宮本幸信の情報(みやもとゆきのぶ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
宮本 幸信さんについて調べます
■名前・氏名 |
宮本幸信と関係のある人
山本和生: 初本塁打:1976年6月6日、対広島東洋カープ11回戦(広島市民球場)、9回表に宮本幸信からソロ 大橋穣: 1978年のヤクルトとの日本シリーズまで全試合に先発出場し、広島との1975年の日本シリーズでは、10月28日の第3戦(広島市民)の9回表に宮本幸信から試合を決める勝ち越し本塁打を放ち、19打数7安打4打点を記録して打撃賞を獲得。 山口高志: 背番号は前年まで阪急に在籍していた市神港の先輩宮本幸信がつけていた「14」となった。 白石静生: 1975年には児玉好弘・宮本幸信・渡辺弘基との交換トレードで、大石弥太郎と共に、阪急ブレーブスへ移籍。 長井繁夫: エース宮本幸信を擁し1967年春季リーグに優勝。 皆川康夫: 1977年に鵜飼克雄、新美敏、内田順三と共に、佐伯和司、宮本幸信、久保俊巳との4対3の交換トレードで広島東洋カープへ移籍。 末永正昭: 東都大学野球リーグでは、宮本幸信投手の好投もあって1967年春季リーグで優勝。 足立光宏: 第2戦では宮本幸信をリリーフして延長10回サヨナラ勝ち、第5戦では完投勝利を飾った。 新美敏: 1977年に鵜飼克雄・皆川康夫・内田順三と共に、佐伯和司・宮本幸信・久保俊巳との4対3の交換トレードで広島東洋カープへ移籍。 大石弥太郎: 1975年に白石静生と共に、児玉好弘・宮本幸信・渡辺弘基との交換トレードで、9年ぶりに古巣・阪急へ復帰。 広瀬宰: 9月16日の阪急戦(東京)で宮本幸信から初ソロ本塁打を放ち、この時の試合は、2回表に岡村浩二の適時打で先制され、3回表にはウインディの適時打で追加点を許した。 久保俊巳: 1976年オフに新美敏・内田順三・鵜飼克雄・皆川康夫との交換トレードで、佐伯和司・宮本幸信と共に、日本ハムファイターズへ移籍。 三宅昇: 1967年春季リーグではエース宮本幸信の好投もあり優勝、同年の全日本大学野球選手権大会でも、決勝で藤原真を擁する慶大を破り初優勝を飾る。 藤原真: 直後の全日本大学野球選手権大会では、決勝で中大の宮本幸信と投げ合うが、1-3で惜敗し準優勝にとどまる。 児玉好弘: その後、1974年オフに白石静生・大石弥太郎両投手との交換トレードで宮本幸信・渡辺弘基と共に広島東洋カープへ移籍したが、カープでは殆んど出番が無かった。 水沼四郎: 1967年春季リーグでは宮本幸信の好投もあり優勝を飾る。 中塚政幸: 1967年春季リーグでは同期のエース宮本幸信と1年下の水沼四郎捕手のバッテリーを擁し、チームを7季振りの優勝に導き、打率.385、13盗塁という好成績でMVPに選ばれた。 佐伯和司: 1977年新美敏・皆川康夫・鵜飼克雄・内田順三との交換トレードで宮本幸信・久保俊巳と共に日本ハムファイターズへ移籍(この時広島ファンは初優勝にも貢献した地元出身のドラフト1位選手を放出したことに激怒し、抗議集会を開いたというエピソードがある)。 高橋一三: 同年の阪急との日本シリーズでは4試合に登板し、第2戦では延長10回に長池徳二にサヨナラ適時打を喫するが、最終第6戦で宮本幸信と投げ合い完投勝ち。 上田武司: 夏の甲子園県予選では準々決勝に進出するが、宮本幸信、後にプロでチームメイトとなる吉田孝司のバッテリーを擁する市神港高に敗退。 上田利治: 阪急時代は1974年の宮本幸信・渡辺弘基と広島白石静生・大石弥太郎の投手同士の交換トレード、1976年の戸田善紀・森本潔と中日島谷金二・稲葉光雄のレギュラー選手同士のトレード、1976年の正垣宏倫と広島永本裕章・川畑和人、1982年には加藤英司と広島の水谷実雄、1988年に南海の門田博光を新生オリックスの顔として、日本ハム時代も1997年にはエース西崎幸広と西武石井丈裕・奈良原のトレードなど、多くの実績を残した。 内田順三: 1977年は、鵜飼克雄、皆川康夫、新美敏と共に、佐伯和司、宮本幸信、久保俊巳との4対3の交換トレードで広島東洋カープへ移籍した。 広瀬宰: 初本塁打:1969年9月16日、対阪急ブレーブス20回戦(東京スタジアム)、3回裏に宮本幸信からソロ 萩原康弘: 1967年の春季リーグではエース宮本幸信の好投もあり優勝。 吉田孝司: 市立神港高校では2年次の1963年から正捕手を務め、3年生エース宮本幸信とバッテリーを組み、春の選抜に出場。 渡辺弘基: 監督の西本幸雄の期待が大きかったが、3年で3対2の交換トレード(大石弥太郎、白石静生←→児玉好弘、宮本幸信、渡辺弘基)で広島へ移籍。 石渡茂: 東都大学野球リーグでは、1年生の時にエース宮本幸信を擁し1967年春季リーグで優勝、全日本大学野球選手権大会でも決勝で慶大を降し優勝した。 |
宮本幸信の情報まとめ
宮本 幸信(みやもと ゆきのぶ)さんの誕生日は1945年6月3日です。兵庫出身の野球選手のようです。
卒業、引退、現在に関する情報もありますね。宮本幸信の現在の年齢は79歳のようです。
宮本幸信のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 宮本 幸信(みやもと ゆきのぶ、1945年6月3日 - )は、兵庫県神戸市出身の元プロ野球選手(投手)。 市立神港高校では、1963年にチームのエースとして1年下の吉田孝司とバッテリーを組み、春の選抜に出場。準決勝まで勝ち進むが、下関商の池永正明に抑えられ、1-4で敗れた。同年夏は県予選準決勝で市西宮高に敗退し、甲子園出場を逸する。 高校卒業後は中央大学に進学。東都大学野球リーグでは1年上に高橋善正投手がおり、その陰に隠れがちだった。しかし高橋が卒業した後の1967年春季リーグでは、7勝3敗の好成績で3年振りの優勝に貢献。最優秀投手とベストナインに選ばれている。直後の全日本大学野球選手権大会でも、決勝でエース藤原真を擁する慶大を3-1で破り、中大を初優勝に導く。1年下に水沼四郎捕手、同期に中塚政幸一塁手がいた。中塚らとともに同年の第7回アジア野球選手権大会日本代表に選出されている。リーグ通算55試合登板、14勝19敗、防御率2.27、152奪三振を記録した。 1967年秋、ドラフト2位指名で阪急ブレーブスへ入団。 1968年は3勝にとどまるが、切れの良い速球と縦の変化球を武器に活躍。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズではリリーフとして3試合に登板している。 1969年のシーズン最終盤、ゲーム差なしで優勝を争っていた近鉄バファローズとの4連戦の初戦(西宮球場)にリリーフとして登板、同点で迎えた11回裏2死3塁の場面で清俊彦からサヨナラ本塁打を放ち、優勝を引き寄せた。このとき、ベンチは代打を送ろうとしたが後続の投手が仕上がっていなかったため打席に入り、殊勲をあげることになった。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは第2戦に初先発、勝敗はつかなかったが、8回を2安打1失点と好投した。しかし、2度目の先発となった第4戦では、4回裏に捕手の岡村浩二が本塁クロスプレーの判定に激高し、退場処分を受けた。それまで岡村のリードで好投していた宮本は動揺し、その回に6失点、逆転を許してしまい結果的に敗戦投手となった。最終第6戦でも先発として起用されるが、3回に代打を送られ交代する。結局は後続が6回に打ち込まれて大敗、自身はシリーズ2敗目を喫し日本一を逸した。入団3年で18勝を挙げるが4年目以降は伸び悩んだ。 1971年の読売ジャイアンツとの日本シリーズではリリーフとして2試合に登板している。 1974年オフ、白石静生・大石弥太郎との交換トレードで、渡辺弘基・児玉好弘と共に広島東洋カープへ移籍。移籍当時、「がんばって5位になろう」との重松良典球団代表の言葉に、「常勝」と呼ばれた阪急ブレーブスとのギャップを感じてショックを受けた。その後、覇気のないナインの意識改革にと、「明るくやろう会」を結成した。移籍後は抑えの切り札として起用される。 1975年4月11日の中日ドラゴンズ戦では判定に激高し、原田孝一球審を跳び蹴りし、退場処分になっている。それから間もなく、ジョー・ルーツ監督が全選手を集め「ミヤの行為は許されない。ただ、あのファイトを君たちに植え付けたかった」と訓辞があり、跳び蹴りしている写真が監督室に飾られた。これ以降、宮本は『キックの鬼』にちなんで「キックの宮」と呼ばれ、ファンに親しまれた。当時解説者だった水原茂は跳び膝蹴りのシーンを見て「すごいバネだ。今年の宮本はやるよ」と発言している。その後、宮本は制裁金五万円の処分でシーズンへ復帰。このシーズンは10勝2敗10セーブ・防御率1.70という好成績を残し、チームのリーグ初優勝に貢献した。当時既に肘をかなり痛めていたが、意気に感じて投げ続け、抑え役を全うした。古巣の阪急との対戦となった日本シリーズでは4試合に登板。このうち第3戦では同点の9回に決勝点を許して敗戦投手となっている。 その後、1977年に新美敏・皆川康夫・鵜飼克雄・内田順三との交換トレードで佐伯和司・久保俊巳と共に日本ハムファイターズへ移籍。1年目は抑え投手として6勝3敗7セーブ・防御率2.00という成績を残したが、1978年以降はあまり活躍できなかった。 1979年シーズン終了後、日本ハムを戦力外となり、横浜大洋ホエールズに移籍。大洋では広島戦に勝てば史上初の「全球団勝利」達成となったが、その機会を生かせなかった。1点リードの場面でリリーフ登板した4月8日の試合が唯一の記録達成のチャンスであったが、不甲斐ない投球により、逆転を許してしまっている(ただし、敗戦投手にはならなかった)。このシーズンは1勝を挙げるに留まった。1980年オフ、現役引退。 現在は地元・神戸市に戻り、飲食店を経営している。 各年度の太字はリーグ最高 1イニング3与死球:1977年5月19日、対近鉄バファローズ戦 ※NPBタイ記録、史上初 14 (1968年 - 1974年) 19 (1975年 - 1976年) 16 (1977年 - 1979年) 13 (1980年) ^ カープ50年 夢を追って、中国新聞社、1999年11月、P31 ^ “オリックス・山本がプロ野球タイ記録となる1イニング3死球”. デイリースポーツ. (2020年7月5日). https://www.daily.co.jp/baseball/2020/07/05/0013484222.shtml 2020年8月26日閲覧。 ^ 週刊ベースボール2014年7月21日号97ページ 兵庫県出身の人物一覧 中央大学の人物一覧 オリックス・バファローズの選手一覧 広島東洋カープの選手一覧 北海道日本ハムファイターズの選手一覧 横浜DeNAベイスターズの選手一覧 個人年度別成績 宮本幸信 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 1位:渡辺一夫 2位:宮本幸信 3位:渡辺幸三(入団拒否) 4位:正垣泰祐 5位:渡辺勉 6位:醍醐恒男 7位:合田養(入団拒否) 8位:太田高義(入団拒否) 9位:当銀秀崇 10位:安井智浩(入団拒否) 日本の野球選手 神戸市立神港高等学校出身の野球選手 中央大学硬式野球部の選手 オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手 広島東洋カープ及び広島カープの選手 北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手 横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手 神戸市出身の人物 1945年生 存命人物 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/20 00:13更新
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