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和田一浩の情報 (わだかずひろ)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

和田一浩の情報(わだかずひろ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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和田 一浩さんについて調べます

■名前・氏名
和田 一浩
(読み:わだ かずひろ)
■職業
野球選手
■和田一浩の誕生日・生年月日
1972年6月19日 (年齢51歳)
子年(ねずみ年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
岐阜出身

(昭和47年)1972年生まれの人の年齢早見表

和田一浩と同じ1972年生まれの有名人・芸能人

和田一浩と同じ6月19日生まれの有名人・芸能人

和田一浩と同じ出身地岐阜県生まれの有名人・芸能人


和田一浩と関係のある人

細川亨: 長年の正捕手だった伊東勤がコーチを兼務することや、捕手登録の和田一浩が外野手に専念することを踏まえた獲得で、入団当初の背番号は47。


石井義人: 2005年にはインボイスSEIBUドームで「俺たちの首位打者」とアナウンスされていた(なお、その年の首位打者は和田一浩)。


豊田清: チームはリーグ2位で終え、北海道日本ハムファイターズとのプレーオフ第1ステージでは第3戦に登板し、木元邦之に同点2ラン本塁打を打たれたがその裏に和田一浩のサヨナラ本塁打を放ち、で第2ステージに進出。


柳瀬明宏: 8月27日の対埼玉西武ライオンズ戦、7回無死二塁から4番手として中継ぎでプロ初登板し、4番のアレックス・カブレラを140km/hの直球でファーストフライに打ち取ると、続く和田一浩、ジェフリー・リーファーは連続三振、8回は与四球2ながら無失点に抑えた。


平田良介: チームの野手としても2009年6月の和田一浩以来2年ぶりの受賞となった。


小笠原道大: シーズン通して首位打者争いを繰り広げ、シーズン序盤は西武の和田一浩と争い、阪神から日本ハムに移籍してきた坪井智哉やオリックス・ブルーウェーブの谷佳知とシーズン終盤まで繰り広げた。


光原逸裕: 初奪三振:同上、8回裏に和田一浩から空振り三振


砂川リチャード: 和田一浩からは、「お客さんをうならせる遠くに飛ばす打球」を期待されている。


中田亮二: なおクライマックスシリーズ・ファイナルステージでは第3戦から登録され、第4戦では9回に代打で登場し、四球を選び、和田一浩のサヨナラ適時打で日本シリーズ出場を決める決勝ホームを踏んだ。


沖原佳典: 1回戦で和田一浩のいた県岐阜商を破るが、2回戦の龍谷高に延長12回の末、敗れた。


小宮山悟: メディアに「フェイク」と取り上げられる前に、この投法で西武の和田一浩から三振を奪っている。


鈴木照雄: 清原和博、垣内哲也、和田一浩、松井稼頭央、中島裕之、中村剛也、栗山巧、炭谷銀仁朗など多くの選手をスカウトした。


高山久: 7月19日のアレックス・カブレラ・和田一浩が共に不在だった試合では5番・指名打者として出場した。


谷繁元信: 9月24日、選手として本拠地・ナゴヤドームでの最終戦となる阪神戦に臨み、試合終了後には同じく同年のシーズン限りで現役を引退する和田一浩の胴上げが行われた。


大澤広樹: 自身と同じ岐阜県出身の選手が活躍すると実況に熱が入る傾向があり、特に和田一浩(県岐商卒)が殊勲打を決めたシーンでは「やったぜベンちゃん!」 と叫ぶことが多かった。


森慎二: 同期入団には和田一浩がいた。


金森栄治: 古巣・西武では和田一浩、アレックス・カブレラ、スコット・マクレーンを開花させ、2002年のリーグ優勝に貢献。


細川成也: 9月2日の広島戦(マツダスタジアム)で4回にシーズン20号本塁打を打ち、中日の日本人選手としては和田一浩と森野将彦が2010年に記録して以来、13年ぶりとなるシーズン20本塁打を達成した。


大石友好: 和田一浩を捕手として育てられなかった。


岡本真也: 2008年1月、FAで移籍してきた和田一浩の人的補償として埼玉西武ライオンズへ移籍。


伊原春樹: 打線では松井稼頭央を1番に固定して、二番は小技のできる小関竜也、3番はいなかったが一軍ではなかなか結果出せなかった犬伏稔昌を対左投手、宮地克彦を対右投手で起用、4番はアレックス・カブレラ、5番は和田一浩、スコット・マクレーンは6番、7番で気楽に打たせて、8番は伊東、9番は高木浩之を起用した。


日高亮: 10月12日のみやざきフェニックスリーグ対中日ドラゴンズ戦で2番手で7回2点リードから登板し、CSの調整で出場した和田一浩、森野将彦ら主力相手に3回1失点と好投し注目された。


大野雄大: 中日の選手で年俸が3億円に到達するのは、2015年度の岩瀬仁紀の年俸3億円以来であり、落合博満、岩瀬仁紀、福留孝介、川上憲伸、井端弘和、和田一浩に次いで7人目となる。


高木守道: 岐阜県立岐阜商業高等学校の後輩にはシドニーオリンピック女子マラソン金メダリストの高橋尚子や元中日ドラゴンズ外野手の和田一浩がおり、髙木と彼らは母校で「ビッグ3」と呼ばれている。


高橋尚子: 出身高校である県立岐阜商業高校の同級生には元プロ野球選手の和田一浩(中日)がいる。同高では高橋と和田一浩、さらに同高の先輩に当たる高木守道の3人をまとめて“ビッグ3”と呼んでいる。


中嶋聡: 2000年、和田一浩と背番号を交換した(中嶋:5→22、和田:22→5)が、中嶋によると「22の方が捕手のイメージが強い」という理由により、当時は捕手登録ながら、既に外野手としての出場が多かった和田に持ちかけたものだという。


山口俊: 先発で登板した2014年7月21日の対中日戦(横浜)では、先頭打者から4球で3連打を打たれて先制を許すと、4番・和田一浩の左頭部に死球。


柳瀬明宏: 初奪三振:同上、7回表に和田一浩から空振り三振


阿部寿樹: 背番号は、同年に引退した和田一浩の5。


山本昌広: 第2戦は5回途中5失点でKO(終盤に逆転し敗戦投手は免れる)、日本一に王手をかけた第6戦は5回まで1失点に抑えるも6回に和田一浩に逆転2点本塁打を打たれ、この回途中で降板。


和田一浩の情報まとめ

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和田 一浩(わだ かずひろ)さんの誕生日は1972年6月19日です。岐阜出身の野球選手のようです。

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選手としての特徴などについてまとめました。卒業、引退、テレビに関する情報もありますね。和田一浩の現在の年齢は51歳のようです。

和田一浩のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

和田 一浩(わだ かずひろ、1972年6月19日 - )は、岐阜県岐阜市出身の元プロ野球選手(外野手・捕手、右投右打)、プロ野球コーチ、日本プロ野球名球会理事、野球解説者、タレント。マネジメント契約先はスポーツビズ。

愛称は同姓の演出家・和田勉にちなんだ「ベンちゃん」、さらにそれが転じた「ビッグベン」など。ナゴヤドームの外野スタンドで掲げられている横断幕には「輝く男」という文字が入っていた。アテネオリンピック野球の銅メダリスト。

岐阜県岐阜市出身。岐阜市立鷺山小学校3年次にスポーツ少年団に入り、岐阜市立青山中学校卒業を経て、県立岐阜商業高校(県岐商)では2年時に控え捕手として第61回選抜高等学校野球大会・第71回全国高等学校野球選手権大会に出場した。

高校卒業後、東北福祉大学に進学し、仙台六大学野球連盟のリーグ戦では4年間で首位打者1回、ベストナイン3回を獲得する。4年時には主将となり、春のリーグMVP(2年秋にも)に輝いた。同期に青栁博文がいる。

大学卒業後は社会人野球の神戸製鋼に入社。大学の1年後輩である門倉健は「和田さんは、僕が打たれても代わりに監督に怒られてくれる懐の深い先輩だった。当時から打撃は天才的で強肩。それでもプロから声がかからず、社会人を経由した。あのクラスでもプロに行けないのかと愕然とした」という。都市対抗野球には1年目は補強で出場し本塁打を放つ、2年目は4番を打って前年と同様に谷中真二(西武へ同期入団)とのバッテリーで初戦プリンスホテルに7回コールド完封勝利。

社会人通算.429の打率を残し、強打の捕手として1996年のドラフト会議で西武ライオンズから4位指名を受け入団。背番号は22。

1997年の西武には正捕手だった伊東勤がいたため、主に代打として起用された。17試合に出場し、打率.190、2打点だった。

1998年は打力を活かすため外野手にも挑戦し、8月4日の近鉄バファローズ戦(大阪ドーム)ではプロ初本塁打を記録した。日本シリーズにも初出場した。

2000年に出場機会が増え、規定打席未満ながら打率.306を記録。9月9日には初の4番を任され、9番以外の全打順でスタメン出場。守備位置は捕手9試合、一塁手15試合、外野手18試合、指名打者12試合と、徐々に捕手から外野手へとシフトしていった。またこの年に、同じく西武の捕手だった中嶋聡が、捕手らしい背番号を欲しており、入団以来背番号「22」だった和田は当時中嶋がつけていた一桁の「5」と背番号を交換。以降引退まで同番号を背負うことになる。

2001年は、監督の東尾修に「次世代を担うバッテリー」として松坂大輔と開幕戦でスタメン起用され、その後も松坂と7回にわたってバッテリーを組んだ。打撃も好調で一気に16本塁打、規定打席未満ながら打率.306を記録した。守備位置はまだ捕手と外野手で一定せず、打順も2番と4番以外全てに起用された。9月24日の近鉄最終戦で松坂大輔がタフィ・ローズに55号本塁打、中村紀洋に逆転サヨナラ2点本塁打を打たれた試合で捕手として出場していた。

2002年、新たに監督に就任した伊原春樹が前年のキャンプ迎えにあたって、伊原から「キャッチャーミットは持ってこなくていいから。」と言われ、「和田は同年、25試合にマスクをかぶっていたが優しい性格をしており、私は捕手には向いていないように感じていた。一方、打撃は.306、16本塁打、34打点をこの年に挙げていたことからもわかるように光るものがあった。捕手よりも負担の少ない外野にすれば、打撃が生きるだろうと考えたのだ。」と述べている。外野手一本に絞り、「5番・左翼手」のレギュラーに定着。故障離脱があったが、30歳にして初めて規定打席に到達し、打率.319、33本塁打、81打点という成績を残し、優勝に貢献した。指名打者部門で初のベストナインを受賞。しかし読売ジャイアンツとの日本シリーズでは15打数0安打と低迷し、「逆シリーズ男」とされた。結果的にチームは巨人にストレートの4連敗で敗退し、自身の不振が響くことになった。

2003年から4年連続で外野手部門でベストナインを受賞。

2004年は開幕から約3か月間、故障中のアレックス・カブレラに代わって4番打者を務める。4月11日の対大阪近鉄バファローズ戦(西武ドーム)で6-6の同点で迎えた9回一死満塁の打席でヘクター・カラスコから自身初のサヨナラ本塁打及び満塁本塁打であるサヨナラ満塁本塁打を放った。5月30日の対北海道日本ハムファイターズ戦(函館市千代台公園野球場)で芝草宇宙から満塁本塁打を放ち、通算100本塁打を達成。6月29日の対近鉄戦(西武ドーム)では両者無得点で迎えた延長10回一死満塁の打席で吉川勝成からサヨナラ安打を放った。シーズン中にはアテネオリンピック野球日本代表に選出され、33打数11安打、打率.333の成績を残す。9月12日の対オリックス・ブルーウェーブ戦(西武ドーム)で1回一死満塁の打席で具臺晟からシーズン3本目となる満塁本塁打を放った。同年からパシフィック・リーグで開催されたプレーオフでは、日本ハムとの第1ステージ第3戦で5-5の同点で迎えた9回無死無走者の打席で横山道哉からサヨナラ本塁打、ダイエーとの第2ステージ第2戦で6回に吉武真太郎から満塁本塁打を放った。さらに中日ドラゴンズとの日本シリーズでは、打率.310、4本塁打、6打点で西武の12年ぶりの日本一に貢献し、優秀選手に選ばれた。彩の国功労賞を受賞した。

2005年はシーズン打率.322で初の個人タイトルとなる首位打者を獲得。同時に153安打で最多安打のタイトルも獲得した。パ・リーグの右打者による首位打者獲得は1993年の辻発彦(西武)以来12年ぶりだった。11月3日に静岡草薙球場で行なわれたパ・リーグオールスター東西対抗戦では7回表に中前に勝ち越し適時打を放つなど2安打2打点の活躍で最優秀選手に選ばれた。

2006年は開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表に選出された。同大会では大会期間中に尿管結石を発症するなど体調を崩し、1次リーグでの代打起用のみに終わった。シーズンでは打率.298で5年連続打率3割はならず、本塁打も19本に終わったものの、自己最多の95打点を記録した。また、チームメイトの赤田将吾と並んでリーグ最多補殺を記録した。

2007年9月8日の日本ハム戦で吉川光夫から安打を放ち、通算1,000安打を達成。前年より打率を上げてリーグ3位の打率.315を記録。本塁打はレギュラー定着後最低の18本、打点は前年の約半分の49(9月半ば頃まで打率.239の細川亨より打点が低かった)に終わった。同年に初取得したFA権を行使した。

2007年12月9日に中日ドラゴンズとの入団交渉を行い、地元の岐阜に最も近い球団ということもあり、本人曰く「幼いころからの憧れの球団」である中日への移籍を数分で即決。推定年俸2億8000万円プラス出来高の3年契約で合意。背番号は西武時代と同じ「5」に決定した。

2008年は広島東洋カープとの開幕3連戦では安打を打てなかったが、4月1日からの巨人3連戦(東京ドーム)では、初戦で移籍後初安打、2戦目(4月2日)で内海哲也から移籍後初打点、3戦目(4月3日)で金刃憲人から移籍後初本塁打を記録した。4月11日の広島戦(広島市民球場)では、1回に先制の満塁本塁打、5回に追加点となる3点本塁打を放ち7打点を挙げ、1試合における自己最多打点を更新した。5月17日の横浜ベイスターズ戦(ナゴヤドーム)で通算1000試合出場を達成。翌日の同カードでは移籍後初となるサヨナラ適時打を放った。セ・パ交流戦開幕前の時点で打率.308、32打点(チーム1位)を記録していた。

交流戦に入ってからは中日打線がチーム打率1割台と低迷していた一方で自身は打撃好調だったことから、5月29日のオリックス戦(ナゴヤドーム)ではタイロン・ウッズに代わって移籍後初めて4番打者を任され、2安打を放った。その後16打席無安打と不振に陥った時期はあったものの、交流戦では打率.344(チーム1位、全体では12位)、3本塁打、12打点を記録した。7月は11日の東京ヤクルトスワローズ戦(ナゴヤドーム)で負傷交代した影響で2試合欠場した試合があったが、26日の阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)から前半戦終了まで再び4番打者を任された。前半戦終了時点で打率.327、12本塁打を記録していた。また、監督推薦選手としてオールスターゲームに選ばれ、7月31日の第1戦(京セラドーム大阪)で7回表に代打で勝ち越し適時打を放った。8月1日の第2戦(横浜スタジアム)では5番・左翼手としてスタメン出場し、5打数2安打を記録した。

シーズン終盤は打撃不振に陥り、打撃フォームの手直しに取り組むこともあったが、最終的に打率.302、16本塁打、74打点でシーズンを終えた。クライマックスシリーズでは、第2ステージ第3戦の4回に逆転の2点本塁打を放った。オフに推定年俸2億8000万円(現状維持)で契約更改。

2009年は4月3日の横浜との開幕戦(ナゴヤドーム)で1試合2本塁打と最高のスタートを切り、4月25日の巨人戦でプロ通算200号本塁打を、かつての同僚である豊田清から放った。5月12日の東京ヤクルトスワローズ戦で地元岐阜の長良川球場で初の本塁打を放ち故郷に錦を飾った。6月21日のオリックス・バファローズ戦で平野佳寿から先制の満塁本塁打を放った打席で通算4000打数に到達し、通算打率にランクイン。この時点で川上哲治や、当時の落合博満監督をも上回る通算打率.315で、歴代6位・日本人右打者最高となった。6月には打率.415、6本塁打、15打点の成績で、2度目の月間MVPをチームメイトの川井雄太と共に受賞した(川井の投げる日は3試合連続本塁打、打率4割と相性が良かった)。交流戦では打率4割、7本塁打(ともに2位)と好調だった。7月15日には4年ぶりの20本塁打と自己最多ペースで本塁打を量産し、9月15日には10回表に永川勝浩から決勝の3試合連続本塁打を打った。打率.302で7度目の3割を記録し、29本塁打、87打点、出塁率.382と前年より大きく成績を上回り、打撃主要部門全てでリーグトップ10に入った。守備面でも12補殺を記録し、2年連続セ・リーグ最多補殺に輝いた。また、この年初めてシーズン全試合に出場した。

2010年も前年に続き、2年連続でシーズン全試合に出場し、首位打者争いは青木宣親に敗れたが、最終的に打率.339・37本塁打・93打点とチーム三冠、自己最多本塁打の活躍でチームの4年ぶりの優勝に大きく貢献した。同年の37本塁打は自己最多かつ中日移籍後では唯一の30本塁打以上だが、本拠地をナゴヤドームに移転した1997年以降では中日の日本人選手としては最多記録かつ2003年・2006年の福留孝介以来2人目で、2022年時点では和田が最後である。クライマックスシリーズ第2ステージの巨人との試合では、第4戦に9回裏3-3の場面でサヨナラ安打を放ち、シリーズMVPに輝いた。同年のロッテとの日本シリーズでは、7試合で29打数12安打1本塁打6打点と活躍。チームは2勝4敗1分で敗れたが、敢闘選手賞を受賞した。また、自身初となるシーズンMVP及び自身6度目・中日移籍後は初となるベストナイン(外野手部門)に選出された。11月24日の契約更改で、新たに3年総額12億円で契約を結んだ。なお、この年はレガースの未装着と自打球の直撃が重なり、骨折してしまうもフル出場を重ねている。

2011年に独特な打撃フォームの腰への負担を考慮した監督の落合博満からのアドバイスにより、春季キャンプでオープンスタンスからスクエアスタンスへの打撃フォーム改造を敢行する。しかし、打撃フォームの改造に加え、統一球の影響や視力低下もあって調子を落とし、年間を通じて成績は打率.232、12本塁打、54打点と低迷した。特に打率は西武時代にレギュラーに定着して以来、最低であった。また、シーズン終盤には前述の視力低下などの理由から、中日入りして初めて二軍落ちを経験した。ソフトバンクとの日本シリーズでは3勝4敗で敗れ、第7戦攝津正から三振を喫し最後の打者になっている。同シリーズでは優秀選手賞に選ばれた。

2012年に前年の成績低迷により、前監督の落合と二人三脚で改造したスクエアスタンスの打撃フォームをオープンスタンスぎみに修正した。2年ぶりに全試合出場を果たしたものの、最終的に本塁打は9本に終わり、12年ぶりに2桁に届かなかった。

2013年は打率.275と前年を下回り、この年で2011年からの3年契約が満了し、11月6日に8000万円減となる推定年俸2億5000万円で契約を更改した。

2014年4月8日の対ヤクルト戦(ナゴヤドーム)にてプロ通算300号本塁打を放ち、41歳9か月での300本塁打達成は史上最年長となり、大学卒業から社会人を経てプロ入りした選手としては史上初の記録となった。7月1日の対DeNA戦で42歳としては史上7人目のシーズン2桁本塁打を記録。7月は猛打賞4回を含む打率.397、7本塁打、21打点の活躍で月間MVPを受賞した。しかし、8月6日の対広島戦(ナゴヤドーム)でブライアン・バリントンが投じた抜け球が右手に直撃し右手舟状骨を骨折。ギプスで4 - 6週間固定が必要となり、結局2000安打まで15本残しシーズンを終えることになった。

2015年6月11日の対ロッテ戦(QVCマリンフィールド)で、1回表に左前適時打、2回表に植松優友から左翼線への安打を放ち、2,000安打を達成した。これは史上45人目、史上最年長42歳11か月での達成となった。大学卒業と社会人経験を経てプロ入りした選手の2,000安打達成は古田敦也、宮本慎也に次いで3人目で、20代で一度も規定打席に到達しなかったり、34歳までに1,000安打達成がなかった場合では初。また、現役で2,000安打達成選手が同一球団に3人(和田、谷繁元信、小笠原道大)いるのもプロ野球史上初となった。8月15日の対巨人戦(ナゴヤドーム)において、大杉勝男、落合に次ぐ史上3人目のセ・パ両リーグ1,000安打と同時に、大杉、金本知憲、谷繁に次ぐ史上4人目となる2球団での1,000安打を達成する。9月12日に今シーズン限りで現役を引退することが中日新聞などより報道され、9月19日にナゴヤドーム内で正式に記者会見を開き、現役を引退することを表明した。9月3日に落合ゼネラルマネージャー(GM)から翌年の契約を行わない旨を明かされたという。9月24日の阪神戦で引退試合が行われ、2回に阪神先発の秋山拓巳から放った通算2050本目の安打が、現役生活最後の安打になった。その後、谷繁兼任監督の左前打で先制のホームを踏んだ。試合後はマウンド付近で、背番号と同じ5度ナインに胴上げされ、ナゴヤドームに惜別の拍手と歓声が響く中、4人の子供たちから花束を受け取った。11月30日付で、日本野球機構(NPB)から任意引退選手として公示された。

2016年からはNHKの野球解説者、日刊スポーツの野球評論家として活動する。また、4月からは「スタイルプラス」(東海テレビ)にもタレントとして出演。

また、プロ野球OBが対戦する「サントリードリームマッチ」では、佐野慈紀、小田幸平らと「ピッカリ芸」を見せるのがお約束となっている。

2018年オフに阪神タイガースが打撃コーチとして招聘するプランがあったが、実現しなかった。

2021年7月からは社会人野球のJR東海の臨時コーチに就任。

2022年10月13日、中日ドラゴンズの一軍打撃コーチに就任することが発表された。

選手としての特徴

打撃

バットを上段に構えて上下に揺らし、極端なオープンスタンスから左足を高く上げ、全身を回転させるようにしてバットを背中の後ろまで一気に振り抜く、独特のフォームから弾き出す安定した打撃が特徴。いわゆる「掬い上げ打法」。中日移籍後から2010年までの通算の対右打率.315を残しており、左投手に対しても.310と左右を苦にしない上に目立った苦手コースも無く、独特の打撃フォームも手伝って右方向への打球が非常に良く伸びる。本人は「軸足に10割」「右半身に感覚を集中」と引退後に説明しており、摺り足打法も試したこともあったが、体重が前足に乗って突っ込んでしまうのでやめたという。

背筋の強さと右手の押し込みにより、ボールをかなり引きつけても詰まらずに強い打球を放つことができる。スイングの後は腰が落ちたような形になるので、ライト方向への長打を打ったのに三塁線へのファウルボールを打ったように見えることもあり、最後まで振り切るフォームであることとあまり足が速くないことから併殺打は多い。本人によるとこの打撃フォームは「テニスのフォアハンドを参考にしている」という。

2011年には落合監督にアドバイスされ、二人三脚で腰への負担を考慮したスクエアスタンスへの変更にも取り組んだ。しかし、成績は大きく落ち込み、落合監督が退任した後、オープンスタンスに戻すことになったが、完全に戻したわけではない。

300本以上の本塁打を記録した強打者であるが、本人は「ホームランバッターではない」と語っている。本人曰く、「本塁打打者は打ち損じがヒット。僕の場合はヒットの延長がホームラン」。 また長打力のある選手にしては三振が少なく、年間で30本以上4回を含む25本以上6回の本塁打数を記録しながら3桁の三振を喫したことが1度も無く、通算でも3桁の938三振に止まっている。古田敦也の公式YouTubeチャンネルで2021年5月に「ホームランを打ちたいけどホームランを打てるボールが来るとは限らず、色んなボールが来て打ったらヒットだった」というケースが多かったと語っている。同時にオープンスタンスのフォームについて、土井正博から「お前は開く癖があるから、これ以上開けないように最初から開け」と教えられたものであると説明した。

NPB通算2050安打のうち、20代で記録した安打数は149本で、残りの1901安打は30代で記録したものであることから、「大器晩成」タイプの選手と評されている。

守備

2002年シーズンに和田を外野手に固定させた伊原は、捕手としての和田について後に「性格が良く、相手打者の裏をつくリードが出来なかった。それでは1シーズン通してでは問題がある」と語っている。左翼手として得点換算で高い数値を記録している。また送球については、送球を受けることが多かった捕手の谷繁元信が「上品な球」と評するような綺麗な球筋の送球をするという。「上品な球」を投げられる理由について、和田は「肩が強くないので、スピンの効いた球を投げないと球が沈んでしまう」と説明している。

2024/06/17 07:57更新

wada kazuhiro



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1947年4月1日生まれの有名人 東京出身

和田 一也(わだ かずや、1947年4月1日- )は、日本の実業家。東京都出身。ニフティ株式会社常任顧問・元代表取締役社長。 東京都出身。1971年、上智大学法学部法律学科卒業後、同年4月、富士通…

和田 薫_(芸能事務所社長)(わだ かおる)
1965年4月8日生まれの有名人 大阪出身

和田 薫(わだ かおる、1965年4月8日 - )は、芸能事務所ハーモニープロモーションの代表取締役社長兼マネージャー。大阪府出身。血液型B型。 1980年、歩行者天国のアイドルのミッキー岡野の友…

和田 薫_(作曲家)(わだ かおる)
1962年5月5日生まれの有名人 山口出身

和田 薫(わだ かおる、男性、1962年5月5日 - )は、日本の作曲家、編曲家、指揮者。 山口県下関市出身。純音楽作品(クラシック・現代音楽)の他、映画音楽、アニメ音楽、ゲーム音楽などを手がける。映…

和田 洋一_(三才ブックス)(わだ よういち)
1936年1月18日生まれの有名人 東京出身

和田 洋一(わだ よういち、1936年1月18日 - 1999年8月10日)は、三才ブックス創業者。中央大学卒業。 自由国民社の編集者(経理という説もある)を経て1980年に独立、三才ブックスを創業…

和田 洋一_(スクウェア=エニックス)(わだ よういち)
1959年5月28日生まれの有名人 愛知出身

和田 洋一(わだ よういち、1959年5月28日 - )は、日本の実業家。株式会社スクウェア・エニックス及び株式会社タイトーの代表取締役社長を歴任。2023年8月現在は株式会社メタップス取締役、ワンダ…

和田 信賢(わだ のぶかた)
1912年6月19日生まれの有名人 東京出身

和田 信賢(わだ のぶかた、1912年(明治45年)6月19日 - 1952年(昭和27年)8月14日)は、戦前から戦後にかけて活躍したNHKのアナウンサー。妻は後輩アナウンサーの大島(旧姓)実枝子(…

和田 政宗(わだ まさむね)
1974年10月14日生まれの有名人 東京出身

和田 政宗(わだ まさむね、1974年〈昭和49年〉10月14日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の参議院議員(2期)。元NHKアナウンサー。自由民主党広報副本部長。 みんなの党青年局長、次世…

和田 絵莉(わだ えり)
1989年6月4日生まれの有名人 兵庫出身

和田 絵莉(わだ えり、1989年6月4日 - )は、日本の元タレント、元グラビアアイドル。 兵庫県出身。2011年夏にデビュー。 2015年からフリップアップに所属し、芸名を沖 絵莉(おき え…

和田 彩花(わだ あやか)
【ハロプロ】
1994年8月1日生まれの有名人 群馬出身

和田 彩花(わだ あやか、1994年8月1日 - )は、日本の歌手、女優、司会者、コメンテーター。バンド・LOLOET(ロロエ)メンバー。元アイドルでハロー!プロジェクトの女性アイドルグループ・アンジ…

和田 明日香(わだ あすか)
1987年4月17日生まれの有名人 東京出身

和田 明日香(わだ あすか、1987年4月17日 - )は、日本のタレント、モデル、食育インストラクター、美容料理研究家。remyに所属。旧姓は高橋。 東京都世田谷区出身。立教女学院小学校、立教女…

和田 アキ子(わだ あきこ)
1950年4月10日生まれの有名人 大阪出身

和田 アキ子(わだ アキこ、1950年〈昭和25年〉4月10日 - )は、日本の歌手、タレント、司会者、女優、ラジオパーソナリティ。所属芸能事務所は株式会社ホリプロ(在籍期間は女性タレント及び全体で最…

東和田 岳張(ひがしわだ たけはる)
8月7日生まれの有名人 兵庫出身

東和田 岳張(ひがしわだ たけはる、8月7日 - )は、日本のモデル、ヘアメイクアップアーティスト、美容師、実業家。FXトレーダーで個人投資家。兵庫県神戸市在住。愛称は、六甲のプリンス、TAKEHAR…

和田 絵梨奈(わだ えりな)
1985年10月13日生まれの有名人 東京出身

和田 絵梨奈(わだ えりな、1985年10月13日 - )は、日本の元着エロ系グラビアアイドル。 東京都出身。 2003年秋に「撮影会さーくる」所属モデルとしてデビューし、その後田岡紀夫・会田我路…

和田 えりか(わだ えりか)
1992年9月24日生まれの有名人 千葉出身

和田 えりか(わだ えりか、1992年9月24日 - )は、日本のモデル、元アイドル。千葉県出身。かつてはフォースプリングスに所属していた。 2009年、ソニーミュージックオーディション 2009…

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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「和田一浩」を素材として二次利用しています。

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