藪恵壹の情報(やぶけいいち) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
藪 恵壹さんについて調べます
■名前・氏名 |
藪恵壹と関係のある人
斉藤宜之: 初打点:1997年9月23日、対阪神タイガース26回戦(阪神甲子園球場)、4回表に藪恵壹から右中間へ適時二塁打 平田洋: 同時期に山部太(ヤクルト)・河原純一(巨人)・波留敏夫(横浜ベイスターズ)・藪恵壹(阪神)とセ・リーグ各球団に新戦力が台頭していた一方、中日は彼らと対比されるはずの存在だった平田が戦力になっていない状態で、7月12日に二軍戦で完投勝利を挙げた際にも最後の打者に投じた直球は131 km/hしかなかった。 ダレル=メイ: チームメイトとの関係も良好で、特に藪恵壹と仲が良いことを本人が明かしている。 マイク=ブロワーズ: 翌日の対中日ドラゴンズ戦では4回裏1アウト満塁の時、先発投手藪恵壹の代打として出場したが、野口茂樹のスライダーに詰まらされ、結果は遊ゴロ併殺打に終わった。 岩村明憲: 2019年3月22日には、オークランド・アスレチックスのOBを代表して、MLB開幕カード第2戦(東京ドームのアスレチックス対シアトル・マリナーズ戦)の始球式に藪恵壹とのバッテリー(藪の捕手役)で登場。 赤木誠: MBSラジオでは、同月27日の阪神対横浜DeNAベイスターズ戦(甲子園)の関西ローカル向け中継(解説:藪恵壹、フィールドキャスター:狩野恵輔)の実況を最後に、本番カードとして自社で放送される阪神戦中継の担当を退いている。 桧山進次郎: 終盤に左肩亜脱臼で戦列を離れ、矢野燿大、藪恵壹の離脱と並びチーム失速の一因となった。 仙田和吉: 2020年度には、『MBSベースボールパーク サタデープレミアムチャンネル』として放送される土曜版で、第1部「今夜は藪恵壹がヤル」のパートナーを担当。 マット=キーオ: 元阪神の藪恵壹投手を高く評価しており、藪が2004年オフにFA宣言した時、アスレチックスに獲得を進言、入団させたのも、日本球界を良く知る彼の功績である。 仁志敏久: 初盗塁:同上、2回裏に二盗(投手:藪恵壹、捕手:関川浩一) 巽真悟: ストレートが最速で142km/hを計測していた高校時代には、新宮高校の先輩でもある藪恵壹と同じくスライダーを武器にしていたことから、「藪二世」として報じられたこともある。 三ツ廣政輝: 2019年度には、「商店街マイスター」と称して、「ぶち藪れ!藪が歩く!やぶ~ら・ぶら歩き」(土曜版の第2部に放送する野球解説者・藪恵壹の冠番組)の商店街ロケに同行していた。 檜山進次郎: 終盤に左肩亜脱臼で戦列を離れ、矢野燿大、藪恵壹の離脱と並びチーム失速の一因となった。 横山竜士: 初打点:1999年4月8日、対阪神タイガース3回戦(広島市民球場)、6回裏に藪恵壹から一塁適時内野安打 ジョン=ボウカー: サンフランシスコ・ジャイアンツ時代に、当時のチームメイトであった藪恵壹と仲が良かったこともあり、親日家である。 狩野恵輔: ちなみに、「逆転狩野弁当」の開発に際しては、阪神OBの藪恵壹(「せやねん!スポーツ」レギュラー解説者)もプロデュースに関与。 森武史: 2020東京オリンピック期間中の2021年7月31日に放送されたエキシビションマッチ(有観客の非公式戦)・阪神対埼玉西武ライオンズ(阪神甲子園球場)ナイトゲーム中継(実況:馬野雅行、解説:藪恵壹)にゲストで出演。 福原忍: オリックス・バファローズ戦で2試合とも完封を収め、リーグ最多タイの2完封(他5人)だったが、この年も好投しながらも負けが先行し8勝14敗に終わり、1995年・1996年に記録した藪恵壹・湯舟敏郎以来の二年連続リーグ最多敗戦投手となった。 佐藤真一: 監督が同じ北海道出身の若松勉に代わった1999年シーズン、4月16日の対阪神タイガース戦で両者無得点のまま迎えた9回二死満塁の打席で藪恵壹からサヨナラ安打、5月19日の対読売ジャイアンツ戦で4-4の同点の延長13回二死二塁の打席で入来祐作からサヨナラ安打と、二度のサヨナラ打を放つなど、シーズン途中の6月からシュアな打撃で3番に定着した。 福留孝介: オープン戦では打撃好調で打率.414、4本塁打を記録したが、シーズンは左投手が先発する試合ではスタメン落ちすることが多々あったこと、8月1日の阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)で藪恵壹から死球を受けて右腓骨を亀裂骨折し1か月以上戦線離脱したこともあり、97試合の出場に終わり前年より成績を落とした。 万永貴司: 初盗塁:1995年4月20日、対阪神タイガース2回戦(横浜スタジアム)、1回裏に二盗(投手:藪恵壹、捕手:関川浩一) 辻本賢人: 2010年2月、藪恵壹の勧めにより藪とともにアメリカに渡ってアリゾナでトレーニングを積み、投球フォームの見直しを行った。 仁志敏久: 初打席・初安打:同上、1回裏に藪恵壹から中前安打 野村収: ^ 【藪恵壹 闘球論】阪神・青柳晃洋よ、ハッタリかませ 自信なさげな顔するな 安達智次郎: 安達の通夜には、高校時代のチームメイトだった黒田や、阪神時代のチームメイトだった亀山・藪恵壹・坪井智哉・北川博敏など、約350名の関係者が参列。 吉田義男: チーム本塁打は6年ぶりの3桁となる103本に増加し、藪恵壹と湯舟敏郎が2桁勝利を挙げた。 野嶋紗己子: MBSベースボールパーク プレミアムチャンネル 土曜日第1部「今夜は藪恵壹/亀山つとむがヤル!」(2020年度のナイターオフ期間限定番組) 山本和範: これを機に近鉄でも欠かせぬ存在となり、オールスターゲームでは、それまでは監督推薦での出場だったが、初めてファン投票で選出され、古巣の福岡ドームで藪恵壹から決勝ホームランを放つ。 吉田義男: 結果、投手陣では藪恵壹と川尻哲郎が2桁勝利を挙げるが湯舟敏郎が骨折で離脱し、新戦力ハンセン、パウエル、大豊が揃って不振で、レギュラー外野手新庄剛志、桧山進次郎が共に.220台の低打率で負の連鎖が止まらず、チーム本塁打が86本と極端な長打力不足に泣かされた。 榎田大樹: 阪神でオールスターに出場した新人選手は、当時の一軍投手コーチ・藪恵壹の現役時代(1994年)以来であった。 |
藪恵壹の情報まとめ
藪 恵壹(やぶ けいいち)さんの誕生日は1968年9月28日です。三重出身の野球選手のようです。
事件、卒業、テレビ、引退、現在に関する情報もありますね。去年の情報もありました。藪恵壹の現在の年齢は56歳のようです。
藪恵壹のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート ヤブチューブ【藪 恵壹】 藪 恵壹(やぶ けいいち、本名:藪 恵一〈読み同じ〉、1968年9月28日 - )は、三重県南牟婁郡御浜町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家・YouTuber。 投手として阪神タイガースでは1度のリーグ優勝に貢献。個人ではNPBで合計1個の主要表彰を獲得している。 1994年の登録名は藪 恵市(読み同じ)。 愛称は「恵ちゃん」。 小学校時代、野球の試合中に右腕を故障したが、病院にも行かずプレーを続けた。その後何とか治癒したものの、その影響で雨が降ると痛みが出るのか、雨の日の登板では実力を出せないことが目立った。 高校は自宅から通学できることや東海地区よりも近畿地区の方がセンバツで甲子園出場の機会が多いと考えて、和歌山・新宮高へ進学。2年先輩に山崎慎太郎がいたが、1年秋の大会後に部内の暴力事件が明るみに出て1年間の対外試合禁止となる 。3年夏は県大会ベスト8で敗れ、県内に杉浦正則がいたこともあり、ほとんど注目されなかった。東京で数校のセレクションを受けたが実績もないため入学には至らず、都内で1年間の浪人生活を送るが志望校合格とはならなかった。野球を続けるために2浪は諦めて東京経済大学に進学し首都大学リーグに加盟している同校の硬式野球部では2部リーグながら通算36勝を挙げる。登板しない試合では打者として出場し、首位打者争いをしたこともあった。この活躍で阪神を含む一部のスカウトからマークされることになった。 大学卒業後は朝日生命保険に入社、同社硬式野球部でプレーを続け、営業部員として勤務。在籍時の営業成績は全社の中でもトップクラスだったという。2年目には熊谷組の補強選手として都市対抗野球に出場し、準決勝で先発したが7回を投げて降板後にチームはサヨナラ負けする。 複数球団から声がかかっていたが、無名の大学時代からマークしてくれていた阪神タイガースを逆指名し、ドラフト1位で入団。背番号にエースナンバーの18を与えられ、入団を機に、姓名判断で登録名を「恵市」とした。東京経済大出身のプロ野球選手は藪が初となる。 1994年、新人ながら一軍の先発ローテーションに定着し、チームトップの9勝(9敗)を挙げてセントラル・リーグ(セ・リーグ)の新人王を獲得。前半戦は6連勝し、オールスターゲームにも、セ・リーグ投手部門のファン投票1位で出場した。公式戦デビューから7試合目に先発で登板した5月24日の対読売ジャイアンツ戦(阪神甲子園球場)では、阪神の日本人投手として初めて「対巨人戦初登板初完封勝利」する。シーズン全体では、先発で登板した25試合のうち17試合でクオリティ・スタート、8試合で完投する。 1995年、登録名を「藪 恵壹」に変更。前年に続き規定投球回に到達し、リーグ6位の防御率2.98、先発で7勝を挙げたものの、リーグ最多の13敗。 1996年、プロ入り後初めての開幕投手を務め、セ・リーグ最多の30試合の先発登板を記録。自身初の2桁勝利となる11勝を挙げる一方で、被安打数はリーグ最多で、チームメイトの湯舟敏郎と共に2年連続で最多敗戦投手となる。 1997年、チームトップタイの10勝を挙げ、2年連続の2桁勝利。 1998年、2年ぶりに開幕投手を務め、シーズン自己最多タイ11勝で3年連続の2桁勝利で、10敗ながらプロ入り後初めてシーズン勝ち越しとなる。 1999年は6勝16敗で自身3度目のリーグ最多敗戦投手となる(16敗は自己ワーストでこの数字を超える敗戦数を記録した投手は2022年時点でNPBにはいない)。 2000年、入団1年目から7年連続でセ・リーグの最終規定投球回に到達したが、6勝10敗で6年連続2桁敗戦。 2001年、右肩を故障した影響で、一軍公式戦17試合(先発8試合)に登板したが、プロ入り後初の未勝利。 2002年、NPBの投手としては珍しい1桁の背番号4に変更。春季キャンプの前に電話で出演した『週刊トラトラタイガース』(読売テレビ)で、かつて背番号4を着用していた川藤幸三から、変更を勧められたことによる。4月2日の対横浜戦では663日ぶりの勝利を完投で飾り、開幕から好調だったが、故障で途中離脱した影響もあり規定投球回に達しなかったものの、4年振りに10勝を記録し阪神入団後初めてシーズンの貯金を2つ以上にした。 2003年、開幕からローテーション入りしたものの好不調の波が激しく、7月に中継ぎに降格。後半は中継ぎと谷間の先発を担い、8勝3敗という成績(貯金は自己最多を更新)で、チームの18年振りセ・リーグ優勝に貢献。しかし、福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは登板機会がなかった。 2004年、前年に続き好不調の波が激しく、防御率は1点近く改善したが6勝9敗と負け越す。シーズン中に海外FA権を取得。シーズン終了後には、MLBへの挑戦を視野に、FA権の行使を宣言した。メジャー挑戦後から楽天での現役引退までは中継ぎで起用されたため、先発としてのキャリアはこの年が最後となった。 2005年1月、オークランド・アスレチックスへの入団が決定。野球を始めた時に与えられた背番号13を再び着用した。逆指名でNPB球団へ入った選手が、FA権を行使したうえで他球団へ移籍した事例は、NPB他球団への移籍を含めても藪が初めてである。この年にMLB公式戦デビューし、中継ぎで40試合に登板し、シーズン通算で4勝。しかし、契約オプションの2年目保有権をチームが行使しなかったため、シーズン終了後に自由契約となった。 2006年はコロラド・ロッキーズとマイナー契約したが3月31日付で解雇となる。その後6月29日にリーガ・メヒカーナ・デル・パシフィコのティフアナ・ポトロス(英語版)と契約した。 2007年はどこの球団にも所属せず、1年間を自主トレーニングに費やした。この年は練習相手もいないのでネットや壁にボールを投げて投球練習をすることもあったという。アマチュア時代も設備など野球環境が恵まれていなかったが、さすがに練習相手がいないのは堪えたという。 2008年、メジャー復帰を目指し、サンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約。キャンプ・オープン戦での背番号は72。同年3月30日に開幕メジャー枠に入ったことが球団から発表された。背番号は22。 4月14日の対アリゾナ・ダイヤモンドバックス戦で3年ぶりの勝利を記録した。39歳と199日での白星は、当時の日本人メジャーリーガーの最年長記録となった。また同年の5月30日の対サンディエゴ・パドレス戦の8回、3対3の同点で無死一・二塁の場面でリリーフ登板し、打者ケビン・クーズマノフを1球でトリプルプレーに仕留める、という珍しい記録も作った。トリプルプレーを記録した日本人投手は1996年の野茂英雄以来2人目のことだった。 2009年はメジャー契約でキャンプに臨むもオープン戦は不調で、3月5日にマイナー降格。メジャー40人枠を空けるための措置として3月20日(日本時間21日)にジャイアンツから戦力外通告を受け、翌21日に傘下のAAA級フレズノと再契約したが、7月11日に解雇された。 2010年はMLB球団からのオファーを待ちながら、アメリカ国内でトレーニングを続けていたが、7月26日から2日間にわたって千葉ロッテマリーンズの入団テストを受験。ブルペンでの投球で最速146km/hを記録したことから、テストに立ち会った一軍監督の西村徳文は獲得に前向きな姿勢を示していた。しかし、(当時)42歳という年齢面がネックになったため、結局は不合格となった。 2010年7月29日から2日間にわたって今度は東北楽天ゴールデンイーグルスの入団テストを受けたところ、NPBにおけるシーズン中の支配下選手登録最終日に当たる同月31日に、球団から獲得を発表された。同年シーズン終了までの契約で、背番号は64。ロッテの入団テストを受けたことを知った一軍監督のマーティー・ブラウンが、「一軍の試合で6回を任せられそうな救援投手が欲しい」と球団幹部に掛け合った末の緊急獲得であった。 入団後、8月10日の対埼玉西武ライオンズ戦(クリネックススタジアム宮城)7回表にNPB復帰後初の一軍戦登板を果たした。しかし、1アウトを取っただけで4点を失って降板。その後は10試合で10回1/2投げて自責点2点と中継ぎとして好投していたが、9月16日に札幌ドームの練習中のランニングで、左足ふくらはぎの肉離れを起こしてしまい戦線離脱、その後は復帰することなくシーズン終了後に戦力外通告を受けた。戦力外直後は他球団での現役続行も視野に入れていたが、12月7日に引退を表明。表明の場に選んだのは、当日にオークランドで開幕したばかりのMLBウィンターミーティングで、MLB時代に世話になった人々への挨拶を兼ねて「志半ばですが、ランディング(着陸)します。まだ(野球を)やれるが、もう42歳なので、誘ってくれる球団はないでしょう」と述べていた。 引退後は古巣・阪神に復帰し、二軍投手コーチ(2011年, 2013年)・一軍投手コーチ(2012年)を務めた。 2010年12月17日に阪神との間で二軍投手コーチとしての契約を締結し、楽天からの戦力外通告直後からの就任要請を受ける格好で、現役時代以来7シーズン振りに阪神へ復帰。背番号は、岡田彰布の監督退任に伴う退団以降、空番になっていた80に決まった。 コーチ就任のオファーを受けると、メジャーや他球団での豊富な経験を踏まえ、最新のトレーニング法や練習に関し、パワーポイントで資料を作成した上で、球団首脳とのミーティングに臨み、プレゼンテーションを行った。 退団後は神戸市東灘区のスポーツクラブ「Japan Athlete Club STAY COOL」の講師へ就任し、2014年からは毎日放送・GAORA解説者、2015年からは読売テレビ阪神戦中継(ゲスト)・J SPORTS「メジャーリーグ中継」解説者も務めている。 2017年からは夕刊フジ、2023年からはサンケイスポーツの評論家としても活動するほか、『週刊ベースボール』の名物企画「連続写真で見るプロのテクニック」で投手を取り上げる場合には、投球フォームの解説を担当。 2018年12月には、解説者としての活動と並行しながら、学生野球資格の回復に向けて講習会を受講。 2019年2月5日付で日本学生野球協会から資格回復の適性を認定されたため、同協会に加盟する大学・高校の硬式野球部での指導も可能になった。藪自身は、「(同協会加盟の高校の硬式野球部に所属する現役野手の)息子に(日本のプロ野球でのプレーを経験した選手では学生野球資格回復者にしか認められていない)アドバイスを送れるようにしたかった」とのこと で、同年シーズン以降も解説者としての活動を続けている。 同年3月22日には、アスレチックスのOBを代表して、岩村明憲と共にMLB開幕カード第2戦・アスレチックス-マリナーズ戦(東京D)の始球式へ登場。岩村とバッテリーを組んだうえで、マリナーズOBのケン・グリフィー・ジュニアを相手にピッチングを披露した。その一方で、同年12月4日〜10日にはタンザニアで野球を指導している。 インコースを苦手としていた清原和博に対して徹底した内角攻めを行い、多くの死球を与えたことで知られる。1997年8月20日の対巨人戦(東京ドーム)でシーズン3個目の死球を与え、清原が憤慨しながら指を3本突き出し 「3回目やぞ」と怒声をあげた。これに対し藪は「年俸3億ってこと?」「内角は弱点だし、清原さんの技術があるならよけられるでしょ」と挑発し、ますます清原を怒らせてしまったという。翌年の1998年7月10日の対巨人戦(東京ドーム)においても、シュートが内角高めに抜け、清原の右手親指をかすめ死球を与えてしまう。怒りで顔を紅潮させた清原はマウンドに歩み寄り藪を睨みつけ、睨み合いは約2分間も続いた。通算では6つの死球を与え、対戦成績50打数8安打0本塁打と、清原を手玉に取った。 藪は引退後にこの「対清原」ともいえる執拗な内角攻めについて真相を明かしており、巨人移籍当時の清原は1995年の右肩脱臼の影響で内角を捌き切ることが出来ない状態だったため、阪神のスコアラーも「4、5月はインコースを攻めてくれ。芯に当たっても全部レフトの方にファウルになるから」と投手陣に指示、清原もそれに臆するタイプではなかったため死球になるケースが増えたと解説している。 引退後の2012年11月18日に甲子園球場で行われた巨人対阪神のOB戦では、清原がキャッチャーの矢野燿大に「当時みたいに当ててくれ。」と頼み、矢野はそれを藪に伝えに行ったが、藪は「当てるのは嫌だ。背中の後ろを通すので勘弁して。」と断った。藪が打席の清原に対し背中の後ろを通るようなとんでもないボールを投げ、清原がマウンドに詰め寄るという当時の再現パフォーマンスをし、球場を大いに沸かせた。 各年度の太字はリーグ最高 新人王 (1994年) 月間MVP:1回 (投手部門:1994年5月) JA全農Go・Go賞:1回 (最多奪三振賞:1997年5月) 優秀JCB・MEP賞:1回 (1998年) サンスポMVP新人賞 (1994年) 初登板・初先発登板:1994年4月13日、対中日ドラゴンズ1回戦(阪神甲子園球場)、6回0/3を3失点で敗戦投手 初奪三振:同上、1回表に松井達徳から 初勝利・初先発勝利・初完投勝利:1994年4月19日、対広島東洋カープ1回戦(岡山県営球場)、9回1失点 初完封勝利:1994年5月24日、対読売ジャイアンツ7回戦(阪神甲子園球場) 初ホールド:2010年8月19日、対オリックス・バファローズ21回戦(スカイマークスタジアム)、6回裏2死に2番手で救援登板、1回無失点 1000投球回:1999年6月5日、対ヤクルトスワローズ10回戦(明治神宮野球場)、4回裏2・3死目にロベルト・ペタジーニを遊撃ゴロ併殺打で達成 ※史上278人目 1500投球回:2003年7月11日、対読売ジャイアンツ17回戦(阪神甲子園球場)、1回表1死目に二岡智宏を遊撃ゴロで達成 ※史上151人目 1000奪三振:2004年8月11日、対横浜ベイスターズ16回戦(札幌ドーム)、5回裏に佐伯貴弘から ※史上112人目 オールスターゲーム出場:6回 (1994年 - 1997年、1999年、2000年) 18 (1994年 - 2001年) 4 (2002年 - 2004年) 13 (2005年) 22 (2008年) 64 (2010年) 80 (2011年 - 2013年) 『ウルトラマンガイア!』 / 田中昌之&大門一也 野球解説者としてのレギュラー番組のみ記載。 withタイガース カワスポサタデー運動部!(MBSラジオ、2013年度のナイターオフ番組) - 2014年最初の放送(1月4日放送分)から出演 MBSベースボールパーク(MBSラジオの阪神戦中継) - 2014年度から解説を担当。MBSとはラジオ中継のみ専属契約を結んでいるが、テレビ(MBSテレビ)の中継にもスポット契約で随時出演。ラジオでは、2019年度まで阪神戦中継にのみ出演していたが、2020年度からは(阪神との関西ダービーを除く)オリックス・バファローズ主催試合の(主にビジター地元局への裏送り向け)中継でも解説を担当する。(ビジター地元局への裏送り中継の初解説は2020年7月18日に福岡向けに放送されるRKBエキサイトホークスである)
MBSベースボールパーク(2017年度以降のナイターオフ版) - 土曜日に出演。本来の解説に加えて、アメリカ球界での体験談や、井上陽水、中尾彬、喪黒福造、デヴィ・スカルノなどの声真似も随時披露している。
GAORAプロ野球中継(GAORA) - 2014年度から阪神戦の解説を担当 子守康範 朝からてんコモリ!月曜日(2014年5月5日 - 2019年6月) - 月に1回のペースで、コメンテーターとして、「今朝の特盛りチェック」(6時台中盤のコーナー)からエンディングまで登場。2018年10月のリニューアルまでは、当時7時前に放送していた「てんスポ」(スポーツコーナー)にのみ出演していた。 せやねん!(2015年3月28日 - ) - 第1部の「せやねん!スポーツ」から「どこいこ?」まで出演。 上記の番組以外にも、読売テレビの阪神戦中継や、同局が制作する『す・またん!』などに不定期で出演している。 ^ 新人王 ^ 2022年現在の記録は、斎藤隆の41歳183日。 ^ 『週刊ベースボール 2023年12月8日号増刊』ベースボールマガジン社、2023年11月9日、36頁。ASIN B0CLSTPHNY。 ^ 藪恵壹 | プロフィール・成績・速報・ドラフト・ニュースなど選手情報 - 週刊ベースボールONLINE ^ “【藪恵壹 攻め続けた男】憧れ甲子園へ緻密な計算で和歌山・新宮高進学”. サンケイスポーツ. (2023年4月18日). https://www.sanspo.com/article/20230418-2OEB5LHE5JOIFJXKDFPU5SZHX4/?outputType=theme_tigers ^ “【藪恵壹 攻め続けた男】人生でポッカリ空いた日々 高校時代の1年間対外試合禁止”. サンケイスポーツ. (2023年4月25日). https://www.sanspo.com/article/20230425-D4OGVANW4JKJPNZXF2LBKIV23E/?outputType=theme_tigers ^ '94スポニチプロ野球手帳 スポーツニッポン新聞社 ^ 都市対抗野球大会80年史 日本野球連盟 ^ ベースボール・マガジン社(2021)『別冊ベースボール よみがえる1990年代のプロ野球PART.1(1994年編)』p.38「1994 時代の証言者IV 藪恵壹」 ^ “藪39歳最終カット突破、開幕メジャー”. 日刊スポーツ. 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2024/11/21 20:23更新
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yabu keiichi
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