徳久利明の情報(とくひさとしあき) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
徳久 利明さんについて調べます
■名前・氏名 |
徳久利明と関係のある人
小森光生: 1963年には4月7日の南海戦(大阪)に徳久利明の代打で出場し、先発の高橋栄一郎から満塁本塁打を放つ。 山崎武昭: 高校同期に中堅手の倉内顕(西鉄)、1年下に控え投手の徳久利明がいた。 別当薫: 投手陣は前年最多勝の久保が20勝こそ逃したものの19勝と2.36で防御率1位、徳久利明がチームトップの20勝、2年目の山本重政が9勝17敗と負け越しながらもチームトップの168奪三振を記録するなど好調でこの3人がチーム勝ち星の4割を稼いだが、救援陣の不調もありチーム防御率はリーグ5位であった。 岡本健一郎: 1963年6月16日の近鉄との対戦では、徳久利明に9回まで無安打に抑えられていたが、2死後に二塁打を放ちノーヒットノーランを免れた。 根本陸夫: スカウトとして徳久利明、土井正博を担当。 池辺巌: 初安打・初打点:1963年9月8日、対近鉄バファローズ25回戦(日生球場)、4回表に徳久利明から適時打 林義一: 1961年には36勝103敗と最下位を独走したが、新人王の徳久利明を送り出した。 山本重政: 2年目の1963年には開幕直後から先発の一角として起用され、徳久利明に次ぐ57試合に登板。 広瀬叔功: 1963年は開幕戦の近鉄バファローズ戦の1回裏、先発の徳久利明の初球を開幕戦先頭打者初球本塁打を記録している。 |
徳久利明の情報まとめ
徳久 利明(とくひさ としあき)さんの誕生日は1942年12月8日です。高知出身の野球選手のようです。
引退に関する情報もありますね。1998年に亡くなられているようです。
徳久利明のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 徳久 利明(とくひさ としあき、1942年12月8日 - 1998年3月13日)は、高知県土佐清水市出身のプロ野球選手(投手)。 高知商では1959年、2年生の時に山崎武昭の控え投手として春夏連続で甲子園大会に出場したが、登板の機会は無かった。翌1960年はエースとして春季四国大会決勝に進み、宇和島東高を完封して優勝を飾る。同年夏は南四国大会の準決勝に進出するが、池田高に延長11回の熱戦の末に敗れ、甲子園には届かなかった。1961年に近鉄バファローに入団。担当スカウトは根本陸夫であった。 1升マスで一気飲みができ、当時監督の千葉茂からは「入団したとき、すでにいっぱしの大酒のみやったなぁ」と言われ、千葉に「節制すれば200勝投手になれた」とも言われ、徳久も恵まれた体格から別所二世とも言われた事もある。千葉は、「絶対に新人王を取らせたる」として来る日も来る日も徳久を先発として使い続け、1年目から58試合に登板する。なお、初勝利するまでの6連敗は高卒新人の1年目としてはNPBタイ記録。この年、徳久の所属するチームはNPB史上最多のシーズン103敗(36勝1分)で最下位に低迷し、その中で徳久もチーム最多の15勝を挙げるが、同時に24敗でチーム及びリーグ最多敗となっている。同年は規定投球回(リーグ8位、防御率3.26)に達し、監督の約束のとおり、球団初の新人王に選出された。徳久も8試合のサヨナラ負けを記録したが、そのうち5試合の本塁打によるサヨナラ負けはNPB記録となる。4月23日の対阪急ブレーブス戦ダブルヘッダーでは2試合続けてサヨナラ負けで徳久に敗戦投手が記録されており。リリーフでの12敗はそれまでのNPB記録を更新するものとなった(1966年に近鉄の山本重政が13敗で更新)。 翌年は右ひざや目の故障で不振に終わるが、1963年は自己最多の20勝、防御率2.93(リーグ10位)の好成績を挙げた。6月16日の対阪急戦では9回2死まで無安打に抑えていたが、岡本健一郎に二塁打を打たれノーヒットノーランを逃した。1963年から1965年にかけてはチームの勝ち頭となるが、体調不良や首脳陣との確執もあり、1968年に西鉄ライオンズに移籍し、1969年限りで引退。オーバースローからスライダー、カーブ、シュート、フォークボールを武器とした。 その後は大阪で少年野球チームを指導していた。1998年3月13日、肺がんのため鹿児島県内の病院で死去した。享年55。 各年度の太字はリーグ最高 新人王 (1961年) 初登板:1961年4月9日、対西鉄ライオンズ2回戦(小倉球場) 初勝利:1961年6月4日、対阪急ブレーブス11回戦(阪急西宮球場) 13打席連続三振 (1963年7月14日 - 1963年8月24日) ※パ・リーグ記録 オールスターゲーム出場:2回 (1964年、1965年) 14 (1961年 - 1964年途中、1967年、1969年) 18 (1964年途中 - 1966年) 17 (1968年) ^ 『朝日新聞』1998年3月14日付朝刊 (14版、31面) ^ 【根本陸夫伝】高校を中退させて「18歳の4番打者」を作った男 ^ 1953年に西鉄ライオンズの西村貞朗が記録 ^ 週刊ベースボール2014年7月7日号105ページ ^ 年度別成績 1961年 パシフィック・リーグ ^ ベースボールマガジン社刊「さらば大阪近鉄バファローズ」57ページ ^ ベースボールマガジン社刊「永久保存版近鉄バファローズ球団史1950-2004」45ページ ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」430ページ ^ 日本野球連盟刊「日本プロ野球記録大百科2004第4版」343ページ ^ 『朝日新聞』1963年6月17日付朝刊 (12版、13面) ^ 日本野球連盟刊「日本プロ野球記録大百科2004第4版」63-67ページ 高知県出身の人物一覧 大阪近鉄バファローズの選手一覧 埼玉西武ライオンズの選手一覧 表 話 編 歴 1950 荒巻淳 1951 蔭山和夫 1952 中西太 1953 豊田泰光 1954 宅和本司 1955 榎本喜八 1956 稲尾和久 1957 木村保 1958 杉浦忠 1959 張本勲 1961 徳久利明 1962 尾崎行雄 1965 池永正明 1967 高橋善正 1969 有藤通世 1970 佐藤道郎 1971 皆川康夫 1972 加藤初 1973 新美敏 1974 三井雅晴 1975 山口高志 1976 藤田学 1977 佐藤義則 1978 村上之宏 1979 松沼博久 1980 木田勇 1981 石毛宏典 1982 大石大二郎 1983 二村忠美 1984 藤田浩雅 1985 熊野輝光 1986 清原和博 1987 阿波野秀幸 1988 森山良二 1989 酒井勉 1990 野茂英雄 1991 長谷川滋利 1992 高村祐 1993 杉山賢人 1994 渡辺秀一 1995 平井正史 1996 金子誠 1997 小坂誠 1998 小関竜也 1999 松坂大輔 2001 大久保勝信 2002 正田樹 2003 和田毅 2004 三瀬幸司 2005 久保康友 2006 八木智哉 2007 田中将大 2008 小松聖 2009 攝津正 2010 榊原諒 2011 牧田和久 2012 益田直也 2013 則本昂大 2014 石川歩 2015 有原航平 2016 高梨裕稔 2017 源田壮亮 2018 田中和基 2019 高橋礼 2020 平良海馬 2021 宮城大弥 2022 水上由伸 2023 山下舜平大 表 話 編 歴 1950 黒尾重明 1951 関根潤三 1952 沢藤光郎 1953 関根潤三 1954 田中文雄 1955 武智文雄 1956 武智文雄 1957 武智文雄 1958 山下登 1959 大津守 1960 大津守 1961 蔦行雄 1962 板東里視 1963 徳久利明 1964 久保征弘 1965 徳久利明 1966 徳久利明 1967 鈴木啓示 1968 鈴木啓示 1969 鈴木啓示 1970 鈴木啓示 1971 鈴木啓示 1972 鈴木啓示 1973 鈴木啓示 1974 鈴木啓示 1975 神部年男 1976 神部年男 1977 鈴木啓示 1978 鈴木啓示 1979 鈴木啓示 1980 鈴木啓示 1981 柳田豊 1982 柳田豊 1983 谷宏明 1984 鈴木啓示 1985 鈴木啓示 1986 村田辰美 1987 村田辰美 1988 阿波野秀幸 1989 阿波野秀幸 1990 阿波野秀幸 1991 阿波野秀幸 1992 小野和義 1993 野茂英雄 1994 野茂英雄 1995 山崎慎太郎 1996 高村祐 1997 高村祐 1998 高村祐 1999 岡本晃 2000 B.ウォルコット 2001 門倉健 2002 S.バーグマン 2003 J.パウエル 2004 岩隈久志 日本の野球選手 高知市立高知商業高等学校出身の野球選手 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の選手 埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手 パシフィック・リーグ最優秀新人 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球指導者 少年野球指導者 高知県出身のスポーツ選手 肺癌で亡くなった人物 1942年生 1998年没 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目
2024/11/20 23:17更新
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