明

2022 清宮幸太郎, 柳田悠岐

2023 柳田悠岐, 万波中正

2024 牧秀悟,佐藤都志也

1950 荒巻淳

1951 蔭山和夫

1952 中西太

1953 豊田泰光

1954 宅和本司

1955 榎本喜八

1956 稲尾和久

1957 木村保

1958 杉浦忠

1959 張本勲

1961 徳久利明

1962 尾崎行雄

1965 池永正明

1967 高橋善正

1969 有藤通世

1970 佐藤道郎

1971 皆川康夫

1972 加藤初

1973 新美敏

1974 三井雅晴

1975 山口高志

1976 藤田学

1977 佐藤義則

1978 村上之宏

1979 松沼博久

1980 木田勇

1981 石毛宏典

1982 大石大二郎

1983 二村忠美

1984 藤田浩雅

1985 熊野輝光

1986 清原和博

1987 阿波野秀幸

1988 森山良二

1989 酒井勉

1990 野茂英雄

1991 長谷川滋利

1992 高村祐

1993 杉山賢人

1994 渡辺秀一

1995 平井正史

1996 金子誠

1997 小坂誠

1998 小関竜也

1999 松坂大輔

2001 大久保勝信

2002 正田樹

2003 和田毅

2004 三瀬幸司

2005 久保康友

2006 八木智哉

2007 田中将大

2008 小松聖

2009 攝津正

2010 榊原諒

2011 牧田和久

2012 益田直也

2013 則本昂大

2014 石川歩

2015 有原航平

2016 高梨裕稔

2017 源田壮亮

2018 田中和基

2019 高橋礼

2020 平良海馬

2021 宮城大弥

2022 水上由伸

2023 山下舜平大

2024 武内夏暉

1950 大下弘

1951 大下弘

1952 飯島滋弥

1953 岡本伊三美

1954 L.レインズ

1955 中西太

1956 豊田泰光

1957 山内和弘

1958 中西太

1959 杉山光平

1960 榎本喜八

1961 張本勲

1962 ブルーム

1963 ブルーム

1964 広瀬叔功

1965 野村克也

1966 榎本喜八

1967 張本勲

1968 張本勲

1969 永淵洋三, 張本勲

1970 張本勲

1971 江藤慎一

1972 張本勲

1973 加藤秀司

1974 張本勲

1975 白仁天

1976 吉岡悟

1977 有藤道世

1978 佐々木恭介

1979 加藤英司

1980 L.リー

1981 落合博満

1982 落合博満

1983 落合博満

1984 ブーマー

1985 落合博満

1986 落合博満

1987 新井宏昌

1988 高沢秀昭

1989 ブーマー

1990 西村徳文

1991 平井光親

1992 佐々木誠

1993 辻発彦

1994 イチロー

1995 イチロー

1996 イチロー

1997 イチロー

1998 イチロー

1999 イチロー

2000 イチロー

2001 福浦和也

2002 小笠原道大

2003 小笠原道大

2004 松中信彦

2005 和田一浩

2006 松中信彦

2007 稲葉篤紀

2008 リック

2009 鉄平

2010 西岡剛

2011 内川聖一

2012 角中勝也

2013 長谷川勇也

2014 糸井嘉男

2015 柳田悠岐

2016 角中勝也

2017 秋山翔吾

2018 柳田悠岐

2019 森友哉

2020 吉田正尚

2021 吉田正尚

2022 松本剛

2023 頓宮裕真

2024 近藤健介

1962 張本勲

1963 ブルーム

1964 張本勲

1965 D.スペンサー

1966 榎本喜八

1967 張本勲

1968 張本勲

1969 張本勲

1970 張本勲

1971 江藤慎一

1972 張本勲

1973 張本勲

1974 張本勲

1975 小川亨

1976 加藤秀司

1977 加藤秀司

1978 佐々木恭介

1979 加藤英司

1980 栗橋茂

1981 門田博光

1982 落合博満

1983 スティーブ

1984 スティーブ

1985 落合博満

1986 落合博満

1987 門田博光

1988 門田博光

1989 松永浩美

1990 清原和博

1991 白井一幸

1992 清原和博

1993 辻発彦

1994 イチロー

1995 イチロー

1996 イチロー

1997 鈴木健

1998 片岡篤史

1999 イチロー

2000 イチロー

2001 中村紀洋

2002 A.カブレラ

2003 小笠原道大

2004 松中信彦

2005 松中信彦

2006 松中信彦

2007 T.ローズ

2008 中島裕之

2009 中島裕之

2010 A.カブレラ

2011 糸井嘉男

2012 糸井嘉男

2013 E.ヘルマン

2014 糸井嘉男

2015 柳田悠岐

2016 柳田悠岐

2017 柳田悠岐

2018 柳田悠岐

2019 近藤健介

2020 近藤健介

2021 吉田正尚

2022 吉田正尚

2023 近藤健介

2024 近藤健介

 投  梶本隆夫

 捕  野村克也

 一  榎本喜八

 二  佐々木信也

 三  中西太

 遊  豊田泰光

 外  山内和弘 / 杉山光平 / 戸倉勝城

 投  杉浦忠

 捕  野村克也

 一  榎本喜八

 二  岡本伊三美

 三  葛城隆雄

 遊  豊田泰光

 外  杉山光平 / 高倉照幸 / 山内和弘

 投  小野正一

 捕  野村克也

 一  榎本喜八

 二  仰木彬

 三  小玉明利

 遊  豊田泰光

 外  山内和弘 / 田宮謙次郎 / 張本勲

 投  稲尾和久

 捕  野村克也

 一  榎本喜八

 二  森下整鎮

 三  中西太

 遊  豊田泰光

 外  山内和弘 / 田宮謙次郎 / 張本勲

 投  稲尾和久

 捕  野村克也

 一  榎本喜八

 二  J.ブルーム

 三  小玉明利

 遊  豊田泰光

 外  山内一弘 / 張本勲 / 吉田勝豊

 投  稲尾和久

 捕  野村克也

 一  榎本喜八

 二  J.ブルーム

 三  小玉明利

 遊  小池兼司

 外  山内一弘 / 張本勲 / 広瀬叔功

 投  J.スタンカ

 捕  野村克也

 一  榎本喜八

 二  D.スペンサー

 三  小玉明利

 遊  小池兼司

 外  張本勲 / 広瀬叔功 / 高倉照幸

 投  田中勉

 捕  野村克也

 一  榎本喜八

 二  国貞泰汎

 三  T.ロイ

 遊  小池兼司

 外  張本勲 / 毒島章一 / 高倉照幸

 投  皆川睦男

 捕  野村克也

 一  榎本喜八

 二  D.ブレイザー

 三  国貞泰汎

 遊  阪本敏三

 外  張本勲 / 土井正博 / G.アルトマン

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早稲田実業学校出身の野球選手

千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手

埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手

パシフィック・リーグ最優秀新人 (NPB)

首位打者 (NPB)

NPBオールスターゲーム選出選手

NPBオールスターゲームMVP

名球会

日本の野球殿堂表彰者

東京都出身のスポーツ選手

東京都区部出身の人物

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2025/04/07 08:25更新

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榎本喜八と同じ誕生日12月5日生まれ、同じ東京出身の人

関口 太郎_(レーサー)(せきぐち たろう)
1975年12月5日生まれの有名人 東京出身

関口 太郎(せきぐち たろう、1975年12月5日 - )は、東京都府中市出身のモーターサイクルレーサー。 両親がモータースポーツ好きであり、関口が子供のころから鈴鹿サーキットにレース観戦に行った経…

向坂 松彦(さきさか まつひこ)
1933年12月5日生まれの有名人 東京出身

向坂 松彦(さきさか まつひこ、1933年12月5日 - 2000年11月8日)は、元NHKアナウンサー。 早稲田大学第一政治経済学部を卒業後、1956年NHK入局。同期に山川静夫、松川洋右がいる。…

北出 清五郎(きたで せいごろう)
1922年12月5日生まれの有名人 東京出身

北出 清五郎(きたで せいごろう、1922年12月5日 - 2003年1月19日)は東京都出身の元NHKアナウンサー。 中央大学を卒業後、1947年NHK入局。1980年に退職した。 大相撲中継…

観月 ありさ(みづき ありさ)
1976年12月5日生まれの有名人 東京出身

観月 ありさ(みづき ありさ、1976年12月5日 - )は、日本の女優、歌手、モデル。東京都練馬区出身。ライジングプロダクション所属。 4歳からCMや雑誌などで子役モデルとして活動。 1989年…

国分 佐智子(こくぶ さちこ)
1976年12月5日生まれの有名人 東京出身

国分 佐智子(こくぶ さちこ、1976年12月5日 - )は、日本の女優・タレント。 東京都出身。恵泉女学園短期大学英文科卒業。ライジングプロダクション→ねぎし事務所所属。夫は林家三平。 小学校か…


長谷川 麻衣(はせがわ まい)
1988年12月5日生まれの有名人 東京出身

長谷川 麻衣(はせがわ まい、1988年12月5日 - )は、日本のタレント、グラビアアイドル。東京都出身。バグジー所属。 会社勤めをしながらタレント活動をしており、SNSアカウントのプロフィールに…

水沢 アキ(みずさわ あき)
1954年12月5日生まれの有名人 東京出身

水沢 アキ(みずさわ アキ、1954年〈昭和29年〉12月5日 - )は、日本の女優、タレント、モデル、歌手、実業家である。本名 スィーヒ 昭子(スィーヒ あきこ、旧姓・溜井(ためい))。身長158c…

近藤 祐介(こんどう ゆうすけ)
1984年12月5日生まれの有名人 東京出身

近藤 祐介(こんどう ゆうすけ、1984年12月5日 - )は、東京都江戸川区出身の元プロサッカー選手。ポジションはフォワード(FW)及びミッドフィールダー(MF)。 小学校1年生の時にサッカーを始…

倉沢 みのり(くらさわ みのり)
1995年12月5日生まれの有名人 東京出身

倉沢 みのり(くらさわ みのり、1995年12月5日 - )は、日本のアイドル。B.L.T.ガールズプロジェクト1期生。元クオリアム所属。 趣味:ディズニー映画鑑賞   特技:体が柔らかい、寝る前の…

広江 礼威(ひろえ れい)
1972年12月5日生まれの有名人 東京出身

広江 礼威(ひろえ れい、1972年(昭和47年)12月5日 - )は、日本の漫画家、同人作家。神奈川県出身。男性。血液型はO型。イラストレーターとしても活躍しており、書籍やゲーム作品などの表紙絵も手…


渕崎 ゆり子(ふちざき ゆりこ[注 1])
1968年12月5日生まれの有名人 東京出身

渕崎 ゆり子(ふちざき ゆりこ、1968年12月5日 - )は、日本の声優、舞台女優。東京都大田区出身。リマックス所属。2男の母。 1987年から1989年初頭までは、当時の本名である渕崎 有里子(…


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榎本喜八と近い名前の人

榎本 勝起(えのもと かつおき)
1929年10月26日生まれの有名人 東京出身

榎本 勝起(えのもと かつおき、1929年〈昭和4年〉10月26日 - 2021年〈令和3年〉11月22日)は、日本のアナウンサー、放送ジャーナリスト。TBSアナウンサー第3期生。東京都町田市出身・在…

榎本 ひかり(えのもと ひかり)
1994年10月15日生まれの有名人 東京出身

榎本 ひかり(えのもと ひかり、1994年10月15日 - )は、日本の元女優、元グラビアアイドル、元タレントである。 東京都出身。株式会社ウォーク所属。武藤敬司が旗揚げしたプロレス団体WRESTL…

榎本 加奈子(えのもと かなこ)
1980年9月29日生まれの有名人 東京出身

榎本 加奈子(えのもと かなこ、1980年9月29日 - )は、日本の実業家で、元タレント、元女優、元アイドルである。 東京都港区出身。芸能事務所は、ラッキーカムカム(イトーカンパニーグループ)を経…

榎本 哲也(えのもと てつや)
1983年5月2日生まれの有名人 神奈川出身

榎本 哲也(えのもと てつや、1983年5月2日 - )は、神奈川県川崎市幸区出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはゴールキーパー。 小学3年生のときに横浜マリノスプライマ…


榎本 達也(えのもと たつや)
1979年3月16日生まれの有名人 東京出身

榎本 達也(えのもと たつや、1979年3月16日 - )は、東京都練馬区生まれ、埼玉県蕨市育ちの元プロサッカー選手。現役時代のポジションはゴールキーパー(GK)。 兄の影響で 小学校1年生(6歳)…

榎本 麗美(えのもと れみ)
1983年2月13日生まれの有名人 千葉出身

榎本 麗美(えのもと れみ、1983年2月13日 - )は、フリーアナウンサー。元西日本放送アナウンサー。 千葉県出身。江戸川女子高等学校、帝京大学理工学部バイオサイエンス学科卒業後、2005年4月…

榎本 温子(えのもと あつこ)
1979年11月1日生まれの有名人 東京出身

榎本 温子(えのもと あつこ、1979年11月1日 - )は、日本の女性声優、ナレーター、歌手、ラジオパーソナリティ。フリー。東京都足立区出身。 榎本温子Official【声優 ナレーター】 ビデオ…

榎本 よしたか(えのもと よしたか)
1977年2月2日生まれの有名人 東京出身

榎本 よしたか(えのもと よしたか、1977年2月2日 - )は日本のイラストレーター、漫画家、法廷画家。和歌山県和歌山市出身。東京都小平市在住。本名、榎本 祥孝(読み同じ)。 中学校在学中の199…

榎本 充希子(えのもと みきこ)
1973年3月31日生まれの有名人 広島出身

榎本 充希子(えのもと みきこ、1973年3月31日 - )は、日本の女性声優。広島県出身。以前は青二プロダクション、冴羽商事に所属していた。 美少女戦士セーラームーン(1992年 - 1996年、…


榎本 智恵子(えのもと ちえこ)
1963年1月20日生まれの有名人 東京出身

榎本 智恵子(えのもと ちえこ、1963年1月20日 - )は、日本の元声優、元女優。東京都出身。賢プロダクションに所属していた。 父親は喜劇王として知られるエノケンこと榎本健一。そのエノケンとは7…

榎本 滋民(えのもと しげたみ)
1930年2月21日生まれの有名人 東京出身

榎本 滋民(えのもと しげたみ、1930年2月21日 - 2003年1月16日)は、日本の劇作家、演出家、小説家。日本演劇協会理事をつとめた。 旧東京府生まれ。1951年に國學院大學文学部中退。近世…

榎本 亜弥子(えのもと あやこ)
1985年4月29日生まれの有名人 東京出身

榎本 亜弥子(えのもと あやこ、1985年4月29日 - )は、東京都出身のファッションモデル・女優。 女子小中学生向けファッション誌『ニコラ』において、新垣結衣以前に最も人気の高かったモデル。公式…

榎本 憲一(えのもと けんいち)
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榎本喜八
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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「榎本喜八」を素材として二次利用しています。

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