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前田智徳の情報 (まえだとものり)
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【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

前田智徳の情報(まえだとものり) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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前田 智徳さんについて調べます

■名前・氏名
前田 智徳
(読み:まえだ とものり)
■職業
野球選手
■前田智徳の誕生日・生年月日
1971年6月14日 (年齢53歳)
亥年(いのしし年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
熊本出身

(昭和46年)1971年生まれの人の年齢早見表

前田智徳と同じ1971年生まれの有名人・芸能人

前田智徳と同じ6月14日生まれの有名人・芸能人

前田智徳と同じ出身地熊本県生まれの有名人・芸能人


前田智徳と関係のある人

藤本聖: 広島東洋カープの大ファンで、一番好きな選手は前田智徳


坪井智哉: 横浜の鈴木尚典、広島の前田智徳、坪井の3人が打率.330近くを記録する熾烈な首位打者争いを繰り広げた(最終的には打率.337を記録した鈴木が首位打者となった、坪井は打率.327でセ・リーグ3位)。


今井順之助: 打撃フォームは前田智徳を参考にしている。


ダン=ミセリ: 4月1日の広島東洋カープとの開幕戦、1点リードの9回表に初登板、グレッグ・ラロッカにバックスクリーンへの同点本塁打を、続く前田智徳には内野安打を打たれ、前田に送られた代走の福地寿樹に初球盗塁され、緒方孝市に勝ち越し本塁打を打たれ降板、3失点で敗戦投手となる。


堂林翔太: 広島の高卒3年目に一軍公式戦へ出場した野手では、緋本祥好(1956年)・江藤智(1991年)・前田智徳(1992年)に次ぐ球団記録を、この一打で達成した。


西田真二: 以上のエピソードからもチームやリーグを越えて『打撃の天才』と目されており、後輩の前田智徳が尊敬する人物に挙げていた。


小林正人: また、前田智徳(広島)にも滅法強く、投手・小林がコールされると前田が自ら交代を申し出るほどであった。


山田和利: 1995年には、開幕前に故障したルイス・メディーナに代わり音重鎮と共に一塁手での起用が増え、前田智徳が故障後に音が外野での起用が増えた関係で一塁の定位置を獲得(この年一塁ではチームトップの70試合に出場)。


吉村裕基: 2007年9月1日、前田智徳が2000本安打を達成した同日に自身初のサヨナラ本塁打を放った際に前田と誕生日が同じであることから小学校時代に前田グッズの下敷きとシャープペンシルを愛用していたことを明かした。


江村将也: 同点の8回2死1、2塁の場面で登板し、代打として出場した前田智徳に死球を与え乱闘騒ぎとなるも、後続を三振に打ち取り逆転勝利を呼び込んだ。


浜田省吾: 他にも前田智徳や西山秀二からサイン入りバットをプレゼントされている。


岩田稔: 10月14日の対広島東洋カープ戦(広島市民球場)に先発投手として一軍公式戦へのデビューを果たしたが、149km/hのストレートで前田智徳に本塁打を打たれるなど、3回4失点という内容で敗戦投手になった。


菊地原毅: しかし、同年も前年同様登板機会を得られず、9月28日に現役引退を表明し、10月2日の対阪神戦(マツダ)で同じく現役引退を表明していた前田智徳と共に出場、8回に登板し新井貴浩を見逃し三振に抑え、試合後に胴上げされた。


末永真史: 2012年に自由契約となった末永に対して、前田智徳は「どこで道を間違えたんかのぅ」などとコメント、末永も「前田さんより早く辞めるとは思わなかった」とコメントした。


廣瀬純: 2007年は前年外野のレギュラーであった前田智徳が離脱していたこともあり、3月30日の阪神タイガースとの開幕戦(京セラドーム大阪)に先発出場。


小窪哲也: 4月下旬に前田智徳が骨折、離脱したことで昇格。


金本知憲: 入団後の2年間(1992年 - 1993年)は芽が出ず、年下の前田智徳や江藤智らに追い抜かれ、打撃は当時のコーチから「転がして足を活かせ」と言われるほど非力で、外野守備も送球を地面に向かって投げてしまう悪癖から「モグラ殺し」のあだ名を付けられるなど、本人曰く「クビを覚悟していた」という。


朝山東洋: 初出場:1999年4月4日、対中日ドラゴンズ3回戦(ナゴヤドーム)、6回表に前田智徳の代走で出場


伊良部秀輝: 3年連続でオールスターゲーム出場(自身初の監督推薦)、初回表オールセントラル1番前田智徳2番立浪和義3番トーマス・オマリーの3者連続含め5奪三振と3回をパーフェクト。


谷繁元信: 開幕から本塁打を打ち続け、前田智徳、松井秀喜に次ぐ、リーグ3位の速さで2桁本塁打に到達した(最終的には14本塁打)。


小笠原道大: 引退試合となった9月21日の古巣・巨人戦では5番一塁手としてスタメン出場し、4回の第2打席で遊撃への内野安打(通算2120本目の安打)を打って前田智徳を上回る歴代通算安打数単独26位となる。


マーティー=ブラウン: 31年ぶりにキャプテン制を導入し、黒田博樹を投手キャプテン、前田智徳を野手キャプテンに指名する。


鈴木尚典: 同年のシーズンは最多安打こそ1本差で同僚の石井琢朗が獲得したが、前田智徳、坪井智哉とのタイトル争いに競り勝ち、2年連続となる首位打者を獲得。


宮﨑敏郎: セ・リーグでの4年連続記録は前田智徳(2004 - 2007年)に並ぶ。


東出輝裕: 三振数55は、前田智徳の31に次ぐチーム2位の少なさで、三振率も前田智徳に次いで下から2位。


高沢秀昭: 1991年は高卒2年目の前田智徳が急成長して外野手のレギュラーに定着した事もあり、守備固めや代打となっていた。


村上誠一: 1年後輩に前田智徳がいた。


高信二: チーム内の人望も厚く、引退試合では、試合後のロッカーに前田智徳から花束が届けられていたという。


八浪知行: その後も総監督として、前田智徳(広島)、荒木雅博(中日)ら多くのプロ野球選手を育てている。


音重鎮: 1995年は正一塁手のルイス・メディーナが故障離脱していた関係で開幕から山田和利と共に一塁で起用されていたが、前田智徳が故障離脱後は再び外野手での起用され、6月には3番打者に定着。


前田智徳の情報まとめ

もしもしロボ

前田 智徳(まえだ とものり)さんの誕生日は1971年6月14日です。熊本出身の野球選手のようです。

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選手としての特徴、評価などについてまとめました。テレビ、引退、結婚、事件に関する情報もありますね。前田智徳の現在の年齢は53歳のようです。

前田智徳のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

前田 智徳(まえだ とものり、1971年6月14日 - )は、熊本県玉名市(旧玉名郡岱明町)出身の元プロ野球選手(外野手、右投左打)、野球解説者。現役時代の異名は「孤高の天才」。

岱明町立岱明中学校では軟式野球部で活躍。1987年、熊本工業高校に入学。2年時の春・夏、3年時の夏の計3回甲子園に出場。3年時の夏には主将・4番・中堅手として出場し、敗れた2回戦では最終打者(結果は一塁ゴロ)となった。また、高校の2学年後輩に塩崎真がいた。

3年時の甲子園大会後、熊工には西武ライオンズを除く11球団、前田の自宅にも異例の8球団のスカウトが挨拶に訪れ、中でも地元九州の福岡ダイエーホークスは上位指名を示唆するなど熱心だった。しかし同年11月に行われたプロ野球ドラフト会議ではダイエーからの指名はなく、広島東洋カープが4位で指名。前田は会見場でテレビ中継を見た後、1時間近く泣き続け、一旦プロ入りを拒否。何度訪問しても口を開かない前田に痺れを切らした宮川孝雄スカウトは、「ダイエーは指名しなかったが、俺達は(指名の)約束を守ったぞ。男だったら約束を守れ」と叱責、とつとつと打撃理論を語った。前田は宮川の人間性に惹かれて広島入りを決意。同年広島が指名した6名の選手のうち、入団が決定したのは前田が最後だった。

4位まで指名されなかった理由として、宮川は「ドラフト会議の前、カープを含む各球団に文書が出回った。後輩が他校の生徒に殴られたと知った前田が、単身その学校に乗り込んで仕返しをしたという内容だった。」と伝えている。

1989年のドラフト4位で広島に入団。

1990年、公式戦初出場となる6月6日のヤクルトスワローズ戦では6番・中堅で先発出場を果たし、二塁打を放つなど4打数2安打1打点を記録。

1991年は2月24日のロッテオリオンズとのオープン戦に先発出場し、5打数5安打(4二塁打)を残した。開幕戦は「1番・中堅」で先発出場し、プロ入り第1号となる先頭打者本塁打を放った。長いプロ野球の歴史の中でもプロ初本塁打を開幕戦の初回先頭打者で飾ったのは前田のみである。一時は打撃不振に陥り先発落ちも経験するが、6月以降は2番に定着した。129試合に出場し、打率.271、14盗塁、30犠打の成績でチームの優勝に貢献。外野手としては史上最年少(19歳で開幕)でゴールデングラブ賞を受賞した。

1992年の開幕戦から6月3日まで2番を打っていたが、それ以降は主に3番を任される。シーズンを通じて全試合に出場し、打点王は逃したがラリー・シーツに次ぐリーグ2位の89打点、得点圏打率は.358を記録した。またリーグ5位の打率.308も残し、初めて打率を3割台に乗せた。これ以降規定打席に到達した年では1991年・2003年・2007年の3シーズン以外は打率3割以上を達成している。他に盗塁数18でリーグ4位、守備では刺殺数、補殺数ともにリーグトップを記録。外野手のベストナインに選ばれた。

1993年も2年連続となる全試合出場を果たし、リーグ3位タイの27本塁打、リーグ4位の打率.317(日本人選手中ではリーグ1位)、リーグ最多二塁打・最多塁打、OPS.945を記録するなど活躍した。この年の契約更改で球団に呼ばれた際に「背番号1(この年に現役を引退した山崎隆造が着けていた)は1年寝かせるからその後に(前田に着けることを)考えている」と球団の本部長から言われるが「自分は今の番号(背番号31)が気に入ってますので」と固辞する。しかし後日、再度球団に呼び出され、「(当時の)オーナー(松田耕平)が着けろと言ってるから着けろ」と言われて背番号1を着けることとなった。

1994年は開幕戦から4番に座るが、4月30日以降は3番に固定。同年シーズンはアロンゾ・パウエルと首位打者争いを繰り広げ、3厘差のリーグ2位の打率.321を記録し、本塁打はリーグ5位タイの20本塁打を残す。4年連続となるゴールデングラブ賞、3年連続となるベストナインを獲得した。

1995年は開幕から2試合連続本塁打を記録したが、この頃から勤続疲労等でアキレス腱の痛みが酷く毎試合テーピングは必須であった。好調だったスタートとは裏腹に打率もみるみる下がり、足の痛みも酷くなったこともあり普段するテーピングの数を倍にして挑んだ、5月23日の対ヤクルト7回戦の第1打席にて先発石井一久のストレートを打ちセカンドゴロ。一塁への走塁時に右アキレス腱を断裂する大怪我を負う。選手生命の危機に陥り、残りのシーズンを棒に振った。同年以降からアキレス腱断裂の怪我がプレーに大きな影響を及ぼすようになり、故障がちにもなった。

1996年の開幕戦に先発出場するが、足の肉離れにより数試合で離脱。5月に復帰してからはほぼ全試合に出場し、2年ぶりに規定打席に到達した。同年から1999年まで、4年連続で打率3割以上・得点圏打率.340以上(.368、.368、.358、.343)を記録。

1997年は怪我の影響もあり休養を挟みながらの出場であったため、最終戦の9回終了時点では規定打席にわずかに足らなかったが、延長戦に突入して打席が回ってきたため、ぎりぎりで到達した。

1998年は開幕戦から6日間は1番打者として出場し、それ以降は3番に定着。同年は打撃の調子や足の状態が良好で、毎試合スタメン出場を続けた。4月に打率.370・5本塁打・16打点を記録して月間MVPを受賞。前半戦を打率.336・14本塁打で折り返し、インタビューでは「怪我をせずにやってこれてるので、それが一番嬉しい」とコメントした。8月には首位打者争いのトップに立ち、5試合連続本塁打を記録。月間成績で打率.368・9本塁打・26打点を残し、一時はリーグの三冠王になる程の活躍で8月の月間MVPを受賞した。9月の巨人戦では東京ドームの看板に直撃する本塁打を放ち、賞金100万円を獲得。同月13日のヤクルト戦で23度目の猛打賞を記録し、それまで与那嶺要が持っていたセ・リーグのシーズン最多記録を46年ぶりに更新した。しかし15日の試合で、走塁時に左ふくらはぎを痛めて立ち上がれなくなり、欠場。残りの試合を棒に振った。127試合出場に終わり、自身が目標にしていた「全試合出場」にはあと一歩及ばなかった。シーズンを通して鈴木尚典・坪井智哉らと首位打者争いを繰り広げ、2厘差の打率.335でリーグ2位に終わるものの、1993年以来となるリーグ最多二塁打・最多塁打を記録。4年ぶりにベストナインに選出された。

同年シーズンの首位打者争いは鈴木(横浜)の打率が.337、前田が.335の状態で残り試合は両チームの直接対決のみとなったが、横浜監督の権藤博は試合前に「広島が前田を出場させるのなら、鈴木を休ませ、前田を全打席敬遠させる」と発言した。これを聞いた前田も「ファンにみっともないものを見せたくない。敬遠されるくらいなら試合に出ない」と出場を拒否し、結果的に両選手が欠場している。

1999年は前年の活躍もあり周囲からも打撃タイトル獲得を期待されてシーズンに突入したが、足の調子が芳しくなく、怪我との兼ね合いで休みがちになる。調子も上向かなかったものの、最終的に打率3割を残した。

2000年はFAで巨人へ移籍した江藤智の穴を埋めるために4番で起用される。同年は序盤から打撃が好調で、4月の月間MVPを受賞するなどハイペースで本塁打を量産していたが、シーズン途中で左アキレス腱の状態が悪化し、不調に陥る。7月27日に腱鞘滑膜切除手術を受け、残りのシーズンはリハビリに努めた。結局79試合の出場で打率も長打狙いが仇となり自己ワーストの.237に終わった。同年にFA権を取得したが、行使はしなかった。

2001年3月に結婚。しかし同年シーズンも足の状態が思わしくなく、公式戦出場は27試合に留まり、0本塁打に終わった。

2002年は開幕から先発出場し、4月5日の広島市民球場での中日戦で、山本昌から約2年ぶりの本塁打を放つ。4月6日の試合中では、前田の走塁に不満を持ったルイス・ロペスにダグアウトで掴みかかられ騒動になった。ロペスはこの事件の翌日から出場選手登録を抹消、10日間の謹慎を科した上で二軍の練習参加も禁じる厳罰を下されており、その後両者の話し合いの場を作られ和解している。4月は5番、5月以降は6番打者として先発出場していたが、8月以降は5番に定着。打率3割を記録し、同年のカムバック賞を受賞した。

2003年では128試合に出場し、21本塁打、71打点と活躍したが8月に打率3割を切ってしまってからは3割に乗せることができず、最終的には打率.290でシーズンを終了した。

2004年は開幕戦の4月2日から4月23日まで19試合連続安打を記録(開幕からの連続試合安打としては球団記録。歴代では4位)。シーズンでは2年ぶりに打率3割に到達した。

2005年は「5番・左翼」で146試合すべてに先発出場を果たし、打率.319・32本塁打、自己最多の172安打を放った。全試合出場は1993年以来12年ぶりで、三振率.073は自己最高だった。

2006年は新監督のマーティ・レオ・ブラウンから野手のキャプテンに指名される。開幕当初は出塁率の高さを買われて2番打者を務めるが、打撃不振に陥り半月で5番に戻った。5月25日に通算100補殺を達成。8月22日の阪神戦でライト前ヒットを放ち、史上40人目の3000塁打を達成した。134試合に出場してリーグ4位の打率.314でシーズンを終え、通算11度目の3割(歴代5位タイ)を記録した。また規定打席に到達したシーズンの中では自己最高となる得点圏打率.373(リーグ2位)を残した。

2007年9月1日の中日戦(広島市民球場)で、8回裏に久本祐一からライト前2点適時打を放ち、NPB史上36人目となる2000安打を達成。31三振は4年連続のリーグ最少(規定打席到達者中)、三振率.075もリーグ最小だった。一方、怪我が相次いだこともあり、規定打席には最終戦で到達。4年ぶりにシーズン打率3割を切った。同年のオールスターゲームでは第1戦に代打本塁打を放った。

2008年は開幕からしばらくはスタメンで出場していたが、後半は外野手の若手起用、守備と走力重視のチーム編成により先発から外れるようになる。しかし代打では打率.372の成績を残した。最終的に84試合に出場して打率.270、4本塁打に終わった。10月10日に球団と会談を行い、FA権の不行使と2009年シーズンの選手専任での現役続行が決まった。

2009年はキャンプからコンディションが整わず、ブラウン監督の若手重視の起用方針もあり、プロ入り初の一軍試合出場ゼロに終わった。緒方孝市の引退試合では花束を渡し、涙ながらに抱擁をした。

2010年は代打での出場を目指して調整を行い、3月4日のオープン戦で2008年10月以来の対外試合へ出場を果たした。開幕後の3月29日には代打として2年ぶりに公式戦に出場し、無死満塁の場面で犠牲フライを放った。4月11日には横浜スタジアムで2年ぶりの公式戦本塁打を打ち、4月16日にはマツダスタジアムでの中日戦で、浅尾拓也からセンター前へ自身16年ぶりのサヨナラ安打を放った。同サヨナラ安打はマツダスタジアムでの初安打となった。同年シーズンは主に代打で起用され、2割代前半の打率ながらも代打としてはチーム最多の62試合に出場した。故障の不安を抱えたシーズンだったため守備には就かなかったが、指名打者制度を採用したセ・パ交流戦では、指名打者として6試合に先発出場した。同年5月21日の交流戦・対福岡ソフトバンクホークス1回戦(ヤフードーム)では8回表に陽耀勲からシーズン第2号となる2点本塁打を放ったが、これが現役生活最後の本塁打となっている。

2011年も代打専任で過ごしたが、4試合で決勝打を放つなど勝負強さを発揮し、代打の切り札として活躍した。松田元・オーナーからも2012年の現役続行を要請された。

2012年も前年同様に代打の切り札として起用されている。7月1日の対DeNA戦では決勝の適時打を放ち、このプレーが2012年第7回「ジョージア魂」賞に選ばれた。シーズン成績も打率.327、出塁率.408を記録し、昨シーズン以上に代打での勝負強さが発揮された1年となった。この年、金本知憲と石井琢朗が現役引退したため、現役選手では日本プロ野球の通算最多安打記録保持者となった。

2013年、この年は一軍打撃コーチ補佐兼任となる。4月21日の巨人戦(マツダ)で7回二死二・三塁から代打出場しマシソンから同点の2点適時打を放つ。これが2119本目、現役最後の安打となった。4月23日のヤクルト戦(神宮)の8回表に代打で出場した際に江村将也から左手首へ投球を受け途中交代した。この後、前田がマウンドの江村に近寄り、両チームのメンバーが入り乱れ古澤憲司投手コーチが退場になるなど乱闘のようなことが起こる。病院で検査を受け「左尺骨骨折」と診断された。これ以後はシーズン中の戦列復帰目指してリハビリテーションに取り組んでいたが、9月27日にマツダスタジアムで記者会見を行い、同年限りで現役を引退することを発表。10月3日のマツダスタジアムでの中日戦が引退試合となり、8回裏二死に小窪哲也の代打として出場。小熊凌祐が投じた0ボール2ストライクからの3球目の直球を打ち返すが、投ゴロに倒れる。9回表にはそのまま右翼に入り、2009年に開場したマツダスタジアムで初めての守備に就いた。試合後にセレモニーが行われ、挨拶をしている。

2013年12月26日、球団主催イベントへの出演や商品開発への助言などを目的に、広島球団とアドバイザー契約を締結した。2014年には、広島市に本社を置く中国新聞の野球評論家や、テレビ朝日(2022年まで)・広島ホームテレビの野球解説者も務める。

アマチュアゴルファーとしても活動している。2021年6月には中国アマチュア選手権で4位に入り、日本アマチュアゴルフ選手権への出場権を得た。ただし日本アマチュアゴルフ選手権の開催期間中に仕事が入っているため出場は未定と語り、最終的には出場を見送っている。

選手としての特徴

打撃

“天才”と称される打撃センスを誇る強打者。通算安打の内容の50%が引っ張り方向であり、逆方向は僅か18%とプルヒッターの傾向にある。怪我以前は逆方向にも飛距離を出せていたが、怪我をしたことで右足の抑えが効かなくなりレフト方向へ飛距離を出せなくなったためセンター、ライト方向へホームランを打ちにいくようになったと語っている。打撃の柔らかさも特徴で、前田は「タイミングをゆっくり取りたい」「スイングは遅いくらいでちょうどいい」と語っている。広島入団後に川上哲治の助言で、グリップの位置を修正し、トップが浅くコンパクトな打撃フォームを生み出した。前田は「まずミートして、球を確実にとらえることが近道だと思ったから、自然とそうなった」と語っている。

現役晩年は代打の切り札として活躍。

現役時代に苦手としていた投手は山本昌、小林正人など。特に小林は前田自身が交代を申し出るほど苦手としていた。

守備・走塁

アキレス腱を故障する以前は俊足・好守を誇り、1991年から1994年にかけて4年連続でゴールデングラブ賞を受賞している。守備位置は1997年まで主に中堅手、翌1998年以降は足の負担軽減のため右翼手に転向。2003年以降は左翼手を守っている。

評価

プロ入り1年目、開幕早々のヤクルトスワローズとの公式戦に出場した。当時ヤクルト監督であった野村克也は、前田が自チームのドラフト候補にも上がっていなかったことに対し「なんであの選手がうちのリストにないんだ」とスカウトをきつく叱責した。

前田の広島入団当時に監督を務めていた山本浩二は、「まず何よりユニホームの着こなしが気に入った。こういう選手は成功するんです」「バッティングを見て、もっと驚いた。トップの位置がピタッと決まっていて軸がブレない。フォームも崩れない。相手ピッチャーに関係なく、全て自分のスイングでボールを処理している。だから、打球は詰まってもヒットになる。技術的には何も教えることがなかった。こういう子を天才というんだと思いましたね」と振り返っている。

落合博満は、1999年のインタビューで「今の日本球界に、俺は2人の天才打者がいると思っている。1人がオリックスのイチローで、もう1人が前田なんだ」と語り、「分かりやすくいえば、前田は『鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス』の家康タイプ。『鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス』の秀吉タイプが、イチローだ。つまり前田は、いかにしてボールを自分のポイントまで呼び込んできて、自分の形で打つかという打撃のお手本。イチローは、そこへボールが来ないなら、自分が体を寄せていってそのポイントで打つという打撃なんだな」、「前田の打撃は、プロ野球50年の歴史の中で、ずっと理想とされてきたフォームといえる。みんながお手本にしていい、生きた教材」と高く評価し、打撃指導の時は「広島の前田を参考にしろ」「真似して良いのは前田だけ」と言うことが多かった。

今中慎二は「僕の中で特別な存在は前田と落合(博満)さんのふたりだけ」「ランナーがいる時の集中力は凄かった。『ヒットなら仕方がない』と諦めにも似た気持ちで投げていました。僕を『コノヤロー!』という気分にさせたのは後にも先にも彼(前田)だけですよ」と語っており、伊藤智仁は「僕が対戦したバッターではナンバーワン。バットコントロールが天才的で全く弱点がなかった」「本気になった前田には、どんなボールも通用しなかった。顔色やしぐさで『こいつ、ヤバイな』と分かるんです。(中略)どのコースも、どんなボールもバットの芯でとらえる技術を持っていました」と述べている。

槙原寛己は前田について、「真ん中のボールは平気で見逃すくせに、難しいボールは確実にヒットにする。乗っている時と乗っていない時とで、あれほど差のあるバッターもいなかった」と評している。また山本昌は前田の現役引退時、「天才とよく言われるが、努力の天才だと思う。鬼のような形相でティー打撃をしていた印象が強い。すごい打者だった」とコメントを寄せた。チームメイトであった緒方孝市は、引退後に「23年間、いろんな選手を見て、 それで言うと自分の中でナンバー1は前田智徳。それこそ武士みたいな表現をよくされるけど、まさにそのとおり。 独特の世界を持ってるし、あれは何か命かけた真剣勝負してますよ。野球じゃない何かに自分の命かけてる感じ」と語っている。

あるオープン戦の対ヤクルト戦で、前田用のワンポイント・リリーフで技巧派の左投手が登板した。バットを1度も振ることなく見逃し三振を喫し、怒ったような表情でベンチに戻ってきた前田に、川口和久が「なんで振らないんだ?」と尋ねたところ、前田は「あんなのは(気のない甘い球を投げるのは)ピッチャーじゃない。バットを振る気にならんのです」と答えたという。川口は「彼らしいな、と思いましたよ。前田には独自の美学があって、『こんなボール、打つに値しない』と思ったんでしょう。彼はホームランを打ってもブスッとしていることがよくあった。『うれしくないの?』と聞くと、『今のはとらえ方がマズかったですね』と言ってうつむいてしまう。『まぁ、いいじゃないか。ホームランなんだから』と慰めると『いや、そういうもんじゃないんです』と、こうですよ。逆に凡打に倒れてもニコニコしている時があった。彼の中では満足できる何かがあったんでしょう」と振り返っている。

松井秀喜は前田のアキレス腱断裂後の1995年、「週刊ベースボール」誌上の「『男』を感じさせる選手は誰か?」という設問に、他の11球団の選手が自球団の選手の名前を挙げる中、「前田さんの背中に『男』を感じます。(中略)打撃が素晴らしいし凄みもある。広角に打てるしチャンスにも強く、いつも打ちそうな雰囲気が漂っている。日本で一番いいバッターかもしれません」と述べた。また、若手時代のイチローは「あの人(前田)のバッティングにはかなわない」と語っている。1994年のオールスター戦では、この年に初出場したイチローはオールスター選出にあたり前田について「真っ先に会いたい」と話し、自らセ・リーグチームのベンチに出向き、初対面の前田に笑顔で握手を求めている。

打撃コーチだった水谷実雄は、前田について「例えば、試合中にピッチャーにやられると、ものすごい悔しい顔をする。悔しくてたまらない顔をする。それで、センターに守りにいく時、時間がかかってしまう」、「ものすごく引きずるタイプ。尾を引く。(気持ちの)切り替えがヘタクソ。だから、やり返そうと練習する。負けることに対する悔しさが、人一倍強い。『守りと打つのは別にしろ』と何度も諭したんよ。ただ前田の気持ちはほんまに、こっちにもようわかるんで、周りから『チンタラしやがって』と言われた時は、その人たちを自分がいなしたり、おさめたりしたこともあった」と語っている。阪神のコーチを務めていた2013年、マツダスタジアムで最後の対戦の時には引退を表明した前田が挨拶にやってきて、水谷が「前田、もう苦しまんでええのぉ」と声をかけたところ、前田は水谷の胸にすがって泣き出したという。

北別府学は前田のことを「職人」と表現している。また前田は若手時代に「ヒットはバットの芯でボールを捉えたものだけを言う」と発言したこともあるなど、オリオンズの打者であった榎本喜八の理想を求める打撃理論と類似点が多く、スポーツジャーナリストの二宮清純は前田へのインタビューのタイトルで「前田智徳に、榎本喜八の幻影を見た」と評している。イチローからは、「僕のことを天才だという人がいますが、本当の天才は前田さんですよ」と評されていた。

一方、2021年5月に古田敦也の公式YouTubeチャンネルで前田本人が語ったところによると「ホームランを狙うというよりはホームランにできる球を狙う」とのこと。プロ野球入り当初は足とミートを活かした短距離打者になるというつもりであったが、パワーが付いていくにつれて特に狙ってもいないのに予想以上に本塁打を打てるようになったためミドルヒッターを目指すようになった。

前田の打撃技術は周囲から高い評価を受けている一方、前田自身が目指すレベルが異常なまでに高く、その一例として高校時代、全体練習後には夜な夜な黙々とティー打撃を続け、思うような打球が飛ばないとスパイクで土を蹴り上げたりバットを叩き付けて怒り出したり、時には頭を抱え込んで悩んだり、といったことを繰り返していた。

2024/06/21 12:37更新

maeda tomonori


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