義原武敏の情報(よしはらたけとし) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
義原 武敏さんについて調べます
■名前・氏名 |
義原武敏と関係のある人
大橋棣: この年は、義原武敏を擁して、第36回全国高等学校野球選手権大会で1勝しベスト16を記録。 米田哲也: 同年次に米子東高の左腕エース義原武敏がおり、1年秋から幾度となく激闘を演じた。 横溝桂: 同年夏も県予選を勝ち抜き東中国大会1回戦まで進むが、米子東高の義原武敏投手に抑えられ延長12回0-1xでサヨナラ負け、甲子園には届かなかった。 黒田能弘: 1962年は同じく巨人を自由契約となった義原武敏とともに近鉄でに移籍するが、出場機会はなく、同年引退。 榎本喜八: 2回戦でエース義原武敏を擁する米子東高を降す。 種部儀康: 上灘小から倉吉東中を経て入学した倉吉農業高ではエースとして活躍したが、同年次に米子東高の義原武敏や境高の米田哲也といった好投手がおり、甲子園には出場できなかった。 樋笠一夫: 広岡達朗のダブルプレーと思われた当たりを野手がファンブルして満塁とし、続く藤尾茂が三振に倒れ、1死満塁となった場面で、打席に投手の義原武敏の場面で水原茂監督は代打に樋笠を送った。 豊田泰光: 1957年の日本シリーズでは第1戦で義原武敏から勝ち越し本塁打、最終第5戦で3安打と活躍しシリーズ優秀選手賞を獲得した。 鎌田実: 初本塁打:1958年9月20日、対読売ジャイアンツ24回戦(後楽園球場)、7回表に義原武敏から左越ソロ 浅越桂一: 関西高等学校では1954年夏の甲子園予選東中国大会決勝に進むが、米子東高のエース義原武敏に抑えられ、延長10回0-1xでサヨナラ負け、甲子園出場を逸する。 |
義原武敏の情報まとめ
義原 武敏(よしはら たけとし)さんの誕生日は1937年7月29日です。島根出身の野球選手のようです。
現在、引退に関する情報もありますね。2010年に亡くなられているようです。
義原武敏のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 義原 武敏(よしはら たけとし、1937年7月29日 - 2010年)は、島根県安来市出身の元プロ野球選手(投手)。 安来中学校(現在の安来市立第一中学校)から米子東高校に進学。高校再編に伴って野球部員が分散を余儀なくされ戦力が手薄となっていたため1年春から先発投手として起用される。1953年秋季中国大会県予選決勝で境高の米田哲也に投げ勝ち本大会に進むが、準決勝でエース横溝桂を擁する岡山東商に敗れ春の選抜出場を逸する。2年時の1954年には阪神軍でプレー経験がある監督の大橋棣の下、夏の甲子園に出場。1回戦は滝川高に延長11回サヨナラ勝ち。2回戦に進出するが、榎本喜八らのいた早稲田実に敗れる。1954年は持病の肋間神経痛のため精彩を欠き、夏の県予選は準決勝で倉吉東高に敗退した。中学・高校の1年後輩に、海外からの引き揚げによる年齢超過が認められ、1956年に19歳で夏の甲子園に出場した長島康夫投手(富士鉄広畑)がいる。 1956年に読売ジャイアンツへ入団。新人ながら6勝を挙げてチームはリーグ優勝。同年の西鉄ライオンズとの日本シリーズには第5戦にリリーフ登板、チームが8回に逆転し義原に勝ち星が付いた。第6戦も7回からリリーフで登板し1イニングを無失点で抑えるが、チームは敗退し日本一を逃した。翌1957年は7勝を挙げ、チームもリーグ優勝。日本シリーズは2年連続で西鉄相手。第1戦で先発を任され、稲尾和久と投げ合う。3回までは一人も走者を出さぬ好投だったが、4回に連打を浴び1失点。6回には豊田泰光に本塁打を打たれこの回で降板。第3戦も先発で登板、再び稲尾との投手戦となり5回まで1安打ピッチングだったが、6回に突如崩れ敗戦投手となった。3年目の1958年からはリリーフで起用されるようになり、7勝を挙げ3年連続でリーグ優勝。西鉄との三度目の日本シリーズでも2試合に登板するが、またもチームは優勝を逃す。1959年は救援勝利6勝を挙げるなど、藤田元司(27勝)、安原達佳(12勝)に次いで、自身初の2桁勝利となる10勝を記録。南海ホークスとの日本シリーズでは1957年以来となる第1戦に先発。杉浦忠と投げ合うが、初回から乱調となり敗戦投手。第3戦は延長10回に登板するが決勝点を奪われまたも敗戦投手となり、チームも4連敗で4年連続でシリーズ優勝を逃した。1960年からは2勝、1勝と急激に成績を落とし、1961年オフに自由契約となる。 1962年に同じく巨人を自由契約となった黒田能弘と近鉄バファローズへ移籍する。しかし、わずか4試合の登板に留まりこの年に引退した。 ドロップ、2種類のカーブ、シュートを武器とした。 1950年台後半の巨人は日本シリーズでなかなか勝てなかったこともあって、チームに元気がなかった。そこで、監督の水原茂は「試合中に下を向いたら罰金を取る!」と命令したが、皆どうしても下を向いてしまっていた。その中で義原だけは、打たれて下を向いたら相手にショック状態を教えるようなもの、との考えで、四球を出そうが本塁打を打たれようがマウンド上で平気な顔で上を向いていた。これに目を付けた川上哲治が義原に対して、「上を見るついでにマウンドで大声を出して笑ってみろ」と命じる。義原はこれを忠実に守り、いくら打ち込まれても「ワッハッハッ」と笑い続けた。この姿に、阪神タイガースの選手は「義原という投手は薄気味悪かった。打っても打っても勝ったような気がしなかった」と後年回想していたという。一方で、義原も本心で大笑いしていたわけではなく、笑いながら胸を張ってベンチへ戻ってきた際、打たれた悔しさの余り目に大きな涙をためていたことが何度もあった。ある時、新聞記者がそれを見つけて「泣くな義原、明日がある」と記事にしたという。 初登板:1956年3月24日、対中日ドラゴンズ1回戦(後楽園球場)、9回表に2番手で救援登板・完了、1回無失点 初先発登板:1956年3月28日、対大洋ホエールズ2回戦(川崎球場)、2回2/3を2失点で勝敗つかず 初勝利:1956年4月24日、対国鉄スワローズ5回戦(茨城県営堀原公園野球場)、5回表に2番手で救援登板・完了、5回1失点(自責点0) 初先発勝利:1956年5月6日、対中日ドラゴンズ7回戦(後楽園球場)、6回1/3を3失点 初完投勝利・初完封:1956年7月15日、対大洋ホエールズ14回戦(川崎球場) 34 (1956年 - 1961年) 36 (1962年) 島根県出身の人物一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 大阪近鉄バファローズの選手一覧 ^ http://yonagohigashi.blog129.fc2.com/blog-entry-45.html ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年 ^ 『日本プロ野球トレード大鑑』89頁 ^ 『巨人軍の男たち』190頁 千葉茂『巨人軍の男たち』東京スポーツ新聞社、1984年 『日本プロ野球トレード大鑑』ベースボールマガジン社、2001年 個人年度別成績 義原武敏 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 1950 大島信雄 1951 藤本英雄 1952 別所毅彦 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 別所毅彦 1956 大友工 1957 義原武敏 1958 藤田元司 1959 義原武敏 1960 鈴木隆 1961 中村稔 1962 小山正明 1963 伊藤芳明 1964 村山実 1965 金田正一 1966 城之内邦雄 1967 金田正一 1968 金田正一 1969 堀内恒夫 1970 堀内恒夫 1971 堀内恒夫 1972 堀内恒夫 1973 高橋一三 1974 松本幸行 1975 外木場義郎 1976 堀内恒夫 1977 小林繁 1978 安田猛 1979 北別府学 1980 山根和夫 1981 江川卓 1982 小松辰雄 1983 江川卓 1984 山根和夫 1985 池田親興 1986 北別府学 1987 桑田真澄 1988 小野和幸 1989 斎藤雅樹 1990 槙原寛己 1991 佐々岡真司 1992 岡林洋一 1993 荒木大輔 1994 桑田真澄 1995 T.ブロス 1996 斎藤雅樹 1997 石井一久 1998 野村弘樹 1999 野口茂樹 2000 工藤公康 2001 石井一久 2002 上原浩治 2003 井川慶 2004 川上憲伸 2005 井川慶 2006 川上憲伸 2007 川上憲伸 2008 上原浩治 2009 D.ゴンザレス 2010 吉見一起 2011 チェン 2012 内海哲也 2013 内海哲也 2014 R.メッセンジャー 2015 石川雅規 2016 K.ジョンソン 2017 井納翔一 2018 大瀬良大地 2019 山口俊 2020 菅野智之 2021 奥川恭伸 2022 小川泰弘 2023 村上頌樹 日本の野球選手 鳥取県立米子東高等学校出身の野球選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の選手 島根県出身のスポーツ選手 1937年生 2010年没 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/01 00:47更新
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yoshihara taketoshi
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