水上善雄の情報(みずかみよしお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
水上 善雄さんについて調べます
■名前・氏名 |
水上善雄と関係のある人
河野旭輝: 水上善雄の派手だが雑であった守備も、雑な部分を徹底的に指導し、徐々に丁寧な捕球が出来るようにした。 西村徳文: 5月27日の対西武ライオンズ戦で復帰したが、この間に水上善雄・上川誠二・森田芳彦が好調だったため、中堅手にコンバートされ、以後外野手が多くなるが盗塁王になり、打率も3割近くの成績を残した。 ジョージマン北: ロッテ・オリオンズの元選手で北海道日本ハムファイターズの二軍監督でもあった水上善雄が主宰する水上野球塾で、元ロッテ・オリオンズの倉持明、元千葉ロッテマリーンズの堀幸一らとhitベースボールで支援コーチとして活動している。 伊藤史生: 初出場:1986年8月2日、近鉄バファローズ戦(川崎球場) 、9回裏水上善雄の代打として出場、石本貴昭の前に三振 高橋慶彦: 1989年に入団した同ポジションの野村謙二郎の台頭もあって、同年オフ、高沢秀昭・水上善雄との大型トレードで、白武佳久・杉本征使と共にロッテ・オリオンズへ移籍した。 高沢秀昭: 入院中の11月13日に、高橋慶彦・白武佳久・杉本征使との大型トレードで水上善雄とともに広島東洋カープへ移籍する事が広島側によって発表された。 高畠導宏: 水上善雄にはストレート・変化球での打撃の統計をとり、変化球に強いことを実証、認識させた上で、全打席変化球が来るというヤマを張るよう指示。 河野旭輝: “水上善雄 長髪に隠されたホンモノの闘志/プロ野球1980年代の名選手 | 野球コラム”. 松田元: ^ 高橋他3人と交換で加入した高沢秀昭は1991年シーズン中にロッテに復帰し、水上善雄は1990年オフにダイエーに再移籍した。 榊原聡一郎: 1991年には、水上善雄との交換トレードで、コーチ兼任として広島に戻ったが、事実上コーチ専任だった。 長内孝: 高校では同期に水上善雄が、2学年後輩に渋井敬一がいる。 杉本正志: 1989年はウエスタンリーグ最多勝となるが11月に、高橋慶彦・白武佳久と共に、高沢秀昭・水上善雄との3対2の交換トレードでロッテオリオンズに移籍。 落合博満: ロッテ時代に遊撃手として共に内野を守った水上善雄は「(二塁手として)追いついた打球は絶対にアウトにしてくれました。 金沢幸彦: 「走・攻・守」万能の選手として水上善雄、佐藤健一(兼伊知)に続く活躍が期待されたが、1986年の試合中に、右肩打撲骨折の大怪我を負う。 渋井敬一: 高校の2学年先輩には水上善雄と長内孝がいた。 飯塚佳寛: 1977年には規定打席未到達ながら340打数で打率.306という成績も残したが、1979年には水上善雄に遊撃手のポジションを譲って二塁手に回り、1980年限りで現役を引退。 長内孝: ロッテ、広島、ダイエーでプレーした水上善雄とは高校の同期で、プロでは広島で1990年の1年間だけ同僚になる。 安部憲幸: 9回表2死2塁で、近鉄の新井宏昌が三塁線へ放った痛烈なゴロをロッテの三塁手・水上善雄が好捕したところ、「止める!水上!This is プロ野球!まさに、打ちも打ったり新井!よく止めた水上!白熱のゲームが、好プレーを演出!」と絶叫した。 丸山一仁: 初打点:1983年10月15日、対阪急ブレーブス25回戦(阪急西宮球場)、3回表に水上善雄の代打として出場、永本裕章から適時二塁打 白武佳久: 1990年に、高沢秀昭、水上善雄との大型トレードで高橋慶彦、杉本征使と共にロッテオリオンズに移籍。 小川史: 1991年には移籍の水上善雄と併用され、1992年には新入団の浜名千広に定位置を譲るが、その後も内外野をこなすユーティリティプレイヤーとして活躍。 古屋英夫: 1000試合出場:1986年6月14日、対阪急ブレーブス12回戦(阪急西宮球場)、7番・三塁手で先発出場 ※史上264人目(水上善雄と同日達成) |
水上善雄の情報まとめ
水上 善雄(みずかみ よしお)さんの誕生日は1957年8月9日です。神奈川出身の野球選手のようです。
選手としての特徴、エピソードなどについてまとめました。現在、卒業、引退、テレビに関する情報もありますね。水上善雄の現在の年齢は66歳のようです。
水上善雄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 水上 善雄(みずかみ よしお、1957年8月9日 - )は、神奈川県横須賀市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。現在は高校野球指導者に転じ、2019年度より橘学苑高等学校硬式野球部監督(2022年度以降は総監督)。 横須賀市立不入斗中学校卒業後、桐蔭学園高校に進学。中学生時代も野球をやっていた(ポジションは遊撃手と投手)が、最初は高校でも野球をやろうとは考えておらず、普通の高校生活を送ってサラリーマンになろうと考えていた(みたいだったと本人の弁)が、結局高校でも野球部で活動。1975年の夏の甲子園県予選で準々決勝に進むが東海大相模に惜敗(原辰徳にサヨナラ打を打たれた。本人はこの時「外角のくそボールを持って行かれて、この時が投手としての自分の最後だった」と話している)。高校では同期に長内孝が、2学年後輩には渋井敬一がいた。 高校卒業後は「大学か社会人で野球がやれたら」程度のように考えていたが、1975年度プロ野球ドラフト会議でロッテ・オリオンズから3位指名を受け入団(本人はこれについて「オマケみたいなものでプロになれた感じ」と話していたことがある)。 1976年は代走中心だったが、河野旭輝内野守備・走塁コーチの指導により2・3年目と守備固めの出場機会を増やした。 1979年に監督に就任した山内一弘から「お前の守備なら打率3割を打っているのと同じ」と遊撃手のレギュラーに抜擢された。自身はこの頃の守備を「派手だが雑、からのスタートでした」と振り返る程だったが、雑な部分はコーチの河野から徹底的に指導され、徐々に丁寧な捕球ができるようになったという。 1980年には33犠打のパシフィック・リーグ記録(当時)を達成。 1983年は監督の山本一義から「打率を上げるために打撃フォームを変えてくれ」と説得され、一本足打法からすり足打法に変更するとキャリア初の打率3割を記録し、打撃10傑にも食い込んだ。 1986年は80試合、打率.198に終わり、同年オフ日本ハムにトレードで移籍する話も出たが、三遊間を組んでいた有藤道世が監督に就任。有藤が「ミズは大切な戦力。俺が再生して見せる。」と述べ、残留。 1987年、開幕スタメンで出場し、ベストナインを受賞した。 1988年、「10.19」として語り継がれている、10月19日のロッテ対近鉄バファローズ26回戦(ダブルヘッダー第2試合)では、途中から三塁の守備に入り、新井宏昌の三塁線を襲った強烈な打球をダイビングキャッチで捕球し、近鉄の勝ち越しを阻止したことが近鉄監督仰木彬の著書でも言及されている。 1990年に高橋慶彦・白武佳久・杉本征使との交換トレードで、高沢秀昭と共に広島東洋カープに移籍。広島ではプロ通算100本塁打を打っている。しかし野村謙二郎の控えに甘んじる。 1991年には金銭トレードで福岡ダイエーホークスへ移籍。遊撃手としてチーム最多の93試合に出場し復活をアピールした。 1992年は自身の怪我や不振や新人の浜名千広の台頭もあり6試合のみの出場に終わり、同年オフに現役を退いた。 引退後は築地のマグロ市場に勤務するが、少年野球の指導に携わるために退職しコインパーキングを運営する会社に就職。 2000年のプロ野球シーズン途中からは、CSテレビ放送でロッテ戦中継を中心に野球解説者(スポット契約)としての活動を開始。以来、CS局(J SKY SPORTS→J SPORTS)の解説者として活動。 2002年頃から2006年まではテレビ東京の解説者も務めた。 その一方、2001年にスタートしたプロ野球マスターズリーグでは東京ドリームスの二塁手としてもプレーした。また、ハロー!プロジェクトのキックベースボールチームであるメトロラビッツH.P.の監督も務めていた。 2007年に北海道日本ハムファイターズの二軍内野守備コーチとして15年ぶりに現場復帰。 2008年は二軍監督兼内野守備コーチ、2009年は二軍監督専任となり、同年オフに退団。2年間、中田翔や陽岱鋼らの若手選手育成に努めた。 2010年からは札幌テレビ放送(STV)・STVラジオの野球解説者として活動。また、村田兆治による離島の子供たちへの野球親睦活動にも参加し、補佐役を務める。 2011年からはGAORAの解説者、道新スポーツ野球評論家にも就任。東京メトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)の解説者も務めた。 2013年からは再びテレビ東京の解説者も務めていた。 2014年にはソフトバンクの三軍統括コーチ兼ファーム内野守備チーフコーチに就任。 2015年からは二軍監督を務めた。 2018年に一軍内野守備走塁コーチへ異動し、選手時代を含めても初めての日本シリーズ制覇を経験し、同年に退団した。 2019年2月に学生野球資格を回復。日本プロ野球OBクラブを通じ、同年4月1日付で橘学苑高等学校の硬式野球部監督に就任した。2022年からは総監督。 選手としての特徴打撃1979年~1981年まで3年連続でリーグ最多犠打を記録するなど小技が巧みであった。水上は「(投手の)リリースに合わせて顔を引くようにして、球のスピード感を無くすのがコツ」と語っている。一方で荒っぽさも持ち味であり、「無死か一死の場面で走者がいれば犠打、それ以外は本塁打狙い」という一本足打法で、1980年には自己最多の15本塁打を放っている。1983年には打率向上のため、すり足で引いてから、少しだけ上げる打法に変更すると、中堅方向への打球が急増。キャリア初となる打率3割に到達し、打撃10傑にも食い込んだ。翌1984年からは2年連続で2桁本塁打を記録している。 守備抜群の強肩を武器にダイナミックなプレーで魅せる内野手。ロッテ時代は長らく遊撃手のレギュラーとして活躍。肩力に自信があったことから守備位置は深く、外野の芝生に入った場所で守ることもあった。また、相手走者が一塁にいる場面で右中間の打球をバックホームする際、一般的には二塁手が中継に入るところを、遊撃手の水上が中継で走者を本塁で刺すこともあった。ベテラン選手となった1989年以降は三塁手を中心に守っている。 エピソードロッテ時代の1988年、理容院に行かれないまま春期キャンプ入ると打撃好調が続き、ゲン担ぎで髪を切らずにいると、周囲から「見苦しいから切れ」という圧力が入った。水上は反骨心から切りにいかず、以降は長髪がトレードマークとなった(ロッテを退団する1989年まで)。水上は後に「いま思えば(あの頃は)薄っぺらな反骨心だった」と振り返っている。 2024/06/14 20:32更新
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mizukami yoshio
水上善雄と同じ誕生日8月9日生まれ、同じ神奈川出身の人
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