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新井宏昌の情報 (あらいひろまさ)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

新井宏昌の情報(あらいひろまさ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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新井 宏昌さんについて調べます

■名前・氏名
新井 宏昌
(読み:あらい ひろまさ)
■職業
野球選手
■新井宏昌の誕生日・生年月日
1952年4月26日 (年齢72歳)
辰年(たつ年)、牡牛座(おうし座)
■出身地・都道府県
大阪出身

(昭和27年)1952年生まれの人の年齢早見表

新井宏昌と同じ1952年生まれの有名人・芸能人

新井宏昌と同じ4月26日生まれの有名人・芸能人

新井宏昌と同じ出身地大阪府生まれの有名人・芸能人


新井宏昌と関係のある人

金城基泰: 金城自身も「本当は法政大に決まっていて、PL学園の新井宏昌と一緒に行くことになっていた」と述べている。


柳原隆弘: 1986年には新井宏昌、淡口憲治が移籍してきたこともあり、段々と出場機会が減る。


仰木彬: 闘病を続けていた肺がんは完治していなかったが、「グラウンドで倒れたら本望」と、病をおして監督に就任しており、新井宏昌や松山秀明らが、仰木の体調不良を押しての決意に打たれてコーチングスタッフとして加入した。


門田博光: これからは全打席ホームランを狙う」 と長打狙いのバッティングに徹し、同年6月25日の対日本ハムファイターズ戦(大阪スタヂアム)では1点を追う9回一死一、二塁の場面で新井宏昌に代えて桜井輝秀を送ると、日本ハムは木田勇から杉山知隆に投手交代。


今井雄太郎: 今井は2019年の新井宏昌との対談で、元は監督の上田利治がコーチ会議で「飲むと陽気になってノビノビしている。


伊藤四郎: 引退後は鶴岡一人に請われて南海の東海地区常駐スカウトに就任、のちチーフスカウトを務め、1997年に退任するまで新井宏昌・柏原純一・斉藤和巳ら、多くの名選手を獲得した。


阿部真宏: 2005年は仰木彬監督にレギュラーの座を与えられ、大学の先輩でもある新井宏昌一軍チーフ兼打撃コーチの指導もあって規定打席不足ながら打率.281を記録。


潮崎哲也: 加えて潮崎はホームランバッターもそれほど苦にしなかった一方で、空振りが取れなかった新井宏昌は対戦したプロ選手の中で印象に残っているという。


小島善博: 初奪三振:同上、8回表に新井宏昌から


ダグ=ジェニングス: 1995年開幕当初は不調だったが、新井宏昌打撃コーチと中西太ヘッドコーチの指導で変化球に対応できるようになると7月に打率.393と成績を伸ばし、12本塁打のトロイ・ニールを抑え月間MVPを獲得。


金城基泰: 同い年の同胞で本来法大野球部でチームメイトになるはずだった新井宏昌と仲が良く、後に読売ジャイアンツ(巨人)へトレード移籍する際にも彼に相談したという。


野村沙知代: 新井宏昌は「沙知代さんの行動には疑問を抱えていた。


パンチ佐藤: 1994年、新監督に仰木が就任し、登録名を既にニックネームとして定着していた「パンチ」に、3年目の若手外野手の鈴木一朗も「イチロー」に変更した(このアイディアは打撃コーチの新井宏昌が提案し、仰木が承認した)。


パンチ佐藤: 1994年4月7日、新監督の仰木彬及び打撃コーチに新任した新井宏昌との共同発案で鈴木一朗と共に新しい登録名「パンチ」に変更。


広瀬叔功: 三振の少ない打者でもあり、通算三振率(三振÷打数).074は、6000打数以上の打者81名では歴代7位、7000打数以上の打者41名では川上哲治(.056)、新井宏昌(.060)に次ぎ3番目に低い数字である。また、右打者でありながらシーズン2桁併殺打を記録した年は存在せず、通算2000本安打を達成した右打者としては唯一である(左打者では福本豊、石井琢朗、新井宏昌、柴田勲(両打ち)が記録)。


アレックス=ロドリゲス: NHKでMLBの解説を行っている新井宏昌は、この打撃フォームを高く評価している。


鈴木誠也: 1日限定の参加だったにもかかわらず、オリックス・ブルーウェーブ時代のイチローを指導していた一軍打撃コーチの新井宏昌や一軍監督の野村謙二郎から高い評価を受けた。


ドン=ブレイザー: 打線も好調で門田博光、ジム・タイロン、新井宏昌、藤原満が3割、門田が月間16本塁打を樹立し、初の本塁王も獲得したが、前期5位、後期6位(年間5位)と低迷した。


安部憲幸: 9回表2死2塁で、近鉄の新井宏昌が三塁線へ放った痛烈なゴロをロッテの三塁手・水上善雄が好捕したところ、「止める!水上!This is プロ野球!まさに、打ちも打ったり新井!よく止めた水上!白熱のゲームが、好プレーを演出!」と絶叫した。


大石大二郎: 1992年で新井宏昌が引退すると、山本和範が復帰する1996年までの間、チームの最年長選手となっている。


加藤英司: 1979年に登録名を加藤 英司に変更するが、同年は腰痛に苦しみながらPL学園高の後輩・新井宏昌との首位打者争いを制し、打率.364で2度目の首位打者、104打点で3度目の打点王の二冠を獲得。


中根仁: 1990年のキャンプでは新井宏昌に師事してバント練習に励み、オープン戦では三塁手にも挑戦するなど出場機会を増やすため努力を重ねた。


元田昌義: 二軍時代の定岡智秋、河埜敬幸、久保寺雄二、新井宏昌をみっちり鍛えた。


中根仁: 新井宏昌(法大の先輩)は新人時代の中根を見ていずれ自分が追い抜かれると感じたという。


和田豊: この年のシーズン147本単打は、1988年に新井宏昌が記録した144本を上回ったが、オリックスのイチローが151本を記録した為、このシーズン終了時点ではセ・リーグ新記録と日本プロ野球歴代2位(右打者としては1位)となった(セ・リーグ記録としては2003年に赤星憲広が並び、2004年が荒木雅博が更新)。


中西太: 新井宏昌は「打撃の師。


本多雄一: またこれにより新井宏昌打撃コーチの持つ球団タイ記録の8打数連続安打に並んだ。


ロベルト=ペタジーニ: オリックス監督の仰木彬はペタジーニに興味を示し、新井宏昌・小林晋哉の両コーチも獲得に賛意を示したが、同球団フロントが獲得を見送ったため、実現しなかった。


落合博満: 41歳4か月での通算2000安打達成は、新井宏昌の40歳2か月を抜き、当時の史上最年長記録となった(その後、2012年5月に宮本慎也が41歳5か月で更新)。


水上善雄: 1988年、「10.19」として語り継がれている、10月19日のロッテ対近鉄バファローズ26回戦(ダブルヘッダー第2試合)では、途中から三塁の守備に入り、新井宏昌の三塁線を襲った強烈な打球をダイビングキャッチで捕球し、近鉄の勝ち越しを阻止したことが近鉄監督仰木彬の著書でも言及されている。


新井宏昌の情報まとめ

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新井 宏昌(あらい ひろまさ)さんの誕生日は1952年4月26日です。大阪出身の野球選手のようです。

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経歴、詳細情報などについてまとめました。引退、結婚、卒業、現在、病気に関する情報もありますね。今年の情報もありました。新井宏昌の現在の年齢は72歳のようです。

新井宏昌のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

新井 宏昌(あらい ひろまさ、1952年4月26日 - )は、日本の元プロ野球選手(外野手、一塁手)、プロ野球コーチ・監督、日本プロ野球名球会会員、野球解説者。大阪府大阪市東成区出身。

現役時代は南海ホークスや近鉄バファローズで活躍。巧みなバットコントロールによる状況に応じたシュアなバッティングが特徴で、2000安打に加え300犠打をマークするなどチームプレーにおいて欠かせない存在感を示し、65本の三塁打と165盗塁を記録した俊足でもあった。1992年に40歳で現役を引退してからは、野球解説者・野球評論家としての活動をはさみながら、複数の球団でコーチや二軍監督を務めている。

長女は2011年度ミス日本でミス着物に選ばれた新井寿枝(画家・ファッションモデル)、三女は2012年度ミス日本グランプリの新井貴子(名前の読みは『きこ』、モデル、アルティメット選手) である。

2022年1月、三女の貴子がラグビー選手の稲垣啓太と結婚した。

経歴

プロ入り前

中学2年の頃、甲子園出場、東京六大学進学の目標を抱きPL学園高校に入学。野球部主将となり、中堅手、三番打者として活躍する。1970年夏の甲子園府予選決勝で、才田修、神垣雅行を打の主軸とする北陽高に大勝し、第52回全国高等学校野球選手権大会に出場。新美敏、田代克業(中大-本田技研)両投手の好投もあり、PLにとって春夏通じて初の甲子園決勝に進出する。決勝は東海大相模高との乱打戦となり、6-10で敗退し準優勝にとどまった。大会第5号本塁打を放ち、一大会12安打の大会記録(当時)も樹立している。同年秋の岩手国体では、決勝で大分商を降し優勝。他のチームメートに1年下の行澤久隆がいた。卒業後は早稲田大学進学を目指していたが、当時の早稲田は推薦制度がなく断念。プロ野球ドラフト会議では近鉄バファローズから9位指名を受けたが、「スカウトマンが挨拶に来た記憶が全くない」という状況でプロ入りを見送り、スポーツ推薦で法政大学経営学部に進学した。

東京六大学野球リーグでは在学中2度の優勝を経験、2年生からレギュラーとなる。2年上に長崎慶一、伊達泰司がおり、彼等の卒業後には外野手の中心として活躍。最上級生となった1974年に、1年生エース江川卓を擁し、秋季リーグで3年ぶりに優勝。同年の第5回明治神宮野球大会では決勝で中大の田村政雄に完封を喫し準優勝にとどまる。ベストナイン(外野手)受賞1回。1974年の第3回日米大学野球選手権大会日本代表に選出されている。リーグ通算290打数79安打、打率.272、8本塁打を記録。大学同期に捕手の高浦美佐緒、内野手の道吉哲夫(三協精機)らがいる。

現役時代

当初は小柄で線も細くプロ野球各球団のスカウトにマークされる選手ではなく、卒業後は1年先輩の山本功児が進んだ本田技研鈴鹿に行く予定であったが、当時南海の選手兼任監督であった野村克也が日米大学野球の新井のプレーに目が留まり、ドラフト前のスカウト会議「新井という選手は際どいボールをしれっと見逃す。見逃し方に雰囲気がある。」、「そして日米大学野球で対戦する外国人投手に対して、バタバタしてないところがええ」と語り、スカウトにとっては意外な名前だったようで「足は遅いけど、肩はいい」としか言えなかったと聞いたと新井は述べている。1974年のドラフトで南海ホークスから2位指名を受け入団した。契約金は1500万、月給が17万だったから年俸は200万、背番号は「6」。兄が「ここまで2番目が多かった野球人生だ。PL学園でも準優勝。ドラフトでも2位指名。兄としては1番になってほしい。改名してはどうだ。」と言われ、「鐘律(かねのり)」から「宏昌」に改名した。

1975年は、7月から一番打者として起用され45試合に先発出場。

1976年には開幕から二番打者、中堅手として起用され、規定打席(15位、打率.271)にも到達した。外野守備にも優れ、同年は10補殺を記録している。

1979年に法政時代に入団時からお世話になった若生正廣が当時用具メーカーの美津和タイガーの社員で担当している大洋の選手が短いバットを使っている話から「それなら今のバットのグリップを半分に削ったらいい」と提案された。工場で33インチのバットを作ってみると同じバットなので違和感ないし先に重みのあるバットになったことで外野の間を抜くような強い打球が打てるようになった。バットでこれだけ変わるのかというのは発見だった。打率.358で加藤英司に次ぐパシフィック・リーグ打率2位を記録、ベストナインに初めて選出される。新井は「他の要素ももちろんあるがバットを替えたことで1割数字が上がる。これが打撃の世界だ。」と述べている。

1981年に打率.300(11位)をマーク。

1982年には打率.315(落合博満に次ぐ2位)を記録し、リーグを代表する巧打者として知られた。

1985年のオフ、球団から「外野では4番手だ。しかし他球団から欲しいという話がきている。」と言われ、「それなら環境を変えたい。トレードをお願いします。」と申し入れた。33歳で結婚したばかりで新築のローンもあり、巨人などからも話があったと聞いたが「希望は引っ越さなくていいところ」の要望を聞いてもらえた。「金銭トレードではまずい、交換トレードで」との南海側の希望から、山口哲治プラス金銭との交換で近鉄に移籍。シーズン中投手コーチの河村英文から「近鉄の仰木さんが欲しがっているみたいだ」と話を聞いたことがあった(河村と仰木は西鉄時代から旧知の間柄)。

門田博光の影響で、体のひねりでボールを飛ばす事を意識してから、自分のスイングを見失っていた時期だった。中西太打撃コーチが「それは間違い。自分から力を出すとするのではなく相手の球の力を利用しなさい。」だった。33歳、ここでダメなら終わりとアドバイスをすんなり受け入れられた。マンツーマンでのティー打撃で最短距離でバットをボールにぶつける感覚を磨いた。それまで力で打とうとしてミスショットを繰り返してきた。「外角球は引っ張りこむのでは無くコースなりに逆方向に打ち返せ。へそまで呼び込め。」とチェックされる声で何度も聞いた。ボールの見方も修正、クローズになっていた右足をオープン気味に変更、遊撃方向にあった目線を二塁方向にしたことでバットの軌道も自然とインサイドアウトに変わった。2番として必要なバントは南海のブレイザー式の一塁に動きながらのバントを「それではファウルが増える。バントしてから走る。それでOK」と中西の指示で変えた。新井は「取り組んだことが結果につながる。バントの確実性も上がった。打者に合ったスタイルを見つける中西さんの教えを受けたことは、その後の指導者人生にもプラスになった。」と述べている。大石大二郎と1、2番コンビを組み、チームの得点源で大石、新井にサインに出たことはなく、動くはどうかは2人で決めていた。

1986年は全130試合に出場し、打率.288、34歳でプロ入り初の二桁本塁打の12本塁打をマーク、4年ぶりのベストナインを受賞した。

1987年も中西流のバットは好調をキープ、6月23日の西武戦(藤井寺)では工藤公康からサヨナラ本塁打を放った。打率.366・安打数184本を記録し、初の首位打者を獲得。この安打数は当時シーズン130試合制でのプロ野球最多記録であり、現在でも130試合以下のチームの選手としては、1994年のイチロー(210安打)・1996年のイチロー(193安打)に次ぐ歴代3位である。また、2004年にプロ野球再編問題で消滅した近鉄のシーズン最多安打記録だった。同年はベストナインに加え、ゴールデングラブ賞を初受賞。

1988年には一塁手も兼ねて活躍。その後も毎年安定した成績を残す。

1989年にはプロ野球人生で初めての優勝(選手として最初で最後の優勝)。巨人との1989年の日本シリーズでは同点で迎えた7回斉藤雅樹から決勝タイムリーを打って、シリーズ通算23打数9安打、打率.391で敢闘賞を受賞した。また、南海時代は一度も経験しなかったオールスターゲームにも3年連続出場を果たしている。

1991年シーズン開幕直前に帰化。規定打席不足で103安打で打率.309。結果的に最後となる2年ぶり4度目の(過去3回同様の監督推薦で)オールスターゲームでは、広島市民球場で初回先頭打者として佐々岡真司からヒットを放ち、4回にも野村弘樹からライトスタンドにホームランを放った。

1992年、4月5日のダイエーとのシーズン開幕戦では2安打とスタート。40歳のシーズンで年齢を感じていた、バットのヘッドバランスが重たく感じ初め、球に遅れたり、バットコントロールが思うようにできない打席が増えてきた。初めて味わった腰痛の影響もあり、思うように飛ばない打球に不満を抱くことが多かった。キャンプから2000安打達成に向けたドキュメント番組のカメラが回ったり、雰囲気があった。大台まで10本としてから王手をかけるまで1か月以上かかった。初めて経験する打撃不振は精神的につらかった。7月5日のロッテ戦(千葉マリンスタジアム)で2安打を放ち、1999本、大手をかけた。仰木彬監督が「最後は藤井寺で決めよう」と交代を告げた。7月8日の対オリックス・ブルーウェーブ戦(藤井寺)で伊藤敦規から右中間三塁打を放ち通算2000安打を達成、名球会入りを果たした。大卒選手としては5人目、40代では初の2000安打だった。同年、球団から「来季は選手として契約しない」と伝えられた。通告されたら仕方ない、やり切った思いもあり、40歳で現役を引退。最終戦の10月13日の日本ハム戦(藤井寺)で退陣する仰木監督と一緒に胴上げされた。なお、通算本塁打は88本で、100本塁打未達は2000安打達成者で初めてのケースとなった。2022年時点では数少ない40歳以上での2000安打達成でもある。近鉄からコーチの打診があったが引退してすぐ指導する側に立つ立場は難しいという理由で断った。

現役引退

1993年に毎日放送(MBS)野球解説者・スポーツニッポン野球評論家を務めた。毎日放送では板東英二とスポーツ番組を担当した。

1993年、日本シリーズで訪れていた西武球場で同じ評論活動をしていた仰木に「来年からオリックスの監督をすることになった。一緒にやるぞ。」と有無を言わせない感じで新井もすぐ気持ちを決めた。近鉄からも打診があったが途中で立ち消えになっていて支障はなかった。1994年、オリックス・ブルーウェーブの一軍打撃コーチに就任。同年から「佐藤和弘」や「鈴木一朗」の登録名を「パンチ」・「イチロー」と変更するように考案したのは、新井であるという。これによりイチローの名付け親とされている。新井によれば1994年の宮古島キャンプでイチローの成長に手応えを感じたところ仰木に「鈴木一朗ではなくイチローでいきましょう。絶対有名になる選手球場アナウンスもイチロースズキになってるじゃないですか」、近鉄には鈴木貴久、西武には鈴木健、日本ハムにも鈴木慶裕らがいて、新聞でも「鈴木」だけだと分からない。打撃30傑でもすぐ分かるのは「イチロー」だと」考えたと述べている。動きの大きなフォームに対して、相手が緩急で攻めてくることを予想し、右足の強化にキャンプは取り込んだ。イチローは69試合連続出塁の日本記録を作り、最終的にシーズン210安打という大記録を作り、史上最年少のMVPを受賞、ベストナイン、最高出塁率、ゴールデングラブ賞、最多安打のタイトルを受賞した。1995年はリーグ優勝を果たす。1996年は2連覇、日本一になった。新井は「振り返れば、そこが頂点だったチームは優勝に貢献した戦力から若返りを図ったが、強化は思うように進まない。一方でイチローの目はメジャーに向いていた。この流れはどうしようもなかった。」と述べている。その後は一軍総合コーチ、2000年から2年間二軍監督を務めたが、「独立採算を目指したサーバス神戸は1軍半と契約金なしで入団してきた若手のチームで人数的にも厳しく、鍛えて1軍に上げるシステムにも確立してなかった。」と振り返っている。2001年シーズン終了後、仰木の監督退陣が決まり、一緒にユニフォームを脱いだ。

2002年は日本放送協会(NHK)解説者・デイリースポーツ評論家を務めた。

2003年より王貞治監督の要請で2年間は福岡ダイエーホークスで一軍打撃コーチを務め、井口資仁、松中信彦、城島健司らが中軸で陣取り、100打点以上が4人のダイハード打線。村松有人、川﨑宗則を育て、柴原洋らを鍛えた。バットを叩きつけるスタイルを教えられていた村松には全く逆の「もっと振り上げろ」と指導し、2003年はNPBシーズン記録のチーム打率.297を記録し、チームも3年ぶりのリーグ優勝、4年ぶりの日本一になった。

2005年、近鉄と合併したオリックス・バファローズに4年ぶりに復帰して、同じく復帰した監督の仰木の下で一軍チーフ兼打撃コーチに就任し、ヘッドコーチ格として支えた。仰木は肺がんの為入退院を繰り返し、仰木から「オリックスの監督をまたやることになった。」と連絡があり、病気の事を知っていた新井は暗に手伝ってほしいという意味を受け取った。仰木は9月29日に退陣を発表し、12月15日に70歳でこの世を去った。2006年オフに成績不振の責任を取る形で辞任。

2007年から3年ぶりに福岡ソフトバンクホークスの一軍打撃コーチを務め、本多雄一を育て、2008年に解任される。

2009年はJ SPORTSのオリックス戦で野球解説者を務める。

2010年より4年ぶり3度目となるオリックスに復帰し、二軍監督を務める。2012年より打撃コーチ兼任となる。岡田彰布監督が休養決まると新井も秋に球団から契約を更新しないと通告された。

オリックスコーチ解任から約2週間後の2012年10月19日、松田元オーナーの要請で広島東洋カープの一軍打撃コーチに就任。球団では2001年から3シーズン1軍チーフ兼打撃コーチを務めた松原誠以来の外部招聘コーチとなる。伸び盛りの選手が多い広島の指導はやりがいがあった。丸佳浩・菊池涼介・松山竜平を育てた。丸は無駄な動きが多いことが気になり、強く遠くに飛ばしたいと気持ちが出過ぎてバットが円に描くような軌道になっていた。「シンプルに最短距離でバットを出そう」、「ライトに放り込もうと思うな。逆方向に低い打球を打とう」と形を変えることに取り組んだ。鈴木誠也には石井琢朗コーチと共に連日の早出練習を行い、下半身、特に右の腰を使って、バットのヘッドにボールに乗せるスイングに取り組んだ。メジャーに行った後に連絡取ると、鈴木から「ポイントが近くなりすぎてしまうときはどうしたらいいか」訪ねてくる。そういう意欲が進歩には欠かせないと改めて思う。広島の一軍打撃コーチ就任の際の第一声は「左バッターの右打ちはやめましょう」という無理に引っ掛けて進塁打を打ちに行くことを否定するものであった。これは、総じて当時の選手では技術的にそうした進塁打は打てなかったためであり、ならば送りバントさせた方が良いと割り切っていた。

2013年には、6月14日の対北海道日本ハムファイターズ戦(札幌ドーム)試合前練習のティー打撃で、フレッド・ルイスが放った打球がトスを上げていた新井の額に直撃。救急搬送された病院の診察で、前額部の挫創や頭蓋骨の骨折が判明した。当初の診断では全治4週間だった が、その後の検査で異常が見られなかったことから、6月22日の対東京ヤクルトスワローズ戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)で現場へ復帰。以降も一軍で打撃指導を続けた。

2015年に打線の低迷 などからチームがレギュラーシーズン最終戦でクライマックスシリーズへの進出を逃したため、その責任を取る格好で球団へ辞意を申し入れたところ、球団は同年10月9日に新井の辞任を発表した。辞意を明らかにした際には、「昨年まで(の野村謙二郎監督の下で)は楽しくやることができた。今季は(後任の緒方孝市)監督から代打の相談もほぼなかった。若い選手には頑張って欲しい」というコメントが報じられている。

広島の一軍打撃コーチ退任後の2015年11月には、プロ野球経験者による学生野球の指導に必要な学生野球資格の回復に向けて、研修会を受講。

2016年2月2日付で日本学生野球協会から資格回復の適性認定を受けたため、高校野球や大学野球も指導できるようになった。2016年からNHKBS のメジャーリーグ中継の解説者(地上波にも出演)に復帰し、J SPORTSのオリックス戦の解説者にも出演。

2019年にソフトバンクに11年ぶりに二軍打撃コーチとして復帰した。

2020年11月11日に今季限りで退団することが発表された。

2021年からはNHKBSのメジャーリーグ中継の野球解説者に復帰する。また、プロ球団コーチ就任に伴い喪失していた学生野球資格も再回復した。

2024年3月に『スポーツニッポン』の連載企画「我が道」を担当した。

詳細情報

年度別打撃成績

年度 球団 試合 打席 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 塁打 打点 盗塁 盗塁死 犠打 犠飛 四球 敬遠 死球 三振 併殺打 打率 出塁率 長打率 OPS
1975 南海 50 207 188 29 57 7 3 1 73 16 7 1 3 1 14 0 1 8 0 .303 .353 .388 .741
1976 119 446 406 50 110 12 8 2 144 35 20 5 7 8 20 0 5 21 3 .271 .308 .355 .662
1977 121 469 409 63 93 15 5 1 121 21 14 3 12 3 40 1 5 38 6 .227 .302 .296 .598
1978 116 387 344 31 87 8 4 1 106 17 6 5 15 2 24 1 2 25 5 .253 .304 .308 .612
1979 114 439 388 52 139 19 1 2 166 34 17 6 16 4 28 1 3 17 7 .358 .402 .428 .830
1980 112 374 324 38 85 15 1 6 120 43 7 6 18 3 29 0 0 26 6 .262 .320 .370 .691
1981 117 455 406 51 122 18 8 4 168 33 12 5 7 5 34 0 3 22 4 .300 .355 .414 .769
1982 114 459 413 50 130 29 4 7 188 41 12 6 11 1 32 3 2 17 3 .315 .366 .455 .821
1983 130 538 479 69 139 25 2 5 183 53 19 1 18 4 35 2 2 15 6 .290 .338 .382 .721
1984 127 479 412 55 118 25 1 4 157 39 14 5 20 5 40 0 2 19 6 .286 .349 .381 .730
1985 118 370 325 39 85 17 2 3 115 26 10 2 12 3 28 5 2 25 4 .262 .321 .354 .675
1986 近鉄 130 572 514 72 148 31 4 12 223 51 6 2 27 6 25 1 0 26 5 .288 .317 .434 .751
1987 128 568 503 67 184 22 5 13 255 67 5 4 22 7 34 0 2 26 5 .366 .403 .507 .910
1988 125 523 465 64 133 23 5 8 190 54 2 2 25 3 29 3 1 31 7 .286 .327 .409 .736
1989 124 521 444 64 134 25 2 7 184 47 6 2 31 3 40 1 3 22 8 .302 .361 .414 .776
1990 115 424 363 58 106 19 4 6 151 34 4 3 21 2 35 3 3 26 3 .292 .357 .416 .773
1991 110 391 333 43 103 16 2 3 132 44 2 0 24 4 28 3 2 26 3 .309 .362 .396 .759
1992 106 341 295 38 65 12 4 3 94 25 2 1 11 3 29 0 3 32 6 .220 .294 .319 .613
通算:18年 2076 7963 7011 933 2038 338 65 88 2770 680 165 59 300 67 544 24 41 422 87 .291 .342 .395 .737

各年度の太字はリーグ最高

タイトル

首位打者:1回 (1987年)

最多安打(当時連盟表彰なし):1回(1987年)

表彰

ベストナイン:4回 (1979年、1982年、1986年、1987年)

ゴールデングラブ賞:1回 (1987年)

日本シリーズ敢闘賞:1回 (1989年)

記録

初出場・初先発出場:1975年7月25日、対太平洋クラブライオンズ後期1回戦(平和台球場)、1番・左翼手で先発出場

初打席・初安打:同上、1回表に東尾修からバントヒット

初盗塁:同上、1回表に二盗(投手:東尾修、捕手:楠城徹)

初打点:同上、7回表に浜浦徹から中前適時打

初本塁打:1975年8月12日、対阪急ブレーブス後期4回戦(西京極球場)、9回表に三好幸雄から3ラン

1000試合出場:1984年4月7日、対阪急ブレーブス2回戦(大阪スタヂアム)、2番・左翼手で先発出場 ※史上244人目

1000安打:1984年5月24日、対近鉄バファローズ9回戦(大阪スタヂアム)、5回裏に柳田豊から右前安打 ※史上130人目

1500安打:1988年4月10日 対阪急ブレーブス3回戦(阪急西宮球場)、9回表に星野伸之から中前安打 ※史上54人目

1500試合出場:1988年4月13日、対西武ライオンズ1回戦(藤井寺球場)、2番・中堅手で先発出場 ※史上86人目

200犠打:1988年7月13日、対南海ホークス14回戦(大阪スタヂアム)、3回表に山内孝徳から ※史上6人目

250犠打:1990年5月16日、対日本ハムファイターズ6回戦(日生球場)、5回裏に津野浩から投手前犠打の野手選択失策 ※史上3人目

300二塁打:1990年7月29日、対日本ハムファイターズ18回戦(藤井寺球場)、9回裏に西崎幸広から二塁打 ※史上28人目

2000試合出場:1992年5月17日、対福岡ダイエーホークス7回戦(藤井寺球場)、2番・右翼手で先発出場 ※史上27人目

2000安打:1992年7月8日、対オリックス・ブルーウェーブ14回戦(藤井寺球場)、3回裏に伊藤敦規から右中間三塁打 ※史上26人目

300犠打:1992年9月10日、対千葉ロッテマリーンズ24回戦(藤井寺球場)、6回裏に平沼定晴から ※史上2人目

通算67犠飛 ※リーグ最多犠飛を記録していない選手の中では歴代最多タイ(他に榎本喜八)

年間最少三振:6回 ※パ・リーグ記録

オールスターゲーム出場:4回 (1987年 - 1989年、1991年) ※すべて監督推薦選出

背番号

6 (1975年 - 1985年)

9 (1986年 - 1992年)

69 (1994年 - 2001年、2005年 - 2006年)

81 (2003年 - 2004年、2007年 - 2008年、2010年 - 2015年)

77 (2019年 - 2020年)

2024/06/15 03:00更新

arai hiromasa


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