新美敏の情報(にいみさとし) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
新美 敏さんについて調べます
■名前・氏名 |
新美敏と関係のある人
鈴木葉留彦: 初本塁打:1976年8月11日、対日本ハムファイターズ後期3回戦(明治神宮野球場)、8回表に新美敏から決勝ソロ 渡辺進: 夏の甲子園に出場し、高知商を破って2回戦に進出するが、この大会に準優勝したPL学園の新美敏に完封負け。 池谷公二郎: これは、同じく日本楽器のエース新美敏が東映フライヤーズ(東映は翌1973年から日拓に変更)に入団するため、主力投手が二人抜ける事態になる会社側から待ったがかかったため。 小林国男: 交渉権を保留したまま臨んだ1972年の都市対抗では2勝をあげ準決勝に進出するが、優勝した日本楽器のエース新美敏に抑えられ敗退。 内田順三: 1977年は、鵜飼克雄、皆川康夫、新美敏と共に、佐伯和司、宮本幸信、久保俊巳との4対3の交換トレードで広島東洋カープへ移籍した。 佐伯和司: 1977年新美敏・皆川康夫・鵜飼克雄・内田順三との交換トレードで宮本幸信・久保俊巳と共に日本ハムファイターズへ移籍(この時広島ファンは初優勝にも貢献した地元出身のドラフト1位選手を放出したことに激怒し、抗議集会を開いたというエピソードがある)。 小川清一: しかし準々決勝ではPL学園(大阪)の新美敏、田代克業(中大-本田技研)両投手の継投・好投に屈し、0-7で完封負けを喫した。 西田真二: 初安打:1983年5月10日、対読売ジャイアンツ3回戦(広島市民球場)、5回裏に新美敏の代打、江川卓から単打 有田修三: 初本塁打:1974年6月6日、対日本ハムファイターズ前期13回戦(日生球場)、3回裏に新美敏から 原田治明: 決勝では日本楽器のエース新美敏から2安打を放つが、完封を喫し準優勝にとどまる。 原伸次: 初打点:1984年9月20日、対阪神タイガース26回戦(広島市民球場)、3回裏に新美敏の代打として出場、工藤一彦から適時打 榊原良行: 同年の都市対抗では新美敏、池谷公二郎の好投もあって勝ち進み、決勝で三菱自動車川崎を降し初優勝を飾る。 大塚徹: 南海 1973年8月7日 対日拓後期1回戦(大阪)9回2死 投手:新美敏 井上圭一: チームは決勝まで進出するが、日本楽器の新美敏に完封を喫し、準優勝にとどまる。 宮本幸信: その後、1977年に新美敏・皆川康夫・鵜飼克雄・内田順三との交換トレードで佐伯和司・久保俊巳と共に日本ハムファイターズへ移籍。 皆川康夫: 1977年に鵜飼克雄、新美敏、内田順三と共に、佐伯和司、宮本幸信、久保俊巳との4対3の交換トレードで広島東洋カープへ移籍。 神垣雅行: 同年夏の甲子園府予選でも決勝に進出するが、PL学園の新美敏投手に抑えられ敗退。 辻哲也: 1972年の都市対抗では左翼手、四番打者として起用され、新美敏、池谷公二郎両投手を擁し勝ち進む。 山田久志: 1975年の阪急は、豪速球で知られた新人の山口高志の活躍で悲願の日本シリーズ優勝を果たしたが、山田は12勝にとどまり、被本塁打36・自責点95はリーグ最多、防御率4.32はリーグ最下位から2番目(最下位は新美敏の5.44)と、満足のいくものではなかった。 新井宏昌: 新美敏、田代克業(中大-本田技研)両投手の好投もあり、PLにとって春夏通じて初の甲子園決勝に進出する。 大北敏博: しかし準決勝でPL学園の新美敏投手と投げ合い5-16で敗退した。 久保俊巳: 1976年オフに新美敏・内田順三・鵜飼克雄・皆川康夫との交換トレードで、佐伯和司・宮本幸信と共に、日本ハムファイターズへ移籍。 才田修: 同年夏の甲子園府予選でも決勝に進出するが、PL学園の新美敏投手に抑えられ敗退。 鈴木葉留彦: 8月11日の日本ハム戦(神宮)で新美敏から初ソロ本塁打を放つが、この時の試合は、4回表に大田卓司の2ラン本塁打で先制、しかし7回裏に加藤俊夫の2ラン本塁打で同点に追いつかれたが、8回表に鈴木治が右翼へのソロ本塁打で勝ち越す。 ティム=アイルランド: 初打点:1983年5月26日、対読売ジャイアンツ戦(広島市民球場)、7回に新美敏の代打で出場、定岡正二から適時打 山根俊英: アトムズ時代は松岡弘・安木祥二、東映→日拓時代は山崎武昭・三浦政基・新美敏、大洋時代は遠藤一彦・野村弘樹を育てた。 鵜飼克雄: その後、佐伯和司・久保俊巳らとの交換トレードにより、皆川康夫・新美敏・内田順三と共に1977年より広島東洋カープに移籍。 |
新美敏の情報まとめ
新美 敏(にいみ さとし)さんの誕生日は1952年8月2日です。熊本出身の野球選手のようです。
卒業、引退、家族、現在に関する情報もありますね。新美敏の現在の年齢は72歳のようです。
新美敏のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 新美 敏(にいみ さとし、1952年8月2日 - )は、熊本県宇土市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。 PL学園高校では3年次の1970年、エース投手・5番打者として夏の甲子園に出場。田代克業(中大-本田技研)との二本柱で勝ち進み、決勝に進出するが東海大相模に敗れ準優勝に終わる。同年秋の岩手国体では、決勝で大分商の小川清一に投げ勝ち優勝。PL学園では同期の新井宏昌、1学年下の行澤久隆がチームメイトであった。 高校卒業後、1971年に日本楽器へ入社。1972年の都市対抗では池谷公二郎との二本柱で勝ち進む。決勝では三菱自動車川崎の池田善吾と投げ合い完封勝ち、初優勝を飾る。この大会では3回戦で三菱名古屋から大会史上3人目の毎回奪三振を記録するなど大きな注目を浴び、橋戸賞を受賞。同年の第20回アマチュア野球世界選手権日本代表、社会人ベストナインに選出される。この時の打線の主軸は榊原良行、小田義人(大昭和製紙から補強)、船見信幸であった。 同年のドラフト1位で日拓ホームフライヤーズに入団。 1973年は多摩川で開始したバッテリー組の自主トレーニングに参加し、ランニングやダッシュの他に、首脳陣の前で初めてボールを投げてみせた。田宮謙次郎監督はキャッチボールをする新美を見て「ゆったり大きなフォームをしている。いいね」と顔がほころび、大器であると確信したという。身長172cmとプロ野球選手としては小柄な新美に「もうちょっと背が欲しいんじゃないか?」と田宮監督は問いかけたが、新美は笑みを浮かべながらもきっぱりと「このままでいいです。小さいのが、大きい人を牛耳ったら気持ちいいじゃないですか」と言った。田宮は負けん気の強さが出るところに「すぐ使えるかもしれない」と手応えを十分感じたが、オープン戦では結果が出なかった。最大の武器であるシュートをあまり投げなかったこともオープン戦が好結果ではなかった要因だったが、新美には「今見せたら、他球団に研究される。シュート解禁はペナントレースに入ってから」という計算があった。田宮に見限られない程度に抑えて一軍入りし、4月17日に行われた開幕2戦目のロッテ戦(後楽園)で初登板初完封勝利を挙げた。内外角のコーナーに投げ分ける制球の良さに加え、ここ一番でウイニングショットが光った。4回、ロッテの1番弘田澄男に右中間へ三塁打を打たれたが、2番ジム・ラフィーバーから4番有藤道世の主軸を凡フライに打ち取り、この3人を仕留めたボールこそ、この日のためにしまっておいたシュートであり、その回の裏に野村収から自ら先制適時打を放った新美はそのまま投げ切り、117球6安打3三振1四球で完封勝利を飾る。新人投手の初登板初完封は当時プロ野球史上10人目の快挙であり、日拓の記念すべき公式戦初勝利をもたらした新美はその後も勝利を重ね、チーム最終戦となった10月16日のロッテ戦(草薙)でも勝ち投手になり、最後も締めた。前後期で6勝ずつをマークしての計12勝は高橋直樹と並ぶチーム最多勝であり、先発・リリーフと獅子奮迅の活躍で54試合に登板したのもチーム最多であった。投球イニング数もチーム最多である222回3/1を投げ、後期に日拓が3位に入る原動力となった新美はパ・リーグの新人王を獲得。その直後に日拓はチームを日本ハムに譲渡。 1974年も12勝を挙げ、オールスター初出場を果たす。しかしこの年、ある日の阪急戦で福本豊に四球を与え、二盗、三盗、犠飛で失点。その後に球団の重役から「八百長やってんのか」と言われ、気持ちと共に成績も落ち込んだという。 1976年は先発で2度KOされた後はリリーフ起用が主となり、チーム状況からビハインド時の登板が多く活躍も限られた。そのために2勝と勝ち星は少なくなってしまい、抑える試合もある反面打たれる試合も多く不完全燃焼な1年であった。同年秋にはトレードの噂が飛び交い、スポーツ新聞には「巨人の柴田勲と交換」と書かれた。新美は中ぶらりんな心境でオフを過ごしていたが、まだ婚約者であった妻の実家で電話が鳴った。相手は広島の古葉竹識監督であり、トレード移籍が決まった知らせであった。新美は「嘘でしょ。どうして居場所が分かったの。カープが地元のスターである佐伯を出すはずがない」と戸惑うばかりであったが、同郷の先輩である古葉は「いいから来い」とだけ言った。 1977年に鵜飼克雄・皆川康夫・内田順三と共に、佐伯和司・宮本幸信・久保俊巳との4対3の交換トレードで広島東洋カープへ移籍。先発投手として期待された同年は3月6日に古巣・日本ハムとのオープン戦(鳴門)に先発し、トレード相手の佐伯と投げ合った。新美は5回、佐伯は3回を共に無失点に抑え、お互いに古巣へ意地を示した。しかし開幕後は調子が下降し、3勝7敗、防御率は6点台に沈む。ここから二軍暮らしが長く続き、登板機会が段々と減り引退間近と思われたが、30歳手前で若手と一緒にアメリカの教育リーグに参加。 1983年からは中継ぎに活路を見出し、同年は29試合に登板、5年ぶりの勝星も挙げた。 1984年も16試合に登板して4年ぶりのリーグ優勝に貢献し、阪急との日本シリーズにも登板。 1987年に現役を引退。 引退後は広島で一軍投手コーチ(1988年)→二軍投手コーチ(1989年 - 1991年)、古巣・日本ハムで一軍投手コーチ(1992年 - 1994年)を務めた。日本ハムコーチ就任直後、広島でくすぶっていた金石昭人(PL学園の8年後輩)の獲得を新監督の土橋正幸(新美の入団1年目後期にも監督を務めた)に進言したことがある。そして津野浩とのトレードで日本ハムに移籍した金石は復活を遂げ主力投手として活躍し、新美の投手を見る眼の確かさが証明された。週刊ベースボールのインタビューに応じた際には、自らの選手生活などについて振り返っている。 日本ハム退団後は山梨県のゴルフ場「オリムピックカントリークラブ」勤務を経て、クラブチーム「WIEN'94」監督(2010年 - 2013年)を務めた。 2015年からはエスプライド鉄腕監督に就任し、家族的な雰囲気づくりに力を入れている。2021年には都市対抗東京都2次予選敗者復活1回戦で、PL学園出身で広島OBの後輩・西田真二監督率いるセガサミーと対戦。仕事で来られない選手もいてフルメンバーではなかったエスプライドが2-0で競り負けたが、カープでチームメートであった新美と西田は試合後に本塁を挟んでグータッチをした。現在は神奈川県川崎市在住。 1972年のドラフト会議の時にはニカラグアでのアマチュア野球世界選手権に出場しており、日拓ホームへの売却前であった東映から指名を受けたことを現地で聞き「一番希望していた球団ではなかった」と発言したが、日本では「『一番きらいなチームに指名された』と入団拒否」と報道されたため、岡田茂社長から絶対獲得を命じられた球団代表と田宮が羽田空港に迎えに来て誠意を見せた。 二軍暮らしが長く続いた頃、札幌遠征に行けない時に広島市民球場のロッカーに段ボール箱一杯のジャガイモが置いてあった。球団からのお裾分けで、気にかけてもらって、嬉しくなった新美は今でも「カープで一番の思い出」と振り返っている。 広島に移籍したばかりの1977年2月、日南春季キャンプの休日、パチンコ店で松田耕平オーナーが「調子はどうだ」と新美の隣に座り、一緒に話をしたことも思い出に残っていると語る。 各年度の太字はリーグ最高 日拓(日拓ホームフライヤーズ)は、1974年(昭和49年)に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更 新人王 (1973年) 初登板・初先発登板・初勝利・初先発勝利・初完投・初完封:1973年4月17日、対ロッテオリオンズ前期1回戦(後楽園球場) ※新人の初登板初完封はプロ野球史上10人目 初安打・初打点:同上、4回裏に野村収から適時単打 オールスターゲーム出場:1回(1974年) 16 (1973年 - 1976年) 19 (1977年 - 1987年) 82 (1988年 - 1991年) 73 (1992年 - 1994年) ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年 ^ 日めくりプロ野球10年1月【1月25日】1973年(昭48)最初で最後のドラ1新美敏「小さいのは気にならない」 ^ 【カープ70周年 70人の証言】<28>1977年 新美敏さん ^ 1976年新美敏、全登板成績【不完全燃焼な1年】 クラシックSTATS鑑賞 ^ 【きょうは何の日】1977年3月6日 | 広島東洋カープ | 中国新聞デジタル ^ オリムピックカントリークラブ|公式サイト(山梨県のゴルフ場) ^ 日外アソシエーツ「スポーツ人名事典 新訂第3版」、2002年1月1日、ISBN 4816917012、p473。 ^ 『PL&カープOB対決』西田監督率いるセガサミーに軍配「うれしい巡り合わせ」【都市対抗・東京都2次予選】 ^ “新美敏の問題発言が東映をやる気にさせた?/週べ回顧1972年編 | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE. 2021年6月3日閲覧。 熊本県出身の人物一覧 北海道日本ハムファイターズの選手一覧 広島東洋カープの選手一覧 個人年度別成績 新美敏 - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan) 表 話 編 歴 1950 荒巻淳 1951 蔭山和夫 1952 中西太 1953 豊田泰光 1954 宅和本司 1955 榎本喜八 1956 稲尾和久 1957 木村保 1958 杉浦忠 1959 張本勲 1961 徳久利明 1962 尾崎行雄 1965 池永正明 1967 高橋善正 1969 有藤通世 1970 佐藤道郎 1971 皆川康夫 1972 加藤初 1973 新美敏 1974 三井雅晴 1975 山口高志 1976 藤田学 1977 佐藤義則 1978 村上之宏 1979 松沼博久 1980 木田勇 1981 石毛宏典 1982 大石大二郎 1983 二村忠美 1984 藤田浩雅 1985 熊野輝光 1986 清原和博 1987 阿波野秀幸 1988 森山良二 1989 酒井勉 1990 野茂英雄 1991 長谷川滋利 1992 高村祐 1993 杉山賢人 1994 渡辺秀一 1995 平井正史 1996 金子誠 1997 小坂誠 1998 小関竜也 1999 松坂大輔 2001 大久保勝信 2002 正田樹 2003 和田毅 2004 三瀬幸司 2005 久保康友 2006 八木智哉 2007 田中将大 2008 小松聖 2009 攝津正 2010 榊原諒 2011 牧田和久 2012 益田直也 2013 則本昂大 2014 石川歩 2015 有原航平 2016 高梨裕稔 2017 源田壮亮 2018 田中和基 2019 高橋礼 2020 平良海馬 2021 宮城大弥 2022 水上由伸 2023 山下舜平大 表 話 編 歴 1位:新美敏 2位:三浦政基 3位:相本和則 4位:江田幸一 5位:池田善吾(入団拒否) 6位:新屋晃 日本の野球選手 PL学園高等学校出身の野球選手 ヤマハ硬式野球部及びその前身チームの選手 北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手 広島東洋カープ及び広島カープの選手 橋戸賞 パシフィック・リーグ最優秀新人 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球監督 社会人野球指導者 熊本県出身のスポーツ選手 1952年生 存命人物 ISBNマジックリンクを使用しているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/19 23:49更新
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niimi satoshi
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