館山昌平の情報(たてやましょうへい) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
館山 昌平さんについて調べます
■名前・氏名 |
館山昌平と関係のある人
青池玲奈: 埼玉西武ライオンズ 不在 - 千葉ロッテマリーンズ 不在 - 読売ジャイアンツ 内海哲也 - 東京ヤクルトスワローズ 館山昌平 - 横浜ベイスターズ 不在 柏木ひなた: 好きな選手は、40年来のスワローズファンである父と観戦している際に一目惚れした館山昌平投手。 デニス=ホールトン: 初本塁打:2012年8月11日、対東京ヤクルトスワローズ13回戦(東京ドーム)、2回裏に館山昌平から左越ソロ 加藤翔平: 2016年は右打席のみでいこうとしていたが、館山昌平の言葉でスイッチヒッターを継続した。 黒羽根利規: 1年目のオフに山本昌、ヤクルトスワローズの館山昌平と3人で母校で自主トレも行った。 堂上剛裕: 初本塁打:2007年7月29日、対東京ヤクルトスワローズ17回戦(明治神宮野球場)、2回表に館山昌平から中越ソロ 村田修一: また、第3回AAAアジア野球選手権大会日本代表の頃からの親友の杉内俊哉や、高校時代から何度も対戦した實松一成、大学時代に寮では同部屋で過ごし苦楽を共にした館山昌平など、多くの松坂世代と呼ばれる選手たちと深い絆を築いてきた。 森岡良介: 初本塁打:2007年4月22日、対東京ヤクルトスワローズ6回戦(明治神宮野球場)、8回表に谷繁元信の代打で出場、館山昌平から右越ソロ 村田修一: 日大で同期だった館山昌平は、プロ入りする際に村田が横浜でも25を着けることを知り、館山にとって日大時代から村田が特別な存在だったこともあり、館山もヤクルトに入団する際には背番号25を選んだ。 東條大樹: 中学3年時に投球フォームを館山昌平を参考にサイドスローに変更した。 永井怜: 初安打:2011年6月6日、対東京ヤクルトスワローズ4回戦(明治神宮野球場)、3回表に館山昌平から中前安打 那須野巧: 初安打:2008年4月16日、対東京ヤクルトスワローズ5回戦(明治神宮野球場)、4回表に館山昌平から中前安打 三橋直樹: 館山昌平とは小・中学生時代のチームメイトであり、小学校では6年間同じクラスであった。 森岡良介: 2007年4月22日、東京ヤクルトスワローズとの試合で代打出場し、館山昌平からプロ初本塁打を放った。 長田秀一郎: 所謂松坂世代の長田は高校時代、横浜高校の松坂大輔、日大藤沢高校の館山昌平と並び神奈川の注目投手としてよく比較されていた。 畠山和洋: 引退試合は館山昌平と共に9月21日の本拠地神宮球場での中日戦になり、6回裏にウラディミール・バレンティンの代打で出場、柳裕也から右前安打を放ち代走に中山翔太が送られベンチに下がり現役生活を終えた。 ラリー=ビグビー: 初打点:2008年4月16日、対東京ヤクルトスワローズ5回戦(明治神宮野球場)、3回表に館山昌平から中前適時打 田中大貴: また同世代、和田毅、館山昌平、木佐貫洋、後藤武敏、江草仁貴らとも仲が良く、このメンバーで2015年11月にCSプロ野球ニュースここだけの話で東京六大学×東都大学連盟の特番を放送した。 大島洋平: シーズン終盤の9月21日に館山昌平、23日に永川勝浩、29日にランディ・メッセンジャーと引退試合の投手の最終対戦打者になることが続いた。 長谷川晶一: 自分を諦めない - 191針の勲章(ワニブックス、2022/6/24、著・館山昌平、「執筆」担当) 矢野修平: 高鍋高時代は第70回選抜高等学校野球大会にエースとして出場し、準々決勝で館山昌平率いる日大藤沢高等学校と対戦し、自身は5回までノーヒットピッチングを展開するが、結局5回途中で降板し、延長戦で敗れた。 西原圭大: 広島への入団交渉を担当した鞘師智也スカウトによると、「投球のスタイルが館山昌平(東京ヤクルトスワローズ)に近いので、『即戦力の中継ぎ候補』として球団に推薦した」という。 宮本賢治: 館山昌平(3巡目) 石川雅規: 前半戦は不調だったが、後半戦から調子を取り戻し、館山昌平と共にヤクルト投手陣の屋台骨を支えた。 柳田悠岐: 5月31日、交流戦対巨人戦(東京ドーム)で、2021年7月4日の佐藤輝明(阪神)以来史上20人目、パ・リーグでは2016年4月20日の茂木栄五郎(楽天)以来8人目、ホークスとしては史上初となる日本プロ野球ワーストタイ記録の1試合5三振を喫したが、全5打席が空振り三振となったのは2011年9月15日の館山昌平(ヤクルト、投手)以来史上4人目、野手およびパ・リーグの選手としては2006年5月2日の里崎智也(ロッテ)に次ぐ史上2人目であった。 大村孟: 初出場:2018年4月5日、対広島東洋カープ3回戦(明治神宮野球場)、6回裏に館山昌平の代打で出場 本多雄一: 6月19日のセ・パ交流戦、対ヤクルト戦で館山昌平からプロ初の先頭打者本塁打を記録した。 相川亮二: 横浜時代の監督だった大矢明彦からは「粘り強い考え方をする捕手」と言われ、大矢から学んだ「状況判断から全てを考えろ」という教えのもと洞察力を磨き、ヤクルトでバッテリーを組んだ館山昌平からは「配球やバッターに対する洞察力が凄い」と評された。 武山真吾: 初本塁打:2010年4月30日、対東京ヤクルトスワローズ7回戦(明治神宮野球場)、5回表に館山昌平から左越3ラン 加藤康介: 大学時代の同期に尾形佳紀、下窪陽介、2学年下に館山昌平、村田修一らがいた。 |
館山昌平の情報まとめ
館山 昌平(たてやま しょうへい)さんの誕生日は1981年3月17日です。神奈川出身の野球選手のようです。
結婚、引退、テレビに関する情報もありますね。今年の情報もありました。館山昌平の現在の年齢は43歳のようです。
館山昌平のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 館山昌平チャンネル 館山 昌平(たてやま しょうへい、1981年3月17日 - )は、神奈川県厚木市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者、野球解説者、YouTuber。ベンヌ所属。 小学生の頃に同級生の三橋直樹に誘われたことをきっかけに野球を始める。野球好きだった三橋の影響で野球にのめり込み、大学野球や社会人野球も観に行くようになる。中学では軟式野球部に所属し、ポジションは主にキャッチャーで練習試合で投手を務めることもあった。地元屈指の進学校、神奈川県立厚木高校から立教大学に進学し東京六大学リーグで活躍した川村丈夫に憧れ、川村と同じ厚木高校への進学を目指していたが、当時日本大学藤沢高校の監督だった鈴木博識から投手としてスカウトされたことをきっかけに日大藤沢に進学する。高校時代は、横浜高校の松坂大輔と度々投げあいを演じた。2年次の1997年、秋の神奈川県大会決勝では横浜高校相手に先発するも0-9で敗戦(途中降板)。関東大会決勝で再び横浜高校と対戦し、延長10回、1-2で敗退(館山は終盤の2/3回のみ登板)。1998年、春のセンバツに出場、準決勝で久保康友のいた関大一高と対戦し、6回から3回無失点の好リリーフを見せるも3-5で敗戦。同年春の関東大会決勝で三度横浜高の松坂と投げ合い、延長13回150球超の完投も、0-1で敗戦投手となった。夏の西神奈川大会はベスト4どまりで、夏の甲子園出場は叶わなかった。 その後、東都大学野球リーグの日本大学に進学。リーグ戦通算36試合に登板し8勝6敗、防御率2.24。同期に村田修一、堤内健、大野隆治がいる。2001年の3年時には、春季リーグ戦でエースとして活躍しチーム17季ぶりの優勝に貢献。日本代表にも選ばれ、ワールドカップに出場。2002年にドラフト3巡目でヤクルトに指名され入団。なお、館山、村田、大野の3名は全員プロ入り時の背番号が「25」である。 2003年7月に初めて一軍に昇格すると、7月20日に7点差負けの9回に初登板。先発陣が手薄だった事もあり、8月から先発ローテーションに定着。以降9度先発して0勝3敗と、好投を続けたものの勝ち星に恵まれなかった。 2004年キャンプ中に右肘の靭帯を断裂。3月に右肘内側側副靱帯再建手術(トミー・ジョン手術)を受け、以降リハビリのため二軍のマウンドにも立てずにシーズン終了。 2005年4月に一軍復帰すると、4月27日にプロ初勝利を挙げる。7月30日、甲子園での阪神タイガース戦で完封勝利(被安打4・無四球)。1年間ローテーションを守り、10勝を挙げる。10月に2歳年上の女性と結婚。右手薬指と小指の感覚が鈍いという理由で11月に右肘の再手術を受けた。 2006年は手術の影響から開幕に間に合わず、5月の一軍復帰後に5度先発登板するものの、計23失点で1勝3敗と結果を残せなかった。しかし、中継ぎ転向後は徐々に安定感を取り戻し、6月27日にはプロ入り初セーブを記録。9月には抑えも任される。最終的には自己最多の44試合に登板。 2007年は開幕当初は中継ぎとして好投し、5月からは先発、7月末から抑えと度々配置転換が行われた。しかし、先発で好投しても援護に恵まれず、また抑え転向後は救援失敗も多く、最終的に防御率3.17でありながら12敗(3勝5セーブ)を喫した。7月から翌年4月にかけて自身9連敗も記録。ただ、一度も二軍に降格することなくシーズンを通して一軍の戦力として貢献した。オフの契約更改では、母方の祖父が作成した、球団公式ホームページやスポーツ新聞の記事をパソコンで打ち直し、細かい試合経過や意見が添えられた、ルーズリーフ約200ページに及ぶ「07年館山昌平データ」を持参し、3時間半に及ぶ交渉を行った。その結果、球団取締役から「前例がなく評価が難しかったが、数字にはあらわれない部分が多かった」と評価され、当初の提示額より300万多い、1600万アップ(推定年俸6200万)となった。 2008年にシーズンを通して先発ローテーション入りを果たす。開幕直後こそ出遅れたが最終的に12勝を挙げ、自身初のタイトルである最優秀勝率投手を獲得。防御率も2.99を記録。オールスターゲームにも初出場。オフの契約更改では年俸1億円の3年契約(総額3億円)を結んだ。 2009年に千葉県館山市の「スポーツ大使」に就任。館山市が同じ名前であることにちなんで館山にオファーを出し、それを快諾したもの。2009年1月24日に任命式があり、翌25日には館山若潮マラソンのスターターを務め、10キロの部に飛び入り参加している。4月28日の中日ドラゴンズ戦で4年ぶりの無四球完投勝利(被安打7、失点1)。5月28日のオリックス戦で2008年8月から続く連勝を12に伸ばし、1957 - 1958年の金田正一による球団記録を51年ぶりに更新、記録は14まで伸ばしたものの6月26日の読売ジャイアンツ戦で7失点を喫し記録は止まった。7月22日の阪神戦で4年ぶりの完封勝利。前年に続けて2度目のオールスターに出場した。後半戦は8月にマメをつぶして1度登録抹消となったが、それ以外は年間通してローテーションを守り、10月8日の阪神戦(神宮)で完封勝利して16勝目を挙げ、吉見一起と共にセ・リーグ最多勝利のタイトルを初受賞。チームが借金1でシーズンを終えた中、館山1人で貯金10を稼ぎ、ヤクルト球団初のクライマックス・シリーズ出場に貢献した。 2010年は故障の影響から1年ローテーションを守ることができなかったものの、中盤以降は安定した投球を披露。最後の登板となった広島東洋カープ戦で完封勝利を果たすと同時に規定投球回にも到達した。最終的に12勝を挙げリーグ最多の4完封2無四球試合、防御率は2.93としリーグ3位を記録する。また阪神、中日、広島から各3勝ずつを挙げた。 2011年はヤクルトの右腕エースとして躍動。防御率は自己最高となる2.04を記録し完投・完封もリーグトップを記録。WHIPも1.00を切るなど投球内容ではキャリアハイを記録した。しかし、援護が少ないことや血行障害を発病するなど好成績の裏側で苦しんだ投球が続いた。11月11日に群馬県館林市の病院で右手血行障害の手術を受けた。契約更改では新たに年俸1億9000万円の4年契約(契約の2年目終了時に球団と本人の同意で契約内容の見直しを行う)を結ぶ。 2012年もエースとしてチームを支え、チームトップとなる防御率2.25(リーグ5位)、12勝(リーグ4位タイ)の好成績を記録。更に3.4月(3勝0敗、防御率1.85)と9月(4勝0敗、防御率1.13)の月間MVPを選ばれる。また、シーズン2度の投手の月間MVP受章は球団では1995年4月、9月のテリー・ブロス以来17年ぶり。 2013年は3月29日の開幕戦(対阪神1回戦、明治神宮野球場)に先発、5回3失点という内容であった。続く4月5日、対橫浜DeNAベイスターズ1回戦(明治神宮野球場)に先発したが4回途中で右肘に違和感を覚えて降板。翌日に病院で検査を受けたところ、右肘靭帯の再断裂(全治1年)が確認された為に再手術を受けることを4月7日の記者会見で明らかにし、4月12日に二度目の右肘内側側副靱帯再建手術(トミー・ジョン手術)を受けたことを球団が発表した。このため、シーズンをすべて棒に振ってしまった。また、6月には今オフの予定だった股関節の関節唇損傷の修復手術を前倒しで受けた。契約更改では、4年契約の2年目を経過したことで契約の見直しが行われ、契約上の上限の2000万を超える4000万の減俸を自ら申し出、1億5000万円で契約更改を終えた。 2014年は復帰して一軍キャンプスタート。初日から順調な仕上がりを見せていた矢先、2月25日の千葉ロッテマリーンズとの練習試合で12球で緊急降板。その後二軍で調整を行っていたが、4月5日のイースタンでの巨人戦に登板した際も1球で緊急降板し、検査の結果、4月10日に右肘外側滑膜ひだ切除手術を行うことになった。群馬県館林市内の病院で右肘の滑膜ひだを切除したが、この時同時に右肘の内側側幅靱帯(じんたい)再建と右前腕の屈筋腱(けん)縫合手術も受けた。その結果実戦復帰まで約1年かかる見通しと診断された。 2015年の6月28日の巨人戦で復帰登板を果たすと、7月11日のDeNA戦で1019日ぶりの勝利投手となる。制球が戻らず四球を連発する場面も見られたが、徐々に安定感を取り戻し、3か月で6勝を挙げる活躍を見せ、14年ぶりのリーグ優勝に貢献した。またこの年の日本シリーズでは第4戦に先発した。その功績として、セントラル・リーグからは2012年の大竹寛(広島)以来となるカムバック賞も受賞している。打撃面でも2010年以来の本塁打を記録した。 2018年の8月22日に出場登録され、同日の広島戦に登板するも、3回に鈴木誠也の打球を右腕に受け、降板。その翌日に登録抹消された。 2019年には、6月に先発投手として一軍公式戦1試合へ登板しただけで、レギュラーシーズン終盤の9月13日に現役引退を発表した。この発表を受けて、球団は、レギュラーシーズンの本拠地最終戦(9月21日の対中日戦)を館山の引退試合として開催。館山は打者1人だけの対戦を条件に先発で登板すると大島洋平を4球で二塁へのゴロに打ち取ったことによって現役生活を締めくくった。 引退後はヤクルトから役職を用意され、館山も球団には感謝の気持ちを持っていたが、現場から離れる役職だったために断り、「一旦、スワローズを離れて外から野球を見ます」と発言。そこからさまざまな場所から声がかかり、2019年10月14日に、東北楽天ゴールデンイーグルスの二軍投手コーチへ就任することが発表された。2シーズン務めて2021年終了後に退団した。 その後、ルートインBCリーグ・福島レッドホープスオーナー兼監督の岩村明憲に館山側から投手コーチ契約を申し入れ、同年12月3日に翌2022年シーズンから投手チーフコーチとして入団することが発表された。企画運営を兼務する。2023年9月5日に自身のSNSで同年限りで福島のコーチを退任すると発表した。 2022年からは本数契約としてテレビはフジテレビ・BSフジ・フジテレビONE・仙台放送・ラジオは文化放送(2024年より)の野球解説者としても活動する。2月15日には自身のYouTubeチャンネルを開設した。 2024年2月16日、2025年より本格的に活動する、新たな社会人野球の企業チーム・マルハン北日本カンパニー硬式野球部の初代監督就任が発表された。 小学校から野球を始めたが、当時の将来の夢は「ピアノの先生」だった。中学進学後、吹奏楽部に体験入部したが部活休みが週2日あり、かたや野球部は週1日しか休みがなかったので、「何かに打ち込みたい」という少年期の考えから野球を選んだという。 プロ入り後にサイドスロー(スリークォーターと言われることもある)に転向。平均球速約144km/h、最速153km/hのストレートとシュート、スライダーを中心とした組み立てを主とするが、2008年頃からフォークボール、カットボールなどを習得し、成績が向上した。他にナックルカーブ、球速の違う2種類のチェンジアップ、シンカーも投げることが出来る。通算与四球率2.2と制球力が良く、合計12種類の多彩な球種を同じ投球フォームで投げることが出来る。 毎試合前に50m走のタイムを計り、体重管理や体調判断の指針としている。タイムは6秒5を基準にしており、これを切れない場合は入念な調整を行う。自己ベストは6秒08。 2009年頃のスワローズ投手陣の中では、石川雅規が左のエース、館山が右のエースと形容されることが多かったが、これについて「本来エースは1人でいいわけで、エースは石川さんです」としていた。 投手でありながら打撃へのこだわりもあり、2010年の球団公式プロフィールでは「安打10本、長打3本」と宣言している。実際に8月6日の横浜戦(横浜スタジアム)では大家友和から1回表に3点本塁打を放った。先発投手が初回投球前に本塁打を打ったのは1988年、当時広島に所属していた長冨浩志がヤクルト戦で3ランを打って以来である。2010年の安打数は5本と目標に届かなかったが、長打は3本打ちこちらはクリアした。2015年8月30日の阪神戦(甲子園球場)では、岩崎優から5年ぶりとなる3点本塁打を放った。 元来、体の関節が緩い体質の持ち主であり、長距離走で肩が痛くなったりストレッチで亜脱臼したことがあり、肘関節は180度以上に開いてしまう「猿腕」であった。そのため、関節の可動域の広さは腕のしなりとなって投球には有効だったが、それ故に靭帯には常に故障の危険が付きまとった。トミー・ジョン手術を3度経験し、その他にも肩関節、股関節などに9度にわたって身体にメスを入れ、全身には175針の傷跡が残っているが、「絶対に怪我を理由に引退したくない」としており、トミー・ジョン手術を受けた後に中継ぎのエースとして2001年に復活した河端龍や、かつての伊藤智仁の「マウンドに戻ってやる」という気概を目の前で見たことが励みになったとしている。また、打たれるのは能力や技術が足りないだけという考えでいる。現役引退した5日後にも手術を受けているが、「今までのリハビリがうまくいったのかということを確かめたかったのと、自分が闘ってきた肘が、全部クリアだったという証明をしたいなと思った」と明かしている。 背番号を25にしたのは、日大の同期である村田修一が大学時代に注目されたのをきっかけに自分もスカウトの目に留まるようになり、村田が横浜入団時に25番を付けるのを知って、その憧れから同じ番号を選んだからという。村田は館山のことを大学時代からずっとハートが強い投手だったと語り、何度も肘にメスを入れ不死鳥のように蘇る館山の姿に「同じ釜の飯を食った館山が頑張ってくれたから、僕も頑張ることができたと思っています」と現役時代を振り返っている。 各年度の太字はリーグ最高 最多勝利:1回(2009年) 最高勝率:1回(2008年)※当時連盟表彰なし。セントラル・リーグでは、1972年までと2013年以降表彰。 月間MVP:3回(2010年8月、2012年4月、2012年9月) カムバック賞(2015年) ベスト・ファーザー イエローリボン賞 in 「プロ野球部門」(2010年) 初登板:2003年7月20日、対中日ドラゴンズ17回戦(札幌ドーム)、9回表に5番手で救援登板・完了、1回1失点 初先発:2003年8月10日、対読売ジャイアンツ21回戦(東京ドーム)、4回1/3回を5失点 初奪三振:同上、2回裏にロベルト・ペタジーニから空振り三振 初勝利・初先発勝利:2005年4月27日、対読売ジャイアンツ5回戦(東京ドーム)、6回2失点(自責点1) 初完投勝利・初完封勝利:2005年7月30日、対阪神タイガース13回戦(阪神甲子園球場) 初ホールド:2006年6月17日、対千葉ロッテマリーンズ5回戦(明治神宮野球場)、6回表二死に2番手で救援登板、1回無失点 初セーブ:2006年6月27日、対中日ドラゴンズ5回戦(明治神宮野球場)、9回表二死に5番手で救援登板・完了、1/3回無失点 初安打:2003年8月10日、対読売ジャイアンツ21回戦(東京ドーム)、5回表に河本育之から右前安打 初打点:2005年10月11日、対横浜ベイスターズ21回戦(明治神宮野球場)、6回裏に門倉健から中前2点適時打 初本塁打:2010年8月6日、対横浜ベイスターズ14回戦(横浜スタジアム)、1回表に大家友和から中越3ラン 1000投球回数:2011年7月19日、対横浜ベイスターズ21回戦(横浜スタジアム)、1回裏一死目に石川雄洋を一塁ゴロで達成 ※史上324人目 1試合5三振:2011年9月15日、対広島東洋カープ20回戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)※史上15人目(セ・リーグ8人目) 開幕投手:1回(2013年) オールスターゲーム出場:4回(2008年、2009年、2011年、2012年) 25(2003年 - 2019年、2022年 - 2023年) 92(2020年 - 2021年) ^ 日本野球機構 公式サイト ^ 「ピアノの先生を夢見た“ライパチ”少年、館山昌平をプロへと導いた“観察力”」『よみタイ』2019年2月3日。2022年2月20日閲覧。 ^ 「大輔だけじゃない! 館山昌平が驚愕した「松坂世代」のすごいヤツら。「広島の1、2番コンビはイヤでした」」『Sportiva』2012年1月16日。2022年2月20日閲覧。 ^ 館山投手、右ヒジを手術 - 東京ヤクルトスワローズ公式サイト ^ 燕・館山が1600万円増でサイン - ウェイバックマシン(2008年1月14日アーカイブ分) - サンケイスポーツ(2007年12月18日) ^ 週刊ベースボール2009年2/21号増刊 54頁「同じ名前つながりで大使に」 ^ 「巨人一丸でヤクルトを!館山を!止めた!」『スポニチ Sponichi Annex』スポーツニッポン、2009年6月26日。2013年4月13日閲覧。 ^ 「“マジック”呼んだ!館山セ界のトップ11勝」『スポニチ Sponichi Annex』スポーツニッポン、2009年7月23日。2013年4月13日閲覧。 ^ 「館山大一番で完封!ヤクルト3連勝で3位浮上」『スポニチ Sponichi Annex』スポーツニッポン、2009年10月8日。2013年4月13日閲覧。 ^ 館山 右手血行障害の手術受け全治4、5カ月 - スポーツニッポン(2011年11月12日) ^ 【ヤクルト】館山ひじ靱帯手術、全治1年 - 日刊スポーツ 2013年4月7日閲覧 ^ 「館山の右肘手術、無事終了 全治には1年」『スポニチ Sponichi Annex』スポーツニッポン、2013年4月12日。2013年4月13日閲覧。 ^ ヤク館山が右肘手術へ 前半戦復帰は絶望日刊スポーツ 2014年4月8日掲載 ^ 燕・館山、3度目の右肘靱帯再建手術で今季絶望…復帰まで約1年sanspo.com 2014年4月12日掲載 ^ ヤクルト・館山 右腕に打球受け無念の降板 2年ぶり勝利ならずスポにアネックス 2018年8月22日掲載 ^ 「ヤクルト館山が引退会見「後悔はありません」」『日刊スポーツ』2019年9月13日。2019年9月14日閲覧。 ^ 「ヤクルト館山が引退試合先発 大島を二ゴロ打ち取る」『日刊スポーツ』2019年9月21日。2019年9月14日閲覧。 ^ 「元燕・館山が独占インタで語った楽天コーチ就任の真実とヤクルトへの感謝」『Full-Count』2019年12月31日。2022年2月20日閲覧。 ^ 「新任コーチに関して」『東北楽天ゴールデンイーグルス』2019年10月14日。2019年9月14日閲覧。 ^ 「楽天、館山コーチらと契約せず」『サンケイスポーツ』2021年11月2日。2021年12月3日閲覧。 ^ 館山昌平がヤクルト時代の先輩・岩村明憲に“逆オファー”してまで「福島」にやってきた理由…“投手強化”だけじゃない東北への想いSports Graphic Number Web 市川忍 2022年3月12日(2/4ページ) ^ 「BCリーグ福島 元ヤクルトの館山昌平氏の投手チーフコーチ就任発表」『スポーツニッポン』2021年12月3日。2021年12月3日閲覧。 ^ 「「新コーチ入団」のお知らせ」『福島レッドホープス』2021年12月3日。2021年12月21日閲覧。 ^ 「元ヤクルト・館山昌平氏がBC福島投手コーチ退任 今後「未定」も、ファン切実「ヤクルトに帰ってきて!」」『スポーツニッポン』2023年9月5日。2023年12月24日閲覧。 ^ 館山昌平チャンネル ^ 「マルハンが硬式野球部発足 初代監督は元ヤクルトの館山昌平氏「仙台を盛り上げる」25年から公式戦参戦へ」『Sponichi Annex』2024年2月16日。2023年2月16日閲覧。 ^ 「館山昌平氏 中学時代に吹奏楽部を断念して野球部を選んだ理由とは?「夢はピアノの先生」」『Sponichi Annex』2024年7月15日。2024年7月15日閲覧。 ^ 『2011プロ野球オール写真選手名鑑』日本スポーツ企画出版社、2011年、183頁。ISBN 978-4-930942-98-2。 ^ 西武ドラ1十亀 あの人にそっくりnikkansports.com ^ 「館山がトラウマ払拭のため投げた…フォーク、外角直球、シュート」『SANSPO.COM(サンスポ)』2015年5月1日。2015年5月6日閲覧。 ^ 「森繁和の投手考察 今週の考察対象/館山昌平[ヤクルト]」週刊ベースボールONLINE、2012年10月11日。2014年12月14日閲覧。 ^ 「館山25回0封 神宮沸かせた」『日刊スポーツ』2011年4月3日。2014年12月13日閲覧。 ^ 「2011年6月6日放送 21:54 - 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Facebook 館山昌平 (@tateyama_shohei) - X(旧Twitter) 館山昌平チャンネル - YouTubeチャンネル 表 話 編 歴 1950 真田重男 1951 杉下茂 1952 別所毅彦 1953 大友工 1954 杉下茂 1955 大友工, 長谷川良平 1956 別所毅彦 1957 金田正一 1958 金田正一 1959 藤田元司 1960 堀本律雄 1961 権藤博 1962 権藤博 1963 金田正一 1964 G.バッキー 1965 村山実 1966 村山実 1967 小川健太郎 1968 江夏豊 1969 高橋一三 1970 平松政次 1971 平松政次 1972 堀内恒夫 1973 江夏豊 1974 松本幸行, 金城基泰 1975 外木場義郎 1976 池谷公二郎 1977 高橋里志 1978 野村収 1979 小林繁 1980 江川卓 1981 江川卓 1982 北別府学 1983 遠藤一彦 1984 遠藤一彦 1985 小松辰雄 1986 北別府学 1987 小松辰雄 1988 小野和幸, 伊東昭光 1989 斎藤雅樹, 西本聖 1990 斎藤雅樹 1991 佐々岡真司 1992 斎藤雅樹 1993 今中慎二, 山本昌広, 野村弘樹 1994 山本昌広 1995 斎藤雅樹 1996 斎藤雅樹, B.ガルベス 1997 山本昌 1998 川崎憲次郎 1999 上原浩治 2000 M.バンチ 2001 藤井秀悟 2002 上原浩治, K.ホッジス 2003 井川慶 2004 川上憲伸 2005 下柳剛, 黒田博樹 2006 川上憲伸 2007 S.グライシンガー 2008 S.グライシンガー 2009 吉見一起, 館山昌平 2010 前田健太 2011 吉見一起, 内海哲也 2012 内海哲也 2013 小川泰弘 2014 R.メッセンジャー, 山井大介 2015 前田健太 2016 野村祐輔 2017 菅野智之 2018 大瀬良大地, 菅野智之 2019 山口俊 2020 菅野智之 2021 青柳晃洋, 九里亜蓮 2022 青柳晃洋 2023 東克樹 2024 菅野智之 表 話 編 歴 1950 大島信雄 1951 松田清 1952 藤村隆男 1953 大友工, 石川克彦 1954 杉下茂 1955 大友工 1956 堀内庄 1957 木戸美摸 1958 藤田元司 1959 藤田元司 1960 秋山登 1961 伊藤芳明 1962 小山正明 1963 山中巽 1964 石川緑 1965 山中巽 1966 堀内恒夫 1967 堀内恒夫 1968 島田源太郎 1969 高橋一三 1970 村山実 1971 坂井勝二 1972 堀内恒夫 1973 倉田誠 1974 松本幸行 1975 星野仙一 1976 加藤初 1977 新浦寿夫 1978 鈴木康二朗 1979 藤沢公也 1980 福士敬章 1981 江川卓 1982 都裕次郎 1983 津田恒美 1984 江川卓 1985 北別府学 1986 北別府学 1987 川端順 1988 小野和幸 1989 西本聖 1990 斎藤雅樹 1991 北別府学 1992 斎藤雅樹 1993 山本昌広 1994 紀藤真琴 1995 石井一久 1996 斎藤雅樹 1997 三浦大輔 1998 桑田真澄 1999 上原浩治 2000 工藤公康 2001 入来祐作 2002 上原浩治 2003 井川慶 2004 上原浩治 2005 安藤優也 2006 川上憲伸 2007 高橋尚成 2008 館山昌平 2009 D.ゴンザレス 2010 久保康友 2011 吉見一起 2012 杉内俊哉 2013 小川泰弘 2014 山井大介 2015 M.マイコラス 2016 野村祐輔 2017 薮田和樹 2018 大瀬良大地 2019 山口俊 2020 菅野智之 2021 青柳晃洋 2022 青柳晃洋 2023 東克樹 2024 菅野智之 表 話 編 歴 1974 石岡康三 1975 安仁屋宗八 1976 船田和英 1977 浅野啓司 1978 野村収 1979 三村敏之 1980 谷沢健一 1981 藤田平 1984 鈴木孝政 1986 津田恒実 1987 杉浦享, 新浦壽夫 1988 有田修三 1989 西本聖, 中尾孝義 1990 吉村禎章, 遠藤一彦 1992 伊東昭光 1993 川崎憲次郎 1994 彦野利勝 1996 加藤伸一 1997 伊藤智仁 1998 斎藤隆 1999 遠山奬志 2000 種田仁 2001 成本年秀 2002 前田智徳 2003 平井正史, 鈴木健 2004 小久保裕紀 2008 平野恵一 2012 大竹寛 2015 館山昌平 2017 岩瀬仁紀 2018 松坂大輔 表 話 編 歴 1950 成田敬二 1951 田原基稔 1952 金田正一 1953 宮地惟友 1954 金田正一 1955 金田正一 1956 金田正一 1957 田所善治郎 1958 金田正一 1959 金田正一 1960 金田正一 1961 北川芳男 1962 金田正一 1963 金田正一 1964 金田正一 1965 村田元一 1966 渋谷誠司 1967 村田元一 1968 石戸四六 1969 河村保彦 1970 石岡康三 1971 松岡弘 1972 松岡弘 1973 松岡弘 1974 松岡弘 1975 松岡弘 1976 松岡弘 1977 松岡弘 1978 安田猛 1979 松岡弘 1980 鈴木康二朗 1981 松岡弘 1982 鈴木康二朗 1983 尾花高夫 1984 高野光 1985 梶間健一 1986 荒木大輔 1987 荒木大輔 1988 尾花高夫 1989 尾花高夫 1990 内藤尚行 1991 内藤尚行 1992 西村龍次 1993 西村龍次 1994 川崎憲次郎 1995 岡林洋一 1996 T.ブロス 1997 T.ブロス 1998 石井一久 1999 石井一久 2000 石井一久 2001 石井一久 2002 藤井秀悟 2003 K.ホッジス 2004 J.ベバリン 2005 石川雅規 2006 石川雅規 2007 石井一久 2008 石川雅規 2009 石川雅規 2010 石川雅規 2011 石川雅規 2012 石川雅規 2013 館山昌平 2014 小川泰弘 2015 小川泰弘 2016 小川泰弘 2017 石川雅規 2018 D.ブキャナン 2019 小川泰弘 2020 石川雅規 2021 小川泰弘 2022 小川泰弘 2023 小川泰弘 2024 サイスニード 表 話 編 歴 1巡目:高井雄平 3巡目:館山昌平 4巡目:泉正義 5巡目:大原秉秀 6巡目:片山文男 7巡目:高橋敏郎 8巡目:吉川昌宏 9巡目:小森孝憲 10巡目:久保田智 11巡目:大塚淳 表 話 編 歴 伊藤栄治 鈴木博識 松岡憲治 伊藤健治 11 古川隆一 12 松本祥平 14 森川慎太郎 15 多田野数人 16 長田秀一郎 17 館山昌平 18 久保裕也 19 新垣渚 20 児玉真二 21 小田嶋正邦 22 浅井良 25 谷一真 1 衣川隆夫 2 藤原徹 3 前田新悟 4 木戸敏雄 5 平野恵一 7 村田修一 8 鳥谷敬 9 尾張友紀 10 中島周二 23 林弘典 24 平間靖教 28 新垣道太 29 橋本博行 表 話 編 歴 30 後藤寿彦 31 山下大輔 32 荒木大輔 33 應武篤良 11 寺原隼人 15 須田喜照 16 篠原貴行 18 久保裕也 19 館山昌平 23 藤井秀悟 28 加藤康介 35 中村隼人 52 中野渡進 10 阿部慎之助 20 黒須隆 1 東出輝裕 2 井端弘和 4 前田新悟 6 西郷泰之 7 井口資仁 25 後藤武敏 3 葛城育郎 5 衣川隆夫 8 佐藤友亮 9 鷹野史寿 24 高橋由伸 43 上坂太一郎 日本の野球選手 日本大学藤沢高等学校出身の野球選手 日本大学硬式野球部の選手 日米大学野球選手権大会日本代表選手 東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の選手 日本の野球監督 東北楽天ゴールデンイーグルス関連人物 福島レッドホープス 社会人野球指導者 野球解説者 最多勝利 (NPB) 最高勝率 (野球) カムバック賞 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 日本の男性YouTuber 元NPB選手のYouTuber 神奈川県出身のスポーツ選手 1981年生 存命人物 Pages using the JsonConfig extension 外部リンクがリンク切れになっている記事/2013年6月 外部リンクがリンク切れになっている記事/2015年11月 ISBNマジックリンクを使用しているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/24 08:08更新
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tateyama syouhei
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