もしもし情報局 > 1944年 > 2月8日 > 野球選手

柴田勲の情報 (しばたいさお)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

柴田勲の情報(しばたいさお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

柴田 勲さんについて調べます

■名前・氏名
柴田 勲
(読み:しばた いさお)
■職業
野球選手
■柴田勲の誕生日・生年月日
1944年2月8日 (年齢80歳)
申年(さる年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
神奈川出身

(昭和19年)1944年生まれの人の年齢早見表

柴田勲と同じ1944年生まれの有名人・芸能人

柴田勲と同じ2月8日生まれの有名人・芸能人

柴田勲と同じ出身地神奈川県生まれの有名人・芸能人


柴田勲と関係のある人

村上雅則: 2年次の1961年、春の選抜にエース・柴田勲の控え投手として出場し、準決勝の平安戦では柴田をリリーフして登板。


萩原康弘: 当時の巨人は高田繁、柴田勲、末次民夫が不動の外野陣を構成していたが、1971年シーズン前半には末次に代わり右翼手として起用される。


中村之保: 2回戦は同期の今井義則投手が先発するが、この大会に優勝した法政二高の柴田勲に抑えられ敗退。


佐伯和司: 初奪三振:同上、6回表に柴田勲から


広瀬叔功: また、右打者でありながらシーズン2桁併殺打を記録した年は存在せず、通算2000本安打を達成した右打者としては唯一である(左打者では福本豊、石井琢朗、新井宏昌、柴田勲(両打ち)が記録)。


永射保: 初奪三振:1973年5月16日、対読売ジャイアンツ5回戦(後楽園球場)、7回裏に柴田勲から


吉田孝司: 柴田勲と森が2位タイ)。


広瀬叔功: 先頭打者の能力を示す指標の一つである「生還率」((得点-本塁打数)÷(出塁率-本塁打数))を見ると、広瀬の通算生還率は.421で、この数字は前述の通算RBAでも挙げた福本豊(.401)、柴田勲(.370)を上回る。


高田繁: 上述のとおり、大学時代は強肩俊足の中堅手として高く評価されていたが、巨人では柴田勲が不動のレギュラーとして存在しており、左翼手への転向を余儀なくされた。


古賀英彦: 柴田勲や宮田征典らが同期だった。


阪本敏三: 準決勝に進出するが、法政二高の柴田勲・村上雅則の継投に抑えられ敗退。


鈴木尚広: 巨人での通算盗塁数は柴田勲の579盗塁、松本匡史の342盗塁に次いで球団史上歴代3位である。


井手峻: しかし中日は3番手の星野仙一が柴田勲に適時打を打たれてまたまた同点で延長戦に入り、10回裏二死で守備固めで起用された井手が4番手の高橋から左翼への本塁打で勝ち越し、10回裏も9回途中から登板の水谷寿伸が0点に抑え6-5で勝利。


島野修: この頃すでに、前任校で柴田勲を育てた実績のある教師が素質を認めていた。


島原輝夫: 加藤を指導する際、スイッチヒッターの先駆者である柴田勲に電話をしてノウハウを聞き出したほか、休日返上で練習に付き合った。


島野育夫: 同年の春季関東大会では決勝に進むが、法政二高の柴田勲に抑えられ敗れた。


古葉竹識: お互いにユニフォーム脱いでから初めて聞いた巨人の柴田勲さんを見て「いいな」と思ったらしいだよね。


鶴岡一人: 自らの人脈をフルに生かした情報網を築き、選手発掘にも精力的に動き、稲尾和久・広岡達朗・長嶋茂雄・山本一義・長池徳士・柴田勲・高田繁・田淵幸一、尾崎行雄、山本浩二にはプロ入り前から目をつけ、特に長嶋・柴田については入団契約直前までこぎつけた。


堀尾文人: 現在までに刊行されている書籍の多くでは日本プロ野球の本格的なスイッチヒッターは柴田勲が第一号とあるが、阪急、阪神時代は右打席よりも左打席に立つ事が多かったと言う彼が実は日本プロ野球におけるスイッチヒッター第一号である。


高田繁: 準決勝では甲子園で二度敗れている法政二高と対戦し、尾崎と法政二高のエース柴田勲との投げ合いとなり、延長11回の熱戦の末4-2で勝利。


渡辺泰輔: しかし決勝では法政二高の柴田勲と投げ合い、延長11回の激闘の末敗れる。


大矢明彦: 逆に柴田勲らセ・リーグの俊足選手達は、「大矢のときは走っても無駄」と思うようになる。


南村侑広: なおこの打率は1966年に柴田勲(.565)に破られるまで日本シリーズ記録であった。


王貞治: 10月16日広島での最終戦では、6回表に王はそれまで4安打1失点に抑えていた高橋里志の投じた2ストライク1ボールでの5球目真ん中高めの直球を打って716号2ランで同点にして、ジョンソンが高橋のど真ん中のボールを叩いて左翼最上段に決勝26号ソロで勝ち越し、さらに河埜和正、加藤初、柴田勲の3連打で加点する逆転劇、守備では加藤初(5イニングを6安打3失点) - 小林繁(4イニングを1安打無失点)のリレーでスコア5-3で逃げ切り、長嶋巨人は前年最下位から優勝を果たし、王は14回目の本塁打王を獲得した。


住友平: 2年次の1960年には1年生エース尾崎行雄を擁し、五番打者、二塁手として夏の選手権に出場したが、2回戦で法政二高の柴田勲に完封負けを喫した。


黒江透修: 一塁走者の柴田勲に大きなジェスチャー付きで「走れ」と指示を出すこともあり、盗塁が失敗すれば、「クロちゃん、サインがバレてるんじゃないのか」と来た。


是久幸彦: 2年生の時、七番打者として1960年夏の選手権にエース柴田勲を擁し出場。


松本匡史: 1980年は9月から中堅手、一番打者に抜擢され、柴田勲の後継と目される。


平松政次: 甲子園優勝投手で、投手として名球会入りしたのは2024年現在平松のみである(「甲子園優勝投手でもある名球会会員」はほかに王貞治と柴田勲がいるが、この二人は「打者として」名球会入りしている)。


ウィリー=カークランド: これを見た巨人の柴田勲・末次利光が甲子園球場で真似をしたところ、逆に阪神ファンを刺激する結果となり、空き缶や中身の入った一升瓶を投げつけられた。


柴田勲の情報まとめ

もしもしロボ

柴田 勲(しばた いさお)さんの誕生日は1944年2月8日です。神奈川出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

プレースタイル、人物などについてまとめました。現在、引退、テレビ、解散に関する情報もありますね。柴田勲の現在の年齢は80歳のようです。

柴田勲のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

柴田 勲 (しばた いさお、1944年2月8日 - )は、神奈川県横浜市出身の元プロ野球選手(外野手、投手)・コーチ、解説者・評論家。現在は日本プロ野球名球会理事、巨人OB会顧問。

高校時代は甲子園優勝投手として名を馳せ、読売ジャイアンツに入団後はリードオフマンとして巨人のV9に貢献した。通算579盗塁はNPB歴代3位でセ・リーグ記録。セ・リーグ最多記録となる盗塁王を6回獲得。セ・リーグ初の外野手部門のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞している。

小学生時代に当時米軍キャンプの子息らと対戦するために結成されたチームで野球を始め、中学校では野球部で投手を務める。当初はチームメイトと公立校へ進むつもりだったが、好投した試合の審判がOBであったことから声がかかって法政二高へ進学後は甲子園に4回出場、甘いマスクもあって人気者であった。

1959年夏の選手権に甲子園初出場。1回戦で西条高に敗退するが、この試合で1年生ながらリリーフとして甲子園初登板を果たす。1960年夏の甲子園県予選は決勝で慶應高の渡辺泰輔と投げ合い、延長11回の激闘の末に辛勝、夏の選手権への出場を決める。大会では順調に勝ち進み、決勝では石山建一のいた静岡高に3-0で完封勝利、初優勝を飾る。

1961年春の選抜は、決勝で左腕エース松下利夫(明大-四国電力)を擁する高松商を4-0で降し、前年からの夏春連覇を達成する。同年夏の選手権にも出場。準決勝で、これまで甲子園で2勝している因縁の浪商と対決、柴田と尾崎行雄との投手戦となり、延長11回の熱戦の末2-4で敗退した。浪商はこの大会で優勝を飾っている。プロ入りした高校同期に三塁手の是久幸彦、中堅手の的場祐剛(大洋)がおり、後に法大監督をつとめる五明公男も右翼手として出場していた。また1年後輩には後に日本人初のメジャーリーガーとなる村上雅則がいた。投手としては直球と小さいカーブがレパートリーだった。

1961年10月19日に投手として読売ジャイアンツに入団。1年目の開幕から一軍に抜擢され、開幕第2戦に先発。しかし、肩の痛みを抱えていたこともあってか、阪神タイガースの村山実と投げ合うが5回途中までに4点を失い降板、敗戦投手となる。5月3日にも広島カープを相手に先発するが、初回に1安打2四球を与え降板。3度目の先発となった8月5日の中日ドラゴンズとの対戦でも長谷川繁雄に本塁打を浴びるなど打ち込まれ、6失点を喫し3回に降板、敗戦投手となる。同年は0勝2敗に終わり「投手失格」の烙印を押された。このため強肩俊足を活かし外野手に転向するとともに、左打ちにも取り組み、日本初のスイッチヒッターとなる。

1963年には5月末から中堅手、一番打者に定着、打率.258(18位)ながら高木守道に次ぐ43盗塁を記録する。

1965年は4月末に故障欠場、2ヶ月を棒に振るが無事に復活した。この年に巨人は日本シリーズを制覇し、ここから1973年までセ・リーグと日本シリーズの双方でNPB最長の9連覇(V9)を達成することになるが、柴田は長嶋と王に並んで、この全期間を通じて野手のレギュラーポジションを維持した3人の一人となった。

1966年には初の盗塁王を獲得。同年の南海ホークスとの日本シリーズでは、全6試合で23打数13安打7打点2本塁打と活躍、また連続打席出塁の記録も達成。シリーズ最優秀選手賞(MVP)、打撃賞を獲得する。

1967年は打撃にも進化が見られ、打率.287(11位)、本塁打18本と好記録を残し、初のベストナインに選出された。

1968年には前年の五番打者であった高倉照幸が故障の影響もあって不振に陥り先発を外れる。このため首脳陣の意向で、打線のアキレス腱であった五番への定着を図るため、長打力のある「右打ち」に特化する。この年のオールスターゲーム第2戦では鈴木啓示から3点本塁打を放つなど、3安打1盗塁の活躍でMVPを獲得した。しかし同年は自己最多の26本の本塁打を放つが、確実性を欠いたフルスイングから三振が急増、三振も自己最多となってしまい、転じて出塁と盗塁機会も減ったことから盗塁王のタイトルも古葉竹識に奪われた。

1969年7月3日の対阪神戦では、当時、破竹の勢いを続けていた相手投手江夏豊への苦手意識を払拭する「刺激療法」として、川上監督は1試合のみ「3番・長嶋茂雄、4番・柴田、5番・王貞治」というクリーンナップで4番打者に抜擢し、見事に本塁打を放っている。

1970年には背番号「7」に変更。

「右打席」専念は数年間の打撃低迷の一因となった。

1971年にはスイッチヒッターに戻し打率.282(4位)を記録。

1972年は自己最高の打率.293(6位)を記録する。同1972年には45盗塁を記録して盗塁王を獲得。

1976年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは、第4戦の9回に山口高志から勝利を決める2点本塁打を放つ。日本一はならなかったが27打数11安打5打点2本塁打と気を吐き、シリーズ敢闘賞、打撃賞を受賞した。

1980年にはロイ・ホワイトの入団、松本匡史の台頭もあって出場機会が減少するが、8月7日のヤクルト戦(神宮)で酒井圭一から巨人の生え抜き選手としては4人目の通算2000本安打を達成。翌8日から1番・中堅は松本で柴田はベンチを温めることが多くなり、10月20日の広島とのシーズン最終戦(広島)は久しぶりに高田と1、2番を組む。引退試合ではなかったが、長嶋がV9戦士の2人に花を持たせた試合になった。柴田は一塁内野安打、四球、中飛、左翼線二塁打で迎えた9回の5打席目に右翼席へ勝利を決定付ける7号ソロ本塁打を放つ。

1980年限りで現役引退することを決意していたが、シーズン終了後に辞任した長嶋に代わって新監督に就任した藤田元司から慰留され、1981年もコーチ兼任として現役を続行した。巨人はその年リーグ優勝と日本一を達成した。日本ハムファイターズとの日本シリーズでは第4戦から先発出場。同シリーズでは通算10打数4安打1打点を記録した。この年限りで現役を引退した。

名球会の会員で引退までシーズン3割未達なのは柴田と田中幸雄のみで、打撃の三冠タイトルを獲得していない数少ない選手でもある。

2000試合出場の記録を持ち、出場数そのものは長嶋茂雄よりも上である。

引退後は巨人で二軍打撃兼外野守備コーチ(1982年)、一軍守備・走塁コーチ(1983年 - 1985年)を務めた。実際に引退してコーチに専念する際、年俸は3分の1に減った。当時の球団は外部から連れてくるコーチには契約金を出すが、元々球団にいた人間には1円も出さず、一度球団を離れて監督やコーチで戻ってくる場合は出していた。おかしいと思った柴田はこうした球団の慣例に一石を投じ、藤田が球団に交渉して貰えるようになった。コーチ2年目で一軍に昇格した1983年からは体調の優れない牧野茂に代わり、三塁コーチスボックスに立って2年ぶりのリーグ優勝に貢献したが、王貞治監督時の1984年と1985年はマスコミから「壊れた信号機」と酷評されることが多かった。巨人は1984年、1985年と連続で優勝を逃し、その責任を取る形で堀内恒夫一軍投手コーチと共に退団。

その後はフジテレビ(1986年 - 1995年)・ニッポン放送(1986年 - 1993年)→ラジオ日本(1998年 - )の野球解説者を務める。また、巨人OBという立場ながら阪神中心のデイリースポーツの評論家を2004年から2006年まで務めた(巨人OBのデイリースポーツ評論家は他にも関本四十四がいる)。1992年にポーカー賭博で松尾雄治などとともに逮捕されるが、釈放後の会見では、ポーカー賭博に対する謝罪会見であるにもかかわらずトランプ柄のセーターを着ていたため話題となった。その後、起訴猶予処分となる。2004年に死去した夫人は広川弘禅・元農林水産大臣の孫。

2008年12月7日、巨人OB会の新副会長に選出された(新会長は王貞治)。2009年12月には前任者である金田正一の退任に伴い、株式会社日本プロ野球名球会の代表取締役社長に就任した(株式会社としての法人は、2011年2月12日の株主総会で解散。2014年12月、巨人OB会の第9代会長に選出された。2019年12月7日、巨人OB会会長を退任し、顧問に就任。

プレースタイル

スイッチヒッター

NPBにおけるスイッチヒッターの草分け的存在であると言える。日本プロ野球での通算2000安打達成者の中では、2015年に松井稼頭央が達成するまでは唯一のスイッチヒッターであった。また、奇しくもスイッチヒッターでは安打数一位だったのも松井に抜かれることとなった。194本塁打を記録したパンチ力をもちながらも、左打席での長打力の弱さは度々指摘されており(打席数は左の方が多いにもかかわらず通算の本塁打数は左右で大差がなかった)、左右打席本塁打は1度も記録できなかった。

1968年から、首脳陣から乞われたこともあり、一時的に右打者に専念した。これは、ONに続く5番打者が不在というチームの課題を克服するために、右打席で長打力のある柴田を右打ちに専念させて5番打者として起用したいという首脳陣の意向によるものだった。68年は期待に応え、26本塁打を記録したものの、69年、70年と成績が下降したため、監督の川上哲治に直訴して再びスイッチヒッターに戻った。

スイッチヒッターに最初に挑戦したのは中学時代、メジャーリーグのニューヨーク・ヤンキースで、スイッチヒッターとして活躍していたミッキー・マントルを意識したものだったが、高校入学後、当時の監督だった田丸仁の「右投げのピッチャーが左打席で右肩にデッドボールを受けたら利き腕がダメになる」と助言を受け、プロ入りし、打者転向まで右打ちに専念していた。また、入団から1969年まで背番号「12」を背負っていた。パリーグには、自身と同じく投手から転向し俊足で鳴らした南海の広瀬叔功も「12」の背番号を背負っていたが、柴田は1970年以降引退までミッキー・マントルと同じ背番号「7」を背負うことになる。

盗塁

通算盗塁数579はセ・リーグ記録で、NPBの通算でも福本豊、広瀬叔功に次ぐ第3位である。一方で通算盗塁死193も福本と高橋慶彦に次ぐ第3位で、盗塁死の影響を考慮した赤星式盗塁に従うと柴田の順位はNPBで7位、セ・リーグ単独ではこの方式の考案者でもある赤星憲広に次ぐ2位となる。また、下記の通り赤い手袋をトレードマークに盗塁王を6回獲得した。1978年、「34歳で開幕を迎えたシーズンの盗塁王獲得」は現在もセ・リーグ最年長記録である。自己最高は1967年の70盗塁。なお、盗塁は全てサインだったという。

得点

上記の通り、1965年から1973年にかけて巨人が達成した9連覇、「V9」の中で柴田はレギュラー野手として出場を続け、特に1番打者や2番打者で出塁した後に3番の王や4番の長嶋の長打で生還する役割を果たしたため、得点数は継続して多くなった。通算1223得点は現在のNPB記録において第14位、巨人の球団記録では王と長嶋に続く第3位となっている。

人物

赤い手袋

柴田は現役時代、「赤い手袋」をはめてプレーしたことで有名だが、松井秀喜、落合博満など、一部を除き、現在では打者のバッティンググローブ着用は珍しくなくなったが、当時、素手でバットを握る選手が多い中、下記の事情もあって、結果としてバッティンググローブ着用者の先駆けとなる。

これを着用し始めたのは1967年からである。巨人はこの年の春季キャンプとして、ドジャースのベロビーチキャンプに参加。柴田は走塁練習中に手を擦り、バッティング練習が出来なくなった。柴田は隣のゴルフ場に手袋を買いに行ったが、柴田の手に合うものが女性用の赤い手袋しかなかったので、やむを得ずそれを買った。その後ナイトゲームに赤い手袋をつけてプレーし、安打と盗塁を記録した。ナイトゲーム下での緑の芝との赤い手袋が映えているようでカッコイイとチームメイトに言われ、日本でも赤い手袋をしたままバッティングするようになった。

そして、柴田に変わって巨人の中堅手のレギュラーを獲得した松本匡史は柴田にあやかって「青い手袋」を着用し、ここから付いた「青い稲妻」が松本の代名詞として定着した。

多摩川ブルース

甲子園での2連続優勝という実績を引っ提げて巨人に入団し、投手としてプロでやっていこうと張り切っていた柴田だったが、プロ初登板となった開幕第2戦では打ち込まれて途中降板し、またその後のピッチングも芳しくなく、柴田は早くも挫折感を味わうことになる。そしてついに投手失格の烙印を押され野手に転向し、二軍生活を味わうことになる。

柴田は「練鑑ブルース」の替え歌「多摩川ブルース」を作ったが、その詞が練習場の多摩川グラウンドで巨人の二軍選手が味わう悲哀をよく表現していると評され、巨人の二軍選手の間で長らく語り継がれていった。

DH制度に対する考え

セ・リーグへのDH制導入に賛同している一人でもある。

2024/06/16 09:48更新

shibata isao


柴田勲と同じ誕生日2月8日生まれ、同じ神奈川出身の人

村瀬 ひとみ(むらせ ひとみ)
1975年2月8日生まれの有名人 神奈川出身

村瀬 ひとみ(むらせ ひとみ、1975年2月8日 -)は、フリーアナウンサー。元KRY山口放送アナウンサー。 熱血テレビ(テレビ) 県民アワー(テレビ) KRYわくわくワイド“ひるらじ”(ラジオ)…

野並 豊(のなみ ゆたか)
1922年2月8日生まれの有名人 神奈川出身

2月8日生まれwiki情報なし(2024/06/17 04:55時点)

安藤 多喜夫(あんどう たきお)
1931年2月8日生まれの有名人 神奈川出身

2月8日生まれwiki情報なし(2024/06/17 18:26時点)

山本 寛斎(やまもと かんさい)
1944年2月8日生まれの有名人 神奈川出身

山本 寛斎(やまもと かんさい、本名の読み:やまもと のぶよし、1944年2月8日 - 2020年7月21日)は、日本のファッションデザイナー、イベントプロデューサー。 寛斎スーパースタジオ会長。別…

松本 峰明(まつもと ほうめい)
1954年2月8日生まれの有名人 神奈川出身

2月8日生まれwiki情報なし(2024/06/10 08:46時点)

祥美 衣(よしみ きぬ)
1964年2月8日生まれの有名人 神奈川出身

2月8日生まれwiki情報なし(2024/06/15 00:12時点)

藤村 直己(ふじむら なおき)
1971年2月8日生まれの有名人 神奈川出身

藤村 直己(ふじむら なおき、1971年2月8日 - )は、広島テレビ(HTV)のエンターテインメントパーソナリティ。 神奈川県横浜市出身(厳密には出生は熊本県、育ちは兵庫県、実家は神奈川県にある…

松本 有希子(まつもと ゆきこ)
1986年2月8日生まれの有名人 神奈川出身

2月8日生まれwiki情報なし(2024/06/09 05:28時点)

春口 まさ子(はるぐち まさこ)
1962年2月8日生まれの有名人 神奈川出身

春口 雅子(はるぐち まさこ、1964年3月23日 - 2006年6月24日)は、日本の童謡歌手。宮崎県小林市出身。血液型はA型。 1964年3月23日、宮崎県小林市生まれ。 1985年4月、…

鈴木 光明(すずき みつあき)
1936年2月8日生まれの有名人 神奈川出身

鈴木 光明(すずき みつあき、1936年2月8日 - 2004年11月14日)は、神奈川県横浜市出身の漫画家。 6人兄弟の三男として出生。中学生の頃より漫画家を志す。中学卒業後に職を転々としながら…


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


柴田勲と近い名前の人

柴田 勲_(政治家)(しばた いさお)
1928年3月8日生まれの有名人 愛媛出身

3月8日生まれwiki情報なし(2024/06/16 17:05時点)

柴田 一郎(しばた いちろう)
1968年9月2日生まれの有名人 東京出身

柴田 一郎(しばた いちろう、1968年9月2日)は、日本のドラマー、ミュージシャンである。元ロックバンド・かかし、ゆらゆら帝国のドラマー。また、電子音楽家いちろうでもある。 かかしのメンバーとし…

柴田 理恵(しばた りえ)
1959年1月14日生まれの有名人 富山出身

柴田 理恵(しばた りえ、1959年〈昭和34年〉1月14日 - )は、日本の女優、お笑いタレント。 1959年1月14日、富山県婦負郡八尾町生まれ。鉄道会社に勤務する父と小学校教員の母のもとに1…

柴田 奈緒美(しばた なおみ)
1978年9月14日生まれの有名人 出身

柴田 奈緒美(しばた なおみ、1978年9月14日 - )は、日本の女性タレント、エッセイストである。埼玉県出身。 この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文と…

柴田 淳(しばた じゅん)
1976年11月19日生まれの有名人 東京出身

柴田 淳(しばた じゅん、1976年11月19日 - )は、日本の女性シンガーソングライター。積極的なインターネット活動から「ブログの歌姫」と呼ばれた。ラジオパーソナリティとしても知られる。愛称は「し…

柴田 阿弥(しばた あや)
【SKE48】
1993年4月1日生まれの有名人 愛知出身

柴田 阿弥(しばた あや、1993年〈平成5年〉4月1日 - )は、日本のキャスター、タレント。女性アイドルグループ・SKE48の元メンバー。愛知県出身。セント・フォース所属。 2010年9月30…

柴田 亜美(しばた あみ)
1967年5月24日生まれの有名人 長崎出身

柴田 亜美(しばた あみ、1967年5月24日 - )は、日本の女性漫画家・画家である。 1967年、長崎県生まれ。長崎大学教育学部附属小学校、長崎大学教育学部附属中学校、長崎県立長崎西高等学校、…

柴田 あさみ(しばた あさみ)
1979年4月3日生まれの有名人 埼玉出身

柴田 あさみ(しばた あさみ、1979年4月3日 - )は日本の元タレント、元グラビアアイドル。アバンギャルドに所属していた。 1998年 第3回『ミスヤングマガジン』グランプリ。1998年度のフ…

柴田 菜月(しばた なつき)
1986年1月4日生まれの有名人 愛知出身

柴田 菜月(しばた なつき、1986年1月4日 - )は、愛知県出身の女性モデル、元レースクイーン。愛称は、Natsu(ナツ)。 1986年1月4日:愛知県にて3人姉妹の次女(姉と妹がいる)として…

柴田 美保子(しばた みほこ)
1948年5月31日生まれの有名人 大阪出身

柴田 美保子(しばた みほこ、1948年5月31日 - )は、日本の女優。本名、市川 美保子、旧姓名、芸名と同じ。別名義、柴田 未保子、柴田 三保子。夫は脚本家の市川森一。 大阪府大阪市出身。金蘭短…

柴田 時江(しばた ときえ)
1969年4月19日生まれの有名人 東京出身

柴田 時江(しばた ときえ、1969年4月19日 - )は、東京都出身の女優。 10代の頃にアイドル女優としてデビュー。初期の頃はオーソドックスな清純派アイドル女優だったが、90年代の半ばから二時間…

柴田 優子(しばた ゆうこ)
2002年3月8日生まれの有名人 東京出身

3月8日生まれwiki情報なし(2024/06/09 16:10時点)

柴田 倫世(しばた ともよ)
1974年12月23日生まれの有名人 福岡出身

柴田 倫世(しばた ともよ、1974年12月23日 - )は、日本のフリーアナウンサー、タレント。元日本テレビアナウンサー。戸籍名松坂 倫世。夫は元プロ野球選手の松坂大輔。 福岡県筑紫野市出身。1…

柴田 奈津子(しばた なつこ)
1983年12月20日生まれの有名人 愛媛出身

柴田 奈津子(しばた なつこ、1983年12月20日 - )は、岡山・東京で活躍していたアナウンサー。元岡山放送(OHK)および元セント・フォース所属。 愛媛県松山市出身。愛媛県立松山南高等学校、…

柴田 秀一(しばた しゅういち)
1957年9月2日生まれの有名人 神奈川出身

柴田 秀一(しばた しゅういち、1957年9月2日 - )は、日本のアナウンサーである。 神奈川県川崎市出身。神奈川県立川崎高等学校を経て日本大学法学部政治経済学科を卒業後、1981年4月にTBS(…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
柴田勲
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)

グループ

BMK_(音楽グループ) STA*M MAZZEL 10神ACTOR 原因は自分にある。 M!LK SOLIDEMO BOYS AND MEN 祭nine. IMP. 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「柴田勲」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました