冬木弘道: 一ファンとして国際の試合が開催されていた後楽園ホールで吉原功代表に押しかけ同然で行き、その時吉原に「君の体付きを見ると、運動経験は無いみたいだけどね」とスポーツ経験が無いことを見破られて入門が危ぶまれたが、嘆願して入門を果たした。
カール=ゴッチ: その後はハワイで清掃関係の企業を経営していたが、1971年3月、国際プロレスの吉原功社長の招きで、第3回IWAワールド・シリーズに参加。
新実彰平: 第35回(2021年7月27日未明放送分)において、吉原功兼(当時木曜日に『報道ランナー』で共演していた先輩アナウンサーで後継番組『newsランナー』のメインキャスター)とのコンビでパーソナリティを務めた。
アニマル浜口: 1970年には1964年東京オリンピックレスリング金メダリストの渡辺長武から渡辺自身の代名詞であった「アニマル」を授けられ、吉原功が命名する形でリングネームをアニマル浜口(
ストロング金剛: 1966年10月、友人が出場したボディビル大会の会場で、国際プロレス社長・吉原功と出会い、その場で吉原とマティ鈴木にスカウトされ、団体旗揚げ間近の同年11月1日に入門。
大剛鉄之助: 当時、国際プロレスはAWAと提携していたが、AWAへ支払う高額なブッキング料が経営を圧迫していたこともあり、大剛ルートからの招聘の比重が高まるに至ってバーン・ガニアから「自分達(AWA)を取るか、大剛を取るかどっちなんだ?」と迫られ、この際に吉原功代表が大剛を選んだために提携は解消され、AWAは全日本プロレスとの提携に踏み切る。
鶴見五郎: 1975年、帰国して中堅レスラーとして活動するが、1979年10月3日の青森県黒石市大会で会場入りした際に自分のカードが組まれていなかったことに激怒し、国際プロレス社長の吉原功に抗議。
川島壮雄: エリザベス女王杯(2015年 - 2017年) - 吉原功兼より引継ぎ。
坂元龍斗: 「“劇団関テレ”を支える看板スターが必要」というわかぎゑふの発案で7月に結成されたイケメンアナウンサーユニット「KT☆BOYS」には、先輩アナウンサーの吉原功兼・堀田篤・川島壮雄と揃ってメンバーに名を連ねていた。
岡安譲: 2011年の第72回菊花賞ではオルフェーヴルの牡馬三冠達成の瞬間を伝え、関西テレビのアナウンサーとしては松本暢章・杉本清・石巻ゆうすけ・馬場鉄志・大橋雄介・川島壮雄・吉原功兼(達成順。
吉原功兼: ^ 報道ランナーが「newsランナー」に刷新4月から 吉原功兼アナがメイン担当(『スポーツニッポン』2023年3月24日付記事)
林弘典: ちなみに、この回で共演した吉原功兼(大学・アナウンス研究会・関西テレビを通じての5年後輩)も、学生時代からのSIAM SHADEファンである。
グレート草津: 同じく日本プロレスを退団していた吉原功やヒロ・マツダ、同期の杉山恒治とともに国際プロレスの旗揚げに参加する。
川島壮雄: 関西テレビのアナウンサーで三冠達成実況を行ったのは松本暢章(1964年)・杉本清(1983年、1984年、1986年、1994年)・石巻ゆうすけ(2003年、2010年)・馬場鉄志(2005年)・岡安譲(2011年)・大橋雄介(2012年)・吉原功兼(2020年)(達成順。
川島壮雄: 2009年9月6日に開催された「アナウンサー朗読会2009・恋する時間」の演出を手がけたわかぎゑふの「“劇団関テレ”を支える看板スターが必要」という発案により、2009年7月に吉原功兼・堀田篤・坂元龍斗とともに、イケメンアナウンサーユニット「KT☆BOYS」を結成。
大橋雄介: 関西テレビのアナウンサーで三冠達成実況を行ったのは松本暢章(1964年)・杉本清(1983年、1984年、1986年、1994年)・石巻ゆうすけ(2003年、2010年)・馬場鉄志(2005年)・岡安譲(2011年)・川島壮雄(2018年、2020年、2023年)・吉原功兼(2020年)(達成順。2014年は石巻ゆうすけの後を引き継ぎ、宝塚記念の実況を担当した(2015年は後輩の川島壮雄、2016年は吉原功兼、2019年は岡安譲が担当)。
剛竜馬: 「'78スーパー・ファイト・シリーズ」開催中の1978年4月16日に行われた広島県東広島市大会にて、選手会長のラッシャー木村に対して国際プロレス退団を申し出たが、木村からこの話を聞いた吉原功は、4月18日に東京から巡業が行われていた長崎県島原市へと向かい、剛と話し合いの席を持つことになった。
川島壮雄: 桜花賞(2016年 - 2019年、2022年 - ) - 吉原功兼より引き継ぎ。
ラッシャー木村: 豊登の付き人をしていた関係から、翌1966年に豊登が興した東京プロレスの旗揚げに参加し、1967年の東京プロレス崩壊後は吉原功に口説かれて国際プロレスに移籍。
バーン=ガニア: 国際プロレスの吉原功社長とは太いパイプで結ばれ、1974年11月には、AWA世界ヘビー級王者のガニアとAWA世界タッグ王者チームのニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスの現役AWA世界王者3人が同時来日した。
豊登道春: 復帰に関して最初は「吉原功に引退興行をしてもらって正式に引退しているからカムバックはない」「もう体力的に無理だ」と断ったが、新間が「私は豊さんが出るということで(猪木)社長から金を受け取っているんですよ」とハッタリを口にしたことで復帰を決めた。
遠藤幸吉: 芳の里と並んで腐敗した経営陣の一角として攻撃されたこともあり、営業部長を務めていた後輩の吉原功とは見解の相違もあって確執が生じていた。
石巻ゆうすけ: 吉原功兼
渡辺長武: 1970年、国際プロレス社長の吉原功と日本レスリング協会会長の八田一朗から頼まれ、国際プロレス所属の若手レスラーだった濱口平吾に自らの代名詞であった「アニマル」を授け、リングネームをアニマル浜口と命名した。
ストロング金剛: 国際プロレス社長であった吉原功が死去する直前に、小林は吉原の元へ見舞いに訪れ3時間会話した。
大剛鉄之助: 国際プロレス代表の吉原功に対する傾倒は、若松市政と双璧をなしていた。東京プロレス崩壊後に自分を引き取ってくれた感謝の念に加え、国際プロレスがTBSと放送契約を結ぶまでの間、吉原功が自宅を抵当に入れて生活費を出してくれたり、前述の招聘ルート選択に多大なる恩義を感じたからである。
杉本清: 2021年3月には、アニメ『ウマ娘 プリティーダービー』とのコラボレーション企画として、現役局アナの吉原功兼・服部優陽と共に、出演声優の上田瞳(ゴールドシップ役)・前田佳織里(ナイスネイチャ役)と対談、トウカイテイオーやメジロマックイーンを中心にアニメの題材となったレースのエピソードを語った。
アンドレ・ザ・ジャイアント: まだアメリカで注目を浴びる前の無名時代、吉原功にスカウトされモンスター・ロシモフ(
鶴見五郎: 吉原功が入院した際も、見舞いにはいつも訪れていた。
大剛鉄之助: 1981年の国際プロレス解散後もカナダでモントリオール地区を中心にブッカーを継続し、ジェリー・モロー(稲妻二郎)の全日本プロレス出場を斡旋したり、若松市政をマネージャーとしてカルガリーに招聘したりしていたが、1984年7月に新日本プロレスが吉原功を顧問として迎えたことが縁で、新日本の北米支部長に就任した。