新井宏昌の情報(あらいひろまさ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]


新井 宏昌さんについて調べます
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新井宏昌と関係のある人
金城基泰: 同い年の同胞で本来法大野球部でチームメイトになるはずだった新井宏昌と仲が良く、後に読売ジャイアンツ(巨人)へトレード移籍する際にも彼に相談したという。 門田博光: これからは全打席ホームランを狙う」 と長打狙いのバッティングに徹し、同年6月25日の対日本ハムファイターズ戦(大阪スタヂアム)では1点を追う9回一死一、二塁の場面で新井宏昌に代えて桜井輝秀を送ると、日本ハムは木田勇から杉山知隆に投手交代。 安部憲幸: 9回表2死2塁で、近鉄の新井宏昌が三塁線へ放った痛烈なゴロをロッテの三塁手・水上善雄が好捕したところ、「止める!水上!This is プロ野球!まさに、打ちも打ったり新井!よく止めた水上!白熱のゲームが、好プレーを演出!」と絶叫した。 和田豊: この年のシーズン147本単打は、1988年に新井宏昌が記録した144本を上回ったが、オリックスのイチローが151本を記録した為、このシーズン終了時点ではセ・リーグ新記録と日本プロ野球歴代2位(右打者としては1位)となった(セ・リーグ記録としては2003年に赤星憲広が並び、2004年が荒木雅博が更新)。 村上隆行: 1988年は主に相手先発が左投手の時に中堅手として起用され、新井宏昌、鈴木貴久、ラルフ・ブライアントら層の厚い外野陣にあって出場試合数は4年ぶりに100試合を切ったが、長打率.513はチームの日本人選手の中でトップの値だった。 中西太: 新井宏昌は「打撃の師。 新美敏: PL学園では同期の新井宏昌、1学年下の行澤久隆がチームメイトであった。 柳原隆弘: 1986年には新井宏昌、淡口憲治が移籍してきたこともあり、段々と出場機会が減る。 今井雄太郎: 今井は2019年の新井宏昌との対談で、元は監督の上田利治がコーチ会議で「飲むと陽気になってノビノビしている。 藤井康雄: 1998年は打撃コーチの新井宏昌の助言でバットを950グラムから約920グラムに軽量化して重心も先よりにしたところ、ヘッドスピードが速くなったという。 小島善博: 初奪三振:同上、8回表に新井宏昌から 宮本慎也: また、2000安打到達時点での通算本塁打数59本も新井宏昌の86本を下回る最少記録となった。 水上善雄: 1988年、「10.19」として語り継がれている、10月19日のロッテ対近鉄バファローズ26回戦(ダブルヘッダー第2試合)では、途中から三塁の守備に入り、新井宏昌の三塁線を襲った強烈な打球をダイビングキャッチで捕球し、近鉄の勝ち越しを阻止したことが近鉄監督仰木彬の著書でも言及されている。 落合博満: 41歳4か月での通算2000安打達成は、新井宏昌の40歳2か月を抜き、当時の史上最年長記録となった(その後、2012年5月に宮本慎也が41歳5か月で更新)。 加藤英司: 1979年に登録名を加藤 英司に変更するが、同年は腰痛に苦しみながらPL学園高の後輩・新井宏昌との首位打者争いを制し、打率.364で2度目の首位打者、104打点で3度目の打点王の二冠を獲得。 本多雄一: またこれにより新井宏昌打撃コーチの持つ球団タイ記録の8打数連続安打に並んだ。 鈴木誠也: 1日限定の参加だったにもかかわらず、オリックス・ブルーウェーブ時代のイチローを指導していた一軍打撃コーチの新井宏昌や一軍監督の野村謙二郎から高い評価を受けた。 パンチ佐藤: 同年11月3日開催のパ・リーグオールスター東西対抗(静岡県草薙総合運動場硬式野球場)では、指名打者の新井宏昌の代打として出場し6回裏に2点本塁打を記録、MVPを受賞している。 ドン=ブレイザー: 打線も好調で門田博光、ジム・タイロン、新井宏昌、藤原満が3割、門田が月間16本塁打を樹立し、初の本塁王も獲得したが、前期5位、後期6位(年間5位)と低迷した。 ダグ=ジェニングス: 1995年開幕当初は不調だったが、新井宏昌打撃コーチと中西太ヘッドコーチの指導で変化球に対応できるようになると7月に打率.393と成績を伸ばし、12本塁打のトロイ・ニールを抑え月間MVPを獲得。 本多雄一: 2006年秋には新井宏昌一軍打撃コーチ、秋山幸二一軍総合コーチから打席で無駄な動きをなくすシンプルなスタイルに変えるよう徹底指導を受けた。 加藤秀司: 1979年に登録名を加藤 英司に変更するが、同年は腰痛に苦しみながらPL学園高の後輩・新井宏昌との首位打者争いを制し、打率.364で2度目の首位打者、104打点で3度目の打点王の二冠を獲得。 パンチ佐藤: 1994年4月7日、新監督の仰木彬及び打撃コーチに新任した新井宏昌との共同発案で鈴木一朗と共に新しい登録名「パンチ」に変更。 野村沙知代: 新井宏昌は「沙知代さんの行動には疑問を抱えていた。 内匠政博: 背番号はPLの先輩・新井宏昌が着けていた「9」を受け継ぎ、即戦力ルーキーとして期待された。 阿部真宏: 2005年は仰木彬監督にレギュラーの座を与えられ、大学の先輩でもある新井宏昌一軍チーフ兼打撃コーチの指導もあって規定打席不足ながら打率.281を記録。 中根仁: 1990年のキャンプでは新井宏昌に師事してバント練習に励み、オープン戦では三塁手にも挑戦するなど出場機会を増やすため努力を重ねた。 王貞治: 打撃コーチに新井宏昌を招聘した。 元田昌義: 二軍時代の定岡智秋、河埜敬幸、久保寺雄二、新井宏昌をみっちり鍛えた。 イチロー: 名付け親は新井宏昌とされている。打法も同年から新しく一軍打撃コーチとなった新井宏昌に理解され、レギュラーとして活躍。 |
新井宏昌の情報まとめ

新井 宏昌(あらい ひろまさ)さんの誕生日は1952年4月26日です。大阪出身の野球選手のようです。

引退、結婚、卒業、現在、病気、テレビに関する情報もありますね。去年の情報もありました。新井宏昌の現在の年齢は72歳のようです。
新井宏昌のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 新井 宏昌(あらい ひろまさ、1952年4月26日 - )は、日本の元プロ野球選手(外野手、一塁手)、プロ野球コーチ・監督、日本プロ野球名球会会員、野球解説者。大阪府大阪市東成区出身。 現役時代は南海ホークスや近鉄バファローズで活躍。巧みなバットコントロールによる状況に応じたシュアなバッティングが特徴で、2000安打に加え300犠打をマークするなどチームプレーにおいて欠かせない存在感を示し、65本の三塁打と165盗塁を記録した俊足でもあった。1992年に40歳で現役を引退してからは、野球解説者・野球評論家としての活動をはさみながら、複数の球団でコーチや二軍監督を務めている。 長女は2011年度ミス日本でミス着物に選ばれた新井寿枝(画家・ファッションモデル)、三女は2012年度ミス日本グランプリの新井貴子(名前の読みは『きこ』、モデル、アルティメット選手) である。 2022年1月、三女の貴子がラグビー選手の稲垣啓太と結婚した。 中学2年の頃、甲子園出場、東京六大学進学の目標を抱きPL学園高校に入学。1年夏から背番号をもらってベンチ入りし、2年は二塁手としてレギュラー、野球部主将となり、3年で中堅手、三番打者として活躍する。同級生の間でも「新井の練習嫌い」は有名でPL学園では珍しいタイプの選手だった。1970年夏の甲子園府予選決勝で、才田修、神垣雅行を打の主軸とする北陽高に大勝し、第52回全国高等学校野球選手権大会に出場。新美敏、田代克業(中大-本田技研)両投手の好投もあり、PLにとって春夏通じて初の甲子園決勝に進出する。決勝は東海大相模高との乱打戦となり、6-10で敗退し準優勝にとどまった。大会第5号本塁打を放ち、一大会12安打の大会記録(当時)も樹立している。同年秋の岩手国体では、決勝で大分商を降し優勝。他のチームメートに1年下の行澤久隆がいた。卒業後は早稲田大学進学を目指していたが、当時の早稲田は推薦制度がなく断念。プロ野球ドラフト会議では近鉄バファローズから9位指名を受けたが、「スカウトマンが挨拶に来た記憶が全くない」という状況でプロ入りを見送り、スポーツ推薦で法政大学経営学部に進学した。法大時代史上初めて寮に勉強机を持ち込んで文武両道に励んだ。 東京六大学野球リーグでは在学中2度の優勝を経験、2年生からレギュラーとなる。2年上に長崎慶一、伊達泰司がおり、彼等の卒業後には外野手の中心として活躍。最上級生となった1974年に、1年生エース江川卓を擁し、秋季リーグで3年ぶりに優勝。同年の第5回明治神宮野球大会では決勝で中大の田村政雄に完封を喫し準優勝にとどまる。ベストナイン(外野手)受賞1回。1974年の第3回日米大学野球選手権大会日本代表に選出されている。リーグ通算290打数79安打、打率.272、8本塁打を記録。大学同期に捕手の高浦美佐緒、内野手の道吉哲夫(三協精機)らがいる。 当初は小柄で線も細くプロ野球各球団のスカウトにマークされる選手ではなく、卒業後は1年先輩の山本功児が進んだ本田技研鈴鹿に行く予定であったが、当時南海の選手兼任監督であった野村克也が日米大学野球の新井のプレーに目が留まり、ドラフト前のスカウト会議「新井という選手は際どいボールをしれっと見逃す。見逃し方に雰囲気がある。」、「そして日米大学野球で対戦する外国人投手に対して、バタバタしてないところがええ」と語り、スカウトにとっては意外な名前だったようで「足は遅いけど、肩はいい」としか言えなかったと聞いたと新井は述べている。1974年のドラフトで南海ホークスから2位指名を受け入団した。契約金は1500万、月給が17万だったから年俸は200万、背番号は「6」。兄が「ここまで2番目が多かった野球人生だ。PL学園でも準優勝。ドラフトでも2位指名。兄としては1番になってほしい。改名してはどうだ。」と言われ、「鐘律(かねのり)」から「宏昌」に改名した。 1975年は、7月から一番打者として起用され45試合に先発出場。 1976年には開幕から二番打者、中堅手として起用され、規定打席(15位、打率.271)にも到達した。外野守備にも優れ、同年は10補殺を記録している。 1979年に法政時代に入団時からお世話になった若生正廣が当時用具メーカーの美津和タイガーの社員で担当している大洋の選手が短いバットを使っている話から「それなら今のバットのグリップを半分に削ったらいい」と提案された。工場で33インチのバットを作ってみると同じバットなので違和感ないし先に重みのあるバットになったことで外野の間を抜くような強い打球が打てるようになった。バットでこれだけ変わるのかというのは発見だった。打率.358で加藤英司に次ぐパシフィック・リーグ打率2位を記録、ベストナインに初めて選出される。新井は「他の要素ももちろんあるがバットを替えたことで1割数字が上がる。これが打撃の世界だ。」と述べている。 1981年に打率.300(11位)をマーク。 1982年には打率.315(落合博満に次ぐ2位)を記録し、リーグを代表する巧打者として知られた。 1985年のオフ、球団から「外野では4番手だ。しかし他球団から欲しいという話がきている。」と言われ、「それなら環境を変えたい。トレードをお願いします。」と申し入れた。33歳で結婚したばかりで新築のローンもあり、巨人などからも話があったと聞いたが「希望は引っ越さなくていいところ」の要望を聞いてもらえた。「金銭トレードではまずい、交換トレードで」との南海側の希望から、山口哲治プラス金銭との交換で近鉄に移籍。シーズン中投手コーチの河村英文から「近鉄の仰木さんが欲しがっているみたいだ」と話を聞いたことがあった(河村と仰木は西鉄時代から旧知の間柄)。 門田博光の影響で、体のひねりでボールを飛ばす事を意識してから、自分のスイングを見失っていた時期だった。中西太打撃コーチが「それは間違い。自分から力を出すとするのではなく相手の球の力を利用しなさい。」だった。33歳、ここでダメなら終わりとアドバイスをすんなり受け入れられた。マンツーマンでのティー打撃で最短距離でバットをボールにぶつける感覚を磨いた。それまで力で打とうとしてミスショットを繰り返してきた。「外角球は引っ張りこむのでは無くコースなりに逆方向に打ち返せ。へそまで呼び込め。」とチェックされる声で何度も聞いた。ボールの見方も修正、クローズになっていた右足をオープン気味に変更、遊撃方向にあった目線を二塁方向にしたことでバットの軌道も自然とインサイドアウトに変わった。2番として必要なバントは南海のブレイザー式の一塁に動きながらのバントを「それではファウルが増える。バントしてから走る。それでOK」と中西の指示で変えた。新井は「取り組んだことが結果につながる。バントの確実性も上がった。打者に合ったスタイルを見つける中西さんの教えを受けたことは、その後の指導者人生にもプラスになった。」と述べている。大石大二郎と1、2番コンビを組み、チームの得点源で大石、新井にサインに出たことはなく、動くはどうかは2人で決めていた。 1986年は全130試合に出場し、打率.288、34歳でプロ入り初の二桁本塁打の12本塁打をマーク、4年ぶりのベストナインを受賞した。 1987年も中西流のバットは好調をキープ、6月23日の西武戦(藤井寺)では工藤公康からサヨナラ本塁打を放った。打率.366・安打数184本を記録し、初の首位打者を獲得。この安打数は当時シーズン130試合制でのプロ野球最多記録であり、現在でも130試合以下のチームの選手としては、1994年のイチロー(210安打)・1996年のイチロー(193安打)に次ぐ歴代3位である。また、2004年にプロ野球再編問題で消滅した近鉄のシーズン最多安打記録だった。同年はベストナインに加え、ゴールデングラブ賞を初受賞。 1988年には一塁手も兼ねて活躍。その後も毎年安定した成績を残す。 1989年にはプロ野球人生で初めての優勝(選手として最初で最後の優勝)。巨人との1989年の日本シリーズでは同点で迎えた7回斉藤雅樹から決勝タイムリーを打って、シリーズ通算23打数9安打、打率.391で敢闘賞を受賞した。また、南海時代は一度も経験しなかったオールスターゲームにも3年連続出場を果たしている。 1991年シーズン開幕直前に帰化。規定打席不足で103安打で打率.309。結果的に最後となる2年ぶり4度目の(過去3回同様の監督推薦で)オールスターゲームでは、広島市民球場で初回先頭打者として佐々岡真司からヒットを放ち、4回にも野村弘樹からライトスタンドにホームランを放った。 1992年、4月5日のダイエーとのシーズン開幕戦では2安打とスタート。40歳のシーズンで年齢を感じていた、バットのヘッドバランスが重たく感じ初め、球に遅れたり、バットコントロールが思うようにできない打席が増えてきた。初めて味わった腰痛の影響もあり、思うように飛ばない打球に不満を抱くことが多かった。キャンプから2000安打達成に向けたドキュメント番組のカメラが回ったり、雰囲気があった。大台まで10本としてから王手をかけるまで1か月以上かかった。初めて経験する打撃不振は精神的につらかった。7月5日のロッテ戦(千葉マリンスタジアム)で2安打を放ち、1999本、大手をかけた。仰木彬監督が「最後は藤井寺で決めよう」と交代を告げた。7月8日の対オリックス・ブルーウェーブ戦(藤井寺)で伊藤敦規から右中間三塁打を放ち通算2000安打を達成、名球会入りを果たした。大卒選手としては5人目、40代では初の2000安打だった。同年、球団から「来季は選手として契約しない」と伝えられた。通告されたら仕方ない、やり切った思いもあり、40歳で現役を引退。最終戦の10月13日の日本ハム戦(藤井寺)で退陣する仰木監督と一緒に胴上げされた。なお、通算本塁打は88本で、100本塁打未達は2000安打達成者で初めてのケースとなった。2022年時点では数少ない40歳以上での2000安打達成でもある。近鉄からコーチの打診があったが引退してすぐ指導する側に立つ立場は難しいという理由で断った。 1993年に毎日放送(MBS)野球解説者・スポーツニッポン野球評論家を務めた。毎日放送では板東英二とスポーツ番組を担当した。 1993年、日本シリーズで訪れていた西武球場で同じ評論活動をしていた仰木に「来年からオリックスの監督をすることになった。一緒にやるぞ。」と有無を言わせない感じで新井もすぐ気持ちを決めた。近鉄からも打診があったが途中で立ち消えになっていて支障はなかった。1994年、オリックス・ブルーウェーブの一軍打撃コーチに就任。同年から「佐藤和弘」や「鈴木一朗」の登録名を「パンチ」・「イチロー」と変更するように考案したのは、新井であるという。これによりイチローの名付け親とされている。新井によれば1994年の宮古島キャンプでイチローの成長に手応えを感じたところ仰木に「鈴木一朗ではなくイチローでいきましょう。絶対有名になる選手球場アナウンスもイチロースズキになってるじゃないですか」、近鉄には鈴木貴久、西武には鈴木健、日本ハムにも鈴木慶裕らがいて、新聞でも「鈴木」だけだと分からない。打撃30傑でもすぐ分かるのは「イチロー」だと」考えたと述べている。動きの大きなフォームに対して、相手が緩急で攻めてくることを予想し、右足の強化にキャンプは取り込んだ。新井は「動いている状態から打ちにいくのでバットが出やすい」と長所を認め、矯正は一切しなかった。イチローは69試合連続出塁の日本記録を作り、最終的にシーズン210安打という大記録を作り、史上最年少のMVPを受賞、ベストナイン、最高出塁率、ゴールデングラブ賞、最多安打のタイトルを受賞した。1995年はリーグ優勝を果たす。1996年は2連覇、日本一になった。新井は「振り返れば、そこが頂点だったチームは優勝に貢献した戦力から若返りを図ったが、強化は思うように進まない。一方でイチローの目はメジャーに向いていた。この流れはどうしようもなかった。試合ではイチローの前後に相性のいい選手を置いて、得点につなげることだけに集中していたが、その方法に不満を持っていた選手もいた。試合にはみんなが出たい。打線を動かして勝てばいいが、勝てなくなると雰囲気は悪くなる。強いチームを持続させるのは難しかった。」と述べている。その後は一軍総合コーチ、2000年から2年間二軍監督を務めたが、「独立採算を目指したサーバス神戸は1軍半と契約金なしで入団してきた若手のチームで人数的にも厳しく、鍛えて1軍に上げるシステムにも確立してなかった。」と振り返っている。2001年シーズン終了後、仰木の監督退陣が決まり、一緒にユニフォームを脱いだ。 2002年は日本放送協会(NHK)解説者・デイリースポーツ評論家を務めた。 2003年より王貞治監督の要請で2年間は福岡ダイエーホークスで一軍打撃コーチを務め、井口資仁、松中信彦、城島健司らが中軸で陣取り、100打点以上が4人のダイハード打線。村松有人、川﨑宗則を育て、柴原洋らを鍛えた。バットを叩きつけるスタイルを教えられていた村松には全く逆の「もっと振り上げろ」と指導し、2003年はNPBシーズン記録のチーム打率.297を記録し、チームも3年ぶりのリーグ優勝、4年ぶりの日本一になった。 2005年、近鉄と合併したオリックス・バファローズに4年ぶりに復帰して、同じく復帰した監督の仰木の下で一軍チーフ兼打撃コーチに就任し、ヘッドコーチ格として支えた。仰木は肺がんの為入退院を繰り返し、仰木から「オリックスの監督をまたやることになった。」と連絡があり、病気の事を知っていた新井は暗に手伝ってほしいという意味を受け取った。仰木は9月29日に退陣を発表し、12月15日に70歳でこの世を去った。2006年オフに成績不振の責任を取る形で辞任。 2007年から3年ぶりに福岡ソフトバンクホークスの一軍打撃コーチを務め、本多雄一を育て、2008年に解任される。 2009年はJ SPORTSのオリックス戦で野球解説者を務める。 2010年より4年ぶり3度目となるオリックスに復帰し、二軍監督を務める。2012年より打撃コーチ兼任となる。岡田彰布監督が休養決まると新井も秋に球団から契約を更新しないと通告された。宮﨑祐樹は新井から「何で言ってることできないの? 何でそんなこともできないの?」とめちゃめちゃ言われた記憶があります。」と述べている。 オリックスコーチ解任から約2週間後の2012年10月19日、松田元オーナーの要請で広島東洋カープの一軍打撃コーチに就任。球団では2001年から3シーズン1軍チーフ兼打撃コーチを務めた松原誠以来の外部招聘コーチとなる。伸び盛りの選手が多い広島の指導はやりがいがあった。丸佳浩・菊池涼介・松山竜平を育てた。丸は無駄な動きが多いことが気になり、強く遠くに飛ばしたいと気持ちが出過ぎてバットが円に描くような軌道になっていた。「シンプルに最短距離でバットを出そう」、「ライトに放り込もうと思うな。逆方向に低い打球を打とう」と形を変えることに取り組んだ。鈴木誠也には石井琢朗コーチと共に連日の早出練習を行い、下半身、特に右の腰を使って、バットのヘッドにボールに乗せるスイングに取り組んだ。メジャーに行った後に連絡取ると、鈴木から「ポイントが近くなりすぎてしまうときはどうしたらいいか」訪ねてくる。そういう意欲が進歩には欠かせないと改めて思う。広島の一軍打撃コーチ就任の際の第一声は「左バッターの右打ちはやめましょう」という無理に引っ掛けて進塁打を打ちに行くことを否定するものであった。これは、総じて当時の選手では技術的にそうした進塁打は打てなかったためであり、ならば送りバントさせた方が良いと割り切っていた。 2013年には、6月14日の対北海道日本ハムファイターズ戦(札幌ドーム)試合前練習のティー打撃で、フレッド・ルイスが放った打球がトスを上げていた新井の額に直撃。救急搬送された病院の診察で、前額部の挫創や頭蓋骨の骨折が判明した。当初の診断では全治4週間だった が、その後の検査で異常が見られなかったことから、6月22日の対東京ヤクルトスワローズ戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)で現場へ復帰。以降も一軍で打撃指導を続けた。 2015年に打線の低迷 などからチームがレギュラーシーズン最終戦でクライマックスシリーズへの進出を逃したため、その責任を取る格好で球団へ辞意を申し入れたところ、球団は同年10月9日に新井の辞任を発表した。辞意を明らかにした際には、「昨年まで(の野村謙二郎監督の下で)は楽しくやることができた。今季は(後任の緒方孝市)監督から代打の相談もほぼなかった。若い選手には頑張って欲しい」というコメントが報じられている。 広島の一軍打撃コーチ退任後の2015年11月には、プロ野球経験者による学生野球の指導に必要な学生野球資格の回復に向けて、研修会を受講。 2016年2月2日付で日本学生野球協会から資格回復の適性認定を受けたため、高校野球や大学野球も指導できるようになった。2016年からNHKBS のメジャーリーグ中継の解説者(地上波にも出演)に復帰し、J SPORTSのオリックス戦の解説者にも出演。サンディエゴ・パドレスのアドバイザーを務める野茂英雄(近鉄時代の同僚)からの誘いを受け、パドレスで2017年の秋季キャンプ、2018年の春季キャンプで臨時コーチを務め遊撃手だったハビー・ゲラに打撃指導をした。 2019年にソフトバンクに11年ぶりに二軍打撃コーチとして復帰した。 2020年11月11日に今季限りで退団することが発表された。 2021年からはNHKBSのメジャーリーグ中継の野球解説者に復帰する。また、プロ球団コーチ就任に伴い喪失していた学生野球資格も再回復した。 2024年3月に『スポーツニッポン』の連載企画「我が道」を担当した。 各年度の太字はリーグ最高 首位打者:1回 (1987年) 最多安打:1回(1987年)※当時連盟表彰なし ベストナイン:4回 (1979年、1982年、1986年、1987年) ゴールデングラブ賞:1回 (1987年) 日本シリーズ敢闘賞:1回 (1989年) 初出場・初先発出場:1975年7月25日、対太平洋クラブライオンズ後期1回戦(平和台球場)、1番・左翼手で先発出場 初打席・初安打:同上、1回表に東尾修からバントヒット 初盗塁:同上、1回表に二盗(投手:東尾修、捕手:楠城徹) 初打点:同上、7回表に浜浦徹から中前適時打 初本塁打:1975年8月12日、対阪急ブレーブス後期4回戦(西京極球場)、9回表に三好幸雄から3ラン 1000試合出場:1984年4月7日、対阪急ブレーブス2回戦(大阪スタヂアム)、2番・左翼手で先発出場 ※史上244人目 1000安打:1984年5月24日、対近鉄バファローズ9回戦(大阪スタヂアム)、5回裏に柳田豊から右前安打 ※史上130人目 1500安打:1988年4月10日 対阪急ブレーブス3回戦(阪急西宮球場)、9回表に星野伸之から中前安打 ※史上54人目 1500試合出場:1988年4月13日、対西武ライオンズ1回戦(藤井寺球場)、2番・中堅手で先発出場 ※史上86人目 200犠打:1988年7月13日、対南海ホークス14回戦(大阪スタヂアム)、3回表に山内孝徳から ※史上6人目 250犠打:1990年5月16日、対日本ハムファイターズ6回戦(日生球場)、5回裏に津野浩から投手前犠打の野手選択失策 ※史上3人目 300二塁打:1990年7月29日、対日本ハムファイターズ18回戦(藤井寺球場)、9回裏に西崎幸広から二塁打 ※史上28人目 2000試合出場:1992年5月17日、対福岡ダイエーホークス7回戦(藤井寺球場)、2番・右翼手で先発出場 ※史上27人目 2000安打:1992年7月8日、対オリックス・ブルーウェーブ14回戦(藤井寺球場)、3回裏に伊藤敦規から右中間三塁打 ※史上26人目 300犠打:1992年9月10日、対千葉ロッテマリーンズ24回戦(藤井寺球場)、6回裏に平沼定晴から ※史上2人目 通算67犠飛 ※リーグ最多犠飛を記録していない選手の中では歴代最多タイ(他に榎本喜八) 年間最少三振:6回 ※パ・リーグ記録 オールスターゲーム出場:4回 (1987年 - 1989年、1991年) ※すべて監督推薦選出 6 (1975年 - 1985年) 9 (1986年 - 1992年) 69 (1994年 - 2001年、2005年 - 2006年) 81 (2003年 - 2004年、2007年 - 2008年、2010年 - 2015年) 77 (2019年 - 2020年) プロ野球中継 - 解説者
MBSテレビ制作・放送分(キー局・TBSテレビ制作の西武対オリックス戦にも一度出演) NHKプロ野球 ※2016年からNHKBSのMLB中継に復帰。地上波にも出演) 。 J SPORTS ※「J SPORTS STADIAM」に2016年からオリックス・バファローズ戦に出演。 ^ 川上哲治は足が遅いとされながらも99三塁打220盗塁を記録しているが川上の時代ではクイックモーションなどの盗塁対策が普及されておらず、守備の緩慢さが目立ち、三塁打を狙いやすい状況であったなど事情が異なる。 ^ この当時のプロ野球シーズン最多安打記録は藤村富美男(阪神)の191本(1950年、140試合制)。次いで大沢清(大洋)の189本(1950年)、藤村富美男(1949年、137試合制)と広瀬叔功(南海、1963年、150試合制、当時パ・リーグ記録)の187本、青田昇(巨人)と金山次郎(松竹)の185本(いずれも1950年)の順で、新井の184本は本数としては歴代5位(ほかに別当薫(阪神)も1949年に記録)だった。 ^ この模様は毎日放送(TBS系列)が関西ローカルで生中継し、放送開始直後に達成した。当時阪神タイガース戦以外をゴールデンタイムで通常番組差し替え(系列局に裏送りした自社制作の『北緯35度の風』を含む)で中継するのは異例であった。 ^ 2011年度ミス日本ミス着物 新井寿枝 - ウェイバックマシン(2012年2月14日アーカイブ分) ^ 2012年度ミス日本グランプリ 新井貴子 ^ スポーツニッポン2024年3月4日、9版、新井宏昌の我が道④、PLでは珍しい「練習嫌い」 ^ 朝日新聞社(編)『全国高等学校野球選手権大会70年史』朝日新聞社、1989年、 ^ スポーツニッポン2024年3月12日、11版、新井宏昌の我が道⑫、ノムさんの一声で南海2位指名 ^ スポーツニッポン2024年3月16日、9版、新井宏昌の我が道⑯、バット改良で打率1割アップ ^ スポーツニッポン2024年3月19日、9版、新井宏昌の我が道⑱、「外野4番手」にトレード志願 ^ 『プロ野球トレード史II』ベースボール・マガジン社、1992年、。同書では近鉄側が交換要員とした山口が既に肩を壊していたため、事実上新井の単独譲渡に近い形態だったと分析している。 ^ スポーツニッポン2024年3月20日、11版、新井宏昌の我が道⑲、中西さんの教えで初の首位打者 ^ スポーツニッポン2024年3月21日、9版、新井宏昌の我が道⑳、大石とのコンビはノーサイン ^ 年度別成績 1987年 パシフィック・リーグ ^ スポーツニッポン2024年3月23日、11版、新井宏昌の我が道㉒、選手として最初で最後の優勝 ^ スポーツニッポン2024年3月24日、9版、新井宏昌の我が道㉓、巨人ってこんなもの?から一転 ^ スポーツニッポン2024年3月25日、11版、新井宏昌の我が道㉔、2000安打でやり切った ^ 今昔「安打製造機」 2000安打 写真特集時事通信 ^ スポーツニッポン2024年3月26日、11版、新井宏昌の我が道㉕、仰木さんの誘い、イチローとの縁 ^ “【野球】2000安打ラッシュとなるか。大記録まで残り100本を切った5選手たち”. デイリースポーツ online (2017年5月9日). 2022年8月24日閲覧。 ^ 阿川佐和子『阿川佐和子のこの人に会いたい』文藝春秋〈文春文庫〉、1997年、p.20 (イチローの回) ^ BS朝日『昭和偉人伝』2015年9月9日放送 ^ ““笑わない男”稲垣啓太 32歳の誕生日に妻と寄り添う姿「奥様が綺麗」「目の保養」”. デイリースポーツ online (2022年6月2日). 2022年6月4日閲覧。 ^ スポーツニッポン2024年3月27日、11版、新井宏昌の我が道㉖、「イチロー」を仰木監督に提案 ^ 新星イチロー、衝撃の210安打 プロ野球の歴史塗り替えた20歳 - 沖縄タイムズ ^ スポーツニッポン2024年3月28日、11版、新井宏昌の我が道㉗、知らない番号は王監督だった ^ 〈祝結婚〉稲垣啓太のお相手、新井貴子さんの父・新井宏昌69歳が偉大… 2000安打達成+イチローや丸佳浩らの師匠+解説名人 - Number Web ^ スポーツニッポン2024年3月29日、11版、新井宏昌の我が道㉘、闘病の仰木監督に寄り添う日々 ^ “広島打撃コーチ新井氏就任「挑戦したい」”. 日刊スポーツ. (2012年10月18日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20121018-1034127.html 2023年10月16日閲覧。 ^ スポーツニッポン2024年3月30日、11版、新井宏昌の我が道㉙、丸に練習は120%、試合は80% ^ 【宮崎祐樹連載#15】プロ1年目は指導者にめちゃめちゃ言われてノイローゼになりそうでした - 東京スポーツ ^ 新聞記者からまさかの“就任要請” 広島・松田オーナーに託された3連覇の土台作り - full-count ^ “新井打撃コーチ辞任”. デイリースポーツ. (2015年10月9日). https://www.daily.co.jp/baseball/carp/2015/10/09/0008468234.shtml ^ オーダーの組み方と理想の2番打者論を 古田敦也・野村謙二郎・真中満が語る 【監督バイブル】 フルタの方程式(2022年8月30日)2022年8月30日閲覧。 ^ 広島 新井コーチが頭蓋骨骨折 指導中に打球直撃 - スポーツニッポン2013年6月14日配信 ^ 広島新井コーチ 今日から現場復帰 - 日刊スポーツ2013年6月22日配信 ^ 広島新井打撃コーチ「打てない」責任で退団濃厚 - 日刊スポーツ2015年10月8日配信 ^ 広島新井一軍打撃コーチが辞任「若い選手には期待」 - 日刊スポーツ2015年10月9日配信 ^ 中国新聞2015年10月9日付スポーツ面記事 ^ ノリ「誘い待っている」現役希望も…学生野球指導者研修会を受講 - スポーツニッポン(2015年11月29日)2015年12月6日閲覧。 ^ ノリ、高校野球監督にノリ気「お誘いがあれば目指したい」 - サンケイスポーツ(2015年11月29日)2015年12月6日閲覧。 ^ 学生野球資格回復に関する規則第4条による適性認定者 - 日本学生野球協会 ^ “タティスJr.と遊撃争うも…投手転向で即メジャー 阪神助っ人は“異色の経歴””. full-count. (2024年4月30日). https://full-count.jp/2024/04/30/post1549456/ 2024年7月26日閲覧。 ^ “コーチングスタッフの退団について”. 福岡ソフトバンクホークス公式サイト. (2020年11月11日). https://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/00003835.html 2020年11月11日閲覧。 大阪府出身の人物一覧 法政大学の人物一覧 福岡ソフトバンクホークスの選手一覧 大阪近鉄バファローズの選手一覧 広島東洋カープの選手一覧 個人年度別成績 新井宏昌 - NPB.jp 日本野球機構 77 新井 宏昌 選手名鑑 - 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト 表 話 編 歴 金田正一 稲尾和久 小山正明 米田哲也 梶本隆夫 皆川睦雄 村山実 鈴木啓示 堀内恒夫 山田久志 江夏豊 平松政次 東尾修 村田兆治 北別府学 佐々木主浩 高津臣吾 工藤公康 野茂英雄 山本昌広 岩瀬仁紀 黒田博樹 上原浩治 藤川球児 平野佳寿 山内一弘 榎本喜八 野村克也 長嶋茂雄 広瀬叔功 張本勲 王貞治 江藤慎一 土井正博 高木守道 松原誠 柴田勲 大杉勝男 藤田平 衣笠祥雄 福本豊 山崎裕之 山本浩二 有藤通世 若松勉 谷沢健一 加藤秀司 門田博光 大島康徳 新井宏昌 秋山幸二 駒田徳広 立浪和義 鈴木一朗(イチロー) 清原和博 古田敦也 野村謙二郎 石井琢朗 松井秀喜 田中幸雄 前田智徳 金本知憲 松井稼頭央 小笠原道大 稲葉篤紀 宮本慎也 小久保裕紀 アレックス・ラミレス 中村紀洋 谷繁元信 井口資仁 和田一浩 新井貴浩 福留孝介 荒木雅博 青木宣親 阿部慎之助 鳥谷敬 内川聖一 福浦和也 坂本勇人 栗山巧 大島洋平 表 話 編 歴 1953 簑原宏 1954 大下弘 1955 戸川一郎 1956 稲尾和久 1957 宮本敏雄 1958 藤田元司 1959 土屋正孝 1960 田宮謙次郎 1961 J.スタンカ 1962 吉田義男 1963 稲尾和久 1964 山内一弘 1965 森下整鎮 1966 渡辺泰輔 1967 足立光宏 1968 長池徳二 1969 長池徳二 1970 井石礼司 1971 山田久志 1972 足立光宏 1973 野村克也 1974 高木守道 1975 山本浩二 1976 柴田勲 1977 河埜和正 1978 足立光宏 1979 井本隆 1980 小川亨 1981 井上弘昭 1982 上川誠二 1983 西本聖 1984 山沖之彦 1985 石毛宏典 1986 達川光男 1987 篠塚利夫 1988 宇野勝 1989 新井宏昌 1990 岡崎郁 1991 川口和久 1992 岡林洋一 1993 清原和博 1994 清原和博 1995 小林宏 1996 仁志敏久 1997 松井稼頭央 1998 大塚光二 1999 川上憲伸 2000 城島健司 2001 T.ローズ 2002 A.カブレラ 2003 金本知憲 2004 井上一樹 2005 矢野輝弘 2006 川上憲伸 2007 ダルビッシュ有 2008 A.ラミレス 2009 髙橋信二 2010 和田一浩 2011 吉見一起 2012 稲葉篤紀 2013 長野久義 2014 R.メッセンジャー 2015 山田哲人 2016 B.エルドレッド 2017 宮﨑敏郎 2018 鈴木誠也 2019 亀井善行 2020 戸郷翔征 2021 山本由伸 2022 J.オスナ 2023 紅林弘太郎 2024 今宮健太 表 話 編 歴 1950 大下弘 1951 大下弘 1952 飯島滋弥 1953 岡本伊三美 1954 L.レインズ 1955 中西太 1956 豊田泰光 1957 山内和弘 1958 中西太 1959 杉山光平 1960 榎本喜八 1961 張本勲 1962 ブルーム 1963 ブルーム 1964 広瀬叔功 1965 野村克也 1966 榎本喜八 1967 張本勲 1968 張本勲 1969 永淵洋三, 張本勲 1970 張本勲 1971 江藤慎一 1972 張本勲 1973 加藤秀司 1974 張本勲 1975 白仁天 1976 吉岡悟 1977 有藤道世 1978 佐々木恭介 1979 加藤英司 1980 L.リー 1981 落合博満 1982 落合博満 1983 落合博満 1984 ブーマー 1985 落合博満 1986 落合博満 1987 新井宏昌 1988 高沢秀昭 1989 ブーマー 1990 西村徳文 1991 平井光親 1992 佐々木誠 1993 辻発彦 1994 イチロー 1995 イチロー 1996 イチロー 1997 イチロー 1998 イチロー 1999 イチロー 2000 イチロー 2001 福浦和也 2002 小笠原道大 2003 小笠原道大 2004 松中信彦 2005 和田一浩 2006 松中信彦 2007 稲葉篤紀 2008 リック 2009 鉄平 2010 西岡剛 2011 内川聖一 2012 角中勝也 2013 長谷川勇也 2014 糸井嘉男 2015 柳田悠岐 2016 角中勝也 2017 秋山翔吾 2018 柳田悠岐 2019 森友哉 2020 吉田正尚 2021 吉田正尚 2022 松本剛 2023 頓宮裕真 2024 近藤健介 表 話 編 歴 投 山田久志 捕 梨田昌崇 一 加藤英司 二 B.マルカーノ 三 島谷金二 遊 石渡茂 外 福本豊 / 新井宏昌 / 栗橋茂 指 C.マニエル 表 話 編 歴 投 工藤幹夫 捕 中沢伸二 一 柏原純一 二 落合博満 三 スティーブ.O 遊 石毛宏典 外 福本豊 / 新井宏昌 / 栗橋茂 指 T.ソレイタ 表 話 編 歴 投 渡辺久信 捕 伊東勤 一 ブーマー.W 二 辻発彦 三 落合博満 遊 石毛宏典 外 横田真之 / 秋山幸二 / 新井宏昌 指 石嶺和彦 表 話 編 歴 投 工藤公康 捕 伊東勤 一 ブーマー.W 二 白井一幸 三 石毛宏典 遊 水上善雄 外 秋山幸二 / 新井宏昌 / T.ブリューワ 指 石嶺和彦 表 話 編 歴 1972 池辺巌, 広瀬叔功, 福本豊 1973 島野育夫, 弘田澄男, 福本豊 1974 島野育夫, 弘田澄男, 福本豊 1975 島野育夫, 弘田澄男, 福本豊 1976 B.ウイリアムス, 弘田澄男, 福本豊 1977 大熊忠義, 弘田澄男, 福本豊 1978 B.ウイリアムス, 福本豊, 簑田浩二 1979 平野光泰, 福本豊, 簑田浩二 1980 平野光泰, 福本豊, 簑田浩二 1981 島田誠, 福本豊, 簑田浩二 1982 島田誠, 福本豊, 簑田浩二 1983 島田誠, 福本豊, 簑田浩二 1984 島田誠, 高沢秀昭, 簑田浩二 1985 金森永時, 島田誠, 簑田浩二 1986 西岡良洋, 山本和範, 山森雅文 1987 秋山幸二, 新井宏昌, 島田誠, 高沢秀昭 1988 秋山幸二, 高沢秀昭, 平野謙 1989 秋山幸二, 平野謙, 本西厚博 1990 秋山幸二, 西村徳文, 平野謙 1991 秋山幸二, 佐々木誠, 平野謙 1992 秋山幸二, 佐々木誠, 平野謙 1993 秋山幸二, 佐々木誠, 平野謙 1994 秋山幸二, イチロー, 佐々木誠 1995 秋山幸二, イチロー, 田口壮 1996 秋山幸二, イチロー, 田口壮 1997 イチロー, 井出竜也, 田口壮 1998 イチロー, 大友進, 大村直之 1999 秋山幸二, イチロー, 大友進 2000 イチロー, 柴原洋, 田口壮 2001 柴原洋, 田口壮, 谷佳知 2002 井出竜也, 小関竜也, 谷佳知 2003 大村直之, 柴原洋, 谷佳知, 村松有人 2004 谷佳知, 村松有人, SHINJO 2005 大村直之, サブロー, SHINJO 2006 稲葉篤紀, 森本稀哲, SHINJO 2007 稲葉篤紀, サブロー, 森本稀哲 2008 稲葉篤紀, 坂口智隆, 森本稀哲 2009 糸井嘉男, 稲葉篤紀, 坂口智隆 2010 糸井嘉男, 坂口智隆, 栗山巧 2011 岡田幸文, 糸井嘉男, 坂口智隆 2012 陽岱鋼, 糸井嘉男, 岡田幸文 2013 陽岱鋼, 糸井嘉男, 秋山翔吾 2014 陽岱鋼, 糸井嘉男, 柳田悠岐 2015 柳田悠岐, 秋山翔吾, 清田育宏 2016 秋山翔吾, 陽岱鋼, 糸井嘉男 2017 秋山翔吾, 柳田悠岐, 西川遥輝 2018 秋山翔吾, 柳田悠岐, 西川遥輝 2019 秋山翔吾, 荻野貴司, 西川遥輝 2020 柳田悠岐, 大田泰示, 西川遥輝 2021 荻野貴司, 辰己涼介, 柳田悠岐 2022 髙部瑛斗, 辰己涼介, 福田周平 2023 辰己涼介, 万波中正, 近藤健介 2024 辰己涼介, 周東佑京, 万波中正 表 話 編 歴 1位:長谷川勉 2位:新井鐘律 3位:浜名繁幸 4位:岡本圭右 5位:米谷延夫 6位:佐藤豊一(入団拒否) 表 話 編 歴 1位:市橋秀彦 2位:石渡茂 3位:中沢春雄 4位:窪田欣也(入団拒否) 5位:佐野勝稔 6位:寺田吉孝 7位:高橋幸広 8位:小橋英明(入団拒否) 9位:新井鐘律(入団拒否) 表 話 編 歴 石山建一 太田誠 矢野暢生 田尾安志 田村政雄 峰尾晃 阿部政文 佐藤義則 森口益光 中西清治 土屋恵三郎 小川良一 伊藤升久 神垣雅行 吉沢俊幸 平田薫 八木茂 斎藤茂樹 二宮至 新井鐘律 前川善裕 村山修一 法政大学野球部の選手 日本の野球選手 PL学園高等学校出身の野球選手 福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の選手 大阪近鉄バファローズ及びその前身球団の選手 首位打者 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 野球日本代表選手 日米大学野球選手権大会日本代表選手 野球解説者 MLB解説者 日本の野球監督 オリックス・バファローズ関連人物 広島東洋カープ関連人物 名球会 韓国・朝鮮系日本人のスポーツ選手 大阪府出身のスポーツ選手 大阪市出身の人物 1952年生 存命人物 外部リンクがリンク切れになっている記事/2021年10月 出典のページ番号が要望されている記事 無効な出典が含まれている記事/2023年 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 Reflistで3列を指定しているページ ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2025/04/02 01:00更新
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arai hiromasa
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