山下和彦の情報(やましたかずひこ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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■名前・氏名 |
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藤井彰人: 大阪近鉄時代の入団当初、捕手の役割に「捕ること」「止めること」「投げること」だけを求めていた当時のバッテリーコーチ・山下和彦から、「投手に『低めに放ってこい』と要求するのなら、ワンバウンドを絶対に逸らすな! それこそが信頼関係である」という教えを受けた。 田村藤夫: 1995年は盗塁阻止率.390とリーグ二位の記録をしたものの打撃成績では自己ワーストとなり田口昌徳の台頭や、近鉄から移籍してきた山下和彦の活躍で9年ぶりに100試合を割る。 福良淳一: この時のチームメイトに山下和彦がいた。 日野善朗: チームメートに福良淳一(大分鉄道管理局から補強)、山下和彦がいた。 梨田昌孝: 1986年以降は、肩や打撃面の衰えから山下和彦、古久保健二、光山英和にスタメンを譲る機会が多くなる。 阿波野秀幸: この後、ショックで記憶が飛び、なぜ捕手山下和彦のサインで指示された自分のストレートを信頼できなかったかと悔いが残ったという。 西島貴之: 初盗塁:同上、3回表に二盗(投手:高村祐、捕手:山下和彦) 大村直之: 初盗塁:1995年4月27日、対日本ハムファイターズ5回戦(東京ドーム)、10回表に二盗(投手:キップ・グロス、捕手:山下和彦) 児玉弘義: コーチ時代は有田修三・山下和彦・古久保健二・光山英和・的山哲也を指導し、近鉄の捕手陣を厚くして3度のリーグ優勝(1979年, 1980年, 1989年)に貢献。 キップ=グロス: 1995年に近鉄バファローズから移籍してきた山下和彦との相性が良く、1996年はグロスの先発時には、ほぼ山下がマスクを被っていた。 赤堀元之: また、現役時代は山下和彦、光山英和、古久保健二の3人が捕手として併用されていた。 赤堀元之: 1990年はオールスターゲーム明けから一軍に定着し、シュートを多用する山下和彦の強気のリードもあって21試合で4勝を挙げ中継ぎとして一定の成果を残した。 光山英和: 1986年からは正捕手・梨田昌孝の衰えなどもあり、山下和彦や古久保健二と共に一軍に帯同することが多くなった。 金沢信彦: 初出場・初打席:1988年7月31日、対日本ハムファイターズ戦(札幌市円山球場)、山下和彦の代打で出場、西崎幸広から凡打 西村俊二: 九州地区で村上隆行、山下和彦などを獲得。 畑山俊二: 初打点:1991年5月25日、対福岡ダイエーホークス8回戦(鹿児島県立鴨池野球場)、5回表に山下和彦の代打で出場、今井雄太郎から2点適時三塁打 福良淳一: オールスターゲームまでチームは首位戦線を走っていたが、7月16日の対近鉄戦で本塁突入の際に山下和彦と激突し、再び左肩を脱臼して1か月ほど戦線離脱した。 金村義明: リーグの優勝戦線にいたチームが、一軍のベンチに入っていた捕手(山下和彦、古久保健二、光山英和)を全員起用したばかりか、8回裏の光山の打席で代打を出したことによる。 實松一成: 遠縁に山下和彦がいる。 古久保健二: 1985年に一軍初出場を果たし、当時の近鉄捕手陣は10年以上に渡り、主戦であった梨田昌孝・有田修三の「ありなしコンビ」に衰えが見え始めた頃で、年齢が近い山下和彦・光山英和・古久保の3人で次世代の正捕手争いを繰り広げることになる。 |
山下和彦の情報まとめ
山下 和彦(やました かずひこ)さんの誕生日は1962年11月29日です。大分出身の野球選手のようです。
卒業、引退、テレビに関する情報もありますね。去年の情報もありました。山下和彦の現在の年齢は61歳のようです。
山下和彦のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 山下 和彦(やました かずひこ、1962年11月29日 - )は、大分県宇佐市出身の元プロ野球選手(捕手)・野球指導者。 柳ヶ浦高校では3年次の1980年に大分大会で決勝に進むが、大分商業に敗れて甲子園出場を逸する。高校卒業後は1981年に新日本製鐵大分へ入社し、1984年の都市対抗に控え捕手として出場。日本通運との1回戦では代打で適時打を放つなど活躍し、準々決勝に進出するが、この大会に優勝した日産自動車に惜敗。チームメートに大分鉄道管理局から補強の福良淳一がいた。 同年のドラフト4位で近鉄バファローズに入団。 1985年は二軍暮らしに終始。 1986年には正捕手・梨田昌孝の衰えや故障もあり、一軍昇格を果たして70試合に出場。4月4日の日本ハムとの開幕戦(藤井寺)が初出場となり、この開幕2試合は連敗したが、その後はバットでも存在感を発揮。同23日の西武戦(藤井寺)ではチームの全5得点を1人で稼ぎ、序盤は「山下がスタメンだと負けない」という不敗神話までが生まれるほどであったが、同年は77試合でマスクを被った梨田には届かなかった。 1987年は元日から始動し、116試合に出場して、故障に苦しんでいた梨田の27試合を大きく上回った。内角を突くインサイドワークを武器にし、打者からにらみつけられても、「それで外角が生きる」と平然としていた。若い投手に対しては、首を振られても絶対にサインを変えないなどコワモテで接した一方、投手の心理を把握するため、一緒に飲みに行くなど普段からのコミュニケーションを大事にして、いかに投手の持ち味を生かすかを考え続けた。 1988年は自己最多の117試合に出場し、10月19日のロッテ戦ダブルヘッダー第2試合(川崎)では阿波野秀幸が高沢秀昭にシンカーを投げて同点本塁打を打たれたが、山下はストレートを要求したという。 1989年には規定打席未満ながら自己最高の打率.262、自己最多の20二塁打など課題であった打撃も好調で、9年ぶりのリーグ優勝に貢献してベストナインにも選出される。巨人との日本シリーズでは10月22日の第2戦(藤井寺)で負傷退場。 1990年4月29日のオリックス戦(西宮)では野茂英雄の初勝利、当時の日本記録である17奪三振の際にマスクを被った。それ以降は打撃力の長ける光山英和の台頭で出場試合も減り、古久保健二と共に2番手捕手を争う形になった。 1994年に自己最低の成績に終わり球団からは引退しコーチ要請があったが、現役にこだわり金銭トレードで日本ハムファイターズへ移籍した。 1995年、新天地では移籍初年度に、4年ぶり2度目のシーズン最高守備率1.000を記録。移籍後は出場試合数が再び増えていき、主に若手投手やキップ・グロスが先発時のスタメンや8回以降のリリーフ捕手として活躍。「球団に欠かせない存在」とまで言われもしていた。 1998年、この年ヤクルトから加入した野口寿浩が正捕手となり正捕手だった田口昌徳が控えに回った関係で出場数が激減、この年で引退となった。日本ハム時代の背番号40は引退後の1999年に遠縁の實松一成に引き継がれた。 引退後は横浜ベイスターズ一軍バッテリーコーチ(1999年 - 2000年)を経て、2001年には古巣・近鉄に一軍バッテリーコーチとして7年ぶりに復帰し、同年に12年ぶりで球団史上最後のリーグ優勝に貢献。近鉄コーチ時代に指導した藤井彰人は「僕にとっての師匠は山下和彦さんです。キャッチングの基礎をたたき込んでもらいました。低めのボールを受ける時にミットが落ちる悪い癖を直すことができたのもアドバイスの賜物です。ワンバウンドを止める練習も緩いボールできっちりと形を作るところから始めました。捕球が安定することで正確なスローイングにつながることを自覚させてもらいましたね。何よりも印象的だったのは試合中のイニング間に配球や気づいた点をボールペンで左手で甲に記していく姿でした。今思えば野球ノートを理論整然と残すための下書きだったんです。清書のメモを見せてもらったこともありますがめちゃくちゃきれいで読みやすかった」と述べている。2004年の近鉄とオリックスの合併に伴って退任。 2005年より新球団・東北楽天ゴールデンイーグルス初代一軍バッテリーコーチに就任。 2006年退任。 楽天退団後は大分に帰郷して九州総合スポーツカレッジコーチ(2007年 - 2009年)を務めた。 2010年からは横浜二軍「湘南シーレックス」バッテリーコーチに就任。 2012年から2013年まで一軍バッテリーコーチ。 2014年から2017年までは再び二軍バッテリーコーチを務めた。 2018年からは再び大分に帰郷し、九州総合スポーツカレッジコーチに復帰。同年限りで退任。 2022年11月2日、出身地の大分県を本拠とする九州アジアリーグの大分B-リングスで監督に就任することが発表された。 そのしつこいリードから「マムシ」という愛称が定着していたが、そう呼ばれるようになった発端は巡業中に川原で休憩していたところに現れた野生のマムシを石でやっつけてしまい、それをその場で火で焼いて食べたことからである。 近鉄時代の応援歌は「ドラえもんのうた」の替え歌。 ベストナイン:1回 (1989年) 初出場・初先発出場:1986年4月4日、対日本ハムファイターズ1回戦(藤井寺球場)、9番・捕手として先発出場 初安打:1986年4月10日、対ロッテオリオンズ2回戦(日生球場)、7回裏に石川賢から 初打点:1986年4月12日、対南海ホークス1回戦(大阪スタヂアム)、4回表に山内和宏から2点適時二塁打 初本塁打:1986年4月23日、対西武ライオンズ1回戦(藤井寺球場)、6回裏に東尾修から左越2ラン オールスターゲーム出場:1回 (1987年) 40 (1985年 - 1988年、1995年 - 1998年) 10 (1989年 - 1994年) 84 (1999年 - 2006年) 85 (2010年 - 2017年、2023年 - ) ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年 ^ 週刊ベースボールONLINE|野球コラム 山下和彦 リードはアリ、バットはナシ? “マムシ”と呼ばれた猛牛の司令塔/プロ野球1980年代の名選手 ^ 1998年日刊スポーツ発行プロ野球選手写真名鑑 ^ 週刊ベースボール2013年5月20日号 P28 ^ “チーム情報 2007年 登録・変更情報 日本野球連盟(JABA)”. Japan Amatetur Baseball Inc.. 2011年10月8日閲覧。 ^ “「ワクワクするゲームを」大分B-リングス新体制発表 監督に山下和彦氏 GMに岡崎郁氏”. TBSテレビ(大分放送配信). (2022年11月2日). https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/193631?display=1 2022年11月2日閲覧。 ^ ただし、あまりの不味さに数口で食べるのをやめたという。 大分県出身の人物一覧 大阪近鉄バファローズの選手一覧 北海道日本ハムファイターズの選手一覧 個人年度別成績 山下和彦 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 85 山下和彦 42 水本大志(選手兼任) 80 神田大輔(ヘッドコーチ) 18 猿渡大輝 19 後藤源英 21 満広 34 松田尚樹 47 児島由伸 48 西森弘貴 71 伊藤陽哉 2 凪汐 10 久保田健史 3 西原凜 5 川原雄大 26 幸野祐介 52 中野駿介 55 足立駿 9 吹上奨 42 水本大志(コーチ兼任) 51 岩下竜馬 表 話 編 歴 廣田浩章 2021 小野真悟 2022 山下和彦 2023 - 表 話 編 歴 投 阿波野秀幸 捕 山下和彦 一 ブーマー.W 二 辻発彦 三 松永浩美 遊 田辺徳雄 外 秋山幸二 / 藤井康雄 / R.ブライアント 指 門田博光 表 話 編 歴 1位:佐々木修 2位:吉田剛 3位:山崎慎太郎 4位:山下和彦 5位:鈴木貴久 6位:田崎正明(入団拒否) 日本の野球選手 柳ヶ浦高等学校出身の野球選手 日本製鉄九州大分硬式野球部及びその前身チームの選手 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の選手 北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球監督 横浜DeNAベイスターズ関連人物 東北楽天ゴールデンイーグルス関連人物 大分B-リングス 大分県出身のスポーツ選手 1962年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/23 06:09更新
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