小島弘務の情報(こじまひろむ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
小島 弘務さんについて調べます
■名前・氏名 |
小島弘務と関係のある人
葛西稔: 7月12日の中日戦(ナゴヤ球場)で小島弘務から通算で唯一となる本塁打を打っている。 山田勝彦: 初盗塁:1994年6月5日、対中日ドラゴンズ10回戦(阪神甲子園球場)、8回裏に二盗(投手:小島弘務、捕手:矢野輝弘) 森田幸一: 1位指名の小島弘務は社会人時代の同僚であった(小島は退職後の指名)。 樋口一紀: 1997年シーズンオフに岸川登俊、南渕時高との2対2の交換トレードで小島弘務(社会人からの同僚で同学年)とともに古巣・ロッテに復帰。 桧山進次郎: 平安高校野球部の2学年先輩に、小島弘務と江坂政明がいた。 富永章敬: 同期で入団した選手には、ドラフト指名選手として小島弘務(ドラフト1位)、矢野輝弘(ドラフト2位)、森田幸一(ドラフト5位、1991年にセ・リーグ新人王を獲得)ら6人がおり、同じドラフト外入団の選手では加賀元がいた。 出口雄大: 初盗塁:同上、5回裏に二盗(投手:小島弘務、捕手:吉鶴憲治) 富永章敬: これは当時、背番号が入っていない入団会見用のユニフォームとドジャースのユニフォームを同じ場所で保管していたところ、間違えた可能性があるということで、同じく新人選手として同席していた小島弘務や寺西秀人(同年時点で球団代表補佐)も、当時は富永のユニフォームが間違っていたことに気づかなかったという。 小畑幸司: 初打点:1993年5月12日、対中日ドラゴンズ4回戦(長良川球場)、2回裏に小島弘務から適時打 星野仙一: 中日での監督時代は緩慢なプレーをした選手を殴っており、中村武志はほとんど毎日のように殴られ、小島弘務は血だらけになった口元をタオルで押さえていたこともあったという。 岸川登俊: 1998年に小島弘務、樋口一紀との2対2のトレードで南渕時高とともに中日ドラゴンズへ移籍。 檜山進次郎: 平安高校野球部の2学年先輩に、小島弘務と江坂政明がいた。 江坂政明: 平安高校では、中日ドラゴンズなどに在籍した同期の小島弘務と投の二本柱を組む。 |
小島弘務の情報まとめ
小島 弘務(こじま ひろむ)さんの誕生日は1967年10月30日です。京都出身の野球選手のようです。
卒業、引退、事件に関する情報もありますね。小島弘務の現在の年齢は57歳のようです。
小島弘務のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 小島 弘務(こじま ひろむ、1967年10月30日 - )は、京都府乙訓郡大山崎町出身の元プロ野球選手(投手)。2022年から浜松開誠館高等学校のコーチを務める。 平安高では江坂政明とともに投の二本柱として活躍。1984年秋季府大会準決勝に進むが、北村俊介のいた大谷高に惜敗。翌1985年夏の府大会は決勝に進出、江坂が先発するが花園高に敗退。高校の2学年後輩に桧山進次郎がいた。 高校卒業後は駒澤大学に進学するが、先輩からの説教などが続くことから中退を決意。太田誠監督(当時)からの慰留もあったが、1年時の夏に中退した。 その後は、1年間アルバイトしながら野球のできるところを探し、同級生の親が勤務していた縁で社会人野球の住友金属(和歌山県)に入社する。1989年の都市対抗野球では松下電器に補強されたが潮崎哲也や同僚で一緒に補強の森田幸一らがいて登板はなかった。1989年オフに西武ライオンズがドラフト外として獲得。ユニフォーム姿の報道用写真も撮影され、1990年版の選手名鑑のうち発刊時期の早かったものでは「即戦力」として掲載されていた上、キャンプにも参加して阪神タイガースとの二軍の練習試合にも登板している。しかし、この入団方法に疑問が呈された結果、大学中退者でありながら、在学期間が短い関係上住友金属と日本野球連盟には高卒扱いで登録されていたため、「高卒の社会人野球選手は3年間プロ入りできない」という野球協約違反で契約無効になってしまい(通常の大学中退及び大卒の社会人野球選手は2年間)、同時に西武球団は制裁金50万円と以後新人及び移籍扱いで小島を獲得する事が禁止されるペナルティーが科せられた。会社を辞めて入団した小島に対し、当時西武の管理部長だった根本陸夫が同年3月から3か月にわたり自宅で小島の面倒を見て、フォーム修正など野球指導を行った。その後、担当スカウト宅や地元・京都で自主トレを行い、1990年のプロ野球ドラフト会議で小池秀郎の外れ1位として中日ドラゴンズから指名を受け入団した。所属がなかった指名時は実家近くの農協事務所で会見を行った。このドラフトでは社会人時代の同僚であった森田幸一も5位指名を受けて再びチームメイトとなった。 1年目から先発・中継ぎで登板したが、5位指名で嘗ての盟友・森田が新人王の活躍となった。1992年8月15日の阪神戦で、ランナーのいない一塁に牽制球を投げたことがある。その後1998年に樋口一紀とともに、岸川登俊・南渕時高とのトレードで千葉ロッテマリーンズへ移籍。翌1999年オフに戦力外通告を受け、阪神、広島東洋カープ、横浜ベイスターズ、日本ハムファイターズの入団テストを受けるものの、不合格となった。 2000年に台湾大聯盟・嘉南勇士の入団テストを受けて合格するも、7試合の登板で0勝に終わった。同年限りで現役を引退。 引退後は、名古屋市東区で「炭火焼肉 ひろむ」を経営したり、児童福祉事業所で働いたりしていた傍らで、少年野球チームの総監督を務めるなど、野球との関わり合いを持ち続けた。 2015年1月1日付で阪神大学野球連盟2部の追手門学院大学の監督に就任した。同年、56期ぶりの1部昇格を決め、1年で結果を出した。 2022年4月から浜松開誠館高等学校硬式野球部のコーチに就任した。同部では中日時代のチームメイトである佐野心が監督を、古池拓一が投手部門のコーチを務めている。 初登板:1991年4月16日、対ヤクルトスワローズ1回戦(神宮球場)、6回裏に3番手で救援登板、3回無失点 初奪三振:同上 初先発登板:1991年4月19日、対阪神タイガース1回戦(阪神甲子園球場)、6回1/3を1失点で敗戦投手 初勝利・初先発勝利:1991年5月2日、対ヤクルトスワローズ5回戦(ナゴヤ球場)、5回2/3を4失点 14 (1990年=入団無効) 21 (1991年 - 1995年、2000年) 57 (1996年 - 1997年) 31 (1998年 - 1999年) ^ “元中日小島弘務氏、波乱の野球人生が指導者での糧に”. 日刊スポーツ (2019年8月19日). 2021年4月3日閲覧。 ^ B.B.MOOK156 スポーツ伝説シリーズ18「プロ野球ドラフト読本2000」51P、ドラフトミニ事件史、ベースボール・マガジン社、2001年、ISBN 978-4583611174 ^ 『中日ドラゴンズ ドラフト1位のその後』(別冊宝島編集部、2014年)94頁 ^ “小島弘務氏、特異な状況に「原点を見つめなおした」”. 日刊スポーツ. (2020年9月19日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/202009180000473.html 2021年7月7日閲覧。 ^ 元中日小島弘務氏が追手門学院大の監督に 日刊スポーツ 2015年1月6日 ^ 追手門大56季ぶり1部 元プロ小島監督1年で結果 日刊スポーツ、2015年10月27日 ^ 「元中日投手の古池拓一・浜松開誠館高コーチ「選手たちと野球をやるのは楽しい」元竜戦士トリオで甲子園を目指す」『中日スポーツ』2022年4月22日。2022年4月22日閲覧。 京都府出身の人物一覧 駒澤大学の人物一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 千葉ロッテマリーンズの選手一覧 個人年度別成績 小島弘務 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 1位:小島弘務 2位:矢野輝弘 3位:山本保司 4位:吉田太 5位:森田幸一 6位:寺西秀人 日本の野球選手 龍谷大学付属平安高等学校出身の野球選手 駒澤大学硬式野球部の選手 住友金属野球団の選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手 台湾職業棒球大聯盟の選手 21世紀日本の実業家 日本の野球監督 大学野球指導者 追手門学院大学の人物 高校野球指導者 京都府出身のスポーツ選手 1967年生 存命人物 ISBNマジックリンクを使用しているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/17 03:50更新
|
kojima hiromu
小島弘務と同じ誕生日10月30日生まれ、同じ京都出身の人
TOPニュース
小島弘務と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「小島弘務」を素材として二次利用しています。