新治伸治の情報(にいはりしんじ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
新治 伸治さんについて調べます
■名前・氏名 |
新治伸治と関係のある人
井手峻: 新治伸治(1965年大洋入団)に次ぐ史上2人目の東大野球部出身プロ野球選手で、ドラフト制度発足後としては東大初の指名選手となった。 田中尊: 1965年8月10日の大洋戦(川崎)では3回表二死満塁の好機に大洋先発及川宣士の後を受けた2番手新治伸治から寺岡孝が押し出しの死球、今津光男の二ゴロを林健造が前へはじく失策、そして田中が自身唯一の満塁本塁打を叩き込み、さらに1点を加えこの回7点を取ったが、その裏に黒木基康に満塁本塁打を浴び3点差に迫られたものの6回表に2点を追加し、2番手で投げた池田の好投もあり9-4で大洋に大勝した。 森田斌: 引退後は大洋の二軍投手コーチ(1965年, 1967年 - 1968年)・二軍投手コーチ補佐(1966年)を務め、在任中は東大出身プロ野球選手第1号で1年目の新治伸治を指導。 土井正三: 初本塁打:1966年5月19日、対大洋ホエールズ8回戦(後楽園球場)、8回裏に新治伸治から左越ソロ 与謝野馨: このときの2年後輩に新治伸治がいる。 荒川尭: ロサンゼルスでは、大洋漁業の現地法人に出向していた新治伸治が荒川に接触し、入団を要請したが、意志は変わらなかった。 江尻亮: 6月24日の巨人戦(川崎)では小野正一・新治伸治の3番手でマウンドに上がったが、4番の王貞治に満塁本塁打を浴びるなど成績は低迷。 小林至: 新治伸治、井手峻に次ぐ3人目の東大出身のプロ野球選手誕生は就職売り手市場の時代背景もあって話題になった。 |
新治伸治の情報まとめ
新治 伸治(にいはり しんじ)さんの誕生日は1941年7月31日です。東京出身の野球選手のようです。
現在、卒業、引退に関する情報もありますね。2004年に亡くなられているようです。
新治伸治のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 新治 伸治(にいはり しんじ、1941年7月31日 - 2004年5月4日)は、日本のプロ野球選手(投手)、実業家。東京大学野球部初のプロ野球選手である。 東京都文京区立第四中学校の1年生の時、東京都中学生による憲法記念野球大会で優勝する。都立小石川高校時代には硬式野球部がなく、軟式野球部にてプレー。3年生のときに東京都少年野球大会で優勝した。 新治は早稲田大学でのプレーを希望して知り合いに相談したところ、早稲田では硬式での経験がないと難しい、東大なら軟式上がりでもレギュラーになれるだろうと言われ、早稲田大学をあきらめ東京大学経済学部を受験し合格。硬式野球部に入部した。東京六大学野球リーグでは1961年春季リーグから8季連続最下位。リーグ通算68試合に登板し8勝43敗、防御率3.21、149奪三振を記録した。43敗は現在もリーグ史上最多敗戦記録。一方で在学4年間で東大が勝った試合の勝利投手はすべて新治であった。 卒業に当たって住友金属・サッポロビールの勧誘を受けるが、1965年に大洋漁業(後のマルハ、現在のマルハニチロ)に入社。ほどなくして、球団オーナー中部謙吉の「南氷洋に2、3年行ったつもりで、ちょっとプロで投げてみなさい」という一声から、子会社である大洋ホエールズ球団への出向を命じられ、身分はサラリーマンのままプロ入り。同時に東大野球部出身者として初のプロ野球選手となった。なお、当時はドラフト制度がなく自由競争の時代であった為、ドラフトを経ることなく、プロ野球選手になることができた(ドラフト制度導入以降で初の東大出身指名選手は井手峻)。契約金を受け取ると思う時に辞めることができないため契約金はもらわず、給料は特別業務手当として20万円であった。 1年目の1965年は6月12日の中日戦で初先発。10月18日にはサンケイの佐藤進と投げ合い初の完投勝利を記録する。同年は高橋重行・稲川誠に次ぐ40試合に登板、5勝をあげてジュニアオールスターにも出場している。翌1966年もリリーフとして活躍し4勝を記録した。しかし、1967年から登板機会が減少、プロ入りを後押しした三原脩監督が退団したこともあって1968年限りで現役引退。なお、本社からの出向扱いのままプレーしていたため、現役引退も社内の人事異動扱いとなった。 引退後は親会社の大洋漁業に復帰し貿易部に配属になる。給料はこれまでの20万円から4万円に減ったという。1970年からは北米駐在勤務(カリフォルニア株式会社)となる。同年には1969年のドラフト会議で大洋の指名を拒否してアメリカ留学していた荒川堯への入団説得にも当たる。また、この頃はメジャーリーグをよく研究していたという。1976年に帰国すると、海外事業本部・秘書課、支店長や支社長を経て、大洋クラブ(マルハ系列のゴルフ場運営会社)社長や横浜ベイスターズ球団顧問を務めた。2004年4月には東京六大学野球春季リーグ戦開幕戦で始球式を行ったが、5月4日に自宅で急死した。62歳没 1978年には東京大学野球部の監督就任の打診を受けるが断っている。また、1981年に土井淳監督がシーズン終盤に解任された際には、フロントの姿勢に憤慨した。 やや変則的なフォームから投げるキレのいいストレートと縦のカーブ・スライダーを武器とした。学生時代に、いつもリードされている状態で投げていたため、負け戦の時がいつもの状態であり、味方がリードしていると落ち着かなかった。この「東大病」を取り払うのに苦労し、プロ入り後の4年間かけてようやく克服したところで、退団になったという。 28 (1965年 - 1968年) ^ 『背番号の消えた人生』241-242頁 ^ “【7月25日】1965年(昭40) 東大卒初のプロ、「南氷洋に行ったつもりで」1年目に初白星”. スポニチ Sponichi Annex. 2008年10月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月26日閲覧。 ^ 『背番号の消えた人生』243頁 ^ 『背番号の消えた人生』247頁 ^ 『背番号の消えた人生』248頁 ^ 『プロ野球トレード大鑑』53頁 ^ 『背番号の消えた人生』249頁 ^ 越智正典『神宮球場ガイドブック2004年秋号 神宮球場から翔び立ったプロ野球のスターたち』 ^ 『背番号の消えた人生』245頁 近藤唯之『背番号の消えた人生』新潮文庫、1985年 東京都出身の人物一覧 東京大学の人物一覧 横浜DeNAベイスターズの選手一覧 久木田紳吾 - 東大出身者初のJリーグ選手 日本の野球選手 東京大学野球部の選手 横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手 マルハニチログループの人物 東京大学出身の人物 東京都立小石川中等教育学校出身の人物 東京都出身の人物 日本の実業家 1941年生 2004年没 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目
2024/11/10 08:23更新
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niihari shinji
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